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4.7.5 埋葬記録

東京裁判の判決では、埋葬者数を犠牲者数推定の重要な傍証としている。

{ … これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P396 <南京暴虐事件に対する判決>)

史実派および中国側は埋葬者数を重視して犠牲者数を推定しているが、中間派は参考程度にしかみていない。

(1) 埋葬者数の時系列的分析

史実派の井上久士氏などによれば、埋葬を行った団体は6つほどある註475-1が、そのうち笠原氏が埋葬者数の推定に使用したとみられる4団体(紅卍会、崇善堂、紅十字会、南京市自治委員会<市衛生局>)の記録を時系列的に整理したのが図表4.27である。

このうち紅卍会のデータは比較的信頼度が高いといわれているが、崇善堂の埋葬数は4月分10万体が不自然で信頼度は低いとする研究者が多い。

図表4.27 埋葬団体別月別埋葬者数

埋葬団体別月別埋葬者数

注1) 「南京事件資料集Ⅱ」,P262-P276 の埋葬団体別埋葬者数を月別にまとめなおした。

注2) 市衛生局の1938年1~4月の月別データはない。

(2) 埋葬者数の地理的分析

図表4.28は、遺体を収容した地域別に集計した表(a)と、崇善堂の埋葬量を肯定する笠原氏と中国の孫宅巍氏がピックアップした個別事件(図表4.18,図表4.31)の犠牲者数を地域別に集計した表(b)を並べて表示したものである。

崇善堂が主として収容した地域は東部、南部、西部であり、この3地域で収容した遺体総数は12.6万余になる。しかし、笠原氏がピックアップした個別事件のうち同地域で発生した事件の犠牲者数は城内や場所不明を含めても2万7千、戦死者2万(図表4.20)がすべてこの地域で死んだとしても死者は合計で4万7千にしかならない。残り8万弱もの犠牲者の記録が見当たらないのである。

また、孫宅巍氏がピックアップした"集団虐殺"も北部に偏っており、西部と南部には3万9千があるだけである。"散発的虐殺"つまり1回の虐殺数が数十人から数百人規模の小規模事件の犠牲者数は8万4千人だが、これは埋葬者数から算出しているので、埋葬者数の信憑性を裏付けるものではない。

このように地域別犠牲者数と比較してみても崇善堂の埋葬記録には疑問があるといわざるをえない。崇善堂の埋葬者数に疑問があるということは、その埋葬者数を重要な根拠としている論者の犠牲者数推定にも疑問があるということになる。
ただし、東部と南部では崇善堂以外の埋葬者数は少ないので、崇善堂がこの地域でそれなりの死体数を埋葬したのは間違いなさそうである。

図表4.28 埋葬者数と犠牲者数の地域別状況

地域別埋葬者数

注1) 出典は図表4.27と同じ。

注2) 地域は次のように定義した。

北部; 幕府山周辺、下関、八卦洲、江心洲等、三叉河手前まで

東部; 概ね大平門~光華門より東側、紫金山、馬群あたりまで

西部; 三叉河、上新河、漢西門、水西門付近

南部; 中華門、通済門付近から雨花台、花神廟、方山附近まで

注3) 紅卍会と崇善堂の埋葬記録には一部を除いて埋葬地のほかに収容場所も記載されている。収容場所のない記録および紅十字会の収容場所は埋葬地と同じ地域とした。

注4) 表(b)の笠原説の犠牲者数は図表4.18、戦死者数は図表4.20より、孫宅巍説は図表4.31より集計したものである。

(3) 城内の埋葬数  水間政憲:「完結 南京事件」の問題

水間政憲氏の著作「完結 南京事件」では、城内に"埋葬"された遺体は1793体(うち女性8体、子供26体)で、民間人は34人しかいないとされ、これが南京事件はなかったことの決定的証拠のひとつだという。1793体という数字は1938年4月16日付け『大阪朝日新聞』の記事をもとにしていると思われるが、この1793体(原表は集計計算が誤っており正しくは1795体)は3月15日までに紅卍会が城内に"埋葬"した数であり、城内で"収容"した遺体は3月16日以降を含めて4758体(うち女性78体、子供46体)になる。また、水間氏は女性と子どもだけを民間人としているかのようにみえるが、当然、男性の民間人もたくさんいる。

※ 「13のウソ」は次のように記している。 { 『大阪朝日新聞』の「北支」版1938年4月16日付けに関連記事がある。同記事によれば、紅卍会と南京市自治委員会と日本山妙法寺の僧侶が遺体埋葬に従事していて、「最近までに城内で1,793体、城外で30,341体を片づけた。…」}

この[完結 南京事件」には、他にも山ほどの誤りがあり、小論報「南京事件は完結したか…」にまとめたので、ご興味ある方はどうぞ。

(4) 埋葬記録と犠牲者数

ここでは、埋葬者数と個別事件の積み上げなどから算定した犠牲者数の関係について各説の妥当性を検証してみる。
理論的には死者数と埋葬者数は一致するが、ともに推定値であり、ズレが生じる。しかし、埋葬者数にはダブリもあるが、揚子江に流してしまった遺体など記録のない処分が多数あるので、死者数の方が埋葬者数より多くなるはずである。であれば、推定した死者数が埋葬者数より少ない場合は、どちらかの推定に誤りがあるとみてよいだろう。
図表4.29は各説の論者が推定した死者数と埋葬者数を比較したものである。

図表4.29 死者数と埋葬者数の検証

死者数と埋葬者数の検証

※1 埋葬者数: 中間派各氏(板倉/南京戦史/秦)は板倉氏の推定値による註475-2。笠原氏は、{ 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は188,674体になる。 }(笠原:「南京事件」,P227) としている。

※2 戦死、(捕虜等の)処断は、図表4.20による。

※3 病死等は、スマイス調査(農村部)における病死率(=3.8人/千人)に南京周辺の人口(中間派は30~50万人)、笠原氏は50万人を掛けて算出。

※4 市民の殺害者数は図表1.3による。

※5 評価 ○; 死者数>埋葬者数 △; 死者数<埋葬者数 の可能性あり

(5) 埋葬者数vs犠牲者数_中間派

中間派は、崇善堂の1ケ月で10万体という埋葬はあり得ない、として、南京戦史や板倉氏は犠牲者数推定に埋葬者数は使っていない。秦氏も死者数の下限値として4万という数字を目安にしている程度である。
中間派の各研究者は死者数が埋葬者数より十分に大きいので、揚子江に流してしまった死体や他の記録が残っていない埋葬を考慮しても論理的には辻褄があう。

(6) 埋葬者数vs犠牲者数_史実派

埋葬者数は南京城周辺だけを対象としているが、笠原氏は近郊6県を含む犠牲者数を「10数万以上、それも20万近いかそれ以上」、「そのうち、近郊県は3万以上」と推定しているだけで、南京城周辺での犠牲者数は具体的に提示していない。そこで、笠原氏の主張する埋葬者数189千人をもとに、埋葬者数のダブリ補正値と記録外埋葬者数を変数として、南京城周辺の犠牲者数を試算し、犠牲者総数とのバランスを検証してみた。
すなわち、埋葬者数のダブリと記録外埋葬者数に想定し得る仮の値をおいて実態埋葬者数を算出し、それと同数になるよう死者数を調整する。戦死と処断及び病死等の死者数は笠原氏が推定した値などから設定できるので、それ以外の死者数を市民の殺害者数として算出する。

その結果、「近郊県を含めて10数万」という数字が成立するのは、埋葬者のダブリが30%(57千人)以上で、かつ記録外埋葬者が15千人以下しかないときしかない、ということになった。ダブリが30%もあるというのは、埋葬記録の信頼性が極めて低いということであり、記録外埋葬者数が15千人しかないというのは、死体の多くが揚子江に流されたと思われる幕府山(2万人)、長江渡江中殺戮(3万人)という笠原氏が推定する犠牲者数と整合がとれなくなる。

つまり、埋葬者数を189千人とすると、犠牲者数は「10数万以上」を削除して単に「20万近いかそれ以上」としないと数字のつじつまがあわないのである。笠原氏は、{ 個人の犠牲の悲劇を考えれば、1万人、4万人、20万人、30万人であったかどうかという数の問題はあまり意味を持たない。}(「13のウソ」,P83) というが、"史実派"を語るのであれば、数字の論理的整合性は確保すべきであろう。

図表4.30 埋葬者数からの犠牲者数試算

埋葬者数からの犠牲者数試算

注1) 戦死<A>及び処断<B>の数値は、笠原:「南京事件」,P223,P226による

注2) 病死等<C>は、スマイス報告(農村部調査)における病死率千人あたり3.8人に南京城周辺の人口50万(笠原:「南京事件」,P220)を掛けて求めた。

注3) 市民の殺害者数<D>は、死者数合計<E>=埋葬者者数合計<Z>、とした上で、死者数合計<E>から戦死<A>、処断<B>、病死等<C>を差し引いた数とした。

注4) 埋葬記録<W>は、笠原:「南京事件」,P227による。

注5) ダブリ補正<X>は、遺体の埋め直しや埋葬団体間でのダブリなど。実数は不明。埋葬者数全体の10%,20%,30%の各値で試算した。

注6) 記録外埋葬者数<Y>は、長江に流した遺体など埋葬団体の記録に残っていない埋葬数。上表では、以下により推定した。笠原氏の事件別犠牲者数(笠原:「南京事件」,P224-P225表1)のうち、長江に流された可能性のあるものを、幕府山捕虜殺害(約2万)、長江渡江中殺戮<海軍>(約1万)、長江渡江中殺戮<陸軍>7~8千、佐々木支隊敗残兵殺戮など(2万超)の合計約6万とし、うち実際に流された数を4分の1(15千)と半分(30千)の2種類について試算した。(この数が多いと南京城周辺での殺害者数はさらに増加する)

注7) 犠牲者数(近郊県)は、笠原氏が{ 南京近郊区4.5県の農民の死者は3万人を超えると推定される。}(「南京難民区の百日」,P387)と述べていることによる。


4.7.5項の註釈

註475-1 埋葬を行った団体

井上氏は埋葬を行った団体として次のような団体をあげている。この中には他の団体の下請けとして活動したものも含まれる。(団体名のあとのカッコ内は埋葬者数概数)

①紅卍会(43千余); 「道院」という新興宗教団体の社会事業実行機関。南京では日本軍の支援も受けて遺体の埋葬にあたり、埋葬記録は最も信頼できる、と言われている。

②崇善堂(11万余); 中国にあった「善堂」とよばれる一種の慈善団体のひとつ。崇善堂が東京裁判に出した埋葬記録によれば、12月から3月までが月に1000体から2500体であるのに、4月1ケ月で10万体以上を処理していることになっていることから、信頼性を疑われている。

③紅十字会(22千余); 紅十字会は日本の赤十字にあたる組織で、国際委員会に協力して難民収容所で粥を提供したりしてきた。1月に日本軍の許可を得て埋葬活動をはじめた。

④南京市自治委員会<市衛生局>(9千余); 1938年1月に日本軍が設立した自治委員会も埋葬活動をした。多くは紅卍会と一緒に活動していたが、衛生局埋葬隊だけは独自に活動していたらしい。

⑤同善堂(7千余); 崇善堂とおなじく南京にあった「善堂」のひとつ。1946年の南京軍事法廷で7,000余体を埋葬した、と証言したが真偽のほどは定かでない。

⑥イスラム教埋葬隊(100余); 南京には約4万人のイスラム教徒がおり、それら教徒の犠牲者を埋葬するために埋葬隊が組織された。

⑦その他、個人で埋葬したと証言する者が数人いた。

⑧日本軍による死体処理(数量不明); 南京陥落後、日本軍も中国軍の遺棄死体や処断した死体の処理を行った。処理のしかたは塹壕などに埋めたり、焼却したり、あるいは揚子江に流したり、様々である。当時南京碇泊場司令部所属だった太田寿男少佐は、「南京事件で処理した死体総数は、碇泊場司令部が担当したもの約10万、進攻部隊が処理したもの約5万の計15万であった」と、戦後の裁判で証言しているようだが、史実派の井上氏もこの証言には疑問がある、と述べている。

註475-2 板倉氏の埋葬者数推定

{ 埋葬死体数は両団体【紅卍会と崇善堂】あわせて計15万5千体という数字が良く引用される。この数字は、一般住民の戦闘、病気による死者に、おそらく戦死した兵士も含むが、記録の正確性に疑問があり、板倉氏はそれを加減して39,859体と算出した。これは国際委員会のベーツやスマイスが利用した約4万人とほぼ合致している。 … ただし、葬儀団体の手にかかっていない死体もあるので、この数字は死者数の下限を示す参考データにしかならない。}(秦:「南京事件」,P212-213)