牧師聖日メッセージ

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日本基督教団 大船教会牧師  松下道成
3月29日  十字架によって  ガラテヤ人の信徒への手紙6:11-18 
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3月22日  裁き、報いて下さる神  イザヤ書9:1-9、ルカによる福音書4:16-21 
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3月15日 罪は赦される  マルコによる福音書 2:1-12
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 論敵はイエスの業を、悪霊の頭の力によるものとし、神からの権威とは認めない。そして彼らはいつもイエスに対して「何の権威でこのようなことをするのか?おまえは誰か?」と問い | 続ける。イエスの論敵は、罪を赦す権威を「神のみ」と認めるが、それは「建前上」のことに過ぎず、それより最高の権威は「律法(遵守)」であると考える。律法に背く者は神に背 くのである。つまり、彼等は、神の存在を認めながら、実際には無視する。ところがこれは、イエスが神の子であるとすれば、根本的に成り立たない。結局論敵の「権威」は、自分の利益、名誉、保身という「人から」のものだから、イエスの | ことも知らない」と言うだろう。脳血管障害の後遺症を持つ人にイエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われる。そこには「子よ」との呼びかけは父なる慈愛をもって「神」が罪を赦すことが言われている。この人にどのような「罪」があるのかは明確ではない。ただ当時の社会では、重い病は「罪」であると見なされる。これに対して、イエスはその社会一般の価値基準、罪の定義を壊してしまう。この基準から 1人を解放する。神の国の到来という福音は、「罪の赦し」「罪からの解放」ということを本質にする。もちろんそれは本来、人を裁き、罪のレッテルをはる人たちへの解放ともなるのだが、彼らは、律法を盾に、イエスを攻撃する。もちろん、「罪を赦す」ことも「人を癒し立たせること」も人には出来ないこと。ただ神だけが出来る。人が癒され、再び立ち上がる事 | が出来るなら、同じようにあなたの罪が赦されるという事が 確かに、この世界に存在する。そして今、イエスは十字架の贖いと復活においてそれを行う。イエスの権威は人間的な根拠に基づくものではないから、人間的な合理性で説明 できるものではなく、それを受け入れる者だけがそれを知らされる。律法学者の語る「神の支配」は律法のくびきであ り、イエスは、相手に寄り添い、その心に直接ご自分の言葉を語りかけられる。イエスの中に到来している「神の支配」が いかに人の思いを超えるものであるか。そして、我々はキリストにおいて、この約束されたものの相続者とされた。教会の権威は、イエス・キリストへの従順を徹底することを通して生み出される。それは教会を自由にし、新しく再生し、自立し続けさせる、そういう神の働きが与えられる特権であり、単なる支配、束縛ではない。罪なき神の子キリストが世の罪を負う神の小羊として死なれた。人間の罪を覆い尽くす神の愛の支配、それだけが、我々を自由にし、新しく再生し、自立し続けさせる。新しい創造である。このことに、胸躍らせ、 起き上がり、神を賛美していきたいと願う。
 3月8日 断食と花婿  ルカによる福音書 5:33-39
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 断食は、伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚をもっ て、神に近づく者の熱心な祈りと悔改めを表現している と考えられた。さらに断食は、食を断ち死により近づくこ とが、真の生を呼び覚ますと考える。確かに断食が、現 在社会のような、自分の欲望を無限大に広げていくよう な生活を断つ行為と考えるなら大切なこと。イエスご自 身も断食そのものを頭から否定してはいない。ただし断 食は、どれだけ死に近づいても必ずそこから引き返さな ければならない。そして、悪魔の誘惑は、断食の後に始 まる。イエスは洗礼者ヨハネとは違って、断食や、禁欲的 な生活のよる浄化を継承しようとはしなかった。むしろイ エスは、断食によらない神との新しい生への道を開いて いく。神とイスラエルの関係は結婚に象徴されるが、そも そも人と神は決定的に立場が違う。しかしだからこそ、結 婚の比喩は大きな意味を持つ。恵みである「愛による」 結びつきが、神と我々の間に与えられる。花婿はイエス のことを指し、ここにおられるということは、今この喜びに あるということ。「あなたは、この恵みに喜ぶか」と問わ れている。本当に生きるための浄化は、死への恐怖では なく、愛するものと共に生きるという喜びによってなされ る。ただし、それは、大きな前提がある。明らかに矛盾し ているが、その結婚は、花婿が奪われるということを通し てのみ与えられる。死が現実となり、その上で死に勝利 した方、主イエスが共におられることが実現しなければ ならない。イエス・キリストが十字架で殺される日が来る、 その時には断食をしなくてはならない。しかしそれはた だ単に悲しむことではない。それは私たちの「罪」のため に、しかし同時にあなたが、その愛の浄化を通して、新たに創られた者、「主と共に生きるもの」とされる時。新し い革袋の話は、喜びの再生のシステムの話し。 悲しみと 死が、イエ38日 ス・キリストの十字架の命によって飲み込まれ ていく。それを喜び、自らの内に注ぎいれられる 新しい 皮袋とされるかどうかは、今、私たち一人一人に問われ ていること。レントを過ごしている。それは確かに私たち の罪と弱さ、それを深く顧みるとき。しかし、イエス・キリス トよみがえらせてくださった神は、イエス・キリストの霊を、 我々に聖霊として与えてくださっている。もうイエス・キリ ストは不在ではない。それは私たちを喜びへと導いて下 さっている。
31日   「私たちの生き方」   エレミヤ 29:4-7 Iテサロニケ 4:13-18  
 エレミヤは、29 章で、バビロン捕囚の民に対して手紙を 送っている。それはある意味、非常に厳しい内容。70 年 たったら、神は捕囚の民を解放する、それまでは、敵地で腰をすえて、生活をしなさいと言うのだ。
70
年は当時 の人々にとって生涯の年齢。つまりみな死んでしまう。そ 「れでも主なる神は「将来と希望を与える存在」なのだと | レミヤは言う。つまり自分死を越えて、そこに将来と希望 |を見いだせるか。王ヒゼキヤは、立派な信仰の王として評価されるが、彼は晩年、本当は次の世代のことを考え るべきなのに、自分の死を越えては考えられなくなっていた。 エレミヤは、その手紙で、信仰的なことは一言も書いていない。家を建てて住み、樹を植えてその実を食べ、妻をめとり、子どもを産むという、いわば普通のこと。 しかし結果的にこの 70 年の間にイスラエルはもっとも信仰的に深まり、旧約聖書の骨格を作った。70年後に解放され故郷に帰ることができる、一見、無意味な希望。 かし捕囚の民は、当たり前の生活の土台に、確かに神 の国への強い信仰の土台があった。それは自分が死ん でも、消え去ることなく確かに受け継がれていくのだとい う希望。人の願望ではなく、神に与えられたまことの希望。パウロはテサロニケの手紙で死後の世界はどんな月かを言いたいのではなく、問題は「イエスが死んで復活 された」ことにこそある。だからパウロは再臨まで生き残るとしても、その前に死ぬとしても、どちらも同じ救いの完 成にあずかることができると断言する。神が「イエスと一緒に導き出してくださる」から。これは、何かというと「希望を持つか否か」ということだ。そして希望を持っている ものは、嘆き打ちのめされることはない。パウロの第二伝 道旅行は残酷なぐらい失敗の連続であった。しかし、テ サロニケの教会は「信仰の働き、愛の労苦、希望と忍耐 という信仰の本質を失うことはなかった。テサロニケ4章 は、この信仰に生きるキリスト者の基本的な姿を教えて いるのだ。あなたがたの歩みの、人生の、最後の支配者 は死ではない。嘆きや絶望に終わるのではなく、キリスト の希望は、必ず我々を互いに励まし合わせ、立ち上がら せる。目覚めの時、再会にこそ向かって、希望をしっか 抱いて互いに励ましつつ、歩んでいく。
  霊南坂教会の後宮敬爾牧師に説教して頂きました
 223  「力を捨てよ」  詩編 46
  詩編46編は信頼の歌です。しかし、一見、美しい讃美 が綴られている言葉に目を奪われていると、この詩人の 信仰の本質を見失ってしまいます。神を信頼するとは、 何もせずにのほほんとしていればよいということではあり ません。この詩人が歌う神への信頼は、激しい闘いと葛藤の末に与えられたものなのです。

46 編に3回出てくる「セラ」という単語は、小休止という 意味です。このところで、少し休んで考えてみましょうと いうわけです。 46 編を読んでいくと、美しい賛美の言葉 に、その詩人が味わった苦難が推測される言葉が綴ら れています。

こには超弩級の自然災害が起こったこと、国土が揺 らぎ、暮らしが揺らぎ、その動揺をつくように他国から戦 争が仕掛けられ戦火に巻き込まれる...そんな困難を極 めるような状況を読み取ることができます。その苦しみの 中にある人たちの思いと経験に深く共感するため次々と 読み進めるのではなくて、小休止して、思いを巡らせる。ように勧めるのです。

そしてそこで語られるのが、リフレインのフレーズ「万軍 の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたした ちの砦の塔」なのです。私たちの生活に起きうるあらゆる 苦難を描きながら、しかし、「神が共にいるから、その苦 難を乗り越えられる」と歌っているのです。これこそ 46 編 の主題なのです。

私たちは苦難を乗り越えようとする時、知らずして自ら の力でそれを乗り越えようとするのです。しかし、46 編に 描かれている苦難は人の力で乗り越えられるようなもの ではなりません。その時、聖書は私たちに「力を捨てよ」 と告げるのです。己に頼る力を捨てて、神に信頼し、神 に委ねていくとき、私たちは神の驚くべき御業を見ること ができるのです。

 2月16日  軛を負った預言者』  エレミヤ 27:1-11マタイ 11:25-30

神は、エレミヤ自身の首に麺と綱を付け、バビロニアの支配 が重いことを示せと言われる。バビロニアに降伏すること は、何ものにも代えがたい屈辱。それに耐えるには、主の 言葉を信じ、その言葉に自らを委ね生きる信仰しかない。 その姿勢を、まずエレミヤ自身が実行する者として語ってい る。偽預言者の言葉は、現実のうわべの良い面だけを強調 し、耳心地が好い。しかし、主の裁きと支配の真実を見よう としないことが悲劇であり、その目は既に見えない状態。神 はゼデキヤを裁くことによって、そのことを示し、ご自身の正 しさを明らかにされた。今、徹底して主なる神に服するとい う信仰が求められている。 「そうすれば命を保つことができる」。マタイ 11:25〜30 は二つの部分に分かれ、神の主権 | 的な選びと、人の神に対する信仰が、イエスの言葉の中に 見事に調和している。人々はイエスの神の国に無関心だっ た。しかし神によって選ばれ、「天の御国の奥義」を悟る者 が与えられている。驚くことに「子」だけではなく「子が示そう と思う者」もまた、神を真に知ることができる。それは子であ るイエスが、イエスの十字架の死を通して、我々に神を啓 示することを望んで下さるから。28〜30 節は二つの招きが ある。まず、御子イエスは、父なる神の軛を負って歩んでい るという前提がある。「わたしのもとに来なさい」。それはイエ スに向き直ること。第二は「私の軛を負い、私に学びなさ い」。「学ぶ」は単に知識的に学ぶではなく、実際に生きる ことで学ぶこと。苦難・服従・連帯を意味する。つまり神との 関りにおいて、生きることに新しい意味を見出す。その時、 喜びが必ず伴う。「休ます」「安らぎ」は、「新鮮ないのちの 力を与える」という意味。この「安らぎ」は、神に背き、滅ぶこ とが定めである人に対する、イエスの十字架を通しての、神 の主権的な選びによる安息。そしてこのあり得ない恵みに 対して、人が主体的に従うことを通して得られる「新しいい のちの力」。そしてその肌は、この世のそれよりもはるかに 「心地良く、楽しく、好ましく、疲れや重荷」とはならない。と ころが、この世の価値観こそを最善だと思っている私たちは、神の恵みを全く反対に思っている。社会は、弱肉強食 の原理が高度に組織化されている。しかし、イエス・キリスト の「神の国」はこの世の原理を根底からひっくり返すもの。 キリストは力によってではなく、徹底的に「仕える者」となら れることによって神の国を来たらせようとされた。その究極がキリストの十字架だ。その一方的な、恵みに振り返る時我々は本当に幸いな道を見出すだろう。新しい・新鮮ない のちの力を与えられて、その道を歩き出す

  2019年のメッセージ
 1020  「私の愛する者」  エレミヤ11:15-17,ヨハネ21:15-19

エレミヤが攻撃を受けた理由の一つに、エレミヤが人々の律法に対する姿勢を非難したことがある。イスラエルにとって、犠牲の供え物を捧げることは、自分の罪の悔い改めの徴としてとても重要なことである。しかし、それが単なる儀式となり、単なる義務になれば、本来の意味が見失われる。「聞け」で始まるシェマは、主なる神を、心をつくし、思いを尽くして愛するということ。そしてその律法は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいと不可分なもの。ところが「わたしの愛する者」は、無価値なものを拝み、力があり富める、悪智恵の者が、弱者から奪い取っている。さらにエレミヤに対する殺害の計画が家族の間でなされていたという残酷で不条理な、空しさを覚える話を伝える。家族間の争いを思う時、旧約のカインとアペルの話を思う。この話のポイントに、我々が「不平等の謎と共に生きていく道」をどのように見出していくか?ということがある。もし、それを己の力と知恵、正義、公平さだけに拠る時、まさに罪は戸口で待ち受けている。しかし、そのように人にどうしようもない状況において、我々は主にあってこそ「(罪を支配)するであろう」という希望を持つ。何故なら、我々は、イエスキリストの命によって、煩いと救いを、新たに生きることを得るからである。カインは、神に憎まれ不当に扱われたと思ったが、神は初めから終わりまで、カインに語り掛け、そしてその愛を示している。ヨハネ2l:15以下は、復活のイエスが弟子のペトロに出会われる場面であるが、驚くべきことは、この話において全てが「愛しているか」という事だけを中心にしているということ。人は神に対してとても愛しているとは言えないような存在だが、神がいかに我々を愛しているかを知らされる。エレミヤは「わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを」と祈る。確かにこの祈りは聞かれる。しかし、 「まことの神」 「命の神」 「この主に並ぶものはありえない」ことを知るエレミヤは、民族の運命を超えて、はるかその先に生き知るエレミヤは、民族の運命を超えて、はるかその先に生きる。それにもまして、最後まで残るものを見る。 「その独りを与えるほどにこの世を愛される」ということ。いわばそれが神のなおしるまことの復讐。創世記で、神に似せて創られ、「それは極めて良かった」と言われた人間、罪を犯し死ぬ者となりながら、それでも「主によって」得られたカイン、 3度も裏切りながら「私を愛するか」との言葉を聞いたペトロ、そして背き続ける者でありながら「私の愛する者」と呼ばれる私たち。この途方もない愛の中に「聞く」という信仰があり、「罪を支配するだろう」という希望はある。この途方もない愛の中に「聞く」という信仰が有り、罪を支配するだろう」という希望はある。この途方もない愛の中に「四方に生きて行く」という道がある。   

  1013  「主よ、あなたに並ぶものはありません」  エレミヤ 10:6-11、コロサイ2:6-12
 エレミヤ書 10 章は偶像を辛辣に批判している。 イザヤ 46 章にバビロンの人々が偶像を疎開させる様子が描かれる。 偶像は自身で歩けず、人間や動物によって負われる。もちろんそのような偶像には人を救い出す力などないし、人に対する愛もない。偶像は今や、ただの重荷であり、その偶像を信じる者も滅びていく。聖書において、偶像礼拝は少なくとも 3 つのことが問われる①あなたは何を信じているのか?それによって、あなた自身がどう形成されるのかが問われる➁どれほど敬虔であっても、弱者から搾取し、弱者の訴えに目を背けるなら、神はその礼拝、祈りを憎まれ③ 神を知りながら、神をあがめず感謝しない。エレミヤ書10章にはコヘレトに有名な「ヘヴェル」「空しさ」が出てくる。これは無価値、無意味さである。コヘレトはこの「空しさ」と「虚無」の中で、「神を畏れ、その戒めを守れ」と言う。それは 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」( 6:5)ことだと言えるが、もっと言えば、今日のエレミヤの、神(わたしは自分が有ろうとする者として有るもの)は、「大いなる方」「諸国の民の王」「真理神」「命の神」 「永遠の王」、「万物の創造者」「万軍の主」であることを知らされること。コロサイの信徒への手紙は、キリストの福音は「信仰」と「愛」と「望み」の形で受け入れられたのだと思い起させる。私たちは福音を確かな希望として、愛に生きてい る。それはコロ 1:19「神は満ちあふれるものを余すところなく 御子のうちに宿らせた」ことを日々、確信させられること。御子の十字架の死と復活は、この世に和解と平和をもたらす。「キリストのみ」は、神の計り知ることの出来ない愛から出ている。この御子の恵みに生きることこそ、キリスト者にとって最も根本的な知識である。だから私たちは、すべての出来事に、不幸と幸福のすべての現実の中で神は確かに 働かれるのだという確信を持つ。その確信に基づいて、自分が変えられているのだと信じる。我々は生きる神を信じるのだから、信仰は日々の生き方に反映されねばおかしい。 どれほど小さいことであっても、自分が出来ることを真剣に毎日求めていくべき。教会は御子の「からだ」であり、御子はその「かしら」なのだから、キリストの復活の力にあずかる希望に、喜び生きる群れであるべき。「このイエス・キリストの十字架の命の愛に並ぶものはありえない」。我々はそのことを確信し、これからも「優しい心、見えないもの、愛」の大切さをいつまでも変わらず語り、行動し続けていきたいと願う。  
 9 22  「嘆きの歌」  エレミヤ 9 22-23、ローマ 8:31-39
東京電力福島第一原発事故の裁判で 19 日、無罪判決がなされた。この判決に多くの人が首をひねっただろう。エレミヤは、民の不誠実の根には神への認識の欠如があると語る。 神認識とは、単なる知的な活動を指すのではなく、神に対する生の関わり全体を含む。生におけるこの基礎を欠いたところでは、人間同士の信頼関係も瓦解する。隣人への不誠実は、神への不信仰さであり、故に神の人間に対する裁きが行われる。神の裁きにおいて、人は裁きの火に直面し、誰も偽り続けることは出来ない。9-21 節に歌われているのは、差し迫る神の審判に対する哀歌であり、嘆きを歌えと要請されている。旧約聖書において死の力について語るものの中で、最も印象的なものの一つ。哀歌は、愛する人の「死によって引き起こされる悲嘆の歌であり、愛するが故に悲しむのである。だからエレミヤは「神を知ること」を最重要視している。人間が誇るものといえば「自分の知恵、自分の・・・」。しかし、神が喜ばれるのは「目覚めさせられて、神を知ること」。「神が愛、裁き、正義」の存在であり、神が愛するがゆえに、滅ぶ者を、誰よりも嘆かれる存在であることを知ること。この神の支配理念を、生涯の起点に置き、そこから人生を方向づけ、組み立てることこそが、真に生きること。パウロは「誇るものは主を誇れ」と言い、キリストの十字架こそが、見かけだけの偽りの人間の知恵を滅ぼし、神の知恵としてなされた救いの業(義と聖と贖い)であると言う。 ローマ 8:31 以下は、「神が私たちの味方である」と強調する。それは「何をしても許される」ということではない。神は、私たちの欲望を満たすものではなく、神ご自身のみ心によ って私たちに本当に必要な救いを与えて下さる方。私たちは、絶望にあろうが、傲慢になっていようが、いともたやすく 神から離れ、背き、罪に陥いる。その私たちの救いのための戦いは、私たちの罪のために、神がご自分の独り子を身代わりとして渡して下さったことによって行われる。復活された主イエスの執り成しによって勝利を得ている。それは私たちがキリストの愛の中に(神の支配理念の中に)置かれているということ。その愛から私たちを引き離すことができるものは何もない。死も苦しみであり、命もまた苦しみだ。しかしその死も命も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。我々は、その生涯の起点を、この神の支配理念に置き、そこから人生を方向づけ、組み立てることが出来る。今の我々がこの嘆きに満ちた世界で、生きるために、「主イエスを知ること」が求められている。
 915  [私は泣く」  エレミヤ8:18-23、ルカ19:41-44

時代は巡ると言うが、まさにユダ王国は、何度も同じ過ちを | 繰り返していく。エレミヤは、民の罪を厳しく指摘している。それは、「主の定め(ミシュパート:神の支配理念、主権、裁き、はからい、導き)」に到らせるため。神の支配は専制君主のようなものではなく、驚くべき愛の理念に満ちている。しかし、そのことを民は知ろうともしない。人は本来、倒れれば起き上がり、迷えば立ち返る。鳥も本能にしたがって、自分たちの故郷に立ち帰る。だが、この民はその罪を知りながら、なおもかたくなに神に背き続ける。エレミヤは「どうし 「て」と問わずにはおられない。 13 節の葡萄といちじくの不毛性は、神の定めを、人間の知恵の定めに置き換えた結果の惨めな姿であり、実を結ぶことを期待したのに、それを得 られなかった神の深い嘆き悲しみが暗示されている。 エレミヤの神義論は発想を反転させていて、人間の悪における、神の大いなる苦痛を我々に思わせる。 18 節以下の嘆きがエレミヤのものか、神のものか区別が難しい。区別がつかないのは、エレミヤが「とりなす者」である故で、エレミヤは民の苦しみだけでなく、滅ぶ者のために昼も夜も泣き続ける神を知っている。神は分裂しているのではなく、二律背反(論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら、 両立することのできない矛盾)こそが、神の全能と全知の前提条件だと言える。考えてみれば、キリストの十字架の出来は、我々を裁く主体が、罪のために滅ぶべき我々を、その独り子をお与えになったほど愛された出来事。エルサレムに入場するイエ スは、一人息子を失った母親ほどの悲しみを覚え、泣かれる。「平和の町」を意味するエルサレムが、平和を知らない。「平和への道」は、主イエス・キリストが私たちの罪のために死に渡され、わたしたちの義のために 復活させられたことにおいて成し遂げられる。それは命による「とりなし」で あり、人と神との和解。その平和が私たちそれぞれに与えられている。だからこそ、我々は平和のために、仕え生きることが出来る。パウロがそうであったように、目に見える世界の苦難を克服する力を、キリストの命という、神の愛の支配から得るのだ。「ギレアドに乳香がないというのか?」、その問いに、エレミヤは 32 章で敵の手にあるアナトトの土地を買うことによって答えている。何が、罪に病んだ魂に癒しをもたらすのか。それは奇跡ではなく、イエスの死であり、そこに現れ出た神の愛である。 エレミヤにおける神の嘆きと、アナトトの畑の購入は、まさにイエスの十字架の死と復活に、神の愛を通して見事に呼応している。そうであるならば、今、我々は、この神の定めのもとに、生きていくだけだ。

 98  「わたしたちのベン・ヒノム」  エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50

人々は敗戦と大国の抑圧に不安を覚えつつも、エルサレム神殿は永久に滅びないという迷信のもと集まっていた。その民に、3節エレミヤはヤハウェの名をもって、神の言葉を語り、神との契約関係の本質を問題にしている。いかなる状況においても神は約束を堅持される。ただし、 神の救済の業は、あくまでも、神の支配理念と結合している。この理念のもと、人が生きることが、その社会の間に平和と喜びのある状態を生みだす。神の公正・裁きは、弱い立場にある人々への愛を基準としていて、これに対しての人の態度が、生と死の境目となる。30 節以下にベン・ヒノム (悲嘆の子)の谷の高所で行われた幼児犠牲が指摘されて いる。生贄は、権力者が神から特別な富と力を与えられることを誇示するもの。神は、神から祝福を強奪しようとする人の強欲さに強い嫌悪感を示される。この谷は、永遠の刑罰を受ける場所、復活の見込みのない完全な滅びの象徴「ゲヘナ」「地獄」という語を生み出した。イエスが「地獄」のことを語るのは、ほとんどないが、地獄の恐ろしさを取り上げるのは、「いのちに入る」ことの真剣さの裏側だから。イエスの受難予告にもかかわらず、弟子たちは誰が一番偉いかと論じ合っている。それに対し、イエスは誰でも「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われる。イエスご自身が「仕えるために、また多くの人の身代金として 自分の命を献げる」ために十字架に至る道を歩んでいる。 これが、神の支配理念における物差しとなり、人の生死に関わる。 幼子は不完全で、社会で軽んじられ、無視されている「小さい者」を示す。もしそのような小さい者を受け入れることは、自分をそのような小さい場に置くことになる。そしてキリスト者はそのことに定義される。「イエスの名において」、己の快適さに反して、イエスがそのようにされるからという理由だけで、受け入れる。それはイエスを自分の中に受け入れることになる。「神の国」は単なる思想ではなく、神との交わりという現実。その現実に入るか否かは、人生にとって最も真剣な問題。名誉や権力、富や健康、肉体の生死より、はるかに重要。逆に、そのことを知らなければ、まさに我々にとっての「ベン・ヒノム」となる。キリストの十字架(我々の身代金としての贖い)と復活を通して与えられる聖霊だけが、「キリストの名において受け入れ、受け入れられている」 ことを知らしめ、人がまことに生きる道を示す。イエス・キリストによって、もはやゲリジム山でもなく、エルサレム神殿でもなく、霊と真理によって父なる神を礼拝する時が来た。 イエスの十字架の道という、命の道を嵐の夜も歩み続けたい。エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50 エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50 エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50 エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50 エレミヤ 7:1-11、マルコ 19:42-50  

 91  「分かれ道」  エレミヤ 6:16-21 ルカ 13:22-30

エレミヤの時代、アッシリアの衰退から偏狭なナショナリズムが興った。宗教改革の本質は見失われ、歪んだ国粋主義が広まり、悪や背教, 指導者の偽善, 誤った神殿信仰など腐敗と堕落が広まっていく。偽の預言者は、神の思い抜きに、人におもねり、受け入れられることばかり言って賞賛を受け、もはや何の羞恥心さえ感じない。聖書における「平和・シャーローム」は神の思い抜きでは考えられない。単に、争いのない状態を表わすだけでなく、神との関係における、力と生命に溢れた動的な状態。和解、安心、繁栄、 健康、充足、霊的知恵、愛、罪に対する勝利それらすべてが神との関係にある。そしてエレミヤが見ているものは、やがて直面するユダヤの国の破滅、しかしその破滅をも乗り越え、ユダヤ教をも越えて与えられる「新しい契約」。このように、全く異なるものを希望とするエレミヤの語る預言は、 人々に聞き入れられることがない。そういう中で、エレミヤが求める信仰が16節。前の聖書では「分かれ道に立って」。 英語ではcrossroad十字路。そこで、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分自身でどの道に歩むべきかを見極めなければならない。それは昔も今も、将来も、永遠に代わることのない道。良い道。「魂の安らぎ・いこい」は、神によっ て与えられるもの。まさにイエスは「たましいの安らぎ、安息」を得られる道を示している(マタイ11:28,29)。それはつ まり十字路で「十字架のイエスを見出す」こと。マタイにおける狭い門と細い道は、イエスの山上の垂訓の教え全てを示していると言える。しかし、ルカの示すものは、もっと大きく、 根本的なことである。「狭い戸口」それは、イエスが歩む道、 つまり十字架の道である。人々に嘲られ、罵られ、ついには全ての人に裏切られて死ぬ道である。しかし、その道故に、私たちは赦され、救われたのである。この私が、確かに 愛されたということを知らされたのである。その戸口が私たちの目の前に示されている。そのイエスの門をくぐるか否かは、今私たち一人一人の問題である。私たちはもともと 「愛」を知らない。自分の快適さだけを求める道は、一見正しそうで、歩きやすいが、「愛」を知らない。愛を知らない者は「愛する」ことは出来ない。だからこそ、私たちはイエスの 十字架に触れなければならない。エレミヤが私たちに思い起こさせようとしたのは、「わたし達が愛された」存在であるということ。一見、私たちには歩むべき道がたくさんあるように思われる。しかし、聖書は、はっきりと私たちの歩むべき道は、ただ一つだと示している。ただ私たちがその道から目を逸らさず、葛藤をしながらも、その門をくぐるだけ。   

 825  「愛による葛藤」  エレミヤ5:9-19 、ルカ 13:6-9
   5 章は、神の恵みに反する、エルサレムの現実が描かれている。エレミヤが神の動機にまで入り込んで理解しようとするのは、それがエレミヤの信仰にとって必要だからであり、 同時にエレミヤが民を愛し、救いへと導きたいから。聖書の中では、神の支配の理念を、神の恵み(へセド)、真実(エムーナー)、義(ツェデェク)、慰め(ナハムー)、裁き・公正(ミシュパート)と 「結びつけ示している。神は神の支配理念において、正義を行い、真実を求める者が一人でもいないかを探し求めている。エレミヤはまさにこのために呼び出されている。それは 貧しい人にも富める者にも、等しく求められる。しかし、預言者の得る成果は望ましい状況ではない。民は自ら離反して 「神でないもの」に向かってゆく。故にその責任は神の側にはない。だから「罰せずにいられようか」と言う。神自身が神の支配の理念に真剣になればなるほど、民への裁きは免れないものとなる。そして支配者と民の傲慢な姿が、白日のもとに晒される。しかし、ソドムの町は滅ぼされつくされたが、ここではそうでないことが語られる。ここには、神の激しい怒りを語りながら、神が躊躇していることが描かれてい る。そして我々はこのことを通して、現実における「何故、我々の主なる神はこのようなことをされたのか」という信仰の問いに答えを求めなければならない。神の支配理念は、はじめから報復にあるのではなく、赦しにこそ向けられている。だから、主に立ち帰るなら、主は必ず救い出してくださるという信仰と希望が残される。いちじくの木に「実」がならなかったというのは、「神への愛、隣人への愛」が見当たらないこと。 ルカ 10:25 「サマリア人の譬え」には、「愛」が二つの方向性をもって書かれているが、それは「はらわたをつき動かされる思い」という、地を這い、弱くてみっともない、 泥まみれの、それでも人に手を差し伸べざるをえないような、主イエスにおいて(神の愛の葛藤において)、一つとされている。この「神の愛における葛藤」は、エレミヤにとって、私たちにとって、信じられないほどの衝撃を与える。人はハード面だけでなく、その中身、ソフトを知らされるからこそ、また立ち上がれる。私たちは、どちらかと言うと、ほとんど「期待外れ」に生きている。その、私たちがなんとかやっ ていけるのは、私たちが、知ると知らざるとにかかわらず、 誰かに執り成されて、赦されているから。キリストの十字架の贖いという、神の支配の理念の中に、期待のなかで、今の私たちがある。人生はたしかに厳しいものだが、あなたはすでにイエス・キリストの命の贖いの中に生かされている、この期待に生きていけることに、確かな希望を抱く。
暫くお休みを頂きました
 6 23   「神によって育まれる」  エレミヤ 1:4-8、ガラテヤ 1:6-10
 エレミヤ書を学ぶ。預言者エレミヤが神から召命を受け たのは、ヨシヤ王の治世13(ヨシヤ王21)のことであ り、恐らく 15 歳前後という若さだと思われる。ヨシヤ王が その治世 18 年に発見された律法の書をもとに申命記改革を行ったことは有名で、エレミヤがヨシヤ王を尊敬し、 その改革を支持し参与したことは間違いないと思われるが、エレミヤについて列王記は記述しないし、エレミヤ自身もヨシヤ王についての言及がない。謎だが、沈黙は、 この改革がエルサレム神殿や祭司の地位を必然的に高めることになり、それが、律法さえ守っていれば、という安易な自己満足主義といった負の側面を招いたことを示し ているとも言えるだろう。若いエレミヤが神から託された預言は、自分の民の滅亡の預言で、そんな役割は、誰でも辞退したい。ただ、神はエレミヤに「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われる。神がエレミヤを預言者として選んだのは、エレミヤが立派な人間だからではなく、そういうことの、すでに前に、神はエレミヤを預言者として選んでいた。それほど「神なる主が、エレミヤと共にいて、必ず救い出して下さる」ことは、確かなことであることを示している。ガラテヤの手紙の冒頭で、パウロが使徒となったのは、人間から出たことでなく、すべては「死者の中からよみがえらされたキリスト」を通してであることを言う。パウロはイエスの直弟子ではないし、かつて迫害者でもあった。だから人の判断や基準や方法では、彼が「使徒」と呼ばれることはありえない。では、人の判断や基準や方法ではない、神の判断、基準、方法とは何か?そのことを見失えば、「ほかの福音」に陥ってしまう。 「他の福音」とは、イエスキリストの十字架と復活という、神の憐れみを無駄にし、軽んじていること。 神の恵みと平和は、神が成し遂げてくださった十字架と復活によってもたらされる以外にはない。どれほどもっともらしいことを言っても、このことが根っこにない限り、人に恵みと平和を与えるものはない。それこそが、預言者エレミヤが、 母の胎以前に知られ、聖別され、育まれていたことであり、使徒パウロが、すべての人に生きて欲しいと願ってやまない、「まことの福音」である。
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三位一体主日
 「三位一体の神」  イザヤ 6:1-8、ヨハネ 16:12-15
  イザヤ 6:3「聖なる、聖なる、聖なる」という天使の歌声「トリスアギオン(三聖病)」、「サンクトゥス」 が三一論の根拠で、礼拝でこれを歌うことによって、三 位一体の神への感謝賛美の礼拝となる。イザヤの召命の時代、偶像礼拝が盛んに行なわれ、国は衰え、神殿は荒れ、民は疲弊していた。しかし、イザヤは神の栄光が神殿に満ちている情景を見た。 イザヤは、現実の世界がどんなに残酷で、混乱し低迷を極めていようと、決して揺るがない神の存在を「見せられ、聞かされた」のだ。この情景そのものが、三位一体の神秘である。そして同じ内容の歌は、イエスがベツレヘムで生まれたときにも鳴り響いた(ルカ 2:14)。イエスの十字架の前、弟子たちは多くのことを、理解できない、負いきれない。しかし、キリストの昇天の後で、弟子たちは、神の御子の十字架上の死は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ 10:45)ことの具体性であり、このことを通して のみ罪から救い出され、そして、主の復活によって永遠の命が確立し、罪と死は支配力を失い、我々は新たに 生きることが出来る、という真理がわかるようになった。これはまさに、聖霊の働きである。ただ、今もこの世には罪の力が様々な形で働いていて、神の真理を曇らせ忘れ させようとする。その時、真理全体にとどまれるよう私たちを応援してくれるのも聖霊である。聖霊はイエスにおける真理を、私たちに告げる。イエスが言う事は、父なる神の御心であり、父と子と聖霊は同じ真理を持って作用する。故に我々は、どんな時も一人ではなく、三位一体における神が共におられることを忘れてはならない。神が三位一体であるということは、神の私たちに対する愛と大いに関係がある。聖なる神は、私たち人間との間にある果てしない溝を超えて、御子イエス・キリストを通して、私た ちに救いの手を差しのばされ、私たちが決して、その手を離すことがないように、守り導いて下さっているからだ。 三位一体で一番大切なこととは、神が、私たちをかけがえのない者として愛していることを、伝えようと強く願っておられるということ。まさに三位一体とはそのような神の抱擁を意味している。神の愛の、高さ、深さ、広さを表している。だから、私たちも一つとされていく。私たちの教会は、その恵みのもと歩んでいる。だから、途切れることなく、神を賛美し続けいくのだ。
 69
聖霊降臨日
 「背中を押されて」 使徒言行録 2:1?13  
 旧約の収穫と律法授与を覚える五旬祭 は、この時、キリストの福音の宣教開始であり、同時に教会誕生として、新約における、新たな意味を与えられる。

大船教会もこの日、新たな意味付けを与えられるべきだ。ローマ帝国の極刑で死んだイエスの弟子たちは、自分たちも罰せられることを恐れ、ひっそりと隠れて、死んだように生きていた。ところが聖霊が降臨し、その力に満たされることで、福音を

証する使徒へと変えられた。聖霊に与ることで背中を押され、新しい歩みへと踏み出して いく、聖霊の姿をここに見ることができる。ペトロが聖霊降臨の後、2:14以降で語った説教の重要なポイントは次の 3点。 1. ナザレ人イエスは神から遣わされた方なのに、あなた方は殺した。 2. 神はこのイエスを復活させメシア とした。 3. 聖霊を注がれた、我々は皆、そのことの証人である。私たちは、神の前では確かに罪人の頭である。 しかし主は、私たちのために十字架にかかり死なれたこれが私たちにとって他人事でないのなら復活され た主イエスを信じ、聖霊を受けた我々自身の内から、生きた水が流れ出ることも→決して他人事ではない。ヘブ ライ語のみで礼拝し、純血主義、宗教的伝統を守り、強烈な選民意識を持つユダヤ教は、同胞の共同体だけを大切にし、異国の人々と自分たちを厳しく区別し、差別する。そんな負の側面がある。ところが、聖霊降臨によって弟子たちは、「ほかの国々の言葉、様々な言葉を用 | いて主イエスの福音を証するようになった。ここに既存の枠を大きく踏み越え押し出す聖霊の姿を見る。「聖霊」は 目にはみえないけれど、私たちに賛美、行い、愛の業、 そして勇気・励まし、赦し、理解への導きを与える。社会学者ロドニー・スタークが世界中に広まったのは「キリスト教の中心教義が人を惹き付け、自由にし、効果的な社 会関係と組織を生み出していった」からだとし「キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と指摘する。 私たちに勇気を与え、強めてくださる聖霊の風、それは今も豊かに吹いて、私たち一人ひとりの背中を押してくれる、そう信じる。迷い、戸惑い、恐れ、一歩を踏み出せないことがあるが、必ず聖霊の風に豊かに吹かれて、賛美、祈り、愛の業、勇気、励まし、赦し、和解、理解への一歩へと押し出されていくことが出来ることを、喜び感謝したい。

 512   「誰が世に打ち勝つのか」  ヨハネの手紙一5:1-12

この聖書個所は、どういうことなのか?という疑問が湧いてくる。それはいわば、キリスト者の和敬清寂を求めることと言えるだろう。ヨハネの教会内は、神の子の受肉と十字架の死、復活を否定するグノーシスなどのキリスト教異端があり、分裂を起こした。朝鮮のキリスト者・李樹廷(イ・ スジョン)は、根を潤す真の愛を伝えるならば、逆境に枯れることなく、必ず春に花を咲かせ、まことに豊かな実を成すだろうと言う。ヨハネの手紙は、私たちが神を愛する (それは神の掟を守ること)時は、いつも互いに愛し合うのだとし、そして神の掟は難しいものではないと言う。しかし、我々はいつも、敵のことに心揺さぶられ、恐怖や絶 望に支配されている。何故、この掟を守ることは難しくないのか。それは敵をも愛する愛は、「信仰」から来るから。本来の私たちは敵を愛することは出来ないが、信仰はそれを可能にする。ヨハネは、より積極的に「世に打ち勝つ」と表現する。イエスは復活された。そして今、私たちと共におられる。その勝利をイエスは私たちにも与えて下さる。キング牧師は「我々はあなた方を、愛し続けるだろう。我々はその過程で、あなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。そうすれば我々の勝利は二重の勝利となろう」と言った。李息子さんは 「和解の概念を考える」 中で、「差別する側もされる側も、その状況と自らの生が、どう関係しているのかという説明責任を、自身の思想、あるいは信仰として「受肉」 することによって、はじめて無意識の差別意識を自覚し、分析できるようになる。そうした主体の構築こそが、和解への第一歩となりうる」と言う。私たちは、イエスを信じる信仰によって世に勝つことが出来る。その力は、十字架によって贖い取られ、キリストの復活の命において、信じる者を、今、生かす。キリストを信じるとは、「自分の内にこのことがある」こと。私たちの信仰の源は、「この私」が十字架につけたイエスが、「私たちのために死んでくださった」、そのことに対する感謝であり、そのことに、我々が 具体的に、他者に対し、新しい命に生きていくことである。我々は様々な問題で動揺し、苦しむが、具体的な他者との交わりの中でこそ、復活のキリストに出会う恵みを与えられている。そのような恵み、我々の生きていく究極の目標(主にある和敬清寂が、イエス・キリストの命を通して与えられていることを覚えたいと願う。  

 512  「神は愛された」  ヨハネ 3:1-14
「咳をする 母を見上げて みる子かな」は、稲畑汀子の 作品。見上げているのは子どもである私たちで、それを 微笑みをもって見つめ返してくれるのが、母であり神様だと思うだろう。しかし、神は我々を愛される故に、イエス・キリストをこの世に遣わされた。それも十字架の死に引き渡すために。だから我らの主イエス・キリストは、私たちの下に立って、私たちを、その命をもって執成して下さる存在。そしてそれは、我々を我々の罪故に裁き滅ぼすためではなく、私たちが救われ、本当に生きるため。「水と霊」によって生まれ変わることが必要だとイエスは言われる。それは儀礼的なことを言っているのではなく、これから私たちがどう生きようとしているのかが問われている。具体的には民数記 21 章の出来事を通して示されるように、私たちは真に生きるために、あるものを見上げる、仰ぎ見て歩むことが必要。それは十字架に上げられたイエスであり、天に上げられた復活のイエス・キリスト。 そのことを無くして、救われるということはあり得ない。民数記22章に登場する占い師バラムのように、神を信じながらも、この世のものに流され、神を見失う我々。そのバラムを彼が乗っていたロバが執りなしてくれた。それは、 罪もなく十字架に死に、我々を執りなして下さった主イエスを思い起させる。戦前・戦後大変苦労した日系人の女性の川柳を思い出す。「親おもい、子等しあわせを、かみしめる」。そこには、単に子どもが親のことを思うことを言うのではなく、その前提に母のそれ以上の愛の存在があることを思わされる。ヨハネ福音書における「しるし」 は、弱く過ちを犯してしまう私たちが、この方にこそ背負われていること、愛されていること、そのことを知らされ信じる時、神の国は始まっていくことを教える。 主の愛にすでに包まれていることを覚えて、新たな一週間、歩みを始めたい。 .
 55  「無駄ではない」  ルカによる福音書 24:13-35
 「存在しない・存在しない」と思っているけど「確かにそこにある」、このことが話しの中心。イエスの復活の日曜日の午後なぜもうエルサレムを去って、自分の村に 帰ろうとしているのか?なぜ、主の問いに対して、暗い顔をしているのか?ある人は「悲しむ人は人生の半分しか見ていない」と言うが、我々は自分で四面楚歌の状況を作り上げてしまう。詩人島崎光正は大変苦労した人生を 過ごしたが、「神は愛なればこそ自分が生まれてこのかた、このような立場に置かれ続けたのだ」と告白する。なぜ、イエスが先に行こうとしたのか、それを冷たい態度だとすることも出来るが、それを島崎さんのように、主が私 たちに先んじて危ない橋を渡ってくれるから、私たちは 安心してついて歩んでいけるとも受け取れる。私たちが 神様に出会うのは、物事が上手くいっている時だけではなく、深い悲しみや、不安の中でも、確かにある。ルカ 24 章は 3つの復活物語から成り立っている。3つは共通している。無理解・不信仰で途方に暮れる存在(すべての 弟子つまり私たちのことだ!)は復活の主を通して、本質的に以前と異なる存在とされる。それは、「私たちの心は燃えていた」であり、「イエスが十字架に死んで復活すること」を信じさせられたこと。 死んだものが生きるはず はないという世界で、「必ず」主は私たちのために死んで 復活するのだと信じること。それが心の目を開かれることであり、「思い出させられる」こと。何を思い出すかといえば、ガリラヤであり、「一緒にいた頃」であり、さっき一緒 に道を歩いていたときである。イエスが、私たちと生活し、一緒に歩んでくれていたガリラヤは、どこか遠い昔の話でもなく、特定の場所でもなく、それは、ついさっき歩いていたというなんでもない人生の一こまにおいても実現するのだと教えている。復活とは再び生きること。私たちが絶望し自分の力ではどうしようもなくなったどん底 から、神の働きが始まる事を見ること。「人生の半分」しか 見ないのではなく、人生には確かにもう半分があることを思い出させられること。だから復活とは私たちの人生が無駄でないことを知ること。それは私たちが、自らの人生 の中で、確かにいつも主が共にいて下さることを信じること。この瞬間、次の一こまで,きっと感じ、出会えることだと信じる。

 

 428   「味方であるから」  ローマ 8:31-39
 ローマ 8:31-39 ローマ 8:31-39 この箇所は、いわば福音とはこういうことだ、というまとめをしている。先ず「神が私たちの味方であるのだから、だれもわたしたちに敵対することはできない」と言う。「神が味方である」とは、あなたの欲望を満たすことではなく、神が、あなたが真に生きるために「存在して」下さるということ。ただし、我々が真に生きることにおいて、敵対する力がある。それは、私たちの嫌いな相手のことではなく、 絶望・落胆、満足、安全など様々において、私たちが神を信頼し、依り頼むことを阻むもの。そのままでは、我々は神の裁きにおいて有罪となって滅ぼされるしかない。 その私たちの味方となって、救いのための戦いは「御子 をさえ惜しまず死に渡された」ことであった。神が味方であることは、御子イエス・キリストの十字架の死にこそ見ることができる。さらに主が復活して、今も生きて、天において父なる神の右に座って、私たちのために執り成して下さっていることによって与えられている。このキリストの 執り成しのゆえに、私たちを罪に定めることが出来るものは何一つない。旧約のヨブは、贖う者が「ついには塵の上に立たれるであろう」と言う。それは、すべての希望が絶たれる死においてに立つということ。我々はこの「贖い者」「仲裁者」「執成す者」をイエス・キリストに見、正しい者ヨブの苦しみをイエスの苦しみの一つのひな型とみなし、そしてイエス・キリストの十字架の死と復活こそが、ヨブの問いの答えだとする。「執成す」とは、いつも傍らにいてくれること。ともに苦しむこと共に痛むこと。それは十字架のイエスキリストの死に見る。「執成す」とは、復活の命に生かすこと。苦しみと絶望と、死の現実の中で、それでも死に支配されないこと。キリストの復活の恵みに喜びと、感謝をもって生きていくこと。「執り成す」、それは 私たちがキリストの愛の中に置かれていること。その愛から私たちを引き離すことができるものは何もない。パウロは、多くの苦しみ以上に、主イエスの救いの完全なる勝利を強調している。「ついに塵の上に立たれる」主イエスの十字架の死と復活がその根拠である。「私たちの主キ | リスト・イエスによって示された神の愛」これこそが福音の根本。主イエス・キリストの執り成しゆえに、この神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つない。この確信こそが、我々を再び繋ぎ合わせ、復活の命に歩みださせる。  
 421日 復活日  「私は知りません」   ヨハネ 20:11-18
  ヨハネ 20:11-18 ヨハネ 20:11-18 ヨハネ 20:11-18 ヨハネ 20:11-18 ヨハネ 20:11-18 2019年説教要旨 松下道成「知るとは何か」ということを良く考えてみるほうがいい。スイスの小説家は「私たちは少し鈍感になっている。主の受難について知り尽くしているにもかかわらず、私たちの感受性と想像力、そして何より感謝と愛の気持ちは奇妙にマヒしている」。主の祈りの 「御国」は我々にとっての楽園ではなく、「神」の御心が行われることであり、天と地においても行われることを願う「御心」は、主イエスがゲッセマネで「御心が行われますように」の 「御心」である。ヨハネ9章の記事は、「『イエスが誰であるか』を知っているのは誰か?」という話し。誰よりも知っていると思われていた人が、本当に知るべきことを知らなかった。復活の朝において、聖書はマグダラに関し、三度の「分からない」を描いている。まるで、マグダラのマリアは、ただ 「分かりません」と言うために登場しているかのよう。ペトロも愛弟子も目に見るその状況を確認したに過ぎない。人間の「信じる」ということは、所詮、そんなものである。それではどうして復活の出来事が分かるのか?それはイエスが私たちに語りかけられることによって。ペトロは、するべきことを見失い、失意と迷いの時を過ごした。しかし、その時、復活の主が会って下さり、「私を愛しているか」と三度も声を掛けられた。当時の誰も、主イエスのことを知らなかった。特に十字架の死と復活の命の意味が分からなかった。それは結局、神の国が分からなかったということ。 神の国は、神の慈しみであり、すべての生きる人間がもう一度、「人」として生きていくための救いであることを知らなかった。そのために 罪なき神の子が十字架で死ななければならない。しかし、それだけでなくあなたがたに平和があるように」と弟子たちの間に復活して下さったように、この私のためにも復活して下さった。そのようにして、私たちは生きるものとされる。本来信仰とは、私が知っているではなく、私が知られているということが大切なのだ。神様は私たちの弱さ、悲しさ、罪深さもご存知だ。自分の計画を神様の計画に当てはめようとして、もがき続けている者であることを知っておられる。涙を止めることの出来ないことを、地獄の苦しみを経験し、己を大 切に出来なくなり、人を信用できず、関係を断ち切る者であることを知っておられる、だからこそ、主イエスは十字架に死に、今復活されたのだ。復活は、この主の情熱の愛を、私たちに知らしめる。この愛において、我々は知られていることを、主の平和を与えられることを、人と人との交わりの中にこそ、主は立っていて下さることを知らされる。だから私たちは、もう一度、喜びと希望を持って、前に歩みだしたいと願わずにおられない。
 414()  「希望の約束」  ルコ14:22-26
 棕梠の主日。受難週に入り、いよいよ最後の時が近づいている。その木曜日、イエスは弟子たちとエルサレム市内で、過越の食事を共に取られる。いわゆる最後の晩餐(主の晩餐 キュリアコン・ディプソン)として有名。イエスを十字架にかけたのはユダヤ教指導者、ローマの軍隊、イスカリオテのユダ、他の弟子たちが様々な形で関わり、聖書は、あなたもユダと同罪なのだと語っている。しかし十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈るイエスは、もしユダが自殺しなければ、ペトロに現れたように復活の主として、ユダにも現れたに違いない。裏切りのユダがいたかもしれない食事の席で、イエスは弟子たちのためにパンを裂き、葡萄酒を注ぐ。食事の際のイエスの言葉は、それを伝える四箇所 (コリント、マタイ、マルコ、ルカ)では違いがあるが、そこには「私は私の命をあなた方に与える」という、イエスの万感の思いが込められている。イエスは裏切られ、迫害され、無残にも死んでいく悲しみと不条理の中で、それでも弟子たちを愛し、赦し、新しい契約に生きていくことを願われる。キレネ人シモンは運悪く、イエスの十字架を担ぐ羽目になるが、恐らく彼は、イエスの死を通して、イエスを神の子と信じる者になり、妻と子たちも信徒になった。不条理、無力さ、挫折、失敗、裏切り、無念、後悔、それらすべてが十字架に凝縮されている。しかし、 初代教会の人々は、イエスの十字架を背負って歩むシ モンの姿に、自分たちの歩むべき姿を見出した。人は、自分を中心にして回転する世界以外を知らない。自己責任、自己実現・自己達成、それがこの世の正しさ。だから「自分さえも救えない者が何故他人を救えるのか」とイエスを罵る。しかし、聖書はそのような価値観に真っ向から反対している。イエスの十字架上での「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、 孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの 真の希望となりうることを示す。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となる。イエスは食事の最後に、来るべき神の国への招きの言葉を言われる。私たちは主イエスに語りかけられ、弟子となり、神の国、神の支配の中に生かされている。 苦しみのある、この世界で、この希望だけが確かであり、 私たちをまた生かしめるだろう。  
 47(日) 信仰がなくならないように  ルカ 22:31-34
ルカは構造的に、この記事は 9:18 以下のシモン・ペテロの「メシア」告白の場面に対応している。ルカではマルコの1回目の受難予告でのイエスがペトロを諫める話が削除される。またマルコの 3 回目の受難予告後のヤコブとヨハネの願いが削除されるが、ルカは「最後の晩餐」のまさにその席で、弟子たちの間に「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論が起ったことを語る。このことにおいてイエスは「給仕する者=仕える者」 を強調し、ヨハネの「洗足」の教えをイメージさせる。しかし、最後の晩餐でこのような弟子の議論は、イエスにとって深い悲しみであっただろ。だから「サタンのふるい」は |理不尽な苦難における信仰の試みだけでなく、どんな時にも「果たして自分は他者から評価されているか?重んじられているか?」という思いにつきる。 シモン・ペトロの「ご一緒なら、牢に入っても、死んでもよい」という言葉は空しい。勇敢な言葉は、彼自身が勇敢で、自分は何でも出来ると思っていたことを示している。そのペトロに 対して、主は「信仰がなくならないように祈った」と言われる。ルカにおいてとりなしの祈りは重要である。イエスは 弟子の召命の時、ゲッセマネで、夜通し祈られた。祈りの中で 12 弟子を選び、その弟子たちの信仰が無くならないように祈り続けられ、ついには十字架の死にまでたどり着く。ペトロの信仰はペトロ自身の覚悟や力に根差すものでない。それはキリストの十字架の死にこそたどり着く。知らないと言うあなたのために、それでも主は死んで下さった、一方的な恵みにこそ根差す。十字架は主イエスの祈りにはじまり、そして終結するから、言うならば、 ペトロの信仰はただひたすらに、主イエスの祈りに根拠を持つ。ならばその信仰は無くなることはない。「あなたは、立ち直ったら」は、否認したペトロを「主は振り向いて、見つめられた」と深い関りが見受けられる。真実の意味で立ち直るために、主の振り向きがあり、これこそ信仰である。主イエスの「祈り」「振り向き」そして「十字架の命」によって、ペトロには、与えられる喜びがある。それは、主の恵みを、喜びを、己をフル活用し、伝えること。 「あなたを覚えて祈っています」それは、「わたしのため に主がそうして下さったからであり、それは私の喜びです。だからあなたのために、主が祈って下さっていることは確かです」と、伝える者の祈りである。
 331日(日)  「みなしごにはしておかない」   ヨハネ 14:15-21
 人生は出会いと別れの繰り返し。イエスは、ご自分が十字架でこの世を去ると、弟子たちがみなし子になることを心配された。訣別の『悲しみ』が、この「みなしご」という言葉に深 く表れている。しかし「戻って来る」という現在形の動詞から、次のように知らされる。聖霊がまさに復活の主イエスであり、弟子たちのところに戻ってきて、今まさに彼らの内に 生きてくださるので、主イエスが約束される「わたしはあなたがたをみなしごにしない」ということは、確かなことであるのだと。それは、弟子の特権ではなく、むしろ弱さの中で、イエスの旅に生きる者に与えられる。ここでは聖霊が「弁護者」あるいは、「真理の霊」とも呼ばれる。世を去るイエスの代りに弟子たちと共にいて、イエスの言葉を思い起させるも のである。実際、19 節で、主イエスは、弟子たちが、今、主イエスを見ること、主イエスの復活の命に生かされることを、語る。 I ペトロ 1:8-9 では「あなたがたは、キリストを見たことはないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、 -あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」とある。ここでも互いに愛し合う事の文脈の中でこそ、「弁護者・聖霊」の派遣が語られる。「かの日」、それは人と時を越え、聖霊において、我々が、父なる神と子なる神の 愛の交わりに加えられる時、その一体性が、愛で現わされる。その愛は、キリスト御自身の十字架の命である。その命こそが、求める永遠の命である。終末の日だけのことではな く、むしろ今を生きる我々がイエスを受け入れ、そのことが、我々がイエスの掟を実践することによって明らかにされ、イエスが今、この時生きて働かれていることが明らかにされ る。父と子と我々の一体性が、キリストの愛の業を通して完成される。それが、キリスト教的な生命の不断の可能性と言える。エフェソ1:14には「聖霊は私たちが御国を受け継ぐた めの保証」とあり、我々はキリストにおいて、約束されたものの相続者とされた。この世界は分離、分断で支配されているが、しかしイエスは、聖霊を通して、いつもイエスが共にお られるという安心と平和を、喜びを与える。それはこの世が与える平和とは異なる。イエスの愛を知らされ、その愛に実際に生きることにおいて、見えてくる平和。出会いと別れを経験しなければならない我々だからこそ、神が共に歩んでくださることを知らされ、共に礼拝賛美し、赦し合い、支え合い、祈り合いたい。たとえ離れていても、互いが、信仰と希望をもって生きるその背中を次の世代に見せるために、主の掟にあって生きていきたい。
  324()  「香りが満ちるように」  ヨハネ 12 1-8
 およそ2020 年前の過ぎ越しの祭りの六日前、イエスと その弟子たちが夕食をしていたその部屋に、「愛のかおり」が充満した。ファリサイ派の人たちはその居所を見出せないのは、彼らの居所と、イエスの居所が決定的に異なっているからだろう。そして、その居所の違いは弟子たちにも同じように現れてくる。イエスの居所は多くの巡礼者が訪れる「過越祭」と関係し、それはまさに十字架の死の時を象徴する。同時に「死者の中から甦ったラザロ」 が一緒にいることは、イエスの復活を予感させている。この聖書の話は、各福音書にあるが、ヨハネ福音書のマリアの行為は、マルコ・マタイでの、女の信仰告白に通じと同時に、イエスの「洗足」の出来事を連想させている。洗足は、イエスを通し、我々は最も弱く小さい所で、互いに仕え合うという、同じ居所にある仲間であることを覚えている。パウロはI コリント2 章で「キリストを知るという知識の香りを漂わせ」と言う。我々がキリストを知らされて、キリストの香りを人々に知らせること。それはこの世が求めるような、みせかけの、表面的な充足や自己満足的なものではなく、自分に死んで、そしてキリストに生かされるこ と。このキリストの命に生かされる香りこそが、神に捧げる最上の供え物であり、隣人と共に生きることの居所を示す。「いのちの水」という絵本で、巡礼者たちは、長く行先の分からぬ旅路に疲れ、恐怖を覚える。しかし、荒野に湧き出る水を飲んだ時、より深い欠乏が満たされ、人生の旅路とは、この命の水への巡礼であったことに気づかされる。水を飲んだ者はもう一度、他者を大切な友とし、赦し合い、信頼し、仕え合う、同じ居所にある仲間であるという喜びを発見するということ。挫折と困難な中でも「優しさ」を問うていく人たちが生み出す温かさ。それが、ヨハネ福音書が、マリアという女性に織り込んでいる「メッセージであり、キリストの居所であり。マリアの行為が 覚えられるのは「その先に世界」があることを、キリストの 復活があることを語るからだろう。「その先の世界」。十字架の死が生み出す復活の命という愛の香り。今、イエスと居所とマリアの居所が合致した。その時、愛の香りが満ち溢れ始めた。私たちの教会もそうでありたいと祈り、願う。  
317()  「もしもだめなら」  エレミヤ14:17-22 ルカ13:6-9  

エレミヤの本質は、第一に「真実の預言者」。多くの人が偽りの平和、偽りの礼拝に浸っていた時に、真実の信仰とは何か、真実の神礼拝とはどうあるべきかを語った。第二は「苦悩する預言者」。彼は同族の民、家族からも迫害を受け、深い苦悩を言い表した。第三は「祈る預言者」。彼はイスラエルの民のために執り成しの祈りをささげる。7節でエレミヤはイスラエルの罪を我が罪として負い、イスラエルと共に歩もうとしている。神の裁きは厳しい ことを知りつつも「主よ、御名にふさわしく行ってください」と祈り求め、救われる希望は民の側には全くなく、ただ主なる神ご自身の御名のみが、救いの根拠であることを告白している。しかし、神はエレミヤの祈りが聞かれないだけでなく、執り成しの祈りをすること自体を禁じられる。それはいわば、エレミヤの本質をもぎ取られるようなもの。ただエレミヤは 17節で決定的なことを知らされる。「わたしの目は夜も昼も涙を流しとどまることがない」と神ご自身が言われるのだ。そこには、「悲しい」などという簡単な言葉では言い表せない神の切実な、真の深い憐れみ、「共感して下さる存在」を教えられる。ぶどう園のオーナーである神はいちじくの木にいちじくの実がならないことが不思議でならない。それは期待を込めて見守ってきたのに、人に「神への愛、隣人への愛」が見当たらないこと。現実の中で、私たちは愛を本当に知り、リアリティを持ち得るのだろうか。英語に empathy(共感)sympathy(同情)があるが、empathy は、相手の苦しみに自分から入っていって、その苦痛を一緒に受けることだと言える。良きサマリア人で、倒れている人を見て 「憐れに思って」は、moved with compassion だが、これは「共に苦しむ」である。ギリシャ語は「はらわたをつき動かされる思い」であり、「憐れに思って」など全くもってヌルい。それは、地を這うような、血を吐くような、弱くてみっともない、泥まみれの、それでも人に手を差し伸べざるをえないような、そんな姿。エレミヤはそのような神の姿を知らされて、信じられないほどの衝撃を受けた。が、この神を、共に涙を流し、共に痛まれる存在を知らされたから、また立ち上がることが出来た。この神の愛が、ついにはキリストのとりなし、つまりキリストの十字架の命において示される。今こそ、私たちは、イエス・キリストの命の執り成しに生きていることを、しっかり覚えたい。

飯泉有一神学生 に説教して頂きました
  310()   「目を覚まして祈る」  マルコ14:32-42
 前週前週説教要旨 - 昨年4月からの大船教会での、神学生としての実習も 早いもので1年が過ぎ、今日が最後の日となる。先日、神学校を卒業できたことにも感謝している。
明日は311日だ。東日本大震災から8年目を迎える。鎌倉では、追悼・復興祈願祭が行われる。神道、仏教、キリスト教の人々が集まり、心を一つにして祈りを捧 げるものだ。 - 先週の6()から教会では、受難節、レントの期間に入った。本日の聖書個所は、主イエスの受難の出来事の中でも、よく知られたゲッセマネでイエス様が祈られた物語である。 : 主イエスが、死を恐れたことが伝えられている。私たちと同じように、死への恐れを感じられる主イエスを、少し身近に感じる。主イエスの人間的苦悩の深みに接し、弟子たちは、目を覚まして祈ることが求められていく。死に対する主イエスの人間的不安にもかかわらず、主イエスは同時に、完全に父の意思に服従する子でもある。受難が神の意思だと確認されると、主イエスはそれに従っていかれる。
36節の主イエスのお祈りは、キリスト者の祈りの模範とも言われるものである。私たちが祈るときに、参考にしたしいものだ。 苦難の中で祈られる主イエスが戻って御覧になると、 弟子たちが眠っていたことが記されている。言ったことを守ることのできない弟子たちを、主イエスは見捨てることなどせず、「立て、行こう」と呼びかけられている。ここに、イエス様の深い愛が示されている。
私たちも、弟子たちと同じように、眠っているような者なのかもしれない。しかし、主イエスは、今も私たちに「目を 覚まして祈る」ことを望まれていると思う。イエス様の愛に応え、目を覚まして祈る者として、共に歩んで行きたいと思う。
 33()   「わたしを救って下さる神よ」  詩編 88:2-5、コリント II 7:5-13
 詩編88は、心地のよくない嘆きの詩編だ。詩人は今、死の病の中にいるのかもしれない。この詩編の最後は「わたしに親しいのは暗闇だけ」とある。我々もそうかもしれない。病や老い、貧困、暴力、不寛容、差別、争い、戦争。そもそも私たちが信仰だと思っていることは、本当に信仰といえるのか? と突きつけられ続ける。作家ドストエフスキーは「地獄とは何か、それはもはや愛せないという苦しみだ」と言う。この詩人が今、最も恐れているのは「死」である。詩人にとって死は、神から見捨てられ、神との関係が完全に断たれてしまうこと。ルターは詩編130編を愛したが、詩編 88 編と響き合っている。どちらとも「叫び」から始まり、暗闇、陰府、深き淵が語られる。しかし詩編 88は、「私に親しいのは暗闇だけ」に象徴され、詩編 130 は「私は主を待ち望む」に象徴され「慈しみは主のもとに、豊かな贖い主のもとに」と結ばれる。共に闇にありながら、主に向かって叫びことが出来る。そしてついには、「主は、イスラエルをすべての罪から贖って下さる」方だと知らされる。 十字架上で、主イエスも呼ばれた。その時、昼でありながら全地が暗くなった。また四福音書全てにイエスの埋葬と墓のことが語られている。それは神とのつながりを断たれた絶望の闇の中に、主イエスご自身が身を置かれたことを語っている。コリント17 章で「気落ちした者」であるパウロを立ち直らせたものは、「慰め」「喜び」であった。その喜びは仲直りできたということで、難しいことではないが、神の喜びはこれと同じ喜び。「人が悔い改めてもう一度神様との交わりの中に帰ってくる」、それは「神との和解」であり、 救われるということであり、「主は、イスラエルをすべての罪から贖って下さる」ことである。それを神は一番喜ばれ、あなたも一緒に喜ぼうではないかと言われている。悲しみ、絶望は人を頑なにするが、神の慰めは、悲しみに喜びを生み出し、人に再び隣人を愛する力を与えてくれる。神の 独り子である主イエスが、私に代わって最も深き暗闇のどん底に立って下さった。この神の慰めにより我々の味わう暗闇は神なき暗闇、神なき死ではなくなった。「神が共にいる暗闇」、「神が共にいる死」とされた。主イエスが葬られた墓、それは主イエスの復活の場である。絶望の中に光が、新しい命が、確かに生まれたのだと伝えるため。誰もまだ足を踏み入れたことのない所に、確かに道が敷かれたのだと伝える。だから我々の叫びは、ついには「慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに」との叫びにたどりつくだろう。そのことを信じてレント時を歩みたい。  
  交換講壇で市川三本松教会の外谷悦夫牧師に説教をして頂きました
 224()  「あなたの友人はどんな人?  ヨブ記 2:1~10 ルカ 5:17~26
 先日、市川三本松教会の「ぶどうの木」に 34 年参加された名古屋和泉さんと言う方が召されました。彼女は知的障がいだけでなく、声が出せず目が見えず、体の湾曲等もある重複障がいの人。イエスは子どもから学ぶのは 大人だと言います(マルコ 10:13~16)。和泉さんは5才頃に重複障がいの人から学ぶ青木昭美(アキヨシ)さんに出会います。そして中学生の時に柴田保之さんに出会います。この方が和泉さんの言葉を聞き取る方法を発見します。彼女は青木さんの感覚を研ぎ澄まし、その感覚に基づき丁寧に手を伸ばすと水に届くことを実践します。「重複障がいを持っている人たちは内に言葉を秘めているので、先生方がその橋を架けてくれれば、その子の内面の言葉の世界があることが分かってもらえる。でも橋が 架けられなければ、その子は人生をあきらめてしまい、人生を立て直せなくなってしまうことになる。」中風の人を床に乗せ屋根をはがしイエスの前に吊り降ろした友人達は、まさに橋を真っ直ぐにかけたのです。骨と肉に触れられたヨブは、不幸もいただこうとではないかと真っ直ぐに伴侶に呼びかけます。しかし友人らが見ていたのは、ヨブの罪で、存在の苦悩ではありませんでした。なぜ、正しい者が悲惨な目に合うのか。その答えがイエスだと指摘しているのは C.G.ユング(深層心理学者)です。 彼は言います。ヨブの正しさへの答えとして、罪なく、理不尽にも十字架で殺されたイエスによって神は新生しなければならないと。イエスはそれゆえに復活された。彼は奇跡を行いますが、彼こそは人となられた神であり、 私たちの苦悩と、生きる辛さと、病と理不尽な不正義に 対し真っ直ぐに向かい合い立ち上がる方として臨んでおられるが故に、奇跡を行うことができたのだと和泉さんの本験から私は教えられました。 罪を赦し、解放を告げ、起きなさい(立ち直りなさい)と語りかけるイエス。その方にそ、私たちの友であるのです。  
 2月17日()   深呼吸をして  マタイ 4:1-11

人はあわて、困ったことに直面する時、深呼吸をする。すると体だけでなく、心も落ち着いてくる。それは教会では、何より神さまの方へ心を向けることと言える。悪魔の誘惑は、一番もっともらしいことを言って近づいてくる。あるいは悪魔は「聖書に書いてある」と言う。だから我々が「聖書に書いてある」と言うとき、自分が悪魔になっていないか考えなければならない。悪魔は単純で簡単なことで誘惑する。誘惑は、聖書においては「試み」という訳でも登場する。はたして試みは神様からの「訓練」なのか悪魔の「誘惑」なのか? 聖書では「苦難による試練」を意味する試みも、その出所は神と悪魔の両方に帰されている。そうなると、最終的にそれは、私たちが神を「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」と考えるのか、「自分には苦難がある。しかし神は、私が耐えることのできないような試練にはあわせず、必ず脱出の道も備えてくださる」と考えるのか、ということに拠る。そこが違えば同じ言葉でも全く違うことになる。悪魔はそこを、不安や焦り、見栄、目に見えるものを使って、巧妙に誘惑する。試み(思わぬ問題、困難や痛み、悲しみ)にあうことは誰にでも存在する。だからキリスト御自身も試みにあって下さった。問題は、そこであなたが神様はどういう方であるかと、深呼吸してもう一度考え直せるかということ。信仰は「へりくだり」と「高慢」が、あらゆる状況において問われる。へりくだるとは、媚び、卑下することではなく、すべて神の御心に照らし出されて生きる生き方。しかしそこには、人を高慢にする、様々な誘惑が存在する。できるだけ神から遠く離れて、自分のしたいように生きたいと。そしてそこから憎しみ、争い、不信が生まれていく。それは私たちにいつも不安と恐れ、そしてたえず何かに駆り立てられて生きることを強いる。マルコの誘惑の話は、具体的な誘惑も、イエスの痛快な切り返しの答えもない。そこにはアダムによって象徴される人の罪の歴史が、イエスによって破棄され、新しい世界が始められたことが暗示される。そして、それは具体的に、イエス自身が十字架を背負う者として、人に仕える、自分の命をささげることにおいて示される。それが誘惑に打ち勝つことであるとマルコは福音書すべてをもって説明する。解放されるためには、今深呼吸して、神様がどんな方であるかを覚えるしかない。自分はこの神に導かれている。だから上手くいかないと思う時も、必ず神は道を備えて下さる。私たちが、主イエスにこそ心を向ける時、まことの安らぎを与えられる。そしてこの共通の思いを持つ時、とても嬉しいのです。

  210()  「同じ愛を抱き」   フィリピ 2:1-11
大船教会の目標には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くイエスの姿を証する」ということがあって、その具体的なこととして、高齢者や子どもへの配慮、地域との出会い、争いのない世界を祈り求めるなどが挙げられる。多くの人が「愛」こそが大切だと思うが、その実際は「やさしい愛」が欠けている世界だ。単なる学問の探求、奉仕だけではなく、思いやりを持つことへの練達が必要だ。少し前に、日本で行われたある意識調査によると、あなたが人生で一番大切にしているものは、何ですか」との問いに対し、一番多かったのは「愛」で、二位は「誠実」という結果があるそうだ。そもそも人は同じ「愛」では ない。江戸時代は「愛」は異性、お金、名声などへの執着心、煩悩の一つ。これに今のような「大切」「思いやり」という積極的な意味へと変えたのはキリスト教に他ならな い。何故なら、「愛」の比類ない「手本」として、私たちはイエス・キリストを見るから。使徒パウロは時に、現実の苦しみ理不尽さに打ちのめされ、絶望している。だからこそ彼は、喜びを満たして欲しいと願っている。それは時代を超えて、我々が同じ愛を抱いて「思いを一つにすること」。1節「慰める」はキリストが私たちの味方、我々をキリストの方に引き寄せてくれることを意味する。コリント書で、パウロの悩み苦しみは、キリストを通して、他者を励まし、パウロの受ける励ましは、同じくキリストを通して、誰かを励ますという。まさに教会はこのことにおいて、一つの思いを共有する。さらに、「はらわたからの思い」、「父なる神の憐れみ」が、我々に幾らかでもあるのは確かなのだから、「へりくだって」他人のことにも注意を払う生き方を促す。聖書で「へりくだり」は「傲慢」の反対の言葉。「へりくだり」は自己放棄や卑下、あるいは傲慢の裏返しではない。それはキリストの「へりくだり」を唯一の手本とする。神は自ら無力で弱い者として、この世に人となられたという神の愛の本質がある。このキリスト・イエスの福音をあなたの心にも抱く。それが私たちが抱く同じ愛。話しはすべて、「キリストにあって」で始まるのだ。初めて輝きだす。自分がどんなに大きな愛によって守られ、生かされていることを知らされること。そういう心が与えられているからには、私たちは互いに思いやることが出来るのだと信じる。それが私たちが人生で一番大切にするキリスト愛なのだから。
 23()    「まことの礼拝」  出エジプト40:34-38
40 章では幕屋が二年目の最初の月の一日にできたことが語られ、その重要性を見る。つまり、今まさに礼拝が始まるところで、出エジプトは閉じられ、レビ・民数記に続いていく。雲は、幕屋と祭壇と祭司が聖別し、主の栄光(神の顕示)を示す。しかし同時に、主の臨在は雲により見えなくされることにおいて示される。むしろ人間は、主の栄光の前に立つことなど、本来出来ない(モーセですら)。目に見えない、自分たちの思い通りにはならない神を畏れ敬い、み心に従い、そして礼拝して生きる、それが神の民の歩みの理想像。イエスが救い主であることを知らされたサマリアの女性は、礼拝するということを思わずにはおられない。神は人を、神を礼拝するものとして造ってくださった。出エジプトでは安息日として聖別し、人の思いや営みを中心とせず、創造の神を創造と約束の完成を賛美し、感謝する、さらに出エジプトの神の救いと贖いを覚え礼拝する。そういう人の存在の根源的な欲求、それが「まことの神を礼拝すること」。私たちの本当の必要を、最も良くご存知の神が、私たちを礼拝に招いておられるのは、私たちに礼拝が必要だから。なのに、人間は神から離れ、神への礼拝を忘れてしまった。毎日が忙しく、くたくたで、礼拝は時間を取られ、疲れるだけだと思っている。サマリアの女性はサマリア人というだけで、ユダヤ人から差別されている。本当に礼拝すべき場 所が「エルサレムにある」ならば、サマリア人が間違っている なら、女性は自身に対しても、信仰に対しても、もはや絶望するしかない。しかし、イエスは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、いやまさにこの瞬間、礼拝するのだと言われる。「霊」と「真理」、それは、イエス・キリストを通して礼拝するということ。まことの礼拝とは、私たちは新しく生まれるということ。インマヌエルなる主イエス・キリストを必ず、実に豊かに示して下さる聖霊に満たされ礼拝すること。その時「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」という主の言葉を聞く。人間による神との断絶の悲劇は、神の独り子である主イエスの十字架の死にお いて赦され、新たに生きるものとして、主なる神のみ前に立つことができるものへと変えられた。これが聖書が示す、理想の、そして究極の礼拝。我々はこの世での繁栄ではなく、神の国、救いの完成に向けて旅をしていく。そして礼拝こそが、我々を導く合図。主はその都度、キリストの命による「まことをもって礼拝する」ことを与え備えて下さる。その礼拝に、共に進んでいく。
1月27日 ()  「恵みに富む神」   出エジプト34:1-10、ローマ5:15-17

桃井和馬さんは写真集「和解への祈り」で「和解は言うに易く、行うは難し。イエスが説いたのも、和解の行動、実践。不寛容が一気に世界を覆いつくそうとする今だから、私たちは和解の意味をもう一度、噛みしめる必要がある」と書く。イスラエルの民は、金の子牛を拝むという重大な罪を犯したが、赦され、再び神の民として歩み出すことができるようになった。34章には一旦失われた神との契約が、もう一度結び直されたことが語られ、十戒の第一から第四の戒めが具体的な形で、振り返られている。第一の戒めと第二の戒めの根底には、「私は主、あなたの神」、「熱情の神」がある。さらにここでは、「憐み深く、恵みに富む神、忍耐強く(怒るに遅い)、 「慈しみと「まこと」に満ちた」とその名が示される。 「恵みに富む」は 22:26 では、社会的弱者に対する保護を示している。何の(同等の)返礼を期待できない者への偏愛。しかしイスラエルは、この恵みによってこそ、贖われた。主の隣れみと恵み深さは、罪に対する怒りや罰よりも、何百倍も大きい。そのことを、神は主イエスを通して実際に示される。パ 「ウロはローマ 5:15 で「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」と言い、たった一人の人間アダムに罪の根源と広がりを見るならば、善の根源である神の御子イエス・キリストの恵みとその広がりは、アダムの比ではないことを強調する。人がもたらすものは、罪であり死であるが、キリストのもたらすものは「救い()と命」である。モーセはこの主 のみ前にひれ伏して礼拝した。20 節「何も持たずに、私の前に出てはならない」と教えを受ける。与えられた解 放は無償で得られたものではないという考えが根底にあ る。解放された者は、犠牲となった者の代価を払うという責務がある。これは、礼拝することの根本に関わる大 「事な教え。新しい契約は、無償で得られたものでは 「ない。キリストの命をもって罪を赦され、新たに生 かされる我々が、礼拝で、自分に与えられた収穫、実りを差し出し、その人々と分かち合うということが期待されている。私たちは、主イエスにあって、そういう礼拝を求めていかなければならない。

 120日(日)   「思い直して下さる方」  出エジプト 32 章
 出エジプト記32章は、イスラエルの民が金の子牛の像を造 り、これを礼拝したことが書かれている。彼らが作ったのは、人間の願い、欲望、保身あるいは不安、恐れを投影したも 。なんという裏切り、皮肉、なんという罪か!主なる神は、「かたくなな民である」と激しく怒られる。「かたくな」は、これまでエジプトのファラオあるいはエジプト人に対して言われているものと全く違う。ここでの「かたくなさ」は、神の救いを「経験し、契約を結んでもらった者がが家畜がうなじを固く して抵抗するように、神の言葉に耳を傾けない、聞かない、受け入れない、心を自らかたくする姿である。まさにエジプトのファラオより始末が悪い。そしてそれは、我々自身の姿でもあることを思わされる。神はこの民を滅ぼし尽くす権威 と力を持っておられる。しかし、モーセが主なる神をなだめたとある。ただそれはもう少し複雑で、3317まで記されている。内容は、様々な解釈があろうが、主なる神の怒りと裁きの言葉の背後に隠されている、恵みと憐れみの御心を見つめ、それにすがり、また自分に対する主の好意を最大限に用いて民に対する憐れみと赦しを願っている。誰かのために神に執り成しをするというのはそういうこと。神が思 い直して下さらなければ、私たちも滅びるしかない。しかし主なる神は、執り成し手の説得によって災いを思い直すことを望み、またそれを喜んで下さるお方。ただ、罪の赦しは、神に災いを思い直してもらうだけでは足りない。人であるモーセは自分も民と共に、滅びと死を受けることを覚悟する。しかし神の独り子イエス・キリストの贖いは、モーセをはるかに超えた仕方でなされた主イエス・キリストによる贖いにあずかる私たちは、罪を赦されただけでなく、主の復活にあずかり、死の力からも解放されて、新しい命を生きる者とされる。それこそが、神が望んでおられる、贖いであり、新約聖書で主が言われる、我々に与えられた新しい葡萄酒、 しい革袋である。社会的に小さい立場の徴税人レビはイ エスと出会い、祝宴を開かずにはおられない。そして律法学者たちはその祝宴に招かれる。思い直して下さる方は、小さくされた者を通して、我々を再生という福音の輪の中に導いてくださる方。それが神の国であり、新しい葡萄酒。そ これを喜び、自らの内に注ぎ入れられる新しい皮袋かどうかは、今、私たち一人一人に問われている。主イエス・キリストの命によってこの救いの恵みが私たちに与えられていることを覚え、共に進んで下さる主なる神を覚えたい。   
 113()  「契約の締結」  出エジプト24:1-18

24 章で、モーセは、アロンや長老たちを伴いシナイ山を登る。旧約聖書において、人は神を直接見ることはできないが、ここでは許され神の前で食事を共にする。これが、契約の締結の一つの要素となっている。またこれに先立ちモーセは、「主のすべての言葉とすべての法」(恐らく20-23 章の十戒と契約の書)を読み聞かせ、人々は「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言う。19 章ではこの契約は、自分が選ばれるにふさわしい者だったと高ぶり他者を裁くものではなく、むしろ他の人々が神の救いにあずかることを願っておられる神のみ心を行なうために努めるためのものだと知る。それがここでは、神のその恵みに応答し、神の民として具体的に生きていくことが求められる。契約は、アブラハムにはじまり、イサク、ヤコブ、そしてシナイでの契約へと進展し、イエス・キリストへ。このように一つの契約は、神と民との間において発展し、より具体化し、そしてより救いへと本質化される。佐竹明さんは、ヨハネ黙示録は「全く新しいものの出現を歴史の将来に期待している」という。キング牧師はヨハネ黙示録 21 章で「新しい天の都 で、最も尊いのは、その完全さであった」とし、他者の幸福 に心を配る「幅」は、個人的欲求の「長さ」を乗り越え、そして「高さ」がなければ、人は大空をもたずに生きるのと同じだと言う。恐らく人は皆、人間の真面目さと誠実さ、正しさの 限界を抱えて生きている。出エジプト24章で、犠牲の雄牛の血によって礼拝が行われるが、民のその誓いはまたたく間に破られてしまう。佐竹明さんが指摘するように、ヨハネ 黙示録は「全く新しいものの出現」を天上界の基準で「ユダ族の獅子・王」は、地上の現実では「屠られた小羊」以外ではありえないことに見ている。人は「わたしたちは、すべて 行います」という誓いによって救いを得ることはできなかった。滅ぶべき民の代わりに、神の独り子主イエスが十字架 | にかかって肉を裂かれ、血を流して下さった。主イエスが十字架で流して下さったその血が、私たちに罪の赦しを与える贖罪の血となった。シナイにおける契約は、神の前での食事によって結ばれたが、復活のイエスは、弟子たちの前で、その関係回復のために魚を食べて下さった。復活に与った命は十字架の苦しみに与った命であり、十字架の苦し みに与る者は、必ず復活の命に与ることを知らされる。そういう全く新しいいのちに、生き始める。私たちの中でイエスの愛を再構築する。そういう体験を、誰もがこれからの人生で求めていく。これこそが、福音の中心・基盤、神の我々に対する新しい契約の締結だと覚える。

 1月6日  空の青さに抱かれて コヘレト1:1-18 

16日は公現日。いわば、私たちのもとに来てくださったイエスに全世界の人々が(人種・民族・宗教を越えて) 出会う日。我々の信仰生活で、キリストに出会う喜びは、とても明るい色をしていただろう。しかし、悲しみや苦しみを経験し、次第に信仰の「色」が変わっていく。コヘレトは、裕福で、豊かな才能にも恵まれていたが、その時代は報われない時代であった。その中で「空しい」という視点から世界や歴史・人生を見つめている。「空」は「信頼するに足りないもの」「何の結果も生み出さないもの」 を意味し、いわばマイナスの境地。ローマ 8:20 は、すべての被造物は「虚無」に服しているという。これは創造され、完全であり得ない人が、その存在目的を果たせないことへの苦痛・苦悩。だが、コヘレトはこの世(太陽の下) の空しさに、確かにさらされているが、そのことによって、この世の空しさの外側にある幸せを探求している人と言えるかも知れない。マルコ92節以下の「キリストの変貌・変容」で、イエスは山上で白く輝き、神の国の姿を示すが、イエスは山を下られる。そこは我々の生きている現状がある。山上で、神が「これは私の愛する子」とイエスを呼ばれるが、それは栄光を示すものではなく、再び我々に「苦難の僕」を想起させる。イエスは十字架で、傍らの罪人の一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われる。我々を虚無の中へ無理矢理引きずり込んでいく死においても、イエスは「安心しなさい。私はあなたと共にいる」ということを示 している。私たちを真の意味で生かすのは、「天国」・「楽園」という「場所」の問題ではなく、それは、私たちをいつどんなときにでも見放すことなく、恵みと慈愛のまなざしで見つめ続けてくれる存在との「関係」。そしてその関係を神は、十字架の死という究極の空しさ、苦しさ、恐ろしさにおけるイエスを通して、示される。これこそが、恵みと 「憐れみの源である神が、我々と結んでくださる「愛の絆」。知識や情報が自動的に人間を真の人間へと作り 変える訳ではない。そこには「出会い」の出来事が必要。自分が「空」を見るだけでなく、「空」によって自分が見られているということに気づかされること。願がわくば、新しい年も、キリストのまなざしという「青い空」に抱かれながら、歩んでいきたい。 

  2018年のメッセージ
12月30日(日)  「様々なクリスマス」  マタイ2:16-28
 私たちは 124日に始まるクリスマス集会から、様々なクリ スマス礼拝に集うことができた。しかし、この年には実際、 喜びや美しさから遠くかけ離れたことが多くあった。2018年 を迎えたころは、隣国との関係も最悪で、本当にいつ戦争 が始まってもおかしくない状態だった。2月の台湾の大地 「震、6月に大阪で地震、7月の西日本豪雨、9月の北海道 地震、台風21号、24号、インドネシアの地震と津波、そして 「12 月に沖縄の辺野古での基地建設の土砂投入が始まった。あるいは、我々の中には、愛する者を亡くしたり、自身 の病気、家族の看病で、とても、平和だなんて言えない人 もいるだろう。ヨセフとマリアもそうで、新しい「いのち」が受 け入れられない場所で、母となり、父とならなければならな かった。ヘロデ大王は平和の君イエスの誕生に不安を抱き、2歳以下の子どもを惨殺する。人の罪の深さ、そして人間が自らの背後に何らかの犠牲を引きずってしか生きれな いことを思わされる。マリアと同じように旅の途中で出産したラケルは、まさに自らの「いのち」と新しい「いのち」との交換を意味した。そのラケルに預言者エレミヤは、北イスラエルの捕囚を最も激しく嘆いた人物としての大きな役割を、そして嘆きだけでなく、「私は彼を憐れまずにはいられない」という神の確かな希望のメッセージを伝える。ミケランジェロのピエタのマリアは、生まれた幼子と十字架に処刑された二人のイエスを抱き寄せていることを思わしめ、そこには出産の幸福も、喪失の悲しみも、実はイエスにおいて、まったく同じ次元に属することが示されている。クリスマス、それは喜びのときというよりも、むしろ深い悲しみの季節なのか、とさえ思える。しかし「神の身分でありながら...、かえって自分を無にして・・、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」というキリストの本質は、「無力ないのち」を守る責任が、弱く、悲しみにある人に 託されていることを教える。そして、この無力な赤ん坊を守る力、つまり「愛」の力を、神は自らの命をもって我々に教え、求めておられる。いわば、人には考えも及ばないことだが、悲しみの中における、我々自身の命と新しい「いのち」 との交換である。様々な所でクリスマスの恵みにふれた 我々は、「無力ないのち」に対して応答する責任が求められている。そしてこの悲しみから、キリストの愛の物語を、紡ぎ生きる一人として、新しい年も歩んでいきたい。 
12月23日(日) クリスマス合同礼拝 「愛が生まれる時」   ヨハネの手紙I4:7-12
「自分が神の愛の中にいる」ということを忘れてしまっている人がいた。それは、キリストの贖いを拒絶し、キリストの受肉を否定することである。そこで手紙の著者は、具体的に「愛する」という動作を通して、「神は愛」であり、我々はその神に「かたどって」造られた者であることを思い起こさせる。愛は抽象的な概念ではない。御子は馬 小屋で生まれ、ヨハネの手紙は「ここに・・・示された」「ここに・・・あります」と具体的に愛を指し示す。それは 「我々が生きるようになるため」であり、「私たちの罪を償ういけにえとして」であり、神の愛はイエス・キリストの受肉」と十字架の願いによって示された。だから神の示す愛は、今も私たちの世界の現実に、十字架という形でもって突き刺さっている。ローマ13:8は「互いに愛し合うことの他には、誰に対しても借りがあってはならない」とある。 パウロは自分の義務の遂行、あるいは誰に対しても「借り・負債を」を作らないという世の常識の中で、「愛することの借り、負債」は唯一例外として認め、むしろ積極的にこれを負うようにと勧め、キリスト者はこの負債にこそ生きるべきだとする。愛の負債とは、一方的に赦され、愛されるという出来事の体験。つまり主イエス・キリストの受肉と十字架と復活に根差している。「誰々を愛さなければならない」ではなく、「積極的にキリストの愛の負債を負う」なら、私たちの生き方は、少し変わるかもしれない、謙虚になるかもしれない。クリスマス礼拝には、出席できない多くの方がおられる。高齢のため、病のため、家族を看病しているために。でも祈り、賛美の歌を歌う時、やはり我々は共にキリストの愛に生かされているのだと知らされる。私たちは、神に大きな借りがある。神学者の小山晃依さんが言われるように「愛は落ち着かない」。一カ所に 座り込んでしまう愛はありえない。私たちは神を見ることはできない。しかし神の働きを見ることはできる。互いに愛し合うことで、その愛を経験できる。神の働きは、御子を遣わすということにおいて明らかとなった。それがキリストの受肉。それだけではない「キリストの十字架の命」 を通して「神は愛」であることを、私たちは知らされた。だからもはや、私たちは愛に白ける、あきらめるなどという」態度は取れなくなった。「ここに」という形で、はっきりと示された。クリスマスは愛が、私たちに生まれた日なのだと 声高らかに賛えたい。 
  飯泉有一神学生に説教して頂きました
 129()   「心の門を開いて」  ゼカリヤ 9:9-10 マタイ21:1-9
 鎌倉の地にあるこの大船教会で、説教をする機会を与えていただいたことに、非常に感謝している。アドヴェントについて、共に学びたいと思う。アドヴェントはラテン語で「到来」という意味だ。日本語ではそれを、待降節と訳している。元来は、祈りと断食の中で、最後の審判を迎える準備をする厳粛な時でもあった。このマタイ福音書の聖書個所は、聖公会やルーテル教会等では、待降節に読むものでもある。「主が入り用なのです」(マタイ21:3)との御言葉がある。神様の計画は、人間を用い、巻き込みながら実現されていく。この御言葉は、私たち一人ひとりに対し、呼びかけられているものでもあると思う。信仰生活の第一歩は、イエスを王として自分の生活、教会の生活の中に迎え入れるかどうかで定まる、と言われている。ゼカリヤの引用個所(5)は、武力で支配する王ではなく、人々の嘲笑を受けつつ、自己を十字 架にささげるという、徹底無抵抗の王だということを示している。日本聖書神学校は、夜間学校だ。昼間は介護福祉士として、社会福祉法人南町田ちいろば会みぎわホームで働いている。ちいろばは、イエス様がエルサレ ムへ入城された時に乗られた、ろばにちなんだ名前だ。作家三浦綾子の『ちいろば先生物語』でも知られている。榎本保郎牧師より南町田ちいろば会の名前をいただいている。主イエスにろばの子のように用いられ、弱く、小さくされた、高齢者やしょう害者の方たちと共に歩むことにより、「平和を実現する人」(マタイ5:9) となれると 信じ、福祉の仕事に取り組んでいる。讃美歌 233「高く戸 を上げよ」は、この日の聖書個所をふまえたものだ。平和の主であるイエス様を、心の門を開いて共にお迎えしたいと思う。
 12月2日(日)  「平和のヴィジョン」  イザヤ 11:1-10
アドヴェントに入るこの時、我々は何をすべきなのだろう。そ れは、自ら根をしっかりと張って、精一杯生きることだ。使途 パウロは様々な苦労・苦難に直面したが、それでも「行き詰 まらず、失望せず、見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされ ない」と語っている。それはパウロが「土の器」にキリストの 福音という「宝」を納めていたから。イザヤ書11章1-10節 の中心にあるのは、弱い人々や貧しい人々に対する主なる 神の正義と公平である。その神の正しさが始める新しいこ と、それが「エッサイの株」についての言及。エッサイはダビデの父で、この歴史を生きる人間。その人間は、罪に敗 れ、間違いを犯す。しかし、このような破れの中にある人間 を神は覚え、一つの若枝を育て、実りをもたらす。それは神 との和解を与えられ、命を与えられ、再び地に満ち繁栄す る回復のヴィジョン。そして、そのヴィジョンは主の霊と共に 与えられるメシアによって実現される。それは「畏れ敬う霊 に満たされる」者として、「知恵と識別」「思慮と勇気」を発揮する者。主の霊が留まるものは、目に見えるところによらず、弱い人のために正当な裁きを行い、耳にするところによ らず、貧しい人を公平に弁護する。人が思いあがっていれば、そこに正しい弁護も裁判もないし、真の解決策はない。結局、人の王では真の平和は実現されることない。必要な のは、神を信頼すること=立つべき所に立つことを通して、神の平和のヴィジョンにおいて生きること。11:6 節以下に |は、あらゆる敵対する存在が、小さいものに導かれ共存しているヴィジョンが描かれる。この平和を実現する救い主 「は、羊飼いである。羊飼いは、敵対する者同士であふれて いる現実の世界に平和を打ち立てる。そこでは、すべての 「命ある者の間に、互いの生の尊厳が保たれる。それは単に ロマンチックな理想郷ではない。この新しく生まれるメシア は、人が負うべき罪の裁きと代償すべてを負い、鞭と死とを 自身の身に引き受けて、この平和を実現する。その痛みと 赦しによって人の内に「平和」を作り出す。ここにこそ、リス マスの意味がある。イエス・キリストにしっかりと根を張った 生き方は、平和を力の支配や軍事力と見誤ることはない。 一見ひ弱そうにみえて、むしろ、嵐の中でこそ、より豊かに根をキリストに伸ばし、そこから得たものによって新たな命を育んで行くことが出来る。イエスが、キリストとして告白され るところでは、必ず正義と平和が問われる。そして、この主 において、我々は必ず、一つに結び合わされていく。この救いのヴィジョンを我々は持ち、進んでいかねばならない。 そういうアドヴェントの時を、歩んでいる。
 11月25日(日)   「圧迫されている人に自由を」  ルカ 4:16-30
ルカは、イザヤ42章の主の僕(苦難の僕)を下敷きにし、政 治的・社会的、身体的圧迫からのアフェシス(解放・自由・赦し)という宣教視点をもってイエスを描きはじめ、十字架上で罪人を解放する(赦す)ように求めるイエスの執成しの祈りで締めくくっている。つまりルカにとって、あらゆる人々 がイエスの福音を通して解放されることこそが、「主の恵み の年」が始まり。「恵み」は「受け入れられる」であり、イエス の伝える神の国および救いの業の実現そのものである。受肉されこの世に来たキリストの目的を抽象的な事象にしてはならない。イエス時代、社会枠にさえ入れられないアウト カーストの民が存在する。聖書の語る「貧しい」は極貧者で あり、我々は想像すらしえない。「捕らわれている人」は文 字通りには「捕虜、囚人」であり、圧迫されている人は「打ち砕かれた人々」である。我々もまた格差社会に生きている。 また、我々は、かつて戦争の加害国であり、加害者である。 同時に、空爆、原爆のむごたらしさ悲惨さを経験した。どん な理由があっても、戦争を二度と繰り返してはいけない。し かし、現実にはそのことに対する無関心がある。すべての 差別の根本にあるカーストの概念は、明確な理由なしに特定のグループをタブー化し、人々の深層心理へ働きかけ 「差別を扇動し,社会的不満のはけ口として利用し、それを もって支配者の意義を高め、支配者の社会秩序を構築していく。多くの人もそれが当然だと考え無関心となり、他者 の痛みと苦しみを心に留めることはない。しかし、イエスは、 「まさにそのアウトカーストとして生きたのであれば、その投げ つけられる侮蔑やヘイトスピーチは、イエスに投げつけられ ているもの。その差別、いじめ、搾取は、イエスに向けられ ている。戦争で愛する家族をことごとく奪われ、その上な お、基地を押し付けられるそのむごさは、今イエス・キリスト が実際経験している。そして、イエスにそれを投げつけてい るのが、決して自分ではないと、我々は本当に言いきれる だろうか? 資源と市場を、暴力的に求めてやまない欲望の 近代合理主義に対して、キリストにある神の愛の無条件 性、無償の恵みの真理の前で、世界のすべての教会とキリ スト者は、自らの信仰と霊性、存在が問われていく。イエス が今日の聖書箇所で「今日イエスと出会った者全てのため に、イエスは十字架に架かって死ぬ、そのために私は来た のだ」と言われている。これにそが、我々が真に生きるため の確かなことであり、知らされたこと。だから我々は解放の 恵にあずかり、確かに新しい歩みを始める。
 11月18日(日)子ども祝福合同礼拝  「わたしたちがすべきことは」  マルコ8:31-38
教会の幼児祝福式は、いわゆる七五三的な祝福ではない。祝福された人生とは何だろう? イエスは、いつも我々のイメージしていることと逆のことを言う。真に生きることは、「命を失わない二と」であるが、それはイエスの受難予告と大きく関係レ、そしてイエスに従い行くことと結び合わせられている。ここで言われる命は生物学的な生命のことではなく、ある神学者は「自分自身」「自分らしさ」と訳す。真に生きることは、自分自身を失わないこと、あるいは神から与えられた人格そのものを失わないことである。神に似せてっくられた人間の本質は「いのちの尊さ」「ひとりひとりのかけがえのない人格の尊厳」「善に対する感受性」「人間を超える偉大な存在に対する謙虚さ」「他人のために自分を与える喜びと幸せ」「人間が共に助け合い分かち合う連帯性」を、人は自分では見出せない。では、どうするのか? 福音のために命を失わなければならない。世界中のほとんどが、ぱかぱかしいと言い、だからイエスは殺されたのだ。そもそもどうして失くすことによって得られるのか? 自分が持っているものを大切につかんでいるから、得るのではないか? 旧約聖書のイサク奉献の話は、イサクは一度死に、この時アプラハムも死に、死んで、よみがえった恵みとして、アプラハムはイサクを受け取った。そのことを通してアプラハムも新しく生きる音とされたことを語っている。手放してしまうことを通してのみ、何かが伝えられた。福音のために命を失うということは、簡単に言えばあなたも主と同じように十字架で死ぬということ。それは、キリストを目的にするということ。キリストを目的にすると'ま、神からの喜びの贈り物を与えられていることに気付くこと。だから、自分自身を捧げると言うことは、神からの喜びの贈り物を受けること。十字架を背負うことは、自分を嫌い、否定非難することではない。それは神のとてつもなく大きな愛を知らされることであり、イエスのために生き、神が明かす計画のなかに、自分の役割が確かにあるのだと生きていくこと。神は御子イエス・キリストを私たちに差し出して下さった。その死から、私たちは神様のとてつもなく大きな愛を、贈り物を知らされ、それを背負い、新たに生きていく者とされた。捧げることは生きること。捧げろ形は様々だ。ただその報酬は、本当の自分らしさであり、本当に生きること。本当の喜び。「喜び、感謝、命の再建」である。「しなければいけない」ことではなく、十字架の主イエスを愛することから始まる、我々の人生の晴れ舞台。その姿を、子どもたちに伝え、今日.、分ち合いたいと願う。  
 11月4日(日)召天者記念礼拝  「今日も、明日も」  ルカ13章31-35節
古代ケルト民族は一年の終わりを10月31日と定め、その夜を死者の祭りとした。この習俗がキリスト教信仰に取りこまれたが、それは祖先崇拝ではなく、信仰者同士の交わりを覚え、感謝する時。若くして召された人も長生きした人も、誰もが何かの思いを残しこの世の生を終えていく。残された者はそれを受け止め、担い、生きていく。そのようにして人の営みは、今日も明日も続いていく。エルサレム途,ヒにあるイエスは、ヘロデに「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と言われる。イエスが行っているのは、ヘロデの全く正反対のこと。たとえヘロデが死をもって脅そうとも、イエスはこの業を、これまでと同じように続けていく。しかし、同時にそれは「三日目にすべてを終える」ことになっている。この言葉は次の33節で説明されている。イエスは今日も、明日も、「しかし」、「その次の日も」自分の歩むべき道を歩んでいかねばならない。それが、エルサレムへの道、十字架の道であり、神の御旨の必然。しかし同時に、神は三日目にイエスを死の中から起こし復活させてくださる。イエスの宣教のみ業は、三日目に神によって完成される。イエスがエルサレムで死に復活することによって、人には死からの救いがもたらされる。生老病死が私たちの人生にどのように存在するのか、その理由は分からない。旧約聖書のヨブの苦しみには、明確な答えがない。その苦しみに、神の真の御心を見るためには、神と人を執成してくれる存在、贖う存在が必要である。神の裁きを軽んじてはならない。確かにデッドラインは存在する。ただ、ヨブが求めた贖い主、「まことの羊飼い」であるイエス・キリストが、己の命を懸けて、最大のリスクをもって1匹の羊を探してくれる。その方が、時代を超え、いつもあなたの傍らにいて、共に涙し、あなたの自責の痛みを背負い、導いてくれている。それは不条理な世界の中で、唯一真の神は確かに存在すること、あなたを愛し、あなたが生きることを願われていることを知らせてくれる。神は今も、そのみ翼を大きく拡げて、我々を招いておられる。だから復活の希望を決して見失わないで、むしろその恵みに喜びと、感謝をもって生きていくことを思わされる。教会の暦は死者の記念から、命の誕生を待ち望む時となる。信仰の先達、友、家族、その一人一人が、今私たちのこれから歩んでいく道を、照らし励ましている。主の福音に生きる素晴らしさを伝えてくれている。主において、希望をもって明日を生きていく。  
 10月28日(日)   「救いをもたらすために」 出エジプト21:23-25 
ヘブライ9:23-28モーセは焼き尽くす献げ物をささげさせ、血の半分を祭壇に振りかけ、半分を民に振りかけて契約を締結している。ヘブライ語の「契約」は「切る」という意味を持ち、もし契約を破ったならばこの動物のように裂かれて血を流して殺されても文句は言わない、死で償うという重い言葉。ただ神と人との契約は、対等の関係で結ばれる「契約jではない。それは神の一方的な慈しみによるもの。イスラエルの民はその恵みを喜び、応答して生きていく。だから20;22からの契約の書は、その喜びの生き方を具体的に示すもので、本来、人間関係を良好に保つための具体的な指針。主にあって、誰の命も尊重されるべきであり、近代国家でも用いられる同等報復の理論で、相手への復讐や報復を制限している。しかしイエスはこれを「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」で置き換える。律法と比べてイエスの方が、全く非現実的な理想論のように思える。しかし、我々が同等報復の理論にしか生きないのなら、もし我々が誰にもその償いを要求できない状況になったら、どうするのか? もはや神にその責任を負わせ、神を殺すしかない。そもそも律法の同等報復の理論は、自由人と奴隷では、成り立たないのだ。同じく神と人の契約は同等報復の理論では成り立っていない。その二とを、罪のない真の神でありながら、我々の罪のために死なれた、イエスの十字架が示している。ヘブライ人への手紙は、世界が隠してきた、支配体制を崩癖させないための「身代わりのいけにえ」のからくりを、ものの見事に描き出している。律法の定める犠牲の儀式が、所詮その場しのぎの「内の規定」にすぎず、死んだ業にすぎず、我々の良心を完全にすることができないと言っている。人が己の罪のために「身代わりの犠牲」を求めて殺したイエスの十字架。同等報復の理論であれば、キリストの血を、同等の価値で償う必要がある。そんなことは我々に出来るはずはない。しかし神は償いを求めるどころか、キリストの十字架の血をもって新しい契約を締結して下さった。キリストの命によって締結された「新しい契約」は霊による契約であり、私たちの生きる方向が根本的に変えられる。旧約の「同等報復」の原理と「競争と犠牲の世界」から、新約の「赦しと共存の世界」に、新たに生かされる。ヘブライ9章の最後は、救いの終末的完成のためのキリストの再臨が言及される。これは我々の希望と確信に満ちた信仰生活への励し。「生きづらい」社会で、キリストの命による、新しい契約の生き方が問われていく。そして十字架のイエスが私たちの前を確かに歩いて下さっている。
10月21日(日)  「なんじ殺すなかれ」  出エジプト20:1-7、マタイ5:21-26
 「殺してはならない」という十戒の第六の戒め。仏教の五戒の中の不殺生戒は全ての生き物の命を奪ってはならないで、虫や動物を殺すことも人間を殺すことも同じレベルで捉えられている。それに対してモーセの十戒の「殺してはならない」は、人間を殺すことの禁止で、問額にしているのは我々の人間関係。なぜ、人を殺してはならないのか。十戒の根拠は、人間の常識や道徳的感覚ではない。十戒は、エジプトの国、奴隷の家から導き出した「わたしは主、あなたの神」と「熱情の神」において成り立っている。すべての根拠は神のみ心であり、神と関わる存在として造られ、神が慈しむ人間を、我々が勝手に軽んじたり奪ったりしてはならない。そして私たちの人間関係は、この神の恵みの土台の上にこそ築かれていかなければならない。この土台に立つのなら、あなたは、姦淫することも、盗むことも、偽証することも、隣人のものをねたみ奪うことも、あるはずがない。この土台を無視して、人間関係において自分が主人になってしまおうとすることが人間の罪。その罪が殺人を生む。創世記の「カインとアベル」の物語は、我々の生活の中でも身近な話だろう。根底にあるのは、人間関係間の不公平、不平、怒りを、自分が主人になって、自分の正しさで清算してしまった。あるいはレメクのように、神の憐れみさえ己のために利用し、復讐をどんどんエスカレートさせる。マタイのこの個所は6つの対立命題の最初。対立命題はいわば、古い葡萄酒に対して新しい葡萄酒が来たことを言っている。この個所は、マタイマタイ18章21節以下によって補足具体化される。無制限に赦しなさいと言うイエスの発想は、まさにレメクに代表される人間の考え方と真逆の発想。そしてその発想の根拠は、あなたがすでに神様に無限に赦され、深く深く愛されているからだということにある。「殺してはならない」という戒めはそこに根拠i を持ち、我々に悔い改めを求め、さらにイエスの福音は、私たちの人間関係がキリストにあってこそ整えられていくことを求めている。今日の箇所が最終的に勧めているのは和解である。この言葉を語られたのは、まさに私たちの罪を十字架の上で贖ってくださった主イエスご自身だ。だから主を信じ礼拝する我々は、主にあって「和解」へと導かれている。それこそが、「なんじ殺すなかれゴの声を聞く、私たちの新しい歩みなのだ。
10月14日(日)  [安息日の主」 出エジプト20:1-17,マルコ2:23-28
一週間は七日であり、日曜日が休日であることの本当の意味を知っているのは、キリスト者だけ。そもそも旧約聖書における安息日は土曜日。日曜日が休日となったのは、主が週の初め、日曜日の朝に復活されたから。キリスト教会は日曜日を「主の日」(黙示録1:10)と呼び、この日に礼拝を守った。私たちが本当の意味で休むとは「自分のベクトル」から解放されること。つまり「神様のベクトル」から生きるようになること。第七日は、神が私たちを「良し」として下さり、肯定して下さり、愛して下さる日。そしてそれは、イエス・キリスト十字架の死と復活によって実現した。このキリストにおける霊的安息に与るために礼拝へと招かれ、本当の安息にあずかりつつ、周囲の人々に影響を及ぼし生きることができるようになる。マルコは安息日についての論争で「あなたは何の権威に従い生きるのか」と我々に問うている。この話は、無銭飲食や緊急事態の特例の話ではない。マタイが補足するように、祭司は神殿に仕え、弟子は神殿より偉大な者に仕えている。神殿より偉大なものはイエスであり、弟子は祭司と同じように、安息日に働いても問題はない。さらに、祭司は神殿でいけにえをささげるが、神殿より偉大なイエスが求めるのは「憐れみ」である。この憐れみは「契約に対する神の誠実な愛」に裏付けされたものであり、それが人を他者への愛へと導いていく。だから安息日は律法を超え、人間が神の前に自分の存在を喜び、他者と結ばれていく日。まさに「安息日は人のためにある」のである。しかし、人の「自分から」というベクトルの、的外れな生き方は、高慢、ねたみ、不寛容、不和・憎しみ争い、貪欲などを、際限なく産み出していく。当然、神の怒りを受け、滅びゆく。しかし、この呪いから逃れるために主は十字架について、自ら律法の呪いを身に負い、死んで下さった。安息日の本質である、無から創造、成し遂げられるという確かな希望と信頼、そして何より、神の贖いという絶対的な救いの出来事が、キリストの十字架の命と復活によって、より確かに示された。我々はそういう霊的安息において生きている。イエスの中に創造・贖い・完成の喜びが存在する。だから、イエス=人の子は、罪の赦し、罪人との食事、人の癒し、安息日に対して主である。それが「神の支配」の実現であり、神の権威である。人は、この神の権威にすべてにおいて従い、生かされ、喜びをもって主を賛美する。律法に縛られた奴隷ではなく、人は、イエスと同じように安息日の恵みを自分の内に成就する。無機質で憐れみがない現実の世界で、我々は主の日をどのように表現するか?それが問われる。  
 10月7日(日)世界聖餐日  「何をして欲しいのか?」 マルコ10:46-52 
「この人こそメシヤ、王位に就かれるためにエルサレム行かれる」と思い、イエスを取り囲む弟子と群衆。対照的に目の不自由な物乞いの人は、神に呪われた罪人として町の中、城壁の中には入れない。だからバルティマイの「主よ、私を憐れんで下さい」(キリエ・エレイソン)は「当たり前の人間として生きていきたい」という人間としての尊厳の叫び=祈りと言える。新聞によれば、日本社会で障がいを理由とした差別や偏見が「ある」と思うのは83.9パーセントにもなる。「誰もが差別はいけないこと」と思っているが、残念ながら差別と思われることがたくさん起きている。障がいを理由として差別されることなく、お互いを尊重し、勉強したり、働いたりできる、誰もが安心して暮らせる共生社会の実現を目指す必要がある。バルティマイとは誰か?と思わされる。権威主義的な教会指導者に対する、真の信仰者の姿として示されているかもしれない。あるいは、①持たない②知らない③出来ない④存在しないという4つの「ない」で特徴づけられている人が、「わたしはある」という名の神への叫びを通して「在る者」になっていくことを示しているのかもしれない。だから福音は、「ない」という生活の座から、もう一度聞き直していく作業が必要。パウロは人間区分を「性」と「身分」と「人種」に区分し、「イエス・キリストにおいて一つ」という接点においてのみ、差別対立を根本的に乗り越える事が出来ると示す。人は目に映ることを見る故に、本質が見えていない。イエスラエルの民は、もともと最も小さく、弱い民であった。ただ神が、ご自身の愛ゆえに彼らに目をとめ、彼らを諸民族から選び出し、神に応答して生きる民とされた。その神の恵みを、自分は見えていると誇るとき、見えなくしてしまった。ルカ24章で、2人の弟子がエマオ途上、主と共に食事をした時、十字架の死と復活の意味が同一の救済の物語となって示され、心の目を開かれる。バルテマイは聞いて信じ、見て、そして十字架のキリストに従う弟子になった。私たちも憐れみを受け、今は何が大事で何が不要かを見えるようになった。今や私たちが一一体誰であるかが、ハッキリ示された。私たちはキリストに結ばれた、キリストの体、教会である。キリストに結ばれた、十字架の赦しと復活のいのちを与えられた、キリストの体のかけがえのない存在として、世界にキリストの救いを証しする者だ。  マルコ10:46-52
9月30日(日) 「神において愛のほかに」 出エジプト20:1-17、ローマ13:8-10
「十戒」了ま我々がイメージするような規律の集まりではない。それは、神とイスラエルの民との愛と信頼のかかわりを規定するもの。エジプトの国、奴隷の家から導き出した「わたしは主、あなたの神」と「熱情の神(ねたむ神)」の2つが、十戒におけるイスラエルの民に対する神の関わりを示している。故に十戒は、救いにあずかった者が、その救いにどう生きるかを教える道しるべといえる。ただ一方的に恵みによって選び、救い、慈しんで下さった、この主なる神だけを見つめ、信頼し、愛することを教え、求めている。真の礼拝は、あなたが何をf言じるかを問い、そのことがあなた自身を形成することを知らしめる。偶像礼拝は無関心さ、真の神に間違った表現を与えろことが本質にある。人が自分たちの都合や価値判断で選んだ形で、神を表現することは、「自分が」で始まるベクトルである。そうではなく、「神から」始まるベクトルこそが、我々がまことに礼拝するということ。神からのベクトルは、神の「啓示」によって示される。「燃え立つような感情」を持つ「熱情の神」は、自分の思いや都合に合う偶像を拝む者を、愛するが故に怒り、罰する。しかし神の慈しみは、罪に対する怒りとは比べ物にならないくらい大きい。イエスもまた、神がいかにあなたを熱愛しておられるかを、あなたが知るならば、「心を尽くして…あなたの神である主を愛するようになる」「あなたの隣人をあなた自身のように愛するようになる」と言われた。神の「熱情」は、神の御子イエス・キリストの十字架の死という、神の啓示によって示される。パウロは、貸し借りが弊害しか生まない常識の中で、一つの例外を並列して置く。それは互いに愛し合うこと、つまり、愛の借り、愛の負債を持つこと。むしろ愛の負債は尊く価値あるものであるがゆえにこれを積極的に勧め、キリスト者はこの負債にこそ生きるべきだとする。「誰々を愛さなければならない」、それが義務であるなら、それはとても難しい。しかしキリストの愛の負債を負いなさい、ならどうだろう。私たちの生き方は、少し変わるかもしれない。そうやって、我々は少しずつでも、この現実の難問の中で、前に進んでいく。誇ることの出来ない私のために、「神の独り子が十字架にかかって死んで下さる」、人にはまったく不条理に思えるこの真理、そのことを信じること、それが、我々が礼拝すること。その神の愛のまなざしに、我々もまた、主なる神に顔を向け、その救いに感謝し、神を愛して生きる。その歩みは、私たちを真の平和に導くだろう。今、キリストは、その道を私たちのために、開いて下さっている。
9月23日(日) 「契約の根拠」 出エジプト19:1-8ローマ7:1-6
,出エジプトにおいて、シナイ山における出来事が最大のクライマックス。神と人の間の契約関係は対等の立場の契約ではなく、支配者が僕と、神が罪人と結ぶ契約。故にそれは、神が一方的に「恵み」によって我々に与えて下さる契約である。その契約の内容は、神がイスラエルの民を神の民として下さり、ご自分をイスラエルの神であると宣言して下さることであり、条件は神に聞き従う二と(服従)である。罰則は契約違反者の死。これまでの映画の1シーンのような出来事は、ただただ神のみ業によって実現した。さらに、それはまるでヒナ鳥に対する親鳥のような、神の慈しみ、愛によるもの。それは契約を通して、イスラエルを「主の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」とするため。神のものとされた民が、他の全ての人々のために執成しをし、全ての民が唯一真の神と良い関係を持って生きることが出来るための役割を果すことにおいて、イスラエルは神の宝の民となる。主のみ言葉には『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』という民の応答がある。そして、具体的な準備を命じられる。シナイ山に触れてはならない。触れる者は、獣であれ人であれ、処刑される②衣服を清めること、女に近づいてはならないこと。日常の生活を離れて、神との契約に備える時を持つ。大変厳しい命令だといえる。故に新約ヘブライ12二20はこの場面を、民やモーセは恐れ故に耐ええなかったと、旧い契約の限界を物語り、逆にキリストによる新しい契約の確実性と望みと喜びを強調する。パウロはローマ7章で、キリストにあって罪の支配から解放されていることを、結婚の比愉を用いて語る。「罪」は我々が「律法」によって結びつけられている夫であり、それは死に至る実を結ばしめる。しかし夫が死ねば、妻は律法に拘束される対象ではなくなり、復活者キリストと一つになって生きることが出来る。キリストがその体をもって死なれた死に、私たちが合わせられ、復活された方のものになることによって、私たちは新しく生きる者になった。それはまさに、キリストにあって一大スペクタクルな出来事。今や人はもはや恐怖や規律にがんじがらめに支配されるのではなく、新しい契約の仲保者=十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによって、感謝と喜びとをもって、神のみ前に近づくことができる。私たちは、この世の全ての人々が主イエス・キリストの救いにあずかり、神の祝福を受けて生きることができるように、キリストの福音を宣べ伝え、人々のためにとりなしの働きをしていく、喜びの使命を与えられていることを覚えたい。
9月16日(日) 「キリストの体を造り上げていく」 出エジプト18:13-26 エフェソ4:7-16
信仰とは、自分の大切にしているものを捨て、場合によっては家族とも離れて神に従っていくことと言える。ただモーセの舅エトロと、モーセの妻ツィポラと、2人の,息子ゲルショムとエリエゼルとの再会は、神の目的が、家庭を破壊することではなく、むしろこのことを通して、私たちにはより大きな家族が、信仰における家族が与えられることを物語る。異邦人の祭司エトロは「今、わたしは知った」と主なる神こそ真の神であることを告白している。神を信じ賛美し、これに従い仕える信仰の旅路を、ツィボラや息子だけでなく、エトロとも共に歩む恵みが与えられた。また工卜口の提案によって裁判の制度が整えられた。そのことの本質は、神と民との仲保者としてのモーセの役割を重要視するのであり、だからこの組織は、イスラエルの民全体が、主なる神のみ言葉をしっかりと聞き、み言葉に従って歩むことができるようにするためのもの。そのために、モーセだけでなく、様々な人が役割を与えられ、そうやって共同体は造り上げられる。エフェソ4:7で個々の多様性を示し、共同体の様々な役割を挙げる。ただその様々な役割は全体が一致に到達し、キリストの体なる教会が造りあげられてゆくため。信じる者が整えられ造りあげる教会は、キリストが満ちている。キリストは神の御子に関わらず人の姿を取られ、人の目で見て、耳で聞き、口で語り、足で歩き、手で触れた。教会はこのキリストの目で世の罪を見、キリストの耳で世の苦悩を聞き、キリストの足で伝道し、キリストの手で平和を作り出す業に召されている。そして、すべての信徒がこの業に参与しなければならない。それは私たちの努力や能力によってではなく、本来愛されるに値しない者が、一方的に受け入れられ愛され、キリストに呼び出されて、キリストの愛の賜物よってキリストの体の一部にされているから。様々な役割を担う私たちだが、この点において私たちは一つ。この神の愛、神と我々の仲介者、贖い主であるキリスト・イエスにこそ、私たちは整えられて、我々は様々な役割を通して、この世界でキリストの具体性を示していく。それがキリストの体を造り上げること。頭である主イエス・キリストに結び合わされ、皆で一つの生きたキリストの体として、歩んでいくのです。
9月9日(日) 「誘惑にあわせず」 出エジプト17:1-7、マタイ6:5-15
マタイ6章祈りについて。偽善者のように人の賞賛や評価を意識して祈ったり、自分の生活上の要求が満たされるまで「くどくど祈る」であってはならない。神の計画は人間の願望を直ちに満たすとは限らない。その中で、人間の願望を中心に生き始めると、神の御旨が理解できなくなり、不平を言う。出エジプト17章でイスラエルの民は、既に神が彼らの苦境を救って下さった体験をしたにも関わらず、目前に苦しみが迫ると、それをすっかり忘れてしまう。ここでは「試す」ということが問題視されている。悪魔は神の民が神の御旨を疑って言仰を捨てるように、巧妙に「誘惑」する。、試み・誘惑は、神の民を信仰か不信仰か、善か悪か、神への離反か、神と共に歩んでいくか、我々を萩たな決断に直面させる。主はモーセの叫びに応えて、岩を打ち、そこから水を飲むことができるようにされた。コリントⅠ10:4以下ではこの出来事を重要視し、この岩こそが主イエス・キリストであるとする。故に主を試してしまう我々へのしるしは、キリストにおける十字架の出来事である。「主の祈り」は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである」ことを前置きとして、「だから、あなたがたはこう折りなさい」と展開する。「あなたがた」が強調され、それは「十字架で死ぬイエスをキリストと信じ、キリストは十字架の死から復活したキリストである」と信じる、「あなた」である。だから、「主の祈り」は人間の祈りの方向性を変えている。この祈りは、もはや自分の必要を祈り求めるものではなく、神の恵みを覚える祈り、神との関わりにおける自分の在り方について祈り求めている祈りである。神との関わりが現実的になればなるほど、悪の働きも現実的になり激しくなる。だからこの祈りは誘惑に負けて十字架の恵みを決して見失うことがないように、折り求めている。これは、わたしたちの日常の信仰生活において真剣な折りである。十字架の恵みを忘れ、神の支配に生かされているという信仰を夫えば、神が共にいて下さるという思いが失われ、自暴自棄になり、本当に滅びの道を進んでいくことになる。そうならないために大切なことは「父よ」と祈ることだ。私たちは、様々な苦難や試練の中で、キリストの命の恵みにより強く結びつけられ、神との関わりにおける自分の在り方に生きていく。だからこそ、「折る」者であり続ける。いや、そのことなしの生きていくことは出来ない。
9月2日(日) 「このパンを食べる者は」 出エジプト16:12-15、ヨハネ6:48-58
葦の海の出来事が救いの完成ではない。神の目的は「植えること」、神との関係を根付かせ、確かにすることにある。人生と同じで、あらかじめ決まったルートがある訳ではないエリムのように水と食糧に恵まれた時もあれば、不幸にも食料の不足に直面することもある。民のモーセへの不平は、神に対する不信である。彼らは、目の前の苦しみの中で、神の愛を疑っている。モーセは2度に渡って民に「我々が何ものだというのか」と激しく怒っている。その根底で、主なる神の愛を疑う者は、すべてが今より昔の万がよかったと言う。責任とリスクが伴い、時として忍耐を必要とされる自由より、奴隷の方が楽だと言う。あたかも新しい葡萄酒をそぐわない古い革袋に入れるように。しかしそのことのたどり着くところは、滅びだけである。イエスは、荒野で悪魔の誘惑を受けられだ。悪魔は誰もが欲しがるものを提案しながら「あなたは誰なのか」と問う.神は、天からのパンであるマナを与え養って下さった.しかしその規定は安、邑、田にまで及び、問題は食料自体ではなく、マナを通して神の恵みを覚え、神を賛美し続けることこそに本質にある。いわばイスラエルの人々は、四十年にわたって、神の恵みを覚え、神を賛美し続けることを欠かすことなく与えられたのだ。ヨハネ6章は5000人の給食を通して「永遠の命」に関する重要な対話が始まる。イエスはモーセにまさるしるしを、もっと見せてくれと要求する民に対して「私が命のバンである」と宣言される。パンは食べなければ、命を養う糧にはならない。同様に、神の恵みを中心に置かない人は、イエスを信じることはなく、不平を言い始める。逆に、信じる者は永遠の命を得ているど言われる。確かに出エジプトで「マナ」を食べ荒野の四十年を生きた。しかし、そのマナは肉体の命を養う食べ物であって、結局死ななければならない。それに対して、このパンを食べる者は永遠に生きる。「パンを食べる」とは、己も十字架のイエスと共に死に、復活のイエスと共に新しい自分に生き始めること。復活者イエスと共に生きる命<ゾーエー>には死はない。復活者イエスはすでに死に打ち勝ち、永遠に生きているから。荒野を歩む我々には、当然その歩みを養うものが必要なのだ。あなたのこれまでの人生も、これからの人生も、キリストの命こそに生かされている者だということを、覚え続けなければならない。
8月26日(日) 「讃美と不平」 出エジプト15:22-27、コリントⅠ10:1-13
「海の歌」の讃美の歌において「主」は原文では神の名「ヤハウェ]てあるから、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」という絶対的な主権を持っ神を賛美することが明確に示される。そこにはモーセはじめ人が誇るものは何一つない。さらに賛美は、イスラエルの民が贖われた民として生かされていくことにおいて続いていく。約束の地へと導いて下さる神は、まさに羊を導き、伴う羊飼い。
羊から離れることなく、必要なものと休息を与え、常に彼ら見つめ養っていく。そしてその目的は「植える」こと。神との関りを根付かせること。それが神の慈しみによる契約。この神のみ業を民全体がほめたたえて歌っている。
ところが、直後に「マラの苦い水」の話を聖書は置く。渇きの苦しみ、失望の中で民はモーセに不平を言う。1コリント10でも「不平」によって人は滅ぼされたと指摘し、それは「キリストを試みる」ことだと警告する。民が出エジプトという神の恵みに接しながら、・_'時的な不安や欠けにたやすく支配されたように、キリストの復活の恵みに与りながら、どこか他人事であり喜ぶことも感謝もない、あくまでも自分が中心であることは、神の救いの恵みをないがしろにしている。我々が生きる人生で、必ずといって困難に遭う。本人は自分ほど辛い者はないと考えるが、聖書はそれらの困難は人の世の常だという。考えて見れば、死ぬことも老いることも、病、関係のトラブル、貧富の格差、戦争、飢え渇き、嫉妬・憎しみ、すべては人間的である。そしてそれを、人は人間的なことで解決しようとするが、人や偶像にはそのような力はない。それがあるのは「わたしは自分が有ろうとする者として有る」神にのみである。それが「神は真実な方である」と言う信仰である。そのことは、主イエスの十字架の死と復活、主の命をもって執成して下さったことで確かなものとされた! この方以外に、死から復活させることの出来る存在があるとでも言うのか? この方こそが、人ゆえにこの世で遭うであろう試練に逃れる道を備えて下さる。今や私たちは、イエス・キリストを通して、新しい契約を生きている。主イエス・キリストの命において「慈しみをもって贖われた民」である。その者は、必ず導かれ、伴われ、神と共に生きる者とされる。だから私たちの賛美は漠然とした気分ではない。わたしたちが賛美し続けるのは、キリストの血と肉にあずかり、生きていくこと、そのものなのだ。
横須賀学院中学高等学校宗教主任天野海走教師に説教頂きました
8月19日(日) 「福音の力」 使徒言行録13:44-52
.私たちの社会にある様々な対立は、人間が多様な価値観を持っており、その価値観を譲ることができないところから生まれてきます。本日の聖書は、そういう人間の対立を描いたものです。
パウロはアンティオキアの会堂で説教をします。会堂長たちはその言葉に喜び、励まされ、翌週も話をしてほしいと願いました。しかし翌週、会堂に入りきらないほどの人たちを目の前にして、ユダヤ人たちは、パウロを口汚くののしり、反対したのです。ユダヤ人がこのような態度をとったのはねたみのためでした。普段は会堂に足を運んだこともないような異邦人が、大挙して集まる様子を見ながら、ユダヤ人は気づいたのです。パウロの語る福音、つまり「信じる者は皆、この方によって義とされる」という言葉の持つ爆発的な影響力、イエス・キリストの福音のカに気づいたのです.救いの根拠は、_一方的な神の赦しにあり、その赦しはキリストの贖いの死によって成し遂げられたのだから、もはやユダヤ人と異邦人の区別は何の意味も持たない。それまで、罪人なる異邦人とは違うことを誇りにしてきた厳格なユダヤ人にとって、それは、自分たちの特別な地位が脅かされることを意味します。そこに、ねたみがうまれました。ユダヤ人のような自分は特別で、人より優れているという思いは、私たちも持ちやすいものではないでしょうか。
自分たちは特別だと暴力的に主張するユダヤ人たちの行動には、人間の存在を否定する力があります。イエス・キリストの福音には、それとはまったく反対の力があります。自分たちは特別だという思いを打ち砕く力です。
パウロたちは異邦人をも、救いに値する一人の人間として大切にすることで、イエス・キリストの福音を生きました。すべての人を一人の人間として愛のうちに受け入れ、生かすことのできる力。それが私たちの信じる福音の力です。この力に、励まされ、押し出され、生きる者でありたいと願います。
8月12日(日) 「神に生かされる」 出エジプト14:15-25、コリントニ1:3-7
出エジプト記で最も劇的な場面である。イスラエルの人々は海の中を進んで行き、エジプトの軍隊は海の底へと沈められる。そして聖書はこの出来事の理由を、ただ神の御心であるとする。イスラエルの民は、事が上手く運んでいる時には意気揚々としているが、一旦事態が悪くなると、すべてを誰かのせいにする。しかし今やエジプトからの解放が実際に行われ、この出来事の前と後では、時間的に、意味的に全く違うものとなる。14章は我々の歩みの大きな転換点である。モーセは民に「主の救いを見なさい」、「主があなたたちのために戦われる」と言う。本当の意味で自律した人間への転換とは、恐れだけを見つめて(エジプトだけを見つめる)のではなく、何より主の救いを見ること。信仰に対して自分で貰任を持つとは、すべて自分で解決する者になるということではない。我々が生きる中で、生命的な命の危機だけでなく、「なぜ自分が」という絶望が、人を立ち上がることができないようにしてしまう。その人間が自律存在を回復するためには、他者との関係の中で自分の存在を再確認することが必要だ。イエスはマルタとマリアと出会い、ラザロの死というものを、プラスの影響に変えていく。マルタ、マリアに、我々に、十字架のキリストの交わりに生きる者だということを知らせる。コリントは、パウロが恐らく伝道でもっとも苦しいときに書かれた手紙。パウロは、自分の受けた苦しみを同じように味わえと言うのではなく、悩み苦しみにおいても、励ましにおいてもキリストの福音に参与していることを言いたい。「キリストが我々の味方」であるという同じ考えを持てる。それが、パウロが神に彼の希望として望んでいること。そして、その根拠は、キリストの苦しみにこそある。キリストは十字架上で死を苦しまれたが、神はこのキリストを死から起こして下さった。だから、同じように、私たちも苦しみの極みから、神が引き起こして下さる。主イエス・キリストの福音は、あの葦の海の奇跡にはるかに勝る大きな救いのみ業を示す。罪と絶望と死の支配に、神が道を備えて下さった。神がキリストの十字架の命に私たちをくぐり行かせ、赦しと命を与えて下さったからだ。我々はもはや自分のためではなくキリストの栄光のために生きる。誰かに支えられ、誰かのために祈り生きていく。それが、主によって「友」と呼ばれる我々が、今から歩み出す、新しい歩みだ。
8月5日(日)平和聖日 「平和に招かれる」 コロサイ人への手紙3章12-17節
「平和」の意味するところが、人によって必ずしも同じでない。新約聖書の「平和」エイレーネは「平和」もしくは「平安」と訳される。「平和」から多くの人が、戦争がない状態をイメージし、他方「平安」と言えば、その人の内面の問題だとイメージする。人は己の「平安jだけを求め、「平和jに無関心、無関係という存在になっていく。だから、場合によっては、「平安」「平和」は全く別方向を向いている場合がある。
3章12節において平和の本質は、決して武力、裁き、報復、罰ではないことを明確に示している。そしてこの平和の本質は2つの関係性で書かれている。一つは「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」。本来、聖書'が教える平和、平安は、「神との関係」こそがその中心にあ1る。バウロはローマ書5章で、神との関係に平和を得ていると言うが、その「シャローム」「エイレーネjは、主イエス・キリストが私たちの罪のために死に渡され、私たちの義のために復活させられたことにおいて成し遂げられたことを言っている。平和が、十字架の痛み故であるからこそ、我々は現実になお苦難があろうとも、忍耐をすることができ、その忍耐がよりキリストの救いの確信をもたらし、そして我々の真の生きる希望となる。聖書の「平和」は、単に戦争がない状態をいうのではなく、「神が共におられること(インマヌエル)」を示し、キリストにおいて具体化される。キリストの平和は、「敵を憎め」ではなく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るである。「力による平和」でなく、「愛による平和」。2 つ目の関係性は「あなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」。キリスト十字架の命によって与えられる罪の赦しは、決して個人や内面だけに留まっているものではなく、他の人々に対して忍耐深く、寛容であることができ、人々の間に「平和jを作り出すことができる。それがPeacemaker。イエス・キリストは、新しいアイデンティティ(他者を受容し、相手の固有の価値のために自ら苦難を負い、そのことで対立する二者の間に立って事態が好転させる)の王である。すべては「キリストに基づく愛」の帯で結びつけられる。私たちの心に「キリストに基づく愛の平和」があり、どんな時も我々を支え、励まし、その道を示して下さる。だから平和のためにくじけず祈り、誘惑に陥らないように学び、学んだことを伝えていく必要がある。戦争の悲劇を美化せず、耳を塞がず、誤魔化さず、いつも覚えること。平和の問題は、まさに一人ひとりが出来る事をしていくことが大切. 「平和の君」イエスが教えられた「愛による平和」の実現のために、一人ひとりが新しい一歩を踏み出そう。
7月29日(日) 「過ぎ越しの小羊」 出エジプト12:1-14,ヘブライ7:22-28
この12章は生と死のクライマックス。「初子を打つ」という10番目の災いに、エジプト人は皆、自分たちも死んでしまうと恐怖した。しかし、イスラエルにおいては、初子を撃たれた者は一・人もいない。主が「区別して贖う」から。そのために用いられたのが、小羊の血。小羊の血が、エジプトに象徴される死にゆく、この世界から「生」を生み出す。それが神の贖い.イエスは、十字架の前夜、「過越の食事」をしている。「主」が受ける苦難による新しい契約が示されている。そしてこの契約に生きる者は、永遠のいのちを得ると言っている。この過越しの出來事がイスラエルの信仰と生活の原点となるから、12章に過越の祭の掟を置く。エジプトからの脱出は、新しい共同体形成に向けての脱出であり、当然共同体全体がそれを覚え、祝わなければならない。さらに子どもたちに語り伝え、教育しなければならない。ところが、実際は過越の祭りは形骸化の一途をたどる。「生存の保証」を神にではなく、繁栄や大国の武力、自己の快適さに置いた.あるいは自己確信、自己義認におく。ヘブライ7章は犬祭司が、律法の定めたアロンの系図とは別に立てられたことを言う。それは、神ご自身の御旨であり、それは律法による大祭司が不完全(死を回避できないことを前提とし、何の贖罪効果もないことが何度も繰り返されているだけ) であり、律法自身の不完全性の証拠となる。しかしイエス・キリストは、その復活により、永遠に存在され、神ご自身の積極的な「誓い」によって大祭司職に任ぜられた。それ故大祭司イエスは、ご自身を信じる人々をその命にあずからせる。つまり、私たちの弱さを共に苦しむイエスが、ただ一度自らを犠牲として、ご自身を献げられることにより、我々の罪が清められ、永遠の救いが完成したという福音=新しい契約であり、そしてキリスト自身の命が、この新しい契約を請け負うもの、つまり保証となる。このキリストの命に祝されなければ、皆死んでしまう。キリストの命の贖いこそが、我々の生命線。そしてイエスの十字架の命の贖いに救われた者は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうとすべて「神の民の共同体の初穂」として生きていく。キリストの命に贖われた者として、神の前に己を献げて、神と人を愛するキリストの歩みに従っていく。だから、主の復活された、毎聖日こそが我々の解放の時であり、まさに新しい歩みの始まりの時。
7月22日 「神の憐みの器として」 出エジプト7:14-24、ローマ9:19-29
解放に至るまで、エジプトに十の災いが下される。それらの災いは内容的に深められ第十の災いに到達する。第一の災いでは「わたしは自分が有ろうとする者としてある」と宣言される神を知ることを通して解放は実現されると示される。エジプト人が信奉し絶対だと思っている魔術は、困難な状況で人々救うどころかますます人々を苦しめているだけで、救う事が出来るのは、主な真の神のみ。第四の災い以降では「区別して贖う」ということがある。贖うというのは、身代金を払って自分のもとに取り戻すこと。神は人を罪・滅びの支配から区別して贖うことによって、ご自分の民に加えて下さった、それが聖書の語る救い。第七の災いは、主なる神こそが、この世の全てを支配し、導いていることをファラオの心、全人格の奥底に分からせることが災いの目的としている。が、神は罪人に対して怒り、滅ぼそうとしているのではなく、神の力を示して、神の名を全地に語り告げさせるために生かしておられる。第八の災いは、神ご自身がファラオの心を頑にしていることが示される。その理由には、エジプト人だけでなくイスラエルも、すべての者が「わたしが主、ヤーウェである」ことを知るため。解放がなかなか実現せず、苦しみが続いていくことの中で、しかし主なる神こそが世界を支配し、私たちの人生を導いていると信じるなら、その主の目的は、私たちを救うこと、愛すること、生かしめることなのだと、この心に思わされること。パウロは出33:19や出9:16を引用し、神は「御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」と説明する。さらに22-23節でさらなる神の本質が示されている。人間の罪の故に避けられない、神の裁きの「怒りの器」に対して、神は一方的に「憐みの器」を用意しておられる。ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも、すべての人から召し出して下さる。この恵みは、神に背いた者も立ち返り、再び神の民と呼ばれるようになる。また、罪の故に滅ぼされる現実においても、神の確かな救いの約束の上に立つ新しい共同体。これこそが神の永遠の御心の中における目的。神を知ろうとしない者には、「神は得体の知れない恐ろしい方」だろう。しかし、神の本質は、その主体的な憐みによって、あらゆる人を、あらゆる状況にある者を生かそうとされる方であるということ。だからこそ、独り子イエス・キリストをこの世に遺わして下さり、その十字架の命を代価として、私たちを罪から贖い、神の民として新しく生かして下さる。第九の災いのように、神は世の暗闇においても、贖う者を、キリスト・イエスにおいて光と命を与える。キリストの命に贖われた者として、主なる神を礼拝し、主に仕え、新しい生き方を始める。
7月15日 「誰に仕えるのか」 出エジプト5:1-9、エフェソ5:6-8
モーセがエジプトのファラオとの交渉で語られる内容は、モーセが考えたことではなく、すでに主が宣言し、こう言えと命じたこと。エジプトから脱出した時、民は主なる神を礼拝する者となる。それが神のみ旨であり、救いの業。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか」と拒否し、さらにファラオにとって、イスラエルの民は単なる労働力・数字・モノとしか見なしていない。ファラオはより抑圧し、反抗者の気持ちを萎えさせ、モーセとの間に、対立と不和を起こさせる。だからこそ、「自分たちは誰に仕える者なのか」ということを常に覚える必要がある。つまり主を礼拝する者は、主に仕え、主の僕である。ファラオに仕える者はファラオの僕となる。私たちも同じ。自分は、誰に仕え、誰の僕として生きるのか。主なる神か、それともこの獣の支配者、力、繁栄か。エフェソ5章で神に愛されている存在として、相応しく、神の側で生きる者として、愛によって歩み続けなさいと教える。その愛の歩みの基盤が、イエス・キリストの十字架出来事。これが「神の側で生きる者」として、「キリストの愛の内に歩み続ける」ことの根拠。1世紀、帝国ローマ帝国の力と豊かさを背景にした「不品行」、「汚れたこと」「貪欲なこと」そして、ローマ皇帝への追従や信奉があった。つまりそれは「神の側に立たない」こと。マルコ6:34に「イエスは飼い主のいない羊のような有様」とあるが、その表現は本来「~の側に・… がない」という言い方で「羊飼いの側に、羊がいない」という二と。そのような状況の中で、8節「光の子として歩みなさい」はとても印象的な言葉。そもそも闇が世界を覆っていたからこそ「光あれ」と神様は命じられた。そして「真理」の反対概念「偽り」の中で生きている人間は、必ず倒れるというのが聖書の認識。しかし、イエスはその混沌を見て、深く憐れんで下さる方。共感と共苦を覚えられた。だからこそ、光は生まれる。ヨハネ福音のはじまりは創世記を継承し、完成している。この世のファラオの下では、私たちは、本当に生きることは出来ない。本当に我々を生かしめるのは、我々を本当に救う「義」、「光」は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活の命である。この恵みを通して、私たちは神様の僕となり、神様に仕え、礼拝する者とされる。なにより、この愛の内に歩み続ける者となる。そして光の子は、イエスの生き方と愛を身に受けて光るから、隣人の痛みに共感し、共に苦しもうとする存在である。そのことを通して無限の出会いの広がりを経験していく。それこそが生きるために必要なのであり、それが神のみ心であり、主ご自身が始められた救いの業である。
7月8日部落解放祈りの日 「人間を勦る事が何であるか」 ローマ6:1-11
パウロはローマ書で「全ての人は罪人」であるということを言う。「罪」は、単なる犯罪や道徳に反することを言うのではなく、神の御心から私たちを引き離す力。イエスの十字架の死ということから目を背けること。イエスがどんなに隣人を愛していたことを知りながら、隣人を愛さないこと。角岡伸彦さんは、差別される私、差別する私にこそ目を向けるべきだと言う。大正期の水平社宣言の中の「これ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた」とある。「勦」(たつ・ほろぼす)という言葉をわざわざ「いたわる」という言葉への当て字として使い、それまでの同情融和連動の意識は、部落民を卑下し、滅ぽすものだと痛烈な批判をしている。「徹底的糾弾」を中心とした水平社の活動は画期的であったが、やがて行きづまり、部落の生活の向上をめざす行政闘争へと方向転換していく。日本の高度経済成長の中、部落の生活を画期的に引き上げられ、居住環境や就業状態は大幅に改善され、若い世代は社会の様々な領域に進出した。しかし、生活の向上で運動が終わるのではなく、それからが本当の部落差別をなくす闘いとなる。これからの部落解放運動は、生命力のある若い人たちの支えになるような運動でなくてはならない。小山晃佑さんは、キリストの十字架は、人の「ゆえなく」虚しいものを信じ、「ゆえなく」神を憎む思いによるものと言う。人の世界では「もし、人間が神の愛を裏切らないときは、神は愛」だと言うべきだが、神の愛はそういう条件付きのものではない。神の愛は苦しみを覚悟している「熱情の神」ゆえに、「ゆえなき憎しみに生きる」、「ゆえもない」人を、愛される。『神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛された』。これこそが、我々に与えられたBreak throughブレークスルー。これが達成されたのだから、人はまさに、あまりのうれしさにピョンピョンと半分宙を飛ぶように小躍りし、既存の生き方は捨て去られ、この福音を中心に徹底した再編、新しい生き方がなされる。「ゆえなき憎しみ」の世界で、キリストを見失わないこと、その死をまとい生きるという事は難しい。だから同様に、差別される隣人、差別する私に目を向けることは難しい。だからこそ、歴史を正しく見つめ直し、過去の過ちに反省する必要がある。特に差別について学ぶことは、歴史に対する考え方の転換を促す。信じるイエス・キリストへとしっかり目を向けるべき。「ゆえもない」己が愛され、生かされることの喜びを覚えるべき。十字架の主の命に、誰もが生かされ、一緒に生きていける。そこに原点があり、真のいたわりがあり、コールがあるはず。多くの祈りの友を求める。
7月1日(日) 「与えられたしるし」 出エジプト4:1-12、マルコ13:28-31
モーセには、その辛い挫折の経験から不信感と恐れがあった。だからより確かな目に見える保証・証拠が欲しかった。神はそのモーセに対してご自身の名前「わたしは自分が有ろうとする者として有る」を示された。そしてさらなる「しるし」を与えて下さる。第一のしるしは杖。第二は重い皮膚病。第三はナイル川を血に変える。ただこれらはいわば魔術だ。エジプトでは魔術が信じられ、支配している。ただし魔術は、エジプトに対して災いをもたらす力となる。魔術は己の利益を生み出す、人が魅了される目に見える力。その力を人間は利用し支配していると思っている。しかしそれは、この世界を造り、支配される唯一真の神との存在を見失わせ、結局人は自身の魔術によって苦しみを受ける。6月23日沖縄慰霊の日、14歳の少女が、平和の詩を朗読した。彼女は悲しみと怒りを自分への誓いに変えて決意する..「私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。平和を創造する努力を、厭わないことを」。モーセは自分の能力の欠けを挙げ、できないと言う。しかし「何かが出来る」だけでなく、「出来ないこと、得意でないこと」もまた、人の思いをはるかに超えた、神の創造の御旨の内に包まれていて、もし神が召して下さるなら、その使命を果たすために十分な賜物を与えられているのだ。それでも「わたしではなく、誰か」と言うモーセに神は、怒りを発せられる。しかし驚くことだが、その神がなさったことは、モーセを見捨てることではなくて、彼に助け手を与えるということだった。それは、私たち罪人の救いのために、神がその独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さったように。イエスは終末のしるしのたとえを、木が葉を繁らせる夏のイメージで表す。私たちは滅びに向かって歩んでいるのではなく、喜びの日に向かって歩んでいる。だから最初の信仰を最後までかたく保って救いに至るようにというイエスの励ましの言葉。私たちが生きる「天地」には死があり、病があり、悩みと困難と、悲しみがある。滅びざるを得ない「自分」が存在する。ただイエスの十字架と復活の出来事だけが、すべての者の滅びを止揚する。滅びるはずの私たちが滅びずに、新たにされ、新しい世界に生かされていくのだ。そういうしるしが、十字架の命の恵みに、今、押し出されること 共に喜ぶのだ。
6月24日 「主の名を呼ぴ求める」 出エジプト3:11-15、ローマlO:5-13
モーセは「わたしは何者でしょう」と言う。これに対して神桂「わたしは必ずあなたと共にいる」と言って下さる。これほど大きな恵みはない。ただ、それはこの世的に見れば、何ら目に見える確かな保証があるわけではない。モーセもそう感じたのだろう。モーセは神の名を訊ねる。名前は、相手のことを理解するのに欠かすことはできないが、同時に、古代社会では相手を自分の支配下に置くというマイナス面があった。それゆえにあの十戒の第三の戒めがある。.しかし人格的に人と深く関わり、その歩みを背負う神は、敢えて名前を人に示す。ある研究者は「神が今、イスラエルの民に対して、新しいみ業を行おうとしておられるから、新しい名前が問われる。神の新しい名を知らされるとは、新しい救いのみ業にあずかることだ」と説明する。そういう意味では、このモーセの問いは、私たち…人…の問いでもある。信仰者は、神の名前を知らされ、その名を呼びつつ生きることなのだから。神は「私はある。私はあるという者だ」と言われる。これは、名前の告知や神が存在するということに強調点があるのではなく、もっと動的な、意志的な意味を持つ言葉。つまり「私は意志をもって行動し、その意志を実現する」という宣言。私たち人間の思いに支配されない、主体的に、人格的に、我々に臨んで下さる神。この出来事がひな型として指し示しているのが、神の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活。律法学者は、律法を守ることによって救いを得られるとしたが、そこには義と命はなく、罪と死がある。しかし、イエス・キリストという名においてすべては覆された。キリストは、神の身分でありながら、かえって自分を無にして、十字架の死に至るまで従順であり、そして復活し天に昇られた。故にキリストの救いは、あなたのごく近くにある。そこにはいかなる言い訳も、そうしない理由もない。もはや救いは、ユダヤ人とギリシア人の境界線もなくされ、全ての民に拡大した。問題は、あなたが主の名を呼び求めているかということ。キリスト・イエスという名を。「わたしはある」という名前によって示された神は、今やキリスト・イエスにおいて、私たちと深く関わり、私たちを背負い、私たちの神となって下さった。私たちは、このキリスト・イエスの名のもとに集められ、この恵みを共に分かち合う。だから、自由にされて、神と隣人を愛し、希望に生きる者として歩んでいく。
6月17日 「生きているのはもはや」 出エジプト3:1-6ガラテヤ.2:15-21
モーセは、神と出会おうと思って来たのではないが、ホレブで不思議なものを見た。「炎」は神の臨在を示すが、神の情熱とも言えるかもしれない。人間の情熱は簡単に消えてしまうが、神のそれは燃え尽きない。だからこそモーセは不思議さに引かれて近づき、神の語りかけを聞く。とても神がいそうもない所で、神様の方から語りかけてくる。「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地」。「場所」はヘブライ語では、単なる一定の区画ではなく、「人が次の行動に移るための所」を示している。「何も上手くいかなかった、情熱も尽き果てた、仕方がないから」というあなたの立つ所で、燃え尽きない情熱の神は、あなたに語り掛け、あなたがその履物を脱ぐとき、あなたが立つ所を、主にあって共に次へと歩みだす聖なる場所にされる。パウロもまた紆余曲折を絡た人生である。しかし、パウロは今、イエスと同様に、「律法において十字架に死に、神に対して生きる」ことを示す。そしてこれが、「律法」からの脱出、解放を意昧し、「キリストへの信仰」という新しい次元での生き方の開始を意味する。それこそが「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」と表現される。もはや「行いによる義」、「行いによって他者を排除する生き方」に戻ることはあり得ない。人間存在そのものの弱さと罪を痛感しっつ、それでもなお、キリストの十字架によって示された、神の主体的な愛、希望、救い、そして情熱を信じ、キリストの在りように具体的に応答する生き方となる。出エジプトでは、神ご自身がイスラエルの苦しみを見て、聞いて、知られ、ご自身で彼らを救い出し、導き上ると宣言される。あくまでも神ご自身であり、我々の正しさや勇気や英断ではない。神は我々の苦しみを見、聞き、知って下さる方だから、その独り子、御子イエス・キリストをこの世に遣わし十字架の苦しみの死に付けた。そのことを通し、とても神がいそうにない所に、神はあなたと共にいて下さり、そこを聖なる場所とし、あなたと共に歩みだして下さる。キリストの恵み以外に、我々を、再び前に歩ませるものはない。その歩みは、誰かと共に生きること、和解へと導かれる。そして、もはや自分が、主イエスの十字架の恵みの中に生きていることを知らされる。
6月10日 「途方にくれて」 出エジプト2:11-15、マタイ6:25-34
モ一セは「とある井戸の傍らに腰を下ろした」。この描写に様々なことを思いめぐらせる。絶望と疲れと、心の渇き、打ちのめされて、居場所を失い途方にくれている。モーセがその生活で、自己存在の空虚さを抱えていたことは、自分の息子に寄留者(gerゲール)」に由来する「ゲルショム」と名づけられたことからも窺える。詩編39の詩人は「わたしは御もとに身を寄せる者・宿り人」と歌うが、「宿り人」は「寄留者」であり、詩人は、自分は神に救いを要求する資格はない、寄留者のように、神の一方的な好意と憐みに頼る存在であることを知っていて、しかしだからこそこの神との結びつきと交わりこそが救いなのだと告白している。ペトロの手紙の「旅人」は「寄留者」の訳語だが、それはキリストの苦難に参与する旅、そして神の栄光を証する旅である。日本で「外国人」として生きる意義を提示していた李仁夏牧師は「寄留の民を創造的主体としてとらえようとすると、旧約聖書から新約聖書的概念に移行しなくてはならない」と言っている。マタイ6:25以下は確かに有名で素晴らしい箇所だが、「思い悩まないjことはとても難しい。どうして自分だけがこんな困難に遭うのだろうと思う。しかしイエスは嫌われ蔑まれている鳥や植物を神様は確かに愛されていることを示し、「人間の今生かされてある命」へのアピールとして受け取るよう教える。.うわぺのまやかしの言葉ではなく、神は、我々のために、独り子イエスの最も苦しい十字架の死において、あなたを今この時も愛していること示される。エフェソ2:14-19キリストの十字架によって「二つを一つ」にすることができる。散意を滅ぼし和解を与え、キリストの十字架だけが、人を新しい人に造る。神の国と神の義を求める全ての者に開かれる、あなたの真に生きる道。出エジプトの出来事の始まりは、人々の苦しみ、助けを求める叫びの声が神に届いたから。一方的に愛を注がれる神を証言している。この神の救い、解放のみ業が決定的になされたのが、神の独り子イエス・キリストにおいて。その始まりは本当に些細なことかもしれないが、行き場を夫い、途方にくれている私たちを、必ず十字架の恵みと救いへと、新たに生きることへと導いてくれる。主イエス・キリストを信じ生きるなら、私たちにも、モーセに起ったのと同じ変化が与えられる。我々もまた何ら誇ることをもたない寄留者、旅人だ。しかし、この寄留者は、それでも神の一方的な恵みに生かされることを信じている。何故なら主イエス・キリストの十字架の信仰を受け継ぐものだから。その十字架の命に新たに一歩を踏み出し、,神の宋光を証するために旅する者だ。
6月3日 「神は御子によって語られる」 出エジプト2:レ10ヘブライ1:1
神の約束・祝福は、現実の大いなる苦しみの中においてより浮き彫りにされ、輝きはじめ、そして実堤されていく。虐殺を逃れるため、赤子モーセはナイル川に流される。ヘブライ人への手紙は、モーセの預言者的・祭司的・王的役割はキリストの予型と考え、モーセとの比較は、旧約の契約に勝るキリストにある新しい契約のための重要なポイント。ファラオを恐れなかった理由をモーセの「美しさ」とし、そこに神的しるしを見る。さらし娃茫一セは、苦難の中での信仰と希望において、キリストの予型とされる。過越しの奇跡と、紅海の奇跡は「罪の時代と世界」からの脱出の表象となり、単にモーセの信仰に留まらず、それはイスラエル全体の信仰となる。決して逃亡ではなく、見える世界の象徴であるファラオへの敢然であり、見えない神への信頼と服従。出エジプトの物語やモーセの存在は時としてフィクションではないかと疑われることもがあるが、モーセという仲介者抜きの律法授与は、ただの規律、法律の寄せ集めに過ぎず、時代を超え、全イスラエル的意義を持つことはなかっただろう。そして、やはり何より重要なことは、この脱出劇は、歴史上の一つの事象だけではないということ。主なる神が人間の歴史に介入した、救いの出来事という特別の意昧を持ち、イスラエルの民の存在の原点として常に覚える。だから旧約聖書の信仰を理解するための鍵。ヘブライ1:1-3は、7つの事柄を御子について述べ、御子であるキリストによる啓示と救済が究極的なものであることを高らかに宣言する。世界を創造し、終末の救済の完成にいたるまで、あるべき秩序に保持するロゴスなるキリストは、いのちを自ら神に献げ、我々の罪の贖いの業を成し遂げられた。これが、モーセを超える「美しさ・神的しるいであり、キリストを信じることの健である。そしてこのことを確信し、希望と己の存在の原点とするならば、私たちはキリストにあって新しい命に生きる共同体である。旧約聖書全体が、出エジプトの恵みを土台とするが、それは最終的にキリスト・イエスの救いの福音の究極性を指し示している。主イエスの十字架の福音において、十字架は決して敗北ではなく、出エジプトをはるかに超えた解放、救いの恵みが私たちに与えられたことを覚える。神の約束・祝福は、御子イエス・キリストの苦しみと十字架の死において浮き彫りにされ実現されていく。私たちも、キリストの救いの御業のために用いられ「織り直され」、さらに多くの人々と共に、主の福音にあって、神の約束の地を目指す者でありたいと願う。
5月27日 「弱い私を助けて下さる」 ローマ8:18-30
使徒言行録は3千人が洗礼を受けたと記し、この圧倒的な力に押し出されて教会が生まれ、世界に向かって宣教が始まったことを言う。一方パウロは「弱いわたしたち」と語る。我々は強がって大きく見せ、相手を攻撃して自分の弱さを隠す。しかし聖霊を信じることは、自分の弱さを受け入れることであり、聖霊によって生まれた教会の中では、自分の弱さを、互いの弱さを、受け入れ合って生きる。預言者エレミヤも、モーセも自分の弱さを嘆き、パウロも「弱々しい人で、話もつまらない」と言われることを気にしている。しかし、神は「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われた。我々には、聖霊が、炎のような舌が下ったではないか! 自分が強い存在であると虚勢を張るのではなく、弱い自分に神の力が注がれていることを覚えることが重要だ。私は弱い、小さい存在であるが、神様はその不完全で不十分な自分を用いて下さる。むしろ「こんな所で私には何も出来ない」という所へ、神は私たちを押し出そうとされる。だからこそ、余計に思わされる。「話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」という御言葉は、まったく真実だと。私たちは弱いし、その人生は全く予定通りではないし、上手くいかない。しかし、その弱さにこそ「"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」ことを覚える。カトリックの井上洋治神父は「祈りというのは、自分が底の底まで徹底的に落ち込むこと。そして底の底まで落ちれば受け止めてくれる手のひらがある」と言う。パウロは、我々は「何を祈り求めるべきかを知らない」と言う。そこではもはや富み、名声、権力が自分を支えるわけではない。しかし霊は執り成してくれる。それは美しさ力強さに輝くキリストではない。奪われ、裏切られ、あざけられ、軽蔑され、血にまみれ十字架に殺されるイエス・キリストこそが、我々を最後に抱き留めてくれる。聖霊はこの恵みを示し、「見えないものへの希望」に生きることを可能にしてくれる。「神を愛する者」つまり、神がわたしたちを愛してくださったという場に生きる者は、我々のすべての働きを、十字架のイエス・キリストとの関係において、誠実に見つめていくこと、果たしていく必要がある。わたしたちの願いや価値のゆえではなく、神がその救済計画を実現するために、我々は召された。だから、「すべてのことが共に働いて善にいたる」、つまり神の救済の御業の中に、私もあなたも置かれていることを覚える。それは我々一人一人の新しい生き方の始まりの日と言える。まさに、我々の誕生日。ハッビーバースデイ。だからまことに嬉しく、楽しいこと。
5月20日 聖霊降臨日 「神の恵みに描かれるために」 使徒2:1-13
ペンテコステは、私たちに深く関係がある。それまでは「私のための」救い主。けれども聖霊降臨において「私と共に働かれる神」となる。つまり他人事ではなく自分自身が生きることと関係する。いつも「したい」と「できない」の狭間に置かれ、決意が無惨にも自分白身によって崩されてしまう経験する我々。しかし、そんな私たちの内側こそが神の聖霊の送り先。故に我々は、倒れて動けなくなるのではなく、また立ち上がって歩み始める。1:8で「わたしの証人となる」これが聖霊が注がれることによって起こること。
自分はキリストと関係がある、その命を受けて救われたということを、世界に向けていろんな仕方で表現する。「ちいさなクレヨン」という絵本のように我々にはまだ出来ることがある。神は預言者や士師のようなリーダーを送ったのではなく、聖霊を通してみんながリーダーだとし、私たちを用いてこの地上に救いを広めるようにされた。宗教改革者のルターは「キリストに従う者は、皆、小さなキリストになる」と言ったが、我々は聖霊を力の源として、主イエスが為されたことと同じことをしようとし、それを喜びとする。聖霊は炎のような舌のかたちをして、・・人一人の上にとどまった。全く同じ人間はいない。そこには人間の数だけ「様々な色があり、様々な名前があり、様々なストーリー」がある。そして私たち皆は、それぞれ違う言葉で、違う方法で、違う場所で、神の偉大な業を語り、神さまを証しする。「バベルの塔」は、人間に罰を与えたばかりでなく、違いの豊かさに生きるチャンスなのだ。「クレヨンからのお願い」という絵本で、各色はそれぞれに不平を言う。しかし最後は、すべての色を使って、海を山を空を、動物を虫を車を描いて一つの絵が描かれる。そしてそれはとても美しいのです。教会は「違う」人間の集まり。
しかし心の芯に同じ一つに聖霊を宿している。だから私たちの個性は、弱さは、私たちの中で、私たちお互いの間で働いてくださる聖霊により用いられて、互いに色彩を重ね合わせられて、神によって描かれる美しい一つの絵になっていく。一つの大きな源泉から導き出される、教会のビジョン。あなたは、神が描き続けておられる大きなビジョンの決して欠かすことのできない部分。だから一人で踏み出すのではなく、聖霊と共に教会の兄弟姉妹と歩み出す。この大船教会の描く、神を証するという共通の絵を一緒に描いてゆきましょう。
5月6日 「祈って下さい」 コロサイ4:2-6
パウロはコロサイの人々の為に祈りながら、この手紙を書き、同時に「自分たちのために祈って欲しい」と伝えている。祈は、誰かのために祈り、共に祈りあうことにおいて、祈りに結ばれた交わりが成立する。そして我々がこの世界で、キリストを証しするには、祈りが欠かせない。有名な讃美歌「いつくしみ深きWhat a Friend we have in Jesus」のもともとの英文歌詞では「祈り」が主題となっている。パウロは「私たちがキリストの秘められた計面を語ることができるように」と祈っている。キリストを通しての神の計画が明らかにされることによって、和解と平和が与えられ、教会は一つになり、教会は教会の外にこの福音を宣べ伝えていく。「塩で味付けされた言葉」を語るように勧められるが、恐れることはない。何故なら、私たちはすでに「十字架の命」という塩で昧付けされているのだから。「秘められた計画」の一つは「贖い」である。イエス・キリストは自分の命を差し出し、罪の奴隷であった私たちを買い取り、我々は完全に自由な者とされた。十字架と復活の中に、神の愛は十全に示されている。故に、今パウロは、たとえ獄中にあっても、福音の希望から離れることない。むしろキリストの故に喜ぶ。しかし、多くの人は神がいなくとも生きていけると思い、一人で何でも出来ることが素晴らしく、立派な人間だと思っている。要はキリストの救いより、目に見える人の力を信頼する。それが世の支配と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持つ。悪的諸霊に我々は支配されている。教会はこの悪を克服する救いを十字架に見る。キリストの十字架を見上げることによって、この世の悪的霊力から解放され、信仰・希望・愛の世界に生きる。
私たちはこの恵みを神からいただいた、その事の感謝から応答としての「行為」が生まれる。「相手が何をしてくれるか」を求めることではなく、「自分は何が出来るか」を求めていく。4:7以降から多くの人が共同して福音のために働いていることを知る。初期の教会の人々は毎日集まり、礼拝を捧げ、食卓を共にし、兄弟姉妹へのとりなしを祈りました。このような活動を通して、一つになっていきました。最初の教会が、単に説教を聴いて讃美するだけの教会ではなかったゆえに、私たちも社会の動きの中で、何をすべきかを模索します。祈りを私たちも続けます。そして、この歩みを隣人に伝えていきます。
4月29日 「神に育てられて成長する」 コロサイ2:6-19
止揚学園の福井達雨さんが「聖書を読み神様と対話していると、いつのまにか笑いを取り戻している自分がいる。人間・自分のみに頼らずに、神様の言葉に素直に聴く心を持ちたいものです」と書く。コロサイの教会はどのように福音を受け入れたのか? それは「信仰」と「愛」と「望み」である。信仰:迷信、あるいは目に見える合理的なカに、惑わされやすいこの世界において、正しい福音の知識に関わることでなければならない。神を根拠とし、何より主が喜ばれることを中心におくこと。この生き方を通して、キリスト者は終末の時、命と体が完全に贖われることを確かな望みとし、同時に、今、復活の命に生かされていることを確信しつつ生きていく。希望:この世界において生老病死をどう考えるか? こうした出口のない議論に答えを与えてくれるのが「イエス・キリストしかない」ということ。旧約には、痛み、苦しみ、淋しさ、怒りといった人生に伴うマイナス部分を逆手に取り、プラスに転化させる思想がある。神は痛みを知る人たちこそが真実が見えており、その人の立ち上がりによって、社会に正義と平和が確立されていくと教えている。福井達雨さんは「人生の中で、希望を失って自分を否定しまうことが何度もあるが、イエス様助けてと願いつつ何度も聖書を読みました。すると私の大きな力になってくれました」と言う。愛:コロサイ教会に必要なこと、それはキリストと共に生きることの根本的な確信。健康も病も、富も貧困も死も、すべての状況の根底に、主イエス・キリストの十字架と復活が存在している。この御子の恵みに生きることこそ、キリスト者にとって最も根本的な知識である。「キリストのみ」という主張は単純であるが、それは神の計り知ることの出来ない愛から出ている。だから私たちは、不幸と幸福のすべての現実の中で神は確かに働かれるのだという確信を持っ。その確信に基づいて、自分が変えられているのだと信じる。福井達雨さんは「愛はヌクモリです」と言う。信仰は日々の生き方に反映されていくもの。小さいことであっても、自分に何ができるかを真剣に毎日求めていくべき。世の中に、自分中心に、自分だけの力により頼んで生きる人が沢山いるが、だからと言ってそれが、あなたが善いことをしない理由にはならないし、神が働きを止めているという理由にもならない。イエスの「わたしに従いなさい」と呼びかけに従い、それでもキリストのヌクモリを伝えようとすることが大切。教会はキリストの復活に、新たに生きる希望を得、喜び生きる群れ。そのことを確信、愛」の大切さをいつまでも変わらず語り、行動し続けたいと願う。
4月22日 「新しい歌を主に向かって歌え」 詩編96:1-6、コロサイ3:12-17
「新しい歌」とは一体何なのか?私たちは教会に来て讃美歌を歌うが、その原型ともいえるのが詩編。詩篇は単なる文章ではなく、音楽に合わせて歌われ、どんな時代・困難でも、神は私たちを愛し、共に歩んでくださっているという恵みに心動かされ、神をほめたたえることにある。「ほめたたえる」とは「自分を小さくして」「主を大きくすること」。まさに詩編は命とは賛美にあると考え、神を讃えることができない魂は死んでいると考える。詩編96は神が創造主であり、また裁き主であると賛美している。歴史の始まりと終わりを深く捉え、「今だけ」という時を超えている。イザヤ書42章10節では「地の果てから主の栄誉を歌え」と言う。新しい歌とはいわば終わりの希望の歌である。イスラエルの民は捕囚の失意から「ああ主よ」と呼びかけた。自分の世界を突き破って主に呼びかけ、そこに新しい世界がひらかれていくことを見ている。主が私に近づいてくださった、だから賛美する者へと変えられる。事柄の終わりから自分を見つめ直す、そのことが今を生きることを新たに意味づけ、唯一の希望を与える。そもそもキリスト十字架と復活とは、人が終わりと見る死から始まった命である。コロサイ3:1は「キリストと共に復活させられたのだから」と明確に述べる。私たちが今、上を向いて生きて行くのは、私たちが一度死に、復活させられた者であるからに他ならない。現実には過酷な地上に立っているが、イエスキリストを通して、どんな状況においても神の支配下に置かれている。キリストの死は「神の狂おしいほどの愛」であり、この愛ゆえに我々は確かに主に向かう心を持っている。そしてこの共同体は、いつも詩編と賛歌と霊的な歌をもって神をほめたたえる。信仰者ならだれでも、感謝や、祈りや、賛美を歌う自由も権利も能力もある。ただそれは、自分よがりになるのではなく、自分を小さくして神を大きくする、そして神の恵みを隣人と分ち合うことが大切。だから祈れない時にも、心からの感謝を、歌えない朝も、ここに集う礼拝の友と声を合わせ、祈り歌うことができる。あらゆる場面で、人を支える主の言葉が、主をほめたたえる賛美が必要とされている。「新しい歌」は主の平和のために共に働こうと、私たちを促す。この地から、この所から、キリストの良き知らせを発信していきましょう。主をほめたたえる歌と祈りを声高らかに、ささげましょう。
4月15日(日) 「新しく生きよう」 ヨハネ4:7-15
神学者のケスターは、ヨハネ福音書は「読者をイエスとの絶え間ない出会い。と引き入れ、その中にある自分たちの場所について考えるように促す」と言っている。つまり「イエスは誰なのか?」または「イエスに従うとは?」との問いは、イエスの死と復活を通して、この世の現実で様々な形を持つ我々の生き方に一体性を与える。その一体性とは、この世の価値観、合理主義、利益優先主義に対抗して、神の愛を証言すること。ケスターはそれを「閉ざされた部屋に光を入れるための窓であり、神への通路を作り出すものなのである」と表現する。サマリア人の女性がそうであるように、人は幸福を、血族や富や名誉や権力など現実的なものを所有することで得られると考えている。しかし実際には、たとえ所有しても、いっそう幸せにしてくれる何かを求めなければならなくなるか、失うことの恐怖におののく。どこかでそういう生き方の方向転換が必要だ。イエスは人が「霊的」存在であることを思い起こさせる。人イま神に息を吹き込まれ創られたのであり、常に神を思い、畏れ敬うように定められた存在。故に礼拝は、人としてごく自然なことであり、欠く事のできないもの。そしてそのことを通し、はじめて人間は真の幸福を享受する。しかし人は、まるで神が存在しないように生き、あるいは別のものを神の如くに扱う。それは人の罪の姿であり、不幸な出来事。しかしイエスが与える水を飲むならば、現実的に限られた存在にもかかわらず、永遠の方に結びつけられて生きていくことができる。今まさに神の命に与り、真にいきいきとして、終末の「神の国」の完成に向かって。一体誰が、永遠に渇かない水を与えることができるのか? 神の根源的啓示であるイエス・キリストのみが、私たちの人生の渇きを解決し、永遠の命をもたらす。イエス・キリストは有限と無限に同時に属するから。
人と同じように渇きを覚えると同時に、サマリアに救いを求める女性をすでに知っている。何よりイエスの「私が与える水は…」こそがイエスは神であるということを明確に示している。この水を飲むということは、イエス・キリストの生き様、十字架と復活を信じることを意味する。イエス・キリストこそがまさに「転換点」である。まさに、閉ざされた部屋に光を入れるための窓が開け放たれ、永遠の至る方への道が示される。その道を今、我々は喜びをもって歩んでいこうではないか!
2018年4月8日(日) 「復活のいのちにあずかる」 ルカ24:36-49
「罪のゆるしを得させる、悔い改め」とは、人が神に立ち帰り、神のいのちを生きること。我々はその神の働きの、復活のイエスの救いの、確かな証人となる。「私であるエゴウ・エイミ」は神の自己証明にほかならないが、その究極の形が魚を食べるということ。人間が絶対だと思っていることが壊され、もっと絶対的なものが人間を超えて存在していることを知らされる。それこそが関係回復のために不可欠。「復活のいのちに与る」とは「十字架の命を仰ぎ見み、復活の主イエスの命に生きる」である。エマオ途上の食事の時、主が魚を食べた時に、復活の主は十字架の主であると、ようやく2つは互いに相関していることを知らされるから、復活に与った命は十字架の苦しみに与った命であり、十字架の苦しみに与る者は、必ず復活の命に与ることを知らされる。人間の時間的歴史は、復活の出来事を含めることは出来ない。何故なら、それは神の究極的な神秘が起こされた時だから。そしてそれ以後は、被造物すべてが、新たな時間の質において実存することを求められる。従って、主が復活することは、新しい時間、価値観、新しい人間性が到来したことを意味している。十字架に死に、復活させられたイエス・キリストにおいて、歴史を刻み、実際に生きていくという、極めて稀な現象が始まった。すなわち信仰。信仰は、信仰において生み出す判断基準に導かれて、見、聞き、そして働く。それはパウロが言うように、究極の勝利に生きる生き方である。すべては主のために生きる。十字架と復活の主にあって「堅く立って動かされない」が、同時に十字架と復活の主にあってすべての人に仕える。イエス・キリストの生は、神の「新しい人間愛」への呼びかけに深く根差している。故にたとえ現実のこの世界において様々に理不尽や悲しみがあったとしても、その先に神の確かな大いなる約束、希望の光を見るが故に、打ち倒されることなく、悲しみの淵に沈んでしまうことなく、力強く、霊に満ち、生き生きと生きる。イエスを裏切った者に対してイエスは出会いに来られ、死んだはずなのに生きていて、ついには魚なんか食べ、それ故に関係が修復され、新しい時が刻まれ始める。だから教会は、この時、決定的な転換に始まった。それは私たち自身が、人と人との世界で生きた交わりの中で、生きた主イエス・キリストに出会うことである。
2018年4月1日 イースター説教要旨 「世の終わりまでj マタイ28:16-20
今朝、私共は主イエスの復活を今朝の出来事のように祝っている。復活された主イエス自身が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さる。御言葉をもって語りかけ、食事をし、賛美の歌を歌わせて下さる、歩むべき道を示し、私の心を開き、唯一の神へと向けさせて下さる。この事実の故に、私たちは主イエスの御復活を喜び祝うのだ。平日聖餐礼拝や訪問聖餐は、聖日礼拝に出席できない方と、朽ちていくこの体に、永遠の命を注いでくださる、この救いの事実に与るため。神様のもとに送り、同時に命を与えられた。十字架は、想像を絶するような苦しみ、むごたらしさ、おぞましさ、悲惨な孤独、それは本来、私たちが罪故に受けるべき苦しみと裁きであった。それを主イエスが身代わりになって下さった。考えられない程の父なる神の愛だ。そしてその犬いなる神の愛は、死に打ち勝つのであり、十字架で終わらなかった、復活へと続く。もし、十字架で終わってしまうなら、イエスの教えと業は、生きていない「教え」となる。主イエスによって与えられたものは、「命」そのものであり、十字架が罪の赦しを与えるものならば、死もまた克服されなければならない。死は人の限界だが、罪赦された者の死は、死では終わらない。主イエスは神の子としての力を捨てて、十字架の上で死に、そのイエスを父なる神が復活させられ、神は私共の限界を打ち破ってくださることを示された。復活の信仰とは、たとえ何かを失い、悲しみ痛みを抱え続けたとしても、大きな神の愛を知らされ生きていくなら、失ったもの以上の尊いものを、確かに見出していくことだと言える。墓を見に行った女性たちは、何が起きたのか、さっぱり分からなかったが、復活の主に出会う事によって、信じる者とされる。そのためには、主イエスの復活を伝える者が必要だ。天使の言葉を弟子たちに告げる女性たち、弟子たちが全世界に伝えたように、だから教会は、主の復活を高らかに伝えていく。私たちが誰かに自分の人生を通して、主の復活の知らせを伝えていく使命がある。これは、すべてのキリスト者に与えられている使命なのだ。神様の御業を小さく見積もってはならない。神は今も確かに生きて働かれている。全世界で目がくらむような数の人が、主の命による新しい歩みを始める。心からイースターを喜び、この喜びを力の限り、伝えていこうではないか。
3月25日(日) 「私の霊を御手にゆだねます」 ルカ23:46-49
イエスは十字架で6時間にわたって十字架で苦しんだことになる。まさに想像を絶するような恐ろしいものだ。イエスの十字架の7つの言葉が記されている。マルコ・マタイは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を記しているが、ルカは伝えていない。十字架の上で罪の赦しを告げるイエスを描くルカは、神に見捨てられた苦悩を叫ぶ残虐なマルコのイエスの姿の先に、我々への罪の赦しのイエスの姿、イエスの「恩恵の福音」を見ているのだろう。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」は、自分の信仰と使命に命を献げ、つまり究極の自己否定であるが、そのことを通して、父なる神の赦しと、父なる神への絶対的な信頼による真の生き方を示していると言える。それは、確かに多くの人に何かを伝え感じさせる。一方、「自分が自分の命を持っている」と考えるこの世は、次の世代に何を一体伝えるのか? 教会は、私たちの生きる命が自分のものでないことを思い出させてくれるところだ。我々は当然自己否定の姿を好まないし、時代錯誤だと思っている。'しかし、キリスト教がその中心に置く理念は、神に対する礼拝であり、隣人に対する愛の統合体であり、自己否定はこの両要素に根をはるもの。十字架のキリストに目を向けてみれば、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になり…、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったと、まさに自己否定の実際に生きたことを知らされる。まさにキリストの自己否定こそが「神に対する礼拝」と、「隣人に対する愛」の烙印と言える。パウロはまさにこの烙印に生きた。我々はこの烙印を帯びて生きているだろうか? この世はますます偶像に傾倒していくが、それを神ご自身が、十字架の御子の姿を通して打ち砕く。しかし、同時に我々は、御子の十字架の自己否定を通して、我々が神の行為よってのみ存続していることを思い起こさせられ、すべての時において(たとえ健康寿命でなくても) 神の私に対する愛ゆえであることを、我々が胸を打ちながら知らされる。重要なことは、キリストの自己否定、キリストの十字架の精神によって、洗礼を施され、その人間的な知恵と親切が神にかなうものにならなければならないということ。
いかなる教会の礼拝も業も、いかなる奉仕も集会も、すべては、ここに立たなければならない。
「父よ、私の霊を御手にゆだねます」は、あきらめでも、屈服でも、まやかしでもない。それこそが生きる者の希望。
これこそが、私とあなたと教会の、回復と更新になるだろう。
3月18日(日) 「人の子の権威」 マルコ2:1-12
「人の子」という表現は旧約聖書においては一種の慣用句として用いられ、「人」あるいは「人間一般」という意味。しかしユダヤ黙示思想では、ダニエル書に見るように、終わりの日に雲に乗って現れる超自然的な審判者・メシアという意味で用いられる。福音書において81回イエスの言葉として用いられているが、圧倒的に十字架と復活に関係する言葉であると言える。イザヤ書の「苦難のしもべ」に見る、我々の罪と癒しのために苦難を受ける者として、そして死という敗北を通して、神の義と勝利が示されるという、人間的権威をはるかに超越した偉大な神の権威が示される。「権威」には「人が従うべきこと」という概念が含まれている。そして聖書は、神だけがその権威の所有者であることをイエス・キリストを通して明らかにする。イエスはその宣教活動において、昔の人の言伝えを否定し、罪人と食事をし、安息日の定めを破って癒し、不浄とされる人や異邦人を救い、「罪を赦す権威」を行使した。論敵はそれを認めず、いつも「おまえは何様か?おまえは誰か?」と問い続ける。その問いかけは逆に、彼らが神の存在を認めながら、実際には無視し、自分たちの価値判断こしか信頼を置いていないことを明らかにする。だから彼らはイエスを「知らない」と言うだろう。突飛な行動で運びこまれた中風の人がどのように罪人であるのかは明確ではない。ただし、イエスは、重い病は「罪」であるとする当時の罪の定義を壊してしまう。この基準から人を解放する。同時にそれは人を裁き、罪のレッテルを張る人たちへの解放になるはず…。人には、どちらが正しい、正しくないではなく「赦される」ということが等しく不可欠。そして神の国の到来は、「罪の赦し、罪からの解放」ということを本質にする。人が癒され、再び立ち上がる事が出来るのと同じように、あなたの罪が赦されるという事が確かに、この世界に存在する。そして今、イエスは確かにそれを行われる。「子よ、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と十字架につかれる! それはまさに、罪を赦す父なる神の慈愛ではないか! なのに私たちはまた「十字架は天からのものか、人からのものか?」とつぶやく。もし人からと言うならば、依然私たちは、罪に支配され真っ暗闇で生きている。もし、神からのものだとすれば、すでに我々はキリストの十字架により、新たに生かされて、生きている。人間の罪を覆い尽くす神の愛の支配、それだけが、神の国、神の権威を私たちに知らしめる。このことを心に抱き、信じ、このことこそに従い生きていく。
3月11日(日) 「共に生きるために」 ガラテヤ書6:11-18
パウロは、この手紙を終えるに当たって何としても「大事なこと」を伝えねばならないと思ったのだろう。具体的な事案は「割礼」であるが、それは律法主義の問題であり、人間的な誇り、肉の誇りの問題であり、それが人間の罪であり、肉の業を生み出す。キリストの十字架はその罪の根源を根底から否定し、人はキリストの霊をいただくことによって、自分の中にある肉の人が、霊の人に変えられていく。そして「互いに重荷を担いあう」いわば「共に生きるということ」をはじめる。東日本大震災で祖母を亡くした高校生はずっと罪悪感を覚え隠してきたが、震災について「大事なことが伝わっていない」と感じ、それ以来、様々な防災活動に加わった。そして一緒に泣いてくれる友を得て、今は「自分みたいに後悔したり、つらい思いをしたりする人を減らしたい」と思っている。私たちは洗礼を受けてキリスト者になるが、それは、自分が罪を犯し続ける存在であり、それでもキリストに赦されて現在を生かされていることを知ること。そういう「キリストへの誇り」を負うがゆえに、相手と共に重荷を担い合うことが出来る。そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生む。
この大いなる恵みの内において下さる父なる神を侮ってはならない。だからこそ、我々はくじけることなく、倦むことなくキリストの恵みに照らされ、生きていく。岩手県、宮古教会の牧師が「たくさんの宝物が奪われた中でささげてきた祈りは『私たちが共に生きていくための知恵と力をください』。被災地の人も被災していない人も含めて、どうしたら一緒に生きていけるだろう、どうしたらみんなで喜び感謝することができるだろうと思うようになった」.と言っている。キリストの十字架を誇ることは、十字架につけられたキリストへの参与。キリストの十字架の苦しみは、この世の価値観がキリストの価値観を拒否したから。同時にそれは世に対する裁きとなる。ただし、その裁きは世を軽蔑し、切り捨て、厭世的になることではなく、この世に生きながら来るべき時代に属し、新たな時代の秩序に倣って、今を生きる選択をすることを意味する。何故なら十字架のキリストは復活されたキリストであるから。そしてその新しい生き方をパウロは「新しい創造jと呼ぶのだ。赦されざる罪を負いどうしようもない痛みと生きていくしかない我々。その私が主の十字架を通して愛され赦される、この恵みと救いに、喜び、生きていくこと。我々はできるだけ愛をもって生きていきたい。神は確かにいつも私たちを、私たちを遥かに超える愛で、包んで下さっているのだから。それが、神の真の愛に絆にふれた、私たちの新しい生き方だ。
3月4日(日) 「飽いてはならない」 ガラテヤ書6:1-10
船本弘毅牧師は「人の心は安易な方向に誘われやすい、誰でも苦より楽を求める。しかしそれに耐えて、斜面を登るものは幸いだ」と言う。紀元3-4世紀のエジプトのキリスト者のことを書いた文章には「一般的に友好の意を示すだけの言い回しを、その行いにおいて現実のものとし「あなたの卑しい僕」としてこの世を去りました」とある。
「何かの違反」は具体的には分からないのは、パウロは5:19で言う肉の業を想定するのであり、それは我々にとって決して他人事ではない。それに対して「霊に導かれて」、「柔和な心」で対処するよう勧める。「愛の人」ではなく「霊の人」であるのは、恐らく「罪人である我々自身が、神の赦しを知らされていることを何よりも大切にしているか」ということ問うからではないか。「柔和」とは単に優しいではなく、自分自身も罪を犯す者であることを認めて、神の前に何ら誇り得る者でないことを知っていること。そのことを見失えば容易に傲慢、利己心に誘惑される。だからこそパウロは共同体における信仰の自己吟味の重要性を指摘する。パウロは人の誇りを徹底的に批判し取り去るが、同時に適切に誇ることが出来るのだと教える。それは「誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人」である。神の前に救われる根拠を持たない者が神の一方的な恵みにより救われ、生きる者にされたこと、その意識こそが「自分自身の荷を負う」ことであり、互いの重荷を支え合う関係性に欠かせない。私たちはしばしば善き行いをすることに疲れ、十分に報われない、誤解され、期待に反し徒労に終わることを経験し、肉の業の方がよっぽどましだと思うかもしれないが、神は必ず善に報いて下さる方だから、すぐに結果が出なかったり、思い通りにならなかったりと言って、だからと言って善を行わない理由にはならない。むしろ過ちは、借じることに飽きて悪をなすことである。何故ならそれは、我々がいついかなる時も十字架の命に生かされていることをないがしろにしていることになるからだ。パウロは「私たちは世の屑、すべてのもののカス」と己を表し、そして己の生き方をキリストの姿に帰す。それでも善を続けること、それでも「あなたの卑しい僕」である生き方こそが、キリスト者がこの世に仕え生きていく実際を、まざまざと示していることを思わされる。
講壇交換で本郷弓町教会の石田歩牧師に説教して頂きました
2月25日 (日) 「イエスとベルゼプル」 マルコ3:20・30
イエスが家に帰って来られると、身内の人たちは『あの男は気が変になっている』とイエスのことを聞いて取り押さえに来たのでした。それは、イエスの宣教活動が病人や悪霊にとりつかれた者、罪人や徴税人など。ユダヤの律法主義社会から見れば、神とは縁のない人々、神から離れていった人々が集められているという光景は、まさしく異常だと思われていたのでした。しかし、イエスはそのような人こそ罪からの解放、いやし、救いが与えられ真の命に生きるようにとの神の愛を注がれたのでした。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちもイエスを糾弾します。『あの男はベルゼブルにとりつかれている』、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』など。容赦ないイエスへの批判が続けられています。そこでイエスは、強盗のたとえを話されました。イエスは、強盗となって、家の主人であるサタンの家に家財道具を盗みに行く。そのためにまず、強い人く家の主人であるサタン)を縛り上げるだろうと語られました。家財道具とは、人間のことです。サタンの力は、人間を神から引き離そうとする力です。イエスは、サタンを縛り上げ、人間を解放してくださり、再び神のもとに立ち返らせるために来てくださったのです。
律法学者たちは、そのことを聞いてもなお彼は汚れた霊に取りつかれていると言いました。イエスを拒否していく彼らの態度に自分を神の愛から締め出していく永遠に赦されない罪を犯していくことになりました。それは、自らの正しさによってイエスを拒絶していくことでした。その正しさの主張はイエスを十字架へとかけていくことになっていくのでした。神は、イエス・キリストを通して救いへと招いてくださっているのです。私たちの内にある自信の正しさ、自己中心的な歩み、神様を自分の内から締め出そうとする罪が赦されていること。私たちがその神様の深い愛の内に生きる者とありますように願っています。
2月18日(日) 「霊に導かれて生きる」 ガラテヤ書5章16-26
律法によって救われることは出来ない。16節で「霊において歩みなさい」と教える。律法に相対するものは、「霊」である。それは、我々が生きるすべてに、神の見えない働きがあるということ、それを信じて歩んでいくのが信仰。ある人が人は99㌫の疑いと、1㌫の信仰によって生きていると言った通りで、「信仰によって義とされる」とは、我々の優秀な上等な信仰ではなく、「不信心なものを義としてくださる神の存在」への信頼、感謝、喜びである。我々の内にはいつも自分中心に生きる生き方(神なき生き方・律法主義的な生き方)という「肉」の生き方が存在し、「姦淫、敵意、そねみ、怒り、利己心、不和」を生み出す。そしてそれはいつも「霊」を攻撃し、結局人は「自分のしたいことができない」。私たちは信仰者になる前も後も、罪人であることは変わりない。ただ、キリスト・イエスに属する者は、罪赦され、解放され、罪に支配されない、イエス・キリストにあって生きる罪人と言える。だから私たちはもはや、自分の力や自分の誇りに生きるのではなく、霊にあって前進する。脚本家の山田太一は「親と子という関係は互いに選べるわけではないから宿命的に親子になってしまったということ。その宿命的な、いわば上から与えられた関係をむしろ受け止めるということが大切なのではないか。その中で忍耐していく。その運命を引き受けていくということが大事なのではないか」と言っている。主体的であること、つまり私たちの決断とは、自分の内側から出てくる、力強い英断や英雄的な行為ではなく、「いわば上から与えられた関係をむしろ受け止める」ことと言える。キリスト・イエスにある者は、キリストの十字架という「いわば上から与えられた一方的な恵みの関係を受け止める」ことによって、古い自分を死に渡した者であり、「キリスト・イエスのものとなった人」である。それは自分が中心の、自分だけがという生き方に別れを告げて、キリスト・イエスを主とし、キリストに倣い従う者として新しい生を始める者であること。だから挙げられる霊の結ぶ9つの実は義務や責任ではなくて、喜びに満ちた新しい生き方に他ならない。ルターが言うように「今や福音の光が昇ったので、神を賛美し、神をのべ伝え、キリストによる憐れみに対する信頼のみを誇り、高める」。私たちは、そういう喜びに導かれて生きていることを、今こそ、しっかり覚えたい。
2月11日(日) 「キリストの自由に生きる」 ガラテヤ5:1-15
.律法によって救われることはできない。人は「自分は何ら法を犯していません」と言って、自分の正しさに救いを要求するが、他者に対しては無関心であるか、攻撃する。律法主義は、パンを腐らせるものであり、それは教会を、キリストの体でなくならせる。人間がこの律法主義の苦しみの支配から解放されるには、己のエゴを十字架につけるしかない。トルストイの話で、老いた父親が言うように「神様といっしょなら、生きていける」。だからキリストが死んで下さった。その恵みを覚え受け入れることは「割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰」である。ユダヤ人が生きる指針としていた律法は、キリストにあって「隣人を愛する」ことに取って代わられた。本来我々は愛することを知らないが、律法主義からの解放は人を自由にし、愛することを教え、実際に体験させる。「愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力」であり、それは感情ではなく、神から与えられる賜物。例えば使徒20:17以下で、パウロはエフェソの長老に「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、あなた方と過ごしてきた」と言う。それは、自分自身が低くされ、敵対する者に対してさえ、神の愛を示すキリストに倣う、キリストに属する者が前提にある。だからこそパウロは隣り人の傍らにあって共に涙を流して来た。人間的弱さも欠点もあっただろうパウロ。しかしだからこそ、彼は十字架の福音だけを語った。ただ「十字架はつまずき」である。十字架を信じることは、自分の主張や価値観が傷つくから。しかしキリスト者は「主を誇り」生きることが出来る。大事なことは、自分ではなく、自分を超えた、自一分を愛してくれる存在に、自分を否定して貰うこと。それは神によって、我々が赦され、生かされるということ。この新しい道こそ、人を愛することへと向かわせる歩み。パウロはエフェソの長老に「霊に促されてエルサレムに行きます」と言うが、直訳すると「霊に縛られて」という強い表現。罪に縛られ、キリストに属さないものが、そこから解放されて自由になるのは、聖霊に縛られることによる。教会の歴史は、このようにキリストにあって自由にされ、神の霊によって縛られた、キリストにあって実際に生きる者たちによって担われてきた。十字架の福音を確かに伝え、共に喜び共に悲しみ涙し、教会の歴史が刻まれてきた。私たちは今、その教会の歴史の最先端に立っている。
2月4日 (日) 「キリストによる自由」 ガラテヤ4:21-5:1
ガラテヤ教会の問題は、一言で言えげ、自由の問題。我々は自由なのか?パウロは我々が本来自由でないことを、アプラハムの記事で説明する。神の約束を信じられないで、人間的な策略で得たイシュマエル。一方、イサクは、ただひたすら神の約束によって生まれた子。しかし、アプラハムやサラが自由な人で、優れていたからではない。神の約束が信じられなかった彼らがしたことは、自分の奴隷ハガルに子を産ませたことであり、後々まで続く問題を生むものでしかなかった。だからパウロが言いたいのは、人の「エゴ、無慈悲さや傲慢さ」、それに対する、神の一方的な「救いの福音」との対比と言える。そしてキリストを信じた者は、地上のエルサレムまで続く律法の歴史の流れではなく、天にあるエルサレムへと繋がっている、自由の子の流れにいるのだという主張をしている。人間は、いのちを生み出すことができない、救いも自由も何も生み出せない、かえって罪を生み出す自由しか持っていない存在。私たちも同じだ。しかし神は、そのような存在の人間から、約束の子を生ませる自由を持っておられる。そういう神の自由の中へと、自由にされたのがキリスト者。そう考えれば、命とか死は自分勝手なものではない。我々は改めて、自分を造ってくださった神の存在を、その神の子なのだということ覚えることが必要だ。パウロが言うように、神の約束によって生きる生き方は、律法による生き方に、いつも攻撃されている。この世界で、自由とか正義とは自分への快適さへの基準であり、実に狭い視野の中で生きている。そして、それは自己保身や自己利益のためにますますやせ細っていく。ハガル親子の荒野への追放、こんなひどい仕打ちはないが、それを救ったのは荒野にまで追いかけて下さった神の恵み、憐れみ。だからこそ、この私たちも救われることができた。そこに、真の自由があることを聖書は語る。ルターのキリスト者の自由は、キリストご自身の持っておられた自由を表す言葉。キリストは神の御子でありながら、人間の罪のために十字架で死なれる自由を持っておられる。本来裁かれる我々が、十字架め命によって贖われ、そして生かされる。そうやってキリストの自由の恵みの中へ、自由なものとされ、招かれている。だから、私たちはこの世のいかなる価値観にも支配されないし、同時にすべての人に仕えていくことができる。キリストによって自由にされたのです。喜びましょう。感謝しましょう。自由は与えられたのだから、その自由を実際に使ってみましょう。しっかりと握りしめ、離さないようにしましょう。
1月28日(日) 「キリストが形づくられるために」 ガラテヤ4:12-20
「私のようになってください」とはそんなに軽々しく言える言葉ではない。パウロが言うのはいわゆる社会的に称賛を受けるような立派な人間になって欲しいと言うのではない。むしろその逆で、社会的に軽蔑され、蔑まれる弱い者になることを恐れないで欲しいということを言おうとしている。実際13節でパウロは自分の弱さのことを語っている。パウロは4:1以下で救われる前は子供だったけど、ただ神の恵みによって「神の子としての身分を与えられる」と言っている。子どもから成人になって自主独立して何でも自分で決められる、すれっからしの大人になるという,ことではない。救われるとは、一方的な恵みによって新しい人生を与えられたことを、愛される子であることを、ますます強く覚えることであり、それがパウロのようになるということ。パウロが己の弱さを示すのは、彼自身には誇るものはないが、主なる神はキリストと通して我々の弱さを担ってくださるお方であることを知っているから。人は生きれば生きるほど、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」ということを経験するが、キリスト者はそれが恨み節だけで終わらないことを、その悲しみと絶望のどん底の先に、何かがあることを信じ、喜ぶ。我々はこの世界で、様々な諸霊に支配されている。それは、神なしで生きることであり、人間は人間しか見えない。だから人はいつも強欲で、妬み、恨み、他者との争いを招く。しかし、我々はキリストの命を持って、父なる神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ者とされたのだ。すでにある価値観が崩れ、まったく新しい価値の誕生により人格の構造へと導かれる。苦難と、絶望と、恨み、そのただ中で、子として父なる神に「アッバ」と祈ることができる、だから己の強さではなく、弱さを共有し合う、他者のために、喜んで弱い者になるキリストに従いゆく。弱肉強食の世界でないところで生きている、そういう世界を見出す。しかし、それはそんなに簡単なことではない。土くれから形作られ、息を吹き込まれた人は、生きるものとなったが、人はそれだけで生きるのではなく、キリストの十字架の命、「アッバ、父よ」と呼ぶ霊によって、もう一度創造されることが必要だ。そしてキリストにあって全く新しく、新しい視点で生きる者とされる。そのことに生き続けるために、我々はまた崩され、またキリストにおいて形作られていくのだということを忘れてはならない。
1月21日(日) 「キリストにおいて一つ」 ガラテヤ書3:15-29
,律法では救われなかった。敬虔なユダヤ教徒、キリスト者を迫害していたパウロは、そのことを骨身に染みて知っている。アプラハムとその子孫(この子孫をイエス・キリストとパウロは考える)に対してなされた神からの直接の約束より、430年も遅く律法は与えられた。ましてモーセという仲介者を通して与えられた。これらの事実を見ても、律法が神の約束を超えることはあり得ない。それでは神ご自身が与えて下さった律法は何か? 「違反を明らかにするためのもの」「キリスト・イエスのもとへ導く養育係」と言っている。ここから示されるのは、とても救いとは呼べない、律法の暴力的な支配。律法がたとえ「何が善で、何が悪か」を人に判断させても、それでは人は善を成しえないから、結局は悪へと進ませていくことになる。律法は、人を神に信頼させ、神によって救われる道を示さなかった。パウロは26節から「あなたがたは皆、キリストを着ている」と語る。もう中身は問題にされない。この世の罪と死の中を、弱肉強食の世界を歩いてゆく我々は、キリストを外套のように着ることが与えられている。「私は汚いのだ、細い太い、思い軽いのだ」と言う必要はどこにもない。人が罪から自由になるために、神はキリストを送られ、十字架につけられたのだから。キリストのその身によって、我々キリスト者はキリストという着物を着て生きているのだから、もうお互いの中身を比較したり、裁き合うのではなく、すべての人との出会いと交わりの中にキリストを見出し合うべきだ。キリストを着るということは、同じ制服を着るということではない。それの方が人は安心で楽だが、それは結局、人を再び律法主義へと導くだろう。そうではなく、その人に合った衣服を着ること、その人の精一杯の生き方で、キリストを表現していくこと。その時、様々な我々が、キリスト・イエスにあって一人とされるだろう。各人がキリストにあって尊重され、赦し合い、愛されるから。この現実世界の中において、このことにおいてのみ、人を分断する差別の隔てが取り払われる。だから恵みは、個人的な体験には終わらず、キリストにおいて人と人に強い連帯性を生じさせ、隣人と共に歩んでいくことを可能する。それがイエス・キリストを通して与えられる、すべての人が祝福に置かれるという約束。そういう約束の中に、・喜びの約束の中に、すでに置かれていることをしっかりと覚えたい。
1月14日(日) 「信仰によって生きる」 ガラテヤ3:1-14
感性豊か,なパウロが言う「あれほどのことを体験した」とは一体何か。恐らく、パウロは、十字架を実際見ていようがいまいが、私達が十字架の恵みを理解するときに、もっと切実に、真剣にそれを見つめなければならないということだろう。十字架の恵みを軽んじ、認めて受け入れようとしない心の頑なさは「キリストの死を無意味」にしてしまう。実際に、パウロの伝道から短い期間で、パウロの伝えた十字架の恵み、信仰による義ということが見失われ、人々は再び律法や割礼ということに傾き始める。きっとガラテヤの教会の人々の顔は再び憂鬱とプレッシャーに覆われ、救いへの喜びはなくなっていたに違いない。私たちは律法の問題をどこか他人事のように考えているが、その問題本質は「最終的に自分に拠り所を置く」ということで、それはどの時代でも、どの場所においても、我々の生きるという事に関係している。自分の信念を持つことは大切だが、最後まで自分にしか拠り所を持てない人は、一人で生きているのと同じといえる。しかし、どんな人も一人で生きているのではない。死んだ愛する人も、生きている友も、共に歩む隣人も、私達一人一人の内に、共に生きている。誰もが、支え支えられ生きている。私達は確かに誰かに生かされている。パウロは創世記にあるアプラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていく。そこでは何の誇れるものを持たない者が、正しいとされる。割礼も律法も救いの条件にはなり得ない。ただ約束を信頼し信じ、そして義とされた。それは、神の側からの一方的な恵み。律法というものが、人を頑なにさせ、人を裁かせ、あたかも一人で生きているような錯覚にさせるものであるとするならば、福音は、まさにその逆であり、福音は、私達に一人でないことを教え、絶望の、救いのない状況だと思えるところにこそ救いが与えられることを、あなたが生かされていることを知らせる。そのことに生きることが「霊を受け、霊に生きる」ということ。そして、その福音はすべて、イエスの十字架から始まった。律法の呪いは、神の独り子キリスト・イエスによって引き受けられ、我々は贖われたから。教会の求めるべき霊性とは、イエス・キリストを介して働きかける神の霊に応答し、人間の身体的、精神的、社会的領域を根源的に支えるもの、そしてそれに即して形成される人の生のあり方。まさに、そういう生き方の真剣さが、今、問われている。
横須賀学院宗教主任吉住高志教師に説教して頂きました
1月7日 (日) 「定められた時のために」 マタイ7章13~14、ハバクク2章1~4
「定められた時のために/もうひとつの幻…それは終わりの時に向かって急ぐ。」
二つの「終わり」を思います。人生の終わり、死の時と、終末、神の国の完成、裁きの時です。
死は世の全てから開放され神の御許へ行くことが許される時。生きている人も死んだ人も、もう一つの終わりの時、終末の時に向かっているというのです。
「毒麦のたとえ」(マタ13)から、神が人間を裁く終末の時まで人間同士で裁き合ってはならないと聞くことができます。裁くのは神。人間同士では判断を誤ることがあるから。自分の心を吟味せよ。自分こそ毒麦になっていないか。その時御許に入れてもらえるかわからないのだから。
人生の意味や死についてなどは受け入れ難い世界にあって、神の霊を受けて新しく生まれた者は、喜びと感謝のうちに生き生きと究極の落ち着き先を見据え進むことが許されている。生きる意味があるから神は生かしておかれるのだ、と積極的生活が許されています。
「狭い門から入りなさい。…命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだず者は少ない。」「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハ10:9)と言われる主イエス・キリストこそ命に至る門です。その道はキリストが十字架上で切り開いて下さった道です。命に至る十字架の道として細いのです。門に至る道も門も狭く、進む道も細く、通る人も少ない。この世は広い道を大勢で進む安心感を提供します。自分の努力や才能に寄りかかる人は広い道へと引き込まれます。原罪、身勝手さが打ち砕かれず肥大化する時、更に通り難くなります。
広い道にキリストはおられません。命に至る細い道は主が備えて下さる道。信仰の先輩たちが御栄えのために多くの涙と忍耐をもって、その道を歩まれました。御言葉と聖霊の力に依り頼み、主の歩まれた細い道を大胆に進んでいくことが許されています。
2017年のメッセージ
12月31日 「クリスマスを迎えて」 テトスへの手紙2:11-14
世間は「クリスマスおめでとう」から「お正月おめでとう」に移ろうとしている。聖書によれば、最初に招かれた羊飼いも、東方の学者たちも己の力によってイエスに出会えたのではなく、これらが神からの一方的な恵みであり、さらに誕生を知るだけで満足するのではなく、実際に出会い賛美し拝むために招かれたことを教えている。そもそもクリスマスは「おめでたい」のか?社会学でいえば、クリスマスも正月も、社会・文化が作り出された「共同幻想」であると言える。ところが、聖書の語る本当にクリスマスは「共同幻想」ではない。この「めでたさ」は私たちが何かを達成したからではない、むしろ私たちは何もできなかった。本当の所、人も社会も、イエスの誕生に興味はないし、お祝いするつもりもない。だからイエスが生まれた時は、宿屋に部屋さえなく、当時の支配者はイエスの誕生を無きものにしようとし、異邦人が礼拝し、そのプレゼントは、十字架の死が示唆されている。だからクリスマスの「めでたい」とは、社会の価値観や、風習にとらわれない「ゆるがない恵み」が与えられたということ。最初のクリスマスの出来事から、百年ほどたったテトスへの手紙は「すべての人々」に救いがもたらされたことを言い、すべての人が救いを必要とし、すべての人が罪の支配の下にあることを言う。その私達を愛し、無条件の赦しのために、イエスを通して、神ご自身が低くなられて「現れました」。私たちは確かにこのクリスマス出来事に招かれたのだから「イエス・キリストの栄光の現れ」を「祝福された希望」として生きていかなければならない。それは、苦痛、強制ではなく、喜びであり救い。主が「多くの人の身代金として」来て下さったのだからキリストの復活のいのちに「キリストと共に生きることにもなる」と信じ「主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。この恵みに生きることが本当に「めでたい」喜び。「めでたい」の語源の一つに「めでいたし(愛で甚し)」がある。クリスマスは神様が私たちをこれ以上なく愛おしく大切に思っていてくださるということが具体的に示された時。努力しても何も報いられないことが多い世界で、現実の中で、神様が、私の命の大切さを、一日一日の大切さを、いとおしんで下さることへの喜び。そのことを再確認できる日がクリスマス。その喜びに生きていく始まりを覚える。
12月24日(日)クリスマス合同礼拝 「喜びの出来事」
クリスマスにおいて「喜び」は大きなメッセージ。親は子の誕生を喜び、自分の命より大切なものとして受け入れる。そして子は、自分が親の喜びだということが最大の喜びであり、他の人にもその喜びを分かち合っていく。創世記では、私たち一人一人がかけがえのないものであり、神にとって大きな喜びであることが示される。その神の喜びがあるからこそ私たちは存在している。だからクリスマスの喜びは、神の大きな喜び。ルカ2:!4の「御心にかなう人」は、「神に喜ばれる」という意味であり、それは神がキリストの人間性を通して出会う人のことであり、聖書はそれが「ひつじかい」であったと示す。人の世界には、痛み、弱さ、悪、分裂、争いがある。ヨセフとマリアが泊まるところはなかったように、他人の事など考える暇はない。イエスの誕生物語に関わる人は皆、弱さと罪の闇を持ち、あるいは社会から見向きもされない小さくされた存在。しかし、神はクリスマスの出来事をすべての人に伝え、我々にインマヌエル「神は我々と共におられる」という決定的な神の救いを伝えて下さる。具体的には、キリストが生身の人間として生き、十字架で最も残酷に死ぬことにおいて示される。このように神が関りを持って下さるから、人の全く新しい歩みが始る、それがクリスマスの喜び。クリスマスの喜びは、神の喜びに参与する「私たちの喜び」。私たちが、今生まれてきた神の独り子イエスがどう生き、なぜ十字架に死んだのかを知る時、神の喜びに参与する者とされる。ヨハネ6章で「わたしが命のパンである」と宣言されるイエスを信じ、受け入れることは「その者が、イエスの内に留まり、イエスがその人の内にも留まる」ことであり、それこそが「永遠の命」であることが説明される。キリストを信じることはキリストの愛の掟、つまり「互いに愛し合う」ことに留まること。それこそが神の喜びに参与する「私たちの喜び」。私たちは、余裕のある時、幸せだと思っているときにしかクリスマスを喜べない。多くの場合、この心は様々な思い煩いや己の欲求や偏見で覆いふさがっている。しかし、それでも、イエスは今日生まれて下さる。たとえその命が十字架で奪われようとも。自分の命より大切なものとして来て下さる。この喜びの出来事に生きることが出来ますように。その愛に留まる事が出来ますように。そして、キリストが私たちの心に留まって下さいますように。その事を願って、今日のクリスマスを過ごしたい。
12月17日(日) 「キリストは再び来られるのだから」 ルカ1:46-55
誰にでも、クリスマスの思い出が存在する。ドフトエスキーはシベリアに流刑される時、村のおばあさんから新約聖書をもらい肌身離さず持ち歩いていたそうだ。CarlDawという人が詩編96を「擦り切れた賛美の歌は主に歌わない」と訳し、「当り障りがなく、生ぬるい漠然とした表現で満たされている現在のクリスマスに対して、この詩編は、終末への希望、不正に対する預言者的抵抗、決定的なキリストの再臨に対する切望など、命を育む主題を中心に据えている」と言う。アドヴェントは簡単に言えば「到来」であるが、その本質は私たちに「現実を超える新しい未来を受け入れる余地と勇気が、心にあるか?」と問うものだ。現実に戦争があり、憎しみ、卑劣、臆病さがあり、テロや暴力、飢餓・貧困、権力のもとに差別がある現在の中で、それに直面しながらも、確かに神の未来という実際に目が向けられ、そのことによって日々の生き方が再構築されていくという強烈な思いを持つかどうかだ。マリアの賛歌は、キリストが来られることの意味をよく表している。そもそも賛美の本質は、心の中を神の恵みで一杯にするという事であるが、マリアは自分ではなく神様を大きくすることにおいて表現する。自身の功績や能力ではなく、ただ神の純粋な恩恵、「この私を神が心にかけてくださったこと」を知らされるから。主は 「身分の低い者」「僕」「はしため」「主を畏れる者」「飢えた者」を顧み恵まれ、反対に「思いあがる者」「権力ある者」「富める者」を打ち散らし引き降ろす。マリアの賛歌はまさにキリストの山上の垂訓を指示している。「かの約束から今を見よ」という「神の未来という実際に目が向けられて」歌われるのだ。それは単純な、審きの言葉ではなく、富めるもの、貧しいものが主にあって「わかちあい、共に生きるように」と招かれている。マリアの賛歌は、この闇のただ中に、光が差し始めていることを我々にイメージさせる。何故そんなことができるのか。神がいるからだ、この世界に神が来て下さるから、神が「目を留めてくださる」からだ。だから私たちも、顔を上げることができる。笑うことができる。涙のままでは終わらない。擦り切れることのない喜びの歌、賛美の歌を、共に歌うことが出来る。すべての人が声を合わせ、神様のわざに巻き込まれていきたいと願う。そんな、クリスマスを、いつも肌身離さず心に持っていたい。
12月10日(日) 「誰が救ってくれるのか」 エゼキエル16:4-6、ローマ7:18-24
キリストは人としてこの世に生まれたのだから、その出産は、人間のそれと同じようにグロテスクであったに違いない。そこからいつもエゼキエル書16章を思い出す。そこでは赤ん坊が「血まみれ」であり、人が生きていく上で常に誰かを傷つけながらでしか、生きられないこと教えている。さらに赤ん坊は誰にも愛されず喜ばれない、かえり見られることがない。「罪」という言葉は、旧約聖書では神や人に対して過ちを犯すこと、真っ直ぐでない状態、関係の断絶がある。預言者エゼキエルが血まみれの赤ん坊を通して言いたかったことは、イスラエルの出生を辱めることではなく、「自分達は選ばれた民だ、信仰がある」と奢り、高ぶるイスラエル自身が、結局神との断絶状態にあった、それを知ろうとさえしなかったことを言うのだ。イエスが誕生の背後でヘロデ大王によって、ベツレヘム周辺一帯の2歳以下の男の子が、一人残らず殺された。それは遠い昔の話ではなく、現在も依然シリアやロヒンギヤの問題がある。あるいは沖縄基地問題や原発問題で弱い立場の人が虐げられている。救い主キリストの誕生の背景に、子供たちの尊い犠牲が存在し、人間の暗さ、罪の深さが存在します。そのグロさに目を背けたくなるでしょう。そして人間という存在が、自らの背後に何らかの、誰かの犠牲を引きずってしか生きていけないことを思わされます。パウロが言う「罪」は、「的を外す」という言葉だが、それは神ではないものに仕えることであり、神に対する不遜な人の傲慢さ。そして人が的を外している状態は、とても不安で満たされない状態であり、それは律法を遵守すること(自分の力)では埋めることは出来ない。律法をいくら守っても、むしろ自ら高ぶり、人を傷つけ、裁き、その結果神から離れてしまう。だから、人は「罪人」であるという認識が必要であるが、パウロはそれ以上に「救い」を語る。アダムをはるかに上回る救い、「キリストの十字架の贖いと復活の命」の恵み。「誰が我々を救ってくれるのか」ということを切実に求め覚える必要がある。エゼキエル書で赤ん坊に目をとめ、そして「生きよ」と言われるのは誰か?このエゴと貪欲さ、不安、悲しみのグロイ現実に、自らもまた血にまみれて誕生して下さり、そして、生まれた時から、人の罪を背負うために、それでも人を愛して下さる神の愛を示すために、十字架に向かって歩まれるのは誰か?そのことをいつも覚えなければならない。
12月3日(日) 「キリストが生きておられる」 ガラテヤ2:15-21
エルサレム会議の結果は伝道を異邦人とユダヤ人に単純に2分割するというものであったが、アンティオキアはそもそも2種混成である。パウロにとれば共同の食事は、終末の先取りだけでなく、異邦人伝道の具体化であり、教会にとってはその一体性を促すものであった。これに参加しないと言うことは、実質異邦人キリスト者を教会の交わりから締め出すことを意味する。もはや食事の問題ではなく、福音と律法という信仰上の大きな衝突である。ユダヤ人の世界観において律法を守れないユダヤ人や持たない異邦人を「罪人」と呼ぶことは一般的である。しかしそもそもイエスは罪人と定義されるこれらの人々と共に食事をした。教会において「罪人との食事」は、キリストの福音、イエスの宣教の重要な特徴として記憶されていた。なのに、キリストの福音に従わず、律法のきよめの規定で共食を否定するなら、依然我々は罪人のままであり、この共食の動機づけとなったイエス・キリストこそが罪人を生み出していることになる。信仰は義の構築と維持のための主要素であり、つまりキリストの十字架の出来事こそが人が義とされることへの唯一の根拠であるにも関わらず、キリストを律法の違反者として裁いた様に、共食においてこれを裁くなら、パウロもまた律法に・十字架に死ぬことになる。しかし、イエスの死は「十字架の死を通して、神に対して生きる」ことを明らかにするものであり、「律法に対しての死」は律法からの自由、解放を意味する、「キリストへの信仰」という新しい次元での生き方を開始させる。それこそが「キリストが私の内に生きておられる」という言葉で表現される。この新しい生き方は、世の現実と無縁になって生きることではなく、人間存在そのものの弱さと罪を痛感しつつ、それでもなお、キリストの十字架によって示された、つまり「私を愛し、私のために身をささげられた」、神の主体的な愛、希望、救いを信じ、具体的に応答する生き方である。もしこの「神の恵み」を無駄にするなら、それは結局「キリストは無駄に死んだ」ということになる。時としてつまずき、恐れるかもしれないが、このキリストの恵み以外に、我々を前に走らせるものはない。その歩みは、和解へと導かれるだろう。誰かと共に生きていくことを教えてくれる。そして、その時、はっきりと私たちは、主イエスの十字架の恵みの中に生きる自分の姿を見出すことが出来るだろう。
11月26日(日) 「第三の民」 ,ガラテヤ書2:1-14
熱心なユダヤ教徒であり、キリスト者の迫害者であったのだから、キリスト教の伝道者になったのは驚くべき方向転換である。しかしパウロ自身はその回心については実に何気なく書いている。問題なのはどう回心したしたかではなく、今をどう生きているかである。そしてそれは割礼の問題において顕著になる。エルサレム会議は、異邦人キリスト者に割礼を施すことを要求したことを背景にする。つまりこの頃、エルサレム教会は依然ユダヤ教の枠内であった。しかしパウロは、回心した異邦人に割礼を強要するなら、それはキリストの福音を曖昧にし、その本質を失せると考える。割礼と福音2つが対等に存在することはありえない。しかし現実にはこのことの解決が難しかったからこそ、パウロは異邦人伝道だけに向かうのであり、後にアンティオキアの衝突という事件を経験する。そもそも割礼は「切り取る」という言葉に由来して、かつてアブラハムがそうであったように、これまでの文化・風習・価値観から、つまり社会から、家族、グループから切り取られることを意味する。イエスも社会から切り取られた者と同じになり、ついには十字架に切り取られた。ちなみにアンティオキア教会は弟子たちが初めて「クリスチャン」「キリスト者」と呼ばれたが、それはユダヤ人、異邦人のどちらにも属さない第三の民という意味で、この呼び名が始まったと言われる。人は、何かことが起こると、動揺して悲観的になるが、それを打ち破ってくれるのが、やはり「自分は何において生きるのか」ということではないか。モーセは申命記30:6で「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と言うが、それはイスラエルが、生きた神の愛に生かされていることを覚えること。それは人に対してリスク・ヘッジをしない愛、人の出会いにおける、裏切り、失望、煩わしさや、損失、時間や面倒さを引き受けてくれる神の愛である。神と出会うということは、いずれ困難から救ってくれるだろう… ではなくて、あなた自身が、イエス・キリストの十字架という命に生かされているということを知らされること。そのわたしはどう生きるのかということ。形ではなく「心の割礼」が求められている。パウロは「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と表現する。そしてこれこそが第三の民と呼ばれる所以。神の一人子の十字架の命に切り取られた者は、その生き方の方向を変えるのだ。人と人の交わりの中で、主イエス・キリストを愛していく。それが私たち第三の民の歩みだ。
11月19日(日)子ども祝福合同礼拝 「信仰のない私を」 マルコ9:22-29
癲癇(てんかん)と思わ,れる子どもの病。藁にもすがる思いで、イエスというラビに治してもらうと息子を連れてきて、結果子どもは癒された。しかし、マルコのこの話は、わざわざ父親とイエスのやりとりと弟子の問いかけを含んでいる。単なる奇跡物語ではないのは、我々の現実をより具体的に表現している。飛び交うニュースを見ても、了偽りの善意ややさしさ」を売り込んで、全てを、命さえむしり取ろうとするヤカラがいる。人の悲しみや痛みに付け込んでだますという悪意は絶対あってはならない。世間のそういう悪意にさらされてきた父親の思いが「もしおできになるなら」という言葉に表されるのだろう。同時に意地悪な見方をすれば、治せるか治せないかそれしかない、イエスが何者で、その教えるところが何であるかは全く関係ない。奇跡はないと言っているわけではない。神に出来ないことはないからだ。そのことは山上の変容で示されている。しかし、イエスは人間の現実の世界に下り、受難の地エルサレムに向かう。イエスは父親に「その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われるが、それは十字架に死に復活するキリストの元へである。このことの前提がなければ本末転倒となるのだが、誰もよくわかっていない。イエスは「信じる者はどんな事でもできる」と断言されが、それは神の能力に基づくものである。「神は何でもできるからだ」であり、それ以上に「神は独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」という神に基づいている。あくまでも神の主体の世界。我々を愛するが故に、その独り子を与える生ける神との交わりの中で不可能はない。しかし、この点においては、我々はまったく不信仰だ。故に父親の「信じる」と「信仰のないわたし」という矛盾した叫びは、わたしたちの信仰を見事に表現している。信仰は、自分の信念や決意に置くのではなく、ただただ神は信実であるという事実に自分の存在と救いの土台を求めること。そしてその結果が子どもの癒しとして示されたが、そこには、神はイエスを死者から復活させる方であるという福音がある。癒しの話では祈りは登場しないが、前提に祈りは信仰の結晶であり、祈りは十字架のイエス・キリストの命に生かされることを示すものだということがある。生きることに、様々に困難を覚える。それは病を持つ人、障がいを持つ人、貧困・差別にあえぐ人だけの話ではなく、我々に問われている。あなたが、どう生きるのかと問われ、私たちの祈りはまさに「信じます、信仰の私をお助け下さい」だ。しかし主イエスはその声を必ず聞いて下さる。そして神の御心を必ず行われることにおいて、我々,の進むべき道を示して下さると信じる。
11月5日(日)召天者記念 「このような希望に救われる」 ローマ8:18-25
古来、日本人にとって「死」とはいとうべきものである。だから日本で最初のキリスト教葬儀で、讃美歌が歌われたことに人々はとても驚いた。しかし、キリスト教の葬儀は、形式がめずらしいとか、西洋的様式にあこがれることではなく、そこには復活の信仰がある。神学者浅野純一は「キリスト教は、聖書は生きることを非常に重く見ている。ただ、キリスト教の根本は、イエス・キリストの十字架の死にある。故に死ということは聖書において、キリスト教において重大な問題にならないはずはない。「死」ということを、我々自身の「いのち」について考える起点、原点として、今生きている「いのち」、生というものを考える」。死は悲しくさせ、生きることを支配しようとする。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」。現実的に、神が創造した自然は、乱獲や森林伐採、放射能や戦争・核ミサイル、基地、公害によって悲鳴をあげている。しかし、人は滅びを思わされ、滅びに直面するだけでなく、それ以上にそこからの救いを確かに希望できる。人に根拠はないが、神が神であるが所以である。そのことを焦がれるような思いをもって待ち望む。キリストの恵みを知らされた者も「うめきながら」待ち望んでいる。そして大切なことは、その「うめき」は「希望」を伴う「うめき」であること。死が恐ろしくて悲しくて、それを認められなくて、歩みを止めてしまう私たち。その我々を担い、救い出すために神が十字架で死なれたのだ。そして、何より私たちを生きるようにして下さった。だから苦しみのその先に、その苦しみの只中に希望がある。「体の贖い」とは、肉体の復活のこと。地上におけるうめきは尽きないが、私達がこの希望を持っている限り、苦しみに負けてしまわないで、忍耐をもって熱心に待ち続けることができる。だから私たちはこの世の現実の営みの中でも、決して主にある希望を失わない。それは、「死ぬはずのものが命にのみこまれてしまう」こと。主キリストの十字架の恵みこそが、復活への信仰こそが、死を受け止めて、先に進んでいくことを可能とする。これこそ、信仰の先達たちが私たちに伝えたかった信仰であり、キリスト教の葬儀はそのことを覚え伝える。愛する、敬愛する信仰の先達たちの「いのちの信仰」を受けつぎ、次の世代に、伝えよう。主キリストの十字架と復活の「いのち」に生かされて歩みましょう。
10月29日(日) 「人々からでもなく」 ガラテヤ1:1-10
ガラテヤの手紙を,読むが、この手紙は宗教改革者のルターにとって大きな救いとなった。それは、この手紙が「戦いの手紙」であり、キリスト者として真に重要なことを問うからであろう。パウロはイエスの直弟子ではないし、かつてキリスト教迫害者でもあった。人の判断や基準や方法では、彼が「使徒」と呼ばれることはありえない。しかし問題の本質は「ほかの福音」にこそある。それは「信じることへの軽視」、「人間的権威」、「まことの福音の喪失」であるといえる。パウロは己の「使徒性」を、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神にこそ確固たる根拠を置く。それはまさに、人の判断と神の判断との戦いである。本当は、被造物である人は神に全く及ぶものでなく、そんな戦いはありえないが、神の判断、基準、方法は常に、人との関係を通して示されるので、人はそれをねじ曲げ、悪用し、隠すことが出来ると思い違いをする。そういう事例は我々の社会に事欠かない。戦争を防ぐには戦争の始め方の仕組みを見抜くごとが必要でもあり、「だまされることの罪」を自覚しておくことも必要、そしてそれ以上に、常に神の判断、基準、方法をわきまえておく必要がある。神の判断、基準、方法とは、神の独り子イエス・キリストが、すべての人の贖いのために十字架に死に復活した、この恵みにすべての人が神の愛を知らされ、この命に生きるようにされたということ。だから「ほかの福音」とは、イエスキリストの十字架と復活を無駄にし、軽んじていることに他ならないあなたはこの福音を真面目に受け取っているのかとパウロは問う。キリストの死によって生かされているなら、そこに傲慢さや奢り、人からの称賛、仕えられることへの欲求、己の利益のみに生きることがあってはならない。いろいろな人と暮らすことで生まれるリスクを、誰よりも神の独り子、イエス・キリストが引き受けて下さった。だから我々はより多くの人と共に生きられるはず。「イエス・キリストの恵みと平和」、これは十字架と復活によってもたらされる以外にない。どれほど知識を得ようとも、どれほど気をつけて反省しようとも、どれほどもっともらしいことを言っても、このことが根っこにない限り、人に恵みと平和を与えるものはない。だからどんな時も、根っこを自身に問うことが必要だ。そのために、そしてすべての人がこの福音に生きるために、パウロはこの手紙を書いたのだ。
10月22日(日) 「苦い水が」 出エジプト15:22-25、ヨハネ1:43-48
モーセに引きいられて、エジプトを脱出したものの、砂漠で水を3日間も見つけられない。やっとマラで水を見つけるが、「そこの水は苦くて飲むことができなかった」。残念なことだが、我々人間の社会の現実を思わされる。小さな共同体でも、国家であっても、時として「苦い水」しか存在しない荒れ野になってしまう。その状況で人々は、イスラエルの民のように必死に抗議する。しかし、主はモーセに一本の木を見えるようにされた。そして、その木を水に投げ込むと飲めるようになった。聖書が語ることは、この残酷の極みのように思える現実の世界にこそ、必ず「一本の木」が必要だということ。そして苦い水の中に投げ込まれた一本の木とは、キリストの十字架であると、我々は見えるようにされた。人の罪を、キリストご自身の十字架の命によって贖い、永遠の命の水に変えて、荒れ野でも生きていけるようにしてくださったと知らされる。そしてその我々は、キリストに従って、苦い水を甘い水に変える一本の木として働いていく使命が与えられている。「手のひらを太陽に透かしてみれば、真っ赤に流れる僕の血潮…」を作詞したやなせたかしさんは「命は一つの奇跡。だから命はね、我々が生きてる地球のために使わないと。核兵器とか殺し合いとか、人間は非常にばかげている」と言っている。ヨハネ福音書のナタナエルの召命の記事は、イエスに見つけられたフィリポが、ナタナエルを見つけ、そのナタナエルもすでにイエスに見つけられていたという展開。イエスに見出されることを中心に、互いが出会い、互いが見出しあう。自分がイエスにされたのと同じようにして、隣人との関係を生きはじめようとする、自分から他者に歩み寄る人の姿がある。命そのものが奇跡であることと、誰かとのつながりは、根源的に同'じものを共有している。この荒れ野を思わせる現実の世界の中で、十字架の命を通して、自分もイエスにすでに見出された存在として生かされていることを見出す者でありたい。キリストの十字架の命に透かして見れば、どんなに絶望しようが、一生懸命生きようとしているいのちが与えられていることを知らされる。それが故に、他者との関係の中で、自分の存在を一本の枝として差し出す者として、生きはじめことを見出せますように。これから生きていく中で、相互の関係が豊かにされ、真の宝物に出会うことができるのだと信じて歩んでいく。
10月15日(日) 「お前が神の子なら」 マタイ4:1-11、イザヤ35:1-5
申命記8:3「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」としている。それは、我々は何によって生きるのだろうかということを考えさせる。会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんが、原発事故が起きて地域や社会で起こることを列挙し、そして「これらは今に始まったことではありません。日本の戦争責任とか、従軍慰安婦の問題、沖縄の米軍基地問題、水俣病などが当てはまってくるのです」と言っている。悪魔は人が欲しがっているものを提案しながら近づいている。「あなたが他の人より優れていること、自分の存在価値を確かめてみろ、世の多くの人が欲しがっているものを、あなたも求めればいい」と囁き、そうやって「あなたは誰なのかjと問う。カトリックのある神父は「真の自分とは何かということを見失っている時、人は必要のないものまで手に入れ、それで自分を証明しようと、多くの時間とエネルギーを無駄にする」と言っている。荒野での悪魔の誘惑に打ち勝ったイエスは、「お前が神の子なら」という言葉をもう一度、十字架の上で投げかけられる。そしてイエスは人としての最も大きな苦しみを全うされる。そしてこのことを通し、主イエスは本当の命への道を示し、我々が十字架の命の贖いに生きる者であることを示される。イザヤ書35章で語られる平和の世界は、「主に贖われた人々」が中心だ。荒地が「喜び躍」るのも、砂漠が「喜び、花を咲かせ」るのも、すべてこの人々ゆえ。ルカ福音書によれば、サタンの「ふるい」にかけられ裏切るペトロ。理不尽な苦難は、人間の神への信頼を揺るがせ、絶望に陥りやすい。そして、人間の決意や覚悟の脆さ。「それでは、あなたは私を何者だというのか?」十字架を前にしても、あなたは、はたして同じように答えられるのか? しかしだから主イエスは、ペトロは何も知らなかったが、あなたも知らないかもしれないが、あなたのために、ずっと前から祈っていて下さった。「裏切らないように」ではなく「信仰がなくならないように」と。「あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力付けるようにと」と祈ってくださる。だからその我々は「はい、私はあなたに、あなたの十字架に生かされる者です」と答え、希望を持って、喜びを持って、共に励まし合いつつ歩んで行きたい。
10月8日(日) 「信仰の共同体」 ヨハネの手紙第一2:1-11
9月に教会全体会をもった。「信仰共同体とは?」という問いに対して、ある人は「命、信仰、教会一これらは全て基本的には『関係性』ということに結びついている」と答えている。この手紙の共同体にとって交わりの関係が重要であったことは明白だ。1節「わたしの子たちよ」は筆者と共同体との深い情を感じさせ、またヨハネ福音書13章の洗足の場面の「子たちよ」の呼びかけだ。何らかの分裂があった共同体において、著者はまず、義の弁護者、すなわち贖罪の「いけにえ」として捧げられたイエス・キリストを通しての、我々と神との関係を語る。「弁護者」は、十字架という贖罪の犠牲を通して、我々の罪が赦され、神との真の関係に入ることが出来るようにする、キリストの真の能動的役割がある。だから私たちと神との関係が回復され、これからも継続されるのは、すべてイエス・キリストによるものである。そして次に第二の段階が示される。イエス・キリストによって神との関係が回復された我々の生き方が変えられるということ。神との関係に入っているという「証拠」は、我々が信じていると公言する信仰を、如何に人生の中に生かすかによって確証される。その生き方、態度、言葉、行いが変わっていくという「実」をもたらさなければ、「知ること」は無意味である。神の愛は、あなたが神の言葉を守ることにおいて表現され、より真実な関係へと導かれ、その交わりを通して、一人一人の内に神が働くのである。UMCの牧師は「信じることと行うことは相互に絡み合っていて、この二つが最も上手く混ざり合う場所が礼拝であり、教会。我々は互いに愛と善行に励むように、また励ましあうために、他のキリスト者と共に規則的に集まることをしなければ、キリスト者として完成されない」。関係の第三段階は、我々の信仰が、共同体の中でいかに生きるかということ。イエスの掟は、いつも新たに問いかけ、悔い改め、励まし、慰めを与え、隣人と共に歩みだす力を与えてくれるもの。以上の3つの段階が正しくない時、たとえ一見恵まれていると思っても、その人は「闇の中」を歩み、正しく働く時、たとえ苦難と不遇の中にあるように見えても、その人は「光の中」を歩いている。我々人は、不幸に遭遇しないようにするなんてことは出来ないが(士師サムソンですら)、ただ、我々はどんな時にあっても、それがたとえ不幸と呼ばれる中にあっても、何度転んでも、また立ち上がって歩んでいきたいと願っている。そのために、我々はこれからもキリストの恵みに生かされ、生きていきたいと願う。その我々は、一人ではなく、隣人と互いに励まし、支え合いながら確かに「光の中」を歩んでいると知らされる。
10月1日(日)世界聖餐日 「この方こそ、すべての人の主です」 使徒10:34-37
10月第一日曜日は、世界聖餐日。新聞によれば、日本社会で障がいを理由とした差別や偏見が「ある」と思うのは83.9パーセント。昨年4月に施行された「障がい者差別解消法」は物理的な壁だけでなく、見えづらい障がいに対する理解不足や、それに伴う対応不足を指摘する。パウロは人間区分を性と身分と人種に区分し、これらが様々な形で人間同士の間に差別や対立を生み出してきたことを知っている。そしてそれを「イエス・キリストにおいて一つ」という接点において乗り越える道を示す。しかし、そういう変化は、突然起二つたのではなく、このペトロの話などがあり、全ては神における計画・み旨であることを聖書は語っている。ペトロと異邦人コルネリウスとの話は、単に食べ物に関する規定ではなく、救いの恵みがユダヤ人から異邦人へと及んでいくきっかけとなった大きな出会いが記されている。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、どんな人でも、ただキリストに出会い、キリストを信じる信仰によって救われるという真理を伝えている。その救いに対して、己を誇り他者を差別するユダヤ人より、むしろ汚れた者と差別され、蔑まれた異邦人の方が積極的である。「目に映ることを見る」が偏り見るということで、人を真の救いから遠ざける。今や、イエス・キリストにあって生きる者には、律法からの自由が与えられ、これまでの生き方とは全く違う生き方、世界がもたらされ、それに生きていく恵みが与えられている。平たく言えば、「イエスならどうなさるか」これこそ私たちが何かを判断していく基準。それはもしかすると、我々がこれまで経験したことがないようなことかもしれない。しかし、大切なのは私たちの感情がどうであるかということではなく、福音によって生かされ、新しくされた者として生きること。主イエス・キリストは御自分の命において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現された。人の思いや思惑や予想をはるかに超えた、神の働き、キリストの福音。その出会いの主人公は主ご自身。ゆえに神が「さあ、ためらわずに行きなさい」と言われたら、その御言葉に従って行かなければならない。そのとき、出会わせて下さる人々の元へと遣わされて行き、神の国の広がりと豊かさの喜び、祝福にあずかっていくのだ。
9月24日(日) 「私たちの夢」 ヨハネ福音書17章20~26節
イエスは、相対立するものを融合する必要性を認めておられた。「我々には苦難がある」しかし「イエスはこの世に勝っている」このことを我々は、キリストにおいて、融合しなければならない。人は誰でも、自分の見解、正義、主張を持って生きているが、それは、この社会において絶えず偏見や誤った情報から攻撃されている。あるいは多くの人は夢や理想を持つが、現状維持の中に安全さを感じ、新しいものに対しては恐れを抱く。こういうことは、原発問題、基地問題、民族・ヘイトスビーチ、戦争に対する支持・反対、生と死の問題など、私たちを取りまくあらゆる事象でも同様である。教会も聖餐問題、社会の問題に対する姿勢などにおいても対立して止まない。私たちは、「人の頑固な弱さ」と相対するものを自分の中に据え、それらを癒合させなければならない。正しい知識、強い意志を持たねばならないが、同時に、人を愛することを要求するキリストの福音を持たねばならない。暴力はより多くの社会問題を産み出し、決して永続的な平和をもたらすことはない。我々が暴力を使うという誘惑に負ければ、我々と我々の子供や孫は、長い間絶望的な暗黒の苦難を受けなければならない。パウロは「十字架の躓き」によって、己を第一と主張する自分を否定させられ、同時に神によって私たちが赦され、生かされるということに気づかせるのだと言う。父なる神が十字架の死のイエスをよみがえらせ生かしたように、私たちも自己から解放され、その自由さのなかで、新しく生きる道を与えられる。それは世に対して無関心になることではなく、この世に生きながら、しかしこの世的なものを絶対化しないという生き方。だから自分が大事にしていたものを手放し、他者にも目を向けることができる。故に人と会うたびに、誰かに赦されるたび、人は自由にされていく。大切なのは割礼の有無ではなく、新しく創造されること」。イエスはすでに、十字架の前夜、我々のために祈ってくださっている。イエスと父なる神の交わりのただ中に、全ての人を入れるような、大きな祈り。単に妥協して一致点を見出すのではなく、本来赦されざる罪を持つ我々の内に、十字架と復活の命をもって、主イエス・キリストが生きて下さることの恵みに、共に生きていくこと。それがイエスの夢である。だから大船教会もそのことに夢見る。そういう希望を、未来にも、人にも、信仰にも、抱き続けたい。
9月17日(日) 「私たちを動かすもの」 マタイ5:38-48
私たちを動かしている理論は何だろう? ある法律家は「『目には目、歯には歯を』、これが近代刑法の原則として諸国で認められている。イエスの『右の頬を打たれれば左の頬も』は、実際問題として、家も社会も国も成り立たないし、亡国論者とのそしりを免れないだろう。これはクリスチャン個々の道徳であって一般人の道徳ではなく、信仰問題であって、社会問題ではない。第二に、これは福音であって律法のごとくこれを強要すべき性質のものではない」。「神はなぜ戦争をお許しになるのか?」という第二次世界大戦勃発時のイギリスの牧師の説教は「我々は平和を個人の生活の安定と欲求と取り間違い、そもそも平和を受ける権利もない。本当は神の聖よさにも、罪にも全然関心を抱いていない。神が戦争をお許しになるのは、明らかに人々にその罪の結果を罰として負わせるため。そして神は戦争を通して、より明確に啓示なさる」と教えている。イエスの教えの中で最も強烈な印象を与える言葉は「敵を愛しなさい」である。ルカはこれの具体的な例として「右の頬・・」を言い、マタイは対立命題の5番目と6番目に置き、これが「新しい革袋のたとえ」で示されるように、イエスによる我々人の思想を遥かに超えた、古いのとは本質的に全く違う福音として強調する。この世界はいつも同等報復の理論が支配しているように見える。人の罪の責任のために戦争がある、人が立ち・帰るために、福音に気づかせるために戦争がある、それは結局、形を変えただけで、同等報復の理論だ。しかしキリストの命に裏付けられた新しい葡萄酒が与えられたのなら、人は古い理論に留まり続けることは許されない。新しい恵みは「父なる神が憐れみ深いように」という「神の絶対的無条件の恵み」にその根拠を持ち、この世界の同等応答的な愛ではなく、「絶対的な愛」を求める。これが「敵を愛しなさい」の根源。私たちは神の恩恵によって救われるのであり、この神との交わりの中に留まるなら、私たちもお互いの間でこのような無条件絶対の愛に生きることになる。それはもはや人間の倫理的目標ではなく、神の恩恵によって与えられた事実。イエスは十字架の命をもって、この現実の世界に、神の支配の到来を福音として告知した。それはどんな時代も、どんな状況にあっても、揺るぎないことだし、このことがすべてのスタートなのだ。キリストの命の愛という恵みを得た時、もはや荒れ野の罪に留まり続けることは出来ない。キリストの十字架は人を裁くためではなく、人を生かすために与えられた。だから我々もそのように生きていく。やはり、このキリストの福音だけが本当に我々を動かし、我々の世界を支配している。
9月10日(日) 「主我を愛す」 コリントII 13:5-10
,学ぶ事は「教会とは何か」であり「信仰とは何か」である。コリント教会は「キリストの福音を見失う」という重大な問題を抱えている。教会に分裂が起き、己を誇り、パウロを批判した。そこに生まれたのは人の悪意やねたみ、敵意だ。パウロは教会をあるべき方向に戻すために、誤解を解く努力もしたが、同時に厳しく問う。もし教会に様々な問題があるとすれば、それは「キリストは弱さ故に十字架に付けられたが、神の力によって生きておられる」ことを軽んじている証拠であり、それはつまり「あなたは、本当にキリストを愛しているのか?」そして「キリストがあなたを愛していることを忘れたのではないか?」と問われることになる。まさに信仰をもって生きているかどうか自分で自分を吟味することだ。信仰とは、自分の感情や判断で持てたり、捨てたりするものではない。もっと根源的な「キリストとの関係」がある。私たちは、「真理」とは結局、人間の生き方次第であり、故にいつも「失格者か、どうか?」との議論に終始するものだと思っているが、真の「真理」とはその逆であって、救いを受けるに値しないにも関わらず、神の側からの一方的な恵みに与かることであり、だから人は、その真理のためにどう生きようかということだ。だからパウロの言っている「吟味」は「行為する自分自身が、すでに先行する神の恵みの中に入れられている」ことに気づくことに他ならない。信仰を持つ者は皆、キリストの強さを経験している。キリストは十字架という弱さに死に、復活という力を示されたから。パウロの弱さはキリストの十字架であり、生きるパウロは復活のキリストの命に生かされる、まさに神の力の表れだ。すべての信仰者はパウロと同じように、そのことに自身の姿を見出すべきなのだ。どの時代であれ、人間が生きるということは同じで、自分の弱さを痛感させられる。愛すれば愛するほど、相手に愛されないという残酷さを経験する。しかし、エレミヤもパウロもその人間の現実の営みの中で、最後まで神の救いを語り続けた。神の目的は「壊すためではなく、造り上げるため」にこそあることを。パウロは最後に祝福の言葉を述べる。「喜び合う」「修復し合う」「慰め合う」「思いを一つにし合う」「平和を保ち合うこと」。一人で喜び、一人で平和になるのではない。我々が互いに主に生かされていることを、愛されていることを、その弱さの中に確かな希望、神の創造の力があることを覚え合うことが必要だ。その時、もう一度歌えるはずだ。「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、われを愛す」と。
9月3日(日) 「弱さを誇る」 コリントII 11:16-31
パウロはコリントにいる論敵に対して、11-12章で、自分のことを誇る以上に、自らの弱さでもって答えようとしている。パウロにはてんかん、眼病などの持病があったとされる。パウロはこれを自分から取り去ってくださいと願うが、神の答えはただ「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」であった。キリスト者は自分の弱さを認める事ができる。何故なら細谷亮太医師が言うように「約束」とは、弱さ愚かさを抱いて生きる他ない人間の「交わりのあかし」であり、弱さは交わりの中で支えられ包まれ活かされて、新たな共生の希望と喜びを生み出すからだ。ある牧師は「人は弱さ、苦しみを背負いながらも神に結ばれ、他者の苦しみを理解し共に励まし合って生きることの方がどれだけ幸せか、という真理を、パウロは祈りの中で知ったのではないか」と指摘している。有名なダビデはあれほど大きく強い王でありながら、バトシェバ事件を境にして、自らの弱さに気づかされ、それを背負って生きていく。そして自らに刃向かう息子アブサロムの姿の中に、やはり自分と同じ弱さが存在していることに気づかされていく。パウロは神の前で徹底的に己を小さくする。人に己を大きく見せる者は、神に対してもそうだ。しかし神の前で小さくなるものは、人の前でも大きく見せようとはしない。「誇る」ことがテーマだが、それは己を徹底的に小さくして、誇るべきものは「主のみ」にある。「弱さ」を誇るのは、不幸自慢をすることではなく、自分の小ささの中で働く神の力をより確かに、鮮明に見、示すことができるからだ。しかし人が大きくなればなるほど、神の恵み、愛、福音、働き、不透明になり、人に見えなくさせてしまう。パウロでさえ自身にその危険性を覚えるのだろう。だから、その病さえ「思い上がらないように、私を痛めつけるためにサタンから送られた」と表現する。己の罪と弱さに気づかされ、死ぬまで背負っていかねばならない、この重荷はどれほど重いだろうか。しかしその重荷を、悲しみを共に担って下さる方がいる。それが我らの主イエス・キリスト。ダビデとバトシェバとの間に生まれた子の死は他人事ではなく、これはコリント教会の、そしてあなたと私の話で、弱く、神を軽んじた私が、赦され、本当に生きるためには、どうしても、神の一人子「イエス・キリスト」の死が必要だった。そうやって新しく創造される。自らの弱さ、醜さの中に、主イエス・キリストにおいて、新たな共生の希望と喜びを生み出し、歩みを再び始める。だからこそ、「大いに喜んで自分の弱さを誇る、いかなる場合も、キリストのために満足する。そして神の大きな力をより知らされるのだ。
8月27日(日) 「誇る者は主を誇れ」 コリントニ10:7-18
10章からは恐らく、パウロがコリント教会に送った「涙の手紙」の部分だろう。「うわべのこと」だけを見ている批判者に対し、パウロは「キリストの優しさと心の広さをもって」と言うが、優しさで媚びるのではなく、言い争うことになったとしても、言わなくてはならないことを言っている。神の恵みに生きようとする者とは、「肉」において生きながら、「肉に従って歩まない」ために闘うからである。キリスト・イエスは確かに優しい方である。しかし同時に支配者、権力者に対しては、大胆に批判し立ち向かわれた。そもそも主がただ優しさだけの存在であったならば、十字架で殺されることはなかった。「優しさ」はいつも我々を魅了し、誘惑するが、聖書のいう「優しさ」は、なでるような関係ではなく、それは、神との関わりにおいて自らのアイデンティティを確立させていく上で重要なもの。当然厳しさもそこには有る。そしてその優しさ・厳しさは神の愛から出ている。教育者が指摘するように、今のSNSなどは、他者からの承認を渇望する欲求の表われ。互いに浅くゆるく励まし合うことで安堵感を得ようとするが、決して深い所には立ち入らない関係であり、結局不安を助長する。我々は人間だから、お金は必要だし、評価されることも必要だ、しかしそのことに支配されないことが重要で、そのためには人からではなく、天地を造られた神がこの私をどのように見、承認し、愛して下さっているのかを知ることが必要。それによって、自分のアイデンティティを確立することができる、それが肉に従って歩まないということ。パウロは神の武器を用いて戦う。それは神によって与えられた信仰、希望、愛。自分という脆い、弱い土の器の存在の中に、人の測り知ることのできない神の力が与えられているのだという信仰、すでにキリストのものにされているのだという希望の土台が不可欠。「キリストのもの」とされるとは、すなわちキリストの十字架の愛という、厳しく、真剣な、救い主の命という「キリストの優しさ」で包まれているということだ。それこそがどんな問題においても、「打ち倒すためではなく、造り上げる」というという励ましと希望となる。パウロは「誇る者は主を誇れ」との呼びかけに達している。神の命の愛を知らされ、人は神を誇り、神を喜ぶ者へと変えられていくのだ。だから、苦難の中にあっても、「善き力に私は包まれている」という、神の世界を見つつ生きる力に、生かされていくのだ。
8月20日(日) 「恵みに富む」 コリントII 8:1-15
コリント8-9章は、エルサレム教会への献金の話しだが、これは単なる経済的な話ではなく、絶えず分裂の危機を抱えている人間の罪の中でこそ、指し示され続けられなければならない、具体的なキリストの現在化がテーマだ。教会は「キリスト・イエスにおいて一つ」、それは頭の中の絵空事ではないから、これは闘いである。常に新しく、不断に求め続けなければならない。献金運動はキリストにあって皆が一つであることを実際に示す具体性であるが、現代の教会でも、献金は微妙な問題。「何故、他人に楽をさせて、自分だけが苦労するのか」と思う。それに対してパウロは命令ではなく、あなたがたの「愛の純枠さを確かめる」と言う。マケドニアの諸教会は持たないのに、豊かに差し出した。人は自分に余裕があるから差し出せると思っているが、むしろ、弱さや、貧しさや、悲しみの中に豊かに見出せる。そして学ぶべきことの本質はマケドニアの教会、コリント教会の全ての行動の根拠に、キリストの愛が確かにあるのだと言うこと。個人の道徳心や、敬虔さ、情熱・余裕の問題ではなく、我々にすでに与えられている「キリストの愛の純粋さ」が問題だということ。「主は豊であったのに、あなたがたのために貧しくなられた」を知るならば、我々は己の罪と弱さ・小ささ、何も持たないことを知らされる。だからこそ、我々は神の言葉と、確かな約束であるキリストの福音にのみ生きていく。それは精神的な生き方だけでなく、もっと具体的な生活にまでも関わることでなくてはならない。神の豊かさと力とは、主の貧しさによって、我々が豊になること。我々が本当に豊かに生きるとは、キリストと共にどんな時も歩んでいくこと。己の欲望・満足のみに生きないこと。一人ではなく、誰かと一緒に生きていくこと。「共に生きる」とは、一緒に苦しみながらという連帯性を意味するから、これほど難しいことはないし、そんなモノは到底持ち合わせてはいないと思う。しかし、よく考えてみれば、主はあなたと共に苦しみ、涙し、十字架の命を通して「キリストの愛」を等しく与えて下さったではないか。キリストの愛の故に、我々の一致は重要な課題であり続ける。しかしだからこそ、様々に分離させられたこの世界においても、キリストの愛を我々自身が経験し、富まされ、具体化することにおいて、人の一致の無限の可能性を見出すことが出来るのだと信じる。我々は10年後の大船教会のヴィジョンを持たねばならない。この教会はもっと豊かにならなくてはいけない。礼拝、平和、隣人と共に生きることにおいて、豊かにならなければならない。そしてその豊かさは、主イエスの貧しさによって与えられ、指し示される豊かさでなければならい。
8月13日は 横須賀学院中学校宗教主任の天野海走教師に 説教して頂きました
8月13日(日) 「聖霊の慰めを受けて」 使徒9:26-31
私たちが平和を祈り願う思いとは裏腹に、今の世界には様々な対立や争いがあります。その背景には、私たち人間の他者への無理解や不寛容があるのではないでしょうか。聖書は、そのような人間の姿を罪の問題として描き出します。今日の聖書には、理解しあえない人間の姿が描かれると同時に、それを乗り越えて和解する教会の姿が拡かれています。ここに登場するサウロは、後にパウロと呼ばれる人物です。彼はもともと、キリスト信者と教会を徹底的に迫害した人でした。しかしキリストに出会い、人生を180度変えられて、キリストの福音を熱心に宣べ伝える人となったのです。神はサウロの回心の際に、一人の人を用いました。アナニアです。彼は悪事を働いてきたサウロのために働くことを拒みました。しかし神は、迫害者であったサウロと教会の信徒アナニアを出会わせ、2人の思いをこえて結び合わせ、新しいいのちの歩みを実現させます。ここに聖霊が働いたと聖書は記しています。同じことが今日の聖書にも描かれます。サウロは、エルサレムの弟子たちに会いに行きます。弟子たちは迫害者であったサウロのことを恐れ、ユダヤ人たちは裏切り者のサウロを殺そうと狙っています。サウロの状況は、まさに四面楚歌です。サウロは力のある人でしたから、たった一人でも宣教ができたかもしれません。しかしそれではキリストが示された新しいいのちの道を歩むことにはなりませんでした。弟子たちと出会い、和解し、受け容れあうことが何よりも大切だったのです。それは教会の弟子たちにとっても大事なことでした。ここにサウロと弟子たちの間を執り成してくれる一人の人物がいました。バルナバ(慰めの子)です。彼の執り成しによって、サウロをメンバーとして受け入れ、教会の新しい歩みが始まります。それが聖霊の慰めを受ける教会、平和と和解を実現する教会です。この教会の姿は今の私たちにも受け継がれています。神は私たち一人一人を聖霊で満たし、和解をもたらす働き手として用いてくださると信じます。私たちは、聖霊の慰めを受けて、慰めの子となって、この世界に平和と和解を実現するものとなりたいと願います。
8月6日(日) 「面倒な問題」 ヨハネ 16:25-33
キリストの山上の変容の直後の話、弟子が子どもを癒そうとし出'来なかった話しは、厄介で面倒な問題だ。そしてこの世界で平和を求め現実とするためには、この面倒な問題を避けては通れない。人は時に悪魔的で狼である。ドイツ・ブーヘンヴアルト強制収容所が解放された時、連れてこられた付近の市民たちは、今まで知ろうとしなかった現実の惨状を見せられ、気を失った。悪はどうすれば追い出すことができるのか? 第一に、人間はそれを人の発明、統治によって征服できると考えた。すなわち、エネルギー改革や、経済・教育改革、軍事による抑止力こそが解決をするのだと。しかし現実は、利己主義の憎悪は前にもまして巨大になっている。人間の営みの中だけに救いを求めることは、結局神を追い出し、神の救いの創造を、人間の狭い創作に置き換えることである。では逆に人は何もできないのだから、全ては神頼みにしてはどうかと考える。宗教改革は、人間の悪や罪のことばかり考えすぎて、逆に善に対する人間自身の能力を見過ごしてしまっているのかもしれない。神は預言者エゼキエルに「人の子よ、自分の足で立て」と言われた。祈りは、我々にとって不可欠な事であるが、それは私たちが実際に何かをすること、声に出すこと、苦しみつつ前に進もうとすることを辞めてしまっていいということを意味しているのではない。教会はキリストの福音の根源にふさわしく、多くの人々に苦悩や残酷な束縛をもたらす社会状況を改善するために実際に声を出し、働かなければならない。だから我々は平和のために切実に真剣に祈らなければならないし、同時に軍縮と核兵器廃絶のために、苦悩しつつも実際に活動しなければならない。たとえ弱く小さくても、神に創造され愛される我々は、神を見上げつつ、二の足で立ちあがることができるはずだ。悪を追い出すためには、神と人間の両者が働くことが必要だ。神は愛をもって、我々が自分の力だけでは出来ないことを、私たちのためにして下さろうとして下さる。この神の人を通しての働きかけと、神の恵みに満たされ押し出される人の働きが一つになって、我々個人の生き方、この世界全体の生き方に、実に真に大きな変革をもたらす。悪というものは、出口のない迷路のようなもので、大勢の人を妥協や無関心や諦めに迷いこます。しかし、キング牧師が「私は私の語った夢が悪夢に変わるのを見た。にもかかわらず、私は今日、なお夢を持つ」と言ったように、「我々はアウシュビッツ以後も祈ることが出来る。なぜなら、アウシュビッツにおいても祈られていたからである」と言われるように、それでもなおこの現実の中で、祈り、声を上げ、行動することを止めはしない。何故なら十字架につく主イエスが、「わたしは既に世に勝っている。」と宣言をされたからだ。この世界にあって、孤独な我々の魂は、未来の生命を秘めた、生きたキリストの命と祈りの対話を交わす。そしてその時、苦難のただ中にあって、勇気をもって未来に開かれた信仰と教会との希望を豊かに描き出すことができるのだ。そしてここに、面倒な問題の答えを見るだろう。
7月30日(日) 「慰められて」 コリントII 7:2-16
,7章は難解だ。11節「例の事件」も不明だし、前後の文脈が明確でない。しかし、パウロはコリントの教会に対して「涙の手紙(厳しい手紙)」を出し、結果、教会との関係が壊れてしまうかもしれないと気落ちしていた。しかし、テトスの帰還と共に「気落ちした者を力づけて下さる神」と告白している。今、社会そのものが気落ちしている。そしてキリスト者こそ、この社会で落ち込んでいる。もし、このパウロの気落ちと我々のそれが重なるなら、そこから立ち直る道はどこにあるのか?という問いかけになる。パウロを立ち直らせたものは、「喜び」であるが、ルカ!5章の「見失った羊のたとえ」のように、もう一度、神との交わりに帰ってくることであり、それを神は一番喜ばれ、そのことを一緒に喜ぼうではないかと言われている。神との交わりに戻ることは「ただ悲しんだ」ではなく「悲しんで悔い改めた」ということ。後悔と悔い改めとは違う。「世の悲しみ」は後悔であり、自分の失ったものだけをくよくよと求め、自分を責め、そこには出口がなく、それは死をもたらす。一方悔い改めは、神との関係においてはじめて語られる。十字架の主の死において、神が、罪人の私を赦し、受け入れて下さる、復活のキリストにおいて生きる者として下さる、そういうダイナミックな転換であり、神の賜物。悲しみは人を頑なにし、神に対して反抗的にする。しかし「御心にかなう悲しみ」は、悲しみの中で、私たちの心を神の方に向ける。悲しみにおいて神の慰めを知らされる。神の慰めは、悲しみを喜びに変えてくれる力をもっている。まさにコリントⅡは「慰め」の手紙と言える。パウロはこの「慰め」を得るからこそ、生きているのであり、この「慰め」こそをコリントの教会と共有したいと願っている。慰めは、キリスト教では、悲しみにある者、弱い者を、神が励ますことを言う。喜ぶことの難しい者が、慰められる。不足を感じる必要のない者には、慰めはない。私たちを絶望のどん底に投げ落とすこと様々に存在する。しかし、最悪なことは、神の慰めから離れて生きようとすることだ。もし、私たちが最終的に神なしで物事を処分しようとするなら、そこには出口はない。しかし、神が御子の命の愛をもって、あなたと共にいて下さる、その「慰め」を知らされるならば、たとえ様々な悲しみをかかえたままでも,人は今から後、神に従って生きる新しい歩みを踏み,出せる。
7月23(日) 「どっこい、生きている」 コリントII 6:1-10
この時、コリントの教会もパウロも苦しんでいる。しかしその状況より、はるかに重大な事実、今が「恵みの時」「救いの日」であるという事実に直面している。神の恵みは断じて無駄になってはならない。パウロは6章を「神の協力者という言葉で始め、3節で「奉仕の務め」、4節「神に仕える者として」と表現している。18の場面(つまりあらゆる場面)において、神の協力者としての務めを実行している、「自分自身がそういうものである」ということを示す。その中でもパウロが「忍耐」を重要視しているのは明らか。苦しみの中における真の忍耐は、十字架のキリストへの愛の中に見出される。だから驚くことだがパウロはあらゆる苦難を誇りとする。苦難は忍耐を生み、忍耐は十字架に付けられたキリストへの愛の内にあることを知らしめ、キリストと共に働く希望を与えられるから。故に、我々は寛容さや親切においても、人間の力を超える「神の力」において目の当たりにさせられ、その働きに参与する。神を賛美し、神の恵みをより大きく感じる、同時に神の恵みの前に自らを限りなく小さいものとしていく、それがパウロの「生き方」であり、キリストの恵みが最も大きく再現されるとき。神の働きに仕える者の生き方は、この世の生き方、価値観と異なるものであるから、それは多くの異なりと、矛盾を覚えさせる。まさに、罪という人においては無一物だが、神の恵みにおいてはすべてを持っている。「神の恵みを無駄にする」とは、イエスキリストの十字架と復活を無駄にすることにほかならない。この恵みを、あなたは真面目に受け取っているのかとパウロは問う。もし、キリストが共にいてくださる事実、「今や恵みの時、今こそ救いの日」という事実に生きているなら、それはキリストの死をまとうものとして生きている。それは、イエス・キリストの死によって私達が生かされているという思い。そこには、自らこそが主人公であるという奢りはない。まさに、罪という人においては無一物だが、神の恵みにおいてはすべてを持っている。105歳で亡くなった日野原重明さんは「あの辛く地獄のような戦争を乗り越えることのできたのも、一人一人の中に、思いやりの心を失わなかったからなのです。私はこれからも、いのちと世界平和の話を続けていきます。一緒に考えてみてくれませんか? わたしは君たちを信じています」と言った。希望の朝を私たち一人一人が迎えるために、神は今もなお働かれている。キリストの死があったから、私たちは、生きるということが出来るのだと、パウロは叫ぶ。だから、その日以来、我々はあらゆる場面で、神において互い手を繋ぎ、喜び、共に歩み続けることが出来る、そのように信じている。
7月16(日) 「生きること」 コリントⅡ5:16-21
あなたにとって「生きる」ということは終わってない。17節の「キリストと結ばれる」とは「キリストにある」ということ。中か外かでは、表面的には同じ様でも全く違う存在となる。キリストの中に置かれているならば、わたしたちは新しく造られた者だ。パウロは救いについて「何の差別もありません」と語る。赤坊であろうと、病人であろうと、高齢者であろうと、力があろうとなかろうと、問題にならない。ただそれは、「わたしたちを御自分に和解させるためにキリストをお遣わしになった神」から出ている。普通、人は、命は自分の中にあるから自分だけのものと考えている。ならば、衰え、困難、蹊きを経験するなら、すべてを失っていくことになる。しかし、聖書はそう語らない。自分のモノと呼べるモノを、全部失ってしまったとしても、生きるということは終わっていない。なぜならこの「いのち」は、自分だけで成り立っているのではないから。神様は、それでもあなたを愛し、キリストの中に置いて下さっている、そのいのちが、私の中には確かにある。だからコリントの教会において困難な状況にあるパウロは、その弁明においても、己の正義を主張するのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために「生きる」と語っている。こういう発想は言うなちば「正気でない」、つまり我々の価値観から外れている。しかし、同時に人の主張する正しさがいかに自分本位で、それが人を生かさないということを、我々はよく知っている。人を新しく生かすことができるのは、「和解をもたらす神の愛」だけである。パウロを駆り立てる「キリストの愛」は具体的に説明されないが、それは言葉ではなく、実際にパウロが「生きる」ことにおいて示されるからだろう。しかしその「生きること」は、古さに縛られた人間の只中に、神が新しい人として生まれ下さり、十字架の上に身代りとなって、古い我々として死んで下さった、だから新しい「いのち」を生きることができる、ということ。このことを決して色あせさせてはならない。3人で発足したギデオン協会の働きは、今や世界200の国々において働く団体となり、全世界で20億冊を越える聖書を渡してきた。小さい者であった士師ギデオンは主に「わたしがあなたと共にいる」と語りかけられ、その役割のために立ち上がる。私たちもキリストの福音を伝えられた。だから神と共に生きていく者としての役割がある。新たに生きる者とされたという和解の言葉を聞き、また語る時、あなたの新しい歩みは始まっていく。誰でもキリストにあるならぱ、その人は新しく造られた者である。キリストにある新しいいのちを、明るい未来を、心を一つにして歩んでいこう。
7月9(日) 「イエスと共に、私たちも」 コリントⅡ4:7-15
教団は「日本基督教団部落解放方針」を定め、7月の第2主日を「部落解放の祈りの日」としている。かつて教団は、部落差別に関して大きな過ちを犯したからである。以後、1981年「日本基督教団部落解放センター」が誕生し、「被差別部落の
全解放をめざすあらゆる取り組みを行う」ことが明記された。神奈川部落史研究会会長川村善二郎氏は「歴史の学習は『歴史を学ぶ』ではなく『歴史に学ぶ』です。たくさん事実の記録を集めても、それだけでは歴史ではない。現在に生きる私たち一人一人が、学んだ歴史の教訓を、現在に生かすことが大切なのです」と言う。パウロは、遠い未来の漠然とした平和をイメージするではなく、今日、この状態の中でどう光を見出せるかを問うている。そして、この課題に立ち向かう者こそ、未来の求める課題のために勇敢であれるのだ。パウロは「四方から苦しめられる」世界に生きると同時に、見えない世界にも生きている。そしてこの見えざる世界からこの世界の苦難に打ち勝つ力を得ている。むしろパウロにとってこの世界の苦難は、目に見えない世界の存在をより確かにする。すなわち「このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」である。しかし実際に我々が直面している苦難と困難の度合いは増すばかりだ。いつも、何が善であるかという問題は、何が役に立つのかという問題に圧倒されている。力はいつも最優先させられ、善より利益を求める人間の方が成功していると思っている。ただ、2つの世界に生きていかねばならないことは悲しいことだが、多いなることを学ぶ。キリストの伝える、神の国は、特別な力も知識もいらない。キリストの福音を受け入れ己の支配者にするなら、互いに愛をもって接し合い、他人の権利を守り、互いの相違を耐え忍ぶなら、人はこの目に見える世界で、必ず目に見えない世界と共に生きていることを学ぶ。だからパウロは私たちすべての苦しみを十字架の光の中で理解している。キリストの十字架は、過去の歴史事件ではなく、イエスから始まった全ての人の歴史を貫く、今を生きる我々の出来事。肉体は目に見えるものに常にがんじがらめであるが、私たちの信仰は、すでにキリストの十字架の恵みである復活のいのちを経験する。だから2つの世界に生きること自体が神の恩恵なのだ。キリストの実際に生きた姿に、その十字架の血に学ぶならば、人はみなキリストの十字架と共に生きる。キリストにあって生かされる喜びの歩みを、隣人と共に生きる具体的な歩みとして、日々新たにされ続ける者でありたい。
7月2日(日) 「わたしたちの推薦状」 コリントⅡ 3:1-11
コリント教会の一部が「パウロは伝道者ではない」と言ったようだ。それでパウロは、誰かの推薦状が必要なのかと嘆いている。パウロはかつて迫害者であったから、パウロを推薦できるような人はいないし、教師が推薦状を利用して自分を誇ることを好まない。パウロは「自分の推薦状は、あなたがた自身だ」と言う。キリストの福音をあなたが受け入れ、信仰の道を歩んでいること自体がパウロへの推薦状であると言う。さらに、これはパウロが自分のことについて書いた手紙ではなく、キリストご自身がパウロを通して書かれた手紙で、あなた方はその手紙として公にされていると言っている。一体全体、我々の生き方、行動、すべてにおけるその最終的目標はキリストを証することにだけにある。当然、そんな自信ないわと私たちは思う。しかし、我々は「キリストの書いた手紙だ」と言われるのだから、我々はキリストによって推薦されているのだ。もしその人に問題が起これば、推薦者も責任を問われる。キリストは、その大変重い責任を、我々一人一人のために担って下さっている。我々はキリストが推薦して下さるから「新しい契約」、「文字」ではなく、霊に生かされる。「新しい契約」とはエレミヤ31:31を想起させる。一方、「古い契約」とは、モーセが受けた石板の律法。石に刻まれた律法では人を救うことにはならなかった。そうではなく、神の御心が我々の心に刻まれなければならない。かつてパウロは律法を守ったという点では落ち度がなかったが、それは文字としての律法を守ったというだけだった。我々も同じだ。いくら敬虔に見えても神の御心を知り従おうとしないなら、それはただ自分の義を主張しているのであって、神から遠ざかっていく。パウロは「「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と嘆きつつ、すぐにイエス・キリストを仰ぎ見ている。我々は、この世界にあって、ありのままの私のことを知って赦し受け入れ、愛して下さる、そして神との和解となって、隣人と共に生かしてくれる仲介者が必要だ。唯一本当に私の推薦状を書いて下さる方が必要だ。ローマ8章「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」。我々は迫害していたのに、敵でさえあったのに、その独り子の命を身代金として、我々の推薦人となって下さる。そうやって神の霊をもって我々の心の板に、その恵みを、愛を刻んで下さり、私たちを本当に生きるものとして下さる。このキリストの命に支えられて生きている者の集まりであることを、教会はこの世に示していかなければならない。
6月25(日) 「キリストの愛の代理者」 コリントⅡ 2:5-17
マケドニアでテトスから吉報を聞いたパウロは「和解の手紙」(1:1-2:13)を書いた。パウロにとって重要なことは出来事の詳細や罰の軽重ではなく、当事者が排斥されることなく、教会全体から再び受け入れられ、キリストによって愛されているということを知らされること。さらにそれが教会全体の利益であるべきで、そのためならばパウロ自身に対する侮辱も彼は赦すのだと言う。「赦さないこと」はサタンのやり口である。カトリックのある祭司は言う。「現在の社会では『愛による閃き』が欠けている。世界は信仰なくしては、善い神が存在すると思えないほど悪すぎる。しかし、信仰と愛の目を持つ者にとっては、世界は私たち被造物が、善を悪から自由に引き出す場であり、私たちを招く神が現存する場である」。救いの歴史は、赦しと和解の歴史である。神は我々を赦し、生かすために独り子のいのちを我々に与えて下さった。教会はこの上に建てられたのだから、当然教会は、このキリストの愛に生き、すべての人にキリストの赦しを伝える必要がある。教会はキリストの愛の代理者である。喜びをパウロは、ローマの凱旋将軍の帰還に譬えているが、パウロは自身を将軍ではなく、行進の最後の鎖につながれている捕虜になぞらえているのではないか。大事なことはキリストが勝利することであり、愛の代理者は、キリストに打ち負かされ、恵みの鎖によってキリストに繋がれた者。この行進に連なる者は、香りをまき散らしながら進んでいく。まさに1:4「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。我々はいつも、過ちを犯したり、倒れたり、躓いたり、失敗したり、途方にくれる。しかし、そこから神の力を受けて立ち上がる、「にもかかわらず神に感謝」である'。本当に信じることは、何らかの意味で自分の生活に犠牲を強いる。パウロは「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と、キリストに死に、キリストに生かされることを示している。我々もまた、キリストの香りをかいで自分に死んで、そしてキリストに生かされている者。そしてこの香りが自分自身を通して、全ての人に対して命から命に至らせるキリストの香りとなる。これこそが、キリストの愛の代理者たる教会の歩みだろう。
6月18(日) 「神に生かされ用いられていることを知る」 コリントニ1:3-7
パウロはすぐにでもコリント教会を訪ねたかったが、滞在中のエフェソで投獄されてしまう。投獄は彼の心には大きな傷を残したが、没獄中パウロはフィリピの教会に手紙を送っている。その中心テーマは「感謝」「喜び」「寛容」「恵み」。一方、投獄中にコリント教会との関係がさらに悪化した。このよう考えると2つの手紙は、時間的には大差はないが、方や「喜びの手紙」、方や「涙の手紙」。しかしパウロはこの二つの手紙で同じことを伝えようとしている。それは「いつもイエスの死を身にまとう生き方」。パウロを裏切り、誹誇中傷を浴びせたコリント教会に対しても「聖なる者たち」、「兄弟たち」と語りかけている。その理由は、共に福音にあずかる者であり、苦しみも慰めにも参与している人たちだから。短い文章の中に「慰め」という言葉が8回も使われている。「慰め」はキリストが共にいて下さる、私たちの味方となってくださるということ。パウロの悩み苦しみは、それでもキリストがパウロと共にいて下さることを示し、他者にも「キリストが共にある」ことを伝える。だから「キリスト」を通して、一つの思いを抱ける。それが、パウロが希望として望んでいること。そしてその根拠は、キリストの苦しみにあるとパウロは言う。キリストは十字架上で死を苦しまれたが、神はキリストを死から起こして下さった。同じように私たちも苦しみの極みから神が引き起こして下さる。パウロにとってこのキリストの福音が人々の心に届いているか、それだけが関心事。それが伝わっていれば、人々の思いは必ずキリストにおいて一つにされる。その最大の関心事がパウロに伝わるように、パウロは祈りで援助してくれと頼んでいる。キリストの福音に参与する者にふさわしい生活は、他者のために祈ること、相手より低くなって思いやること。その具体的な姿を主イエス・キリストの生き様に見、それに従い行こうとすることが「いつもイエスの死を身にまとう」という生き方。私たちは生きる上で、困難や問題を抱えて生きている。人はなんと孤独なのだろうと思う。しかし、その孤独な人の営みに、主はイエスのキリストの十字架の命を通して慰めを与えて下さり、十字架の命が人と人との間に確かに輝き、我々は一人でない事を教えられる。キリストにあって生きるとは、誰かに支えられ、祈られ、そして支え、祈り生きていくこと。確かに神に生かされ用いられていることを知る。
6月11(日)花の日 「賜物をいただき」 ぺトロの手紙14:7-11
教会の「花の日・子どもの日」は日本の「子どもの日」とは異なる。教会のそれは、聖書が「野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と語る、この世界を創造し、生命の輝きを備えてくださる神様に感謝することを伝えるため。この手紙を読むキリスト者は、度重なる迫害に死さえ予感している。手紙の著者はその世にあってどう信仰に固く立って生きるのかを教え、同時に時代を超え我々に問う。信仰を持った我々は、今までの生き方と離れ、残りの時を神の御心に従って生きる覚悟を求められる。そしてキリストの苦しみとその勝利こそが、我々の模範となる。だからキリスト者は信仰的「武装」をする必要が説かれる。それはキリストにある信仰、救い、真理、正義、平和の福音、霊に助けられて根気よく祈ること。思慮深く、自制して生きなければならないが、そのために「愛」を第一にあげる。その理由は「愛は多くの罪を覆う」から。キリストの苦しみと勝利は、我々の罪の赦しのためであり、我々が新しく生きるためのもの。だからこのキリストの愛こそが、我々と相手は等しく神に愛され、赦され、生かされた存在同士であるという意識を持たせる。それはどのような相手に対しても当てはまる。それは何気ない日々の生活の一コマにも見られる。イエスは「おはよう」と声をかけ、名前を呼び、一緒に食事をされ、子どもを抱き上げる。福音は、その人に出会い一緒にいたという事実の延長線上にある。イエスは言われた「神の国は見える形では来ない。あなた方の間にある」。人と人との関係の真ん中に、本当に大切なものがある。だから、「互いに」という言葉が何度も使われる。「互いに」という言葉は自分一人では成立しない、相手の存在を知り認め、初めて言葉に意味が出てくる。「お互い」は、立場も考え方も違うかもしれない。しかしそこに関わりが存在するなら、その違いを(教会ではキリストにあってお互い様)と考え、配慮して、互いに譲りあい許しあい、助けあい乗り越えていく。キリストの十字架の命に生かされるという「賜物」を、神の栄光のために用いる責任を我々は互いに負っている。祈ってくれる隣人がある。ともに生きて下さるイエス・キリストがいて下さる。あなたを愛して下さる神様がいる。私たちは一人ではない。そのことをしっかり覚えて歩んでいきたい。
6月4日(日)聖霊降臨日 「霊の働きによって」 エフェソ2:11-22
バベルの塔の話によれば、世界中の民は、本来一つの民族・国民でであった。聖書に出てくる「異邦人」は本来、同一部族、国民という意味で、「異なった」というような意味はない。「自分、自分たち」という意識が強くなればなるほど相手との間に隔たりができて、自分以外、あるいは自分とは異なるという発想が生まれ出来た言葉と言える。ユダヤの民は割礼を受け、律法を持ち、神と特別な関係にあると自負し、これらを持たない者を、自分と異質な者として軽蔑し、排斥し、差別する。そして結局ユダヤ人たちは、神の救いイエス・キリストを受け入れることができず、これを異質なものとして拒否した。何のことはない、気が付けば自分が異邦人であった。誰が異邦人を作り出したのか。誰が肌の色や、思想、性別、所有の差で差別を作りだしたのか?  自分の正しさを振りかざす思い、違いを認められない不寛容さ、己が神のようになりたい、見下したい、誇りたい、そういう人の傲慢さが作りだした。カトリックのシスター渡辺和子さんは「人間にそが、悲しいこと」と言った。そして「この世の中に、神以外のものはすべて被造物であり、不完全なものである」という言葉に救われたとします。「神以外のものはすべて被造物であり、不完全なものである」、それは様々な違いに生きている人間は、神の前においては、一つであることを示している。神を知らなければどこまで行っても人は壁を作り、自己を著り、他者を差別し続ける。しかし、神を知れば必ず一つとされる。自分以外を受け入れない敵意という「隔ての壁」を取り除くために、我々は第三者の仲介、仲介者なる方がいるという意識を持つこと。その方こそがイエス・キリストであり、だから「キリストはわたしたちの平和」なのだ。どのような人間も神の前で、隠すことのできない人間の不完全さ・有限性・そして罪の存在を認めさせられ、そして同時に、にもかかわらず、神に愛され、生きるように促されていることへの喜びと感謝を覚える。その意識の変化が、人との比較に生きる生き方ではなく、神の方を向き隣人と共に生きていく歩みへと繋がる。聖霊降臨の時、神は、神の独り子イエス・キリストを通して、すべての民を作り出す。その一つの群れの中にあなたも 私もいることを覚えたい。
5月21日(日) 「神の約束に従って」 2ペトロ 3:8-13
,4節「主が来る」は「傍にいること」であるが、これは使徒1:11のことを前提にした、神の顕現を表し、初代教会では復活のキリストの力に満ちた再臨を意味した。この手紙における問題は、教会内に偽教師たちが再臨を否定し、キリストの福音を嘲り、不道徳な生活をしていること。現在の私たちにも、再臨が、終末がいつ来るかわからない。しかし終末の到来を無視し、その日に備えて何もしないのは愚かなことだ。手紙は言う。創世記に基づけば、神は、言葉と水によって天地が創造されたが、同じ要素で、ノアの時代、すべてを滅ぼされた。そうならば今の、天と地も必ず裁かれる時が来る。10節と12節で同じように2度説明し、その日が必ず来ることを言っている。さらに8節で神の計画を人間の基準で図ってはいけないことが警告される。その時を知りえない人間が、神を非難したり、軽視したりすることは許されない。むしろ、遅延に思われる終末到来は、神の恵みとみるべき。それはただただ神の憐れみであり、この世を支配されるキリストの忍耐によるものであり、「救いである」と知るべきである。「その日」の到来、つまり神の国が確かに来るものであると信じるから、すでにその一部を先取りとして受け、現在を生きていると我々は考える。従って終末を待ち望む信仰とは、私たちに与えられたこの人生をどのように生きるかということである。詩編90で歌われるように、人は「朝が来れば咲き、やがて移ろい、夕べには萎れ枯れる草」のようであり、時が来れば「人の子よ、塵に帰れ」と言われる存在である。その時に備えて私たちはどうするのか。あなたがどんな種類の人間であっても、「信心深い生活」をする必要がある。それは他の価値観や生き方と一緒くたにしない、片手間ではない信仰、そして神に対して賛美、礼拝することを求められる。そめ日の到来を信じて、熱心にそれを求め続けるということ。我々に残された時は無限ではないが、一日とはいろいろなことが出来る時間だ。「その日は」すべての終わりの日ではなく、新しい完全な世界の始まりの時。そこでは、神の御心が行われる。キリストを信じるものはその約束に、今を生きる。だから私たちは人ではなく、神に依存する。確かにキリストは再び来られる。何故なら、十字架の贖いの命に生かされる我々が、今、キリストと共に、能動的に・積極的に生きようとするからだ。
5月14日(日) 「感謝する」 テサロニケー5:12-24
我々の心のなかに喜びが一杯か、悩みで一杯か?それによって私たちの生き方は変わってくる。「いつも喜んでいなさい」、これが神の御心であり、神はそのことを願っておられる。では、どうしたら喜ぶことができるのか。ある宣教師は「タイのカレン族の人たちは、日本の私たちに比べるとはるかに貧しい。しかし、カレン族の人たちから教えられることは、彼らがそのような状況のなかでも喜んでいる、感謝しているということ」と書いている。感謝の反意語は「あたりまえ」。食べ物があること、家族、友だちがいること、健康でいること、礼拝を守れること、戦争がないこと、そういうことが「あたりまえでない」ことに気付く必要がある。東京新聞に8歳の子が、平和をつくる6つのルールを提案している。「武器を放棄して平和をつくるために、あいさつをする。いのちを守る、嘘をつかない、笑顔で過ごす。思いやりの心、悪口を言わない」。私たちは、すばらしいことをたくさん、神から与えられているのに、「あたりまえ」としてそれに気づくことができない。しかし人は、どんなに裕福で、うらやましがられる人でも、いつかは愛する者を涙と共に送り、自身の健康に不自由さを覚え、衰えを痛感する。礼拝に出席したくとも出来なくなる時がやってくる。あたりまえではないと気がっいて感謝できるならば、たとえ多くを持たなくても、失うものがあったとしても、今、私たちはそれでも感謝できる。水野源三さんは身体の不自由さに加え、母親を失う。しかし「もう泣かないでください、心の中は不思議なくらいに静かなのです。キリストが私と共におられるからでしょうか」と歌う。「キリストが私と共におられるから」これが感謝すること、喜ぶことの全ての根拠。神は私たちを愛するがゆえに、そのひとり子イエス・キリストを十字架に付けた。そしてその復活の恵みによって私たちは今、生きている。それは、何度聞いても「あたりまえ」ではない。この信仰があるために、私たちはどんな状況になったとしても、神に感謝をし、心は喜びに満たされる。それが新しい命に生き始めていることの根拠。そしてその我々は「気落ちしている者たちを励ます」ことができる。傍らに立って、手を貸し、慰め、助け、祈ることが出来る。そのような互いの励ましと助けによってこそ、互いに平和に過ごす交わりが築き上げられる。私たちは、決して一人ではない。こんなにも多くの恵みと祝福が与えられていることを、今日も共に感謝したい。
5月7日 「主よ、来てください」 コリント1 16:13-24
コリントの手紙第一の最後を読む。16章にはパウロのこれからの計画が語られているが、パウロの言う「大きな門が開かれている」とは、人間的に考えて快適で都合の良い状況のことを言うのではなく、大きな困難の中にあっても見出されるものである。実際計画が頓挫したり、変更を強いられ断念したりすることもあったが、しかしその時、主が門を開いてくださった。だから、それがパウロの計画であり、希望と言える。パウロの手紙の最後を自分で筆記し「マラナ・タ」「主よ、来て下さい」という言葉で締めくくっている。「マラナ・タ」は初期教会の祈り。聖書における、あるいは教会の信仰は、主イエスがもう一度この世に来られることにある。ただし、それはこの世で上手くいかないからと腐ったり、投げ出したり、自暴自棄になることではない。コリント15章には、キリストの再臨において、キリストはすべてのこの世の支配、権威、勢力を滅ぼし、キリストの支配が確立し、神の国が完成し、全ての人が生かされるようになることが言われる。我々が祈る「主の祈り」にもこれらの要素を見受けられる。それは信仰において、神の国の支配の下で生き始めている我々が、この世に神の栄光が満ちることを切に祈り求めること。この世は、目に見えることを中心に置き、私たちを様々なことに囚われさせ、支配し、神の恵みから引き離そうとする。しかし、信仰を与えられた者はこの世にあって、キリストが確かに死者から復活されたように、キリストは必ず再び来られることを信じている。その時、神の国は確立され、人の苦しみは終わり、最後の敵「死」が滅ぼされる、死んで朽ちていくこの体が、朽ちない体へと変えられることを信じ、希望としている。だから「マラナ・タ」は、希望の祈り。聖餐は希望の食卓。この希望のもと教会は、キリストの体の一部として、お互いが仕え合う群れとなって歩んでいくことをパウロは願っている。信仰者の交わりは決して一方通行ではない。それは人を元気づけ、慰め、同時に自分自身も元気づけられ、慰められる必要がある。そして、そうやって神からの救いを共に分かち合っていることを覚える。だから我々は、いかなる状況・困難であろうと、この希望のもと、また立ち上がれる。明日に向かって、共に生きていける。だから、今日もそう祈るのだ。
4月30日(日) 「死ななければ命を得ない」 コリント115章35-49
,誰でも自然の草木のように自分が新しくされること望んでいる。「命」は私たちにとって一番大切なもの。ただし、イエスは「自分の命を救いたいと思う者はそれを失い」、「福音のために命を失う者は、それを救う」と言われた。だからパウロは15章最初に「福音とは何か」を説く。その福音とは「キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目に復活されたこと」(15:3-4)だ。すべては、救いは、キリストの十字架により始まり、キリストの復活により完成する。しかし、この福音を信ない者は「死者の復活などない」と主張する。人が結局は死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。我々はそんな言葉のために教会に集うのか。「もし本当に復活すれるなら具体的に示してみろと」と言うコリントの人々に、パウロは植物の種の例えを引く。種は土に蒔かれて形をなくすが、その死の中から新しい命が生まれてくる。種と新芽は違う形だが、それは同じ命、同じ種。人はそれを目の当たりに見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じることが出来ないのか。そもそも復活とかよみがえりは、特別用語ではなく、立っや起き上がる、目覚めるという言葉を場面に応じて「よみがえり」「復活」と訳している。復活とは、死んだ後にしか起きないことでなく、この世において、本来誰もが体験できることを示していると言える。そもそも聖書にはそういう話が満ちている。長い時間の流れの中では、全体として、死に向かっているこの世界で、新たなものを生み出そうとする神の力、命へと向かう大いなる力を示している。そして、それはキリストによって決定的となった。私たちは皆、死んでいるのだ、と聖書は言う。しかしだからこそ、そこから誰でも復活するという救いの恵みが与えられる。そのために主イエスは来られ、我々は生きるにしても死ぬにしても、主と共に死んで、主と共に生きるのだ。死後の身体も、同じ存在としてよみがえるが、そこには根本的に違いがある。生きる時は、主と共に生きる。この福音を信じる時、「死は勝利にのみ込まれた」との声を聞く。復活の主が一緒であるならば、必ず命に至る道は続いていると信じ続けることが出来る。信じることにおいて、何の確信も誇るべきものも持たない。ただ「信仰なきわれを助けたまえ」だけだ。しかし、主は、その私のために確かに死んで下さった。だから、私は主と共に立ち上がる。今、この時も。
4月23日(日) 「主をおぽえよ」 ヨハネ20:24-29
キリストの弟子はキリストが復活されたことを、2000年以上前から・一日も休むことなく、伝え続けてきたのだから、我々はこの日も、明日も主の復活を伝えていかなければならない。ラザロの甦りの話で、マルタは復活信仰を持っているが、それは、何か遠い遠い将来に起こるかも知れないという信仰であり、現実の死という残酷な事実の前には何の力にもならない。主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と迫られる。遠い将来、この世の終わりの日に…、そんなあやふやなことではなく、イエスを信じる者は今復活の命にあずかることが出来るというのだ。中世の修道院では、「メメント・モリ(死を憶えよ)」という言葉に続いて「メメント・ドミニ(主を憶えよ)」と言った。「死を憶える」よりも、もっと大切なのは「主を憶えよ」ということ。人間にとって一番大きな死のことが、イエスの目からすれば「ごく小さなこと」である。それほどに、主イエスという存在は大きい。カトリックの神学者は「沈黙の不可知論(困難な時に神の存在を知りえないこと)」について嘆き、それは「神が存在するか否かという問題ではなくて、むしろ私たちの意識の中に神が存在するか否かという問題である」と指摘する。神は常に存在している。しかし、私たちは常に神に相対しているわけではない。詩編31編のように、嘆きの中で確かに拠って立つ場所を必要とする。そして詩編の作者はそれをよく分からない傍観者に対して願っているのではなく、契約相手に対する確固たる愛を持つ存在に願っている。自分をつかんでいてくれる存在とは、そういう存在なのだと知っている。トマスは復活を信じることが困難であったが、復活の主に「信じない者にならないで、信じるものになれ」と言われた時、もはや主の傷跡に手を入れようとはしないで、ただ「わたしの主よ、わたしの神よ」と言う。己の知性や科学的証明によって復活を証明して、その上で復活を信じようしてもそれは出来ないことだし、それでは復活を信じたことにはならない。復活を信じるということは、自分を捨てて神を信じることだから。「主を憶えよ」それは、主イエス・キリストが、あらゆる状況の中で、あなたを愛し、そして今もあなたと共に生きて下さる、その恵みを覚えることなのであり、それが復活の命に生かされる者の歩みだろう。
4月16日 イースター礼拝 「朝には喜びの歌が生まれた」 マタイ28:1~10
キリスト教会が最も大切にしてきた信仰は、主の復活の信仰である。復活の出来事は、全ての福音書において、人が悲しみと絶望の中にあるところから始まる。しかし、悲しみと絶望が覆いつくす閉ざされた世界は、主の復活の出来事を通して崩れ去る。復活の主に出会った者は、絶望的な悲しみから救い出される、そして、その朝には大きな喜びの歌が生まれる。詩編59編には「朝には、あなたの慈しみを喜び歌います」とある。すぐ側に滅びが口を開けて待っているような危機だったが、ダビデは、「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます」と神への信頼を祈る。人は、苦難の折ほど大事なことを忘れ、他者を攻撃する。だからこそ我々は、復活の出来事を心に刻み、朝には歌が生まれるという希望を決して失わないようにしなければならない。詩1!8は伝統的に復活日の詩と呼ばれる。本来、共同体から離れていた人々を再び迎え入れる儀式だったのだろう。3人の人が語る。「悩みの中から自由にされた」「敵から包囲から奇跡的に主に救われた」「病気と死から救われた」。これを受けて歓迎するコーラスが「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主のみ業、私たちの目には驚くべきこと…」と歌う。そこに我々は、イエスご自身が捨てられた石となられたことを見、イザヤ書53章の預言を見る。その苦しみは、私たちの背き、私たちの咎のためであったことを知らされる。つまり、イエスを不必要だと見なし、軽蔑し、これを捨てたのは我々であり、罰せられ、滅びゆく存在。しかしその我々は、今ここで主によって救われ共同体の一員になる。それは主のなさる不思議である。ただそれは、おぞましい十字架で死んだイエスを土台にして主の家を建てる。それを通して、主が復活されたように、今ここで我々は、主によって救われ、イエスを主とする新しい共同体の一員になる。輪になって踊り、その一体性を共感する。その朝に生まれる歌は、どんな状況であろうと、どんな立場の違いがあろうと、「あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる」という賛美の歌でなくてはならない。そしてこれこそが「主の御業の日」つまり「主が造られた朝」であり、主にある共同体の信仰告白である。
4月9日(日) 「希望の言葉へ」 マタイ26:17-30
イエスは食事の席で裏切りを予告する。弟子たちはその言葉に心を痛めるが、結局、皆イエスを見捨てて逃げてしまった。イスカリオテのユダは直接的に関与し、他の弟子たちは間接的に関与したのだ。「生まれなかった方が、その者のためによかった」とのイエスの言葉を残しているが、これは恐らくユダを裏切り者と憎む初代教会の反映であろう。イエスは十字架上で『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』と祈るが、それは逃げたペトロ、ユダ、弟子たちへの赦しの言葉と言える。もしユダが自殺しなければ、ぺトロに現れた復活のイエスは彼にも現れたに違いない。悲しみと不安に包まれた食事の席で、イエスは弟子たちのためにパンを裂き、葡萄酒を注ぐ。その言葉には「私自身をあなた方に与える」というイエスの万感の思いが込められている。イエスは裏切られ、無残にも死んでいくという悲しみと不条理の中で、それでもイエスは、弟子たちを、あなたを愛し、新しい契約に生きていくことを願って下さる。不条理、無力さ、挫折、失敗、裏切り、無念、後悔、それらすべてが十字架に凝縮されている。しかし、偶然にもイエスの十字架を負わされたキレネ人シモンの姿に、初代教会の人々は、自分たちの歩むべき姿を見出した。イエスの十字架の言葉「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになられたのですか」、多くの人がこの体験をする。戦争や基地や災害や原発事故の現実の中で。希望の神学を提唱したユルゲン・モルトマンは言う「イエスの『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し共に復活を待つ。私たち故に、見捨てられ孤独となったキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となる」。裏切りの現実で語られる最後の晩餐の言葉と、十字架の言葉は、人の罪の恐ろしさを知らしめるが、同時にこのイエスの苦しみだけが、絶望に閉じ込められる我々に、再び希望を与える。イエスは、この食事が地上での最後の食事であるけれども、同時に死が終わりではなく、死を越えて来るべき神の国の食事に、我々を招く。私たちは来るべき神の国の祝宴に預かっている。だから、この世がたとえ「神なき世界」のように見えても、世界を支配しておられるのは神であることを信じ、その希望の中で私たち教会を形成し、私たちは生きていくのだ。
4月2日(日) .「霊で祈り、理性で祈る」 コリント1 14章15-25
コリント信徒の手紙でパウロが言うことは「キリスト者の自由とは、他者への愛によって束縛される自由であり、贖い取られた自由、その恵みに責任を持つ自由」。自身がキリストに贖われ、赦され、愛されていることを知る者は、他者の救い、隣人の喜びを求めて共に歩んで行く。しかし14章には、その隣人への配慮の無さが、コリント教会の問題であったことが分かる。神秘体験や霊的興奮状態を、聖霊を受けたしるしとして誇る人がいた。パウロは異言以上に、「愛を追い求めなさい。特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と教える。個人の体験とし、他人と関係性を閉ざしてしまう異言ではなく、人に向かって語り、人を造り上げ、励まし、慰める預言、つまり誰もが理解する言葉での聖書の解き明かし、宣べ伝えこそが、教会を造り上げる。パウロの判断の基準の全ては、それが教会を造り上げるか否かにある。福音の言葉は罪を悟らせ、悔い改めに招き、そして神を賛美させる。それこそ私たちが教会に集い、礼拝を持っ理由。しかし信仰には、現実的な事柄と、現実を超えた事柄の双方が含まれている。「隣人を愛せ」とは現実的な教えで、一般的な道徳理念にも見られるかもしれない。しかし、その理由の「キリストの十字架の死による赦しと復活の命」は、神の一方的な恵み、霊の働きによる事柄。故に「霊で祈り、理性でも祈り、霊で賛美し、理性でも賛美する」ことが必要。疲弊している日本の教会は、イエスに従い行動することと、祈ることのバランスが崩れている。地域に生活する人のために、教会にもできることがいろいろあるはず。同時に逆境や、因難な状況中でも祈り続ける時、間こえてくるものが、示されるものが必ずあるはず。自身の信仰の姿勢を省みつつ、そのことを共に求め続けていきましょう。
3月26日(日) 「愛がなければ」 コリントI  l3:1-13節
この箇所は「愛の賛歌」として結婚式等でよく読まれる。しかし、何故ここに愛の讃歌が出てくるかを知る必要がある。コリントの教会の中には、分断を根源とする様々な問題があった。これに対して、パウロは大胆な言葉を連ねている。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」。あなたが示すべきことは、あなたの正当性ではなく、神の栄光を示すこと。それは我々を分裂ではなく、一致に導く霊によって教えられる。この霊は、主が私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うことにおいて、その存在を示される。だからこそ、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この愛が無けれぱ全ての行為は空しい。パウロの大胆な発言の根底のこのことを見落としてはならない。実際にコリントの人々には「ねたみ、高ぶり、いらだち」があった。ここにあるのは「愛」ということへの単純な讃歌、憧れではなく、切実な問題。我々はエロスとフィリアの愛だけが「愛」だと勘違いし、その破綻に苦しんでいる。だから私たちはアガペーの愛が必要だ。パウロはすでに1コリント10:23-24で、キリ承ト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言っている。何故ならば、それはイエスの命に贖い取られた自由だから。愛アガペーは、私たちの中に本来存在するものではなく、神がイエスの十字架の死の命を通して我々に伝えて下さった。キング牧師はその説教において「愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と言う。キング牧師の言うように、私たちには敵を好きになることはできない。しかし、アガペーは感情ではなく、意思だ。それは神から一方的に与えられる賜物。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできる。終末の時にも「愛だけは残る」。何故ならば神は愛そのものだから。教会とはその終末を先取りする共同体。だからどのような問題を教会が抱えようとも、私たちはこの教会から離れない。それは、教会が古かろうが新しかろうが、ただキリストの血によって購われた、キリストを頭とする共同体。故に教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能なのだと信じる。私たちは自分の救いだけを求めて教会に来るけれど、私たちは、もう自身がキリストに腹われ、赦され、愛されていることを知っているのだから、私たちが教会で求めるべきは、他者の救い、隣人の喜びです。その隣人と共に歩んで行くことなのだ。
3月19日(日) 「あなたがたはキリストの体」 コリント112:12-31
'教会は、建物が建ったら完成ではない。単に人間が寄り集りではなく、キリストの体である。信仰とは、一人で神を信じ、一人で神との交わりに生きるものではなく、キリストの体の部分となることであり、そこに必然的に他の部分である兄弟姉妹との交わりに生きることが含まれている。パウロの伝道により始まった、新しい教会はいろいろな問題を抱えていた。「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」と言われる、我々一人一人は、己の信仰がキリストの体にふさわしいものになるよう祈り求めていく必要がある。パウロはコリントの問題の根底にある「分断」に対して、この世的な価値観や、大衆の支持を基盤とする答えを与えるのではなく、一貫して最も小さくなられたキリストの、十字架の姿を示してきた。そしてそれを決して忘れないために、一致のためにこそ、聖餐を置く。人の人生や営みは逃れられない限りがあり、その虚しさ虚無感に絶望する。だから本当の希望は、主なる神が我々のこの営みに、一方的に介入して下さることにしか存在しない。コリント教会には、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者もいて、共に歩むことなど不可能と思われる。そのように全くかけ離れた者たちが、イエスを、キリストと「主」と告白するバプテスマを通して、一つの体となり、その部分としての交わりに入る、それが教会。それは「一つの霊」によって、キリストの十字架と復活を通して、どうしようもない人の営みの中に、神が一方的に介入してきて下さった恵み。このキリストが体の頭であり、我々はそのキリストと結び合わされ、キリストに聞き従う者となる。そこに教会における「交わり」がある。だからそこに個人の誇りや見栄や、変な謙遜や躊躇は必要ない。教会の中の様々な役割もそうだ。上下があるのではなく、何が一番大切なのかをいつも問われるべき。それはすべて頭なるキリストに聞き従うという、一番大切なことによってこそ生き、意味あるものとなる。大船教会の新しい歩みが、今始まっている。私たちがその歩みの中にいる。老いも若きもその歩みに積極的に参加する。新しい教会は、よくよくみ言葉に聞き、己の信仰を常にかえり見ることを怠ってはならない。そして「キリストの弟子となる」ことを積極的に成していかなければならない。新しい教会は、益々、主にあって一つ体の部分であることを、よく覚えなくてはならない。私たちの労苦多い働きは、必ず豊かに報われ、喜びの歌と共に刈り入れ、喜びの歌をうたいながら帰ってくることができるようになる。そのためにこそ、私たちは、今またしっかりと、主の福音に生かされていきたいと願う。
3月12日(日) 「忘れないで」 ヨハネ14章15-21節
'あの震災からもう6年、振り返ってばかりだと、ネガティブな発想ばかり生まれて前に進めなくなってしまうと思うが、実際の現実は厳しい。子どもたちの甲状腺がんが増えている。避難指示が一方的に解除され、自主避難者への住宅補助が打ち切られる。「自己責任」のもと、原発被災者は追い詰められていく。まさに原発問題は人権問題。力がなく弱い所、自分とは関係がないと思われている所に、原発も、基地も置かれていく。そして家族や地域の中で、分断が引き起こされ、人々は疎外感と孤独感にひしがれる。十字架刑でこの世を去るイエスは、弟子たちが悲しみ、孤独、恐れで、バラバラにならないように聖霊を与える約束をされる。それは特権ではなく、むしろ弱さの中で、イエスの掟に生きる者とされるということ。分裂ではなく、一つになるために与えられる。聖霊はイエスの掟「互いに愛し合う事」の文脈の中でこそ語られる。「真理の霊」とも呼ばれる「弁護者」はイエスが語られ、示された業を、必ずあなたに「思い起こさせ、忘れさせず、気づかせる」。そのことを通して、私たちは復活の主に再び出会う。イエスが今、この時生きて働かれていることが、イエスの示された愛の実践によって明らかにされる。いわば終末の先取りとなる。だからこそ、パウロは「どのような時でも、霊に助けられ祈り、願い求め、絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなければならない」と言う。聖霊は、どこか遠い所ではなく、私たちのただ中に与えられる。孤独や不安、恐れの中にいる人々に勇気、力、励ましを、平和を与える。この世界は分別、分断で支配するが、何も生み出さない。しかし、真理の霊は、私たちを一致へと導く。神に愛され、神を愛し、主にあって人を愛するという一致。そこから人は、何かを生み出す力や勇気を持ち得る。神奈川に福島から避難している母親は「今までは、娘のため、と思って必死に走ってきました。でもこれからは「娘のため」ではなく、私が、夢と希望をもって生きていける世の中をつくるために、その背中を娘に見せるために生きていきたい」。被災地復興も、原発問題も、基地問題も、短期間で終わる事柄ではない。遠く離れているが、私たち一人一人の問題。だから我々は、共に生きるために、どのような時でも、根気よく祈り続けなければならない。
3月5日 「一粒の麦が死ななければ」 ヨハネ12:20-26
受難節に入った。ギリシア人たちがイエスに会いに来たが、イエスの対応は冷たい。何故か。確かに異邦人の到来は、全世界が、すべての人間が神の約束の下にあることを印象つける。しかしそれは「ただ十字架の死においてのみ、福音は全ての人に達する」から。この事を知ろうとせずして、信じる二となくして、救いはあり得ない。イエスが言う「栄光を受ける時」とは、イエスの十字架の死の時である。そしてイエスは命を得ることにおける「死」について語っている。死から命が生まれる。死は終わりではなく、新しい創造の始まりであり、命を与えること。ただ、栄光の時は、イエスの苦しみと切り離すことは出来ない。神はイエスの十字架と復活において、その義と愛を示される。だから苦しみは、父なる真の神に従うことによってのみ克服される。そしてイエスは、その生き方を自らの決断によって歩み出される。そのことを受け入れない者は、裁かれる。しかし、同時に十字架のイエスは救いである。「上げられる」ことがその本質である。イエスの贖いによって全ての人がキリストの元に引き寄せられる。イエスの死を通して、イエスに従う者すべての人が、真実の命に生きるようになる。イエスの死は世に対する勝利である。イエスは言う。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。ヨハネにとってイエスの十字架の死が、すべての答えとなり、神の義の実をもたらす欠くことの出来ない種であることは間違いない。「「命を憎む」とは、自分の命を粗末にするということではない。むしろ逆だ。そのいのちが、神に与えられた、生かされたものであり、それがどれほど愛され尊いものかを知っていること。ところが、どうだろう。我々は命を大切にすると言えば、それは、己の欲求としての命を愛することばかりだ。私たちは自分の力で生きているのか、それとも神により生かされているのか、どちらを信じるかで生き方は変わる。私たちは死ぬことを運命付けられた存在であり、自分の命を左右する力はない。ならば、命を与えて下さる方のことを考えるべきではないか。人が捨てたイエスの十字架の中にこそ、命があるのだと聖書は語っている。イエスが栄光を受ける時が来た。あなたは、「光」と「闇」のどちらを歩むのか? 十字架を仰ぎ見る我々は、その新しい命に生きていかなければならない。
2月26日 「ふさわしくないままで」 コリントー11:27-34
コリントの教会の様々な問題の本質は一つ、それは十字架の福音をゆがめて解釈すること、弱い立場の人たちに対して配慮や思いやりることができないこと、「自分は既に完全な者だ」と思っていること。それらは、福音をみくびり、信仰に対して真剣ではなく、救いを真面目に考えないことであり、己の力だけで、一人で生きているように錯覚していること。貧しい者と裕福な者がいたコリント教会では、社会層の分裂と序列を目に見える形で表し、社会的差別を再生産し、権力による支配を強めるローマ・ヘレニズム社会の食事のあり方と類似している。それは排除され、差別された人々と関係を構築することを求めた、イエスの開放性と包含性に明らかに異なっている。「主の晩餐」は、パウロにとって共に福音に与る場でなければならない。制定の語は、我々に問うている。何のために主は死なれたのか。キリストが死において、あなたは罪を知り、赦され、そして新たに生かされた。それは、あなた方を一つにするためのもの。イエスの十字架の死を記念することは、イエスの食卓の実銭と、そこに湛えられている霊性をもう一度再現し、交わりと分かち合い、感謝と喜びの祝いの時にするべきもの。教会員の新井慶子姉が2月22日召天された。その痛みと弱さの中でも、神に愛されることを 一生懸命喜び、一所懸命人を愛することを学び、実際そのことに生きた。そしてその人生を通して、我々の心に種を蒔いてくれた。その姿に、キリスト自身が自ら最も弱い小さい存在になって、我々に和解の恵みを与えて下さった姿を思わされる。だから、私たちは解放され、安心を与えられる。そしてまた、人を大切にしようと思う。コリント教会は、この福音を捻じ曲げ、おろそかにし、あたかも一一人で生きているかの如くだ。そういう人たちに対し、パウロは共に福音に与ること、仲間となることを求める。一人一人は多様であっても、神の愛に生かされる同じ恵みを受ける。同じ主に仕える務めであることを、パウロはコリント教会の人たちにしっかりと理解してもらいたい。十字架上で自分の肉を裂き、血を流して下さった、この一つの霊をいただき、一つのキリストの体の中へ組み入れられていることを覚えるべき。人の罪深さを思うと同時に、聖餐に主の復活といのちの恵みを覚える。主イエス・キリストによって、神の愛という種が、確かに私たちには、蒔かれていることを覚えるべき。
2月19日 「キリストを試みない」 コリント1 10章1-13節
パウロはこれまで、福音に共にあずかることを、勘違いしてしまうと、他者を顧みない、己の都合のいい解釈や宣言になってしまう。それは、出エジプトから学べる。イスラエルを決して見捨てることなく、離れずについて来てくださった神から、飲み水・食べ物を与えられただけでなく、霊的にも養われたのに、民はいつも不平で満ちていて、大部分は荒れ野で滅ぼされてしまう。喉が渇くように、一時的な不安や欠けにいともたやすく支配され、神に対して不満を言い、己につぶやく。同様にキリストの復活の恵みに与りながら、いつも他人事であり喜ぶことがない、感謝しない。自身につぶやき、自分により頼んで、自分だけがかわいい。それは、神の救いの恵みを軽んじ、ないがしろにしているのであり、「キリストを試みる」こと。大切なことを見失わないために、何かを見上げる必要がある。人には、自分がいかに神に愛されているかを知らされる「天窓」が必要だ。それは十字架に上げられたイエスであり、復活のイエス・キリスト。そのこと無くして、私たちが救われるということはあり得ない。「生きることは苦しむことだが、生き抜くことは苦しみの中に意味を見出す」ことだが、パウロが言うように我々が経験する試練は人の「世に常」である。死ぬことも老いること、病、関係のトラブル、貧富の格差、戦争、飢え、渇き、すべては人間的で人であるが故だ。そしてそれを人間的なことで解決しようとする。誰かのせいにし、不平を言い、金の仔牛を作り、2度岩を打つ。しかしはたして、人間酌な知識や能力、思惑が、あるいは偶像が解決を与え、「それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくれるのだろうか」。そうではない。人や偶像にはそのような力はない。それは神にのみにある。そのことは、我らの主イエスが十字架で死んで、復活されたこと、命をもって執成して下さったことで確かなものとされたではないか!  この方以外に、死から復活させることの出来る存在があるとでも言うのだろうか?  私たちに必要な天窓がすでに、どんな時も備えられている。私たちが生きるために不可欠なこと、十字架に上げられたイエス、つまり復活のイエス・キリストを見上げるということ、これこそが生き抜くことの意味だ。イエスキリストの十字架の贖いと復活の命、この福音に共に与ることに何よりもの喜びを覚えるべきだと、あなたを愛するキリストは、パウロを通して教えて下さっている。
2月12日(日) 「福音に共に与るために」 コリント19:19-27
パウロは「だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と言う。これまで語られてきたことを受けているが、自由と奴隷は自然に結びつくわけではない。そこには、信仰者の強い意志、抵抗が必要。そのために「知らねばならぬことを知る」ことをパウロは求めている。自由な者だから奴隷にはならないのではなくて、自由な者だからこそ奴隷になることができる。パウロはユダヤ人であり、ファリサイ派であり、人一倍律法に支配された生き方をしてきた。しかし主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる者となったことによって、すべての者が愛されていること、罪を赦され、真に生きるように主イエス・キリストの救いの業によって導かれていることを知らされた。その結果律法の支配から解放され、ユダヤ人でなく、自由になった。ただ律法から自由だからといって人間のエゴや放縦に陥るのではなく、その自由の中でより真に神様に従って生きる道を見出した。主イエス・キリストを信じる信仰は、環境や文化や生活様式、通念から解放する。だからこそ自分とは違う様々な考え方、生き方、生活様式を認め、受け入れることができるようになる。2016年6月に「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律案」{ヘイトスビーチ解消法)が公布・施行された。それは日本に明らかに人種差別の現実があることを示している。「心は殺されました」と助けを求める人がいたのに、長い間、顧みられることがなかった。「我々が本当に知らねばならないこと」は、等しく奴隷だった我々が、主イエス・キリストによって、その十字架の死という身代金を支払ってもらって解放され、自由にされたということ。そして私たちはこの主イエスのものとされたのだから、自由にされると同時に、主イエス・キリストの範に新たな命の力を受け、生きていく。これが、福音、喜びの知らせ、救いの知らせ。23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。差別問題に中立、放置はあり得ない。止める否かである。福音は、主イエス・キリストにおいて示された神の自由において、私たちが生きることの中にこそある。つまり十字架の命の力を与えられた我々が、どう生きるのかということ。「福昔に共に与るために」我々が歩むべき道は、もうすでに明らかにされている。
2月5日(日) 「愛は造り上げる」 コリント1 8章1-13
8章は偶像に供えられた肉の問題。当時流通していた肉の多くは「偶像に供えられた肉」であり、信仰と生活との緊張にどう折り合いをつけるかという問題は、今の私たちや教会も抱えている。靖国神社への参拝拒否から始まる宗教団体法の下の国家の統制の歴史は、そんなに古い話ではない。コリント教会の上流階級の人々は、異教の神殿で行われる祝宴に招待され'それが一種の社会的ステータスの場であった。故に彼らは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、だから「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」と言う。パウロも彼らの主張を認めるが、それは適当な応答ではない。パウロは諸問題を通して強く問われる信仰の本質を決して見逃すことはない。問題は肉を食べるか否かの教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という問題になる。なぜならそれは「神の掟を守ること」「キリストに対して罪を犯すこと」と関わるから。果たして誰が強い信仰、弱い信仰か。「キリストがあなたのために死んでくださった、同時に信仰の弱い人々のために死々で下さった」という福音をおろそかにする者は、一見正しそうに、信仰深そうに見えても、キリストに対して罪を犯している。偶像の肉を食べるか否かは倍仰の本質ではないが、そのことによってつまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題。それは他者への救いを閉ざす行為。「知らなくてならないことすら、まだ知っていない」とは、知識の量のことではなく、知るということの内容・本質の問題。自分が神を知るということではなくて、自分が神に知られている、自分が神に愛されているということを知ること。キリスト者は、全ての事に自由。しかし、その自由は、キリストの十字架の犠牲を通して与えられたことを知らされるが故に、他者への愛が、己の自由を制限し、自由を自己の保身や欲求のためには用いず、周囲の雰囲気や圧力に迎合して、キリストの福音と異なったことを行おうとは決してしない。「隣人のために何かを断念する自由」、それはキリストの愛に基づく強い意志であり、抵抗である。それをパウロは繰り返し語っている。信仰は、キリストの十字架の愛によって、私たちの生き方を規定する。具体的には他者との愛の中に生かせる。すべては、神の栄光を現すために、教会は造り上げあれることに、喜びを覚えたい。
1月29日 「咲くということは」 コリントー 7:17-24
7章の主題は「結婚をどう考えるか」である。これに対してパウロはあくまでも、神に対する我々の思い、姿勢、熱意を問題にしている。それはテレビやネットで目にする時代によって移り変わってしまう価値観でない。パウロの教えの背景には、強い終末観があり、終末という事実の前に、キリスト者は世との繋がりを相対化すべきであるとする。相対化すること、それは救い主キリストにあって、この世に生きながらこの世を特別視しないこと、この世の判断・価値観・風潮で物事を見るのではなく、キリストの視点で見ること。明日の来ない日が私たちには必ず訪れる。その時、果たして私たちが執着してきたこの世的なことが、どれほど意味のあるものだろうか。それらが絶対的なことでないなら、私たちが第一に問題にしなければならないことは、結婚や離婚ではい。そういう問題が解決出来れば、すべては上手くいくと考えているが、パウロからすれば、それは本質を逸脱していている。そうではなく17節「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」とある。私たちが信じることは、己の力や能力判断による解決ではなく、神が私たちの名を呼び、ご自分のもとに招いていて下さるから。だから誰も己を誇れる者はない。ただ呼ばれたことへの感謝と喜びだけがある。さらに招かれた時の状態は、何不自由のない人もいれば、悩む人、病む人、様々。そういう、それぞれの具体的な生の中にある私を、神はお招きになり、恵みを与え信じる者として生かして下さる。そこに割礼があるか、奴隷か自由人であるかは、決定的な事柄ではない。主イエス・キリストの信仰に生きることは、キリストの奴隷となることであり、それは私たちを束縛しているこの世の様々な事柄(出身、地位、立場)から解放すること。そしてその解放は主イエス・キリストの十字架の命による。これが神からの招きであり、その私たちには「人の奴隷とならない」生き方が与えられる。この世のあらゆる束縛、不自由さ、悲しみの中においても、主を見出し、主の捷を守ることを求め、主と共に歩んでいこうとする積極的な生き方。この時、この瞬間、神は確かに共にいて下さり、あなたに力を与え、励まして下さっている。それを覚えること。その時、我々はまた、感謝し喜び、自分の笑顔が他人も幸せにすることを、その恵みに生かされていることを覚えるだろう。
1月22日(日) 「私たちの共同体」 ヨハネの手紙第一2:1-14
様々なことのある人生、教会生活で、どうやって前に向かって生きていくことが出来るのか? ある神学者は「命、信仰、教会、これらは全て基本的に「関係」に関連している」と言う。そしてこの箇所もまさにこのことを語っている。「わたしの小さい子」は、手紙の受け取り手に対する深い愛情と心づかいを感じる。しかし実際にはその背景に、共同体の何らかの分裂をうかがわせる。具体的にはもはや分かり得ないが、その根本にある問題は、信仰の喪失、不和、そして御子を信じ受け入れることによる行いの欠落である。これらの問題において、著者はまず贖罪の「いけにえ」として捧げられたイエス・キリストを語る。キリストの十字架による贖罪の犠牲は、キリストの真の能動的役割を示し、私たちと神との関係が回復させる。次に3-6節で我々の生き方が変えられるという「実」を結ばねばならないということを言う。神との関係に入っているという「証拠」は、我々が信じていると公言する信仰を、いかに人生の中に生かすかによって確証される。神を「知る」だけでは十分ではなく、その生き方が変わっていき、より真実な関係へと導かれ、その交わりを通して、信じる者一人一人の内に神が働く。そして7-11節において、この信仰が、共同体の中でいかに生きるかということを言う。キリストは「わたしの小さい子」と語りかけた後、「新しい淀を与える」と言われ、「互いに愛し合う」ことを命じられた。それは共同体の生活の中に根付き、実際働く時、常に新しい。それは私たちの生きることにおいて、い
つも問いかけ、侮い改めさせ、励まし、慰めを与え、何よりまた隣人と共に歩みだす力を与えてくれる。この3つの段階が正しくない時、たとえ一見恵まれている、安定していると思っても、その本当は「闇の中を歩み、自分がどこに向かっているのかを知らない」。しかし正しく働く時、たとえ苦難と不遇の中にあるように見えても、その人は「光の中」を歩いている。人の人生の幸・不幸が本当にバランスよく存在しているのかどうかは、分からない。そして、不幸に遭遇しないようにすることは、到底人の力には出来ない。だからこそ、これからもキリストの恵みにこそ生かされ、生きていきたいと願う。一人ではなく、主に導かれ、隣人と互いに励まし、支え合いながら、「光の中」を歩んでいきたい、そういう教会の歩みでありたいと願う。
1月15日 「もはや自分自身のものでない」 コリント16:12-20
6章は教会で起こつた争いの問題。具体的には不明だが、裁判所に訴えるという出来事が教会内で起こつたことにパウロは衝撃を感じている。が、留意するべきことは、パウロは単に事件のことのみを批判しているのではなく、そのような問題に教会が振り回され、この世的な価値観に流され、信仰の教会の本質を見失ってしまっているのではないかということを問う。だから、パウロの言うことはいつも、やはり、あなた方の信仰とは何かということ。キリスト者はこの世の基準とは別な基準に動かされる存在であることを、いつもどんな時も問われる必要があるから。パウロは、コリント教会の人々に、救われる前どうであったかをもう一度患い起こさせ、己の罪の姿を棚に上げて、他者を見下し、不寛容に裁くことは、結局は救われる前の姿のままであり、そうであるとしたら、キリストの恵みを無駄にしていると指摘する。イエスは公の活動の最初イザヤ書61章を朗読した。それはイエスの救いは、抑圧され苦しめられ、何も持たず神にすがるしかない者への解放を通して、具体的に示されることを指し示すから。その喜ぶべき出来事に、私たちは招かれ、用いられ、そして我々自身も解放される。それが、「主の恵みの年」、つまりヨベルの年が成就したということ。「全ては私にとって、ゆるされている」、非常に魅力的な言葉だが、勘違いしてはならない。それは徳政令のような借金帳消しのような出来事ではなく、損なわれた、神との親しさの土台に建つ社会を、神が人のために取り戻す事をその根底においている。そのためにイエスの十字架の死による「贖い」がどうしても必要だった。こうして、イエスの命の贖いによって、買い取られた我々は、もはや、神の所有であり、自分自身のものでない。それは本来、己の知識や力や価値観や、基準に生きるものではない。それを、よもや忘れてはいないかとパウロは問う。カール・バルトが言うように「教会はその社会共同体の只中にあって、神の国を想起させる役割を持つ」。私たちはこの現実の世界の只中で、神が最も親しい者となって下さり、一人子の命をその代価にして愛してくださることを、覚え、信じ、希望としている。それだけを生きる唯一の拠り所し、歩む道しるべとしている。すべてが神の持ち物であることを知らされた者として、この神の愛と福音に、この世界で生きて、いくのだ。
1月8日 「神の協力者として」 IIコリント6:1-10
今日の箇所「神の協力者」、それは神を信じる者は「神のみ心を自分なりの仕方で行っている者」ということ。それをパウロは4節から「忍耐をもって、たとえ苦難・欠乏・労苦の状況にあっても、純真・知識・寛容・親切・聖霊・偽りのない愛・真理の言葉・…」と示す。それは簡単に言えば、神を愛すること、隣人を愛することだろう。具体的に言えばどうか。礼拝で神様を賛美すること、聖書の学びをすること、平和を祈り、戦争に反対すること、災害にあった人々に手を差し出すこと、病の人を高齢者を訪ねること、あるいは奏楽の奉仕や清掃の奉仕、もっと身近なことで誰かのために真剣に祈ったり、誰を赦したり、誰かの助けを素直に感謝する、もっと簡単に言えば、誰かの優しい言葉をかけてあげる、これも神の御心と言えるのではないか。元旦の新聞で息子をイラク戦争で亡くしたイスラム教徒ギズル・カーンさんが「心配を表にも出せないでいる人に代わり声を出し、「大丈夫だ」「そんな不平等な扱いはさせない」と言って抱きしめてあげなければならない」と言う。しかし、これらのことのために私たち自身が常に、前向きにされることが必要。パウロは5章で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのだ」と言っている。己の高ぶりという罪ゆえに神と敵対する我々に対して、神は一方的に和解としてのキリストの十字架上の命を与えて下さった。パウロはその恵みを無駄にしてはならないと叫ぶ。恵みは漠然と未来に期待するものではなく、今ここであなた方の目の前にあり、救いはあなた方が掴むようにと差し出されている。もしこの恵みに生きているなら、インマヌエルの事実、キリストの死によって私達が生かされている思いに生き、そこには自らの力や外見を誇る思いはない。むしろ「死にかかっているようで、このように生きており、悲しんでいるようで、常に喜び、無一物のようで、すべてのものを所有している」。困難があり難しいことは確か。自分の力だけで歩もうとすれば、たちまち挫けてしまうだろう。しかし、くじけてもくじけても、神が共に働いて下さるから、隣人に励まされるから、私たちもまた信じ、誰かに声を掛けることができる。私たちは別に何か誇る物を持たないが、等しくこの一歩を踏み出そうとする者。だからキリストの恵みを信じ、キリストに支えられ生きていることの喜びを証していく者だ。
1月1日(日) 「私は叩いている」 ヨハネ黙示録3:14-22
キリストの誕生は、同時にキリストの来臨を語る時でもある。それは「わたしは戸口に立って、叩いている」を知ることである。言い換えれば私たちの世界を、生きることを、本当に治め、支配される存在を覚えること。自動的に2017年がくるのではなく、我々が新しい朝を迎えるのは、とてつもない神様の恵みに生かされている。なのに我々は「冷たくもなく熱くもない」。自身の仕事や生活を言い訳にし、目をそらしてしまう。同志社の木原活信さんは、現在の教会の問題の一つとして、喪失してしまったキリスト教のダイナミズムをどのように回復させられるか? と問う。ラオディキアは栄え、豊かな都市であったが、信仰は自己満足的な、生ぬるい信仰に堕していった。キリストと出会いながら、不服従と無関心と不徹底な、感謝のない信仰生活を送る教会に対して、主は「私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われる。神学者ブルトマンは「それは敵を発見することではなく、自己の内に何も見出さないことだ。私たちが何であるかの指標は、私たちが愛を贈り、また愛を受け取ることができるということにある」。嶋田啓一はキリスト教と社会福祉の問題について「この世を創造と救済の信仰において直視する新しき人は、善き業への果敢なる展開の絶頂に立つときのみ、その人間的可能性の限界告白に、真実の意義を担わしめることが出来る」と言う。イエスは、愛せない弱い無力な自分と直面する我々に、なお「愛せよ」と迫ってくる。その愛はヒューマニズムを超えたところから始まる神の愛。人を裁くことにおいても、救いにおいても熱情の神の愛は、その御子を十字架に付けるほどの愛。だから「私は戸口に立って、たたいている」は裁きの言葉ではなく祝福の言葉。それは、感謝の心を持たない私たちに、人生に純粋な喜びを与えてくれるもの、それが奇跡であり恩恵であると伝える。それは、つまるところ「み言葉」である。それは古い言葉ではなく、常に時代を超えて、新しく私たちに語りかけて止まない。永遠なる存在、熱情の神が遣わすそのみ言葉こそが、肉となりこの世に来てくださったイエス・キリストに他ならない。そのイエス・キリストを受け入れ、その恵みに心より感謝する者と、神はこれからも共にいて下さる。新しい年、我々は、裁き主なるイエス・キリストの愛の恵みを、わが身に豊かに覚えつつ歩んで行きたい。
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