日本の歴史認識南京事件 > 7.1 論争開始前(1960年以前)

第7章 論争史

1970年代初頭に始まった南京事件論争は、最盛期(1980年代半ばから2000年頃)ほどではないにしろ現在も続いており、それ自体がひとつの歴史を形成している。半世紀にも及ぶ長期間にわたって、何が議論され、何が判り、各派の主張がどのように変化したのか、また、政治や社会からどのような影響を受け、あるいは論争が社会に及ぼした影響はどんなものなのか、それを知ることは南京事件を正しく理解する上でとても大切なことである。

論争史は史実派の笠原十九司氏と中間派の秦郁彦氏が市販の書籍にまとめているが、なぜか否定派が整理したものはみかけない。理由はわからないが、"否定物語"を語るのに論争史は無用の長物でしかないのかもしれない。
したがってこの章では否定派の見解は省略し、次の2つの文献を軸に話を進めることにする。

・笠原十九司:「[増補]南京事件論争史」,平凡社ライブラリー,2018年12月10日 … 以下、「南京事件論争史」と略す

・秦郁彦:「南京事件[増補版]」,中公新書、2007年7月25日 … 以下、秦:「南京事件」と略す

図表7.1 論争の軌跡

論争の軌跡

7.1 論争開始前(1960年以前)

 図表7.2 論争開始前(1960年代以前)のトピックス

論争開始前のトピックス

(1) 事件直後に刊行された書籍

事件発生直後、事件の状況を記した書籍で最も早く刊行されたのは、1938年3月の石川達三「生きてゐる兵隊」だったが、発売と同時に発禁処分となり、日本国民の目に触れることはなかった。(5.1.2項(1))

続いて同年7月、ティンパリー編「戦争とは何か(What War Means The Japanese Terror in China)」が、ロンドンと漢口でほぼ同時に刊行された。南京事件に関する部分のほとんどは、国際委員会のベイツとフィッチが執筆している。(4.5.1項(2))
この時点では、戦争中だったこともあって、南京事件の論争を巻き起こすまでにはなっていない。

(2) GHQの宣伝

終戦後、日本に進駐してきた米軍は、WGIP(War Guilt Information Program)によって日本人に戦争の罪悪を植えつけ、軍国主義から引き離すことを目的に、新聞やラジオなどを通じて戦争の実態を宣伝した。1945年12月8日にはGHQ提供の連載記事「太平洋戦争史」がすべての全国紙に掲載された。そのうちの南京事件に関する部分を「南京事件論争史」から引用する。

{ 「南京における悪魔」の小見出しで、日本軍は南京占領後、4週間にわたり近代史最初の残虐事件を引き起こし、男女を問わず子どもまで2万人が殺害されたと書かれ、「罪は将校たちにも」の小見出しで、敗残兵の処刑や商店からの掠奪さえ将校たちの指揮のもとにおこなわれた組織的なものであったと記され、「日本の欺瞞宣伝」の小見出しで、日本のニュースや放送は南京市民は日本軍を歓迎している、南京での殺害、掠奪は中国兵の仕業であると宣伝している … (「朝日新聞」1945年12月8日) … 初めて南京事件について知らされた日本人は違和感と反発を覚えたにちがいない。}(P101-P102)

(3) 東京裁判で作られた否定論の原型

笠原氏は東京裁判の弁護側最終弁論に、現在の否定派の主要な主張が含まれているという(「南京事件論争史」、P90)。以下、笠原氏がリストアップした否定論と最終弁論の内容を記す。

(注)下記の各標題は「南京事件論争史」(P95-P96)から引用、{ }内は最終弁論の内容で、「大残虐事件資料集Ⅰ」から引用。ただし、引用範囲は該当する否定論に関連するすべてではなく、一部である。

①伝聞証拠説

{ 本証人【マギー】は、多数の不法行為の存在を証言し居るも、結局、現実に目撃した事件は殺人事件1、強姦事件2、強盗事件2、計5件に過ぎず、他の事実は全て想像又は伝聞なることは、弁護人の反対尋問により明瞭となり居れり。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P369) 同様の反論がウィルソン、許伝音などの証言に対してもある。

②中国兵・中国人犯人説

{ 要するに所謂「南京掠奪暴行事件」の中には中国の敗走兵及不逞市民の反抗が相当多量に混在して居ったことは疑ふべからざる事実である。}(同上,P362)

③便衣兵・便衣隊潜伏説

{ 中国には所謂便衣隊なるものがあって、… 日本兵はこの便衣隊の襲撃に、上海戦以来、非常に悩まされ居りたるところ、南京戦闘の興奮と混乱せる状態に依り、中国人に対する猜疑・不安の念に駆られ、一般人を便衣隊と誤認・速断して之を殺傷したることも若干あったことと想像される。… これを計画的且つ残忍なる虐殺と謂ふは不当である。}(同上,P361) 

④埋葬資料うさんくさい説

{ 崇字埋葬隊は1937年12月26日より28日に至る埋葬作業に於て404箇の死体を埋葬し1日平均130箇を処置せり。然るに1938年4月9日より18日に至る間に兵工廠・雨花台の広大なる地域に於て26,612箇の死体を埋葬し、1日平均2,600箇を処理せり、前後の作業を比較せば、その誇張・杜撰の信憑し難き表示なること明瞭なり。}(同上,P372)

⑤南京人口20万人説

{ 日本軍入城後の集団虐殺20余万人と称するも、当時、南京市内の住民が20万前後なりしことは検察側証拠によるも明らかなるところなるが、当時、城内の住民が全部虐殺せらりたりと検事側証拠により判明するを以て、かかる誇大無稽の数字は到底措信すべからず …}(同上,P372)

⑥戦争につきもの説

{ 南京に於いては若干の不祥事件が発生したが、しかしそれは猛烈な軍事行動の際には何時でも発生するものである。}(同上,P360)

⑦掠奪ではなく徴発・調達説

{ 日本軍は普通の民家を宿舎に使用し、道具類を徴発する必要に迫られた。而して偶々、世帯主不在の家屋には、前述の如く証明書を留め置いて、後より代金を来らしむる方法を以て徴発する手段を取った。}(同上,P362)

⑧大量強姦否定説

{ 強姦の点につきては、血気旺盛の若者共が戦闘に昂奮せる際、過ちを犯したる者ありたるは事実にして遺憾である。併し所謂強姦と認められ報告されたる事件の中には、中国婦人の方から進むで日本兵に接しながら、発見されると強制されたと訴えたものも少なくない。日本軍は強姦に対しては厳罰を以て取り締まって居たから、一、二の不心得者があったとしても、組織的に犯罪を敢行することは到底考へられないところである。}(同上,P362)

⑨中国の宣伝謀略説

{ 何故に此の如く中国軍民と日本軍との双方が犯したる犯罪行為に対して、恰も日本軍のみが犯したる如く謂はれ、日本軍のみが其の責任を問はる々であらうか。… 由来中国人は宣伝上手であり、又、宣伝に動かされ易いのであるが、特に排日・侮日の宣伝は20数年来絶えず軍官民挙げて之を行ひ、其の方法は巧妙を極めて居る。… 中国の夷を以て夷を制する宣伝外交は見事に功を奏したのである。}(同上,P362ーP363)

⑩中国とアメリカの情報戦略説

{ 排日宣伝の最初は、米英の在華学校・教会・病院等の職員によって指導された関係上、這回の南京に於ける不祥事件に就いても、日本軍に関する審議取まぜたる針小棒大の悪宣伝が逸早く内外に流布されたのである。}(同上,P363)

最終弁論には他にも現代の否定論者がよく使う主張がある。

⑪組織的な捕虜殺害はない!

{ 俘虜の取扱ひを適正にするといふ大将の趣旨は部下将兵にもよく徹底して居ったから、一,二の不心得者がその取扱ひを誤った場合があったかも知れぬが、俘虜の組織的なる虐殺・拷問等と云ふことがあらう筈はないのである。}(同上,P361)

⑫放火は中国人のしわざ

{ 火災に就いては、中国兵は清野戦術を実行して、退却に際し全般的に南京城外の兵舎となり得る建築物を焼毀したるのみならず、城内に於ても諸所を焼き払ったのである。之に反して日本軍は、平常より火の用心を厳重にするのであるが、南京城内に於て若し大火災となれば、一層自分達の宿営にも差支へることとなる故、極力火災を防止、消火に努めたのである。}(同上,P362)

これらの主張を裏付ける証拠は身内の軍人などの証言か状況証拠しかなく、検察側が提示した多数の有罪証言や記録を覆すことはできなかった。それは現代に至っても変わっていない。

(4) 犠牲者数の発信源

秦氏によれば、論争が活発化する前までは、ティンパリーが起源と思われる30万説とベイツなど国際委員会が推定した4~5万説の2系統の数字があるという(秦:「南京事件」,P257)。 欧米はベイツ系、中国はティンパリー系が採用されている。

 図表7.3 初期の犠牲者数予測

初期の犠牲者数予測

ベイツ系

ベイツが最初に犠牲者数について書いた「戦争とは何か」の原稿は「大残虐事件資料集Ⅱ」の註釈によれば、1937年12月31日と翌年1月3日に作成したメモをもとに1月25日に書かれたもので、次のように記されている。

{ 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約30%はかつて兵隊になったことのない人々である。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P47)

ベイツは東京裁判では市民1万2千、兵士3万人と証言している。

{ 此の虐殺行為の及ぶ範囲と云ふものは非常に広いのでありまして、全体のことを申上げることのできる人は一人もおりませぬ。… スミス教授及び私は色々な調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します。… 中国兵隊の大きな一群は城外の直ぐ外で降伏し、武装を解除され72時間後、機銃掃射に依って射殺されたのであります。是は揚子江の畔であります。国際委員会は3万人の兵士の亡骸を葬る為労働者を雇ったのであります。… 揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数えることができませぬ。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P49)

秦氏によれば{【東京裁判から】1年半後に雑誌記事で捕虜の殺害者数を3万5千と修正}(秦:「南京事件」,P257) している。

ラーベは2月15日の日記に{ 紅卍会が埋葬していない死体があと3万もある… }(「南京の真実」,P291) と書いており、ベイツの推定も紅卍会の埋葬者数をもとにしていると思われる。

ティンパリー系

秦氏は、ティンパリーは典拠もないまま国民政府宣伝部と示し合わせて犠牲者数30万人という情報を流した可能性がある、と述べている。

{ ティンパリーの「戦争とは何か」はロンドンと漢口でほぼ同時に刊行された。後者は中国語へ翻訳する期間が必要なので、事前のすり合わせがあったのではないかと想像されていたが、北村稔氏と東中野修道氏の調査によれば、ティンパリーは国民党中央宣伝部と事前に話合い資金援助を受けて英文版と中国語版を同時に刊行する段取りを決めたようだ。・・・
ティンパリーは「戦争とは何か」の冒頭で、「華中の戦闘だけで中国軍の死傷者は少なくとも30万人を越え、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」と書いている。軍人の死傷者については、蒋介石の発表した資料などに記載のものを使用した思われるが、民間人のほうは典拠が見当たらない。ヒントになるのは、日本の外務省が広田大臣名で38年1月19日に欧米各地の出先大使館へ打った暗号電報で、そこには16日にティンパリーが本社宛に打とうとして上海の日本検閲官に差し押さえられた電報が添付されていた。その電報には「私が数日前に上海へ帰っていらい、南京などの日本軍によるフン族の蛮行を思わせるような残虐行為の詳細について、信頼できる目撃者の口頭および手紙によって調査を進めたが、30万をくだらない中国人シビリアンが虐殺された」とあった。情報源はベイツやフィッチのようにも見えるが、二人ともこのような誇大な数字を口にした形跡はないので、あるいは漢口の中央宣伝部との謀議に基づく意図的なプロパガンダなのかもしれない。}(秦:「南京事件」,P253-P256)

(5) 戦後日本における扱われ方

東京裁判のあと1970年代初頭までの間、南京事件に関する議論はほとんどなされていない。

歴史書など

戦後刊行された歴史書で南京事件について比較的大きく扱っているのは次のような書籍である。

・歴史学研究会編:「太平洋戦争史Ⅱ 中日戦争」,東洋経済新報社,1953年
この本について笠原氏は、{ エドガー・スノーの「アジアの戦争」の南京虐殺の記述を引用している。}(「南京事件論争史」,P109) というが、秦氏は{ マルクス主義が優勢気味だった日本の歴史学会は、… 標題を"中日戦争"と名づけたくらい、中国共産党よりの記述になっている … 南京事件についての記述は皆無で巻末の年表に記載されているだけ …、1972年の改訂版では4ページにわたって詳述している。}(秦:「南京事件」,P264-P265) と述べている。おそらく笠原氏は改訂版のことを言っているのであろう。

・エドガー・スノー著,森谷巌訳:「アジアの戦争」,みすず書房,1956年
原本は1941年発行。安全区国際委員会の情報をもとに、A5版4ページ強にわたって南京事件を記述している。

・秦郁彦:「日中戦争史」,河出書房新社,1961年
"南京占領と残虐事件"という節を設け、3ページを割いており、{ 市民の被害は死者1万2千ないし4万2千の範囲と推定される。}(同書,P285) と書いている。

笠原氏と秦氏によれば、このほかに次のような本に南京事件の記載があるようだが、いずれも数行の簡単な記述でしかない。

・遠山茂樹・今井清一・藤原彰:「昭和史」,岩波新書,1955年

・「世界歴史事典」,平凡社,1956年

・「アジア歴史事典」,平凡社,1961年

・家永三郎:「太平洋戦争史」,岩波書店,1968年

教科書

笠原氏によれば、1955年以前の中学、高校の教科書には南京虐殺が記述されていたが、1955年の民主党と自由党の合同により成立した"55年体制"のもとで"偏向"攻撃が行われ、それ以降【1974年度検定で復活するまで】南京虐殺の記述は教科書から消されてしまった。(「南京事件論争史」,P108)

(6) 中国の状況

秦氏によれば、中国での「抗日戦争の研究に関する資料」は、文化大革命などの影響もあって1979年まで、他分野もふくめて学術研究は不毛だった。80年代に入って抗日戦争に関する著作が増えてきたが、概して国民政府批判の立場から書かれている、という。(秦:「南京事件」,P263-P264)