御荷鉾山のつむじ風

                              神サマ常次郎

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 里の風
   小柏氏


小柏氏系譜と
戦国武将


高天原の侵略

あまのじゃくの
羅針盤


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  コンテンツ

 

 破戒僧と新撰組

第一章 馬庭念流と新撰組              

道祖神峠の襲撃                   

一撃必勝の馬庭念流                 

   新撰組・三条大橋の死闘               

  一刀流の剣客 南関蔵               

第二章 破戒僧・蹂躙

    身延山道場                    

    深夜の決闘                    

    武道百般の気楽流                 

    祈祷師 常次郎                  

    前橋監獄の剣士                  

 

御荷鉾山のつむじ風 神サマ常次郎

  第一章 妙義山麓 群馬事件

   お召し列車襲撃計画                

   妙義山麓の暴発                  

   第二章 常次郎と秩父事件 

   秩父事件の概要  

  困民軍の結成                   

   困民軍死出の旅へ                 

   常次郎と秩父事件

   密偵の殺害事件                  

親分 田代栄助                  

   困民軍の蜂起                   

   上州勢の動員                    

   本陣は椋神社                   

   打ち壊しと放火                  

   軍隊の出動                    

 

田代栄助の逃亡                   

   栄助と常次郎の相克                 

 第三章 常次郎が果たした役割

   小柏ダイの活躍                   

   官憲への挑戦                    

   ダイのプロフィール                 

   日野谷の盟主小柏家                

   信州の銃撃戦                    

   常次郎が果たした役割               

   神サマ 常次郎                  

   気楽流柔術と栗崎神道                

 第四章 常次郎 北海道から樺太へ

常次郎の新聞報道記事               

  常次郎は新撰組のOB?               

常次郎の家族構成                  

 ハルの数奇な人生                  

  常次郎の生前戒名                  

  常次郎の義兄弟・日静上人             

  常次郎の出生の秘密                 

  第五章 豪傑・竹松 伝説   

    秘境の橋にヒト柱                                    

  原生林の死闘                   

  血の道返せ伊勢の大神宮               

 

   破戒僧と新撰組

第一章 馬庭念流と新撰組  

道祖神峠の襲撃

 

 人の肩幅ほどしかない細い峠道である。闇の中に微かな風切音がした。

「ぶんっ」

何かが常次郎に向かって飛んできた。常次郎は危険を察知して左横へ半間余も飛んだ。だが避けるのが寸刻遅かった。回転しながら唸りを挙げて飛来してきた手裏剣は、右肩の肉をそぎ落として背後に落ちた。

常次郎が物体が飛んできたと思われる方向を、見やったとき第二の手裏剣が迫っていた。常次郎は咄嗟にかがみこんだ。飛んできた手裏剣は空気を切り裂いて後方の雑木林に吸い込まれていった。常次郎は前のめりの体勢から曲者めがけて駆け出した。

屈みこんだ時に、相手の影絵のようなぼんやりとした姿を目の隅に捉えていた。常次郎が二間ほど走った時、第三の手裏剣が襲ってきた。横っ飛びにこれを躱した常次郎は手に持っていた砂混じりの小石を投げつけた。

 

屈みこんだ時に手探りで咄嗟に掴んだ小石だった。曲者は飛んできた幾つかの小石を手で払って防ごうとした。顔の近くに飛んできた小石は払い落としたものの、砂粒の一つが目の中に入った。襲撃者は目をつぶりながらも横の笹薮に飛び込み、常次郎の襲撃に備えようとした。自ら倒れこもうとしているところに、常次郎の右足刀の力が加わった。

襲撃者の近くまで来た常次郎は、右足で地面をけって飛び上がりその右足を水平に伸ばし右の外側面を刀状にして、襲撃者の首にめり込ませた。倒れた襲撃者は第二の攻撃を防ぐために、腰の刀を抜き放って横なぎにした。

体を離した常次郎は、横なぎに払って右に流れた襲撃者の右腕を捕まえ、背中を向け腰を入れると襲撃者を担ぎ上げ、背中を支点として相手を一回転させ投げつけた。相手の右手首を離さないままで、後頭部を地面に打ち付けるように低く投げた。地面に落とされた襲撃者はなおも右足で常次郎の顔面を狙って蹴りつけてきた。

常次郎はさっと背後に回り首の後ろから右手をまわし、襲撃者の顎の下に潜り込ませ、前に回した自分の左手の肘を掴んだ。同時に左手は襲撃者の後頭部に回し掌で頭を抑えつけた。襲撃者の首は常次郎の腕の中に完全に取り込まれ、挟み込まれたままぎりぎりと絞り上げられた。しきりにもがいていた襲撃者は間もなくぐったりとなって意識を失った。

やがて息を吹き返した曲者は大河原峰之介と名乗った。その言葉の訛りからすぐに同郷の者である事が分かった。

「お主、信州の者だな」

「まあな、武洲に野暮用があって更科から出て来たけど、バレたって事はあんたも信州か」

「俺の生まれた家は水内郡にあったけどな、すっかりご無沙汰さ、それより何故俺を襲った」

「いや全く申し訳ない、中里村で路銀をなくしちまって幾ら探しても見つからないずら」

「そうか、今度だけは同郷のよしみで許してやるとするか」

 

峰之介は常次郎に投げられた時にろっ骨を痛めていた。地面に突き出ていた石にあたってひびが入ったらしく、左手を動かすと激痛が走った。このまま村里まで降りて行くのは無理、と判断した常次郎は共に野宿する事に決めて火を起こした。

常次郎は持っていたふかし芋の一つを峰之介に差し出した。案の定、峰之介は昨日は黄色くなり始めたばかりの柿を二つ食べたきりで腹をすかしていた。

負けを認めた峰之助は謝って、お詫びに持っている刀を進上すると言った。常次郎よりは幾つか若く見え素直な瞳をしていた。

「大事な刀を手放していいのか?」常次郎が聞くと。

峰之介は「へへっ俺の本当の獲物はこっちだからさぁ」と言って、杉の木の横に立てかけてあった槍を指差した。

それは細くて一見したところ棒のようにしか見えなかった。

「ずいぶんと短い槍だが、使い勝手が良いのかな」

「短い方が接近戦にも強いしな、棒の代わりにも刀の代わりにもなるずらぁ」

「なるほど、持ってみてもいいか」

常次郎がその槍を持ってみると、ずっしりと重量感が伝わってきた。右手でこじりの辺りを持って、上から下へと振ってみた。びゅっと鋭い風切音が闇の中に走った。

「そうか、中に鉄の棒を仕込んであるのか」

「まあね、細い奴だけどそれで刀も受け止められるってもんさ」

 

 峰之助は信州松代藩の下級武士の二男であり、武術は無双直伝英信流をかじり後に自分で工夫を加えたという。無双直伝英信流は主として居合術であるが棒術も指導していた。棒対棒や棒対刀の型があるほか、二棒を使う場合や三棒を使う技があるという。

峰之介は腫れ上がっている左手を見ながら、ぼそっと呟いた。

「四日の間に二回も負けるなんてな、全くなんてこった」

峰之介は左手の中指と薬指を骨折していた。常次郎がそれとなく水を向けた。

「ほおーっ他でも悪さをしてきたのか」

自分の腕に過剰なまでの自信をもっていた峰之介は、つい野試合に出てしまったのだと言う。

 馬庭念流の一派が出稽古に来ている現場に出くわし、つい挑発してしまったのだ。

 

 

 一撃必勝の馬庭念流

 

峰之介が例の短槍をぶんぶん振り回すと、代稽古を任されている樋口陽太郎がその獲物に興味を示し相手を務めてくれた。二人は二間の間合いを取って互いに身構えた。峰之介が短真槍を取ったのに対して、陽太郎は木刀を手に取った。

木刀であっても寸止めに失敗すれば、或いは寸止めをしなければ真剣となんら変わらぬ効果をもたらすこと必定である。

陽太郎は静かにゆったりと青眼の構えをとり、切っ先に峰之介の喉をとらえていた。これに対し峰之介の息は少し高いものになり、短槍を右後ろに回して構えた。

槍の長さを相手に見切らせないいつもの構えであるが、左肩がやや前に出るためにそこに隙があるようにも見える。この型からの攻撃は右下段から左上に斜めに斬り上げる一撃に限られる。峰之介の槍は刃の部分は通常の真槍の半分の長さに作られていた。つまりさす動作よりも斬る動作の方に重点が置かれている。

穂先と逆のこじりの部分にも工夫が施され、一寸半ほどの切っ先がつけられていた。即ち前でも後ろでもつける短槍になっている。峰之介はじりじりと間合いを詰めて行った。陽太郎の方は微動もしない。ほんの僅かに切っ先を挙げただけだった。長い時間が過ぎていったが陽太郎の表情は少しも変わらなかった。

 

峰之介の腕が何度かピクリと動いては止まった。次の瞬間、峰之介の目がきらりと光るのを陽太郎は見逃さなかった。唸りをあげて斬り上げてきた短槍は上から振り下ろされた木刀にしたたかに叩かれた。だが峰之介の手のひらは上を向いていたために短槍を落とすことはなかった。かえってその反動を利用して、短槍を下に引いて峰之介は逆袈裟懸けに斬りつけた。

だが、これも一瞬早く陽太郎の木刀が迎え撃って更に峰之介の胸板に突き入れられた。峰之介は危うく突きを受けそうになって半間近く後ろへ飛びすさった。陽太郎の木刀が大上段に挙げられた。次いで峰之介は下段から陽太郎の着物すれすれに斬り上げたが、陽太郎の木刀はピクリとも動かなかった。

峰之介の短槍は一回転して片手打ちに陽太郎の左肩を狙って振り下ろされた。陽太郎がこれを木刀で受けると、峰之介は短槍を頭上でぶんぶんと振り回し始めた。左へ回る時は遅く体の右側を通る時は早く、打ち下ろすタイミングを計っていた。

陽太郎は小さな呼吸を繰り返すだけで一言も声を発することはなかった。峰之介は短槍を右手だけで回し、そっと左手を懐に潜らせた。

「ぃやぁっ」

峰之介は気合を発するとともに、左手で懐の刃帯から抜き取った手裏剣を陽太郎の胸元目がけて投げつけた。陽太郎は少しだけ木刀を右に動かし手裏剣をはじいた。

間髪を入れず峰之介は渾身の力を込めて、短槍を陽太郎の右肩に袈裟懸けに叩き付けた。峰之介の太刀筋をほぼ見切っていた陽太郎は、二寸ほど体を後ろにそらし短槍を避けた。

峰之介は空を切った短槍を小さく回転させて、前に出ていた陽太郎の左足の付け根を狙って突き刺した。初めて短槍を刀ではなく、槍として繰り出してきた攻撃に陽太郎は一瞬ひるんだ。刀で受けるのがほんの数秒遅れた。

「ううっ」

陽太郎は足首に熱い痺れが走ったのを覚えた。

だが短槍を左へ弾いた余勢をかってひるがえした木刀は峰之介の額に当っていた。体制を崩された峰之介は、左手を額に載せて陽太郎の木刀を受けた。陽太郎は木刀を寸止めにした積りだったが、足首の肉を半寸ほど削がれた事でやや冷静さを失った。

その為、木刀は峰之介の手指二本をつぶしていた。

 

 平らな草地を見つけて寝転んだ峰之助は、ぽつりぽつりと話しだした。

 「ひとつ年上の兄が念流をやっていたんでね、ついお手並みを見たくなって口と手を出してしまったという訳でがんす」

「そうか、念流といえばこの辺では馬庭念流の門弟が多いがのう」

「念流といっても兄がやっていたのは、馬庭念流の分派の奥山念流ですがね、実を言うとその兄が何を考えてるのか、脱藩してしまったもので様子を見に行くところですよ」

「脱藩といえば余程の事があっての事だろう、今更行っても仕方あるまいと思うがのう」

「児玉(武洲)の親が嘆いているもんでね」

 峰之助の兄は元高崎藩士で、その名を沼尻小文吾と言い年齢は常次郎と同じという。

小文吾は後に新撰組に加わり、京都で常次郎と会う事になった人物である。小文吾が学んでいた奥山念流の関口光房は、新徴組の剣術指南役を務めている。念流の始祖は相馬四郎義元で、七世の友松清三氏宗が上州に来た折に、樋口定次が八世として印可書を授けられた。以降現在の25世・樋口定仁に至るまで、樋口家において継承されている。

樋口家の初代の次郎兼光は信州伊那郡の樋口村に住み、木曽義仲の四天王の筆頭に数えられていた。くしくも常次郎の出生の地も伊那であり、偶然であろうが伊那には、常次郎が養子に入った箕輪と同名の箕輪町の名前が残っている。

樋口家は後に上州に移り、関東管領の上杉顕定から百騎を預かる身分となった。多胡郡馬庭村の念流八世の、定次の道場は繁盛しその名声は高まっていた。そんなおり、高崎城下で天道流の看板を掲げる道場主・村上天流は日頃、馬庭念流を目の上のタンコブのように思っていた。

 

天流は馬庭念流を「田舎剣法・百姓剣術」と誹謗中傷したり、弟子たちにも各所で悪口を言いふらさせるなど、念流に対して事あるごとに挑発を繰り返した。定次は一切相手にしなかったが、腰抜けとまで揶揄された門人たちは憤り、破門を乞い天流の道場に斬り込む計画を練っていた。放っておけなくなった定次は天流との試合を承諾した。

試合に先立ち定次は山名の八幡宮に、三日三晩参籠し身を清め精神を研ぎ澄ました。

すると、北向き不動尊(大沢不動尊)の神木びわの木の枝で、木刀を作れとの啓示を得られたのである。早速木刀を作った定次は八幡宮に戻り、静かに祈りを捧げた。そして神前の大石に向かい合った。

定次は大石に相対し、木刀を大上段にかざしつつ心を無にして目を閉じた。長い時間が流れたようだった。その時、定次の脳裏に大石の切れ目が映った。

「ええーいっ」

裂帛の気合と共に振り下ろされた、定次の木刀は折れもせず見事に大石の中央部分に食い込んでいた。この大石は今もなお、八幡宮の鳥居前に鎮座している。

 

 

試合会場の聖石川原には大勢の見物人が詰め掛けていた。

静かに天流の前に立った定次は、何の気負いもなく木刀を青眼に構えた。相手の天流の剣技の程は自ずから知れてきた。馬庭念流は防御を基本として、攻撃に出れば一撃で勝負を決する威力を秘めている。先に仕掛けた天流の木刀が空を斬ったと思ったとき。

その先端に仕込んでいた剣が飛び出て、定次の袖を切り裂いた。定次は一瞬はっとしたものの、自然に体が反応し天流の脳天に向けて神木の木刀が振り下ろされた。天流は何とか木刀で受けたものの、定次の木刀は天流の木刀の上から脳天にめり込んでいた。天流の頭は十字型に撃ち割られていた。

時は移り、念流11世の樋口定勝は家光が催す寛永御前試合に招請された。この上覧試合には柳生市之進、関口弥太郎、荒木又右衛門なども出場している。この時、定勝は中条五兵衛と試合して勝利を得ている。忠臣蔵でつとに知られている、堀部(中山)安兵衛も馬庭を訪れて念流に入門した。安兵衛はこの後、これも有名な高田馬場での敵討ちを行っている。

 

北辰一刀流の千葉周作はその若い頃に、念流14世の樋口定ロから印可を受けた本間仙五郎と試合して負けていた。周作が上州に進出した時に、その門下生が伊香保神社に自流の額を献納しようとする計画が持ち上がった。

馬庭念流側では仙五郎の門下生を始として、数百人がこの献額を阻止すべく伊香保神社に集まった。この有名な事件は、大乱闘寸前に岩鼻代官の調停により献額が中止されて事なきを得た。

この頃から馬庭念流は江戸や横浜にも進出して道場を構えた。道場には大名から旗本、町人まで広く門人が集った。老中松平定信や水戸斉昭にも招請されて、日頃鍛錬した技を披露するなどのこともあった。

 

 

 

 新撰組・三条大橋の死闘

 

慶応元年四月、新撰組は江戸に土方歳三・伊東甲子太郎・斉藤一・藤堂平助などの幹部を派遣して、大々的に隊士の募集を行った。噂を聞きつけた常次郎はこの募集に応じて土方歳三と共に京都へ上った。

この際には五十人以上の隊士希望者が京都へ帯同したと言われる。常次郎は入隊に際し後事のことも勘案して、田中梅次郎と名乗ったが信州出身のため時に信(晋)兵衛と呼ばれることがあった。

新撰組隊士の一日はまず朝稽古から始まる。幹部の多くは顔を出さなかったが、剣術・柔術の各指南役を中心に稽古が行われていた。稽古の後、朝食となりその日の仕事が割り振られた。主な仕事は市中の巡回である。

 

非番の者は囲碁や将棋をしたり月代を剃ったりして過ごした。他に近所の子供と遊んだり読み書きを教える者もあり、外出も自由だったので女の所へ出掛ける者もあった。

京都では毎日のように斬り合いがあり、そのたびになにがしかの血が流れるのが常であった。その為少し前までは「死に番」も決められていた。過激派志士が集まっている旅籠などに一番先に斬りこんでゆく役目である。

常次郎が加入した年、及びその翌年は台風の目の中にいるようで、比較的静かな日々が続いていた。近藤勇・伊東甲子太郎・武田観柳斎の広島出張、伊東甲子太郎・篠原泰之進の名古屋出張などが相次いでいた事も理由の一つであろう。

 

だが慶応二年には大きな事件が起こった。禁門の変の後、幕府は京都市中の其処ここに制札を建てた。制札とは通行する庶民への告知板の事である。

書かれた内容は長州の暴挙を非難して、乱は収まったので安心するようにとの趣旨で結ばれていた。長州の散って隠れた残党について、知り得た時には密告するようにとも書かれていた。この制札は悪戯される事が度々であった。

東町奉行所、西町奉行所とも何本もの制札を建てたが、いつの間にか制札の文章を墨で消されたり、引っこ抜かれたりするので示しがつかず困り果てていた。そこで新撰組に制札の監視と犯人の逮捕の依頼がなされる事になった。

断ることも出来ずに、土方歳三が交代で監視をするようにと指示を出した。長州人には恨みをかっている新選組の事とて、使い手の原田左之助・永倉新八・大石鍬次郎・池田小太郎・島田魁などを中心として監視にあたった。

新選組は主として三条大橋の袂に建てられた制札の監視にあたった。夜通しの監視を続けて四日目の夜が来た。夜が更けた頃、酒を飲んだ帰りと思われる十人近くの侍がゆらゆらと橋を渡ってきた。この時、新撰組は橋のたもとに五人、橋の北側に四人、袂の旅籠にも四人の隊士が待機し監視にあたっていた。

 

梅次郎は原田左之助、新井忠雄、中西昇と共に制札の裏の柳の木の後ろに隠れ潜んでいた。

中西昇は武洲の出身で梅次郎よりも一つ年上であった。梅次郎らがこれは怪しい奴ばらと注意して見ていると、一団の内から三人の侍が前に出てきて制札に手をかけ、引き倒そうと力を込めた。

このとき、すかさず原田左之助らは前に躍り出て立ち塞がった。

原田左之助は腹に響くような太い声で怒鳴った。

「こらっ、制札泥棒はお前らだな」

前に出ていた三人は制札から手を放し、さっと身構えた。

「なにっ、し新撰組か?」

瞬間声を出した男の口からは酒臭い息が流れ出た。

「丁度良いわっ、先般斬られた仲間の敵討ちをしてやるっ」

言いながら抜刀したのは土佐藩士の松島和助であった。

原田左之助に斬りつけた和助の第一刀が空を斬ったとき、北側で監視していた隊士も駆けつけ、旅籠から見張っていた隊士も勇んで駆けつけてきた。

「逃げろっ」

集団の内の中央に居た澤田甚兵衛が言い放つ間もなく、八人の土佐藩士の集団は囲まれつつある隙間を狙ってばらばらっと逃げ出した。多くの者は橋を渡ってもと来た方向へ逃げたが、そこに橋の向こう側を固めていた島田魁の一隊が迫って来て、双方ともに抜刀してすさまじい斬り合いが始まった。

 

何人かは挟み撃ちにされるのを嫌って、欄干の低い所から河原へ飛び降りた。これを追ったのが原田左之助と服部武雄、茨木司、梅次郎である。追いつかれた大柄の侍は背中に斬りつけられては堪らぬと振り返りざまに、原田左之助の左肩へ浅く斬りつけた。

これをひょいとのけぞって躱した原田左之助は、走ってきた勢いのまま相手の胸を狙って大刀をまっすぐ突出した。相手はこれを左へ一尺ほど飛んで、更に右へ体を開いて躱すとともに下段から袈裟に斬り上げてきた。

原田左之助がこの太刀を受けて鍔迫り合いをしている間に、服部と梅次郎が追いついて来て加勢した。だが三人でかかったらすぐに片が付くというものではなかった。相手は大兵の侍であり、その名を宮川助五郎という剛の者であったのだ。

 

一緒に橋を飛び下りた三人程の侍は、走り去って既に闇の中に消えていた。茨木も追いつき四人対一人の死闘となった。現場は小石が多く、凸凹としている上に葦や段差もあり暗くもあり、この上もなく足場の悪い場所だった。宮川は時折くるっと回り背中を長くさらすこともなかった。

回っている時に斬りつけると味方を傷つける恐れもあった。宮川は劣勢の中によく戦っていた。剣術を修行した者は窮地に立つほど、一命を賭してその力を十分に発揮する。宮川も斬り傷を数か所に負ったが、新撰組の四名にもそれぞれ手傷を負わせた。

梅次郎も果敢に斬り結び数合刃を合わせたが、飛び下がった折に石にぶつかり足首を折ってしまった。ぶつっと音がしてアキレス腱が切れ、歩く事もままならない程だった。

宮川は新撰組の猛者四人を相手に長いこと斬り結んでいたが、やがて息も切れて原田左之助の刀を右太ももに受け戦闘能力を失った。この頃には三条小橋でも新撰組の伊東鉄五郎ら五名と、数名の曲者との間で斬り合いが始まり新撰組は苦戦していた。

密偵として新撰組が使っていた伊之吉が走って来て、この状況を原田左之助に知らせた。左之助は数名の隊士を後処理に残し、残りの隊士を連れて助太刀に駆けつけそこで土佐藩士の藤崎吉五郎らを惨殺したのであった。

 

この死闘の際に、殿(しんがり)を務め奮戦した安藤鎌治を始めとして、多くの土佐藩士は長剣を使用していた。土佐藩士はこれまでにも新撰組とは少なくとも二度にわたって斬り合いを起こしていた。制札事件の乱闘では確定的に敗色が濃く、長剣は重たくて振り回す速度が遅いことが実証された形になり、以降長剣の人気は薄れていった。

ちなみに新選組内で三番手或いは四番手の使い手、斉藤一は隊内でも最も短い部類に入る

ほどの短い刀を使っていた。新選組はこの事件では五人程の土佐藩士を取り逃がしてしまったものの、京都守護職松平容保から個々に報奨金を支給された。

梅次郎は町医者の家に立ち寄り、応急手当を受けて同期入隊の服部が紹介してくれた米問屋の家で静養する事になった。これより先、二か月ほど前には将軍家茂が大阪城にて死去し幕閣は騒然としていた。

 

幕府の屋台骨がなくなった事による動揺は新撰組にも伝播していった。さらに新撰組を大きくゆすぶる事態が深く静かに進行していた。伊東甲子太郎一派に離脱の動きがあり、これを察知した土方歳三ら幹部は対策の立案と情報収集・内貞などに躍起となっていた。こうした諸々の状況から、梅次郎は離脱の潮時が来たと判断したのだった。

この当時の新撰組は膨張を重ね二百人ほどになっていた為、ややもすると目の行き届かない大組織という態になっていた。新選組に大いに貢献した山波敬介に切腹させた事件以来脱走する者が何人もいたのである。

新撰組にはその内情・動静を探るため、薩摩を始めとして土佐・長州のスパイが何人も入り込んでいた。京阪や江戸で大々的に隊士を募集していた新選組に、身分を偽って入り込むのは容易い事だった。こうしたスパイは自分の身元がばれそうになると、いち早く隊を脱走し帰藩・帰国した。

梅次郎の旧友日静の弟が出家して比叡山の僧房に居た。梅次郎はこの弟を頼って比叡山に入った。梅次郎が行方不明と知った新撰組は当然追っ手を向けはしたが、徒党を組んで比叡山への入域などは叶う筈もなかった。

だが梅次郎は用心して毎夜の寝所を別の僧房へと次々と変えていた。昼の内に手配を終えて夜になると新しい僧房へ入り朝まで眠った。日蓮宗の深妙寺で修行した事のある梅次郎は寺僧の生活には明るかった。一か月近くも比叡山で過ごした梅次郎は路銀を借用して船便で関東へ帰った。

 

 

 一刀流の剣客 南関蔵

 

小梨峠は全山がジージー蝉と油蝉の大合唱に覆われていた。額や背首から流れる汗は拭いても拭いても、とめどなく流れ続けた。それでも常次郎は足を止めることなく、常に同じ速さを保って足を運んでいた。登り道では状態を前傾状態にして、膝から先に足を繰り出し同じリズムで登る。

歩く際の足幅は小さいものの休みが極端に少ないために、いつも同じ所要時間で目的地に着く事が出来た。素人が山を下る場合には、登る時以上に足にダメージを受ける。がくんがくんと、膝に衝撃が来るので長時間歩くと膝は疲労で、がくがくと笑ってしまうのである。常次郎の歩行術は山を下る際には、必ず踵から足を下ろしていく。

足を下ろす場所も直前に確認して見つけておく。やはり急がずに同じリズムで降りて行く。

後ろについて来ている筈の、気楽流天引(村)道場の十数人の仲間は遥か後方に引き離された儘になっている。常次郎は仲間が追いついて来るまで峠を東西に行ったり来たりして、杉やヒノキの生育状況を見て歩いた。

ところがこの年は蜂が大量発生していた。スズメバチは少ないものの、至る所に足長蜂が群れを成して飛んでいた。ある場所では虫柱が立ったようになり、侵入者の常次郎めがけて襲って来るのだった。これは一種の脅威・恐怖以外の何物でもない。

同時に三匹ほどに額などを刺されたりすると、腫れ上がって目が塞がってしまい全く見えなくなる事もある。常次郎は腰手拭いを引き抜き、右手でぶんぶんと振り回しながらそっと後退した。手拭いは幸いにも汗を吸って濡れていた為に却って役にたった。蜂は急に動くとその動体を追いかけてくる。

 

この日行われる気楽流柔術の、道場間の試合の会場は上日野村の養浩院であった。上日野村には神社仏閣や集会所、民家の広間などに幾つもの道場・稽古場があるほど気楽流が盛んに学ばれていた。試合は各道場から十人程が出て、剣、槍、棒術、薙刀、柔術などに分かれて行うのが慣例になっていた。

天引道場の試合相手は三波川道場に組まれた。各試合は順調に消化され、やがて常次郎の出番がやってきた。常次郎は袋竹刀を握ったが何か様子がおかしい。試合の相手方が何やら話していて出てこないのだ。

仕方なく常次郎は竹刀の感触を確かめるように軽い素振りを始めた。気楽流の刀剣での試合は時に木刀で行われる事もあったが、普段は竹刀に鹿皮を被せた物を用いている。これだけだとやや軽すぎる嫌いがあるので、試合の時などは一刻ほど前に袋竹刀を水につけておく。

こうすると生乾きの竹刀は適度な重さになり、やや実戦的なものになる。

 

のそっと試合の相手が出てきた。戦意は全く感じられない。家の玄関から散歩にでも出るような雰囲気であった。

「南関蔵です」とその痩せた相手は名乗った。

竹刀を合わせ互いに一間半ほどの間合いを取り試合が始まった。

常次郎の得意手は牽制で小手を撃ちそのまま突きを入れる、これを躱されると相手の竹刀を左に強くはねのけて置いて、一回転させた竹刀で相手の左横面を撃つというものである。関蔵はぴたりと青眼に構えたまま全く動かなかった。竹刀の試合では打ち込むタイミングを計るために剣先を上下にぴくぴくと動かす者が多い。

常次郎が、間合いを詰めると関蔵の剣先が僅かに上がったが、それ以外の動きは全くなかった。常次郎は打ち込むために間合いを詰めた瞬間に、関蔵の竹刀の剣先が自分の喉にまっすぐ突き刺さって来るように感じられた。

前に出られない常次郎は左右に動いて関蔵を牽制した。そのたびに関蔵は僅かに体の角度を変えるだけだった。こうしていても仕方ない、常次郎はじれてきた。この態勢は明らかに自分が劣勢である事が分っていた。

そして常次郎の目がきらりと光ったが、これは攻撃を仕掛けるという合図にしかならなかった。関蔵の右小手を狙って竹刀を振りおろした。関蔵はこれを竹刀で受けるか、振り上げて避けるかする筈だった。だが次の瞬間全く意外な事が起こった。常次郎の竹刀の剣先は、関蔵の小手に張り付いて動かなくなってしまったのである。狼狽した常次郎は慌てて竹刀を引き戻そうとしたがびくともしない。

よく見ると常次郎の竹刀は関蔵の右手に握られているではないか。関蔵は避ける事も受け止める事もしないで、打ち込んできた常次郎の竹刀を右掌で受け止め、そのまま自分の竹刀と共に両手の中に握り込んでしまったのだった。

 

常次郎の荒くなった呼吸だけが道場内に流れた。格の違いが明らかになったが、常次郎はまだ引き下がらなかった。

「もう一本お願いします」

常次郎は関蔵の竹刀を左に叩いて、円運動に移りもう一度関蔵の右小手を狙い打った。浅い間合いのままで、打ち込める場所は小手だけであったのだ。こんどは関蔵は自らの小手を上にあげて空を切らせ、逆にぽんと軽く常次郎の右小手を撃った。

常次郎は構わずに次の攻撃に移った。叶わぬまでもと関蔵の左肩に袈裟懸けを見舞った。しかしその時、関蔵の竹刀が上段から降ってきた。

正面から常次郎の竹刀を迎え撃ったのである。合掌撃ちという技のようだった。すさまじい衝撃を受けた常次郎は、反動で上体から後ろに倒れそうになった。一間ほども後じさりを余儀なくされた常次郎は、道場の羽目板に背中がぶつかり漸く転倒を免れた。

全ての試合が終わった後で常次郎は関蔵の所に挨拶に行った。

「いやいや先ほどはご無礼しました」

「なんのなんの、いい汗を流せました」

「南さんとは初めてのようですね、天引道場の小柏常次郎といいます」

「ああ私は児玉町でね一刀流のヤットウなんかをやってますよ」

 

「そうですか、私は本業が農家でしてね、農閑期には屋根板つくりなんかもやったりしているせいか、なかなか上達しないですね」

「いやいやそんな事はないですよ、実は天引から来た人で筋の良い人が居ると聞いたもんですから、無理を言って私に代わって貰ったという次第ですよ」

「そうですか、一刀流には色々流派が多いと聞きますが何流の稽古をしているのですか」

「私がやっているのは神武一刀流といって、上州から武州にかけての辺りでは盛んですね」

「神武一刀流、門人も多いのですか?」

「いやあ熱心なのはそれほどは多くなくてね、私は今日は柔術の見物がてら来たというわけですよ」

 

「差し支えなければお聞かせ願いたいのですが、神武一刀流と言うのはどのようなことを主眼としているのでしょう?」

「そうですね、一言でいえば一撃必殺、相手が斬りかかるのを待ってその刀を真っ向から受けて、そのまま相手の体に斬りつけると言うものですね。つまり相手の刀を払いのけた初太刀のままで、相手を倒すのがいわば極意のようなものですか」

「すると立木に打ち込み稽古を続け、しまいには立木を枯らせ倒してしまうと言われる薩摩示現流にも一脈通じるものがありますね」

「そう言えるかと思います、確かに示現流の初太刀は恐ろしいと聞きますね」

  関蔵と常次郎は、後に起こる秩父事件に共に加担する事になった。

第二章 破戒僧・蹂躙

 身延山道場

 

 ミミズクが鳴いている。全てが寝静まっている身延山、深更を過ぎた頃だがいまだ夜明けがやってくる雰囲気は更々ない。クロイタドリがやかましくギヨッギヨッと鳴き続けている。常次郎は一睡もできずに闇の中をじっと凝視したままである。朝のお勤めが目白押しにやってくる時間が迫っているものの、起き上がる事は出来なかった。

 尻の辺りからずんとした鈍い痛みが背骨に沿って頭の中に突き上げてくる。昨夜、ようやく一日の日課を終えて常次郎が床に就いた時の事だった。くたくたに疲れていた常次郎はすぐに眠気に襲われた。

 半刻も経ったころ、常次郎は怖い夢を見た。真上から死神に抑えつけられていた。死神は今にも喉首に噛みつきそうになっていた。

 

「うわっ」

常次郎は体を左右に捩じって噛まれるのを避けようとした。だが、がっちりと抑えつけられていて肩も腕も動かない。

「これが金縛りか」

と思ってみても死神の恐怖は去ってはくれない。金縛りから逃れようと大声を出してみた。必死に法華経も唱えてみた。しかし一向に死神の金縛りは解けなかった。そして次の瞬間常次郎は目が覚めた。

金縛りは夢ではなく現実だった。先輩の僧侶・日信が大きな目をむいて常次郎の上に乗っかり、更に仲間の修行僧たちが両脇から身動きできないよう抑えつけていた。

「何するんだっ」

初めて常次郎の声が現実の世界に飛び出した。

「ふんっ、これは身延のお山の洗礼よ」

日信が言った。仲間の僧二人は小さく笑った。

日信は常次郎を抑えながら脇に滑り降りた。

「ひっくりかえせ」

常次郎は三人がかりであっという間にうつ伏せにさせられた。必死の抵抗も叶わなかった。尻を剥かれて暫く目でなぶられたあと、肛門は大量の唾でかき回された。常次郎は必死の力を振り絞って逃げようとした。

だが仲間の修行僧・日友が前に回って、常次郎の首の下に右手を差し込み締め上げてきた。もう一人は常次郎の背中に腹ばいに乗っかって抑えつけてきた。日友は常次郎の意識が遠のくと知れると、締める手を緩め頭頂部に膝蹴りをくらわせてくる。

 

やがて常次郎の臀部に強烈な痛みが走った。火箸で貫かれたような、電気が走ったような感覚である。常次郎はのけぞりその全身は痙攣した。

「交代するぜっ」

闇の中に日信の声が聞こえた。

「おらっ待ってろよ」

日友が応じた。常次郎は暴れながら怒鳴った。

「お前らみんな殺してやるぞっ」

「物騒なこと言うな、みんなが通る修行の関門じゃないか」

日信が冷たく言い放った。

三人の男に凌辱された臀部を中心に、腰まで痛みが広がり立ち上がる事もままならなかった。粘膜は破れ幾つかの静脈から染み出るように出血が続いた。顔は火のようにほてり、悔しさと恥ずかしさで頭の中はガンガンと鐘がなっているようだった。

「このやろうっ」

「このやろうっ」

「いつか殺してやるぞっ覚えてろよっ」

常次郎はうわ言のように吠え続けた。男たちの体液は長い時間をかけて常次郎の中から染み出していく。その感触がある度に常次郎は、全身の毛が逆立つような鳥肌が立つような思いにとらわれた。

深妙寺の本山道場は久遠寺の境内下の参道脇にあった。道場は薄明の訪れる頃、勤行と共にいつもとなんら変わらぬ日課を粛々と消化していった。

 深妙寺は信州伊那にある日蓮宗の寺である。常次郎の父は国学者であったが、排斥事件のあおりを受けて信州に避難していた。収入の道を断たれた父が、常次郎を寺に預けた為に必然的に出家する事になった。

 常次郎が少年時代を送った安政年間には、マグニチュード7〜8クラスの大地震が相次いで起こった。即ち安政江戸地震・安政東海地震・安政南海地震と呼ばれるものがそれである。この地震の連鎖により凡そ七千人の命が奪われている。

人口密度が当時とは比べ物にならない程に、増加した現代に置き換えれば4倍〜5倍もの被害になるだろうか。世情はまだこの大地震から立ち直ってはいなかった。

 

常次郎は深妙寺では日得という名前で呼ばれていた。寺の一日は夜明け前から始まる。板木を叩く音で起こされるとまず寝ていた布団を片付ける。そして便所に行き用を足し寺内外の清掃をする。清掃が終わると一堂に会して読経が始まる。

読経が終わると朝食となるが、一汁一菜で食べ終えると茶碗や食椀は綺麗にして重ね、その日の膳係に返す。昼は写経、講座、事務、托鉢などがあり就寝は九時半ころとなる。

日得はあの夜の凌辱事件があった後も山を下りる事はしなかった。行く所がなかったこともあるが復讐心に燃えていた。日信に目に物見せてくれるのは、いつどのような方法を使うか日々考えていた。

「棒で横っ面を思い切り叩いてやろうか」

「着ているものに油をかけて火をつけてやろうか」

「崖から突き落としてやろうか」

「気絶したら木に吊るしてやろうか」

色んな考えが頭の中で堂々巡りを繰り返していた。日信の力は人並み外れて強いものであることは知っていた。まともにやりあったらとても敵わない。日得は自分の腕力を鍛えようと決心した。参拝者が置いて行った金剛杖が庫裏にあった。日得は一間ほどの長さの金剛杖を中ほどで切って半間(三尺)ほどの長さにした。

 

この半間杖を毎日千回素振りする事を自らに課した。大上段に振りかぶって臍の位置まで水平に振り下ろす。これを日課が終わった後の、僅かに使える自分の時間に行ったのだった。最初の日は三百回ほどしか振ることが出来なかった。

次の日は四百回に伸ばした。だが、次の日には両腕が腫れてきて筋肉痛になった。三日目には五百回振り、一日ごとに百回ずつ振る回数を伸ばしていった。やがて十日ほど振り続けると千回振れるようになり、筋肉痛も出なくなっていた。

 日得は片手振りも加えようと思いたった。半間の杖を右手に持ち頭上でくるりと一回転させて右上から左下に袈裟に振った。左手も同じように振る練習を行った。

 

 

 深夜の決闘

 

この頃になって後輩僧の「日静」が伊奈の末寺から送られてきた。日静は郷士の二男であり何事にも如才がなく、からっと明るい性格であった。日得とは何かとウマが合いお互いに一番多く会話を交わす仲となった。

ある時、日静が言った。

「日得さん棒術の稽古をしているんですね、見てしまいました」

「いやぁ棒術というほどのもんじゃないさ、少し腕力を鍛えているだけさ」

日得が答えた。

「そうですか、体を鍛えておけば何時かは役に立つ時がありますよね」

「そこまでいけば良いけどなあ」

「私も一緒に練習させてもらえますか?」

「かまわねえけどな、眠る時間が少なくなるぞっ」

「少しくたびれた方がよく眠れるってもんじゃないかな」

 

日得は自分が切り取って残っていた片方の金剛杖を日静に渡した。一緒にその短杖を振ってみたが日静は息も上がらずにけろっとしていた。

二日後の夜、ただならぬ気配を感じて日得は重い体を起こした。悪僧三人がまた日静を餌食にしようとのしかかっていた。日得は布団の下に隠し持っていた短杖をそっと引きよせた。日静が声を出せないように、日友が口に手拭いを突っ込みその上から手で押さえていた。

日得はものも言わずに、短杖を日信の右首を狙って振り下ろした。日信は咄嗟に腹を日静の腹に叩き付けるようにして背中の位置を低くした。その為に鋭角に肩を打つつもりだった日得の短杖は、日信の背中にほぼ平行にあたり衝撃は減衰された。

 

前のめりに態勢を崩した日得の鼻柱に日信の正拳が食い込んだ。日得の鼻腔から鼻汁と鼻血が飛び散った。日得はかろうじて手放さなかった短杖を右下から袈裟に振り上げた。日信は後ずさり、短杖は日信のはだけた衣の裾に絡まり破ける音が響いた。

「この野郎っ、またやる気だな」

日信の怒気を含んだ声が低く吐き出された。次の瞬間日得の手首を握って逆に捻りながら肩ごしに日得を投げ飛ばした。投げる瞬間に力はいらなかった。手首が折れる危険を察知した日得が自分から飛んだともいえる。

「そんなに分からないなら、今日は徹底的に教えてやるぜっ」

投げた瞬間に日得の後ろから、両襟を掴む送り襟占めにとっていた。日信はそのままの態勢で庭の中央まで日得を引きずって行った。背中を蹴り飛ばされて、怒りに燃えた日得の目は夜目にもらんらんと輝いて見えた。

「このならず者め、いつか必ず報いを受けるぞっ」

低く呻いて攻撃の機会を窺った。

庭地に下り立った日信は苛立ちながら日得に冷たい目を向けた。両手をだらんと下げたまま、つつっと日得に近づいたと思った一瞬、右足が小さく動き足の甲で日得の金的を的確に蹴り上げた。日信の出方を窺っていただけの日得は、身構える暇があろう筈もなく股間に衝撃が走った。

「ううっ」

声も出せない程の苦痛が襲ってきた。息も詰まってしまい、腰を折って地面に横倒しになる他に術はなかった。日友は暗がりの向こうに立って薄ら笑いを浮かべながら見ていた。

 

「懲りない奴だなっ」

日静は思わず日得に駆け寄った。

「日得さん大丈夫ですか?」

日静は日得の腰を後ろからトントンと叩いて介抱しようとした。

日信が日得の横に立って言った。

「おいっ、いい加減に身の程を知ったらどうなんだっ」

言いながら日得の横っ面を蹴った。蹴った足は再び戻ってきて、地面にめり込ませるかのようにぐりぐりと日得の横顔を踏み押し続けた。

日静は我慢がならず、日信に体当たりをしようとした。その時だった、日信の日得を押し続けていた右足がふわりと浮いた。日得が自分の顔の上から日信の足を、ずらして外すと共に右手で日信のふくらはぎを抱えたまま、自分の体を左に回転させながら体重をふくらはぎに、もたせ掛けるようにして転がった。

足を逆に取られた形になった日信は、折られないように自ら回転し地面に身を投げ出した。立ち上がった日得が今度は日信の顔をどんと踏みつけた。だがその足は空しく地面を踏んだだけだった。よけると同時に立ち上がった日信は、右足を膝を中心にして回転させ、親指の付け根の腹を日得の左脇腹に突き刺した。

ずんとした重みが日得の体に伝わり痛みと衝撃が上半身に広がった。日得はよろめいたが続いて日信の右こぶしが、自分の顔の左を狙って飛んできているのを感じとった。慌てて首をすくめた、日得の視線が下を向いたとき、日信はすかさず日得の左襟をつかんで腰を入れた。日得の体は弧を描いて背中から地面に叩き付けられた。

後頭部にも衝撃を受けた日得は唸ったまま暫く動けなかった。瞼の裏には赤い世界が広がっていた。

「これまでか」

日信が言った。

「もういいでしょう、やめてください」

日静が叫ぶように言った。

日信は日静を睨み付けた。

「お前も往生際が悪いぞっ」

日信が日得に向かって砂と小石を蹴って浴びせかけた。すると日得がムクリと起き上がった。

目が座っていた。じっと日信を仰視し、右手刀を日信の右首に向かって振り下ろした。僅かに後ろへ上体をそらして避けた日信は、やや前かがみになった日得の襟を掴むや自分の体を後ろの地面に投げ出し、右足を日得の下腹部にあてて後方へ投げ飛ばした。

普通の巴投げであれば、相手の左襟を下に強く引いて相手が頭を中心に一回転し背中から落ちるように配慮する。しかし日信はわざと日得の襟は早めに手を放し、顔面にダメージを与えようと地面と水平に日得を投げた。

 

このため日得の体は遠くには飛ばずに、顔面と腹から地面に落ちる事になった。日得は両手を地面について顔をかばったが、このため両方の手のひらと顔面はすりむけて血だらけとなった。

「今度からは逆らうなよっ」

去っていく日信の頭を狙って日得は拾った小石を力任せに投げつけた。ひゅーっと飛んだ礫は日信の左耳にあたった。

すたすたと戻ってきた日信はものも言わず、右こぶしで日得の額を撃った。日得は後ろにのけぞりながらも日信の目を狙って二本の指を突きだした。かろうじてこれを避けた日信は、日得の右脇の下に首を差し入れ軽々と担ぎ上げると庭の東端に歩み寄った。

庭の端は雑木が生えていて五メートルほどの崖になっている。危険を察知した日静が駆けつけて日信の衣の背中を掴んで止めに入った。

 

「日信さん、危ないです、やめてください」

「うるさいっ、どけっ」

日信がうそぶくと同時に日得の体を崖の下に向かって放り出した。

 日得は投げ出された拍子に頭が下になり、真っ逆さまに崖を落ちて行った。

「どっしゃーんっ」

重たく鈍い音が闇の中から湧きあがってきた。

暗がりの中、日静は崖の下を覗きこみ、あわてて降りて行った。灌木につかまり後ろ向きに降りたが、掴まった木が根っこから抜けてすべり落ちた。やっと見つけた日得は崖の下に近い所で肩が松の木に引っかかって倒れていた。

 

 

 

 

武道百般の気楽流

 

下草が茂り灌木も枝を盛んに伸ばしていた夏だったから、落下する勢いを削がれたようだった。気を失っていたものの頭に打撲痕や出血は見当たらなかった。日得のすぐ上の先輩僧・日空も、殺人事件となっては流石に不味い、として参道から崖の下に回って様子を見に来た。

日得は門前の医者の家に担ぎ込まれ、そこで一週間ほども寝たきりとなった。時間を見つけては日静が様子を見に来た。

「どんな具合ですか」

「うん、体中の関節が熱い」

「日信の使う柔術は、どうも当身技なども含んだ捕手術が基本になっているようですね」

「捕手術?」

「多分、小具足術なんかの古流の武術でしょう」

「おまえ、えらく詳しいんだな」

「私もほんの少しだけど、気楽流柔術の手ほどきを受けた事はあります」

 

日静は塩尻の出身で義姉・ユイは小諸に近い小さな村から嫁いで来ていた。ユイの弟はバクロウを生業としていたが、馬を連れてあちこち歩くうちに上州で気楽流柔術にであった。その弟・庫助は仕事をそっちのけにして内弟子の形で甘楽村に居ついてしまった。

気楽流を創始した飯塚臥龍斎興義の養子・帯刀の主道場が信州街道(姫街道)沿いにあった。日静は庫助が帰省の折々に手ほどきを受けていた。

「上州から武州にかけて、気楽流が盛んになっていると聞きます」

「誰がそこまで広めたのかな」

「戸田流の流れを汲んでいる飯塚臥龍斎と聞きました。今は二代目のようです」

「おまえはどの辺まで稽古したんだ」

「気楽流は色んな小武器を使うと聞いているけど、私はまだ基本の型くらいです」

「そうか、体が動くようになったら少し教えて貰おうかな」

「境内で一緒に練習してみますか」

気楽流は捕手術・棒術・鎖鎌・居合術・薙刀術などを包含していた。小太刀や大刀、両端が分銅になっている鎖、小太刀及び大刀の先に分銅が付いた武器、手の甲に嵌めて打撃に使う武器、短杖等、そのほかにも様々な武器を用いている。その多くは臥龍斎が考案した物である。

臥龍斎は藤岡の生まれであった事から、帯刀の道場は甘楽から藤岡を中心に数か所に存在していた。そのほかにも三波川などの山間部にも数か所の小道場があるほど盛んであった。臥龍斎の伯父・絹川久衛門が浅草で戸田流銃剣術の師範をしていた。

臥龍斎はここで修行を積み免許皆伝の腕前となり、久衛門の号の気楽斎と気楽流の名前を贈られた。臥龍斎は後に越中藩の柔術師範を四年に亘って務めた他に、高田藩や丸亀藩でも数百人の藩士の指導にあたった。

 

気楽流は臥龍斎を創始者とする文献の他に、戸田流からの伝統を考慮したものか中興の祖としている資料も見える。臥龍斎は上州・武州に気楽流を広め、その名前は北関東一帯に知られるようになっていた。

江戸においても愛宕などに道場を構え、その門弟は三千人を数えるほどであった。気楽流の流派の一部から、その技法は嘉納治五郎にも伝わり講道館柔道にも影響を与えたといわれる。臥龍斎からは帯刀の他に、小島善兵衛、菅沼勇輔が出て大きく三派となっていった。

小島善兵衛系は伊勢崎系とも呼ばれて、臥龍斎の孫弟子の斉藤武八郎は伊勢崎藩の柔術指南役になっている。菅沼系は主に秩父地方に根付いていった。

日得の怪我が治って体力が回復したのは一ヶ月も経った頃だったが、その間に日信は身延山の道場を去って任地の寺へと去っていた。日得と日静の合同稽古はその後も一年ほど続けられた。日得が道場を去る事になった時には、再会を約して二人は義兄弟の契りを結んだ。更に十数年後、常次郎が深妙寺に立ち寄ると、時を同じくして同寺に日静が来ていた。

ここで常次郎は日静に生前戒名をつけて貰ったのである。この時日静は身延山久遠寺に招聘されて、身延山八十六世法主として宗門の全ての重責を担っていた。

 

 

 祈祷師 常次郎

 

 信州の北相木村での杉材の伐りだし作業が一段落して、10日ぶりに常次郎は上日野村箕輪に帰って来た。鮎川沿いの幹道から、箕輪耕地への木枯らしが吹き付ける山道を登っていると上から背負子の上に炭を乗せた藤吉が下りてきた。

「おお常さん、いま帰って来たんかい」

「やあ藤吉元気そうだな、寒いのに精が出るなぁ」

「暫く見なかったけど、伐りだしに行ってたんだんべえ」

「おう、今時分は藪も少ないしな、蜂も蛇もいねえからはかどるでのう」

 

 そんな立ち話をした後に、藤吉は深刻そうな顔をして従弟の友治の家が、困っているから相談に乗って貰えないかと言い出した。常次郎はどうせ通り道だし、このまま寄ってみるよと言って別れた。

 友治の家の前まで来ると庭の奥の縁側に、ぼんやりと遠くの山を見ている友治が座っていた。

「友さん、なんか元気ねえな具合でも悪いんかいのう」

「まあな、おっかあが寝たきりになっちまってよ、おらもこの頃はやたら頭が重くってな、のろのろしか動けねえ始末だ」

「そうかおカミさんはどんな塩梅だい」

「ちいっとでも起きるとさあ、腰が雷に打たれたように痛えんだとさ、ふんで便所に行くのも這って行ってるよ」

「そりゃ難儀だな、いつからそんな事になっちまったのかな」

「畑で薩摩芋の籠を持ち上げようとしてからだけんど、爺さんも風邪をこじらせてからは寝たり起きたりで、婆ちゃんも腰が曲がってるしなあ、一家全滅だよ」

「爺さんの風邪も治らないのか、そりゃ肺の病気じゃねんかいのう」

 

「息子はまだちいせえし、娘は奉公先を飛び出したと知らせがあったきり、あとは梨の礫だんべえこのぶんじゃ身代限りも近えで」

「まあそんなに嘆いていてもしょうがねえだんべ、いざという時にゃ俺が保証人になるからさ、暫くは借金でやりくりしときゃ、あとは又なんとかなるだんべえ」

 

「常さんは他でも保証人になってっから大変だべよ、保証人はともかく、常さん一つおっかあを診てやってくんねえか、他に頼める人も居ねんだよ」

「そりゃかまわねえよ、必ず良くなるとは請け合えねえけどな」

「いやあ常さんは法華宗の山で修行したり、毎日熊野社もお祀りしているしな、三波川では常さんに祈祷して貰って病気が治ったという話も聞いてるよ」

 

 「確かに山岳修行した者には、目には見えねえ念力みたいなものが備わっている場合もあるからな、それを真剣に受け止めてくれれば治る事もあるってもんでのう」

 その日、常次郎は友治の妻、カヨを見舞い様子を見届けた。翌日準備を整えて常次郎は養子の亀吉を連れて友治宅を訪れた。常次郎の祈祷は日蓮宗と密教を取り入れた他に、神道の要素まで取り込んだ独自のもので構成されていた。

 曼荼羅を掲げた後、痛がるカヨをうつ伏せにして見ると両足の親指の長さが僅かに違っているのが分かった。その状態のままで、常次郎は印を結び鋭く九字を切った。その口元からは真言が空気を切り裂くかのように迸った。

横に一閃

「臨」

縦に一閃

「兵」

横に一閃

「闘」

縦に一閃

「者」

横に一閃

「皆」

縦に一閃

「陣」

横に一閃

「烈」

縦に一閃

「在」

横に一閃

「前」

 常次郎は様々な印を結び終えて暫し瞑目した。部屋の中に静寂がよみがえった。

「ナム・ビナヤカシャ・カシティモカシャ・タダヤタ・オン・ナヤカナヤカ・ビナヤカビナヤカ・タラヤカ・フリタラヤカ・カムカシッテイ・カムカ・カチッタ・ソワカ」

「ナム・ビナヤカシャ・カシティモカシャ・タダヤタ・オン・ナヤカナヤカ・ビナヤカビナヤカ・タラヤカ・フリタラヤカ・カムカシッテイ・カムカ・カチッタ・ソワカ」

「ナム・ビナヤカシャ・カシティモカシャ・タダヤタ・オン・ナヤカナヤカ・ビナヤカビナヤカ・タラヤカ・フリタラヤカ・カムカシッテイ・カムカ・カチッタ・ソワカ」

 

 真言を三回唱え、やおら目を開けた常次郎は、カヨの横に立膝をつき右手の人差し指と中指をやや開き、背骨の両脇に添えて首から腰までを軽くさすった。カヨの背骨は湾曲はしていないものの常次郎の人差し指に僅かな違和感が残った。常次郎はカヨの背中にまたがり、腰骨に右手のひらを当てて足元の方へ押した。

右の腰骨には左手のひらをあてて同じように押した。左右交互に二度ずつ押した。足元へ回りこんでカヨの足首を掴み、自分の足の裏を腸骨の下端にあてがい呼吸を合わせぐっと押し上げる。これも左右交互に二度ずつ行なった。

次にカヨを仰向けにして、足を股関節に押し込むように上に向かって押し上げた。この時点でカヨの両足は同じ長さに揃っていた。次に常次郎は傍らの錫杖を手に持って、カヨの背骨から腰をさするように撫でた。

「気は骨の内に満ちて、血の道は体内をめぐる。神よ仏よ気の道を通せ、血の道を通せ、ボウジソワカウンケンソワカ」

 

 この呪文を三回繰り返し常次郎は瞑目した。暫し静寂の時間が流れた。やおら立ち上がった常次郎は、金剛牆の印を結んだ両手をまっすぐにカヨの腰に向けて裂ぱくの気合を放った。

「うりゃああっつ」

 常次郎は祈祷が終わると、友治に薬草を煎じた薬を渡した。日野坊を訪れて栗崎喜内に処方してもらってきた物である。喜内は江戸の小石川薬草園をしばしば訪れて、新しい薬草などを仕入れて自宅で栽培していた。二日後に常次郎がカヨの顔を見に行くと、昨夜はよく眠れて何となく気分も良いという事だった。更に四日ほどして常次郎は前回と同様の祈祷と施術を行った。カヨを仰向けにして膝を直角にして足をぐるぐると回した。

膝を深く曲げて下腹部に押し付けられると、カヨは痛さから顔をしかめた。

 こうしているうちにカヨの体は徐々に回復して、やがて立って歩けるようになった。カヨが動けるようになると、雰囲気が暗かった友治の家の中にも明るさが出てきた。

 

 

 前橋監獄の剣士

 

 明治の頃の前橋刑務所は、町中から遠く外れた田んぼの中に煉瓦の塀を高く聳えさせていた。いまその田圃の中の道を風呂敷包みを抱えた小柏ダイがひっそりと歩いていた。空っ風が通り抜ける平坦なその辺りには人っ子一人見当たらなかった。

 門番や受付で、ダイはジロジロと見られた後で漸く面会室に通された。ややあって夫の常次郎が姿を現した。

「あんた、寒くなってきたけど大丈夫かい」

「ああ確かに夜は底冷えがするけどな、でも俺は信州の生まれだかんな」

 常次郎はダイに心配かけまいとしていたが、顔色はやや青白くなり心なしか頬がほっそりしたように見えた。

 

「まだ先も長いんだしね、風邪ひいたり具合の悪い時は休ませて貰って薬をもらうんだよ」

「はは大丈夫だって(身延)山で散々鍛えた体だんべえ」

「今日は冬の肌着を持って来たから、霜焼けなんかになんねえように出来るだけ厚着するにかぎるよ、毛布は足りてるんかい?」

「布団は下に一枚上に一枚って決まってらあな、あとは自分の体で暖めろってこった」

「寒くって寝られないんじゃないか、おら体壊すのが一番心配だんべ」

「幾つか工夫もしてるさ、片っ方の膝を折り曲げてな、その間に片っ方のつま先を挟むのさ、うんと寒い日は布団を体にぐるぐると巻きつけんのも悪くねえぞ、ははっ」

「ふんとに、そんなんで大丈夫かのう、他になんか要る物があったら又持って来るから何でも言ってよ」

「来るのだけでも半日がかりなんだからいいんだよ、なあに暇な時に手で擦っていれば摩擦で温まるでえ」

「家の方はあんたが居ない分だけがんばらにゃあなって、皆が精出して稼ぎ仕事をやってくれているから、心配する事はないでよ」

 

 ダイは風邪を引かないように、体に気を付けるように繰り返し言って帰って行った。

 常次郎は万場警察に捕えられた後、富岡警察や藤岡警察で尋問を受け、調書を作成され前橋裁判所において重懲役九年の刑を言い渡された。明治13年に施行された旧刑法では、重懲役とは9年から11年の刑期と決まっていた。これに対し軽懲役は6年から8年の刑期である。当時は監獄と呼ばれ今は刑務所と呼称は変わったものの、服役者の日課そのものには殆ど変化は見られない。

 朝は五時になるとキンコンカンガラアアンと鐘が鳴り起床、布団を片付けてトイレを済ませると点呼となる。前夜の内に脱獄者がいなかったかどうか確認するのである。そして食堂まで服役者は列を整えての行進となる。

 

 食事の時間は厳密に決まっている。看守の「食事はじめ」の号令と共に食べ始める。木の椀の中の飯には芋や麦が入っていて、不味いものと相場が決まっている。看守の号令がかかると食べ終わっていなくても席を立たなければならない。

食事中でも勿論私語は禁じられている。朝食が終わると次に刑務所内にある工場に移動して作業に従事する事になる。工場への移動も整列した上で行進していく。刑務作業は午前中に10分の休みがあるものの昼休みは40分、午後の中休みも10分と決まっている。服役者同士の話し声などが、聞こえてこようものなら即座に監督看守の罵声が飛んでくる。

 常次郎に与えられた作業はヤギの皮をなめしていく工程で、かなりの力を込める必要があった。作業が終わると作業服を脱ぎ、各自が素っ裸になって点検を受けてから行進して雑居坊に戻っていく。一人一人点検するのは作業場から、材料や凶器になる物を持ち出さない為のもので、これは厳重に行われるのが常であった。

 夕食が終わると10分刻みで動く日課も終了し、ここで初めて各自の自由時間がやって来る。消灯は九時であるからかなり色々なことが出来るともいえる。また日曜日には工場作業は休みとなる。風呂は一週間に二回だけで湯船に入るのも、出るのも看守の号令で一斉に行動する。体を洗う場合も同様で一種の流れ作業を見ているかのようだ。

 

 自由時間になると常次郎は筋肉が落ちないように、腕立て伏せや腹筋運動を繰り返し、それが終わると正座を汲み法華経を読経するのを常としていた。読経と言っても、声に出しては他の服役者の迷惑になるため口内で黙読するのみである。

 読経が終わると結跏趺坐を汲んでの瞑想にひたる事も多かった。丹田に意識を集中させてやや深い呼吸を静かに繰り返していく。意識の重心は丹田に置くが、雑念を払う為に吸って吐く肺の鼓動に意識を添わせていく。

 

 目は完全に閉じるわけではなく、少し外の光が入るように僅かに瞼を開いて置くが、瞑想が深くなると瞼が完全に閉じて無我の境地に近づいていく事がままあった。吸気は鼻で足の裏から吸い込み、体内を通してから脳まで送り込み吐く気は口から長く静かに出していく。

 他の服役者たちはこんな常次郎を、変わり者で気味の悪い奴として捉え近づく者はいなかった。刑務所暮らしも長くなると、言葉を交わさなくても自然に相手の性格などが分かってくる。社会でどんな事をやらかして入ってきたのかも、問わず語りに伝わってくる。また自分からどんな罪を犯したのか喋る者も多い。

 大きな罪を犯して長く入所しているもの程、上位に見られたりする他、実際に威張っている者もいる。兎に角、刑務所の中には様々な人間が居てそのまま社会の縮図を形成しているのである。剣術の達人も居れば、学校の先生も居るし、やくざの親分から殺人を犯した外国人までが収容されているのである。

他の服役者にはつかず離れずの態度をとっていた常次郎だが、仲間が囲碁や将棋をやって負けた方が悔しがっている時は、あそこの場面でこうすればよかたっと教える事があった。また仲間の会話の中であれが分らない、これは知らないなどの話が聞こえてきた時には常次郎は丁寧に教えてやった。

同室の太一が階段で足を踏み外して捻挫した時は、歯ブラシを足首の両側にあてて、手拭いを割いて包帯として巻いてやった。刑務所内には医務官も居るが予約制なので、順番が回ってくる頃には病気は治っている場合が多かったのである。

 こうした常次郎の行動ぶりは落ち着いており、いつも沈着冷静でぶれずに頼りがいのある奴だとの評価が高まっていった。ただ一人同室の嘉平だけは、こうした常次郎の人気を苦々しく思っていた。

 

 嘉平は剣術の鹿島神道流を収めており達人の域に達していた。嘉平は自分に敬意を払う様子もなく、泰然自若と座禅などをしている常次郎に敵愾心を燃やすようになっていた。ある日、嘉平に面会に来た者から、差し入れとして持って来た物が全て看守に没収されたと聞き、嘉平はむしゃくしゃしていた。

 そんな時、嘉平が部屋へ帰って来ると常次郎が正座して口内での読経をしていた。嘉平は所内の抗争に備えて箒の柄を切り取った物を持っていた。常次郎の腕を試してみたい気持ちも少しはあった。嘉平は気を殺して静かに常次郎の傍へ歩み寄った。

 常次郎に気を悟られないようにするのには躊躇はしていられなかった。嘉平の足が一瞬止まったかと思うと竹の棒は振り上げられ、頭上で小さな弧を描いて常次郎の頭の真上に振り下ろされた。振り下ろす瞬間に嘉平の覚悟の気がほんの僅かだが発せられた。

 

 常次郎の脳は一瞬で危険を察知した。脳が指令を出すと同時に体が無意識に動いて跳ね上がり、二間以上も横方向へ飛んでいた。常次郎の気は足の指先から膝へ、足の指先から膝へと二度に亘って流れ、バネとなった膝を起点として飛び上がり、着地した時には元の姿となんら変わるところは見られなかった。

 ただし常次郎の刑務服の袖は右肩から切れて垂れ下がっていた。嘉平の棒は袖を落としたものの、常次郎の肌に傷はつけられなかった。嘉平は一瞬気を飲んだもののすり足で二三歩前に進み、第二撃を加えようとした。その時、目を開いた常次郎の視線と嘉平の視線が空中でぶつかり合った。

 嘉平の攻撃は僅かにコンマ数秒ほど遅れてしまった。今度は逃げられないようにと、袈裟掛けより更に下へと狙いを移し右から逆胴を撃った。常次郎は左膝を立てたかと思うと、その右足をバネのように伸ばし嘉平の右膝を蹴り上げた。嘉平の竹棒も常次郎の体に当ったものの、一瞬早く常次郎の関節蹴りが決まった。ぐきっと嫌な音がして嘉平の膝蓋骨が一瞬外れた。膝を蹴られた嘉平は、その場に屈み込んだまま歩く事は出来なかった。

 

「やっ大丈夫か、嘉平さん」

「へへっまあな、死ぬほどの事もねえだんべえ」

「いやあ、なんか得体のしれねえ恐怖に襲われてさあ、ついやっちまったよ」

「まあいいって事よ、俺はいつかあんたと一勝負してみたかったんだのう」

「そこまで見込まれてものう、おれもまだ中途半端な野郎の域を出てねえからな」

「うむ、俺の打ち込みは滅多に躱された事はなかったんだけど、少し見くびってしまったようだな」

「まあ看守に見つかると二人とも、懲罰房行きになっちまうからな、ここで手当てして静かにしておこうでよ」

「いやほんとに済まなかったで、あんたの腕も本物って事がよく分かったよ」

 

 常次郎は嘉平の膝に包帯を作って巻き付け、濡らした手拭いで冷やしてやった。

この事件があってから常次郎の所へ相談にやって来る服役者が多くなった。ともあれ刑務所内には図書館があって、借りたい本を予約して閲覧する事が出来た。常次郎はこれを利用して主に神道や山岳修行の本を読んで余暇をつぶした。こうした常次郎の読書癖は後年活きてくる事になった。