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2.5 否定派の経緯認識

否定派には、ナショナリズムや国粋主義を信奉する人たちが多いが、その代表格である英語学者の渡部昇一氏と歴史学者の北村稔氏の主な事件に対する見解を以下に示す。

図表2.8 主要事件に対する否定派の主張

否定派の経緯認識

(1) 張作霖事件

渡部; 使われた爆弾がソ連製であること、通説では線路脇で爆発させたとなっているが天井の壊れ方が激しく線路が爆破されたのではない、張作霖はソ連とは敵対関係にあった、などの理由から、日本軍の謀略ではなく、ソ連がコミンテルンを使って仕組んだ事件であるかもしれない註25-1

北村; 北伐により、{ 北上してきた国民革命軍が北京を占領し、さらに張作霖を追って満州に入れば、日本の租借権益には厄介な問題が生じる。かくして悶着の種になる人物を早めに始末するため、関東軍の将校らによる28年6月4日の張作霖爆殺事件が発生する。ちなみに張作霖の爆殺は、ソ連の諜報機関が実行したという根強い説が存在している。}(北村稔、林思雲:「日中戦争の不都合な真実」,P71)

通説; 秦氏は河本大作の犯行であることを示す8つの確証をあげて99%関東軍による謀略であると断定している。また、コミンテルン陰謀説は「根拠となる確かな裏付け資料があいまいで、実証性に乏しい俗論に過ぎない」としている註25-2

(2) 満州事変

渡部; 国民政府の外国利権回収が強まり、満鉄に並行して走る鉄道が敷設されて満鉄の利権が脅かされたり、日本人に土地を売った者は死刑に処すという法律ができたりした。さらに、日本人警官が殺されたり、万宝山事件註25-3や陸軍の中村中尉が殺される事件が起きるなど、危機が高まっている中で柳条湖事件は発生した。関東軍は満州を攻め取って領有したのではなく、満州族出身である清の最後の皇帝溥儀を迎えて建国した。五族協和(満、日、漢、蒙、朝鮮の各民族の協調)は崇高な理念である。満州はシナの一部ではない。満州国を認めた国はバチカン市国を含めて23カ国にも上った。日本が自存自衛を図る上で最も正しい解が満州事変であった。(渡部昇一:「本当のことがわかる昭和史」,P249-P260 要約)

北村; 北村氏の見解は通説とほぼ同じで、渡部氏のように"崇高な理念"のもとに建国したもの、とは言っていない。ただ、(4)で述べるように、満州事変は侵略戦争ではない、との立場をとっている。

{ 1900年代初めの満州には、2千万人以上の人間が居住し、9割は漢人種であったと考えてよい。この圧倒的多数の漢人種の存在は、 ・・・ 満州人の皇帝を中心に五族協和を唱えるという論理を弱体化させるに十分な根拠であった。}(北村稔,林思雲:「日中戦争の不都合な真実」,P66)

{ 日本の満州経営は、じり貧に陥り始めていた。この問題を軍事力で一挙に解決し、満州における日本の覇権を確立しようとしたのが、1931年の満州事変であり、 … }(同上、P74)

{ 1931年の満州事変により、日本軍は武力で中国の東3省(満州)を占領し、傀儡国家の満州国を成立させた。}(同上,P84 このページは共著者の林思雲氏が担当)

通説;{ 関東軍は政府の方針を無視して満州の軍事占領を画策した。関東軍は満州の親日政治家らの協力を得て、清朝最後の皇帝溥儀を「執政」に迎え、満州国の建国を宣言させた。国際連盟の調査団が到着する前に、満州の「独立」を既成事実化しようとしたのである。}(野島博之監修:「図解日本史」、成美堂出版、P129 要約)

(3) 華北分離工作

華北分離工作は、満州事変で火がついた中国の抗日感情を決定的にし、日中戦争の開戦に大きな影響を与えたが、否定派はこの事件にあまり触れていない。

渡部;{ 陸軍は華北分離工作を進めて、河北・山東・山西・綏遠・チャハルの華北5省を日本の影響力の強い半独立地域にして、「半満州国」のような地帯にすることを構想し、昭和10年12月に河北省に冀東防共自治政府が設立される。}(渡部昇一:「本当のことがわかる昭和史」,P263)

北村;{ 日本側は華北での経済権益を確保するため、11月24日には国民政府から分離した傀儡政権の冀東防共自治委員会を成立させた(冀は河北省の別名、自治委員会は12月には自治政府と称する)。これに対し、12月9日には北平(北京)で大規模な反日の学生デモが発生した。(北村稔,林思雲:「日中戦争の不都合な真実」,P80)

通説; 大杉一雄氏は次のように述べている。

{ 軍部の次なる意図は「華北自治運動」なるものを起こし、中央政府軍と国民党勢力が排除されたこの地方に、少なくとも西南派政権と南京政府の関係ぐらいの華北政権を作って、それを背後で操ろうとすることであった。 … それは満州事変を起こした軍部の対ソ戦略の延長線上にあるものであり、また安易な膨張主義に陥った現地軍部の「石原現象」であった。さらに、当時、単なる日満経済ブロックより日満支経済ブロックといわれはじめたように(満州には予想より資源が少ないことがわかってきた)、この運動はより豊富な資源、より広い市場を求める日本資本主義の要求に合致していたのであった。}(大杉一雄:「日中15年戦争史」,P158)

(4) 日中戦争

渡部; 以下は、渡部氏と元航空幕僚長の田母神俊雄氏の共著「誇りある日本の歴史を取り戻せ」で田母神氏が担当している部分である。

{ 7月7日の盧溝橋事件から数えて1か月半弱、日本は中国軍の理不尽なテロ攻撃を受けても受けても、とにかく停戦しようと努力を重ねてきました。いい悪いは別として、それが幣原外交だったのです。ところが、和平が成立しそうになると、今度はそれをぶち壊すかのような事件が次から次へと起きる。日本人がどんどん死んでいくわけです。そうなってようやく、もはや中国に停戦の意思なしと気づいて軍を入れ始めたというのが歴史の事実です。 … 盧溝橋事件を仕組んだのは中国共産党であり、当時すでに毛沢東に抱き込まれていた蒋介石もその罠にはまってしまったわけです。}(渡部昇一,田母神俊雄:「誇りある日本の歴史を取り戻せ」,P120-P121)

※盧溝橋事件が起きた1937年7月時点での外相は広田弘毅であり、幣原喜重郎が外相だったのは1931年までである。

北村; 盧溝橋事件から日中戦争に至る経緯は通説と同じ内容を書いている。共著者である中国人の林思雲氏は、戦争をしかけたのは中国側で日本は戦争を望んでいなかった、抗日運動家や中共が日本との戦争をしかけた、戦争の原因は日本側だけでなく中国側にもある、と述べている註25-4
北村氏は次のように述べる註25-5

・第二次大戦が終わる直前までの連合国側の大多数の見解では、"侵略戦争"(Aggressive War)は戦争犯罪ではなかった。

・ドイツ降伏後に開かれた米英仏ソによる戦争犯罪会議により、"侵略戦争"は犯罪であるとの方針が確立された。

・ドイツの"侵略戦争"は、人種・宗教に基づく大規模な住民虐殺と結びついていたが、日本が遂行した戦争をドイツの"侵略戦争"と同様の論理で告発することは極めて困難だった。

通説; 秦氏の次の文章が開戦に至る経緯を的確に表現していると思う。

{ 日中戦争は昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の支那駐屯軍の小部隊が数発の銃弾を射ち込まれる、という偶発的事件が発端となった。通常だと現地交渉ですぐに片づく程度の局地紛争にすぎなかったが、満州事変にひきつづく日本の華北進出をめぐって、悪化しつつあった日中関係は、すでに局地紛争が連鎖的に全面戦争へエスカレートしていくだけの危機的条件を成熟させていた。
すなわち、「一面抵抗、一面交渉」を標語に日本との衝突を回避しながら、念願の本土統一をほぼ達成した中国は、1936年頃から国共合作を軸とする抗日統一戦線を形成し、これ以上の対日譲歩を許さない姿勢に固まりつつあった。
しかし、日本政府も軍部も、こうした中国ナショナリズムの新しい潮流を認識せず、武力による威嚇か、悪くても一撃を加えるだけで中国は屈伏するだろうと楽観し、マスコミも世論も中国を軽侮しつづけてきた固定観念から、容易に"暴支膺懲"を合唱した。}(秦:「南京事件」,P54-P55)

1930年代は、帝国主義から民主主義に転換する過渡期だった。帝国主義時代の「力で植民地を獲得するのは当然のこと」という考え方と、「侵略戦争は悪である」という考え方が同居し、欧米諸国は自分の都合の良いようにそれを使い分けていた。日本は残念ながらその流れを理解することができずに孤立化していった。

日中戦争を直接的にしかけたのが中国であることは事実だが、アメリカとの戦争をしかけたのは日本である。どちらが先に手を出したかは、侵略か防衛かの判断にさしたる意味は持たない。その戦争が起きた根本的な原因はどこにあるか、が重要なのである。

(5) 東中野氏の見解

南京事件否定派の東中野氏は「南京虐殺の徹底検証」で、盧溝橋事件から南京攻略決定までの経緯についてわずか20ページほどしか触れていないが、その要旨は次のとおり註25-6である。満州事変や華北分離工作、抗日運動、和平工作、拡大派と不拡大派の対立、などについては記載していない。

①1930年代の支那は分裂状態、そのため各国は自国民保護のために軍隊を駐留させていた。

②盧溝橋事件は、日本軍が合法的な演習を行っているときに中国軍から発砲されて発生した。日本軍は抑制的に対応したが、中国軍内の共産党分子が意図的に拡大を図った。

③通州事件については、中国軍の残虐行為を6ページにわたって記載し、中国人はこうした残虐性をもった民族である、と印象付けようとしている。

④上海事変は和平交渉が予定されていた8月9日に、海軍の大山中尉が中国軍によって殺害される事件(大山事件)が起こり、その後、中国軍の攻撃により始まった。

⑤中国が上海事変を起したのは、日支紛争を上海の欧米人に印象づけ、国際的関心と干渉を誘発することにあった。つまり、日本の意思で始まったのではなく、中国により「押し込まれた」のである。

⑥上海から敗退した中国軍は南京に逃れた。そこで中支那方面軍は11月22日「南京を攻略すべし」との電報を参謀本部に打ち、12月1日、南京攻略命令が正式に示達された。(命令無視の進撃には触れていない)


2.5節の註釈

註25-1 張作霖爆殺―渡部見解

{ 通説では、河本大作大佐が高架橋の先の線路脇に爆薬を設置して爆殺したとされている。だが、同事件の現場検証の写真を良く見ると、壊れているのは張作霖が乗っていた特別列車の天井であり、線路が爆破されたのではないのである。…
加藤康男氏は、左翼に転向した張学良が父親である張作霖を殺そうと図った、という説を提示しておられるが、たしかにそう考えると、腑に落ちることがいくつもある。…
もしかすると、日本陸軍や外務省に入り込んだソ連シンパが情報操作を行う一方、ソ連はコミンテルンなどを使って関東軍が張作霖を爆殺したという情報を流し、日本軍を悪者にしたてあげたのかもしれない。そういうストーリーも描けるのである。}(渡部昇一:「本当のことがわかる昭和史」,P21-P25)

※日本軍が撮影したみられる写真(別冊歴史読本第75号,1988年10月)によれば、張作霖が乗っていたとみられる車両は台車部分を残して全焼しており、天井だけが壊れているわけではない。渡部氏が見ている写真は貴賓車という説明がついた別の写真であると思われる。

註25-2 張作霖爆殺―通説

秦郁彦氏が主張する河本の犯行を示す8つの確証。

{ ①昭和天皇独白録に「この事件の首謀者は河本大作大佐である ・・・ 河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので軍法会議は取りやめになった ・・・ 」とのくだりがある。
②河本大佐は磯谷中佐宛て書簡で実行を宣言している。
③河本は村岡関東軍司令官の意を汲み ・・・ 爆殺計画を練り実行に移した経過を詳細に語っている。
④~⑥事件に関与した部下など3名の証言。
⑦河本大佐自身の獄中供述書。
⑧桐原中尉が撮影した一連の現場写真記録 }(秦郁彦:「陰謀史観」P159-P162)

{ イギリスは一時ソ連が主役らしいという報告書を出したが、ひきつづき同じページで「暗殺は関東軍の一部によって遂行された ・・・ 」と追記している。}(同上,P164-P165)

註25-3 万宝山事件

{ 長春の西北数里の万宝山に、長春在住の朝鮮人達が水田経営の目的で、中国人から広面積の借地をしたのに端を発したのである。借地契約そのものの合法性にも疑問があったが、朝鮮人たちがその開墾した水田に引水すべく伊通河に至る一里の間に無断で水溝を掘り、伊通河(いつうが)に勝手に堰を設けんとするにいたって、長春県長が干渉し、巡警隊を繰り出して現地を押え、朝鮮人を追い払おうとした。訴えを聞いた長春領事館は警察隊を派して現地保護と出たので両々対峙の形勢が出現された。 … 私の見るところでは、非は現地朝鮮人側にあった。無断で他人の所有地に水路を開設するさえにあるに、河流を勝手に堰止めるのは、どこの国の法律も是認する筈がない。}(石射猪太郎:「外交官の一生」,P178-P179)

註25-4 日中戦争-北村見解(1)

{ 事実として、日中間の大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年の8月13日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、正しく中国側から仕掛けたのである。 … 日中戦争が拡大した真の原因を言うとすれば、それは世論に煽動された双方の民衆の仇敵意識であると言わねばならない。}(北村稔、林思雲:「日中戦争の不都合な真実」,P109 ここは林思雲氏の担当)

註25-5 日中戦争―北村見解(2)

{ (アリエフ・コチャービ著「ニュルンベルグへの序曲」によれば) … 大変興味深いのは、第二次大戦が終わる直前までの連合国側の大多数の見解では、「侵略戦争は戦争犯罪ではなかった」という事実である。}(北村稔、林思雲:「日中戦争の不都合な真実」,P33)

{ ドイツ降伏後の45年6月末から8月8日まで開かれた米、英、仏、ソのロンドン会議の審議により、「侵略戦争は戦争犯罪であり、平和に対する罪を構成する」という国際軍事法廷の方針が、アメリカの主張をいれる形で確立されたのである。}(同上,P42)

{ 連合国側が日本の戦争指導者たちをA級戦犯として一網打尽に裁くには、日本の侵略戦争を、ナチス・ドイツ流の計画的な大量の住民虐殺を伴う「邪悪な」侵略戦争として性格づける必要があった。その結果、手っとり早い手段として、日本軍の南京占領時の「混乱」を、ホロコーストに匹敵する大虐殺に格上げすることになり、南京と東京の国際軍事法廷で「南京大虐殺」が演出されたのである。}(同上,P47)

註25-6 東中野氏の見解

①~⑥各項番の引用又は参考にしたのは、「徹底検証」の次のページである。①P13、②P14-P16、③P17-P22、④P22-P26、⑤P27、⑥P29