日本の歴史認識南京事件 > 6.7.3 掠奪か徴発か?

6.7.3 掠奪か徴発か?

(再掲)図表6.24 強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

東中野氏は、「再現 南京事件」(P258-P273)において、次のように主張する。

・日本軍は占領のために必要な物品を調達したが、それらは定められた"徴発"の手順に沿って行い対価を支払った。

・日本兵の中に略奪に走った個々人がいたことは否めないが、それは極めて少なかった。

・南京市民や中国兵が行なった略奪はかなりあったとみられる。

(1) 占領業務のための調達(徴発)?

東中野氏は、{ 日本軍は占領に必要な備品などを調達しなければならなかったが、交渉すべき中国側の行政機構がなかったので、やむをえず「官憲徴発」の命令を下して日本軍将兵が調達を行った。それが組織的掠奪と見られたことは十分に考えられる。}(同上P262-P263) という。しかし、それはかなり乱暴な"調達"だったようで、東中野氏も引用しているシカゴ・デイリー・ニューズの記事、ベイツやフィッチが「戦争とは何か」に書いている掠奪の様子には次のようなことが書かれている。

盗んだものは、東中野氏によれば、手袋、セーター、万年筆、時計、懐中電灯、現金180ドル、オートバイ数台、ゴミ箱、自転車、壁掛け時計、などであるが、このうち占領に必要なものは壁掛け時計ぐらいだと述べている。では、それ以外のものは誰が、何のために盗んだというのか、あるいは証言は伝聞や風聞で信用できないというのか、氏は語っていない。

(2) 徴発と掠奪

日本軍の徴発は次のようなものであった。

{ 日本軍の略奪と紛らわしい行為に、徴発というのがあった。ただしくは、"官憲徴発"といわれ、あるときは師団の作戦命令で徴発を指揮した。徴発の場合、経理官が物品の代金代わりに軍票で支払うか、留守の時は支払を約束する紙票を張り付けて帰った。略奪とは違い、支払いを済ますわけだが、中国人の許可なく持ち出すことにはかわりなかった。大多数の指揮官は、徴発は許すが略奪は禁ずという方針だったが、兵士たちは上官が命令したのが徴発であり、そうでないものは略奪だと考えていた。}(滝谷二郎:「目撃者の南京事件 マギー牧師の日記」,P68)

"支払を約束する紙票"は発行されなかった場合も多く、発行された場合でも次のような状況であった。

{ 然るに後日[中国人の]所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斤とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入していないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。… 徴発した者の話では乃公[だいこう...自分のこと]は石川五右衛門と書いて風呂釜一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。(渡辺卯七「第9師団経理部将校の回想」)(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P82)

東中野氏はいくつかの事例をあげて、{ 代価を支払っての徴発は末端まで浸透していた。}(「再現 南京戦」,P266) と主張する。そうしたケースもあっただろうが、そうでないケースも多数あったことは次のような記録から容易に推定できる。

・中島師団長は松井大将との会見時に、自分自身が家具を持ち帰ったことを「なんだかけちけちしたことをぐずぐず言いおりたれば … 」と発言している。( 4.5.3項(6) )

・中島師団長はさらに、現金を掠奪する者がいたことを日記に記している。(註673-1)

・山田栴二旅団長は日記に、「徴発のふしだら、皆泥棒の寄集り」とまで記している。( 4.5.2項(7) )

・日本兵の日記などにも掠奪の記録はたくさんある。(註673-2)

・従軍記者の前田雄二氏は、家の扉を破ってまわることを「掠奪とはいわず、徴発といった」と述べている。( 6.6.1項(7) )

・上砂勝七(かみさごしょうしち)憲兵少将は、{ この徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。}(上砂勝七:「憲兵31年」,P176) と述べている。

・復員した将兵らが、「戦闘間で一番嬉しいのは掠奪」などと語っていたという、陸軍の記録がある。( 小論報 「資料 帰還軍人の言辞」 )

・石川達三は、「北支では金を払っていたが、南では"自由な徴発"が行われていた」と書いている。(註673-3)

(3) 言葉の壁が原因?

東中野氏はラーベの日記を引用する。下記は東中野氏の引用と同じ内容・範囲である。

{ 12月17日 … クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、乗っていた3人の日本兵は、“We friend … you go!”と言って返してよこしたのだった。
このときの日本兵たちは午後にまたやってきて、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は以前韓に言ったことがある。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」なんと韓は本当にもらっておいたのだ。“I thank you present! Nippon Army、K.Sato” ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!} (「南京の真実」,P139-P140)

これを氏は次のように解釈する。

{ 日本軍は前日調達したクルマの持ち主が判明したため、直ちに自ら返却に来ている。… もし、このとき日本軍将兵が十分な英語で「なぜクルマを持って行ったのか、なぜ今日持ってきたのか」を説明することができたのであれば、また違った状況になっていたであろう。… クルマを持っていくさい、ローレンツが南京にいないあいだだけクルマを借用するという趣旨を英語で十分表現できていたならば、ここでも状況はずいぶんと変わっていたであろう。}(「再現 南京戦」,P269)

東中野氏の想像力には絶句してしまうが …
「クレーガーは車の前に立ちはだかり … 」が、車を返却に来た状況とはとても思えないし、クルマを借用するのであれば、「受取り」でなく「借用証」を置くだろうし、“I Thank you …”と書けるくらいの英語力があれば借用をpresentとは書かないし、片言の単語と手真似で借用の説明くらいできるはずである。

(4) 中国人による掠奪

東中野氏は、ロイターのスミス記者やミニー・ヴォートリンの日記、日本兵の日記などを引用して、南京市民や中国兵の掠奪が多発したことを述べる。中国人による掠奪が横行したことは、安全区に潜伏していた中国軍人が手記で次のように述べていることからも事実であろう。

{ なぜ上海路ではあのように売買が行われたのだろうか。また商品はどこから来るのだろうか。… 夜の間は獣兵【日本兵】は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。人々は難民区以外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく、色々なものがすべて揃った。長い時間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、お碗、小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。… }(「南京事件資料集Ⅱ」,P234)<郭岐「南京陥落後の悲劇」>

このような闇市場の繁昌に日本兵も一役かっていたことをヴォートリンは日記に書いている。

{ 1月25日 … 傀儡政府――陳さんが南京自治政府につけた名称だが――の当局者のところにも行き、盗品を売る店を安全区から締め出せないかどうか打診した。寧海路や上海路の沿道に何百という小さな店がにわかに出現しているのは、貧窮者たちによる掠奪が毎日増えていることを意味する。日本兵が率先して掠奪をしなかったら、彼らはあえて店開きはしなかっただろう。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P135)

(5) 早尾軍医の報告書

早尾逓雄陸軍軍医中尉の報告書については、すでに4.5.2項(6)でも述べたが、徴発が諸悪の根源であったことを指摘している。笠原十九司氏の「南京難民区の百日」(P44-P45)によれば、早尾軍医は上海第一兵站病院に勤務していたが、上海戦・南京戦で頻発した兵士の犯罪について、法務部や憲兵隊と連絡をとって調査し、その実態と原因について「戦場神経症ならびに犯罪について」という報告書にまとめた。以下は報告書の一部を現代語に要約したものである。(原文は註673-4を参照)

{ 徴発のように公然と許されていることも、最初は躊躇している者が、しだいに興味を感じ、競争心さえ起こすようになる。軍隊生活に不必要なものまで徴発し、内地に送る例や上官の機嫌をとり進級などの利益を図ろうとする者さえいる。
徴発は次第に意義を変え濫用した結果、犯罪となり兵卒の心を堕落させる。軍隊には「員数をつける」という言葉があるが、これは一種の窃盗である。徴発はこの「員数をつける」の延長線上にあり、ついには掠奪となり強奪ともなる。 }

※ 「員数をつける」とは、兵士の装備品などを常に揃えておくことを意味する。軍隊生活では武器弾薬から装具類にいたるまで「天皇陛下から拝借した大切な物」とされ、すべてが揃っていないと処分をうけることもあった。このため、兵士たちは欠けた物や紛失した物は他の部隊から盗んででも揃えておく必要があった。【笠原氏の注釈】

(6) まとめ

中国人の掠奪も少なくなかったが、日本兵の掠奪もたくさんあり、狂暴になることもあった。 進撃中、徴発は主に食料が対象だったが、陥落後はありとあらゆるものが掠奪の対象となった。

{ 勝利者の当然の権利と考えて、戦利品をみやげにと考え、そのために略奪が横行した。}(「南京難民区の百日」,P300)

掠奪品は"みやげもの"にするほか、上述のように闇マーケットなどで換金して現金で持ち帰ることもあった。


6.7.3項の註釈

註673-1 現金の掠奪  中島今朝吾日記より

{ 12月19日 … 最も悪質のものは貨幣掠奪である。中央銀行の紙幣を目がけ至る処の銀行の金庫破り専門のものがある。そしてそれは弗【ドル】に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する。此中(仲)介者は新聞記者と自動車の運転手に多い。上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある。
第9師団と内山旅団【野戦重砲兵第6旅団】に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い。そして金が出来た為逃亡するものが続出するといふことになる。内山旅団の兵隊で4口、計3000円送金したもの其他300,400,500円宛送りたるものは4~50名もある。誠に不吉なことである。}(「南京戦史資料集」,P333)

註673-2 掠奪に関する日本兵の記録

前田吉彦少尉(歩45連隊)日記 { 12月16日 … 無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやっているのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。… }(「南京戦史資料集」,P466-467)

井家又一上等兵(歩7連隊)日記 { 12月19日 … 醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋をとった釜の中を見、引出の中を開き色々と中をさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼らとて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。… }(同上,P477)

牧原信夫(歩20連隊)日記 { 12月22日 … 毎日新聞の南京通信員志村記者に会う。… 今夜夜具を探して居るのだと言って、民家に徴発に行ってこれ位兵隊はしなければ戦争は出来ないわ、と笑って居た。… }同上,(P514)

註673-3 石川達三が見た掠奪

{ 北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でもいちいち金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他にしかたがなかった。炊事当番の兵たちは畑を這いまわって野菜を車一ぱいに積んで帰り、豚の首に縄をつけて尻を蹴飛ばしながら連れて帰るのであった。やがて徴発は彼らの外出の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に生肉の徴発という言葉は姑娘(クーニャ)を探しに行くという意味に用いられた。}(石川達三:「生きている兵隊」,P44)

註673-4 徴発は諸悪の根源 早尾逓雄陸軍軍医中尉の報告

{ … 徴発のごとき公然ゆるされし事さえ、最初は躊躇せる者がついには徴発に大なる興味を感じついては競争心さえ起こすにいたる。ついては不必要なる(軍隊生活には)物品を自己の利欲より徴発をなすにいたり、これらを内地に向って送りし例も少なからず、あるいは徴発により上官の機嫌を取り結び自己の進級等に利益をはかりし例も存せり。
徴発はゆるされたる行為なれどもこれを次第に意義を換え濫用となりし結果が、犯罪構成に立ちいたりしものにして、実に徴発なる教えは極めて兵卒の心を堕さしめたる結果をしめせり。軍隊には「員数をつける」という言葉あり、これは一種の窃盗行為なり。(中略)徴発はこの「員数をつける」をさらに大にして公けにせしものの如くに解釈せるの観あり。ついには掠奪となり強奪ともなり、しかもこれらの行為を恥ずるなきまでにいたりしものと思わる。
兵卒の大部分は性善良なりしを疑わず、しかるも戦場に来たるや予想せざるし不良行為が平然と行われしかも何らの制裁なきを見るや、いたずらに遠慮をなし不自由なる思いをなすより、「員数をつける」心持ちの下に余分の物品まで掠奪をあえてなすにいたりしものと解釈すべきなり。} (「南京難民区の百日」,P44-P45)