日本の歴史認識南京事件 > 4.1.5 紫金山周辺の捕虜殺害

4.1.5 紫金山周辺の捕虜殺害

(再掲)図表4.1 陥落直後の東部・北部における事件

東部・北部における事件

(1) 馬群における捕虜殺害(図表4.1⑥)

12月14日、歩20の第12中隊は、紫金山南麓の馬群で輜重隊を襲った敗残兵の掃蕩に向い約300名の捕虜を得たが、その日のうちに全員を銃殺した。この銃殺に加わった牧原信夫上等兵(歩20連隊第3機関銃中隊)の12月14日の日記には次のように書かれている。

{ 残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。而し到着したときには小銃中隊にて310名位の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰ってきた。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も6名戦死して居た。}(「南京戦史資料集」,P511)

この捕虜の様子を佐々木元勝郵便長の部下が目撃している。以下は、佐々木元勝氏の野戦郵便長日記(12月16日)からの引用である。

{ これは吉川君が実見したのであるが、わが兵7名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を振り、意気地なくも弾薬集積所に護送されてきた。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。殺すときは、全部背後から刺し、2度突き刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が1名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中3人は水溜りに自ら飛び込み、射殺された。}(「証言による南京戦史(9)」,P11)

(2) 紫金山周辺で800名殺害

以下は、歩20連隊第3機関銃中隊 北山与上等兵の日記である。

{ (12月14日)午後2時、戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時すぎ掃蕩からかえる。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞと想っていまい。学生が主力らしく大学生なぞたくさんいたという。生かしておけばずいぶん世界文化の発展に貢献する人もあるだろうが、惜しいものだ。尊い生命がなんの(ちゅうちょ)もなく失われていく。戦争の酷裂[烈]な姿をつくづく感じる。}(「南京難民区の百日」,P261 原典は京都師団関係資料集P71)

(3) 岔呂口付近での焼死体

以下は、歩20連隊第3機関銃中隊 牧原信夫上等兵の日記である。

{ 【12月14日】岔呂口手前1里半のところで9中隊は1ケ分隊の兵力で約1800名からの支那軍を連れて帰るのに出会った。… 鉄道線路すぐ岐れ目の所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵の夜襲を受け、全滅していた。 … 亦6名の敗残兵を捕えて銃殺す。直に部落の掃蕩をやったが、唯の1名も居なかった。… 今一つ異風景は或る部落の車庫に敵が150~160名油をかけられて焼かれて死んで居た。}(「南京戦史資料集」,P511-P512)

(4) 各派の見解

史実派は(1)~(3)の事件をすべて犠牲者数のカウント対象にしている。中間派は、馬群の事件のみ対象にしている。秦氏と板倉氏は対象事件の一覧表には掲載していないが、本文で触れている。

否定派の東中野氏は、{ 逃走の中国兵集団を撃退したあと、被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺に処している。}(「再現 南京戦」,P118) と、述べているが、牧原日記には「武装解除をやり待っていた」と書かれており、佐々木郵便長の日記を見ても捕虜として受け入れていることは明白である。詳細は 註415-1 を参照。


4.1.5項の註釈

註415-1 馬群の捕虜に関する東中野氏の見解

東中野氏は、牧原信夫日記を引用した後、{ … 16師団は拘束した逃走兵から手榴弾を投げられ、収拾のつかない苦い経験をしていた。これらのことが原因となって、… 被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺に処している。}(「再現 南京事件」,P118) と述べている。

引用した牧原日記には{ 小銃中隊にて310名位の敵の武装解除をやり待っていた。}と記録されているが、「武装解除」したのを無視して、「捕虜として受け入れず」と断定している。しかし、同じ「再現 南京戦」の堯化門の捕虜に関する記述(P120)では、{「武装解除しました」とある以上、京都16師団はこの時点で彼らを「捕虜」にしていたことになる。}と述べており、矛盾している。