徐福村の発見 中国では徐福の生誕地が発見・確認され、謎に包まれていた徐福の研究も活発に行われるようになったという。日本各地には徐福の渡来伝説があり、今も徐福を祭る神社や墓が残っている。 これ等の徐福伝説は、渡来人がもたらしたものと考えられている。オブラートに包んだような、危なげのない解釈として定説化したのだろうか。 徐福が不老不死の霊薬を求めて、童男童女と共に東海に船出した経緯は司馬遷の「史記」に記されている。史記に記載された記事はその幾つかが事実であったと認められ、史書としての史料価値は高まっている。 始皇帝没後65年目に生まれた司馬遷は、徐福が船出した山東半島に始皇帝の調査で三回も訪れている。司馬遷はここで当地の古老から聞き取りをしたと思われ、百年もたっていない頃の事なので色々な事実やエピソードを入手するのも難しくはなかったであろう。 徐福は、山東半島に巡行に来た始皇帝に書を奉って船出の許可を求めた。 1981年に発見された徐福村は奇しくも山東半島の付け根に位置している。徐福村は清朝時代以後は徐阜村と呼ばれていたが、発見以降は徐福村に戻したという。徐福村には水田が多く、その刈入れは今でも弥生時代そのもののように手作業で行われている。 日本の農耕文化には中国江南の影響が濃いが、徐福村は江南の農耕文化の北限とされている。徐福が船出したまま帰ってこなかったことから、徐福の子孫はその姓を名乗り続けることに不安を感じて次々に改姓した。始皇帝の怒りを買うことを恐れて村外に逃亡した人もいた。 いま復権を果たした徐福の子孫たちの系図の多くは、徐福から70代目から72代目に当たっているという。1代を平均30年とすると70代目では2100年、72代目では2160年となる。徐福が船出したとみられる2209年前頃にやや近い数字となる。 |
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呪術師 徐福 徐福村には、徐福の屋敷跡と伝えられている畑地があり、秦・漢時代の瓦や石碑が出土している。出土物の中で注目されるのは、徐福が使っていたという大きな石の薬研である。 近くには免税地とされた薬草畑があった事も文献で確認されている。徐福村には徐福は呪術者で医療の神であったと伝わっている。 更に一際目を引く出土物に鯨の骨の錨がある。これは年代測定によって二千年以上も前の骨とされた。他にも船大工道具や石の錨も出土している。山東半島は海に面していて、古代から航海術が発達していたという。徐福村の近くには貯木場があり、その跡地からは炭化測定で二千年以上も前の木材と判定された。同地には徐福の造船所だったとの伝承がある。 実際に付近には今でも小さな造船所が存在している。徐福村の地理条件や出土物とその年代、伝承などの状況は、徐福のプロフイールに寄り添っていて否定的な要素はないといえる。 史記によると始皇帝は、徐福に三千人の若い男女と五穀の種子と百人の職人をつけて東海へ派遣したとしている。しかし徐福は平原広沢を得て、そこの王となり中国へは帰ってこなかった。この為、徐福は当初から亡命を目的としていたという説が有力性を帯びてきている。 一方では始皇帝が東海の守りとした、古い血統を持つ徐福を追放したなどと反論も出されている。
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吉野ヶ里遺跡と徐福伝説 |
歴史の交差点今昔余話