日本の歴史認識南京事件 > 5.1.1 新聞・雑誌による報道

第5章 事件のあと

この章では、南京事件に関する各国の報道、事件後に起きたこと、太平洋戦争に向って突き進んでいく過程、さらには戦後の東京裁判で南京事件はどのように裁かれたのか、などについて述べる。

5.1 事件の報道

図表5.1 事件の報道

事件の報道

5.1.1 新聞・雑誌による報道

(1) 日本の新聞・報道

3.4節(9)にも記したように、日本の新聞は早くから南京陥落を報道し、祝賀ムードをあおったが、入城式や幕府山での大量捕虜獲得などの記事はあるものの、海外で報じられたような不軍紀行為の報道はなかった。陸軍による検閲などの報道規制があったため、軍に都合の悪いことは記事にできなかったからである。そのため、ほとんどの日本人は東京裁判で初めて南京事件を知ることになった。(報道規制の詳細は、6.2.4項を参照)

(2) 中国の新聞  出典:「南京事件資料集Ⅱ」,P14-P59  ◇*** は見出し(以下同様)

中国でもいくつかの新聞が南京事件を報道している。以下は、大公報註511-1の記事である。中国の新聞のニュースソースは、欧米の新聞や通信社などからの記事と、南京から脱出してきた中国人の情報が主たるものであったようだ。

12月13日
◇敵しばしば内への突入をはかるもみな失敗す
◇紫金山上でわが軍、高地によって砲撃
◇空軍も協同作戦をおこない、敵に重大な損害を与う

12月14日 蒋委員長は昨晩、前線より宣言を発表し、国軍は南京を退出するものの、引き続き敵軍の侵略に抵抗する決心であると声明した。

12月17日 敵軍は南京を占領した後、連日ほしいままに捜索し、気ままに殺戮しており、放火され焼却された城内外の建物はたいへん多い。

12月25日 牯嶺【クーリン】の外人側の情報によれば、敵軍は南京占領後、強姦・掠奪などあらゆる悪事を働き、わが国の難民の中の40歳以下の男子で惨殺されたものは5万人の多きに達しているといわれる。 … 日本政府はこの戦役のなかで、日本は中国人民を敵にするのではなく、中国の現政府を倒し、東亜の平和を樹立するためにたたかっているのだ云々としばしば声明している。 … 全世界は、この国家が中国人民との提携を欲しながら、まずその同朋を虐殺するという道理にもとる行動をとっていることに対して、驚きいぶかしく思うであろう。

1月22日 ノースチャイナ・デイリーニューズ註511-2は21日の社説で、南京の日本軍の軍紀が弛緩し、ほしいままに市民を虐殺していることを非難した。最近までに難にあったものはすでに1万人をこえ、11歳の幼女より53歳の老婦人まですべて汚され、強姦されたものはおよそ8千から2万人であり、掠奪事件は枚挙にたえない。

1月23日 日本政府当局のスポークスマンは、昨日、外国人記者を招待した席で、南京での日本軍の暴行についてのノース・チャイナ・デイリー・ニューズの論評は、悪意のある誇大な内容であり、実証する術がなく、かつ日本軍の名誉を損なったと非難した。イギリスのマンチェスター・ガーディアンの記者は、日本のスポークスマンと論争し、南京の暴行の情報はみな証明できると述べたが、スポークスマンは答えなかった。 …

2月11日 <社説> … 日本軍人の思想は高慢な民族主義を中心にしており、封建的な遺習を踏襲し、また好戦的で殺害を好む訓練を受けている。かれらは大和民族が世界に君臨する使命を持っていると自認し、とくにアジア民族は劣等で、日本だけがひとりすぐれているとみなしている。したがって、本質的に征服欲、殺戮欲が充満しており、人道的観念が根本的に欠如している。 …

7月21日 本紙が連載している血涙の文章こそは、李克痕君の「占領下南京5か月の記録」である。李君は南京の某文化機関に勤務していたが、去年12月に南京が陥落してからずっと南京にとどまり、今年6月初めに該地を離れた。この文章が写述しているものは、彼が5か月余の間に直接見聞した事実である。 …

(3) アメリカ、イギリスの新聞雑誌

ニューヨーク・タイムズのF.ティルマン・ダーディン記者、シカゴ・デイリー・ニューズのA.T.スティール記者は陥落時に南京にいたが、12月15日南京を離れて上海に退避し、そこから記事を発進し続けた。

(4) ニューヨーク・タイムズ  出典:「南京事件資料集Ⅰ」,P404-P441

12月13日 ◇米砲艦、日本軍の爆撃で沈没 死者1、負傷者15 …

12月15日 ◇30万市民から恐るべき死傷者か 報告なし、と日本軍
… 南京占領から2日近くたったにもかかわらず、不思議なことに日本陸海軍、大使館報道官はいずれも南京の状況に関する情報がまったくないと称している。

12月17日

◇本日南京に正式入城 … 昨日、日本軍は南京城内で1万5千人以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5千人がいると信じられている。

12月18日 F.ティルマン・ダーディン 12月17日、上海アメリカ船オアフ号発

◇捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う
南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。… 日本軍が南京城内の支配を掌握したとき、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も取り除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。 … ところが、日本軍の占領が始まってから2日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。 …

◇民間人多数を殺害

◇アメリカ外交官の私邸を襲う  アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。 … 安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。
上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド【埠頭】で200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。… この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。

◇南京陥落の惨事 … 無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。もっと直接的に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置きざりにして逃亡し、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に対し、ほとんど何の対策もたてていなかった。…

12月19日 F.ティルマン・ダーディン 12月18日発

◇外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる

◇それ弾、損害を与える … 安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は5万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された …

1月9日 F.ティルマン・ダーディン 上海12月22日発

◇中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為
南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。… 攻防戦は、全体としておおむね封建的、中世的なものであった。城壁内において中国軍は、市の中心から数マイルに広がる村落、住宅地、繁華な商業地区を大規模に焼き払って防戦し、占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、すべてがはるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。…

◇中国軍の焼き払いの狂宴 … 中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に2千万、3千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて数か月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。… 中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけ口であったようだ。…

◇外国人財産も掠奪される … 日本兵は中国婦人を好きなだけもてあそび、アメリカ人宣教師が個人的に知るだけでも、難民キャンプから大勢が連れ出されて暴行されている。日本軍部隊には、訓練され統制がとれているものもあり、また将校のなかには、寛容と同情の心をもって権力を和らげる者もいたというべきであろう。しかし、全体としての南京の日本陸軍の振る舞いは、国家の評判を汚すものであった。…

◇両軍の死傷者多数 … 死の南部および南西部から避難できなかった大勢の市民は殺害され、総計ではおそらく戦闘員の死亡総計と同数くらいにのぼるであろう。 … 南京攻防戦においては、双方の軍ともに、栄光はなきに等しかった。

(5) シカゴ・デイリー・ニューズ  出典:「南京事件資料集Ⅰ」,P464-P478

12月13日 ◇大砲が南京を集中攻撃、防衛は放棄さる

12月15日 A.T.スティール 米艦オアフ号より

◇日本軍、何千人も殺害 目撃者の語る"地獄の4日間"
… 南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸ちかくの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。・・・ 首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に較べたらおとなしいものだった。・・・

◇同情の機会を失う 中国人との友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている …

◇5フィートも積もる死体 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく5千から2万の間であろう。・・・

◇米公使宅襲撃さる 日本軍の略奪はすさまじく、それに先立つ中国軍の略奪はまるで日曜学校のピクニック程度のものであった。…

12月17日 A.T.スティール 南京、12月14日発(遅着)

◇激烈な南京砲爆撃

◇兵士たちは服を脱ぎ捨てる

◇無力な住民が突き刺される 私は日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た。また病院では、大勢の市民が銃剣創傷で苦しんでいるのを見た。また街路という街路に死体が散乱しているのを見た。その中には人に損害を与えたとはとても思えない数名の老人も含まれていた。…

12月18日 A.T.スティール 上海、12月18日発

◇南京のアメリカ人の勇敢さを語る  南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人の勇気ある活動がなかったら、状況は限りなくもっと恐ろしいものになっていたであろう。

2月9日 レジナルド・スウィートランド 上海、2月9日発

◇日本は南京での略奪に関して軍人10名を処罰す
南京占領軍の10名以上の軍人が軍紀紊乱の件で軍法会議を受け、重罰に処せられた旨、本日、当地日本代理大使から発表があった。かれらの犯した罪はこの前首都における中国人・外国人財産を襲撃・掠奪したことである。

(6) ワシントン・ポスト  出典:「南京事件資料集Ⅰ」,P516-P520

12月17日 ◇中国人男子大量処刑 蒋、抗戦継続を訴え
少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑された、とメンケンは言った。だが、日本側報道が南京城東の中華民国の父孫文の大陵墓は無傷のままだとするのは、そのとおりだと認めた。・・・
南京から駆逐された政府指導者蒋介石は、華中のいずれかにある司令部から、重大な損害を受けつつも抗戦を継続するように国民に呼びかけた。…

※メンケン: パラマウント・ニュース映画のカメラマン、アーサー・メンケン。陥落時に南京に残った5人の外国人記者のうちの一人。

1月12日 本社東京特派員による
日本の消息筋によると、中支那方面軍司令官松井石根は、まもなくその地位を辞任する予定である … 松井大将の更迭は、日本陸軍の波乱多き年代記のなかでも最も驚愕すべき一章にクライマックスを与えるであろう。それはまた、無知で無統制の愛国主義の危険性に証明を当てるのに役立つであろう …

(7) タイム(アメリカの週刊誌)  出典:「南京事件資料集Ⅰ」,P543-P544

2月14日号 「中国における戦争」
シカゴ・デイリー・ニューズは極東のエース特派員A.T.スティールから遠隔の地の"南京虐殺"に関する重大な証言を受信した。…
「私はかつてヨーロッパの地で、野兎を追うのを見たことがある。ハンターの一群が、あわれな兎を檻の柵に追い込んで、なぐり殺したり銃で撃ち殺したりしたものである。日本軍が南京を占領してからの光景は、いけにえは人間であるのが違っていたが、これと非常によく似たものであった」
「日本軍にとってこれが戦争というものであろうが、私の目には殺人としか映らなかった」
最も確かな推定としては、南京での日本軍による処刑は2万人、上海・南京戦で殺害された中国兵は11万4千人、このときの日本兵の死者は1万1200人である。

(8) ロンドン・タイムズ  出典:「南京事件資料集Ⅰ」,P503-P505

12月18日 ◇勝者の蛮行  ◇パニック状態の中国軍 …

◇残酷な捜索 … 日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した。火曜日、日本軍は中国兵と全く関係のない者を組織的に捜索し始めた。そして兵隊の嫌疑をかけられた人を難民キャンプから連行し、また路上を徘徊している中国兵を残らず捕えた。日本軍に進んで投降したであろうこのような兵士を見せしめとして処刑したのである。

◇看護婦からの強奪 … 日本兵は住宅を軒並み捜索し、目抜き通りに面する家からは、根こそぎ略奪を犯し、商店に押し入り、腕時計、柱時計、銀食器など持てるものは一切持ち出し、この略奪品の運搬を苦力に強制した。さらに大学病院に来ては、看護婦から腕時計、万年筆、懐中電灯を奪い、建物を隈なく荒らし、そして車についているアメリカ国旗を剥ぎ取って車を奪っていった。… 兵士だったと思われる若者や多数の警官が一堂に集められて処刑されたのが、後に死体の山となって確認された。通りにも死骸が転がっており。そのなかには罪もない老人の死体があった。しかし、婦人のそれは見当たらなかった。…


5.1.1項の註釈

註511-1 大公報

{ 大公報は、1902年に天津で創刊された新聞で、南京国民政府成立後は、基本的には国民政府を支持する立場をとりながらも、不偏不党の看板をかかげて、ブロジョアジー、小ブルジョアジー、知識人の支持を受けた。… 日本軍の圧迫を避けるために1935年末に上海に支社を開設して上海版を発行しはじめ、日中全面戦争勃発後は、漢口で、ついて重慶で発行をつづけた。本書に収録した記事は漢口で発行されていたときのものである。}(「南京事件資料集Ⅱ」,P6)

註511-2 ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ

上海で発行されていたイギリス系の英字紙。