日本の歴史認識南京事件 > 4.3.4 (幕府山)残った捕虜の殺害

4.3.4 残った捕虜の殺害

(再掲)図表4.3 幕府山の捕虜

幕府山の捕虜

(1) 栗原利一氏の証言

栗原氏は歩65連隊第2中隊伍長でこの捕虜銃殺に参加し、約1年後に漢口攻略の途中で負傷して療養中に当時の状況をスケッチブックに絵入りで描いていた。1984年8月の毎日新聞にその時の状況をスケッチブック註434-1に基づいて証言した記事が掲載された。その直後に本多勝一氏がインタビューした記事が朝日ジャーナルに掲載され、「南京への道」にも転載された。以下は、「南京への道」からの要約引用である。

{ 収容されてからの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に小さな茶碗に飯1杯だけ、水さえ支給されないので小便を飲む捕虜もいた。
捕虜群を処理したのは入城式の17日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲【八卦州】へ収容所を移す」と説明した。全員をうしろ手に縛って出発したときは午後になっていた。4列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを歩いた。行列から突然飛び出してクリークに飛び込んだ者が2人いたが、ただちに射殺された。
捕虜の大群はこうして長江の河岸に集められた。分流の彼方に八卦州が見え、小型の舟も2隻ほど見えた。捕虜の列の先頭が着いてから3時間か4時間たつころ、捕虜たちもおかしいと気付いた。移送する船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もない。それどころか、捕虜が集められた周囲は日本軍に半円形状にかこまれ、たくさんの機関銃が銃口を向けている。
あたりが暗くなりかけたころ、「少尉が刀を奪われて殺されたらしい、気をつけよ」との警告があり、それからまもなくして一斉射撃の命令が出た。機関銃が捕虜の大集団に一挙に集中砲火をあびせる。逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めて巨大な人柱ができた。水平撃ちの銃弾を避けるために次々と倒れる人体を足場に必死に駆け登ろうとしたのだろう。一斉射撃は1時間ほど続き、立っている者は一人もいなくなった。それから夜明けまでかけて死体の山に放火し、動いている者を銃剣で刺殺した。 … 捕虜以外の一般人の無差別虐殺は全くしなかった。}(本多勝一:「南京への道」,P310-P318)

(2) 証言のあと … 前言の訂正

毎日新聞や本多勝一氏への証言は、当時主流だった両角説をくつがえす内容であったため、栗原氏のもとには脅迫めいた電話や手紙、戦友や上官から証言を取り消すべきといった忠告などが殺到した、と栗原氏のご子息は述べている。(詳しくは 「栗原利一証言」のサイト を参照)

その後、否定派の研究者である畠中秀夫氏(現在のペンネームは"阿羅健一")の聞き取りに対して、栗原氏は、「30万人虐殺に抗議するつもりだったのが、逆にそれを肯定するような記事になってしまった、捕虜殺害は戦闘として行ったもので虐殺ではない、殺害したのは1万3千余ではなく4~5千である」など当初の証言を変えた。

栗原氏のご子息は毎日新聞/本多勝一に話した方が正しい、と述べているが、真相はわからない。証言を決意した動機について、栗原氏は{ 事実は事実としてはっきり認め、その代り中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしい。}(「南京への道」,P310)と、述べている。

南京戦史(P766)に掲載されている栗原証言は、変更後の証言に基づいているが、銃殺状況に関する事実関係は、本多勝一氏がヒアリングしたものとほぼ同じで、違うのは次の3点くらいである。

(3) 死体の始末

多くの兵士が死体の始末にかりだされ、その様子を記録している。

遠藤高明少尉;{ 18日 午前1時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同3時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同8時30分完了 … 午後2時より同7時30分まで処刑場死体一万有余取り片付けのため兵25名出動せしむ。
19日 前日に引き続き死体取り片付けの為、午前8時より兵15名差出す。}(「皇軍兵士たち」,P220)

大寺隆上等兵;{ 19日 午前7時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業を終る。}(「皇軍兵士たち」,P197)

(4) 殺害場所

17日の殺害場所については上元門と観音門の中間点とする説と観音門に近い地点とする説がある。(このページ先頭にある図表4.3を参照)


4.3.4項の註釈

註434-1 栗原利一氏のスケッチブック

幕府山事件に関連するスケッチは次の3枚ある。著作権があるので画像は掲載できないが、スケッチブック中にある文(「 」の部分)の一部を引用する。

スケッチ1; 行進する捕虜と武器の廃棄
「第1大隊兵長以下135名であった。その部隊に1万3000名余捕虜を降して…
右に集めた敵の武装解除した兵器弾薬の山
我分隊は最後尾におり、右武器に石油をかけてもして使用不能にした。…
50mおきに兵をつけて南京兵舎向けて連行するところ。… 」
→捕虜が4列で行進し、50m毎に両側に1名ずつ兵がついている絵である。前後1m間隔とすると50mで200人、兵1名あたり100人になる。兵135名で護送したので捕虜の数は13,500人、これが13,500人の根拠であろう。

スケッチ2; 収容した兵舎の絵

スケッチ3; 銃殺現場の絵
「ここの中央の島に一時やるためと言って、船を川の中程において集めて、船は遠ざけて、4方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま、即ち人柱は丈余になってはくずれ、なってはくずれした。」
「その夜は片はしから突き殺して、夜明けまでその処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきじって川の流れに流したのである」
→岸辺に長円形が描かれ13500と記載、その周囲を半円形に機関銃が取り囲み、江上に2隻の舟が浮かんでいる 。

なお、スケッチブックは栗原氏のご子息が管理するサイト( こちら )で公開されている。 上記スケッチ1~3は、このサイトではNo.27~28になる。