小柏氏系図と小幡大膳之亮 |
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目次 小柏氏系図の信憑性 2 小柏氏系図と平氏 4 小柏氏系図と小幡大膳之亮 7 長篠設楽原の合戦 8 家康の闘将内藤家長 11 長篠合戦の小幡氏 14 上野国小幡氏の研究 20 彦根藩の小幡氏 21 井伊年譜に見る小幡大膳 25 小幡氏の四天王・熊井戸氏 27 「設楽原戦史考」に大膳之亮発見 28 二つの小柏氏系図 30 小柏氏系図を巡る昭和の調査 32 |
歴史の交差点 今昔余話 里の風 小柏氏800年の軌跡 小柏氏系譜と 戦国武将 御荷鉾山の つむじ風 神サマ常次郎 羊太夫伝説と 多胡碑の謎 赤穂義士と 性神信仰 新編 古事記 高天原の 侵略 八咫烏のくりごと あまのじゃくの羅針盤 YTC.S・S スィートスポット
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小柏氏系図の信憑性 約800年に亘る小柏氏の系図は、その始祖を平重盛(清盛の嫡子)の子の惟盛としている。この長大な系図について「藤岡市史」などは概ね肯定しているように見えるが、一部にはその信憑性について疑問を投げかけている論評の類もあったように思う。 確かに戦国時代にはその混乱の中で多くの古文書や系図類が消失したと言われ、よほどの名家・旧家でなければ家系を戦国時代以前には遡れないとする人もいる。 また元禄期には時の経済繁栄を映してか、系図を作成し売る商売がはやったらしい。昨今静かなブームになり、問題にもなった自費出版と形態が似ていようか。 日本の系譜研究の第一人者ともいえる人物に太田亮氏がいる。同氏は新撰姓氏録・尊卑分脈・古事類苑・寛政重修家譜その他、多数の系譜にまつわる古文献を網羅せしめ、その集大成としての「姓氏家系大辞典」「新編姓氏家系辞書」を編纂している。 同氏も日本の系図の多くは、偽あるいは借り系譜によって作られていると述べている。 小柏氏系図も平氏に繋がる部分は信憑性が薄く、伝説のようなものであろうと思われる。だがそれ以後の系図を深く読んでいくと真実性が漂っていて、特に鎌倉時代以降からリアルなものになっているという印象を感じる。 当時北条氏に従い鎌倉に住んでいた小柏維仲は、北条時村が六波羅探題に任じられ京都六波羅に赴くときに同行している。この年次を小柏氏系図では弘安元戌寅年十二月二十三日(1278年)鎌倉出立と 記載している。 「藤岡市史」では、実際に北条時村が六波羅探題に任じられたのは1279年であり、この公的記録の前年に京都へ赴いたと系図に記されている所がミソである、と述べている。(建治説あり。) この事は小柏氏系図が、歴史を遡って調べ後世に作ったものならば、京都出発を1278年と記載したのではなかったか、そうしていないところに信憑性が感じられる、と言っているのだろう。 小柏維仲の子の重胤は、やはり六波羅探題になった北条基時に従い京都に住んだ。基時はこの後、鎌倉将軍執権となっている。小柏重胤の子、時實は京都に住んだのか鎌倉に帰っていたのか不明である。 時實の子の實親は鎌倉に居て、執権北条高時に従っていたが新田義貞に攻められ、鎌倉が陥落した時に討ち死にしている。この際には實親の弟の實季も一緒に討ち死にしている。 小柏實親の子の重親は幼名を平太夫といい、宮内少輔で従五位に任じられていたと系図に記載されている。重親は管領・足利基氏の執政・副将軍上杉憲顕に属し鎌倉に住んでいた。 小柏維仲・重胤親子二代が、それぞれ時の六波羅探題に従って京都に詰めていた事、後に鎌倉で奉仕していた小柏時實・實季の兄弟が共に討ち死にした事などの記録は真に迫って来るものがある。 乱世とはいえ、兄弟が同じ戦いで共に討ち死にしたという事例は多くはない。一方が負傷、一方が討死したのでもなく共に討ち死にしたのである。この小柏氏系図の鎌倉時代の記録は、理に叶っていて造作や嵌めこみ等の矛盾は見当たらないようだ。 このように素直に考察してみると、小柏氏系図の四代目の維仲以降は実在性が高いという事になろうか。更に維仲の父の時基は幼名を太郎と名乗ったと系図に記載があり、維仲の幼名一太郎と良く似ていることから時基も実在の人物ではなかったかと推察が成り立つ。 誰の子かも分らない維仲を、いきなり北条時村が採用して京都まで従者として、連れて行くとはとても考えられない事が時基の実在説を補完するであろう。 (西)上野国の名族「高山氏」も時を同じくして鎌倉北条氏に属していた。高山時重は新田義貞を迎え討ち、武蔵国関戸にて討死をしている。高山氏の事績は鎌倉幕府の史書ともいえる「吾妻鏡」にもしばしば現れている。 (西)上野国には多くの武士団が存在していた。これ等の武士団が鎌倉北条氏に属していたことが窺える。これらの事柄を踏まえて考証を進めると、小柏氏系図の三代目以降はかなりの程度で信憑性があると言えるようだ。 ではそれ以前の平氏に繋がる二代の系譜はどう見れば良いのだろう。 |
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小柏氏系図と平氏 現存の小柏氏系図の筆跡を良く見て行くと、江戸時代・天保3年(1832年)の所で途切れている。ここで筆跡が変わり、次の筆跡により文政7年の出来事から記され始めている。文政は天保の前の年号である。 つまり二番目の筆跡では前の筆跡で終っている部分に遡って、重複して系図を書き始めている。14年ほどが重なっている事になる。この二番目の筆跡では 天保8年の事も語られていることから、最初の筆跡で現存する系図が書かれたのは天保3年から8年の間とみる事が出来る。 二番目の筆跡では文政から明治15年頃まで語られている。従って現存している小柏氏正系図は、天保年間に作られ(或いは筆写され)て、さらに明治15年頃に文政年間までの過去の歴史を調べて系図に書きくわえたものと見る事ができる。 しかし明治に書きくわえられた系図の、最初の方に位置している小柏重基・八郎右衛門についての事績は何ら記されてはいない。重基は風梅年代記により名主に就任した他、嘉永3年には秩父山で金の採掘を試みている等の事績が知られている。 この事から明治15年頃の先祖調査は浅く、時を移さず系図に書き継いだ事が伝わってくる。整理して結論を述べるとすれば、現存する系図は天保年間に書かれ、明治に書き継がれた物である。 だが小柏氏正系図は、天保年間に初めて作られたものではないことは状況証拠的なものから明らかであろう。明治の頃には既に嘉永年間の先祖の事績が調べ得なかった事からも分るように、天保年間に遠い鎌倉時代の先祖の名前や事績までは調べようがなかったのではないか。この事は天保以前から、小柏家に系図や系譜伝承が伝わっていた事になる。 これは動かしようのない事と推察される。小柏氏正系図に記されているように、「別記」なる文書がある時期までは伝世されていたと考えると筋の通る話となっていく。 天保年間に初めて系図を作ったと考えると、鎌倉時代までの先祖の名前や事績を歴史に即したものに構築していくのは並大抵のことでは出来ないだろう。 天保の頃には既に系図があったが保存状態が悪くなり、新しく巻物を作り前の系図を筆写したものであろうと考えられる。それ以前にも何度かの作り替えが行われたであろう事は、想像に難くない。 和紙で作られた系図は紙を継ぎ足して、書き継いでいくものであろうが湿気や虫食いなどによって破損し読めないものになってしまう。明治20年頃の文書・史料でも、虫食いのひどい状態の物を文書館で見たことがある。
まず小柏氏の始祖とされる小柏(平)維基は幼名を平太郎と名乗っていた。平清盛の嫡男重盛の子でその容貌の美しさから光源氏の再来と称された維盛の長男という。つまり平清盛の孫にあたり六代丸の弟になるわけである。 小柏氏系図によれば、維基は大人になっても子供の頃の着物を着ていたという。(系図の読み方・解釈によっては異なる意味となる。)体は頑健で一人で山や川に行って日がな漁などをしていたらしい。 維基は上野国小柏村に移り住み、土地の名をとって小柏と改称したとされている。ちなみに平重盛の一族は京都の小松谷に隠れ住んでいた時には小松姓を名乗っていた。 藤岡市史には、小松維盛が日野谷に落ち延び隠れ住みついた時に小松姓を小柏姓に変えたと言われている、とある。おなじく藤岡市の「ふるさと人ものがたり」には、平維盛が武蔵国司在任中に生まれたのが維基であり、日野の奥に隠れ住み後に鹿島神宮を建立したと出ている。 神宮建立の事は、江戸時代にその棟札が発見され同様の記述があったことが確認されている。この他、維基が所蔵していた甲冑・武具を奉納したと記載されていた。 しかし維盛が実際に武蔵国司に任じられていたのか。「公卿補任」等の史書をチェックしたが、その記録は見つからず確認は取れていないままである。当時は国司になっても実際に任地に赴かなかった人もあり、記録が漏れているのか記録が消失しているのか不明である。 藤岡市上日野には、今も維基の兄・六代丸(六代午前)の伝説や地名が残っている。午前岩や午前岩橋の地名がそれであり、多野郡誌・甘楽町史などにも詳しく語られている。 同所は六代丸・維基兄弟が碑を建てた旧跡とされている。しかし維基の名前は史書中に見つからず、状況証拠的なものは積み上がっているにも関わらず、その実在性は確認が取れていない。 小柏氏の始祖・維基の子で二代目に当たる維里は、幼名を太郎と名乗り上野国に住んでいたとされる。小柏氏系図にはこれ以外に維里の事績は語られていない。 維盛 維基 維里の三代の名前には維(これ)の字が共通していてさもありそうな名前になっている。そして小柏氏の三代目には維の字は使われず時基と基の字を使っている。四代目には維の字を使った名前「維仲」が復活している。 これ以降の小柏家当主の名前には「重」「高」の字が多く現れるようになる。 これらの事を総合的に考察してみると、事績が殆ど語られていない小柏氏の二代目と三代目の間に隔絶した空間があった可能性も考えられる。つまり実際の小柏氏の始祖は三代目の時基であり、始祖(初代)の維基は伝説・伝承上の人物であったと考える事も出来る。 二代目の維里は伝説と実際の始祖との間を繋ぐミッシングリングとしてここに嵌め込まれたとみる事も出来るのである。この場合でも、上日野地区に古くから平氏の伝承が伝わっていたのだろう。 |
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小柏氏系図と小幡大膳之亮 小柏氏系図の中で、一つの「サビ」を形作っている部分に伝説の「お菊」を助けた小柏定重が位置している。定重は千人斬りをした高政の嫡男である。高政は小幡氏の娘を娶り武田信玄に属していた。 小幡氏と共に妙義神社や菅原神社の鰐口に名前が残っている他、生島足島神社の起請文にもその名前が記されている。また武田氏関連の文書には小幡高政の名前でも現れている。 高政の子の定重は宝積寺裏でお菊を助けた後に、長篠合戦に参戦し討死をしている。長篠合戦では多くの人命が失われ、その死傷者の数の多さは関ヶ原の合戦につぐものと言われる。 小柏系図に定重は長篠合戦の時に小幡大膳之亮と共に斥候に出て、敵に見つかり囲まれて斬り死にしたとある。この小幡大膳之亮の名前は小幡関連の史書や文献の中には見当たらない。 数多い小幡氏の諸氏の中にも大膳之亮の異名をとった人物、またはそれらしい人物は見当たらないのである。膨大な武田信玄関係の文献の中にも登場していないので、全く知られていない謎の人物である。 大膳之亮のプロフイールを明らかにできれば、小柏系図を別の方向から検証することが可能となる。そこで大膳之亮なる人物について長年に亘って調査を続けていた。唯一その名前が載っている書物は比較的早く見つかった。名和弓雄氏の著になる「長篠・設楽原合戦の真実」である。 本書は市販されていた為、時間もかからずに入手することができた。同書には設楽原決戦の前夜「五月二十日、深更から日の出前まで、勝頼は大膳之亮に命じて、八剣山(弾正山)の敵陣地を偵察せしめた。」と記載されている。 |
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長篠設楽原の合戦 「長篠・設楽原合戦の真実」は、続いて次のように大膳之亮の行動を記している。 「大膳之亮は命を奉じて天王山をくだって敵陣をうかがったが、暗くて偵察できないので、傍らにあった大きな家屋(住人は避難して人気はない)に放火させその火光で敵陣を望見しようとした。 この時、監視中の徳川軍内藤金一郎家長らが大膳之亮を発見して、銃撃を加えた。弾丸は命中せず、大膳之亮は危ないところを逃れかえり、警戒が厳重で偵察の不可能を報告した。 勝頼は怒って再び偵察を命じたので、大膳之亮はやむなく再び敵陣に近づいたところ、銃撃されて二弾受けて傷つき、従者に助けられてやっと夜明け近く、本陣に帰投した。 小幡大膳之亮は勝頼に、攻撃の中止と、敵から討って出るのを待ち受けて戦うよう、諫言した。 もしこの時、武田軍が馬防柵に突入することをやめ、織田・徳川軍出撃を待って、戦端をひらいていたと仮定すれば、勝敗はどうなっていたかわからない。」 以上の記事の真実性を検証する術は、今の時点ではないのだが以下の点が小柏氏系図と符号し一致している。 1.小幡大膳之亮なる人物は実在していて、ある時期武田氏に属していた。 2.大膳之亮は長篠合戦に従軍していた。 3.大膳之亮はこの合戦の際に従者と共に斥候に出ている。(同行者がいた。) 4.大膳之亮はこの斥候に出た時に敵に見つかり危ない目にあった。 小柏氏系図ではこの件を概略次のように記している。 「小柏定重は天正三年五月二十一日黎明の時、武田勝頼の命により小幡大膳之亮と共に小斥候に出て、敵陣に忍び寄った時に敵に発見された。敵は足元から湧くように現れたちまち囲まれた。定重は逃れ難いことを知ったが、武勇無双の者ゆえ闘志は下がることなく比類なき働きをして討ち死にした。」 敵に囲まれた後に大膳之亮がどうしたのかの記載まではない。この系図の記事を一見すると、斥候隊は全滅したかの如くである。だが全員が討ち死にしたと仮定すると、定重の討ち死にした様子を味方陣営に伝える者が居なくなってしまう。 そうするとこの斥候隊の危難は、味方陣営やその子孫には伝わらないものになってしまう。敵方が逐一の局地戦の伝承を残していく事はないだろう。名和氏の著書にある通り、何人かは活路を開き逃走して大膳之亮は従者に助けられて帰投したのであろう。定重がしんがりを勤め、他の者を逃がすべくはたらいたのではなかったか。 小柏系図と名和氏の著書の相違点は、同系図には敵に囲まれたとあり、氏の著書では銃撃を受けたとしている点である。200年以上に亘り伝承されていく間に、少しづつ真実が忘れられ脇にそれていったのかもしれない。 「長篠・設楽原合戦の真実」の出版は1998年である。小柏氏系図と内容が一致しているからといって、同系図の作成者が同書を参考にして系図の記事を書けるはずもない。またその逆の可能性もないようだ。 名和氏は同書の執筆に際し、参考にした文献を挙げておられるが、大膳之亮の記事はどの文献を参考にしたのか、はっきりした言及はなく判然としない。 名和弓雄氏は同書の執筆の前に、設楽原に馬防柵を当時のままに再現して信長の鉄砲の三弾撃ちを検証している。 長篠合戦では武田軍は鳶ヶ巣山にも砦を築いて名和無理之介(宗安)などを布陣させていた。この時、無理之介は徳川軍の奇襲により討ち死にしている。名和氏は熊本に拠点を持った他、上野国の名族ともいわれる。 推測ではあるが、名和弓雄氏はこの名和無理之介の一族・子孫にあたるのではなかろうか。同氏は歴史考証家で武道家でもあり、幾つもの著書を持っている。同氏に大膳之亮の記事が載っていた原資料について、ぜひとも聞いてみたかったが1912年のお生まれとご高齢なのでお尋ねすることも憚られた。 後に同書の出版社・雄山閣に問合せをしてみたところ、名和氏は2005年頃亡くなられたとのことだった。執筆に使われた原典・史料などについては今は分らないとのお答えだった。 また同氏は美濃大垣藩の戸田家の家臣の子孫だったという事も教えて頂いた。
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家康の闘将内藤家長 「長篠・設楽原合戦の真実」では、小幡大膳亮が偵察しているときに徳川家の内藤家長に銃撃されたと記述している。これと同様に内藤家長の記事は 「長篠軍記」 にも見られる。 あまり知られていないこの内藤家長なる人物について調べてみたところ、内閣文庫影印叢刊「譜牒余録 中」に連綿と続く長文の記事があるのを見つけた。以下同書に収載されている「内藤家伝」を詳しく見ていくことにする。 内藤家伝は「譜牒余録」の四十四巻に載せられているが、幾つかの編に分かれている。「内藤家伝」「庶流之伝」「内藤家伝上」「内藤家伝中」「内藤家伝下」の五編がそれである。記述・記録は延宝二年(1674年)の記事までが書き継がれている。 内藤家は平安時代から始まるらしくかなり古い家柄である。大織冠九代の孫・俵(藤原)藤太郎秀郷の子孫であるとしている。 藤氏の内舎人の家柄でありこの故に「内藤」と称するようになった。代々朝廷に奉仕していたが、元祖の内藤検校幸行俊が近江国の検校に任じられた。後に鎌倉幕府に奉仕し更に足利幕府に属したが浪々の身となり、応仁の末頃に三河へ行き徳川家に従った。 内藤家の中興の祖、甚太郎義清は西三河の地を掠め取り、上野城に居を移した。義清の嫡子清長は上野城主を引き継ぎ、遠州二俣の城代に任じられた。内藤家には弓の名手が多くて、幾つもの武功を挙げたという。 内藤義清は岡崎五人衆と呼ばれていた。二代目清長は二俣にて病死したが、三代目の家長は三州吉良郷亀戸の本領の他に、上総佐貫庄をも貰い大身となったが、伏見城にて討死した。 四代政長は十六歳の小幡城攻めの時に初めて首級を挙げた。朝鮮渡海の役では大番頭を務め、後に二十四歳で三万石取りとなり、また家康から岩城城主に任じられた。 五代忠興は大坂の陣の時は家康に従って出陣し一万石の加増を得て後には九万石取りの身となった。六代目は義概といった。 三代目家長の事績は「家長並びに正成伝」に詳しい記述がある。家長は幼名を金一郎といい、後に弥次右衛門家長と名乗った。石川数正の手に属した。家長は騎射を得意としていて、家康にも賞賛されていた。 今川氏真攻め(掛川)の合戦では鉄砲に撃たれた内藤信成の首を取りに来た敵を射殺した。天正三年四月の長篠合戦の時は勝頼が物見を出してきて、味方を窺っていた。家長は叔父の甚五左衛門と二人で出て弓を射た。信長が使いを送ってきて、この武勇を褒めた。 これは「長篠・設楽原合戦の真実」の、記事中の「小幡大膳亮が斥候に出た」ことに符合する記述である。 ここでは「射殺す」との表現にはなっていないので、物見との小競り合いの詳細は不明のままである。「長篠・設楽原合戦の真実」では、大膳亮は内藤金一郎家長に銃撃され被弾したことになっている。 内藤家伝では一門には弓の名手が多かった(是又射芸の達者也)とあり、家長も騎射の名手とある。名和弓雄氏の引用した原典が明らかでなく、内藤家伝にも銃の事は記されていないことから、銃ではなく弓で射たという方がより真実に近いように推察できる。 後に家康が遠州二俣城を攻めた時、勝頼が後詰めに出てきた。この合戦で松平彦九郎を射殺した敵兵・朝比奈弥兵衛を家長は射た。その矢は弥兵衛の鞍の後部より、弥兵衛と共に前輪へと貫き矢の先端が白く見えた。 弥兵衛の弟・弥蔵が 彦九郎の首ウを取りに来ると、家長は二の矢をつがえて弥蔵の小腕を射た。二俣城の城主・芦田下野守はその二本の矢を抜いて、羽の際より折って書を添えて石川家成に送った。 家長は松平姓を授けられたが、これを固辞して名乗ることはなかった。 家康は後に諏訪ノ原田中の城を攻め、この時家康は自身で物見に出た。五六騎を連れただけであった為、敵がこれを見て襲ってきた。家康は誰かあれを討ちとめよと命じたが、請ける者はいなかった。 この時に家長が家康の命に応じて、只一騎馬を返して矢束を解いて散々に敵を射た。これに恐れをなしたのか敵は引き退いた。朝比奈駿河守が出てきて石川伯耆守と戦った際には、家長は槍で朝比奈方の二騎を突き伏せて、板倉源十郎、石川三郎左衛門に首を与えたという。 尾州蟹江の城に入った滝川一益を攻めた時には家長・酒井忠利などが先手を務めた。家長は大手口へ向かい、槍を脇に立て弓で敵数人を射殺した。これに狼狽した城兵は出てくる事が出来なかった。 家長は火矢を放って大手門を焼き崩し一番で乗り込んで、外廓を乗っ取った。この時家長の郎党は城兵と数刻も戦い多くが討死した。天正十三年驚くべき事件が起こった。 徳川譜代の家臣・石川伯耆守が家康に背いて、岡崎を出奔し大阪に行き秀吉に従ったのである。この為、石川の同心八十騎が家長に預けられた。秀吉が相模守氏政を攻めた時、家康は数万騎を率いて箱根山に登った。家長は五十騎と雑兵数百人を前後に立てて従軍した。 これを見た秀吉は使者を寄越してその将名を聞いてきた。家長は弓を伏せて、家康の郎党、三河の住人内藤弥次右衛門家長と申す者にて候と答えた。 秀吉はその器量・骨柄あっぱれ、良将にあたるといって鉄砲三十丁を家長に授けた。慶長五年、上杉攻めの隙を狙い、石田三成が西国・四国の将を語らって兵を起こした。 この時家康は伏見の城代として、鳥居元忠と家長を両大将として兵千人と共に守らせた。敵は四万余騎にて城を二重三重に取り巻いた。鳥居・家長は命を塵芥よりも軽くせしめ、必死に防戦に努めたため敵も攻めあぐねた。 伏見城の攻防戦は七月十九日に始まり晦日まで続いた。外廓を破られ火矢を射かけられた。家長は神谷甚四郎に命じて、火矢を消して回ったため門は一つも焼けなかった。 ここに小早川秀秋が、我儘な三成の下手につくのも無念と城中に内通した。鳥居・家長は相談して家康の下野小山の本陣に誓紙を送ったところ、家康は秀秋を許して味方に加えた。 |
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長篠合戦の小幡氏 小幡大膳之亮の名前が現れているもう一つの文献に「東海乾坤記」がある。同書は天陽様著でインターネットに公開されている。天陽様にも問合せをさせていただいた。そこで分ったことはやはりというか、ある程度予想されたことだったが、名和氏の「長篠・設楽原合戦の真実」を参考文献として執筆したとのお答えをくださった。 天陽様は後に「坂上天陽」のペンネームで多くの時代物小説を書かれている。ここで小幡大膳之亮の名前の追跡は壁にぶつかり、長い低迷気を挟むことになった。その後、小幡氏関連の資料をはじめとして、諸文献の収集に時間を費やしたが耀として大膳之亮の影を掴むことはできなかった。 ちなみに渉猟し管見した文献は次の通り。 甲陽軍鑑 信長公記 長篠日記 三州長篠合戦 口語文全訳三州長篠合戦記 武田三代軍記 大日本戦史(長篠戦争) 日本の戦史三方原・長篠の役 譜牒余録 上・中 三(参)州長篠軍記 近世四戦紀録 四戦紀聞参州長篠戦記 関東古戦録 大日本史料(11-24) 理慶尼記 日本戦史長篠役 原本信長記の世界 (甫庵)信長記(古典文学全集) 三河物語 甲乱記 長篠の戦い(二木謙一) 長篠之戦 武田勝頼(新田次郎) 新三河物語 改正三河後風土記 武徳編年集成の史的考察 武家事記 上・中(長篠軍) 増補家忠日記 史籍雑纂脱(当代記) 徳川実記 長篠合戦余話 甲斐国志4・5巻 松平記 徳川合戦史料大成 三方原の戦と小幡赤武者隊 上野国小幡氏の研究 上野国小幡氏の研究ノート1・2・3・4 熊谷家伝記4~6 角川日本姓氏歴史人物大辞典19山梨県 甲州武田氏家臣団 大日本地誌大系48 甲斐国志第5巻 戦国遺文武田氏編第六巻 新編武田信玄のすべて(の)家臣団事典項目 武田勝頼のすべて(の)家臣団事典 武田勝頼と長篠の合戦 妙法寺記 高白斎記 勝頼夫人祈願書 王代記 以上の諸資料を閲覧したが、これだけ多くの文献を調べても小幡大膳之亮 の名前は見つからなかった。 以上の文献のうち、甲斐国志・武田勝頼のすべて(の)家臣団事典などの 幾つかの文献は山梨県立図書館に協力して頂いた。 また同図書館の佐藤さんからは、長篠合戦に参加した小幡氏は信定と信秀 の二人だけだから、このどちらかが大膳之亮ではないかとご指摘を頂いた。 端的にいえばそうかも知れないが、信真・信秀兄弟は500騎を指揮する侍 大将の地位にあり、斥候に出される身分とは考えられない。 また大膳亮は「大膳」「亮」共に職名であり本名ではない、とアドバイスを頂いたが武田信玄及び勝頼の職制の中にその名前や痕跡は見出すことができない。武田晴信(信玄)も一時期、「大膳太夫晴信」と名乗っていたがこれは朝廷の官位である。 武田氏関連の文献(甲斐国志)によれば、甲州小幡氏も含まれると思われる が小幡姓の侍は以下のように沢山出ている。甲州小幡氏は勝間田氏の出身で信玄の命令で「小幡姓」に改姓したものである。 小幡 上総介 勘兵衛景憲 勘兵衛尚縄 左衛門大夫信実 左馬助高政(小柏) 信竜斎全賢 惣七郎 弾正左衛門尉信高 藤五郎昌忠 藤十郎昌重 日意 縫殿助 能登守行実 彦太郎具隆 豊後守昌盛 孫次郎在直 又右兵衛 三河守信尚 弥三右衛門 弥左衛門 小畑山城守虎盛(甲州) 小畑山城守虎繋(甲州) 当時の武将は何度か名前を変えたものであるが、ここにも小幡大膳之亮らしき名前は見当たらない。 考証の参考までに当時存命していた主な小幡氏の名前・異名を表にしてみた。
上段の5人は共に重定(憲重)の子で兄弟である。同様に前田家に属した3人も兄弟である。小幡氏の名前や経歴には文献により幾つかの異説が唱えられている。 小幡氏次を信真の弟としている文献も幾つかある。後述する「設楽原戦史考」では、諸文献が氏秀と書くのは誤で氏次を信真の弟として、天正17年上野国で戦死、法名宗三、としている。 新城市図書館を通じて、設楽原歴史史料館・長篠史跡保存館館長にも尋ねて頂いたが、小幡大善亮の名前が記載されている資料には心当たりがない、とお答えを頂いた。 |
上野国小幡氏の研究 小幡大膳之亮のプロフィールを追跡する旅は、迷路のような深い森の中をさまよっているような状態のままであった。そこでつらつら考えてみたことは小幡氏の研究者にお尋ねするというものだった。 大氏族ともいえる小幡氏は記録も少なく謎・異説が多い。この小幡氏の研究に先鞭をつけたのが、「群馬県古城塁址の研究」などの著書を持つ山崎一氏であろうか。 他に白石元昭氏の「関東武士上野国小幡氏の研究」があるが、今、小幡氏の歴史・系譜を研究している代表的なグループは、国峯小幡会である。同会は全国に足跡を残し、膨大な資料・文書の収集を行ってその成果を発表している。最近では平成18年に、「上野国小幡氏研究ノートⅣ」を発行した大変熱心な研究会である。 「上野国小幡氏研究ノートⅡ~Ⅲ」の続編となるもので、読者は最新の研究成果をここで知ることができる。後世に残る貴重な文献といえる。ただ残念なことは、史料の提示が多く一読しただけでは意味を取り難い嫌いがあり、今少し解説を載せて頂ければ良かったと思うのは私一人であろうか。 ともあれ微かな手掛かりを求めて、国峯小幡会にお尋ねをさせていただいた。やはり餅は餅屋ということになろうか。「研究ノート」に詳しい研究成果を発表された斉藤氏にお尋ねしたところ、同氏から連絡を受けた今井氏から長文の手紙を頂くことが出来た。 お尋ねした主な内容は、信真或いは信秀が大膳亮と呼ばれたことがあったか、他に小幡氏に大膳亮なる人物が居たかということであった。これに対し、今井氏は小柏氏正系図にある小幡大膳亮は、彦根藩史料の「侍中由緒帳」にある小幡大膳と思われる、と教えて下さった。 更に「井伊年譜」に出ている小幡善左衛門が小幡大膳亮と同一人か或いは親子ではないか、とのご教唆をしてくれたのである。井伊年譜には、井伊直政附属諸士上州衆 小幡善左衛門(本名土肥)とある。 |
彦根藩の小幡氏 「侍中由緒帳」は彦根藩史料叢書の中に収載されており、小幡大善に関する記事は由緒帳の第18号の先頭に記載されていた。第18号には小幡氏を筆頭に三百石の将士の名前が9人掲載されている。 侍中由緒帳第18号の冒頭には、三百石 小幡二郎八 と記されている。この人物が父祖の来歴を書いて、彦根藩に提出した書類といえようか。その記述から、二郎八は自家の事績を書く際に父の与五兵衛が書き記しておいたものを資料としたようだ。 侍中由緒帳を基に小幡大善家の来歴・事績の概要を以下に示していこう。 小幡大善(初代) 同家の初代は二郎八の祖父の小幡大善で別名を実吉といった。生国は相州土肥でありそこに代々居住していた。 土肥は今の神奈川県湯河原であるという。地図で確認すると今も確かに湯河原の駅前・南側に「土肥」の地名が見えている。 大善は武田信玄に仕えていた。後に勝頼に仕え、勝頼が死去の際に浪人となり箕輪(上州)に居住した。その後、関ヶ原の合戦の前に、彦根藩初代藩主の井伊直政に召し出され仕えることになった。 関ヶ原の陣の後に、助勢した実績により百石と御蔵米五十俵を貰った。その後、井伊直継(兵部)の代になって地方の百五十石へと振替になった。(地方に領地を貰ったか。) この頃に名前を小幡大善から善右衛門と変えた。大阪城攻めの際には留守居役を仰せつかった。城方は籠城し城攻めをすることになり、十月末に呼び出され俄かに大阪へ行った。 そこで城攻めの方法などを尋ねられ、思うところを残らず進言した。大坂(ママ)夏の陣にはお供に加えられ、冬の陣にも参加して働いた。大坂から帰ってからは、門番頭を命じられたが、暫くして病を得て死去した。 小幡与五兵衛(二代目) 二郎八の実父・与五兵衛は別名を実利といった。大坂冬の陣の際には17歳であったが、無給(無足)でお供をした。大坂夏の陣を過ぎて切符(給金?)を貰い、城中の御番を務めることになった。 実父の膳右衛門が死去するころには、その跡目を貰うという事はなく与五兵衛独自に新知行として百石を貰った。この年から郷中役を三年間務めた。寛永十一年の上洛の春から破損奉行となり、13年間(?)務めた。 寛永十六年八月に江戸城本丸が焼失したことにより、二代藩主直孝様に普請を命じられ、江戸へ行き材木奉行・普請方として働いた。この頃は千駄ヶ谷の屋敷に住み御成御殿の普請方を務めた。 寛永十七年には将軍家光が千駄ヶ谷の直孝邸を訪れた。江戸詰めは約三年間に亘った。後に作事奉行を命ぜられ余年の間その職を務めた。正保元年には普請奉行となり、二百石の加増を得た。 三代藩主・直澄様入部の九月には、母衣役と陣場割役を命じられた。寛文二年には大地震があり、城内外の石垣が破損したため大変苦労して働いた。この為、褒美として加増五十石を貰う事になった。 寛文十二年の冬には普請奉行の職をとかれ、足軽頭を命じられた。その後隠居を申し出て許された。十七歳で召し出され、三十の年より七十五歳まで隙間もなくお役に付き働いた。頑健な為か病気にもならず一日も欠かさず奉公が出来た。 小幡二郎八(三代目) 二郎八(由緒提出者)は父与五兵衛が書いて置いたものに、自家の来歴を書き加えて由緒帳を提出した。二郎八は別名を実和といって、寛文元年四月頃より子供並奉公として召し出された。 延宝六年に当代の直興様の中小姓を命じられ、貞亨二年に新知行を百五十石を貰う事になった。勤めにより江戸との間を往復すること五度に及んだ。元禄元年二月に、実父与五兵衛の跡目三百五十石の継承を許された。三代目二郎八も与五兵衛を名乗っていたようだが、元禄十六年七月二十日に病死した。 実和は家族五人で彦根に居住していて、他に若党二人、草履取二人、中間四人、召使女六人がいたという。かなりの家格・格式を有していたようだ。 系譜の説明は延々と続くため四代目よりは概要を示していこう。 四代目も与五兵衛を名乗り別名を知虎という。父の知行のうち三百石を貰う事になった。宝暦十年に居宅から出火した。四代目からは当主が自分の系譜を書き継いでいる。 五代目は与茂八で別名は実忠という。知虎の弟だったが養子になり、中小姓となった。知行は七十俵六人扶持。後に跡目相続した。 六代目は富八で別名は実梢である。安永四年に与五兵衛と名を改めた。安永五年に日光参拝の際には騎馬でお供に加わった。天明四年に弓足軽二十人を預けられた。 七代目は二郎八で別名は実昌というが養子であった。後に与五兵衛を名乗った。更に与茂八と名を変えた。 八代目は肇で別名が実豊で養子である。後に昇と名を改めた。 九代目は膳太で別名は実美である。後に名を二郎と改め、更に与五兵衛と改めた。また肇と名を改めた。 十代目は二郎八で別名は実之といい養子である。明治元年十一月二十九日お役御免となる。同日に軍務局三等執事銃手組頭となる。 侍中由緒帳は彦根藩の第五代目の藩主、井伊直興が1691年ころ編纂を始めたとされている。由緒帳には小幡大善は上野国箕輪(以前は長野業正の居城)で井伊直政に召し出されたとある。 だが、直興は由緒帳の編纂を始める5年ほど前に、「貞亨異譜」を編纂したといわれている。同書によると大膳は箕輪ではなく、高崎で召し出されたと記されているという。 この「貞亨異譜」は現在のところ、所在不明となっていて閲覧する事が出来ない。しかしながら、侍中由緒帳は江戸時代を貫いて書き継がれており、それも武家の当主がそれぞれ書きついでいることから、こちらの書の方がより大きな文献史料を形作っている。 箕輪城がある箕輪には、武田の遺臣が戻って来ていたことが十分考えられる上に、史料的にも信頼性が高いと思われる由緒帳の方が正しい記録であると推量される。 井伊直政は関ヶ原合戦の前、家康によって滝川一益が去った後の箕輪城12万石城主に任じられている。後に箕輪城下の住民と共に高崎に移ったとされている。このことから高崎召出し説も生まれたのであろう。 |
井伊年譜に見る小幡大膳 井伊家は「桜田門外の変」で有名な、幕末の大老井伊直弼の家系であるがその歴史を綴ったものに「井伊年譜」がある。井伊年譜には冒頭に「藩臣 功力君章子含 編纂」とある。 この編纂者の名前は「功刀」とするものや幾つかの異字説がある。一見奇妙な名前に見えるのだが、本名(別名)は侍らしいものが別にあるようだ。井伊年譜には「功力助七郎」の名前が何か所かに記されている。編纂者かまたはその近親者かとみられる。 功力の姓では末尾の、右の他の将士の欄に「功力徳左衛門」の名前が記されている。 井伊年譜には序文や解題などが付されておらず、その編纂の意図や目的などは伝わってこない。この井伊年譜の第二巻に小幡善右衛門の名前が見える。 天正十年の記事の箇所で、ここに藩士の名前がグループごとに順に記載されている。ここには一條信隆衆、山懸昌景衆、土屋昌恒衆、原隼人衆、上州白井衆、小田原衆などの順に記載がある。 ついで上州衆となり、上州衆の二番目に小幡善右衛門の名前が記されている。右肩上には「本名土肥」と添え書きが見える。更に左下には「与五兵衛先祖」」と読める添え書きもある。 やはりこの人物は、侍由緒帳に出ている小幡大善のちの善右衛門ので間違いないと思われる。小田原衆の中には小幡笹兵衛?」なる人物がいるが、小田原に近い湯河原で生まれた善右衛門は小田原衆ではなく、上州衆として記載されている。このことから小幡大善(善右衛門)は、上州小幡氏に出自を持つ一族と推察される。 このほか、一條衆の中には小幡又兵衛の名前が記載されているが、この人物は甲州小幡氏とみられる。上州衆の一番目に記されている名前は「岡本半介」と読める。岡本半介は小幡大膳と同じく、箕輪において井伊直政に召出されている。 他に箕輪において召出された将士には河西九左衛門がいるほか、安中で召し出されたのが中村三右衛門である。前島弥次右衛門は上州で召し出されたと記録されている。また渡辺式部は家康に召し出され、後に井伊家に移されたとしている。これらの将士の多くは武田家の遺臣である。 また井伊年譜の第三巻に藩士の名簿が記載されている。こちらは石高別に順に記載されており、百石のところに小幡善右衛門の名前が出ている。これは侍由緒帳に記載されている、当初の俸禄百石と同じであることが確認できる。 前述の岡本半介は若年の時にから井伊直政の近習を務め、は百石を貰っていた。二年目には百石を加増され、更に三百国を加増されて五百石の高給取りとなった。 関ヶ原合戦の前には重要な役どころ・母衣役についていた。同合戦中には兼光の名刀を授けられた。合戦後二度の加増を経て千五百石取りの大身となった。また用人(役)に命じられ加増があった後、俸給も三千石になり老中に任じられた。 老衰により隠居した時には千石もの隠居料を貰っていた。実子の宣興も老中に任じられた。当初の経歴は元禄四年に井伊家に提出され、侍由緒帳に記載され後に明治二年までの系譜が書かれた由緒帳が発見されている。 小幡家の来歴も明治二年までの記載があることから、侍由緒帳は明治二年までの記録を網羅していたもので、明治三年ころまで編纂が続けられていたことが窺がえる。 |
小幡氏の四天王・熊井戸氏 井伊家において大身の旗本となった岡本半介の本名は熊井戸半介である。 熊井戸半介の父は熊井戸業実で、別名は権介・美作守・機庵・喜庵である。子孫は明治の石上省己(13代)まで続いたことが判明している。箕輪にいて井伊直将政に召出されたとあれば、小幡氏と関連の深い熊井戸氏と関連があると推量される。 居住していたのは箕輪ではなく箕輪にいた直政に呼ばれたという可能性もあるが、この場合でも上野国内に住んでいたことであろう。熊井戸氏は小幡氏の家老を務めていたといわれ、縁戚関係もあったようで小幡一族とも呼ばれている。一方で小幡四天王と記載している自治体史もある。 「武田三代軍記」にも熊井戸の名前が記されている。勝頼が上州広木・大仏筋へ軍を進めた時の記事である。勝頼は沼田城を攻め落とし、厩橋城に入った。この頃上野国の殆どは勝頼の幕下に入った。 北条の家臣・松田尾張守が雑兵千人を率いて巡検に来た時に、小幡豊後守が足軽三人を連れて広木の宿に攻め入った。これを危ぶんだ小幡左衛門、熊井戸甲斐介、初鹿伝右衛門などが、敵中に馬を並べて攻め込み小幡上総守も陣を進めた。これら諸将は敵を切り倒しそれぞれの従者に取らせた。 江戸時代になって、織田信長の二男・北畠信雄は小幡藩(二万石)に封ぜられたが、小幡城は熊井戸対馬守正満の屋敷跡を改良したものである。「熊井戸」という姓は珍しいものであり、当然ながら半介の父、熊井戸業実は小幡氏の被官であった熊井戸の一族に連なる人物であろう。 小柏重氏の妻は城和泉守の娘であり、大坂冬の陣には関東方のお使い番を務めた和泉守と共に出陣している。この際、和泉守の家臣・熊井戸久兵衛は老体であったため、重氏が和泉守の婿として久兵衛の陣代を務めた。この熊井戸久兵衛も上野国熊井戸氏であるから、熊井戸半介の一族に連なる人物ではあるまいかと類推される。 熊井戸氏についての資料は大変少なく、なかなか管見に入らないが生島足嶋神社には、西上野の地侍衆が熊井戸対馬守宛てに出した起請文が二通残されている。この対馬守については、正満としている文献の他に重満としている物がある。 多野郡誌によれば、岡本半介は多胡郡岡本(今の上日野岡本)に生まれ、幼名は正武で次に宣就と称しまた喜庵や無明道者と号したという。成人してからは、上泉伊勢守秀綱に師事して高弟となり和歌の達者と言われた。 北条家から招請があったが、母が引き伸ばして出仕せず後に武田家に仕え、また井伊直孝に仕えた。武備を尊び贅沢を慎み質素を旨として、次第に登用され重臣となった。半介の事績は上毛風土記にも載せられているという。 現在管見にはいる井伊年譜は全て写本であって活字になったものはないようだ。このため、全編くずし字で書かれており訂正や削除もあり、やや難解な文献である。全13巻あるようだが、国会図書館やその他の大学図書館も10巻までしか所蔵していない。 |
「設楽原戦史考」に大膳之亮発見 侍中由緒帳を入手した頃、時を同じくして漸く小幡大膳之亮の記事に巡りあう事が出来た。「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」がその文献である。 長篠合戦に出陣した小幡氏を甲陽軍鑑では、小幡信貞・信秀の兄弟としているが、「設楽原戦史考」では信真・信次としている。同書によると、勝頼の本陣を固める足軽大将の一人に、甲州小幡氏とみられる昌盛の名前があり、右翼隊の中に光盛の名前がある。 そして左翼隊四陣を甘利信康、五陣を小幡信真、相備を小幡信秀、六陣を武田信豊と記述している。 牧野文斎氏は病院長であり、牧野図書館を運営していた他に歴史研究家でもあった。同氏は膨大な資料を収集し長篠合戦について和紙二千五百枚もの大部の原稿を残していた。 小幡大膳之亮の斥候の記事は、「設楽原戦史考」と名和氏の著述は僅かな違いを覗いて、殆どが類似した記述になっている。二回目の偵察で敵の弾を二弾被弾して、従者に助けられて漸く明け方に帰陣したところもそっくりである。 細かな違いを述べれば「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」の次のような部分である。 民家に放火したのは大膳之亮の従者である。 大膳之亮は柵(馬防柵)に近付いた。 二回目の斥候から帰った時の勝頼とのやり取り。 「いずれも防備厳重にして攻むべからず。」(大膳之亮) 「敵を討つために進陣す。敵の防備の厳重なるが故に戦わざる法あらんや。」 「然らず、進みて戦うも退いて守るも形勢如何にあり。臣は戦をお留め申すに非ず、敵より懸かるを待ち戦ひ給へと諌め申なり。」(勝頼) この大膳之亮と勝頼のやり取りがあった直後に鳶ヶ巣山での戦闘が始まり、必然的に設楽原決戦に突入していったという。設楽原戦史考では武田軍は総数1万7千人中五千余人が戦死し、織田・徳川軍の死傷者は六千余人と算定している。 同書では小幡信真兄弟は主な生存者の中に加えられている。諸書に小幡左衛門佐信次(信秀と思われる)は戦死とあるが、非認すべきと述べている。 別説では信真戦死説もあり、その墓について書かれた文献もあると聞く。 とどのつまり、「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」は名和氏が引用した原典・資料であると言える。同書は昭和60年に、設楽原をまもる会により整理され発行されている。 名和氏が「長篠・設楽原合戦の真実」を出版したのは、平成10年であるから年次的にみても違和感はない。 「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」は国会図書館でも所蔵していない一地方の研究小誌である。同書の原資料にまでは辿りつけなかったが、何れにしてもこの原資料は関東人の眼に停まるようなものではなかった。 このことはやはり小柏系図の作者の眼にも停まる物ではなかった。同系図の作者が当時の史書や文献などを、網羅・参照しても小幡大膳之亮の名前を知ることはできなかったのである。 結局、小柏氏系図の作者が原資料に用いたのは、天保以前にあったと思われる旧系図や「別記」伝承等であった。ここまで検証してきた結果から考察の結論が行き着くところは、それらの中に大膳之亮の名前が記されていたとほぼ断定できるようである。特に戦国期の系譜を捏造する必要を感じなかったのではあるまいか。 |
二つの小柏氏系図 「上野国小幡氏研究ノートⅣ」の中で、斉藤氏は小柏氏系図に触れて次のように述べている。「小柏氏系譜は…中略…明治中期に古系譜を筆写したため、成立年代は不詳であるが、…後略。」 しかし、これは正確さにかけているようだ。明治中期には文政以降の系譜が書きくわえられたのであって、系図全体が筆写されたのではない。今に残っている小柏氏系図は、その初版から何版めに当たるのかは知る由もないが、筆跡からみると天保の頃に書かれている。 この天保の系図に文政以降、明治中期までの系譜が書きくわえられた。それは明治15年~20年頃のことであろう。小柏氏系図は更に昭和45年頃にも書きくわえがなされている。 同系図は巻物状で、当初の書きだしは次のようなもので長大な文章になっている。 小柏系図 平姓 家紋 揚羽蝶 或丸ノ内釘貫 丸ノ内三ッ柏葉 神武帝五十代 諱山部 桓武天皇 以上述べたことを整理してみると次のようになろうか。 1. 小柏氏系図は現存の物よりも更に古い版の系図があった。 2. 文政~天保年間に、痛んだ古い版の系図が筆写され新しくなった。 3. 明治15年~20年に文政以降の系譜が書きくわえられた。 4. 昭和45年ころに更に新しい系譜が書きくわえられた。 斉藤氏が資料として用いた小柏氏系図は、高山家で所蔵している物である。これは高山長五郎氏が、上日野小柏村の記念碑の為に小柏家にて筆写したものであろう。 上日野に建っている記念碑文の末尾には次のように記されている。 「維持昭和十乙亥年 高山長五郎重業書之」 これらの事は同氏が筆写版ではなく、小柏氏系図の原本を閲覧されれば明らかになるのではないかと思われる。私も高山家所蔵の小柏氏系図はコピーを持っているが、小柏家の系図とは内容が少し異なっている。 幕末から明治へかけての、小柏家当主の八郎次重明のところから以降がやや詳しく記載されている。両家は明治期に縁戚関係になっていることから、それら関係者の記述が書き加えられ、八郎次の義弟の勤務先なども記されている。 末尾には、上日野小柏の記念碑の署名と同じ長五郎氏の署名文が記されている。ちなみに高山氏の系図は巻物状で二巻があり、その内容は少し異なっている。系図の書きだしは共に、高山氏系図 平姓 家紋 と始まり続けて桓武天皇からの系譜を記載している。 高山氏系図は小柏氏系図と形式・形態が非常に似ている。違うところは高山氏系図には、「家紋」の文字の後に家紋のイラストが書かれている点にある。 この類似点の多い系図は、共に古い時代に成立したものではなかろうか。少なくとも両系図の成立年代はそう離れていないと推察される。 また高山家には上杉氏の系図も保有されているが、上杉氏の系図の形式は先の両家の形式とは類似点が見出されない。この高山家が筆写して所有している上杉氏の系図には、末尾に「高山氏 平益重書之」と平姓の署名が見られそのすぐ下には花押が押されている。 |
小柏氏系図を巡る昭和の調査 いま「小柏氏正系図」は前橋の群馬県立文書館にも写しが所蔵されている。小柏氏の宗家を継いだ吉明氏が寄付したと思われる。同氏は先代の当主小柏八郎次重明が没した後、かなり経ってからと思われるがその資産整理に当っている。 文書館の系図には、私が閲覧した当時(2006年)に、「昭和5年小柏吉明家文書、小柏吉明蔵」との添え書がされていた。その為、当初は同年に吉明氏が寄贈したものと思っていた。 しかしよく考えると同系図には昭和45年の事までが記されていて、年次が合わないものとなる。この点について吉明氏のご子息に伺ったところ、当時の事がわかる人がいないとの事であった。 ただ昭和46年頃に吉明氏の従弟の飯塚氏に貸し出したことはあると教えて頂いた。ではこの飯塚氏が文書館に写しなどを寄付をしたのであろうか。これも気になって、文書館に問合せをしてみた。 その結果、文書館から次のような回答を頂いた。 昭和49年頃から、群馬県史の編纂が進められ県庁に県史編纂室が置かれた。同年から県内外の旧家や寺社などを、調査員が訪ねて県史に関わる古文書・記録などの写真撮影をした。この際に撮影したフイルムを紙に焼き付けた物を閲覧に供している。 この公開に際しては、所蔵者の承諾が得られた物に限っている。撮影時の細かい経緯は不明だが、調査員が小柏吉明氏の自宅に行って撮影したと推測される。平成4年に県史編纂室が解散され、収集した史料は文書館に引き継がれた。 調査して頂いた須藤氏からは、「昭和5年」のメモ書きは今は撤去されていて不明だが、もしかしたら昭和5×年(50年)ではなかったかとご指摘があった。確かに昭和50年だと辻褄が合う。 一方では昭和10年に、上日野小柏に小柏氏の系譜を記した記念碑がたてられている。昭和5年~10年の間に小柏家図を巡って、調査が行われた様相を呈しているようにも受け取れる。 この後、昭和46年頃には吉明氏が従弟の飯塚氏に系図を貸し出している。49年頃から50年にかけては、県史編纂室の調査員が小柏家に系図の撮影に訪れている。したがって、昭和の年代での第2回目の小柏系図の調査の動きが現れたのが、46年から50年にかけてのことだったといえる。 上日野小柏(村)にある小柏氏邸跡には、幾つかの記念碑が建てられて静かな佇まいを見せている。これらの碑の幾つかには高山長五郎氏の筆による小柏氏系図とその歴史が記されている。 高山長五郎氏は昭和10年に小柏氏系図を筆写している。碑文はその系図により文案が練られたものと思われる。 それらの記念碑の裏手には小柏氏の歴代の墓や五輪塔などがあり、木漏れ日が差し込む雑木林の中、全てを超越して伝説と共に静かに眠っている。藤岡市から延びている、鮎川街道の上日野の分岐点にバス停「小柏」がある。このバス停の分岐を右斜め方向に進んだ南傾斜の高台に、小高い裏山を背にして小柏邸跡が広がっている。南傾斜の部分には畑や民家が散在して山間の静かな里の趣を呈している。 人の動く気配はなく、時計は止まったかの如くである。時間の流れは都会とは全く違い、一陣の里の風が吹いてくるまでは時の流れが感じられない。 眼下には鮎川の清流や野之宮神社、鮎川街道が垣間見え、川の向こう側には対面するように御荷鉾山のどっしりした威容が迫っている。 夏は緑濃く日差しは強く、冬は木枯らしが吹き鮎川に氷が見られる。邸の跡地には石塔や赤い庵なども見られ、散策していると往時の栄華も偲ばれ一抹の寂寥感が湧いてくるのを禁じ得ない。 邸跡の背中の杉の木立ち、竹の鼻の楢林、そして時折吹いてくるさやかな風が小柏氏の魂を今も守り続けている。今は歴史の名と共に、その大地の中に深く静かに雌伏する時を過ごしているのだろうか。 終り |
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