岸和田城【岡部氏13代の居城岸和田城】

 江戸時代、明治維新まで13代にわたって岸和田藩5万3千石を治め、大阪南部の守りとして重要な役割を果たした岡部氏の去就が
感じられる岸和田城の散策。

 岸和田城  天守閣からの展望  八陣の庭  岸和田城二の丸  アクセス

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2008年8月
和歌山 その2

2008年8月
和歌山その1

2008年7月
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 2009年4月、近くにありながら、なかなか行けずにいた岸和田城にやっと行くことができました。マミを連れ女房と三人(二人と一匹)で、車で行ったのですが、高速湾岸線の岸和田南で降りれば、我家からほんの30分あまりでした。
 マミは城内へは一人では入れないので女房が終始、おんぶ紐で抱っこしながらの散策でした。往復の時間も含めて、所要時間は4時間くらいでした。

岸和田城

岸和田城案内図

  岸和田城のあゆみ

 岸和田城がいつ、誰によって建てられたのか詳しいことはまだわかっていませんが、戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時泉州地区を治めた松浦氏のい居城となっていました。
 織田信長の家臣津田信張・蜂屋由頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は家臣中村一氏を岸和田城主として、紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。一氏は紀州勢の大軍を相手にしろを守り抜き、天正13年(1585)年、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちして、泉州地域から根来寺勢力を一掃しました。その後、秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、秀政は城下町と城郭の整備にかかり、天守閣も秀政によって建てられました。
 豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏二代を経て、寛永17年(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。江戸時代の岸和田城は、大阪の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。 この間、文政10(1827)年、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和44年に城壁と櫓が再建されました。岸和田城休場日・入場料のご案内

岸和田城
 岡部家略系図

    岡部家歴代の藩主たち

岡部家の藩主 1代〜6代 隅櫓

入口櫓門手前から撮った隅櫓

石垣に咲いていたかわいい花 岡部家の藩主 7代〜13代

 石垣に咲いていたかわいい花

五風荘方向から撮った天守閣 岸和田城石碑

←左は、五風荘方向から撮った天守閣
   ↓下は、市役所方向から撮った天守閣

 市役所方向から撮った天守閣

五風荘方向から撮った天守閣 岸和田高校とグランドの間方向から撮った天守閣

     五風荘方向から撮った天守閣              岸和田高校とグランドの間方向から撮った天守閣

内部から撮った櫓門 岸和田城

     内部から撮った櫓門                          内部から撮った天守閣

多聞櫓・隅櫓    ←は、多聞櫓・隅櫓

櫓門をくぐると立て看板が・・・・

   マミはご立腹です。

二の丸側から撮った隅櫓 二の丸から撮った櫓門
二の丸側から撮った隅櫓↑と              ↑ 櫓門

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天守閣からの展望

北東方向の展望、手前は岸和田高校のグランド
        北東方向の展望、手前は岸和田高校のグランド

南東方向の展望、手前の建物は岸和田高校
        南東方向の展望、手前の建物は岸和田高校

南西方向の展望、手前左の建物は五風荘
        南西方向の展望、手前左の建物は五風荘

北西方向の展望、遠くに大阪湾
        北西方向の展望、遠くに大阪湾

五風荘   ← 五 風 荘

 旧岸和田城内の薬草園の跡地などに昭和4年から10ヵ年の歳月を要し、造営された広壮な回遊式日本庭園。正門は奈良東大寺塔頭中性院表門を移築したもので、岸和田にゆかりの深い楠氏の「楠」の字をもじって「南木門」と称されている。3000坪の敷地には日本建築の粋をこらした主屋と庭園を見渡せる三つの茶室がある。庭園の見学は自由、食事やお茶を楽しむためには予約が必要。

咲き誇るつつじの花
                                     下記 八陣の庭に咲き誇っていたつつじの花

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八陣の庭

八陣の庭案内

天守閣途中の階段から撮った”八陣の庭”
  天守閣途中の階段から撮った”八陣の庭”

八陣の庭絵図

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岸和田城二の丸

二の丸多聞櫓 二の丸から見た天守閣

         二の丸多聞櫓                      二の丸から見た天守閣

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アクセス

岸 和 田 城

 ■JR天王寺駅より
 @JR環状線 新今宮駅下車 料金120円 約1分・・乗換え・・南海本線急行関西空港行き 岸和田下車 約25分 料金大人480円・・・徒歩約15分
 A南海岸和田駅から普通電車乗り換え、1駅目蛸地蔵駅 約2分 料金同じく大人480円、・・・ 徒歩約8分

岸和田散策マップ

 1 岸和田城(千亀利城)
 岸和田城がいつ、誰によって建てられたのか詳しいことはまだわかっていませんが、戦国時代末期(16世紀中頃)には、当時泉州地区を治めた松浦氏のい居城として現れる。慶長2年(1597)には秀吉の臣・小出秀政によって天守閣のある近世城郭として整備された。その後、寛永17年(1640)岡部宣勝が入城、以来明治維新までの230年間、岡部氏が泉州統治の拠点とした。岸和田藩は5万3千石であったが、城の規模は30万石級の大藩の城に匹敵するほどの豪壮さであった。 威容を誇った5層の天守閣は、文政10年(1827)雷火により焼失。以後長らく再建されずにいたが、郷土への思いをよせる市民の要望から、昭和29年に再建された。
   開城時間/10:00〜17:00(入場は16:00まで)
    ★休城日/月曜日(祝日の場合は開城)  12月30日〜1月4日 展示替期間(臨時休業)

 2 岸城神社
 創建は正平17年(1362)、京都の八坂神社よりスサノオノミコトを勧請したのが始まりである。のち慶長年間、小出秀政が天守閣を築いたとき、八幡大神を合帰祀し、この神社を岸和田城の鎮守神とするようになった。現在は契りのお宮として、縁結びを求める多くの人からの崇拝を集めている。また、岸和田祭にはだんじりが宮入する。
 3 武家屋敷【非公開】
 江戸時代、現在の岸城町一帯は上級家団の住宅地であった。岸和田藩は5万3千石の城下町を偲ばせる武家屋敷が見られる。
 4 五風荘
 旧岸和田城内の薬草園の跡地などに昭和4年から10ヵ年の歳月を要し、造営された広壮な回遊式日本庭園。正門は奈良東大寺塔頭中性院表門を移築したもので、岸和田にゆかりの深い楠木氏の「楠」の自をもじって「南木門」と称されている。3000坪の敷地には日本建築の粋をこらした主屋と庭園を見渡せる三つの茶室がある。庭園の見学は自由、食事やお茶を楽しむためには予約が必要。
 5 蛸地蔵駅
 大正14に築かれた南欧風の駅舎。南海本線では大正以前の駅舎は数棟しか存在しておらず、貴重な存在となっている。天窓には蛸地蔵物語のステンドグラスがはめこまれている。
 6 三の丸神社
 だんじり祭発祥の宮。今から約300年前の元禄時代、時の藩主、岡部長泰は、京都から伏見稲荷の城内の三の丸に勧請し、広く領民に参拝を許した。この時行われた稲荷祭がだんじり祭の始まりだと伝えられている。
 7 岸和田だんじり会館
 だんじり祭の魅力を一堂に集めた博物館。館内には、現存する岸和田最古のだんじりをはじめとする豊富な資料の展示、祭の情景を大迫力でみせる大型マルチビジョン、だんじりに乗っている気分が味わえる3Dシステムなどがあり、岸和田だんじり祭の雰囲気を一年中いつでも体験できる。
   開館時間/10:00〜17:00(入場は16:00まで)
    ★休館日/月曜日(祝日の場合は開館)  12月30日〜1月4日
 8 自泉会館
 関西建築界の草分け的存在・渡辺節により設計されたスパニッシュスタイルの建築物。ギャラリー・ミニコンサートホールなどの施設があり、地域の文化振興に大きな役割を果たしている。昭和7年の建築。
 9 本町の町並
 本町・紀州街道沿いは、江戸時代、岸和田城下で最も賑わう通りであった。今日でも本瓦葺き・中二階・出格子などの伝統的な造りの家並みに、往時を偲ぶことができる。また、地元住民の手により、歴史の道にふさわしい景観づくりが行われており、建設省より「手づくりの郷土賞」を受賞している。
 10 一里塚弁財天
 一里塚とは、江戸日本橋を中心とした全国の主だった街道沿いに、一里(約3.9km)ごとに設けられた路程標である。江戸時代、陸路を旅する人は一里塚に植えられた松の木の下で、しばしの休息をとったものと想像される。弁財天は萬治・寛文(1658〜73)の頃から祀られるようになった。

 11 光明寺
 開基不明。現在地に元亀2年(1571)寺堂を中興する。かつては岸和田城伝馬口門と西大手門を固める要衝を占めていた。このように、城の周辺に寺院が多く配置されているのは、合戦時、寺を陣屋にしたり、墓石を盾代わりに利用するなど、軍事的な意図も含まれていた。
 12 梅渓寺
 曹洞宗永平寺の末寺で、慶長5年(1600)清頓和尚により草創開山、小出秀政の建立。その後、岡部宣勝が高槻から岸和田に移封した際、生母の位牌『洞仙院殿梅渓宗考大姉』を栃木の大中寺から転置、その墓碑を建立する。寺名もこの戒名からつけられた
 13 天性寺蛸地蔵
 天正年間(1573〜86)、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ、落城寸前であった。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからとなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救った。その数日後、城の堀から矢傷・玉傷をwp無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められた。文禄年間(1592〜96)からは、天性寺内にある日本一大きな地蔵堂に移され、今に至る。境内には一切蛸を食べずに願をかける、風変わりな蛸絵馬が無数に奉納されている。また、参道入口左側の石標「たこちそう」の字は、江戸時代の書の大家・池大雅の書であると伝えられている。
 14 まちづくりの館
 昔ながらの民家や商家が並ぶ紀州街道に平成9年9月に開館。地元住民の集会施設や観光客の休憩所として活用されている。ここでは市内の観光物産の案内やお茶の無料サービスが受けられる。
 15 円成寺
 信濃国住人で、俗名加藤則政が藤原信継に従い戦場に赴き、数々の武功を残したが、信継の没後発心し、本願寺證如上人のもと、剃髪得度。法名を釋専稱と号し諸方に伏匿し、ようやく天文5年(1536)現在の地に坊舎を建立し、同信の人々に布教を始めたのが、円成寺のはじまりである。その後、460年余の長きにわたり専修念仏の道場として現在に至る。
 16 成協信用組合
 赤いレンガと花崗岩のツートンカラーの堂々としたこの建物は、内部に柱が一本もないつり天井になっている。大正8年建造。
 17 紀州街道
 大阪高麗橋を起点に住吉・堺・岸和田を経て和歌山に至る当時の幹線道。江戸時代紀州徳川家や岡部家の参勤交代のため整備された。
 18 きしわだ自然資料館
 身近な自然から、環境問題までを楽しみながら学ぶことができる資料館。館内には和泉葛城山のブナ林のジオラマ、市街地に生きる動植物の標本、映像ライブラリーなどの数多くの自然に関する資料を親しみ見やすく展示している。とくに北極熊やベンガルトラなど300点の剥製の収集展示は見事。
   開館時間/10:00〜17:00(入場は16:00まで)
    ★休館日/月曜日(祝・休日は開館)  祝・休日の翌日(翌日が土・日・祝日の場合は開館)  毎月末日  「敬老の日」の前日と前々日
           (だんじり祭)  年末年始(12月29日〜1月5日)  展示替期間(臨時休館)

 19 杉江能楽堂【非公開】
 観世流能楽師・杉江櫻圀が、岸和田藩最後の城主・岡部長職から城内にあった能舞台の一部を譲り受け、大正6年に設立。現存する民間の能楽堂としては、大阪府下最古である。
 20 古城川縁道
 江戸時代、この川は魚の棚川とよばれ、城の外堀としての機能を果たしていた。現在は、人工河川に沿い、遊歩道が造られ、市民の憩いの場として利用されている。
 21 高見観音
 高見観音(正しくは観蔵院)は、岸和田城の鬼門守護として建立された。近年は節分の行事が盛大に行われ、当日は多くの人で大変な賑わいとなる。
 22 寺町筋
  今なお城下町の面影を残す寺町筋には、円教寺、本徳寺などいくつかの寺がある。円教寺は、慶長5年(1600)時の岸和田藩主・小出秀政の菩提寺として建立され境内のソテツは市の天然記念物となっている。本徳寺は明智光秀の子として伝えられる南国和尚が開いた寺とされ、光秀の位牌と肖像画が残っている。
 23 浪切ホール
 国際文化都市・岸和田のシンボルとして浪切ホールは歌舞伎をはじめ、演劇、コンサートから国際会議まで対応。最新鋭の設備を備え、文化発信基地として出会いと創造の場を提供します。

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