「古代日本正史」考
     序  
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   本書は密かに静かな人気の中に読まれているように見える。この本を読み通して感情移入のようなものが生まれるのか「ここにこう書かれているからそうなんだ」といった論調で、内容をそのまま肯定している記事や記述を幾つか見かける。 本書は日本の古代史を解明しようと、各地方の古い神社を踏査して由緒や祭神などを調べたものである。
著者は歴史学、文献学、神道学、等の専門家ではなく出版社編集者の出身の方である。

 「日本書紀や古事記に関係しない本当の歴史を調べる、両書以前の文献を探し出せばよい、大した仕事ではあるまい」と序で述べている。

 本書は誰も解明できなかった遥か古代の出来事を記録にあり、神社にあり、として簡単明瞭にそして果敢に断定している。

 

本書が世に出て久しいが各界の専門家による批評などはあまり管見に入らない。むしろ斯界の権威者たちは批判の対象とはせずに黙殺しているかのようだ。

本書は、日本書紀は80%が嘘、古事記は50%が嘘であるという。また日本書紀に書いてあるから間違いないと断定したり、この部分は勇ましく書いてある、この話は嘘である、と判定している。

 

古代史の調査が終わってから初めて日本書紀と古事記を呼んだという。それも詳細に読んだわけではなく、「パラパラとめくってみた」と述べている。

日本の古代歴史は神話とあいまって諸説あるものの確定された定説といったものはない。各界の専門家が研究に没頭し1300年ほどもかかっているが未だに誰一人として解明できていない日本の古代史。本書の著者はそれを僅か1年半の調査で全て解明したと述べる。

 

その著述内容には鋭い推理を展開し、深い洞察に頷けるところも少なくはない。確実に古代史の謎の全てを解明しているものならば、前代未聞の大手柄で国民栄誉賞にも匹敵するものかと思う。著者は判明した事柄に対して逐一出典を上げるとしているが、実際には記録あり、棟札にあり、神社にありとだけ記載している。

 

参考にした文献も平安期や近世に成立した文書が多く、巻末に挙げた参考文献も大雑把な記載が多く正確なタイトルなどが不明で何処にあるどの文献なのか裏付けを取れない恨みがある。

阿紀神社の項では、記録として明治神社誌料に酷似した文章が記されている他、神社庁の文章を参照したかのような記載もある。

文体の○○と思われるとか○○のようだ、○○と考えられる、とされている箇所も多く、壮大な調査報告文献ではあるが、肩肘をはらない読み物として捉えた方が良いのだろうか。

神社の由緒書き?を記録として重視する傍らで、論旨の趣旨に合わないのか、書き換えさせられている、とか間違っている、と断じるところも少なくないようだ。男神社の項では「調査してみたら古い本に左のようにかいてあった」と述べているがどんな資料なのかは不明のままである。

主要資料としているのは、日本書紀、古事記、先代旧事紀、各神社由緒書き、魏志倭人伝、和名抄などで、日本古代正史の根幹構成は縦軸に魏志倭人伝を採って日本の出来事を当てはめていく構造のようだ。

 

 歴史の交差点
  今昔余話






















  
   

日本古代正史概要

 
   

古代の天皇は仁徳天皇までは平均在位10年として、倭人伝やほかの記録にきちんとあう。卑弥呼は天照大神であり 邪馬台国は宮崎の西都市。

アマテラス=卑弥呼は93歳で死去した。

持統天皇以前の天照大神は天照国照大神饒速日尊。

天照大神は九州で生まれ九州で亡くなった。153年か154年の出生。

今の天照大神は大日霊女、女王後に大日霊女貴尊。

 
   

須佐之男

 
    日本古代正史 

 122年頃、出雲国沼田郷(平田市)出生。宇美神社の辺り。父は布都布都御魂)出雲沼田郷の郷士だったようである。142年頃、木次町の豪族八俣遠呂智を斬った。十束の剣・布都御魂の剣(石上神宮)神代史跡八本杉あり。八重垣神社と八重垣あり。奇稲田姫と須我神社に住んだ。 

185(別頁184年)年頃八束郡八雲村熊野で63か64歳で死去。

墓は熊野山磐座、諡号は神祖熊野大神奇御食野(主)尊。

173年九州進出、177年頃、日向侵攻(倭国大乱)須佐之男55歳頃に九州全土を占領。饒速日が26歳頃。西都市を都とした。

 本名は布都斯、別名は熊野早玉大神、武早素佐之男尊、八千矛大神、熊野大神。この時、大日霊女23、4歳くらい。子供は三女あり。 

以降須佐之男が約10年位統治(別頁6~7年間)大国主が引き継ぎ30年位統治。大日霊女が30年位統治。後に豊受姫が50年位統治し栄えた。

 

  一考

  「先代旧事本紀訓註」などの著者、大野七蔵は、須佐之男の誕生地は不明としつつも、宇美神社のご神体  は霊石であり、「海」が「宇美」になったとして宇美神社生誕説を否定している。

 また須佐之男と関係の深い土地は須佐であり、須佐神社の神職を代々務める須佐家は神裔と伝える由緒 を紹介している。(神々の原像)

 原田常治氏は須佐之男が九州に侵攻した年代は、魏志倭人伝の「其の国本亦男子を以って王と為す」か
 ら推量したようだ。その男子とは須佐之男や大国主を指すとしている。  

 須佐之男と子息の五十猛が新羅に天下って、船に乗って日本に渡来した、という伝承は単なる架空のもの ではない、と松前健はいう。

 この神を奉じる紀氏一族の朝鮮半島との交流を物語る神話でもある、としている。更に有田郡の須佐神社 は式内名神大社であり、近くには「須佐」の地名や伊太祁曽神社もあり、ここが須佐之男崇拝の母胎地であろ う、と記している。(出雲の須佐神社は延喜式では小社)(日本の神々⑥)

 

 日本古代正史では須佐之男は須我神社に住んだとしているが、同社は延喜式神名帳には載っていない。  須我神社は谷川健一編の「日本の神々」にも取り上げられていない。ウィキペディアでは「大原郡海潮郷の伝 承に登場する須義禰命であったものが記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる」 としている。

 

神社の多くは、その土地で信仰されていた氏神を祀っている場合が殆どであろう。古い大きな神社の祭神  は古来より揺らぎがあり、諸説あり、時代の変遷と共に変更もあって真相は分からずじまいの所が少なくない。

 須我神社は古い神社ではあるが、創建の年代は同社のホームページにも記載されていない。石塚尊俊に  よれば、八岐大蛇伝承は記・紀に採録されて次第に著名となり、やがて逆に出雲へも下降したらしく、中世に  なると大蛇の遺跡という所が云々されるようになった、という。(日本の神々⑦)

また、古代には杵築大社よりも上位とされていた熊野大社の祭神熊野神については次のように述べている。

「『出雲国造神賀詞』にみる熊野神は『伊射那岐の日真名子、加夫呂岐熊野大神櫛御気野命』であり、決して 素戔嗚尊ではない。櫛御気野とは霊妙なる御饌、すなわち国霊である。『長寛勘文』でも伊弉諾尊の子として、 熊野大神加夫里支久々弥居奴命と素戔嗚命、と別神として扱われている」(一部省略)

 尚、蛇足になるが原田氏は稲田姫救出の件を次のように推測している。

 

(稲田姫は)その頃、美人として評判が高かったようで、須佐之男が、この娘を好きだったのか、それとも、権力者に対する青年の単純な正義感であったのかは不明だが、この稲田姫が木次に連れて行かれたとき、おそらく夜襲をかけたものであろう。木次にあるヤマタノオロチの館に斬りこんでオロチを斃し、稲田姫を奪い出した。」

 

 何か日本昔話のようなストーリィである。ここで安本美典の言葉を借りると次のようなものになる。

 「実際に確かめてみること、それは科学的であることの第一歩である。基礎の事実を、きちんと調べることなくおこなわれている立論は、たとえ、それが、大家、権威のものであろうと、あるいは、ポピュラーなものであろうと、私は、そのどれひとつとして承認することができない。」(倭王卑弥呼と天照大御神伝承)

 

 原田氏は、須佐之男の本名は「布都斯」としているが、これは石上神宮の祭神名から断定されたようだ。同 神社のホームページには、

「記紀神話に見える、須佐之男が出雲国で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣に宿られる御霊 威を称えて布都斯魂大神と申し上げます。」 

と記されている。

原田氏は須佐之男の父は「布都」で石上神宮に親子4代が祀られていると述べている。そして同社では主祭 神は「布都斯御魂大神」であり、他の祭神は配祀神とされる。布都斯御魂大神は武甕雷神が持っていた神剣 である「師霊(ふつのみたま)」に宿られる御霊威としている。

 石上神宮略記によれば、布都斯御魂大神の別名は甕布都神、佐士布都神であるが原田氏はこの別名に  ついては触れていない。

 神剣・布都御魂の所在について原田氏は、「素佐之男が八岐大蛇を斬った布都御魂の剣は、現在も石上  神宮の神庫に国宝として納められている」と述べている。

しかるに源辿によれば、「石上神社の神宝師霊(布都主神魂刀)も、健甕槌之男神(香取神)と共に、鹿嶋大神 (経津主神)に移されている」という。(歴史研究)

 また些末なことかもしれないが、原田氏は三屋神社の項で次のように述べている。

  「ここに残っていた。延喜二年の棟札の裏に、はっきりと『誠忝当社者素蓌嗚尊之御子大巳貴命天下惣霊廟  神明也云々』と記されている。」

  そして神社の裏山の前方後方墳からの出土品にガラス玉、管玉などがあったことに触れて。

   「この出土品を見ただけでも、これが須世理姫のお墓(古墳)であることは間違いないと思われる。」

としている。これを読むと原田氏が棟札を見つけ出して、後ろに続く不要の文章を略して「云々」と記述したか のようにも受け取れる。けれどもこの文章はネット上でも見られるものと全く同じ文言である。

 また延喜二年は902年であり、須佐之男が活躍していたとする二世紀から750年程の時間が経過してい  る。更に三屋神社の裏山の古墳は、松本古墳群であるがこの古墳群は四世紀後半(中頃説あり)の古墳と考 えられている。

出雲国造一族との関りがあるとの説がある。

須佐之男の御子の須世理姫の時代が四世紀とは考えられない。原田氏は、須佐之男は122年頃に生まれ 184年か185年に63歳か64歳で死去したという。

 すると、大雑把にみて、須世理姫は165年頃の出生とみられ、230年頃に死去したとみても差し支えない。  いずれにしても三世紀の中に入る。

 須佐之男と朝鮮半島の関りについては、出雲の喜多八幡宮にややリアルな伝承が伝わっている。

「太古、須佐之男尊の一行は朝鮮半島からの帰途、五十猛海岸に上がり、現在の神別れ坂で他の神々と別  れたあと須佐之男尊はさらに東に進んで百済海岸に上陸、そこから太田に至って土地を開き、農業、殖産に つとめた。この命を祀ったのが境内社来成神社である」(白石昭臣、日本の神々⑦)

 

 
   

 アマテラス 

 
    日本古代正史

大日霊女貴名で祀ってある神社は、枚聞神社、揖宿神社、天岩戸神社、

 日原神社、日御碕神社、登弥神社。153(4)年頃に阿波岐原町で出生。父母はイザナギ・イザナミ。兄弟なし。

須佐之男が小倉から博多、大分、鹿児島と侵略してきた。(其の国本亦男子を以って王とす、倭国大乱)

須佐之男55、6歳、アマテラス23、4歳で出会い魅力的に映った須佐之男に接近した。
7~8年結婚期間。

 恋人多く子供8人。愛人は天常立神、国常立神、天御中主神、神皇産霊神、

高皇産霊神(日向軍の総参謀)。

揖宿神社に大日霊女貴尊と五男三女が祀られている。

狭野神社に伊波礼彦尊、吾平津姫など四夫妻の名が記されている。

大日霊女貴尊は生涯日向で暮らした。卑弥呼である。93か94歳で西都市で死去。墓陵は男狭穂塚、台与の豊受姫は女狭穂塚。

諡号:撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊。瓊瓊杵尊の陵墓は日本書紀に「可愛山稜に葬られる」と記してあるから間違いない。だから男狭穂塚説は間違い。

アマテラスが彷徨った日雲宮は滋賀県の田村神社である。

アマテラスは卑弥呼であり邪馬台国は西都原古墳のある西都市。

 

一考 

男狭穂塚、女狭穂塚については五世紀の古墳とするのが定説のようになっている。アマテラスは二世紀から三世紀の人としており年代が離れすぎていよう。博多湾岸に、存在したであろう奴国などの先進諸国についての言及は殆どしていない。

原田氏はアマテラスと伊勢神宮の関わりについては触れていない。

神話研究の分野で多くの著書をものしている松前健は、内宮の祭神(アマテラス)は皇室の祖先ではなく伊勢地方の漁民や農民が奉じるローカルな太陽神で、土地の娘が斎女として奉仕していた神であろう、と述べている。

また神宮(伊勢神宮)と大和の皇室は、もともとは関係なく祭祀はしていなかったが、後にこの素朴な太陽神を大和朝廷が皇祖神とみなした、という。

更に古代には、天照大神とは別のアマテル神、アマテルミタマノ神と呼ばれる太陽神がもろもろの地方に祀られていた、としている

大和岩雄も同様に天照御魂神が天皇の祖神として明確にされたのは、天武朝から文武朝にかけてのことである、と述べている。(日本の神々⑥))

他にも、伊勢神宮は皇祖神饒速日尊を隠蔽して天照大神を唯一の皇祖神とするために創建された神社である。という大野七蔵の見解もある。(歴史研究638

の三者の論説は恐らくは的を得ていると思われるが、日本の歴史の根幹に関わる最も重要な指摘であり、更なる検証が待たれる。

 

ちなみに安本寿久は、アマテラスの生誕地は徳島、を示唆している。伊弉諾が禊をした日向の橘之小門の比定地として、徳島の橘湾を推していた谷川健一の説を紹介し、同県阿南市には「アハキ」と音の似た「青木」の地名がある、という。(産経新聞神話編)

そして同地には、伊弉冉の神話に似た社伝を伝える延喜式内社の賀志波比売神社がある。同社は724年の創祀と伝えており、賀志波比売はアマテラスの幼名であり当地がその生誕地であるとしている。

「賀志波比売」の音と字面からは意味がとり難い。だが同社の神門は八角形(三方)であり、古くは三方には柏の葉が用いられたという。そして同社の所在地は柏野である。ここからは「賀志波比売」は「柏姫」であったとの推測が成り立つ。

総じて阿波の神社には、土地の神様らしく、且つ古さを感じさせる個人の名前を冠した神社が多い。阿南市は淡路島の南にあたり、その距離はわずかに60キロほどである。徳島は古くは「阿波」であり、「淡(路島)」と同じ音を持つ。伊弉諾、伊弉冉の神話はもともと淡路島の海人族に伝わるもので、それが記・紀に取り入れられたとする説は古くから唱えられていた。

谷川健一は、淡路の一の宮に祀られているのはイザナギと断定している。国産みの際に一番先に産まれたのが淡路島だったことも示唆に富んでいる。

 

 
    鵜茅草葺不合尊  
     日本古代正史

アマテラスの末子で188年頃西都市辺で出生。墓陵は書記に吾平山上陵とあり間違いない。稲飯尊・三毛入野尊入水は嘘。

古事記以前の神社で分かったのは1631社。推定3000~5000あった。うち須佐之男を祀るのが80%。高天原族を祀るのは20%位、他1%。

没収した古文書は二神社16家系図。

倭人伝の「本其の国男子を以って王とす」は須佐之男と後の大国主のこと。

(須佐之男の娘を祀る神社が長崎、佐賀、福岡、鹿児島にあるのが証拠)

国譲りは220年か221年。事代主と多紀理姫、天の児屋根、武御雷、経津主が松江に侵入し簡単に
終わる。

国譲りは建御名方から事代主へ行われた。事代主10歳くらい)への国譲りは230年頃。大国主の末子で住んだ跡が三刀屋町飯石神社。出雲族の大和入りは下関周り。

須佐之男と饒速日が九州全土を占領し西都市を都として40年位統治した。

建御名方は大国主と須世理姫の末子で事代主に国を譲った。

須佐之男が饒速日に十種神宝を渡し180182年頃大和入りさせた。

墓は出雲は四角、日向は丸い。四角の方が古い形式。

 

一考 

男狭穂塚、女狭穂塚については五世紀の古墳とするのが定説のようになっている。アマテラスは二世紀から三世紀の人としており年代が離れすぎていよう。博多湾岸に、存在したであろう奴国などの先進諸国についての言及は殆どしていない。

原田氏はアマテラスと伊勢神宮の関わりについては触れていない。

神話研究の分野で多くの著書をものしている松前健は、内宮の祭神(アマテラス)は皇室の祖先ではなく伊勢地方の漁民や農民が奉じるローカルな太陽神で、土地の娘が斎女として奉仕していた神であろう、と述べている。

また神宮(伊勢神宮)と大和の皇室は、もともとは関係なく祭祀はしていなかったが、後にこの素朴な太陽神を大和朝廷が皇祖神とみなした、という。

更に古代には、天照大神とは別のアマテル神、アマテルミタマノ神と呼ばれる太陽神がもろもろの地方に祀られていた、としている

大和岩雄も同様に天照御魂神が天皇の祖神として明確にされたのは、天武朝から文武朝にかけてのことである、と述べている。(日本の神々⑥))

他にも、伊勢神宮は皇祖神饒速日尊を隠蔽して天照大神を唯一の皇祖神とするために創建された神社である。という大野七蔵の見解もある。(歴史研究638

の三者の論説は恐らくは的を得ていると思われるが、日本の歴史の根幹に関わる最も重要な指摘であり、更なる検証が待たれる。

 

ちなみに安本寿久は、アマテラスの生誕地は徳島、を示唆している。伊弉諾が禊をした日向の橘之小門の比定地として、徳島の橘湾を推していた谷川健一の説を紹介し、同県阿南市には「アハキ」と音の似た「青木」の地名がある、という。(産経新聞神話編)

そして同地には、伊弉冉の神話に似た社伝を伝える延喜式内社の賀志波比売神社がある。同社は724年の創祀と伝えており、賀志波比売はアマテラスの幼名であり当地がその生誕地であるとしている。

「賀志波比売」の音と字面からは意味がとり難い。だが同社の神門は八角形(三方)であり、古くは三方には柏の葉が用いられたという。そして同社の所在地は柏野である。ここからは「賀志波比売」は「柏姫」であったとの推測が成り立つ。

総じて阿波の神社には、土地の神様らしく、且つ古さを感じさせる個人の名前を冠した神社が多い。阿南市は淡路島の南にあたり、その距離はわずかに60キロほどである。徳島は古くは「阿波」であり、「淡(路島)」と同じ音を持つ。伊弉諾、伊弉冉の神話はもともと淡路島の海人族に伝わるもので、それが記・紀に取り入れられたとする説は古くから唱えられていた。

谷川健一は、淡路の一の宮に祀られているのはイザナギと断定している。国産みの際に一番先に産まれたのが淡路島だったことも示唆に富んでいる。

 

 
   

 大国主 

 
    日本古代正史

160年頃、飯石郡三刀屋町で出生。父母不明で医者。須佐之男の養子。須世理姫と飯石郡三刀屋町に住んだ。子供は山代日子と建御名方。

日向で多紀理姫との間に二男一女をなした。末子は事代主。

須佐之男が死んだ時は24~25歳。日向にはたまに出張、後に移住し多紀理姫(アマテラス長女)を現地妻として、高日子根、高姫、事代主を産んだ。

日向で平穏な30年を過ごした。215年頃、死因不明だが西都市で死去、55歳くらい。

大国主の墓は西都原古墳群の一つだけ四角の古墳。須佐之男の養子。

215年頃西都市で死去。(倭人伝、往七、八十年)一人だけで祭られているのは都農神社だけ。出雲大社は死後五百年後に朝廷が築造。

都農神社に記録。日向一の宮にて神階従四位の上、神武天皇が発向の際御祈願され斎き奉らせ給う、――国華万葉記、和漢三方図会に記述あり――。

 

一考 

 

上記の如く述べているが国花万葉記は元禄年間にまとめられた地誌という。

同じく和漢三方図会も江戸時代中期に成立したものであり、記紀に遅れること約千年ほどの後世資料である。

 続いて都農皇神社の記録として、続後記と三代実録が登場するがこの両書は平安時代のものである。都農神社は大巳貴命を祭神とするが、日向国風土記に「日向国古庾郡に、叶濃峯と云ふ峯あり、神おはす。叶乃の大明神とぞ申すなり」とあり、土着の神である後方の山を祀ったのが創祀とみられる。

後に国土の神と結びつけたのであろう。(中村昭藏、日本の神々①)との見解が妥当であろうか。

事代主が飯石神社に住んだとするが、その理由には触れていないので根拠は不明。付近の遺跡から断定したものか。

 

 
   饒速日  
   日本古代正史
 

須佐之男の5子で出雲の須賀・三室山麓で出生。墓は三輪山の磐座。

別名は大歳、事解之男尊、布留、大物主、日本大国魂、天照国照大神、

賀茂別雷大神。

150年か151年出生。大歳は183年頃、須佐之男から十種の神宝受けて大和へ進出。出雲から下関
回り。222年頃68歳か69歳で三輪で死去。

玄関は出雲は大社造りで三角の方、日向系は庇の方に玄関。

出雲神話は北鮮北満系。日向はフイリピン、タイ ベトナム系。

末子相続はモンゴリアン。中国や朝鮮にはなく応神天皇まで。

天王は八代までは創作して書き直した。宗女台与は豊受姫。

代々の天皇が参拝した神社は、 

石上神宮 (饒速日5代、本当の皇祖神宮)

大神神社 (饒速日2代、少彦名)

大和神社 (饒速日3代)

熊野本宮 (饒速日) 

賀茂別雷神社(饒速日)

日吉神社 (饒速日2代)

等で伊勢神宮ではない

「出雲へ行って須佐之男の住んでいた須我神社を調べたら、やはり出てきた。境内摂社に、男の子だけ
五人が祀ってあった。

若宮 八島野命 

秋田 五十猛命(大屋彦命)

琴平(○○) 大歳命 

木山 磐坂彦命 

稲荷 宇迦御魂(倉稲魂命)(209頁)

「須佐之男と稲田姫が住んで『八雲立つ』と歌った、八雲山(三室山)の麓に祀った『須我神社』の境内に
『若宮(子供)社』がある。この摂社には女子を省いて、五人の男子だけが左のように祀られている。

若宮 (八島野命)

秋田 (五十猛命) 

()刀比(○○)()(大歳、後の饒速日命)

木山(磐坂彦命)

稲荷(宇迦御魂又は倉稲魂命)(241頁)

 
   

一考 

大神神社は三輪山をご神体としており、山腹からは様々な祭祀遺物が発見されている。その信仰と祭祀は、ごく古くからあったようで樋口清之は盛大な祭祀が営まれたのは三世紀から八世紀にかけてだとしている。更に付近ではそれ以前の遺物も出土しているという。(日本の神々④所引)

原田氏は旧事紀の供奉の陣容やそのルートの記事を参考にして、資料批判はせずにそのまま認めているようだ。

三輪山、大神神社が三世紀から大々的に祭祀をおこなっていたとすれば、最古の祭祀場、神社といっても大過ないと思われる。

須我神社は日本初の宮を自称するものの、旧社格は県社であり、延喜式神名帳には記載されていない。

日本古代正史の241頁では209頁の表記と少し変わって、「琴平」が「金刀比羅」になっている。更に気になるのは別の須我神社の記事である。確か「歴史研究」に掲載されていた次のような記事があった。

 

「原田常治氏が『日本古代正史』に須我神社に若宮があると書いていたので、早速須我神社に行ってみたが若宮摂社はなかった。宮司にも聞いてみたが『ない、分からない』とのことだった。不可解なことだが、原田常治氏は既に故人となっておられるので確かめるすべもない」

という記事である。奇妙なことがあるものだ、と思ってこの記事のことは記憶に残っていた。検証とまではいかないが、本文を書く一つのきっかけにもなった記事である。

そこで五日間程費やして矯めつ眇めつ何回も「歴史研究」の記事を探したが、見つけることはできなかったので、この記事の著者は未だ不明のままである。

ちなみにウィキぺディアには次のように記されている。

摂末社

若宮神社

稲荷神社、秋田神社、火守神社、琴平神社、木山神社を合祀

 

 日本古代正史ではこの中の火守神社についての説明が欠けている。

尚、原田氏は次のように述べている。

 

 「籠神社の主祭神は彦天火明命、相殿右が天照大神、左は豊受大神。伊勢皇大神宮の内宮の天照大神よりも外宮の豊受大神よりも、上に座っている『彦天火明命』という偉い人で歴史から消されているらしい人が、また一人出てきてしまった。」

 

 確かに籠神社は由緒ある古社であり、所蔵する海部氏系図と勘注系図は国宝に指定されている。籠神社は「元伊勢」と呼ばれていた。その訳は同社の奥宮に豊受大神をお祭りしていて、その由縁で大和の笠縫村から天照大神をお迎えして四年間お祭りしていたことによる。

その後に神社名を「籠神社」と改めて、海部氏が祖先の彦天火明命を主祭神として相殿に天照大神と豊受大神を祀ったと伝えている。

 今一つ気になるのは、原田氏が大和神社の祭神は、八千矛大神、日本大国魂大神と述べている部分である。

 大和神社の公式ホームページには次のように記されている。

「日本大国魂大神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫をして倭の笠縫村に移されたとき、皇女淳名城入姫命に勅して、市磯村(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。」

神社御由緒略誌にも、「当神社の主神は、日本の全国土の地主神に坐します。」とある。

ここにある大国主を思わせる「大地主大神」について論及して」いないことである。また原田氏は、事解之男尊の項で参考文献として、古い記録の神社縁起、帝王編年紀、皇年代略記、延喜式神名帳を上げている。

ここの帝王編年紀は南北朝の成立とされ、皇年代略記は1300年以前の成立とされ、延喜式神名帳は927年頃の成立とみられ、当初同氏が探そうとした記紀以前の資料には該当していない。尚、以下の熊野本宮の記述では第一殿と第三殿を混同されているようだ。

 

日本古代正史

第一殿 (門の正面)家都御子大神

第二殿 伊弉冉尊 事解之男尊

第三殿 伊弉諾尊

第四殿 天照大神

由緒書き

 第一殿 伊邪那美大神(夫須美大神)

      事解之男 相殿

 第二殿 伊邪那岐大神

     早玉大神

 第三殿 本社 家津御子大神(素盞嗚尊) 

  第四殿  天照大神
  熊野本宮大社ホームページ

第一殿 西御前:熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音)
   第二殿 中御前:速玉之男神(薬師如来)
   第三殿 證証殿:家都御子大神(阿弥陀如来)
   第四殿 若 宮:天照大神(十一面観音)

    ( )内は本地仏。熊野本宮大社では、夫須美大神は伊邪那美大神、速玉大神は伊邪那岐大神、家都御子大神は素戔嗚尊としている。

 確かに「家都御子大神」の名前は他では殆ど聞かない神名であるが、「師木津御子」であるとする説もある。この場合、長い年月の間に「シ」の音が飛んで「ケツミコ」になったとする。(冨田茂)

ちなみに延喜式神名考(神道大系)においても、三代実録、国造本紀、南紀名勝志、新古今集、盛衰記の記事の紹介だけで古代の祭神名には触れていない。
 原田氏は、饒速日を歴史から消した理由は仏教渡来にあり、仏教に反対した物部氏の先祖であり、出雲の系統を抹殺する為に歴史から消した、と述べている。

これに対し大野七蔵は「饒速日尊は大和朝廷女系の皇祖神であり、豪族の祖神であったが、この大和の豪族と関係のない日向の大日孁貴尊を皇祖神として饒速日の存在を故意に抹消したと思う」と述べている。(神々の原像)

 

    次いで日本古代史正史は、伊予市三島神社の説明に移り、次のように記して、雷神は饒速日であるとする。(三島神社は延喜式内社ではなく、神名帳には記載がない)

 

   「祭神は大山積命、雷神、高龗神。(記録)初め下津宮は諾冉二柱、中津宮は饒速日神を祭祀す。後に大三島宮より大山積神を勧請、古くは河内神社亦河内三島神社と称した。ここにハッキリと雷神は饒速日であると書いてあった。」

 

  「中津宮に饒速日を祀っていた」とは書いてあるが、「雷神は饒速日」とは書いていないので、これだけで断定は少し危険と思われる。三島神社は愛媛県神社庁に、聖武天皇神亀年に宇摩郡司の越智氏の一族を分治せしめたときに創始されたと伝えられている、との記事がある。これを信ずるとすれば記・紀以後十数年後となる古社となる。

 

  宮中祭祀については原田氏は次のように言う。

  「皇室で現在色々な行事をやっておられることは、日本書紀や古事記とは関係がなく、正しい歴史できちんとされておられることがわかった。」

 「饒速日尊を歴史から消してしまったのと、関係なく皇室では、キチンと本当の史実に基づいて一切の行事を行っておられる証拠である。」

  しかるに原田氏の古代日本正史を評価しているらしい、鳥生恵子は次のように言っている。

  「天皇家に於いてさえ、日本建国の史実は霧の中にあり、『日本書紀』に沿って祭祀が行われている。」

 尚、原田氏が女狭穂塚の被葬者と論考している豊受大神は、古い神社でお祀りしているのは埼玉の調(つき)神社だけのようだ。その調神社もアマテラスの配祀神として祀っていて、謎の多い神といえようか。

  調神社もまた狛犬が居ない、蠅が居ない、鳥居がない、境内に松がないという不思議な神社である。

 他田座天照御魂神社と志気御県座神社は、共に730年の古文献に見え饒速日を祀っていたが日本古代正史では言及されていない。(登彌神社も同様)

 

 
   

 事代主

 
    日本古代正史

210年頃、西都市に生まれる。父は大国主、母は多紀理姫。 

本名は伊毘志都幣尊、住まいは飯石神社。10歳頃に出雲に行き武御名方を追い出し国譲りを受けた。 

多紀理姫と事代主の親子が、上陸した跡に祀ったのが美保神社である。

 


 
   

一考

 原田氏は事代主の本名を伊毘志都幣尊としているがその根拠は提示していない。伊毘志都幣尊は出雲の飯石神社の祭神であるが、この神社が事代主の住居跡だという。飯石神社は、神社本庁由緒や玄松子の記憶などには、伊毘志都幣尊が天下りをした磐石をご神体として祀る古社である。本殿はなく古い祭祀の形態が窺われる。

 神社由緒書き等には、伊毘志都幣尊は天穂日命の子で別名を天夷鳥命、武夷鳥命、天熊大人、大背飯三熊大人、武三熊大人、稲背脛命、武日照命というと記されている。

伊毘志都幣尊は産土神である故、飯石郷の地名が起こった。伊毘志都幣尊は国譲りの際に、熊野諸手船で美保之埼へ事代主を尋ねたと記されている。従って伊毘志都幣尊は古くから祀られていた土地の神であり、別名の中にも事代主を思わせるようなものはなく事代主とは別人であろう。

藪信男も、伊毘志都幣尊は風土記にしか見えない神で、土地神であり古代から当社に祀られてきた神と思われる、という。(日本の神々⑦)

 

原田氏は多紀理姫と事代主の親子が、上陸した跡に祀ったのが美保神社であるという。翻って石塚尊俊は概略次のように述べており、元々は産土の祖神で男神を祀ったものであったらしい。

 

美保神社はさして大きな神社ではなく、古代や中世にあってもとりたてていうほどの社ではなかったらしい。

祭神の三保津姫命と事代主命の名前が出雲風土記には全く見えない。同書では大国主が奴奈宜波比売命を娶って産んだ子・御穂須々美命がここに居て同神を美保という、と記されている。

従って美保郷の地名を負う御穂須々美命が無縁である筈がない。本来一座の神の社がいつの間にか二座になった。風土記の頃には、この郷の祖神たる御穂須々美命のみを祭神としていたのであろう。中世に記紀神話の知識が普及すると美穂津姫命・事代主を祭神とするに至り、今日の形ができたものと考えざるを得ない。(日本の神々⑦)

   尚、同社には今も沼河比売命が祀られている。

 

 


 
   

 神武天皇

 
   

日本古代正史

216年頃、高原町狭野で出生、後に大隅半島吾平・柏原に住む。兄は三人、息子5人。狭野神社の祭神は四夫妻。237年美々津出航、237年大和へ養子に来て、結婚し即位したのが241年。鹿児島神宮の記録の、東遷のおりここに来て日子火々出見尊を祀った、は誤りで別れの挨拶に来た。

「結婚式(即位)は、241年1月1日が正しいようである。この時のことは、その後書き直されてはいるが、物部神社の記録にかなり詳しく記されてあった。―中略―

かくて、辛酉年正月朔日、天皇即位し給う時、祭神は神盾を立てー後略」

天皇の年代は、仁徳天皇死去時の399年を起点として崇峻天皇までの16代までが193年であるから、平均在位12年である。神武天皇から仁徳天皇までは158年で16代であるから平均在位10年位になる。(仁徳以前も在位年数は近いとみる)

一考

原田氏は、石見の物部神社の記録から神武天皇の結婚式(即位)を241年1月1日に行ったと断定している。

最近の研究者は古代天皇の平均在位年数は10年とか11年とする説が勢いを増している。だがまた反論もある。書紀では「古代天皇は親子間での皇位が継承されている」としてあり、親子の間での10年在位継承は不可能であるとするものである。

10年ごとに皇位継承があるとすると、親子の年齢差から15歳以下の年齢で即位する天皇が出てきて、その10年後にはまた子供が即位するというような事態になってしまう。

15歳以下では子をなせない、と生物学的な問題を提起するものであり、もっともなことである。データから見ると10年交代説は有力なものであるが、親から子へ10年ごとに受け継いでいくのには無理があり、兄弟間でも継承があったとすると史書の訂正が必要になってくる。

ここで記録と記しているのは由緒書きと思われ、徳川年間のことが書かれているため、近世のものと思われる(あるいは書き継いだか)がこれをそっくり真実と受け止めているようにもみえる。

そして由緒の記載は次のようなものであり、年月は記載されていない。

 由緒

「前略―神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くしたので天皇より神剣フツノミタマノ剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、フツノミタマノ剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

また物部神社のホームページの御由緒も同様のものであり、年月日などは記載されていない。多くの神社由緒書きは、このように公式文書である延喜式神名帳や記・紀、風土記を参考にして作成されている。

物部神社のホームページ

「前略―神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

 

また、日本古代正史には「この記録の中に、須佐之男、饒速日、摂政宇摩志麻治と受け継いだ、王位継承のしるし十種神宝を神武天皇が受け取られたことが書いてあったので、神武天皇が日向から、大和の伊須気依姫の処へ婿養子に来られたことが、ハッキリした。」と述べている。

その証明として「皇居と石上神宮とで鎮魂祭を行っている」というが、根拠としては少し薄弱ではなかろうか、鎮魂祭と養子だったということが何故結びつくのだろう。

原田氏は、神武天皇を単独で祀ってあるのは唯一宮崎神宮だけであるとしている。宮里立士は次のように言う。

「宮崎神宮の創建の時期は定かではなく、また皇室ゆかりの格式高い神社でありながら、その故事を詳らかにする資料も少なく、多くの謎に包まれた神社である。――中略――『日向地誌』を著した平部矯南をして、『イハレアル古迹ナルニ悲シイ哉千載ノ久シキ文献ノ微トスベキナシ』と言わしめ、ただ後世の者は、想像をもって往時を懐古するのみと嘆息させている。」

「延喜式の神名帳には記載なく、『日向国宮崎郡一座、江田神社』とあるのみである。」(宮崎神宮)

原田氏は、出雲系の相続が二代続けて女子、日向系は二代続けて男子で、その偶然により現在の皇室が日向系になっている、と述べている。このことは同氏は神武天皇から現在まで、天皇が連綿と一系で継続している系譜を信じているようにもみえる。

些末のようなことだが原田氏は、神武天皇は東遷の途次で市杵島姫に挨拶するために下関海峡を西へ行って宗像に行った、と推測している。同氏の系図によれば、市杵島姫は神武天皇の父の異父姉にあたる。こんな遠縁の親戚に挨拶するために大勢の軍隊を連れたままで、こんなにも遠回りをするとは考えられない。

沢山の軍装備と食料も携えて、生きているかどうかも分からない親戚に挨拶をするためだけに長途を行ったのか。

ちなみに高天原伝承を伝える「高天彦神社」は、大和王朝の前に存在した葛城王朝の祖神・高皇産霊尊を祀るとしているほか、葛城王朝は九代まで栄えたが三輪山麓に起こった崇神朝に滅ぼされたと伝えている神社もある。

尚、文部省が作成した「神武天皇聖蹟調査報告」には、多くの伝承地が未詳であると記されている。

筆者は記紀の記述をあからさまに否定する立場ではなく、むしろ多くの伝承には真実の核が含まれていると考えている。

  

ここから辛酉の年を探すと241年になる。崩御年不明。神武天皇を祭った神社は宮崎神宮だけ。神武天皇最初の皇居は大神神社の摂社山の神。

 
   

総括

 
   

本書は557頁にわたる大変な労作であるが、歴史書や研究論文とするよりも調査紀行文・読み物として捉えて方がよさそうに思える。提示していた結果の根拠を示す前に話が飛躍していき結論や論拠が不明なところが数か所に見受けられる。

話があちこちに飛んでいき、何を言いたいのか、二度三度と読み返して考えないと結論が不明な所が散見される。アマテラスの説明をする際も、エカテリーナ二世の愛人の話になり、オーストリアのマリヤ・テレサの多情な話、チェコの山城の話に飛んでゆく。

文章の末尾が「気がする」とか「思われる」とか「ようである」「想定できる」「であろう」「らしい」と結ばれているところが少なくない。

原田氏は、神社の社伝や由緒書き等を「記録」(があり判明した)として記述してゆくので、いかにも史実として捉えているかのようにみえる。だが幾つかの神社の「記録」については紹介した後に、これは後から書き直したもの、後で書いた記録、と判定し切り捨てている。

更に重要な事柄であるが原田氏は、日本書紀の編集員が二神社、十六家の系図を没収抹殺した、何の関連で没収されたのかその一つ一つを調べた、と述べているが、その調べた内容・結果については記されていない。一番痒いところに手が届かない感がある。

 

尚、出雲の重要人物と目される、八束水臣津野命と同神とみられる淤美豆奴神については、著書で言及されていない。須佐之男の第一子八島士奴美神(記)を須我神社の祭神名から八島野命として、調べたが(プロフイールは)良く分からないとしている。

八島野尊こそが大巳貴尊だとの有力な説もあるなかで、残念なことといえようか。

「日向国、大隅国の支配は、須佐之男が死んだ後、大国主が政治をしてアマテラスは自分の娘・多紀理姫を娶せた。大国主は妻よりも十五歳くらい若い多紀理姫とアマテラスに歓待されて、ほとんど出雲へは帰らなかった。

この大国主が日向で死んだことをつきとめた、骨が折れたが、これが解明の鍵だった。四角の古墳の謎が解けた。」

とも記述しているが、推理推測のようで確たる根拠は示されておらず不明のままである。都農神社の現在の祭神が、大巳貴尊であることを傍証として断定されたようだ。

ざっと気になったところを見てきたが、人の上げ足を取るようなことは気持ちの良いものではない。けれど同書は一般の人にもかなり読まれて、しかも内容を信じている人がかなりいるように見受けられたので、一考の提示をさせて頂いた次第である。

神々の系譜の多くは先代旧事本記の系図に準拠して構成したように見える。

 

「古代日本正史」考