羊太夫伝説と多胡碑の謎

  多胡碑の謎

 
 羊太夫伝説と多胡碑については分からないことが多く、この為古代へのロマンと謎が満ちている。
羊太夫は実在の人物か?
多胡碑の「羊」は人名か?
羊太夫と「羊」は同一人物か?
多胡碑の「給羊」は羊に給わるで良いのか?
何故中央の文献に「給羊」の記録がないのか?
多胡碑は誰が建てたのか?
多胡碑から羊太夫伝説が生まれたのか?
何故三郡の真ん中を分割して建郡したのか?
 
 その謎は数え上げればきりがないほどだ。日本三古碑の
一つ多胡碑は和銅4年(711年)に建てられた。古事記が成立した前年の事である。この多胡碑は上野三碑とも言われている。
 多胡碑は「たごひ」と読む。この付近に胡人が多かったから多胡郡と名付けられたと言われているが、実際に胡人が多かったという事はないらしく、この説はしっくりこない。多胡郷という地名は近くの片岡郡に既に存
在していた。

 「多胡碑」は本来「田子」(たご)ではなかったのか。田子は文字通り田の子であり、農民の事を指していると
思われる。多胡碑のある地域は平坦な地勢で鏑川も近いことから、かっては水田の耕作に適していたとみられる。
 
 多胡郡は甘楽郡から四郷と緑野郡から一郷、片岡郡から一郷を割いて,六郷を持って建郡されたと「続日本紀」
に記載されている。多胡碑はこの三郡のほぼ中央に位置していたとみられる。

 
羊は人名か方角か

 
 現在では羊を人名とする説が有力であり定説のようになっている。碑文の内の建郡の経緯の部分は続日本紀の内
容と同じである。しかし弁官局と人名の部分、そして問題の「給羊」などは続日本紀には記載されていない。
 
 羊に給わると読むのであれば、その旨の記載が続日本紀にあってしかるべきであろう。僅か二字ほどの文字を書きこむ
のに手間はいらない。
 
 現に同書には多胡建郡の直前の記事に、伊勢国の磯部祖父に渡相の姓を賜ったとあり、多胡郡の記事に移っている。
続日本紀の三月の記事はこの磯部祖父と多胡建郡の二つだけなのである。
 
 しかもたまわるの文字は「給」ではなく、「賜」の文字が使われている。このことは論旨がやや整わないものにな
るが、羊に給わったのではなく羊を賜ったと読んだ方がしっくりくることになる。
 
 当時、既に羊は日本に到来していた筈で、多胡郡の付近には戦国時代には「牧」が多く営まれていた。「牧」とは牧場であり優秀な馬が数多く生産されていたのである。この「牧」のイメージからは羊の飼育の可能性も彷彿と湧き
あがってくるようだ。


 多胡碑は誰が建立したのか


 
 ちなみに多胡碑文には,○○が建之といった記載がなく誰が建立したのか分からないのである。
多治比真人以下三人の名前が彫られてはいるが、これら中央の官人が東の果てともいえる上野国の一地方に記念碑を
建てる筈もなかろう。
 
 してみると建てたのは当然の如く地元の有力者であり多胡郡の建郡により利益を享受した有力者と推定される。
羊が人名と断定されれば羊が建立者と目されることになろうが、羊が人名であったとしても、実在の人物であったとは断言できない。
 
 なにせ中央の日本書紀や続日本紀、その他の文献のなかに「羊」なる人物の記事が見つからないよ
うなのである。朝廷に租税などを収めた記録や木簡も出ていない。
 
 「続日本紀」には甘楽郡の人、礒部牛麻呂の記事もあるが郡司とみられる「羊」に言及している記事は見当たらない。
続日本紀714年の項には、木曽路を開通した功績によって伊福部君荒当という人物に田を二町賜ったという記事が
ある。この他同書にはに百戸を加増した記録なども記載してある。
 
 田を僅かに二町与えただけで記事になるのに、新しく作った郡を与える者(羊?)の名前が記録されていないのはな
ぜか。
 
 ただ古文献の中に「羊」の人名が全く出てこないわけではない。「羊」と書かれた瓦も出土している。これらの事から
羊という名の人が存在していたことは想像に難くない。この「羊」名は渡来人とする説が根強いものの異説もまた提唱
されている。
 
 選択肢は可能性の順番に次の三つとなろうか。郡衙・役人が建立した、羊なる人物が実在していて建立した、地元の有
力者が建立した。ちなみに多胡碑が建立された時点では、羊太夫は既に没していたとも言われる。他に多胡碑建立後も
「羊」は繁栄していたと断言する説もある。
 
 ともあれ「羊」は姓ではなく名前であろうとみて間違いなさそうだ。すると新設置の郡の支配を任せるのに、「給羊」と
名前の一文字だけで済ましてしまうのには違和感を覚える。

 
 この為、多胡碑の裏側などに「羊」の姓が刻まれていたとみ
る向きもあるが、それにしても一番大事な文末に姓がないのはいかにも不自然極まりない。現に多治比真人、石上尊、藤
原尊はいずれも姓が刻まれている。
 
 仮に真人に下賜されたとしても「給真人」とは彫られないのではないか。この多治比真人の名を持つ者は数人いるが、そ
の冠位から多治比真人三宅麻呂とみられる。
 
 羊太夫の姓は「物部」或いは「多胡」姓であった可能性も僅かながら残されている。


羊太夫伝説と多胡碑


 羊太夫伝説には、素朴なものからストーリ―性があるものまでかなりの数の説話が今に伝えられている。しかしその骨子には神話的な要素が脈々と流れている。羊太夫は遠い都まで部下の八束小脛と共に毎日出仕していたという。この説話は空を飛ぶが如きである。
 
 その最後には朝廷の軍に攻められて蝶(或いは鳥)になって空に昇って行った。この件は天の羽衣(天女)伝説を彷彿と
させる。また八束小脛の名前の「八束」には、出雲の系統を連想させるものがある事も神話的イメージを、形作る要素の一部
分になっている。
出雲創生神の「淤美豆奴神」は別名を八束水臣津野命という。津(港)に住んでいて霊力のある「八束水臣」さん、という
ことなのだろうか。
 
 この八束姓は島根県に多く、大阪あたりでも聞くことのできる姓である。いま松江市には八束町が存在している。
 
 日本の神話は「古事記」に詳しいが、それらと同様の匂いが漂っていることは疑いを入れ得ない。古事記は712年成立説
が有力だが、その年は多胡碑が建立された翌年に当たっている。
 
 多胡碑が建立された時点では、既に様々な神話・説話が成立し語られていた事が窺われる所以である。
多胡碑が建てられ、そこに刻んであった「給羊」に見えるたった一文字の「羊」から羊太夫伝説が生まれたとはとても考え難い。
当時の人々が難しい漢字の文章を自在に操っていたとも思えない。むしろ漢文など読めない人が多かったのではないか。  
 しかも「羊」の一文字から羊太夫なるキャラクターを,創作してストーリー性のある伝説を生み出した可能性は僅かなものとなろう。
 
 この時代に優れた戯作者のような存在があったのだろうか。いずれにしても,多胡碑に見える「羊」と羊太夫伝説の羊太夫とは別の人物とする説が有力とみられる。
 
 多胡碑は発見されて、暫く後から700年ほどの間は記録に現れていない。
 あたかも行方不明であったかのようでもある。この現象は多胡碑から羊太夫伝説が生まれた可能性を薄めてしまう。


 羊太夫伝説と小幡氏


 
 数ある羊太夫伝説は時を経ていくうちに、脚色され新たなストーリーが付加されていったもののようだ。
その中で現実的なものは、小幡氏の祖が朝廷より羊太夫の討伐を命じられ、安芸から上野国に赴き羊太夫討伐後に上野国に居住したというものだ。
 
 これとても朝廷の記録は残されていないので、真実かどうかは疑問符が付くところである。
 だが、羊太夫が武運長久を祈ったとか、軍用金を埋めたとか、落城したとか、奥方を祭ったとかの件は戦国時代の匂いが色濃く漂っている。
 
 これらは江戸時代などに羊太夫伝説に合併を試みて、付け加えられたものとも考えられる。

 
 一説には羊太夫は八束城に居住していたとされる。これが事実なら伝説の本来の主人公は羊太夫ではなく、八束小脛であり羊太夫がその従者であった可能性まで浮かび上がってくる。
 
 なにしろ渡来人説は根拠が薄く、姓がないのであるからこの説も一概に否定できないものにもなろうか。
 
 「神道集」には、羊太夫は、只の足の速い人とだけ記されている。上野国から都までを一日で往復できたとしている。小脛の伝説が二人に分割されていった可能性を考える必要があるかもしれない。
 
 合理性が感じられる伝説の一つに、三郡と新設置の多胡郡の両方を羊太夫に賜ったとする説がある。同説は都にあった羊太夫が四郡を下賜されて、上野国に移住して来たとする伝えになっている。
 
 七興山古墳を羊太夫一族の墓とする説も語られているが、時代が合致せず関連はないものと推定される。
 
 また小幡氏の祖が羊太夫であるとの伝説もあるが、先の伝説と共に小幡氏の系図や伝承には語られていない。
 
 ともあれ、小幡町の古社諏訪神社・熊野神社境内の宗福寺の鎮守縁由の石碑には、霊亀年間に小幡氏の祖・藤松貞行が天引の小幡羊太夫を討伐したと記されている。
 ここでは頷ける筋書を伴っている。しかし、この石碑が建てられたのは江戸時代の事であるから、その信頼性は決して高くはない。
 
 後世ともなれば整合性を持った文章を書けるのは自明の理である。


 多胡郡新設の謎


 多胡郡が新設された当時の上野国司は平群朝臣安麻呂であった。人口が増えたり繁栄したりして、一郡を二つに分割して二つの郡に分けるという事は幾つも前例がある。
 
 続日本紀の713年の項には、丹波国を分割して丹後国を作った、備前国を割いて美作国を作った、日向国を割いて大隅国を設置したと記載している。
 多胡郡は周囲の三郡のほぼ真ん中にあたる位置だが、なぜそこに新郡を設置する必要があったのか。

 生産拠点を集約する為だったという説もあるが、周囲の郡の郡司や支配者の状況がどうだったのか、この点が語られない限り納得がいくものにはならない。
 
 もし「羊」なる人物が、建郡前も周囲の三郡を支配していたのなら、信長が、三河を支配していた家康に三河を分割してまた家康に与えたようなものではないか。
 藤岡藩と小幡藩と長根藩を少しずつ割いて、その真ん中に吉井藩を設置したようなものである。

 功績があった者にその吉井藩を与えるというのであれば理解もできる。だが周囲の三藩を支配していた者に新設置の吉井藩を与えるというのであれば、これは現代の感覚では全く理解できない。
 「羊」なる人物が実在していたとして、片岡郡の多胡郷などに居住していたとしたなら、何かの功績によって新たに多胡郡を設置して、「羊」に支配を委ねたという流れであれば納得できる筋書ではある。


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