日本の歴史認識南京事件 > 4.7.6 中国側の推定

4.7.6 中国側の推定

以下は、主として 藤原彰編:「南京事件をどう見るか」,P78-P81 <南京大虐殺の規模を論じる 孫宅巍> に基づいている。

(1) 推定方法

中国側(孫宅巍氏)は、下記のように大規模な「集団虐殺」と中小規模の「散発的虐殺」から犠牲者数30万人を主張する。根拠とするものは被害者などの証言と埋葬記録である。

①集団虐殺; 千人以上の大規模な事件が10回あり、その犠牲者合計はおよそ19万人である

②散発的虐殺; 数百人以下の規模の事件で殺害されたとみられる遺体が8万4千体確認されている

③それ以外にも記録されない事件や埋葬があるので総計は30万人以上になる

(2) 集団虐殺

図表4.31は、中国側が主張する「集団虐殺」の一覧である。南京市分史資料研究会(「証言・南京大虐殺」が翻訳本)と孫宅巍氏で、犠牲者数合計は同じだが、対象とする事件が異なる上に、日本側記録との対応がつきにくいものが少なくない。犠牲者数などは、事件の被害者もしくは目撃者の証言に依存しており、全般に日本側記録より大きくなっている。

図表4.31 中国が主張する「集団虐殺事件」

中国が主張する集団虐殺事件

・No.1,3~7は、歩7連隊が行なった安全区掃蕩の一部とみられる(図表4.18のNo.15)。犠牲者数は日本軍の公式記録では6,670人であり、中国側主張の半分以下である。

・No.2,10,11は、幕府山事件に対応すると思われる。No.10は魯甦という中国人が目撃しているが、小野賢二氏は「57,418名は怪しい」と述べている註476-1。No.2は幕府山事件の第一次処断と状況は似ているが、犠牲者数は日本側記録よりかなり多い。No.10に該当する事件は日本側の記録には気配すらないので、No.2と同じ事件を別の証人が見たのかもしれない。
なお、この3件合計13万人を一人1mのスペースで巾30メートルの道(東名高速の3車線区間の全幅)に座らせると長さは約4.3キロにもなる。上元門から燕子磯公園までが5.6キロなので、幕府山の揚子江側沿い裾野のおよそ8割が死体で埋め尽くされたことになる。

・No.12は、13日朝、歩45連隊第11中隊と脱出しようとした中国軍との戦闘ではないかとみられる。

・No.8,9,13は、日本側に対応する記録が見当たらない。

(3) 散発的虐殺

{ この他にも、規模は異なるが散発的な虐殺事件が870回あまりある。1回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多い時には数十人から数百人だ。3つの比較的大きな慈善団体である紅卍会、崇善堂、赤十字社の遺体埋葬記録のなかには、上述した10回の大規模な虐殺地点での数字以外に、紅卍会では27回の虐殺、合計11,192体の収容・埋葬、崇善堂には17回の虐殺、合計66,463体の収容・埋葬、中国赤十字社南京支社には18回の虐殺、合計6,611体の収容・埋葬、総計84,266体の埋葬記録が残されている。}(「南京事件をどう見るか」,P79)

(4) 埋葬者数

中国が主張する犠牲者数30万人の有力な根拠が埋葬者数である。孫宅巍氏は遺体は次の5つのルートで埋葬、処理されたという。

①安全区国際委員会
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の極東国際軍事裁判で証言したとき、南京陥落後72時間以内に「国際委員会の雇った労働者」が埋葬した軍人、市民の遺体は3万体に達した」と語っている。

②慈善団体によるもの
これらの団体が収容・埋葬した遺体は18万5千体あまり、うち、紅卍会43,123体、崇善堂112,267体、中国赤十字社南京支社22,683体、同善堂7,000体あまり。

③市民埋葬隊によるもの
彼らは合計36,000体あまりを埋葬。うち湖南の材木商盛世征、昌開運が出資して行った水西門外の遺体収容が28,730体、城南市民の芮芳縁、張鴻儒、楊広才が難民を組織して、中華門外の7,000体あまりを収容、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した回教徒の遺体は400体あまり。

④傀儡政権によるもの
傀儡南京市政府の市、区の両級機関の協同組織が7,400体を収容・埋葬。うち、傀儡第一区役場が1938年2月に同区の所轄内で1,233体を収容、傀儡南京市政公署の監督官高冠吾が1938年12月から39年の春にかけて衛生局に命じて収容した中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体あまりを収容。

⑤南京進駐日本軍によるもの
日本軍捕虜の太田寿男の供述によると、日本軍は部隊を動員して合計15万体を焼却・処理した。うち南京停泊場の司令部の安達少佐と太田寿男が率いた部隊は10万体を長江に投げ捨てたり、江北に運んで焼却・土中に埋めた。南京に侵攻した部隊の処理したのは5万体。

以上をまとめて孫宅巍氏は次のようにしめくくる。

{ 上述した【①~⑤の】遺体収容・埋葬処理のデータは、単に加算すると40万体前後にのぼる。しかし、上述した遺体収容・処理には重複が避けられないし、交戦中に戦死した中国軍兵士の遺体は控除することを考慮すると南京大虐殺の犠牲者数は“30万人以上”としか限定できないが、これには疑問の余地はない。
… 研究の結果、南京陥落直前の住民の人口、駐留軍人および流動人口の総計は60万~70万人と証明されている。しかし、大虐殺を経た1938年の春の生存人口は約30万人でしかなかった。死者の数を故意に少なくしても、故意に多くしても、いずれも実状に符合しないということをこの事実が証明する。}(「南京事件をどう見るか」,P80-P81)

(5) 30万は政治的数字?

秦氏は次のように述べている。

{ ドイツの週刊誌「シュピーゲル」(44号,1997)が書評欄で「中国がこの数字を握りしめて放さないのは、文化大革命で毛沢東主義者が自国民にやってのけた"大量虐殺"から目をそらせる効果を狙ってのことだろう」と評した …}(秦:「南京事件」,P293)

{ 2007年1月に東京財団の招きで中国から来日した二人の南京事件研究者(程兆奇、張連紅)が公開講演で、犠牲者30万は「政治的数字」で「正確な人数は確定できない」と述べたことが新聞報道された。30万の数字は中国の金科玉条と受けとめられていただけに、関係者の間では、波紋を呼んだ。著者も会談する機会があり、両人が実証主義を強調していたのが印象的だった。}(秦:「南京事件」,P324)

秦氏はこのあと、(中国でも){ 南京事件が歴史研究の領域に編入される日は遠くないと思われる。}(同上,P324) と期待しているが、10年たった今でも変わっていないどころか、国家による統制は強まっているようにみえる。


4.7.6項の註釈

註476-1 魯甦の証言に関する小野賢二氏のコメント

{ 魯甦証言は極東国際軍事裁判に検察側より提出された。

「敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及び男女老幼合計57,418人を幕府山付近の四、五箇所村に閉込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。1937年12月16日の夜に到り、生残せる者は鉄線を以て一つに縛り4列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追ひやる。然る後、機銃を以て悉くこれを掃射し、更に銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり」

捕虜の置かれた状況や、虐殺状況は山田支隊の捕虜の状況と酷似している。だが、問題は日付と捕虜を収容した場所と捕虜の数である。… 山田支隊の捕虜虐殺と魯甦証言は虐殺日も、捕虜収容所の位置も決定的なちがいがある。【山田支隊の記録では虐殺日は17日】 … 魯甦証言の「57,418人」については加害者側からの調査が進まないかぎり明確にはならないのではないだろうか。 }(「南京事件をどう見るか」,P66-P70)

<参考>57,418人をサッカーのピッチに並べると…

サッカー場のピッチの大きさはスタジアムによって多少異なるが、埼玉スタジアムの大きさは68m×105mである。一人縦1m,横1mのスペースで遺体をビッシリ横たえたとすると、ピッチ1面には7,140人を並べることができるので、57,418人を並べるには約8面分が必要になる。大きさにすると、巾68m、長さ840mにもなり、周囲を1周するのに速足で歩いても20分はかかる。とても一人で遺体数を数えられるようなものではない。