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3.3 南京への進撃

上海から南京まではおよそ300km、上海派遣軍(第9師団、第16師団など)が北側、第10軍(第6師団、第114師団など)は南側を進んだ。12月1日、正式な南京攻略命令が出た時点で、日本軍は南京まで100~150kmのところまで進んでいた。

図表3.3 南京への進撃

南京への進撃

(1) 急激な進軍

南京への進撃が停滞すれば軍中央から攻略の中断を命令されることを懸念した第10軍の司令部は、上海派遣軍を挑発して第10軍と「南京一番乗り」を争わせた註33-1。将兵たちを後押ししたのは、「南京を攻略すれば戦争は終わって故郷に帰れる」という期待だけでなく、南京に行けば「掠奪、強姦勝手放題」という暗黙の諒解があったとさえ言われている註33-2

(2) 補給の遅れと徴発

南京攻略はもともと計画にない上に急激な進軍のため、食糧や弾薬の補給が間に合わず、現地での徴発に頼ることになった。徴発は、軍票などで対価を支払って軍需物資などを調達する行為だが、対価を支払わずに強奪することも多かった。初年兵N.Y一等兵(第9師団歩7連隊)の手記にはこうある。

{ 畑にはネギがあったり、部落にはおどおどした土民が自分たちを見ていた。自分達はてんでにネギを取って夜食の汁に入れることを考えていた。部落に入るときまって2,3人の兵が竿をふり回して鶏を追いかけるのであった。 … }(「南京戦史資料集」、P486)

「証言による南京戦史」によれば、補給に問題があったのは、12月10日頃まで、という。確かに、食糧の徴発は減ったかもしれないが、4.5節で述べるように食糧だけでなく換金可能な物品すべてが“徴発(≒掠奪)”の対象になった。

{ 上陸後引き続いて追撃戦に移った当初は、各師団の追撃隊は、補給・給養が意の如くならず、現地物資によったのであるが、南京攻略戦当時(12月10日以後)は後方兵站も漸く追随していた。したがって、将兵が餓えのあまり掠奪を行うような状態にはなかったのである。}(「証言による南京戦史(1)」,P31)

(3) 追撃戦と敗残兵の抵抗

南京に進撃する途上の都市で中国軍は頑強に抵抗した。常熟、江陰、無錫、常州、長興、宣興、泗安、広徳、鎮江、などで激戦が繰り返された。「証言による南京戦史」では進撃の模様を次のように述べている。

{ 日本軍は一地に長く駐留することはなく、まして掠奪、暴行の如きを行ったことはない。長くても2~3日、殆どが停止することなく風の如くに通過したのである。巷間、江南平野200マイルの追撃作戦において、日本軍が暴虐の限りをつくし、中国住民に莫大な戦禍を与えたかのように宣伝されているが、都市の戦禍は彼我の攻防戦によって生じたものである。日本軍のみの故意のものでないことは明らかである。}(「証言による南京戦史(1)」,P30)

実際はそんなにカッコよくなくて、荷物を中国人の苦力(クーリー)にかつがせ、なかには自分の銃まで持たせて上官に叱られる兵士もいたようだ。歩65第4次補充の大寺隆上等兵は、中国人に荷物をかつがせたことを日記に書いている。

{ 12月8日 … 途中8時頃ニヤをつかんで大谷さんと二人で一人のニヤにかつがせる。 … ニヤは力があるし、足は早い、乾パンを食はせられて大喜びで居る ・・・ }(小野賢二他:「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」,P191)

中国軍は、逃走しながら食糧などを掠奪し、民家に放火して日本軍に利用させないようにした。また、逃げ遅れた兵士は軍服を捨てて市民の服に着替えてゲリラ化し、日本軍を攻撃した者もかなりいたようである。次のような証言がある。

{ 奥秋国造氏<独立軽装甲車第2中隊上等兵>の証言。「道路から離れたある部落の偵察を命じられた。私たちは一民家の屋内に入ろうとした途端、奥の方に数人の敗残兵がいたらしい。手榴弾を投げて死にもの狂いで射撃してきた。私たちは退避して危うく難を逃れ、中隊段列の増援を得て、この民家を焼き打ちにした。敗残兵は逃げ出す。これを我々は射撃する。屋内にあった銃弾がパンパンと音をたてて近寄れない。この民家は一晩中燃えつづけた」}(「証言による南京戦史(1)」,P30)

第10軍参謀長は杭州湾上陸にあたって、{ 支那住民はスパイ行為を行ったり、日本兵に危害を加えたりする恐れがあるので、そうした行為を認めたら断乎たる処置をとること。}註33-3と指示している。

侵略された国の住民が侵略軍に敵対する行動をとる可能性は高いので、第10軍参謀長の指示は将兵が身を守るために必要なことであろう。行き過ぎも少なからずあっただろうが、少し遅れれば自分が殺されるかもしれない状況で現場の将兵に冷静な判断を求める方が無理かもしれない。

(4) 進撃途上での掠奪、強姦、暴行

南京陥落後の南京城内とその周辺での事件については研究が進んでいるが、周辺地域での捕虜や投降兵の殺害、市民への暴行などについては、主として中国側の証言や記録があるだけでその実態は解明されていない。

図表3.4は上海から南京行政区の間で、図表3.5は南京行政区内で起きた不法殺害と思われる事件をリストアップしたものである。(南京攻略後の事件も含まれる) ここでは、秦:「南京事件」、笠原:「南京事件」、本多勝一:「南京への道」の3つの資料をもとに編集した。これらの資料や証言には、誤りや虚報が混在している可能性があるが、一方でこれ以外の不法行為が多数存在することは間違いない。

図表3.4 上海~南京行政区での事件

上海~南京行政区での事件

図表3.5 南京行政区(近郊6県)における事件

近郊6県での事件

本多勝一氏は、図表3.5のNo.13のような報復事例を「よくあった」型の事件という。それは、日本兵が1人か2人で農村の小部落へ"女あさり"か、"徴発"に行き、そこでゲリラなり村人なりにつかまって侵略の復讐を受ける。その後、消えた日本兵を捜しに日本軍部隊がのりこんできて、復讐の復讐として、部落を徹底的に焼きつくし、殺しつくす。(本多勝一:「南京への道」,P355)

(5) 日本兵が記した部落掃蕩

以上は中国側の史料、証言によるものだが、下記は日本兵による部落掃蕩の様子が記されたもので、第16師団歩兵第20連隊の牧原信夫上等兵の日記である註33-4。(一部のみ抜粋)

11月26日; … 付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕えようとしたが、1名は残念ながら逃がし、あと3名は捕えた。兵隊たちは早速2名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、1名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。

11月27日; … 休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人2名を連れて11時、出発す … 鉄道線路上を前進す。休憩中に5,6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くあがり、気持ちがせいせいした。

11月28日; … 残敵の掃討に行く。 … 自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く、何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の12,3家に付け火するとたちまち火は全村を包み全くの火の海である。老人が2,3人いて可愛そうだったが命令だから仕方がない。次ぎ次ぎと3部落を全焼さす。そのうえ5,6名を射殺する。意気揚々とあがる。

11月29日; 武進(常州市に属する)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。…

12月1日; 途中の部落を全部掃討し、また舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に1家屋に入ったところ3名の義勇兵らしきものを発見。2名はクリークに蹴落とし、射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。

(6) 百人斬り競争

百人斬り競争とは…

南京への進撃途上で、第16師団歩9連隊の向井敏明少尉と野田毅少尉が、日本刀で敵100人をどちらが早く斬れるかを競争した、ということを東京日日新聞が1937年11月30日から12月13日まで4回にわたって記事にした。最終回には向井少尉が106人、野田少尉が105人斬ったが、どちらが早かったかは判らないので引き分け、との記事が掲載された。この話は武勇談としてもてはやされ、野田少尉は郷里の鹿児島で講演会を行っている。

二人は終戦後、南京軍事法廷で捕虜や民間人を殺害した罪に問われ、二人とも罪状を否認したものの、新聞記事を証拠として死刑判決が下り、銃殺された。

論争と訴訟

1971年、朝日新聞記者だった本多勝一氏が南京で聞いた「百人斬り伝説」を朝日新聞に連載したことから論争が始まり、山本七平氏(イザヤ・ベンダサン)や鈴木明氏などが、百人斬りはなかった、あるいはあったかどうか疑わしいと主張した。

2003年には両少尉の遺族が本多氏や朝日新聞を相手に名誉棄損の裁判を起こしたが、2005年、「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として原告(遺族)の請求を棄却した。この裁判で原告側弁護士を務めたのは稲田朋美氏(2016年時点で防衛相)であった。

否定派の主張

百人斬りの存在を否定する人たちは、南京事件はなかった、とする否定派の人たちに多いが、否定する主な根拠は次のとおり註33-5である。

①東京日日新聞の記事は記者が創作したものである

②日本刀で斬れるのは2~3人、100人も斬れるものではない

③向井少尉の部下は、本人が刀を抜いたのを見たことがない、と証言している

④向井少尉は12月2日負傷し、復帰したのは12月15日で競争に参加することはできなかった

以下は、向井少尉の遺書である。

{ 我は天地神明に誓ひ 捕虜住民を殺害せることは全然なし 南京虐殺等の罪は全然ありません 死は天命なりと思ひ 日本男子として立派に中国の土になります 然れども 魂は大八洲に帰ります 我が死をもって中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り 日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです 中国の奮闘を祈る 日本の敢闘を祈る 天皇陛下万歳 日本万歳』中国万歳 死して護国の鬼となります   向井敏明 }(鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」,P85-P86)

肯定派の主張

百人斬りは戦闘ではなく、捕虜の据えもの斬りとして実際にあった。ただし、それが百人を超えたかどうかはわからない、とするのが、本多勝一氏や笠原氏、秦氏など、南京事件の中間派、史実派の人たちである。その主な根拠は次のとおり註33-6である。

①東京日日新聞の記者は、南京軍事法廷で「百人斬りは戦闘行為としてあった」と証言している

②日本刀で続けて14人斬った事例もある 。(当時、捕虜などを日本刀で斬るのはありふれた現象だった)

③鹿児島の講演会で、野田少尉が捕虜を殺害した話を聞いた、という証言がある

④向井少尉が負傷したというのは本人をかばうためのつくり話で、その期間に戦場で本人に会ったという証言がある

本多氏は、陸軍39師団232連隊第2大隊情報将校・鵜野晋太郎氏の文章註33-7を引用している。

{ 進撃中の作戦地区では正に「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気儘な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易にうなずける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞどうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。 … 支那事変の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。}

向井少尉、野田少尉の2人が人を斬ったかどうかは、わからない。しかし、捕虜や民間人の試し斬りや据えもの斬りは鵜野氏以外にも証言があり、そうした行為があったことは事実であろう。そして、80年前に百人斬りを賞賛した人たちと、戦後その犯人の無実を主張する一部の人たちには、同じ感情が存在することを知っておくべきである。


3.3節の註釈

註33-1 急進撃の理由

{ … 独断専行で発動した南京侵攻作戦は、もしも方面軍の進撃が停滞した場合、南京攻略に反対である多田参謀次長らに前進停止を命ぜられる可能性があった。それを回避し、かつ独断専行を軍中央に追認させるためには、南京急進撃を成功させ、方面軍の南京攻撃の態勢が可能であったことを戦果で誇示する必要があった。… 武藤章方面軍参謀副長は、第16師団の参謀長に書簡を送り、第16師団を遠慮なくこきおろし、第16師団に急進するように挑発した。}(笠原:「南京事件」,P69-P70)

<上記への反論>

{ 第一線追撃隊は無統制になだれを打って南京に殺到したのではない。蘇州-嘉興の線、つづいて無錫―湖州の線で進撃を統制され、12月1日「南京攻略」決定後においても、一挙に南京に押し寄せるのではなく、南京を去る約40キロの磨盤山山系西方―漂水の線で態勢をととのえ、南京攻略を準備したのである。}(「証言による南京戦史」,P29)

註33-2 掠奪、強姦勝手放題

{ 柳川兵団【第10軍】に従軍していた「同盟」記者の話によれば、柳川兵団の進撃が速いのは、将兵のあいだに「掠奪、強姦勝手放題」という暗黙の諒解があるからだとさえいっている。これでは皇軍の皇軍たる面目もなければ、すべては、全くの"無名の師"に堕することになる。}(松本重治:「上海時代(下)」,P365)

註33-3 第10軍の「注意事項」

{ 杭州湾上陸直前に第10軍参謀長が各部隊に与えた「軍参謀長注意事項」には「支那住民に対する注意」と題する次のような重大な指示事項がある。「北支殊に上海方面の戦場においては、一般の支那住民は老人、女、子供といえども敵の間諜(スパイ)をつとめ、あるいは日本軍の位置を敵に知らしめ、あるいは敵を誘導して日本軍を襲撃せしめ、あるいは日本軍の単独兵に危害を加えるなど、まことに油断なり難き実例多きをもって特に注意を必要とす。 … かくのごとき行為を認めし場合においては、いささかも仮借することなく断固たる処置をとるべし」 }(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P78)

註33-4 残敵掃蕩についての日記

 笠原:「南京事件」,P87-P89 「南京事件 京都師団関係資料集」より再引用

註33-5 百人斬り否定論

Wikipedia:「百人斬り競争」 鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」 など

註33-6 百人斬り肯定論

Wikipedia:「百人斬り競争」など 肯定論①、②は、「13のウソ」 "第6のウソ「百人斬り競争はなかった」"(執筆者は本多勝一氏),P100-P116 に詳しく書かれている。

註33-7 鵜野氏の見解

「13のウソ」、P107 より引用。本多氏は、鵜野:「日本刀怨恨譜」」から引用。
本多氏の註釈によれば、鵜野晋太郎(1920-1999年)は、中国・天津市生まれ。中国の撫順市戦犯監獄に収容された千余人のうち、大尉以下の800人中ただ一人重刑となった陸軍情報将校。著書に「わが暴虐記」「戦犯論」のほか、ライフ・ワークとしての大著「菊と日本刀」(全2巻,谷沢書房,1985年)がある。