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5.4.2 南京軍事法廷

図表5.9 南京軍事法廷

南京軍事法廷

この節は、(1)以外、主として笠原十九司・吉田裕編:「現代歴史学と南京事件」の第3章「中国国民政府の日本戦犯処罰方針の展開」(伊香俊哉)に依拠している。

(1) 日中戦争の終結

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争と日中戦争が終結した。同じ8月15日、蒋介石は「以徳報怨(怨に報いるに徳を以てせよ)」の放送演説を行い、中国に残る軍人や残留邦人に対して寛大な態度で接するよう国民に呼びかけた。終戦時に中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍(兵力105万)の司令官だった岡村寧次大将は、次のように記している。

【蒋介石の】この演説を、当時ソ連のスターリンが「日露戦争の仇を討った」と声明したのに較べてみれば、まるで較べものにならない高邁寛容な思想と言わねばなるまい。この思想、この大方針が後述するように接収において、降伏手続きにおいて、戦犯問題において、すべて中国側官民の日本人に対する態度の基礎になったのだと思う。この大方針は大体に於て遵守せられたが、抹消軍民に於いては徹底を欠き小トラブルの起きたのも少なくなかった。地方雑軍の中には、ほしいままに武器を要求したり、金銭物品の提供を強要したり、無実の罪を造って拘禁するなど、非行を敢えてするものもあった。…
しかし、大観すれば、他方面に較べ比較的多量の物品を携行して、200万軍民が一年ならずして内地に引揚げることができたのは前述の蒋委員長の方針に基づく中国官民の好意ある態度に因るところ至大であると思わざるをえないのである。}(「岡村寧次大将資料(上)」,P12-P13)

岡村大将も戦犯容疑で拘束されたが、南京軍事法廷で無罪とされ、1949年復員している。

(2) 中国による戦犯情報収集(戦時中)

連合軍による戦争犯罪調査は1944年1月に「連合国戦争犯罪調査委員会(UNWCC)」が発足してから本格的に始まったが、中国ではそれ以前の1941年頃から日本の戦争犯罪に関する調査を始めていた、とされる。当初は日本軍の資料などは入手できず、徐淑希の編纂した被害調査やティンパレーの“The Japanese Terror in China”、軍関係からの資料、新聞記事などしかなかった。調査の方針は、根拠もなく報復的に処罰するのではなく、証拠資料に基づいて処罰することであった。

1943年の初めから戦争犯罪の調査表を作成し、軍の司令官や各省政府に配布して調査を行った。1945年5月の報告では2300件を越える調査表が回収されたが、その大多数は容疑者の情報や証拠など調査項目の記入が不十分であった。
44年に入って調査は本格化し、当時中国にいたスマイスやフィッチなどと面談し、ベイツやリッグスへも協力要請して証拠資料のとりまとめを開始した。(「現代歴史学と南京事件」,P95-P99)

(3) 中国による戦犯情報収集(戦後)

終戦後、戦争犯罪調査は進展したものの、事件発生から長い時間がたち正確な情報の収集は困難をきわめた。1946年4月から6月まで、アメリカと合同で中国各地(上海、広州、桂林、衡陽、漢口、北平(北京)、など)の戦争犯罪の証拠調査を実施した。

戦犯の検挙は中央や地方当局が行うだけでなく、人民による告発も重視された。人民により告発された事件は、上海方面で30,638件、広州方面で1万件あまりであった。桂林方面では毒ガスの使用も1件報告され、衡陽方面では4万5千軒の家屋のうち無傷なのは5軒だけ、人的被害は14万人、うち強姦による死者は6万人、武漢方面では未精製阿片約78kgが接収された。こうした大量の事件を戦後直後の混乱の中で調査し、証拠をもとに処罰することはきわめて困難な状況になっていた。 (同上,P108-P112)

(4) 戦犯処理方針

1946年10月、戦犯処理政策についての会議がもたれ、「以徳報怨」の精神に基づき、重要な戦犯に絞り込み一般の戦犯は寛大に対処する「懲一戒百(1人を罰して衆人の戒めとする)」の方針と、戦犯裁判の早期終結方針が決定された。この方針は、46年7月に国共両党が本格的な内戦に突入したことの影響を受けている可能性もある。 (同上,P113-P114)

(5) 裁判の性格

「懲一戒百」は、満州事変以来15年にわたる日本の侵略で国土の大半を蹂躙され、1100万を越える犠牲者(日本は日中戦争と太平洋戦争の犠牲者300万人)を出したことを考えると処罰の小ささを嘆く声もあったが、「教育的効果」すなわち日本人が中国全土で繰り広げた戦争犯罪について自ら戒めとすることに期待するしかなかった。

また、中国での戦犯裁判は人民からの告発を重視したことから、「勝者の裁き」というよりも「被害者の裁き」という性格を見出させるものであろう。(同上,P114-P116)

(6) 南京軍事法廷で裁かれた4人

南京事件のBC級戦犯は、1946年2月から開かれた南京軍事法廷で裁かれた。南京軍事法廷の判決では、南京事件の犠牲者数について次のように述べ、これがのちの中国側主張である30万人のもとになっている。

{ … 捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など19万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが、15万体余りある。被害者総数は30万人以上に達する。}(「南京事件資料集Ⅱ」,P298)

裁かれたのは次の4人でいずれも死刑の判決を受け、谷は1947年4月、他の3人は1948年1月に雨花台において銃殺の刑に処せられた。

以下、秦:「南京事件」,P48-P49及び孟国祥:「南京大虐殺事件に関する審判」による

谷寿夫中将(第6師団長);
1946年2月、連合軍により拘束され、同年8月中国に引き渡される。中国検察の取り調べを受けた後、翌47年2月から公開裁判が行われた。雨花台から中華門内外で起きた不法殺人などを問われ、本人は「中華門付近でそのような虐殺はない、南京大虐殺は中島部隊の方面での出来事」と主張したが容れられなかった。3月10日、死刑判決を受け、1947年4月26日、雨花台において銃殺刑に処せられた。
田中軍吉大尉(第6師団中隊長);
1947年5月、中国に引き渡され、12月に公開裁判が行われた。1940年に刊行された「皇兵」という本の中に「300人も斬った隊長(田中)の愛刀助広」と紹介され、この本が証拠とされ、死刑判決が下った。
向井敏明少尉、野田毅少尉(いずれも第16師団歩9連隊);
1947年10月、中国に引き渡され、田中軍吉とともに12月に裁判が行われた。1937年12月の東京日日新聞に掲載された「百人斬り」の記事が有力な証拠とされ、死刑判決が下った。田中とともに1948年1月28日、雨花台で銃殺刑に処せられた。

(7) 政治的な裁判

この裁判は、笠原氏や秦氏が述べているようにきわめて政治的な裁判であったといえよう。

{ 谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって … }(笠原:「南京事件」,P234)

{ 【起訴者が少なかった理由のひとつは】8年前の事件容疑者を探し出し、確認する技術的困難性である。… 生き残りの被害者はみつかっても、加害者の氏名や所属部隊を特定するのはまず無理だった。 … この3人(田中、向井、野田)はマスコミの戦時宣伝による不運な犠牲者というべき特異例であろう。}(秦:「南京事件」,P47・P49)

<参考> 事件関係者のその後

中支那方面軍主要幹部のその後を以下に示す。(名前の後の階級、役職は南京戦当時のもの)

図表5.10 中支方面軍幹部のその後

中支那方面軍幹部のその後