でんでんむし、歌いなさい  菅野 耿
   

 六月おわりの森は、日が落ちるとすぐ、鳥たちの声はやみ、ひっそりとだまりこんた。月の光もとどかない木々のしげみ。それでもよく耳をすますと、夜霧を集めたしずくが葉ずえをすべり落ち、朽ちかけた落ち葉にあたってカサリと鳴る音がときどき聞こえる。

 ぼくはカタツムリ。この鎮守の森で梅雨の前に生まれたばかり。どうしてぼくがここにいのか、それは知らない。ここがどういうところなのかも知らない。そして、ここしか知らない。でも、もう赤ちゃんじゃないよ。朝、お日さまがあがると葉っぱの裏にかくれ、殻のなかに身をまるめて眠るのがならわしだ。そんなのつまんないなあ、と思うことがある。

 だけど、雨の日や雨あがりの森はすてきだよ。そんなときは一日じゅう、やわらかい木の芽やキノコをおなかいっぱいたべられる。とくに萌え出たばかりのコケの味は最高さ。

 このごろは、ぼくたちのこと、みんなはあまり知らないみたい。家のそばから森や林がなくなり、家や工場がにょきにょき建って、道はどこもアスファルトになっゃったから、カタツムリにはすみにくいものね。でも、雨のやんだあとなど、葉っぱのうえにキラキラ光る銀色のスジを見ることがあると思うよ。それがぼくたちが通ったあとで、ねばねばがかわいたものなんだ。よく見てごらんよ、そばにまだぼくたちのなかまがいるかもしれないよ。でんでんむしじゃなくて、ナメクジだったりすることもあるけどね。

 ナメクジといえば、ぼく、ときどき思うんだけど、カタツムリばかりがなんでこんな大きな殻を背負っていなけりゃならないんだろう、ナメクジみたいだったら、もっと早く動けるし、木ののぼり降りも、らくでいいのになあ、って。生まれたときからなんだよ、これ。どうしてなの、ってかあさんに聞いたことがあるの。そしたら「ばかだね、おまえ、ナメクジみたいにみんなのきらわれものになりたいのかい」っていうんだ。「でんでんむしむし、カタツムリ…ツノ出せ、ヤリ出せ、メダマ出せ」なんてこどもの歌もあり、運がよけりゃ、ちっちゃい子の遊び相手にしてもらえる、それもカタツムリには殻があるからなんだって。ぼくにはよくわかんない。まあ、この殻は薄いし、そんなに重くはないけどね。これがもっと厚くて重いものだったら、木のぼりはもっと重労働だろうね。それに、夜ならまだいいんだけど、お日さまが出てきたり、かわいた風が吹いてきたら、ぼくたち、もう動けなくなっちゃう。そんなときは、アワをいっぱいふいてそのなかにかくれるか、殻のなかに身をまるめてじっとしているしかないんだ。夏のさかり、日照りのつづくころがいちばん苦手で、なかまのなかには秋がくるころまで「夏眠」しているのもいるんだと、かあさんはいってた。

 どう思う、ぼくたちって、けっこうすてきだと思わないかい。うるさい声で鳴くこともない。いやなにおいも出さない。刺したりかじったりもしない。逃げ出すといっても、そんなに遠くにはいけないから、すぐ見つかっちゃう。だけど、神さまはどう考えてぼくたちをつくったんだろう、と思うことがある。だってそうじゃないか、敵におそわれたようなとき、自分を守る手段をぼくたちは何ひとつもっていないんだ。ほかのいきものは早く飛べるつばさをもっていたり、針やカマをもっていたりするのに。これじゃ不公平じゃないか。カラスやトンビにねらわれることもある。サルやキツネ、イノシシのキバにかけられることもある。ぼくたち、ツノはもってるけど、これ、そんなときにはぜんぜん役に立たないんだ。危険がせまっても身をかくすことができず、いつだって敵にやられっぱなしの弱虫。ぼく、考えちゃう、それならいっそのこと、スズムシおコオロギみたいにきれいな声で歌えたらいいのになぁ、あっちとこっちで友だちと合唱できたら楽しいだろうなぁ、って。

 そんなことを思うと、しぜんになみだが出てきちゃう。このあいだ葉っぱのかげで泣いていると、かあさんがこんなことをいった――自分の身を守るためといって、敵と戦ってどうするの。いいかい、どんなに戦いをしかけられても、相手になってはいけないよ。世間にそむかない、自然にさからわない、これがでんでんむし族のいちばんの誇りなのよ。何よりも強くて尊いのは、抵抗しないで耐えること、相手を許すことなんだ、と。

 そういうけど、ぼくにはよくわかんない。わかんないというと、かあさんはいつもガンジーという人の話をしてくれる。――「善きことはカタツムリの速度で動く」といって、しんぼう強くこらえて祖国を救い、差別から人間を救った偉い人なのだそうだ。偉い人がぼくたちカタツムリのことを認めてくれている。たしかに、ぼくたちでんでんむし、力はないけど、ね、そんなにだめないきものじゃない、って、ぼく思うんだけど。