日本の歴史認識南京事件 > 6.1.1 人口20万人で30万人は殺せない!?

第6章 否定論とその反論

この章では、南京事件は無かった、とする否定派の主張とそれに反論する史実派などの主張、及び筆者の評価を紹介する。個別事件の否定論は第4章で述べているのでここでは事件全体を包括するような否定論をとりあげる。

否定派の主張の多くは、田中正明氏の「南京事件の総括」に記されている“虐殺否定15の論拠”に含まれるので、これを主軸にその他の否定論も交えて抽出し、それを人口、捏造、証拠、捕虜、市民、その他、の6つのカテゴリーに分類した。史実派の反論は主として南京事件調査研究会が編集した「南京大虐殺否定論13のウソ」(「13のウソ」と略す)に依拠している。

図表6.1 主な否定論と本レポートでの記載箇所

主な否定論

注1) ①~⑮は、田中正明:「南京事件の総括」に記載の“虐殺否定15の論拠”である。

注2) 東中野氏の否定論は、「南京虐殺の徹底検証」及び「再現 南京戦」による。

注3) 北村氏は、「南京事件の探求」による。

6.1 南京の人口は20万?

図表6.2 南京の人口は20万!?

南京の人口は20万!?

6.1.1 人口20万人で30万人は殺せない!

(1) 否定派の主張

「陥落時の南京の人口は20万人だったので、30万人も殺すことはできない。安全区国際委員会の文書に『安全区の人口は20万人、安全区以外にほとんど人はいない』と書かれている」 これは、南京事件を否定するときに最もよく使われる否定論で、東京裁判でも主張された。
田中正明氏は当時の関係者の証言もまじえて次のように主張する。

{ この安全区(難民区)に南京市民全員を収容して保護に当ったのである。… 安全区国際委員会が発行した文書に3回にわたって、安全区内の難民の総人口は20万人であると記述されている。 … ドイツ・フランクフルター紙の特派員リリー・アベック女史は「漸く15万人を数ふる」、日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戍軍の兵力数5万、非戦闘員10万」、劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は市民数「概ね20万」、松井大将は12月20日の陣中日誌で「其数12万余に達し」と記述している。…
以上の史料を総合してみると、当時の南京の人口は12万~13万から最高20万の間とみてまちがいない。唐生智麾下の南京防衛軍は3.5万から5万である。防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。それがどうして30万なのか? 幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。}(「南京事件の総括」,P25-P27<要約>)

(2) 史実派の反論

まず、「南京の人口20万人」との主張に対して次のように述べる。

{ 国際委員会が述べているのは、… 安全区に避難収容された市民と周辺からの 難民の総計のことである。これを南京事件前の南京市の人口であるかのごとくいうのはウソである。それにこの否定論には総勢15万人にたっした南京防衛軍の事が抜け落ちている。…
1937年11月23日に南京市政府が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡があり、そこにはこう記されている。「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。… 」}(「13のウソ」,P84-P85)

11月23日以降、江南地域の都市、県城から日本軍に追われて逃れてきた難民がいる一方、市内から安全と思われる近郊農村などに避難していった市民もおり、

{ 南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される。それに … 中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢約15万人を加えてカウントしておくべきである。}(同上P86)

つまり、南京攻略戦開始時における南京城周辺の人口は軍人も含めて55~65万人だった、と主張している。

(3) 中間派(秦郁彦氏)の主張

{ 難民区の人口は20万~25万という数字がある。それで30万人殺せるわけがないじゃないかという論法なのです。では南京は難民区だけなのか。実は、難民区は南京城内の8分の1の面積しかないんです。あとの8分の7はかなりの数の住民が居住していたはずです。しかし、「まぼろし派」の人たちは「入っていった兵隊さんの話だと、ガランとしていて人けが全くなかった。だから、難民区以外は人口ゼロだ」と言い出し、「人口以上に殺せるはずがない。だから、30万人というのは大ウソだ」、こういう論拠なんですね。では実際の人口は判明しているかというと、これは計算できません。}(民主党近現代史研究会:「近現代史に学ぶこと(1)」,P6)

(4) 陥落時の市民人口は推定値

南京市の人口は、信頼できる調査によれば1937年3月末時点で約102万人であった(図表6.3)。8月からの空襲以降、脱出する人が増えて、上記肯定派の反論にあるように開戦前の11月23日の人口は約50余万になっていた。ここまでは警察が調査した結果であり、一定の信頼がおける数字である。この後、南京から脱出する者がいる一方、進撃する日本軍に追われて南京に逃げ込む者もいただろうが、人口調査は行われておらず信頼できる数字は存在しない。田中氏が推定した12万~20万の根拠と称する文書はいずれも推測にすぎない。
もちろん、史実派の40~50万人も推測であり、陥落時の南京市の人口について信頼できるデータはないのである。

図表6.3 南京市の人口推移

南京市の人口推移

*1 1936年6月「南京市政府行政統計報告」(洞富雄:「南京大虐殺の証明」,P170)

*2 1937年3月末 南京特務機関「南京市政概況」(首都警察庁調べ) 笠原氏は城区の人口とコメントしているが、ほぼ同じ時期の洞氏及び秦氏のデータは郷区を含むと明記してあり、このデータも郷区を含んでいると思われる。 (笠原:「南京事件」,P219)

*3 { 南京市政府(馬超俊市長)の書簡には、「調査によれば本市(城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている。}(笠原:「南京事件」,P220) 。これは城区だけの人口とみられる。

*4 田中氏が紹介している証言などがどの範囲をさしているか不明だが、田中氏は「市民全員を難民区に収容した」と述べているので、安全区の人口≒南京市とみていると判断した。

*5 笠原氏は城区の推定値としている。

*6 {… 貴国部隊が本市に入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていた … 本市駐屯の日本兵の間に規律が戻らないかぎり、20万中国市民の多くに襲い来る餓死をどうやって防ぐのか、見当はつけにくい。} (「安全地帯の記録」,P157・P161<12月17日付第9号文書>)

*7 1938年1月14日付第19号文書には、{ … 貴軍が10歳以下の子供及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。}(「安全地帯の記録」,P247) と記されており、兵民分離の結果をもとに推定している。安居証を受領したのは城内の住民が主体だと思われるので、郷区は対象外とみられる。

*8 「南京における戦争被害調査<第1表>」 (「大残虐事件資料集Ⅱ」,P251)
統計調査の結果は221,150人だが、第1表の注釈で「調査員の手の届かぬ人々、移動途中の人々もあったので、25~27万と推定した」と記載されている。

*9 秦:「南京事件」,P208 による。

(5) 安全区は南京のごく一部!

南京事件の地理的範囲は「南京城とその周辺」とされており、田中氏も同じ意味で"南京"を使っていると思われる。上図のように、南京市は城内と周辺部の「城区」と、近郊の農村・山間部の「郷区」に分けられるが、「南京城とその周辺」が城区の範囲なのか郷区まで含むのか、明確な線引きがされているわけではない。しかし、犠牲者数と比較すべき人口は、安全区だけでなく、少なくとも城区の範囲まで含めて考えるべきである。

安全区は城区の一部で面積は城内とその周辺部(40平方キロ)の10分の1以下(3.8平方キロ)しかない。国際委員会は12月17日に日本大使館に宛てた文書で、{ 13日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていました。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P126) と述べているが、下記のように安全区以外にも南京城とその周辺にはかなり多くの市民がいた可能性が高い。

また、犠牲者数には中国軍将兵も多数含まれるので、陥落時に南京周辺にいた中国軍兵力も考慮しなければならない。中国軍の兵力については、4.7.3項でも述べたように、5万人(戦闘兵のみ)から15万人(雑兵も含む)まで推定値には幅がある。

(6) まとめ

「南京事件など無かった!人口が20万人しかないところで30万人も殺せるわけがない …」などと主張されると南京事件は存在しなかったかのように思ってしまう人もいるかもしれない。少し考えればわかることだが、この否定論では30万人(又は数十万人規模)の虐殺を否定することはできるが、中間派の主張する数万人規模は否定できないのである。実際は、人口20万という数字の信頼度が低いので、30万の否定すらも論理的には怪しい。

事件から半年以上過ぎた1938年8月の信頼できる調査でも、南京市の人口は30万人までしか回復していない。"安全"は戻ったかもしれないが、"安心"は戻っていない証しではないだろうか。


6.1.1項の註釈

註611-1 安全区外にいた住民

・マギー牧師が撮影したフィルムの解説書 フィルム3

{ この男性の家は南門の内側にあった。日本兵が12月13日にやってきたとき、かれらはこの男性の2人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。かれは12月27日になってようやく病院に運ばれた。}(「ドイツ外交官の見た南京事件」,P171)
※ 「南門」は中華門のこと。

・N.Y.タイムズ 1937年12月19日 ダーディン記者

{ 安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は5万人以上を数えるものと思われる。その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。}(「南京事件資料集Ⅰ」,P423)

註611-2 日本軍将兵の証言

・佐藤増次氏の述懐(歩9連隊第一大隊本部先任書記)

{ 市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に1,2名の住民が残っており、残した家財を見張っていたようである。本部の兵が食糧徴発に行って、"奥の方に人が居た"と言っていた。}(「証言による南京戦史(8)」,P7)

註611-3 安全区以外の難民キャンプ

・ラーベの日記(1937年12月23日)

{ 今日、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には、棲霞山の1万7千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりをつくしているのだ。}(「南京の真実」,P158)
※棲霞山: 南京の北東22kmにある丘

・砲艦比良艦長・土井申二中佐の証言

{ そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物資の基地だったところです。軍需物資がたくさんあり、そのための引込線もありました。難民が保国寺に六、七千人ほどいました。}(阿羅健一:「南京事件 日本人48人の証言」,P255)
※宝塔橋街は、下関の北東、揚子江沿いにある。

註611-4 ダーディン記者の述懐

笠原十九司氏は1986年と1987年にN.Y.タイムズの元記者F.T.ダーディン氏に面談している。以下はその時にダーディン氏が語った話である。

{ 20万人というのは難民区内に集まった難民の数でしょう。他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締りをして、みな家に籠っていました。… 車で市内を回ったとき、家の中から中国人が出て来るのを見かけましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。}(「南京事件資料集Ⅰ」,P567-P568)