日本の歴史認識南京事件 > 4.5.5 終息期(2/7~)

4.5.5 終息期(2/7~)

(再掲)図表4.5 市民への暴行

市民への暴行

(1) 松井総司令官の涙の訓示

2月7日、南京で慰霊祭が行われ、松井総司令官はいわゆる「涙の訓示」を行った。それは次のようなものであった。

{ 松井最高指揮官が、つと立ち上がり、朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説をはじめた。… 「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも凛として将兵らを叱っている。「何たることを、おまえたちはしてくれたのか。皇軍としてあるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それがまた戦傷病者への供養となるであろう」云々と、切々たる訓戒のことばであった。}註455-1(松本重治:「上海時代(下)」,P371)

松井総司令官の前日の日記をみると難民の帰還問題や軍紀の問題に悩んでいる姿が見える。以下は現代文に要約したものである。

{ 中国人の帰宅が進まない要因の一つに日本軍への恐れがあるが、それを理解していない守備隊が多い。軍紀風紀の弛緩は回復せず、幹部は情実や姑息な手段に逃げている。軍自らが住民の宣撫工作【住民を安心させるための活動】を行うのは無理があるかもしれない。夜、朝香宮殿下と会食した。殿下は、軍紀風紀の問題は16師団長以下の言動によるところが多いと言われたが、自分も同感だ。}註455-2

(2) 中支那方面軍の改組

陸軍参謀本部は2月上旬に持久戦になるという肚を決め、新たな作戦をせずに、軍の再編、軍紀粛正に専念することを決めた。参謀本部の河邉虎四朗作戦課長は次のように語っている。

{ 私達の方針として8月まで絶対に新作戦をしないと云ふのを原則として此方の態勢を固める為に専ら兵団の整理、軍紀粛正をしなければならない。南京あたりで変な事が出来た後でありますから其の悪い連中を帰して独立混成旅団が4つか5つか出来て来るからさうしたら之等を入れ替へて新鮮なはつきりした軍隊を8月迄に作り直すのだと云ふつもりで… }(「南京戦史資料集2」,P222 <河邉虎四朗少将回想応答録>)

2月14日、中支那方面軍は中支那派遣軍に改組され、軍司令官も畑俊六大将に交代、松井総司令官は解任され召集解除となった。以下は、畑俊六大将の1月29日の日記である。

{ 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く頽廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれば、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。此意見を大臣に進言致しをきたるが、… 意外にも2月5日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、… }(「南京戦史資料集2」,P189 <畑俊六日誌>)

改組、異動の通知を受けた松井総司令官は日記に不満をもらしている。

{ 2月10日 東京より使者来着、新中支那派遣軍司令部編成要領と人事の書類を持ち来る。畑大将新司令官に、川辺少将参謀長に予定せられ、其他は現在方面軍及両軍のものを適宜充当せるものなり。予の離任は、実際自負に非るも時機尚早なる事は、万人の認むる所なるへきも、中央陸軍部の妄、如此ては、予か徒に留任するも其効果少く、寧ろ帰朝して各方面と接衝して今後の対支那政治と軍事政策を根本的に立直す事緊要なりと考へ、寧ろ喜て離任の覚悟を定めたり。}(「南京戦史資料集」、P41 <松井日記>)

※河辺虎四朗作戦課長の兄、河辺正三のこと

(3) 安全区国際委員会の終息

2月18日、安全区国際委員会は以後その活動を「南京国際救済委員会」の名においてすることに決定し、関係大使館などに通知した。この通知文書が「南京安全区档案」に掲載された最後の文書となった。名称変更した理由については、「その方が我々の現在の職務にふさわしいから」とだけしか言っていない。

委員長のラーベもシーメンス社の指示により、2月23日に南京を去る。「南京国際救済委員会」の委員長は引き続きラーベが務めるものの、実質的にはミルズがその役割を担うことになった。

ラーベは、上海まで行く申請を日本大使館に出したあと、釘をさされたことが日記に書かれている。

{ 2月10日 昨日の夕方、福井氏【南京領事】が訪ねてきた。… なんと、氏は脅しをかけてきた。「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」 }(「南京の真実」,P274-P275)

ラーベが南京を去るにあたって、多くの中国人から感謝の言葉が寄せられ、2月21日には盛大な送別会が催された。 ラーベがこのあと、南京に戻ることはなかった。

(4) その後の南京

中華民国維新政府の成立

{ 3月28日、中支那派遣軍の工作により中華民国維新政府が南京に成立した。これにより、南京自治委員会は解散となり、南京市政公署に改編された。}(「南京難民区の百日」,P372)

安全区の閉鎖

{ 日本軍当局が、残っていたいくつかの難民収容所をふくめて最終的に南京難民区を閉鎖したのは1938年5月末であった。}(「南京難民区の百日」,P375)


4.5.5項の註釈

註455-1 涙の訓示

松本重治氏はこの松井総司令官の訓示は12月18日の慰霊祭で行われたと書いているが、2月7日の誤りである。2月7日に同氏は南京にいた形跡はないので、この話は部下の記者から聞いて書いたものかもしれない。飯沼日記にも次のように記載されている。

{ 2月7日 … 1・30より派遣軍慰霊祭、終て松井軍司令官より隊長全部に対し次の要旨の訓示あり。南京入城の時は誇らしき気持ちにて其翌日の慰霊祭亦其気分なりしも本日は悲しみの気持のみなり。其れは此五十日間に幾多の忌はしき事件を起し、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたれはなり、何を以て此英霊に見へんやと言ふに在り。殿下亦御列席=殿下に対し奉り誠に申訳なき気持にて帰来早速御断を申上く }(「南京戦史資料集」,P246)

註455-2 松井総司令官 2月6日の日記(原文)

{ 2月6日 朝8時出発汽車にて南京行。… 支那人民の我軍に対する恐怖心去らす、寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因なるも、我軍に対する反抗と云うよりも恐怖・不安の念の去らさる事其重要なる原因なるへしと察せらる。
即各地守備隊に付其心持を聞くに、到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論、本事件の根本の理解と覚悟なきに因るもの多く、一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす、各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り、軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至りなり。
6時南京着、直ちに大使館に投し、夜朝香宮殿下の御招宴に列す。… 尚軍紀風紀問題に就而は、矢張第16師団長以下の言動宜しからさるに起因するもの多き旨語られ、全く従来予の観察と同様なり。}(「南京戦史資料集」,P38-P39)