日本の歴史認識南京事件 > 4.2.3 中華門付近の捕虜殺害

4.2.3 中華門付近の捕虜殺害

(再掲)図表4.2 西部・南部における事件

西部・南部における事件

(1) 捕虜の獲得(図表4.2⑤)

{ 第114師団は宇都宮で編成された特設師団で、歩66連隊の例でみると定員2909人、平均年齢37歳の召集兵が主力で、幹部でも現役は連隊長、大隊長だけ、中隊長以下は全員が応召者だった。しかし満州事変に参加した歴戦の士が多く、戦闘力はほかの師団に比べ決して劣らなかった。}(秦:「南京事件」,P156)

12月12日、雨花台を占領した114師団は中華門の東側を攻撃した。以下は歩66第一大隊の戦闘詳報からの要約引用である。

{ 敵は最初歩兵砲を撃って抵抗したが、装甲車の威力と歩兵の勇敢なる突進を恐れ、逐次白旗を掲げて投降してきた。午後7時頃、概ね掃蕩を終り、我が損害極めて軽微なるに反し、敵700名をたおし捕虜1500余名及多数の兵器弾薬を鹵獲した。中国軍は中華門の城扉を閉鎖したため、退路を失った兵士たちであった。
最初に得た捕虜のうち3名を伝令にして、投降すれば助命する、と伝えさせたところその効果は大きく、味方の犠牲を少なくすることができた。}(「南京戦史」,P211-P212)

翌13日、歩66連隊は中華門から城内に入り、城内南東部の掃蕩を行ったが、午前9時頃までにさらに300余名の捕虜を得た、と戦闘詳報には書かれている。

(2) 捕虜の処刑(図表4.2⑤)

捕虜の処置について上層部に問い合わせると、13日午後2時に次のような命令を受けた。

{ イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし。其の方法は10数名を捕縛し、逐次銃殺しては如何。
ロ.兵器は集積の上別に指示するまで監視を付けるべし。}(「南京戦史」,P213)

この命令を受けて{ 午後3時30分、各中隊長を集め捕虜の処分について意見交換を行った結果、各中隊に捕虜を等分に分配し、露営地周辺で刺殺することになった。

{ 各隊ともに午後5時準備終り、刺殺を開始し概ね午後7時30分刺殺を終り、連隊に報告した。第一中隊は当初予定を変更して一気に監禁し焼こうとして失敗した。
捕虜は観念し恐れず、軍刀の前に首を差出すものもいたが、中には泣きわめき救助を嘆願せるものもあった。}(「南京戦史」,P214)

「投降すれば助命する」といって捕えておきながら,結果的に殺すことになったのは何とも弁明できない。

(3) 各派の見解

否定派以外の研究者は、この事件を不法行為としている。ただし、犠牲者数について、戦闘詳報には1657名と記載されているが、中間派はこれを過大として600~1000名をカウントしている。
否定派(東中野氏)は、「再現 南京戦」で次の2点を根拠に合法である、としている。詳しくは 註423-1 を参照。

①歩66第一大隊の戦闘詳報は架空の旅団命令に基づいて書かれたのではないか
→この戦闘詳報は板倉氏も「「改竄の疑いあり」としているが、この事件は不法行為だと認めている。

②捕虜を釈放した後、再び襲撃してこないという保証はないという状況でやむなく処刑した。これは国際法違反ではない。
→釈放後に襲撃してくる可能性を完全に排除できる状況などほとんどない。だから収容するのであって、これは収容できないときは殺しても良い、と言っているに等しい。それが国際法違反でない、というのはどうみてもおかしい。


4.2.3項の註釈

註423-1 中華門の捕虜殺害は合法・・・ 東中野氏の主張

(1) 戦闘詳報は偽造 … 板倉氏の論拠

東中野氏はこの戦闘詳報を"徹底検証"し、「処刑命令は、師団命令にも旅団命令にも連隊命令にも記録がなく、大隊の戦闘詳報執筆者の創作であった」としているが、板倉氏はより具体的に偽造を指摘している。

{ ①13日午後8時に出た師団命令に対応する第1大隊の命令が12日午後0時に出ている。
②中華門攻防戦を午前7時に行動を起こし … 、となっているが、この時間にはすでに中華門は陥落している。
③文中の日付が前後して行動の日時が特定できない場合がある。
3つの疑問箇所のほとんどが、命令による捕虜処断を行ったとされる記述の前後に集中していることは、単なる誤記ではなく、ほとんどが後日つじつま合わせをした際の失敗のように思われる。 … }(板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,P126-P129 <要約>)

(2) 「徹底検証」と「再現」で根拠が異なる。

東中野氏は捕虜を殺害した理由を、「南京虐殺の徹底検証」では「投降兵が暴れ出して統制がきかなくなった」ためとしているが、「再現 南京戦」では「敵襲が続いて釈放できる状況ではなかった」に変えている。両方とも明確な根拠を挙げているわけではなく、氏の憶測にすぎないが、変えた理由は不明である。

・「徹底検証」,P111; { 小宅小隊長代理の証言によれば、投降兵は収容先で"騒然"としていた。騒然となった投降兵がそのあと暴れ出して統制がきかなくなり、投降兵の釈放が困難となった。そこで已むなく投降兵の処刑が断行されたのであろう。}

・「再現」,P184; { … 12月13日、被拘束兵の処刑に及んだのは、このようにまだ敵襲が続いていたときのことであった。捕えた兵士を宣誓のうえ釈放できればよかったが、彼らが釈放されたのち再び襲撃してこないという保証はどこにもなかった。… 被拘束兵を宣誓のうえ釈放することができないという状態において、やむなく処刑に及んだとしても、それは国際法上合法であった。だからこそ、堂々と「戦闘詳報」に書かれていたのである。}
→釈放できなければ収容するのが当然で、それができないから殺害する、ということが許されるのであれば何をしても良いことになってしまう。