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かも第3章 南京城攻略

3.1 南京防衛体制

図表3.1 中国軍の南京防衛方針と体制

否定派の経緯認識

(1) 中国政府の防衛方針

11月中旬、南京の防衛方針について、国民政府幹部で議論した。上海戦でこうむった損害の大きさや南京の地理的条件――北に揚子江を控えて東西南の3方面を包囲されると逃げ場がない――から見ても防衛しきれないことは明らかで、首都を内陸部に移し、長期抗戦に備えることでは、全員が一致した。しかし、南京の防衛については大半の幹部が名目的な防衛を主張したのに対し、蒋介石は諸外国や国民に対日抗戦の姿勢を示すために徹底抗戦を主張した註31-1。 蒋介石の主張に唯一賛同したのが唐生智で、蒋介石は唐生智を南京防衛軍の総司令官に任命した。

(2) 唐生智総司令官

唐生智は湖南軍閥の出身で早くから国民革命軍に身を投じたが、蒋介石の直系ではなかった。唐生智は幹部会議で「私は南京を断固死守し、南京城と生死をともにする覚悟です」と述べたと伝える史料もある註31-2ようだが、防衛戦での対応をみると、死守するつもりはなく、早期撤退を望んでいたとみられる。唐生智は陥落直前の12日夜に南京を逃げ出し、残った中国軍が混乱して多くの犠牲者を出すことになる。

(3) 遷都と住民の脱出

11月20日蒋介石は首都を重慶に移すことを正式に発表し、政府高官や外国人らは南京を離れて奥地に移り、重要美術品も移された。一般市民で裕福な人々も続々と南京を離れていったが、貧しい人たちや農民らはそのまま残るしかなかった。

南京市の人口は、南京事件1年前の1936年末で約100万人という南京市政府の公式調査結果がある。1937年8月の南京空爆開始以降、裕福な市民は南京市を脱出しており、11月には50万人程度に減少註31-3、という調査もある。しかし、陥落時人口については推定値しかなく、犠牲者数と関係するので、研究者によって20万人から50万人と幅がある。(詳細は6.1.1項を参照)

以下は、緊迫した南京の状況を伝えるAP電の記事である。

{ 「日本軍の進撃を前にして、南京の8つの城門は厳重に閉め切られ、残る7つの門に中国軍は土嚢やバリケードを積み、鉄条網を張って防戦準備に熱中している … 数千人の中国人市民は将校に指揮されて壕を掘っている。壕は南京市から揚子江岸にかけ半円形を形成し、延長は58キロに達する。市民は続々と避難を始めており、貴重な美術品や骨董品を収めた1万5千箱も奥地に移された。」
これは首都攻防戦を控えて、あわただしさを加える南京周辺の動きを報じた1937年11月30日付けのAP電である。}(秦:「南京事件」,P79)

(4) 南京防衛軍

南京防衛軍は上海戦から退却してきた部隊を主体に配備されたが、将兵の過半を失っていたので、大量の新兵を採用した。これらの新兵は農村から急遽懲用された青少年で武器の使い方も知らない者たちばかりだった。蒋介石直系の精鋭部隊もいたが、広東・広西・貴州出身の地方軍も多かった。

中国軍には戦闘兵とは別に備品の輸送や陣地の構築、その他雑役を担当する雑役兵がいた。雑役兵にも軍服はあったが、なかには私服の者もいたようである。

兵力は犠牲者数と関係することもあって、研究者によって5万人から15万人まで諸説ある。(詳細は4.7.3項を参照) これに対する日本軍の兵力について明記された文献は見当たらなかったが、南京攻略戦に加わった部隊の範囲では、筆者推定で8~10万人註31-4とみられる。

(5) 空室清野(堅壁清野)

空室清野とは、中国に昔からある焦土作戦の一種で、敵の進撃を妨害するため、道路や橋を破壊したり、家屋などの施設や食料などを焼き払ったりする戦術のこと。中国軍は南京城の周辺でこの戦術を使い、一帯を焼野原にした。

{ ニューヨーク・タイムズの若い記者、ティルマン・ダーディンは、南京防衛陣地の状景を次のように報じている。
「湯山(湯水鎮付近) … から田園地帯を15マイル横切って、南京に至るあらゆる建物に火が放たれた。村落はすべて焼かれた。ついで南門周辺や下関の諸設備にも火は放たれ、この財産破損額は、内輪に見積もっても2千万~3千万ドルにものぼり、これは南京攻撃に先立って、数か月にわたって日本空軍が、南京空爆によって与えた損害を上まわるものだった。
… 中国軍指導部は、この焼却作戦を軍事上の要請と説明した。日本軍に利用されそうなものは、樹木、竹やぶに至るまで一掃された。だが、中立国軍事視察団は、この焼き払いは、実際上は軍事目的に殆ど役にたたなかったと見る点で一致している。多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残っており、かえって日本軍機関銃部隊に、絶好の据え付け場所を提供することになってしまった。」
このダーディン記者の記録は、私たち独立軽装甲車第2中隊の者が実見した南京南方の第6師団正面、… の地区の状景と全く一致する。}(「証言による南京戦史(3)」,P6)


3.1節の註釈

註31-1 南京防衛方針

{蒋介石が「短期固守」に固執したのは、おりから進展をみせていたトラウトマン和平工作に強い期待を寄せ、さらにベルギーで開催中のブリュッセル会議(九ケ国条約会議)で対日制裁措置が決定されることにも期待をしていたからだった。欧米列強から抗戦中国への武器・財政援助、さらに侵略国日本にたいする軍事・経済制裁や軍事干渉を引き出すためには、中国の抗日戦力を海外に示さなければならないというのが蒋介石の一貫した抗日戦略だった。さらに、 … 首都南京の喪失は国民政府の最高責任者である自分の引責問題につながり、やっと築いた政権最高の座を失うことになるという懸念もあった。}(笠原:「南京事件」,P110)

註31-2 唐生智の覚悟

{ 重苦しい沈黙をやぶって名乗りでたのは、軍事委員会常務委員の唐生智だった。「委員長、もし他に責任を負う者がいなければ、私があえてその難にあたりましょう。私は南京を断固死守し、南京城と生死をともにする覚悟です」(宋希濂「南京守城戦親暦記」)(笠原:「南京事件」,P111)

註31-3 南京市の人口

{ … 1937年11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている。}(笠原:「南京事件」,P220)

註31-4 南京攻略戦の日本軍兵力 … 筆者推定

{ 12月17日の段階で、総勢7万以上の日本軍が城内に入った … }(笠原:「南京事件」,P119)

{ 城外に宿営した部隊からも、連絡や見物の名目で相当数の兵士が張り込んだので、城内の兵力は7万以上にふくれあがってしまい、宿舎の奪い合いや占領前と変わらぬ補給難が発生した。}(秦:「南京事件」,P101-P102)

笠原氏、秦氏ともに日本軍の兵力は7万以上、と推定している。下表は、11月20日時点の兵力をもとに南京攻略戦における日本軍の兵力を推定したものである。

日本軍兵力(筆者推定)

日本軍兵力