日本の歴史認識南京事件 > 4.4.4 兵民分離

4.4.4 兵民分離

(再掲)図表4.4 安全区の掃蕩

安全区の掃蕩

(1) 16師団による南京警備

南京周辺の掃蕩戦は17日の入城式までにピークを越え、19日以降、16師団以外の部隊は次々と南京を去って、次の戦場に転進していった。以下は、主な転進先である。(「南京戦史」,P383)

12月21日、16師団は南京警備を命ぜられた。南京城内を含む西部地区警備司令官には第30旅団長の佐々木到一少将が任ぜられ、湯水鎮、句容などの東部地区警備は第19旅団が担当することになった。

(2) 敗残兵によるゲリラ活動

陥落後も日本軍は敗残兵によるゲリラ活動に悩まされた。

{ 南京陥落後も城内で激しいゲリラ戦活動があり、日本軍はどこからか襲ってくる中国人のゲリラを恐れていたという。日本兵は単独行動を絶対とらず、集団で行動し、ゲリラに対処した。それでも市内のあちこちで日本兵は被害にあった。彼らはピストルで撃たれたのではなく、刺し殺されたという。安全区に残り最後まで負傷兵の救援にあたっていた中国人軍医蒋公殻は、「近頃、わが遊撃隊は城壁まで接近した。猛烈な反撃で夜でも砲声が聞こえてくる。私たちは砲声の大きさによって遊撃隊がどこにいるのか見当をつけたものだ」と、1938年1月5日付けの日記のなかで、陥落から半月以上たったあとも市内でゲリラ戦があったことを記述している。}(滝谷二郎:「目撃者の南京事件」,P42)

(3) 兵民分離

敗残兵を摘出する一方で、市民には安居証と呼ばれる身分証明書を発行した。安全区の避難民を含む南京市民全員を対象に、敗残兵と市民を分別する「査問」が12月24日から1月5日まで行われた。
査問のやり方について秦氏は次のように述べている。

{ 中沢第16師団参謀長は東京裁判に提出した口供書で、「日支人合同で委員会を構成し、日支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」と述べているが、師団副官宮本四朗大尉によると「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短ズボンか制服なので太股に日焼けの跡がある――紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」とニュアンスが変る。見分け方の基準も太股の線ばかりでなく手のタコ、軍帽でひたいにできる日焼けの線、坊主刈りなどで判定した場合もあったようだ。そのかわり婦女子が泣きついて、近所の住人だと証言したり、日本人新聞記者が、使用人の親族だからともらいさげを頼むと、放免する例もないわけではなかった。第9師団の査問に比べると、査問委員会を作って師団参謀や司令部将校を当て、歩38を中心とする選抜チームに補助させるなど、多少の改善は見られるが、識別法はあい変らず杜撰なものであった。}(秦:「南京事件」,P166-P167)

(4) 外国人の目撃した兵民分離

安全区国際委員会のM.S.ベイツ(金陵大学教授)は、この「査問」の状況を目撃し国際委員会の第50号文書に記しているが、その要約を笠原十九司氏の著書から引用する。

{ 12月26日に金陵大学のスワジイ記念堂の下にあるテニスコートに、およそ3000人の男性が集められた。日本軍将校の指揮下にある中国人によって何度か繰りかえして演説がなされた。その趣旨は、「以前に兵隊であった者、または強制労働をやった者はみな後尾に移れ、もしお前たちが進んで自首するなら生命は助けてやるし、仕事を与えてやるが、そうでなくて検査でみつかったならば銃殺される」というものだった。… その演説に応えて2~300人の男が進み出た。ベイツが知るかぎりでは、彼らの多くがかつて一度も兵隊になったことのない者であることは確実であった。なぜ、名乗り出たのか、その場にいた中国人にたずねると、恐怖にかられたか、強制労働という言葉を誤解したかであろう、とのことだった。
ところが、夕方近くになると、ひどく粗野で愚鈍な感じの憲兵隊長が現われ自首した2~300人の男性を連行していかせたのである。その夜、彼らは数グループに分けられ、難民区の西に隣接する五台山と漢中門外の運河に連れていかれ、刺殺また銃殺されたのである。
翌朝、その生き残りが鼓楼病院に救護をもとめて逃げ帰ってきた。彼は下関の電話会社の職員だった。彼は、銃剣刺殺の練習台にさせられたが、傷はさいわい急所をはずれていた。}(「南京難民区の百日」,P319-P320)

(5) 安居証の発行

市民であることを証明する安居証は約16万人分が発行された。国際委員会の第41号文書に次のように記載されている。

{ 我々は、貴軍が10才以下の子ども及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しています。すると、当市の人口は多分25万から30万ということになります。}(「安全地帯の記録」,P247)

(6) 犠牲者数と各派の見解

佐々木到一少将の1月5日の私記には摘出した敗残兵約2千名を旧外交部に捕虜として収容、ほかに外国宣教師の管理下にあった負傷兵(約500名)も同様に捕虜として収容した、とある。

{ 1月5日 査問会打切、此日までに城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。}(「南京戦史資料集」,P382)

南京戦史は、上記佐々木私記のとおり、2500名を捕虜として収容、としているが、秦氏は{ 便衣兵と判定された中国人たちは、下関などで処刑された … }(秦:「南京事件」,P167) として、この時期の処刑風景の目撃証言を掲げ、2000名を犠牲者数にカウントしている。

史実派は4.4.5項の城外掃蕩も含めて、{ 年末から新年にかけて実施された「敗残兵狩り」によって、少なくとも数千の男子、それも元兵士の嫌疑をかけられた一般市民が多く虐殺された。}(笠原:「南京事件」,P206-P207) と述べている。

否定派(東中野氏)は読売新聞の記事を根拠に敗残兵は釈放された、としている。

{ 昭和13年1月10日の読売新聞は … 《敗残兵一掃のため行はれた難民調査は暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名とその他の者は安民居住の証を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった》 と記している。佐々木旅団が旧外交部に収容したという約2千名の中国兵は『読売新聞』の言う敗残兵1600名のことであったろう。彼らは安居の証を与えられ、市民生活に復帰していたのである。}(「再現 南京戦」,P324)