日本の歴史認識南京事件 > 8.2.1 直接的な原因

8.2 原因分析

大きな事件や事故においては、ほとんどの場合その原因は複数あり、しかもそれらの原因は直接作用した1次原因、1次原因に作用した2次原因、さらに3次原因以降があることも稀でなく、原因どうしが複雑にからみあっている。この節では、識者が指摘した事件の原因を筆者なりに分類・分析した。

なお、原因には日本側のみならず、中国側の責に帰するものもある。

図表8.2は、事件当時の関係者や現代の研究者が指摘する原因を分類したものである。識者が指摘する原因は多数あり、それらは複雑にからみあっている。ここでは、次のように分類した。

① 直接原因 … 捕虜殺害や市民暴行に直接作用したもの

② 間接原因 … 直接原因の全部又は一部に間接的に作用した原因

③ 日本軍の特質 … 上記原因の背景になった日本軍の組織特性(風土)

図表8.2 識者が指摘する事件の原因

識者が指摘する原因

8.2.1 直接的な原因(1)

この項では、捕虜殺害、市民が巻き添えをくった事象、市民への暴行、に関する直接的な原因について紹介する。

原因タイトルのうしろにつけた略字は、その原因を提示している識者を表す(図表8.3)。また、ここで紹介しきれなかった識者も含めて出典元を図表8.4に示す。

図表8.3 識者略称一覧

識者略称一覧

図表8.4 関連文献リスト(捕虜殺害等の直接要因)

関連文献リスト(捕虜殺害等)

(1) 捕虜不法殺害の原因

(捕1) 捕虜取扱い方針なし  《 戦、秦、藤、吉 》

1937年8月5日の陸軍次官通牒では、国際法を尊重せよと言う一方で俘虜という名称は使うな、と述べて捕虜取扱いに関する明確な方針を示していない註821-1。松井大将も捕虜については何も指示しておらず、捕虜を収容する体制などはほとんど用意されていない。南京戦史は困惑した現場を代弁して次のように記している。

{ 敵を撃滅することだけを念頭において戦っていた第一線諸隊は、多数の投降兵出現にさぞ困ったことであろう。その対応がまちまちであったことは一に戦況によるとはいえ前述の指示の不的確、対応準備の欠如が大きな要素といえよう。そしてその責は一に中央部及び方面軍が負わねばならないものともいえよう。}(「南京戦史」,P345)

まとまった数の捕虜を収容した後、中隊レベル以上の組織的判断で殺害してしまったほとんどのケースは、捕虜取扱い方針が示されなかったことが影響しているとみてよいのではないだろうか。

(捕2) 捕虜侮蔑思想  《 秦、藤、吉 》

日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」、つまり捕虜となるより死を選べという行動規範を叩きこまれており、捕虜に対する蔑視意識があった。それに加えて、上海戦以来の悪戦苦闘で高まった敵愾心、さらには中国人への侮蔑意識などが重なり、{ 激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。}( 4.1.3項(1) ) という状況に至ったケースもあった。少数の投降兵を収容時、もしくは収容直後に殺害してしまったような場合はこれが主たる原因だったのではないだろうか。

(2) 市民が巻き添えになった原因

(巻1) 中国軍の撤退戦略  《 戦、藤 》

南京死守を宣言していた唐生智は退却命令を出すのが遅れただけでなく、「各方面でいっせいに日本軍を正面突破して撤退」との命令を残して、自分はさっさと揚子江を渡って逃げ出してしまった。( 3.5節(2) )その結果、逃げ場を失った中国兵は便衣に着替えて安全区に逃げ込み、市民との選別を困難にしたり、捕虜を無用に増やしたりすることになった。
「南京戦史」は、安全区のみならず市外に脱出する中国兵にも市民が混入し、戦闘に巻き込まれたり、捕虜として処刑されたりした可能性もある、と述べている註821-2
そもそも、無用な戦いを決定した蒋介石の判断にも問題がある。

(巻2) 城内進入制限の黙殺  《 秦、吉 》

12月7日に出された「南京城攻略要領」註34-1<ページ外>で、城内掃蕩は各師団歩兵1個連隊だけに制限するように指示されていた。城内進入兵力を制限するのは、"常識"のようである。

{ 血気の兵士と一般市民の接触を減らし、不祥事の発生を予防するのに有効で、いわば都市攻略の常識である。… 結果的に各師団1個連隊という指示は守られていない。}(秦:「南京事件」,P101)

また、吉田裕氏は次のように述べている。

{ 本来、入城すべきでない部隊までもが勢いに乗っていっきに城内に乱入し各所を徘徊した。この結果、これら多数の将兵の乱入によって南京における日本軍の蛮行にはいっそうの拍車がかけられることになったのである。これについては東京裁判の法廷で、中支那方面軍参謀副長であった武藤章が、「南京の場合は、2大隊か3大隊が市中に入ることになっていました。ところが全軍が入城してしまった結果、遂に南京掠奪暴行事件となったのです」と証言している。} (吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P144)

(巻3) 性急な入城式  《 秦、吉 》

「城内の掃蕩が終わっていない」と上海派遣軍の飯沼参謀長などが反対したにもかかわらず、松井大将は12月17日に入城式を強行した。そのため、敗残兵の摘出と処刑を急がせることになり、16日の掃蕩では怪しい者すべてをその日中に処刑したことによって、多くの市民が巻き添えになった。

{ 飯沼上海派遣軍参謀長は15日夕方、湯水鎮へ前進してきた方面軍司令部を2回も訪ねて入城式の延期を要請したが、松井司令官は、「時日過早の感なきにあらざるも、余り入城を遷延するも面白からざれば… 」(「松井日記」12月16日) という漠然たる理由で、17日の予定を頑として変えなかった。その結果、派遣軍は … 全軍をあげた徹底的掃討作戦を実施することになる。
… 晴れの入城式に宮様の身に危害が及んでは困る、という配慮から、疑わしいものはすべてその日のうちに始末する方針がとられた。とくに難民区の掃蕩を担当した第9師団が、選別の余裕がないままに青壮年男子のほとんどを便衣兵とみなして処刑してしまった… }(秦:「南京事件」,P105)

(3) 市民への暴行の原因

(市1) 憲兵不足  《 秦、吉、他 》

秦氏は次のように述べている。憲兵不足は下記の日高信六郎や上砂勝七のほか、国際委員会のフィッチも指摘している( 4.5.2項(9) )

{ 軍紀取締りに当るべき憲兵の数が不相応に少なかった。東京裁判の日高信六郎証言によると、12月17日現在の城内憲兵はわずか14人で、数日中に40名の補助憲兵を得られるはず、とある。この14人は上海派遣軍所属の憲兵と推定されるが、第10軍の方も憲兵長上砂勝七中佐が「20万の大軍に憲兵100人足らず」と書いているぐらいだから、南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍あわせても30名を越えなかったと思われる。… これでは効果的な取締りを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。}(秦:「南京事件」,P102)

(市2) 占領後の計画なし  《 秦 》

占領後の軍政計画が策定されておらず、住民に食糧を供給し、生活基盤の電気や水道などを復旧し、治安を確保するなどの生活秩序を復旧する計画がなく、形だけの自治委員会が発足したのは陥落後2週間以上たった1月1日であった。兵士たちの非行を取り締まる憲兵も警官もいない状態が長期間続いたのである。

{ 中央政権も市政府も去り、市の行政が唐生智司令官の軍権下に置かれていたのは既知の事実であり、唯一の行政主体である国際難民区委員会の権限を否認している以上、日本軍が代って南京市の軍政統治に全責任を負わざるをえないのは明らかであった。ところが、進入した日本軍は自活するだけの物資さえ持ち合わせぬ餓えた兵の集団で、まして住民を食わせ、破壊された公共施設を復旧して生活秩序を再建するどころではなかった。… 市政府に代る自治委員会が再建されるのは【昭和】13年1月1日だから、占領から少なくとも2週間以上にわたり、南京市は無政府状態に置かれたと表現しても過言ではない。同じ中国戦線でも、古都北京の場合は、7月28日夜に冀察政権の宋哲元が撤退すると、… 30日に設立・開庁と手際の良さを見せ、行政の空白は1日もなかった。} (秦:「南京事件」,P103-P104)


8.2.1項の註釈

註821-1 陸軍次官通牒に関する南京戦史のコメント

{ 「捕虜と呼ぶことも、軍の側から交戦法規をそのまま適用して戦うとも言うな」というのである。この通牒には前文に … 交戦法規の遵守には触れているのだが、読む限りにおいて、それは尊重すべきは、害敵手段の選用等であって交戦法規全体ではない。捕虜については「そういう言葉も極力避けよ」というのである。
しかしこの「方針」はまことに理解困難な方針である。戦闘ともなれば必ず投降兵は出てくる。これをどう取扱うのか。扱うべき機構も施設も「戦争ではないのだから」と準備されないのであった。「戦争とならぬよう、事変の程度で収めたい」という気持ちは解らぬではない。しかし、事変勃発当初ならばたとえそうであったとしても、上海戦が起こり全面戦争のような形となり、さらに相手国の首都南京に攻め込むまでに戦局が大きく進展した時期となっても、依然として改めることなく、はっきりした方針も扱い方も示さなかったのは果たして如何なものであろうか。}(「南京戦史」,P338)

註821-2 中国兵と市民の混入

{ 下関での殲滅戦において、脱出しようとした中国軍中に一般住民が混入していた可能性はあるが、その選別は不可能である。中国軍は降伏勧告を拒否したのであるから、一般住民を隔離して戦闘に巻き込まれないよう方策を講ずべき責任があった。}(「南京戦史」,P367)