日本の歴史認識南京事件 > 4.3.2 (幕府山)捕虜の収容

4.3.2 捕虜の収容

(再掲)図表4.3 幕府山の捕虜

幕府山の捕虜

(1) 捕虜の収容

山田支隊は12月12日夕方鎮江を出発、13日烏龍山砲台を占拠、14日朝に幕府山砲台を占領した。捕虜獲得の様子を歩65連隊本部通信班の斉藤次郎輜重特務兵は次のように記す。

{ 14日 午前4時起床、5時出発する。… 行軍約半里にして手榴弾位の爆音が前方30間の処で聞こえる。… 戦友5名が重傷した。… 第一大隊の捕虜にした残敵を見る。其数5~6百名はある。前進するに従ひ、我部隊に白旗を掲げて降伏するもの数知れず。午後5時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す。若い者は12才位より長年者は50の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思われる。山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば1万4千余名が我が軍に降った。}(「皇軍兵士たち」,P17)

山田支隊長の14日の日記でも大量の捕虜に困惑している。

{ 幕府山は先遣隊により午前8時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり。捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門の学校に収容せし所、14,777名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり。}(「南京戦史資料集2」,P331)

(2) 民間人の解放

「皇軍兵士たち」に掲載されている19件の日記等のどれにも捕虜獲得直後に民間人を解放したという記録もそのような形跡もなく、小野氏が得た約200の証言にもない、という。

また、上記証言にもあるように捕虜は雑多な服装をしていたようだが、その大半は民兵や雑兵(物資輸送、軍事施設建設、その他の雑用などを担当)とそれらの家族ではなかったか、と思われる。後述の栗原利一氏のご子息は父親から聞いた話として、{ 捕虜の中には家族持ちの捕虜が200人くらいで、その人達の奥さんや子供なども捕虜には含まれていた。}註432-1と述べている。

(3) 軍の命令!?

山田栴二少将の日記

{ 12月15日; 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す、皆殺せとのことなり、各隊食糧なく困却す
12月16日; 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合せをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊長大役なり … }(「南京戦史資料2」,P331-P332)

使者の派遣先を15日は「南京」、16日を「軍」と記している。「軍」は上海派遣軍であろうが、「南京」がどこを指すのか不明、山田少将はどこからどのような指示又は命令をうけたのかわからない。

長勇(ちょう いさむ)中佐の独断指示?

山田少将にヒアリングした鈴木明氏は、15日に「皆殺せ」を言ったのは上海派遣軍参謀(中支那方面軍参謀も兼務)長勇中佐だったのではないか、と推測している(鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」,P215)。秦氏も{ 命令違反や捕虜虐殺も、彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。}(秦:「南京事件」,P144) と長中佐が指示した可能性を否定していない。ただ、それは長中佐の独断で出した"指示"であって、軍としての"命令"ではない。

南京戦史の見解

南京戦史では次のように述べ、軍の方針は「収容する」であったと思われる、としている。

{ これら大量の捕虜取扱いについて軍司令部と山田支隊間の交渉経緯なかんずく軍として支隊に与えた指示も明らかでなく、【飯沼日記註432-2では】「15日 … とりあえず16D【16師団】に接収せしむ」とあるのみでその結果も明らかでない。しかし、12月21日の【飯沼】日記に「上海に送りて労役に就かせしむる為 … 」とあるところを見ると、軍としては「捕虜を収容する」方針であったように思われる。}(「南京戦史」,P326)

否定派(東中野氏)の見解

「南京虐殺の徹底検証」(P130-P131)では、山田旅団が所属する第13師団の命令、としていたが、この当時13師団は揚子江北岸で別の任務についており南京附近にはいなかった。そこで、「再現 南京戦」では、南京に司令部があった16師団に本間少尉を派遣し"意見"を聞いたところ「皆殺せ」と言われたが、これは意見であって命令ではない、と解釈を変更している。わざわざ他の師団に"意見"を聞きに行くとは思えないが …

史実派の見解

「南京事件の真実」というサイトを運営する“タラリ”氏が提示する見解は、史料との整合性のある見解である。以下、筆者なりに要約させていただいた。詳細は こちら

15日の山田少将の日記では「本間騎兵少尉を南京に派遣し … 」となっているが、当時、上海派遣軍の司令部は南京郊外の湯水鎮にあった。南京市内に司令部があったのは第16師団である。飯沼日記の「16師団に接収せしむ」は16師団に捕虜を引き取らせようとしたと考えられる。そこで、山田少将は捕虜の引き渡し方法などについて16師団と相談するために本間少尉を派遣したが、16師団は捕虜の引き取りを断り「皆殺せ」と言った。山田少将は翌16日に相田中佐を(上海派遣)軍に派遣し、16師団の回答を伝えて善処を要望したが、軍は16師団を説得しようとはせず、「何とかせい」と突っ返した。山田支隊は19日に揚子江を渡って13師団に合流する命令を受けていたから、捕虜は殺害するしかなくなった。

※「南京大虐殺のまぼろし」に掲載されている"山田メモ"では、「本間少尉を師団に派遣せしところ『始末せよ』との命を受く」とある。

(4) 収容所の場所

捕虜の収容所の場所については3つほどの説がある。(図表4.3参照) 前述の“タラリ”氏は、収容所はひとつではなく、2つあった、と主張する。詳細は こちら


4.3.2項の註釈

註432-1 栗原氏のご子息の述懐

ご子息が「証言に関する諸事情」として寄せたメッセージが下記サイトにある。
 「栗原利一証言」

註432-2 12月15日と21日の飯沼日記

{ 15日 … 山田支隊の俘虜東部上元門付近に1万5~6千あり、尚増加の見込みと、依て取り敢へす16Dに接収せしむ … }

{ 21日 … 山田支隊の捕虜1万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしはこの不始末の為なるへし }(「南京戦史資料集」,P216・P222)