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6.8 その他

6.8.1 パル判事の判決

東京裁判においてインド人の判事だったラダ・ビノード・パル(Radhabinod Pal)は、平和に対する罪と人道に対する罪は事件後に作成した事後法であることなどを理由に被告全員を無罪、とした。否定派はこの判決を根拠に日中戦争は侵略戦争ではない、南京事件もなかった、などと主張している。

※「パール」と標示することが多いが、Wikipediaによれば「パール」家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望しているので、ここでは「パル」と呼ぶことにする。ただし、引用文は原文のままとした。

(1) 否定派の主張

田中正明氏は、著書「パール判事の日本無罪論」で次のように述べる。

証拠や証言に疑問のあるものがある

{ パール博士はきわめて冷静に、注意深く、これらの証拠と証言に耳を傾けた。博士はこれらの証拠および証言の多くが、伝聞証拠であり、連合国側の現地における一方的な聴取書であることを指摘した … いくつかの例をあげ目撃者と称する証人の証言の矛盾を指摘している。}(同上,P170-P171)

松井大将は無罪

{ パール判決は次のように述べている。… 松井大将は全軍に対して中国民衆の信頼を増すようにせよと訓令し、南京城攻略と入城に関する注意事項を伝達し、不法行為があったことを知ったあとも3度にわたって軍紀風紀の粛清ならびに違反者の厳罰などを指示した。こうした松井大将の手段は効力がなかったが、これらの手段は不誠意だったという示唆にはならない。松井被告が法的責任を故意かつ不法に無視したと見なすことはできない … 方面軍には違反者を処罰する係官も法務部も配置されていなかった註681-1。 … と具体的に無罪の根拠を明らかにしている。}(同上,P172-P174<要約>)

(2) 史実派の反論

渡辺春己氏は、「南京大虐殺否定論 13のウソ」で次のように述べる。

{ 田中正明著「パール博士の日本無罪論」もパル判事が南京事件も否定したかのように書いている。… しかしパル判決書は、南京事件に関する証言に「ある程度の誇張と多分ある程度の歪曲があったのである」としながらも、結論として南京事件はあったと事実認定しているのである。しかも弁護側も南京事件の事実を否定しなかったとまで書いている。パル判決書を熟知しているはずの田中正明氏が、同判決書の結論とは逆に、南京事件を否定するためにこれを利用しているのは悪用であり、パル判事に対する冒瀆でもある。… 否定派はパル判決書の原文註681-1を一般の読者は読むはずがないと高を括ってウソを書いているのである。否定派の主張に「説得された」とうなずいている人たちは、自分たちが愚弄されていることに気づくべきである。}(「13のウソ」,P181-P184)

※1963年に慧文社から発行されたときのタイトルは「パール博士 … 」だったが、2001年の小学館文庫版では「パール判事 … 」になっている。

(3) パル判事参加の経緯

日暮吉延(ひぐらし よしのぶ):「東京裁判」によれば、インドから判事を参加させることになった経緯は次のようなものである。(同書,P221-P225、P272<要約>)

1946年1月マッカーサーは、裁判所憲章の公布と同時に判事を降伏文書に署名した9ケ国から出すことを明らかにした。これに反発したのが当時まだイギリスから独立していなかったインドで、対日勝利に貢献したことなどを理由に判事を出すことを要求した。インドは独立を見すえインド人が判事席に座る名誉にこだわったのである。宗主国イギリスもこれを支持し、アメリカ国務省も同意したので、インドとフィリピンを参加させることが3月に決定した。しかし、インドは指名権を得たのに判事候補とした2名が承諾せず、結局パルに白羽の矢がたち、パルもこれを快諾した。
パルの専門はヒンドゥー法哲学だったが、卓越した資質を持つ法学者であった。パルは法廷や図書館に通う以外は帝国ホテルの自室にこもって大量の裁判記録と文献を分析し、意見書の執筆を続けた。しかし、病床の夫人を見舞うために何度も長期帰国したので、公判の欠席が異常に多く、公判466日のうち109日も欠席した。

(4) 南京事件の事実認定

史実派の主張するとおり、パル判事は南京事件が存在することを認めているが、一部の証言に疑問を呈している。例えば、紅卍会の許伝音のこの証言、{ あるときわれわれは強姦している日本人を捕えました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れて行きました。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P400) に対して、{ 或る部屋の中に一人の兵隊と一人の中国娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれは強姦した後寝たのであると、われわれに対し言えるという … }(同,P401) と疑問を呈する。

疑いだせばキリがないが、この場合警察に連れていっているのだから、娘又は本人から強姦したことを確認したと考えるのが普通であろう。他にも同様の見解 (詳細は“ゆう”氏のサイトを参照) があり、パル判事はイロメガネを通して証言を聞いているようにもみえる。

(5) 松井大将の無罪論

パル判事は南京事件の存在は認めつつ、松井大将はやるべきことはやった、軍規違反者を処罰することは司令官の任務又は義務ではなく、部下の司令官やそのような任務を持った高級指揮官が行うべきものであり、松井大将の法的責任は問えない、としている註681-1

一般論として、組織のトップが軍規風紀を遵守せよ、との命令を出しながらその結果責任は問われない、というのはいかにも不自然である。もちろん、総司令官自らが軍紀違反者の処罰をするものではないが、そのような任務が正しく遂行されているかどうか監督し、必要により補正する義務と権限をトップが持っていなければ組織の統率などできない。松井大将は個人弁論で、中支那方面軍司令官は上海派遣軍と第10軍司令部に対して作戦を指導する権限は与えられていたが、軍全般の経理・衛生等を区処する権限はなかった、と言いつつ、両軍は自分の指揮下にあった、と述べている。こうしたあいまいさは、現場の自主性を尊重するという意味では良いが、責任の所在があいまいになり、一貫した指揮命令系統を保持できない、などの欠点をかかえた組織だったといえよう。

軍規風紀を遵守し中国民衆の信頼を獲得せよ、という命令は、南京を占領するだけでなく、同時に日本軍の威厳を中国人たちに示し、帰順を促すことが重要と考えたからであろう。それは、モノを作るだけでなく、できあがったモノの品質を確保することと同じで、占領にあたって重要な目的のひとつだった。この目的を達成するには事件が起きてから対処するのではなく、事件が起きないようにすることが必要である。にもかかわらず、松井大将は号令をかけるだけで具体的な対策は後回しになった。軍規風紀の遵守や入城制限の命令だけでなく、憲兵隊の配置、捕虜収容体制の整備、兵站の整備、日程に余裕をもたせた入城式、等々、松井大将が行うべきことは多々あったはずである。すべての責任が松井大将にあるわけではないが、現場総指揮官としての責任は免れない。

(6) パル判決の評価

パル判事が東京裁判の被告全員の無罪を宣言したことについて、日暮吉延氏は次のように述べている。わかりやすくするために、平易な文章で箇条書きにした。(日暮吉延:「東京裁判」,P272-P279)

① 政治的・感情的な論争; 東京裁判の否定論者はパルをたたえ、肯定論者はパルを攻撃する、双方とも政治的又は感情的な議論になっている。

② 「平和に対する罪」は不成立; パルは東京裁判の前提になった「平和に対する罪」は、事件後に制定された「事後法」である上に、その前提となる"侵略戦争"の定義が確立していない註681-2ため、法として成立しないとした。

③ "違法"と"不正"の違い; パルは「平和に対する罪」の"法"自体が成立しないのだから被告は刑法上の責任が認定されない、つまり「違法ではない」と論じたのであって、被告の行為が「不正ではなかった」とは言っていない。それが「日本には何の落ち度もない」といった広範な道義的議論であるかのように拡大解釈されている。
一方、南京事件などの残虐行為については、法の存在は認めるものの、検察側の立論や証拠が不十分だからとの理由で無罪と判定した。

④ 反西洋帝国主義の影響; パルの事実認定には、思想的基盤としての反西洋帝国主義が強く反映している。パルの故郷ベンガルは反英運動の拠点、その関連で日本との結びつきが強い独特な風土だった。日本が日露戦争で勝利したときパルは、同じアジアの同胞が白人の侵略主義にはじめて勝利を得た、と歓喜したという。

⑤ ハル・ノート解釈; よく引用されるパルのハル・ノート解釈――こんな通牒を受取ったらモナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈(ほこ)をとって起ちあがったであろう――という他人の無意味な比喩を引用して真珠湾攻撃は「やむをえず運命の措置をとるにいたった」と結論する。

※[筆者註]; この比喩はパルが言ったかのように言われることもあるが、別人の比喩を引用した弁護人の言葉をパルが再引用したものである。

⑥ 双方ともに政治的; "反枢軸国主義"【戦勝国側】の多数判決だけが政治的だったわけではない。「反西洋帝国主義」に立脚するパル判決の事実認定も著しく政治性をおびていた。多数判決を評価できないのと同様、パル判決――こちらのほうがずっとましだが――にも高い評価は与えられない。

⑦ パルの事実認定では責任者不在; パルの事実認定では、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に責任を負うべき日本の指導者が誰もいなくなってしまう。それはどう考えてもおかしい。無用な事実認定で全面的免責をしたことはパル判決について惜しまれる点といえよう。

⑧ パル判決はパルの個性; 日本の"非軍事化"という占領目標からすれば、判事が東京裁判の規範と政策を否定することは本来、許されないことであった。そんな現実の拘束を平然と無視し、いかなる圧力にもひるまずに「勝者の裁判」を全面否定できる"個性"をもつのはパルだけであった。パル判決が異様に際立つことになった根本的理由は、何よりもパルの"個性"に求められるのである。

(7) まとめ

田中正明氏は、パル判決が南京事件の存在を認めていることを知っているのに、それをぼやかしたまま松井大将の無罪を述べている。田中氏が述べていることを丹念に読めばパル判決が事件の存在を肯定していることがわかるはずだが、そこまで深読みする読者は限られており、大半はパルが南京事件を否定しているかのような印象を持つに違いない。

※パルは、松井大将は不法行為があったとの知らせを受けて軍紀風紀の粛清や違反者の厳罰などを指示したが効力はなかった、と述べている。これは事件があったことを肯定しているからであり、もし事件がなかったと判断したならば、「事件は無かったのだから無罪」で済んだはずである。

日暮氏が指摘するようにパルの事実認定は偏っているが、それでも事件は存在した、それもかなり惨烈な事件であったと述べているのである。

{ 本官がすでに考察したように、証拠に対して悪く言うことのできる事柄すべてを考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど3週間にわたって惨烈なものであり、合計6週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく2月6日あるいは7日過ぎてからである。
弁護側は、南京において残虐行為が行なわれたとの事実を否定しなかった。彼らは単に誇張されていることを愬【うった】えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P405-406)


6.8.1項の註釈

註681-1 「南京暴虐事件」に関するパル判決書 以下はすべて「大残虐事件資料集Ⅰ」(P399-P408) からの引用である。下線は筆者。

南京暴行事件に関する2名の主な証人は許伝音とジョン・ギレスビー・マギーとである。… 右の証人はいずれもわれわれに対して、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。…【このあと、二人の証言の内容をとりあげてその信憑性に疑問を投げかけているが省略する】

… これに関し本件において提出された証拠に対し言い得るすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である

問題は被告にかかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。 … 【検察側主張の確認、該当する被告の特定、証言に基づく経緯の確認、などが続く】

いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠に対して悪くいうことのできる事柄をすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は狂暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど2週間にわたって惨烈なものであり、合計6週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。… 弁護側は、南京において残虐行為が行なわれたとの事実を否定しなかった。彼らは単に誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。

被告松井大将は、南京陥落をもたらした中支方面軍の司令官であった。…【上海】派遣軍と第10軍の司令部の上にあって、両軍の指揮を統一することが中支方面軍に課された任務であった。その任務は、両司令部の共同作戦の統一にあった。軍隊の実際の操作及び指揮は各軍の司令官によって行われた。各司令部には、参謀及び副官のほかに兵器部、軍医部及び法務部等があった。しかし中支方面軍のうちには、かような係官はなかった。…
南京を攻撃せよという大本営の命令を実施する以前に、松井大将は日本軍に対して、以下の要旨の命令を出した。すなわち「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるが故に、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼の度を増すようにせよ。…」 … 上記の命令を作ると同時に、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」と題する訓令が作成された。…

12月17日、松井大将は南京に入城して、初めてあれほど厳戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあった旨を報告によって知った。彼はさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。…

松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為がある旨の噂を再び聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に12月26日又は27日、次のような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。 「 … 一層軍規風紀を厳重にし、若し不心得者があったなら厳重に処断し … 」 かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠に依れば本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したと見做すことはできない

… 司令官は軍の軍規風紀の実施のために与えられている機関の有効な活動に当然依存し得るのである。軍には違反者を処罰することを任務とした係官が配置されていたことは事実である。本官はかような違反者を処罰する手続きをとることは、司令官の任務または義務であるとは思わない司令官の耳には残虐行為の噂もはいり報告もきた。彼はそれは不承認であることを表現した。従ってその後は彼としては当然、両軍の司令官ならびに軍規風紀を維持し処罰を加える任務を帯びている他の高級将校に依存し得るのであった。また、松井大将は当時病気であり、これらの出来事があったのち数週間内にその任務を交代させられていることを記憶せねばならない。…

本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、同人を刑事上責任あるものとする不作為が同人にあったことを証拠は示していない

註681-2 侵略戦争の定義

南京事件当時は侵略戦争についての明確な定義はなかったが、戦後、国際連合が定義している。

{ 1974年12月14日に国際連合第29回総会で「侵略の定義に関する決議」が採択された。決議によれば、侵略の定義は次のようになっている。
「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう。」}(Wikipedia:「侵略の定義に関する決議」)

しかし、実態は大杉一雄氏がいうように、侵略戦争と自衛戦争の定義は不明確のようだ。

{ 侵略か、自衛かの国際法上の定義は不明確であり、不戦条約ではそれを決定するのは当事国(自己解釈権)という前提にたっていたから、すべての戦争は自衛戦争となり得るので、この角度からみることは適切ではない。… むしろ実態に即した判断、すなわち武力をもって外国における権益の獲得あるいは既得権益の拡大を謀ったものを侵略とする方がわかりやすい。}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P347)