小柏氏系譜と戦国武将

     

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  目次



 小柏氏系図の信憑性                    2
 小柏氏系図と平氏                       4
 関東管領上杉氏                       7
 秩父平氏・小山田氏                    11
 小柏氏系図と小幡大膳之亮               15
 長篠 ・設楽が原合戦                   16
 家康の闘将 ・内藤家長                  19
 長篠合戦の小幡氏                      23
 上野国小幡氏の研究                     30
 彦根藩の小幡氏                        31
 井伊年譜にみる小幡大膳                  35
 井伊家の出世頭・岡本半介                 40
 小幡の四天王 ・熊井戸氏                 43
 平氏 ・城和泉守                        46
 小幡大膳之亮の名前発見                  49
 二つの小柏氏系図                      52
 小柏氏系図をめぐる昭和の調査              54
 天引小柏氏の歴史                      56
 天引小柏氏の系譜                      70

  小柏系図の信憑性 

小柏氏系図の信憑性

 

約800年に亘る小柏氏の系図は、その始祖を平重盛(清盛の嫡子)の子の惟盛としている。この長大な系図について「藤岡市史」などは概ね肯定しているように見えるが、一隅にその信憑性について疑問を投げかけている論評の類もあったように思う。

確かに戦国時代には、その混乱の中で多くの古文書や系図類が消失したと言われ、よほどの名家・旧家でなければ家系を戦国時代以前に遡れないとする人もいる。また元禄期には時の経済繁栄を映してか、系図を作成し売る商売がはやったらしい。

系図作成は静かなブームになり、一時期、問題にもなった自費出版と形態が似ていようか。日本の系譜研究の第一人者とも言える人物に太田亮氏がいる。同氏は新撰姓氏録、尊卑分脈、古事類苑、寛政重修家譜やその他、多数の系譜にまつわる古文献を網羅せしめ、その集大成としての「姓氏家系大辞典」「新編姓氏家系辞書」を編纂している。

同氏も日本の系図の多くは偽、あるいは借り系譜によって作られていると述べている。私はこれまでに国宝となっている海部氏系図や、和気氏系図など数多くの古系図を見てきたが、出色と思われるものに井伊氏系図がある。井伊氏の系図は天御中主尊から始まっている。

天照大御神が天皇家の始祖だとしても、今に連綿として続いている井伊氏の系譜は天皇家より古いものということになる。小柏氏系図も平氏に繋がる部分は信憑性が薄く、伝説のようなものであろうと思われる。

だがそれ以後の系譜を深く読んでいくと、真実性が漂っていて特に鎌倉時代以降からリアルなものになっているという印象を受ける。

当時、北条氏に従い鎌倉に住んでいた小柏惟仲は、北条時村が六波羅探題に任じられ京都に赴く時に同行している。この年次を小柏氏系図では弘安元戌寅年十二月二十三日(1278年)鎌倉出立と記載している。

「藤岡市史」では、「実際に北條時村が六波羅探題に任じられたのは1279年であり、この公的記録の前年に京都へ赴いたと系図に記されている所がミソである」と述べている。(建治説あり)このことは小柏氏系図が、後世に歴史を遡って調べて作った物ならば、京都出発を1279年と記載したのではなかったか。そうしていないところに信憑性が感じられる、と言っているのだろう。

小柏惟仲の子の重胤は、やはり六波羅探題になった北条基時に従い京都に住んだ。基時はこの後、鎌倉将軍執権となっている。

小柏重胤の子、時實は京都に住んだのか鎌倉に帰っていたのか不明である。時實の子の實親は、鎌倉に居て執権北条高時に属していたが、新田義貞に攻められ、鎌倉が陥落した時に討死している。

小柏實親の子の重親は幼名を平太夫と言い、宮内少輔で従五位に任じられていた、と小柏系図に記載されている。重親は管領・足利基氏の執政・副将軍上杉憲顕に属し鎌倉に住んでいた。

小柏惟仲・重胤の親子二代が、それぞれ時の六波羅探題に従って京都に詰めていたこと、後に鎌倉で奉仕していた小柏時實・實季の兄弟が、共に討死したことなどの記録は真に迫って来るものがある。

乱世とはいえ、兄弟が同じ戦いで共に討死したという事例は多くはない。一方が負傷、一方が討死したのでもなく共に討死したのである。この小柏氏系図の鎌倉時代の記録には、理に叶っていて造作や嵌め込みなどの矛盾は見当たらないように思われる。

このように素直に考察してみると、小柏氏系図の四代目の惟仲以降は実在性が高いということになろうか。更に惟仲の父の基時は幼名を太郎と名乗ったと系図に記載があり、惟仲の幼名・一太郎とよく似ていることからも時基も実在の人物ではなかったかとの推測が成り立つ。(尤も往古は嫡男に太郎と名をつける事が多かった。)

誰の子かも分からない惟仲を、いきなり北条時村が採用して京都まで従者として、連れて行くとはとても考えられないことが時基の実在性を補完するであろう。

西上野国の名族「高山氏」も、時を同じくして鎌倉北条氏に属していた。高山時重は新田義貞を迎えうち武蔵国関戸にて討死している。

高山氏の事績は鎌倉幕府の史書ともいえる「吾妻鑑」にもしばしば現れている。

上野国には多くの武士団が存在していた。これ等の武士団が鎌倉北条氏に属していたことが窺がえる。これ等の事柄を踏まえて考証を進めると、小柏氏系図の三代目以降はかなりの確度で信憑性があると言えるようだ。ではそれ以前の平氏に繋がる二代の系譜はどう見れば良いのだろう。

 

  小柏系図と平氏 

小柏氏系図と平氏

 

現存の小柏氏系図の筆跡を良くみていくと、江戸時代・天保3年(1832年)の所で途切れている。ここで筆跡が変わり、次の筆跡により文政7年の出来事から記され始めている。文政は天保の前の年号である。

つまり二番目の筆跡では前の筆跡で終わっている部分から更に遡って、重複して系図を書き始めている。14年ほどが重なっていることになる。この二番目の筆跡では天保8年のことも語られていることから、現存する系図が最初の筆跡で書かれたのは天保3年から8年の間とみることが出来る。

二番目の筆跡では文政から明治15年頃まで語られている。

従って現存している小柏氏正系図は、天保年間に作られ(或いは筆写されて)て、更に明治15年頃に文政年間までの過去の歴史・系譜を調べて系図に書き加えたものと推測される。

しかし明治に書き加えられた系図の、最初の方に位置している小柏重基・八郎右衛門についての事績は何ら記されてはいない。重基は「風梅年代記」により、名主に就任した他、嘉永3年には秩父山で金の採掘を試みている等の事績が知られている。このことから明治15年頃の先祖調査は浅いままで、時を移さず系図に書き継いだことが伝わってくる。或いは金の採掘などは、細かな事績と捉えて記さなかったかのどちらかであろう。

整理して結論を述べるとすれば、現存する系図は天保年間に書かれ明治に書き継がれた物である。(詳細は「城和泉守と小柏氏」に記述)

だが小柏氏正系図は、天保年間に初めて作られた物ではないことは状況証拠的なものから明らかであろう。明治の頃には既に嘉永年間の先祖の事績が調べ得なかったことからも分るように、天保年間に遠い鎌倉時代の先祖の名前や事績までは調べようがなかったのではないか。

このことは天保以前から小柏家に、系図や伝承が伝わっていたことになる。これは動かしようのないことと推考される。小柏氏正系図に記されているように、「別記」なる古記録が、ある時期までは伝世されていたと考えると筋の通る話となってくる。

 

天保年間に初めて系図を作ったと考えると、鎌倉時代までの先祖の名前や事績を歴史に即したものに構築していくのは並大抵のことでは出来ないだろう。天保の頃には既に系図があったが、保存状態が悪くなり新しく巻物を作り、前の系図を筆写したものであろうと考えられる。

それ以前にも何度かの作り替えが行われたであろうことは想像に難くない。和紙で作られた系図は紙を継ぎ足して、書き継いでいくものだろうが湿気や虫食いなどによって破損し、読めないものになってしまう。

明治20年頃の比較的新しい文書や史料であっても、虫食いのひどい状態の物を公文書館で見たことがある。小柏氏の始祖とされる小柏(平)維基は、幼名を平太郎と名乗っていた。平清盛の嫡男重盛の子で、その容貌の美しさから光源氏の再来と称された維盛の長男という。

つまり清盛の孫にあたり六代丸の弟になるわけである。小柏氏系図によれば、維基は大人になっても子供の頃の着物を着ていたという。(系図の読み方、解釈によっては異なる意味となる)

体は頑健で一人で山や川に行って日がな漁などをしていたらしい。維基は上野国小柏村に移り住み、土地の名を取って小柏と改称したとされている。ちなみに平重盛の一族は、京都の小松谷に隠れ住んでいた時には小松姓を名乗っていた。  

 藤岡市史には「小松維盛が日野谷に落ち延び隠れ住みついた時に、小松姓を小柏姓に変えたといわれている」と記されている。

 同じく藤岡市編纂の「ふるさと人ものがたり」には、平維盛が武蔵国司在任中に生まれたのが、維基であり日野の奥に隠れ住み後に鹿島神宮を建立した、と出ている。

 神宮建立のことは、江戸時代にその棟札が発見され、同様の記述があったことが確認されている。この他、棟札には、維基が所蔵していた甲冑・武具を奉納した、と記載されていた。

 しかし維盛が実際に武蔵国司に任じられていたのか、「公家補任」等の幾つかの史書をチェックしてみた。漏れているものもあるかもしれないが、今までのところ記録は見つからず確認は取れていないままである。

 当時は国司になっても、実際に任地に赴かなかった人もあり、記録が漏れているのか消失しているのかも不明である。藤岡市上日野には、今も維基の兄・六代丸(六代午前)の伝説や地名が残っている。

 鮎川の午前岩や御前岩橋などの地名がそれであり、多野郡誌や甘楽町史などにも詳しく語られている。同所は六代丸・維基兄弟が碑を建てた旧跡とされている。しかし維基の名前は史書中に見つからず、状況証拠的なものは積み上がっているにも関わらず、その実在性は確認が取れていない。

小柏氏の始祖・維基の子で二代目に当たる維里は、幼名を太郎と名乗り上野国に住んでいたとされる。小柏氏系図には、これ以外に維里の事績は語られていない。

 維盛―維基―維里の三代の名前には、「維」(これ)の文字が共通していてさもありそうな名前になっている。そして小柏氏の三代目の名前には維の文字は使われず「時基」となり、今度は基の文字を使っている。四代目になると維の文字を使った名前「維仲」と、維の字が復活している。

ジグザグと交錯し、やや複雑な経過といえようか。これ以降の小柏家当主の名前には「重」や「高」の文字が多く現れるようになる。これ等のことを総合的に勘案してみると、事績が殆ど語られていない小柏氏の二代目と三代目の間に、隔絶した空間があった可能性も考えられる。

 すなわち実際の小柏氏の始祖は、三代目の時基であり始祖(初代)の維基は伝説・伝承上の人物であったと考えることも出来る。二代目の維里は、伝説と実際の始祖との間を繋ぐミッシングリングとして、ここに嵌め込まれたと見ることも可能となる。

 この場合でも、平家伝承は幾つかの旧家にみられることから、上日野地区に古くから平氏の伝承が伝わっていたのは間違いないようだ。

 

  関東管領上杉氏  

 関東管領上杉氏

 

 上杉氏は公卿の出身であり日本でも指折りの名家である。本姓は「藤原」でその系譜は藤原鎌足にも繋がっている。小柏氏は鎌倉府にあって、代々関東管領の職に就いていた上杉氏に属していた。

 この機会に従属関係の名前の検証を試みておこう。

小柏氏系図によると属した武将は次のとおりである。(山内=山内上杉氏)

上杉氏

関東管領 歴代

小柏氏歴代

小柏氏事績

憲顕      山内

副将軍 管領@

重親 F

鎌倉在

憲方      山内

関東管領  D

重家 G

武功有 宝塔建立

憲定      山内

関東管領  F 

重徳 H

 

憲基 憲実   山内

関東管領 HI

高家 I

軍功有

憲実      山内

関東管領  I

重行 J

 

房顕 顕定   山内

関東管領 KL

顕重 K

顕の字を賜る平井城詰

顕定 憲房 憲寛 山内

関東管領LNO

顕高 L

顕の字を賜る平井城詰

憲政      山内

関東管領  P

高道 M

数度の武功有

 関東管領を務めた上杉氏には、宗家といわれる山内上杉氏の他に扇谷上杉氏、宅間上杉氏、犬懸上杉氏、の三家があった。このうち小柏氏が属したのは全て山内上杉氏であった。

 関東管領には山内上杉氏が多く就任したが、上表での関東管領の歴代の欠損部には、犬懸上杉氏、宅間上杉氏が就任していた。一部に管領(執事)第一代を犬懸憲藤とする説もある。

 次に同世代であったのか、又は世代間のギャップがあったのかを検証してみる。

  

上杉氏       小柏氏

1世代 憲顕      重親

2世代 憲方      重家

3世代 憲定      重徳

4世代 憲基・憲実   高家

5世代 憲実      重行

6世代 房顕・顕定   顕重

7世代 顕定・憲房   顕高

8世代 憲房      顕高

9世代 憲政・憲寛   高道

 

両家の当主が同年齢で死亡する訳ではないから。多少のズレはあるものの以上の比較から、世代別のギャップはなく同世代同時代を従属の関係で生きていたとすることに違和感は生じてこない。

 

            上杉氏系図

 


              憲房  頼成(小山田) 重顕(扇谷)

 


             

憲藤 憲顕(山内)  重兼  重能

 

 


憲栄 憲賢 憲英 憲方 憲春 能憲 憲将

 


     憲重 憲定 房方 憲孝

 

     義憲 憲基

 

        憲実

 


周泰 法興 周清 房顕 顕忠

 

        顕定

   

        憲房 顕実

 


        憲政 憲寛

  秩父平氏・小山田氏 

秩父平氏小山田氏

 

 これより先、執権北条高時に属していた小柏實親の母は、小山田左衛門尉行範の娘とされている。小山田氏は扇谷上杉氏の分家と言われているが、この小山田行範の名前は他書には見かけないものである。

 小山田氏の祖となったのは、扇谷上杉氏の祖となった上杉重顕のすぐ下の弟頼成である。頼成の弟たちはそれぞれ宅間上杉氏、山内上杉氏の祖となっている。頼成の子は藤成で、藤成の子は頼顕と顕定、頼顕の子は定重と氏定、定重の子は定頼である。

 この中に小山田行範が居るのだろうか。小柏實親の子が上杉憲顕に仕えた重親であるから實親の世代は、当然の如く憲顕の父の世代となる。そして憲顕の父は憲房であるから、實親と憲房と頼成(憲房の兄)は同世代(時代)の人となる。

 小山田上杉氏の祖となった頼成の父は頼重で、その父は上杉氏の祖・重房である。よって實親の母は頼重と同世代の人となること必定であるが、頼重及びその父が小山田姓を名乗ったということは伝わっていない。

 小山田城は町田市の大泉寺付近にあって、小山田上杉氏の支配下にあったとされている。しかしながら上杉頼成に始まる小山田氏の系統は、秩父平氏から始まる小山田氏の系図とは合致せず別系統のようである。

 従って小山田行範の探求はここに一時頓挫し、別の角度からの研究が求められることとなる。小山田氏は一つではなく、幾つかの源流と共に関連のない別派が存在している。

 小山田行範と似た名前の人物には、小山田行貞(重成)、小山田行重、小山田行高、小山田行久、小山田景範などが居る。行貞は行重の兄であり、その世代が古すぎて除外できる。

 行重は「平姓小山田系圖写・解説」によると、頼朝の信州訪問に随行した後、畠山重忠謀殺の煽りを食らって甲州へ逃げ武田信光の館に身を寄せたという。

 行重は石田小山田氏の礎を築き、やがて郡内(都留市・大月市)の盟主の地位を確保したと推量している。幸高は行重の次男である。後に仕えていた武田信光に従って芸州へ行った。

 行久は幸高の子であり別名を弾正といい芸州に住んだ。景範は鹿児島にあって薩摩藩に属していた模様。「左衛門尉」は官位名のようであるが、小山田氏で左衛門尉と呼ばれたのは、武田二十四将に挙げられている信茂だが時代がかなり下っている。

 「武家家伝」によると小山田氏は桓武平氏から出ており、良文流秩父氏であるという。秩父庄司重弘のニ男小山田別当有重の子の五郎行重を祖としている。この小山田氏は、1205年の畠山氏(重忠)滅亡事件に連座して没落した。

 1221年の承久の乱には小山田太郎の名前が見えるが、武蔵から興った小山田氏は甲斐に移ったともいわれ定かではない。

 しかし源頼朝が幕府を開いた頃には、既に郡内に根をおろしていたことは間違いない。郡内小山田氏については「妙法寺記」に、小山田信澄が所領を寄進したことが記載されている。

 尚、妙法寺記には小山田弥太郎、小山田大和守、小山田越中守の名前が見えていて、実名は不明ながら郡内小山田氏であったことは間違いないとみている。また武家家伝に掲載されている系図には、有重の子には重成、重朝、行重(小山田)、重親がいる。

 「Wikipedia」によれば、小山田氏は武蔵国小山田庄(町田市)を本領としていて、鎌倉幕府の創立に功を立てたが後に甲斐国へ移り、都留郡を本拠としていた、としている。

 また有重の系統の他に秩父将恒(将常)の三男・小山田太夫常任(常時)が小山田氏を称しており、前九年の役で討死している。この常任も有重の一族であると書いている。

 「太平記」には小山田高家が、湊川の戦いで新田義貞の身代わりとして討死したことが見えている。「山梨県姓氏歴史人物大事典」にも、類似の記事がありやや詳細なものとなっている。他に「姓氏家系大辞典」には小山田氏の詳細な記事が載せられている。

 小山田氏が秩父氏の出身であるということは、通説になっているようだ。ちなみに西上野の名家・高山氏も、秩父平氏の出身であり上州八家ともいわれている。同家の系図には同じ一族の畠山重忠の名前も見えている。

 高山氏からは上野一揆と呼ばれる小林氏が派生し、中世において小林氏は高山氏と共に多くの足跡を残している。

 小山田有重は小山田氏の別当を務め、小山田町に館を構え鎌倉幕府の有力御家人であったという。同地には小山田氏に縁のある小山田神社がある。梶原景時や北条政子とも縁戚関係を結んでいた。

 畠山氏滅亡の時に、同族として小山田重成、重朝、行重も二俣川で殺害された。この後、相模の小山田領は扇谷上杉氏の統治下に入ったようである。甲斐の大月で郡内小山田氏として再興した小山田氏は、1227年に家督を有重の子の行重に譲ったという。

 

 1333年の新田義貞の挙兵の際には、小山田高家(小太郎)が参加して小山田領を取り戻した。だが1336年の湊川の合戦で戦死し再び領地を失った。

 以上は「相模原の歴史シリーズ」から引用させて頂いたが、出典は不明である。掲出の系図を見ると、小山田有重の子の中に行重がいる。上述の記事からは行重と高家の関係は明らかになってはいない。

 同系図にも高家の名前は記されていない。しかし、小山田領を巡っての攻防が展開されており、密接な関係にあったことが読み取れる。年代が近いことから、行重と高家は兄弟、或いは義理の兄弟であったのではないかと思われる。

 小山田行重が二俣川で殺害されたのが、畠山重忠の戦死の時とすると1205年のこととなる。

 そうすると1227年に家督相続を受けられる筈はない。行重の子が長じて父の名前を継いだとも考えられる。だが先の系図には行重の子は秀重と記載されている。他書には畠山重忠の戦死の際に殺害されたのは、稲毛(小山田氏)重成父子、榛谷(小山田氏)重朝父子とされていて行重の名前は記されていない。重成の子は重政で重朝の子は重季である。

 小山田行範の娘で小柏重親の母は当然ながら、實親の父である時實の妻という事になる。更に一代遡り、時實の父・重胤は最後の六波羅探題となった北条基時に仕えて京都にいたとある。

 基時が探題北方の職にあったのは、1301年から1303年までの僅か二年間である。この時期、1293年には鎌倉大地震が発生し、鎌倉一帯は大混乱に陥っている。

 基時は1315年に執権の職に就いたが、翌年には高時に執権職を譲り自分は出家した。小柏時實は誰に属していたのか記録がないが、その子の實親は鎌倉にあって時の執権・北条高時に仕えていたとあるから、時實も鎌倉に居て北条に仕えていたと推察される。

 實親は1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際に討死している。小柏時實の妻の父の世代は、重胤や北条基時の世代となること必定である。(勿論親子一世代の違いは生じる事がある) 

 そして彼ら二人とほぼ同世代の人物に、重胤の息子に娘を嫁がせた小山田行範がいることになる。年代を整理すると次の様になる。

 北条基時の生没年は1286年―1333年

 小柏重胤の生没年は不明、1301年京都在番(時實の父)

 小山田行重 1227年頃家督相続 小山田行範?

 小山田行高 行重の次男      小山田行範?    

 小山田行久 行高の子       小山田行範?

かくして、小柏氏系図に出ている小山田行範なる人物に該当するかと思われるのは上記の三人となる。その理由は名前が似ている、活躍していた年代が近接しているという事である。しかし人物を比定する根拠としては弱いものとなってしまう。果たして行範は行重と同人物であったのだろうか。行重が行範と名乗ったことがあったのだろうか。

上記三人の中で時代が最も近接しているのは行久である。或いは小柏氏系図に誤写・誤謬があったのであろうか。真実は今、遥かな時間の彼方へと埋没してしまったかのようだ。出来ることは調査の結果、知り得た中での可能性を挙げておくことのみである。

 

  小柏氏系図と小幡大膳之亮

小柏氏系図と小幡大膳亮

 

小柏氏系図の中で一つの「サビ」を形つくっている部分に、伝説の「お菊」を助けた小柏定重源六が位置している。定重は千人斬りをした高政の嫡男である。高政は小幡氏の娘を娶り、同氏と共に武田信玄に属していた。

小幡氏と共に妙義神社や菅原神社、近古明神に名前を刻んだ鰐口を寄進している。生島足島神社に、小幡氏と共に奉納した起請文にも名前が記されている。また武田信玄関連の文書には、小幡高政の名前で現れている。

高政の子の定重は宝積寺の裏山でお菊を助けた後に、長篠合戦に参陣し討死している。長篠合戦では実に多くの人命が失われ、その死傷者の数の多さは関ヶ原の合戦に次ぐものといわれる。

小柏氏系図に、定重は長篠合戦の時に小幡大膳亮と共に、斥候に出て敵に見つかり囲まれて斬り死にしたとある。この小幡大膳亮の名前は小幡関連の史書や文献の中には見当たらない。

数多い小幡氏の諸氏の中にも大膳亮の異名をとった人物、またはそれらしい人物は見当たらないのである。膨大な武田信玄関係の文献の中にも登場していないので、全く知られていない謎の人物である。

大膳亮のプロフィールを明らかにすることが出来れば、小柏氏系図を別の方向から検討することが可能となる。そこで大膳亮なる人物について長年に亘って調査を続けていた。唯一その名前が載っている書物は比較的早くに見つかった。名和弓雄氏の著になる「長篠・設楽原合戦の真実」がそれである。

同書は市販されていた為、時間もかからずに入手することができた。同書には設楽原決戦の前夜「五月二十日、深更から日の出前まで、勝頼は小幡大膳亮に命じて、八剣山(弾正山)の敵陣地を偵察せしめた」

と記載されている。

 

  長篠・設楽が原合戦 

長篠設楽原の合戦

 

「長篠・設楽原合戦の真実」は、続いて次のように大膳亮の行動を記している。

「大膳亮は命を奉じて天王山をくだって敵陣を窺ったが、暗くて偵察できないので、傍らにあった大きな家屋(住人は避難して人気はない)に放火させその火光で敵陣を望見しようとした。

この時、監視中の徳川軍内藤金一郎家長らが大膳亮を発見して、銃撃を加えた。弾丸は命中せず大膳亮は危ないところを逃れ帰り、警戒が厳重で偵察の不可能を報告した。

勝頼は怒って再び偵察を命じたので、大膳亮はやむなく再び敵陣に近づいたところ、銃撃されて二弾受けて傷つき、従者に助けられてやっと夜明け近く、本陣に帰投した。

小幡大膳亮は勝頼に、攻撃の中止と、敵から撃って出るのを待ち受けて戦うよう、諫言した。もしこの時、武田軍が馬防柵に突入することをやめ、織田・徳川軍出撃を待って、戦端を開いていたと仮定すれば、勝敗はどうなっていたかわからない。」

 

以上の記事の真実性を検証する術は、今の時点ではないのだが以下の点が小柏氏系図と符合し一致している。

1.    小幡大膳亮なる人物は実在していて、ある時期武田氏に属していた。

2.    大膳亮は長篠合戦に従軍していた。

3.    大膳亮はこの合戦の際に従者と共に斥候に出ている。(同行者がいた)

4.    大膳亮はこの斥候に出た時に、敵に見つかり危ない目にあった。

 小柏氏系図では、この件を概略次のように記している。

 

「小柏定重は天正三年五月二十一日黎明の時、武田勝頼の命により小幡大膳亮と共に小斥候に出て、敵陣に忍び寄った時に敵に発見された。敵は足元から湧くように現れたちまち囲まれた。

 定重は逃れ難いことを知ったが、武勇無双の者ゆえ闘志は下がることなく比類なき働きをして討死した。」

 

 敵に囲まれた後に大膳亮がどうしたのかの記載まではない。この系図の記事を一見すると、斥候隊は全滅したかの如くである。だが全員が討死したと仮定すると、定重の討死した様子を味方陣営に伝える者がいなくなってしまう。

 また、この斥候隊の危難は味方陣営やその子孫には伝わらないものになってしまう。

 敵方が逐一の局地戦の伝承を残していくことはないだろう。名和氏の著書にある通り、何人かは活路を開き逃走して大膳亮は従者に助けられて帰陣したのであろう。

 もしかしたら討死した定重が殿を務め、他の者を逃がすべく働いたのではなかったか。小柏氏系図と名和氏の著書の相違点は、同系図には囲まれたとあり氏の著書では銃撃を受けたとしている点である。

 同系図は小柏定重の事績を語ることを、主眼としているのであるから大膳亮が銃撃を受けたことまでは記載しなかった可能性がある。また銃撃を受け逃走する途中で敵に囲まれたとも考えられる。或いは200年以上に亘り伝承されていく間に少しずつ真実が忘れられ脇にそれていったのかもしれない。

「長篠・設楽原合戦の真実」の出版は1998年である。

小柏氏系図と内容が一致しているからといって、同系図の作成者が同書を参考にして系図の記事を書ける筈もない。

またその逆の可能性もないよううだ。名和氏は同書の執筆に際し、参考にした文献を挙げておられるが、大膳亮の記事はどの文献を参考にしたのか、はっきりした言及はなく判然としない。

 

名和氏は同書の執筆の前に、設楽原に馬防柵を当時のままに再現して信長の鉄砲の三段撃ちを検証している。長篠合戦では武田軍は鳶ヶ巣山にも砦を築いて名和無理之介(宗安)などを布陣させていた。

この時、無理之介は徳川軍の奇襲により討死している。名和氏は熊本に拠点を持った他、上野国の名族ともいわれる。ただの推測にすぎないが、名和弓雄氏はこの名和無理之介の一族・子孫に当るのではなかろうか。同氏は歴史考証家で武道家でもあり、幾つもの著書を持っている。

同氏に、大膳亮の記事が載っていた原史料について、是非とも聞いてみたかったが1912年のお生まれとご高齢なのでお尋ねすることも憚られた。

後に同書の出版社・雄山閣に問い合せをしてみたところ、名和氏は2005年頃に亡くなられたとのことだった。

執筆に使われた原典・史料などについては、今は分からないとのお答えだった。またこの時に、同氏は美濃大垣藩戸田家の家臣の子孫だったということも教えて頂いた。

 

  家康の闘将・内藤家長

徳川家康の闘将 内藤家長

 

「長篠・設楽原合戦の真実」では、小幡大膳亮が偵察している時に徳川家の内藤家長に銃撃されたと記述している。これと同様に内藤家長の記事は「三州長篠合戦記」にも見られる。以下に引用しておこう。

 

「少し前、敵の斥候の三騎が馳せてきて味方の陣営を窺い見ようとしたので、徳川勢御家人で名のある内藤弥次右衛門家長、同甚五左衛門善教は、隠れない弓の達人だから、一矢を射てかの武者を驚かそうと、大弓に矢をつがえしばし狙いを固めて、ひょうと切って放つと、矢は遠鳴りして飛んで行き、遠矢であるから敵には当たらなかったが、この弓勢に恐れて斥候は逃げ去りました。」

 

このくだりは内容が同じであるから、「長篠・設楽原合戦の真実」が記述している大膳亮の第一回目の偵察のことだろう。

あまり知られていないこの内藤家長なる人物について、調べてみたところ内閣文庫影印叢刊「譜牒余録 中」に、連綿と続く長文の記事があるのを見つけた。以下同書に収載されている「内藤家伝」を詳しく見て行くことにする。

内藤家伝は「譜牒余録」の四十四巻に載せられているが、幾つかの編に分かれている。

「内藤家伝」「庶流之伝」内藤家伝上」「内藤家伝中」「内藤家伝下」の五編がそれである。記述・記録は延宝二年(1674年)まで(以下の記事)が書き継がれている。

内藤家は平安時代から始まるらしくかなり古い家柄である。大織冠九代の孫・俵(藤原)藤太郎の子孫であるとしている。

 

藤氏の内舎人の家柄であり、この故に「内藤」と称するようになった。代々朝廷に奉仕していたが、元祖の内藤検校幸行俊が近江国の検校に任じられた。後に鎌倉幕府に奉仕し更に足利幕府に属したが浪々の身となり、応仁の末頃に三河へ行き徳川家に属した。

内藤家の中興の祖、甚太郎義清は西三河の地を掠め取り、上野城に居を移した。義清の嫡子清長は上野城主を引継ぎ、遠州二俣の城代に任じられた。内藤家には弓の名手が多くて、幾つもの武功を挙げたという。

内藤義清は岡崎五人衆と呼ばれていた。二代目清長は二俣にて病死したが、三代目の家長は三州吉良郷亀戸の本領の他に、上総佐貫庄をも貰い大身となったが、伏見城にて討死した。

四代政長は十六歳の小幡城攻めの時に初めて首級を挙げた。朝鮮渡海の役では大番頭を務め、後に二十四歳で三万石取りとなり、また家康から岩城城主に任じられた。

五代目の忠興は大坂の陣の時は家康に従って出陣し、一万石の加増を得て後には九万石取りの身となった。六代目は義概といった。

三代目家長の事績は「家長並びに正成伝」に詳しい記述がある。家長は幼名を金一郎といい、後に弥次右衛門家長と名乗った。石川数正の手に属した。

家長は騎射を得意としていて家康にも賞賛されていた。

今川氏真攻め(掛川)の合戦では、鉄砲に撃たれた内藤信成の首を取りに来た敵を射殺した。天正三年四月の長篠合戦の時は勝頼が物見を出してきて、味方を窺っていた。家長は叔父の甚五左衛門と二人で出て弓を射た。信長が使いを送ってきて、この武勇を褒めた。

 

これは「長篠・設楽原合戦の真実」の、記事中の「小幡大膳亮が斥候に出た」ことに符合する記述である。ここでは「射殺す」との表現にはなっていないので、物見との小競り合いの詳細は不明のままである。

「長篠・設楽原合戦の真実」では、大膳亮は内藤金一郎家長に銃撃され被弾したことになっている。内藤家伝では一門には弓の名手が多かった(是又射芸の達人也)とあり、家長も騎射の名手とある。

「三州長篠合戦記」にも「敵の斥候に矢を射た」と記されている。三つの文献に、大膳亮の斥候の記事が見えている訳だが、この内の二書が矢を射たとあり、一書が銃撃と記している。(後述する他の一書は銃撃と記している)

名和弓雄氏の引用した原典が明らかではなく、内藤家伝にも銃のことは記されていないことから、銃ではなく弓で射たという方がより真実に近いように推察される。

銃と弓の違いはあるものの、内藤家長と武田勝頼の斥候隊との間で小競り合いがあったことが、徳川方の資料によっても裏付けられることになった。

 

後に家康が武田方の遠州二俣城を攻めた時、勝頼が後詰めに出てきた。この合戦で松平彦九郎を射殺した敵兵・朝比奈弥兵衛を家長は射た。その矢は弥兵衛の鞍の後部より、弥兵衛と共に前輪(まえわ)へと貫き矢の先端が白く見えた。

弥兵衛の弟・弥蔵が彦九郎の首を取りに来ると、家長は二の矢をつがえて弥蔵の小腕を射た。

二俣城の城主・芦田下野守はその二本の矢を抜いて、羽の際より折って書を添えて石川家成に送った。家長は松平姓を授けられたが、これを固辞して名乗ることはなかった。

家康は後に諏訪ノ原田中の城を攻めたが、この時家康は自身で物見に出た。五〜六騎を連れただけでであった為、敵がこれを見て襲ってきた。家康は誰かあれを撃ちとめよと命じたが、請ける者はいなかった。

この時に家長が家康の命に応じて、只一騎馬を返して矢束を解いて散々に敵を射た。これに恐れをなしたのか、敵は引き退いた。朝比奈駿河守が出てきて石川伯耆守と戦った際には、家長は槍で朝比奈方の二騎を突き伏せて、板倉源十郎、石川三郎左衛門に首を与えたという。

尾州蟹江の城に入った滝川一益を攻めた時には、内藤家長、酒井忠利などが先を務めた。家長は大手口へ向かい、槍を脇に立てて弓で敵数人を射殺した。これに狼狽した城兵は出てくることが出来なかった。

家長は火矢を放って大手門を焼き崩し、一番で乗り込んで外廓を乗っ取った。この時家長の郎党は城兵と数刻も戦い多くが討死した。天正十三年には驚くべき事件が起こった。徳川譜代の家臣・石川伯耆守が家康に背いて、岡崎を出奔し大阪に行き秀吉に従ったのである。この為、石川の同心八十騎が家長に預けられた。

秀吉が北条相模守氏政を攻めた時、家康は数万騎を率いて箱根山に登った。家長は五十騎と雑兵数百人を前後に立てて従軍した。これを見た秀吉は使者をよこしてその将名を聞いてきた。

家長は弓を伏せて、家康の郎党、三河の住人内藤弥次衛門家長と申す者にて候と答えた。秀吉はその器量・骨柄あっぱれと、良将にあたるといって鉄砲三十丁を家長に授けた。

慶長五年、上杉攻めの隙を狙い石田三成が西国・四国の将を語らって兵を起こした。この時家康は伏見の城代として、鳥居元忠と家長を両大将として兵千人と共に守らせた。

敵は四万余騎にて城を二重三重に取り巻いた。鳥居・家長は命を塵芥よりも軽くせしめ、必死に防戦に努めたため敵も攻めあぐねた。伏見城の攻防戦は七月十九日に始まり晦日まで続いた。

外廓を破られ火矢を射かけられた。家長は神谷甚四郎に命じて、火矢を消して回ったため門は一つも焼けなかった。ここに小早川秀秋が、我儘な三成の下手につくのも無念と城中に内通した。

鳥井・家長は相談して家康の下野小山の本陣に誓紙を送ったところ。家康は秀秋を許して味方に加えた。小勢で守っている伏見城はすぐに落ちても良いはずだったが、鳥居・内藤家長の奮戦により持ちこたえていた。

その時家康に召し出された深尾清十郎という者がいた。深尾は甲賀の足軽を預かっていたが、欲深い男で従僕に恨みをかっていた。

城中は飢餓に苦しんでいたので、深尾の守り口に塀柱の根を切って合図の火を挙げて敵を引き入れた。

敵兵四万人が一度に攻め入ってきたが、鳥居は真っ先に進み斬って出た。家長はもとより弓の達者なれば、散々に射て二男の小一郎は若年なれども士卒に先んじて攻め戦った。松の丸を焼かれ四方から鉄砲を撃ちかけられた。家長は矢玉も尽きて、子の小一郎と一緒に猛火の中に飛び込み灰燼と消えた。敵に首を取られないためである。

ここに家長は五十五歳の生涯を閉じた。自死すといえども名は後世に残るのである。鳥居衆四十八騎、家長の従兵三十六騎は思う存分働いて討死した。家長父子の遺骸は、家人と共に猛火の中より取り出され三井寺にて火葬に付された。

家長の子孫は五万石を賜り、江州長浜城に住み後に奥州棚倉城の城主となった。更に武功を奏して九万石を貰うことになった。

上述の「内藤家伝」は延宝二年の記事を最後に筆をおいている。

 

  長篠合戦の小幡氏

長篠合戦の小幡氏

 

小幡大膳亮の名前が現れているもう一つの文献に「東海乾坤記」がある。同書はインターネットに公開されている。著者の天陽様にも問合せをさせて頂いた。そこで分かったことはやはりというか、ある程度予想されたことだったが、名和氏の「長篠・設楽原合戦の真実」を参考文献として執筆したとのお答えを下さった。

天陽様は後に「坂上天陽」のペンネームで多くの時代物小説を書かれている。ここで小幡大膳亮の名前の追跡は壁にぶつかり、長い低迷期を挟むことになった。

その後、小幡氏関連の資料を始めとして、諸文献の収集に長い時間を費やしたが杳として大膳之亮の影を掴むことは出来なかった。ちなみにこの間に渉猟しチェックした文献は次の通り。

甲陽軍鑑 信長公記 長篠日記 三州長篠合戦 武田三代軍記

口語文全訳三州長篠合戦記 大日本戦史(長篠戦争)譜牒余録上・中

日本の戦史三方原・長篠の役 三(参)州長篠軍記 近世四戦記録

四戦紀聞参州長篠戦記 関東古戦録 大日本史料(11―24)

 理慶尼記 日本戦史長篠役 原本信長記の世界 三河物語

(甫庵)信長記(古典文学全集) 甲乱記 長篠の戦い(二木謙一)

 長篠之戦 武田勝頼 新三河物語 改正三河後風土記 増補家忠日記

武徳編年集成の史的考察 武家事記上・中(長篠軍) 史籍雑纂(当代記)

徳川実記 長篠合戦余話 甲斐国志4・5巻 松平記 徳川合戦史料大成

三方原の戦と小幡赤武者隊 上野国小幡氏の研究 熊谷家伝記4〜6

上野国小幡氏の研究ノート1.2.3.4 甲州武田氏家臣団

 角川日本姓氏歴史人物大辞典19山梨県 大日本地誌大系48

 戦国遺文武田氏編第六巻 新編武田信玄のすべての家臣団事典項目

 武田勝頼のすべての家臣団事典 武田勝頼と長篠の合戦 妙法寺記

 高白斎記 勝頼夫人祈願書 王代記 豆相記

 

以上の諸資料を閲覧してみたが、これだけ多くの文献を調べても小幡大膳亮の名前を発見することは出来なかった。以上の文献のうち、甲斐国志・武田勝頼のすべての家臣団などの幾つかの文献は山梨県立図書館に協力して頂いた。

また図書館の佐藤さんからは、長篠合戦に参加した小幡氏は信定と信秀の二人だけだから、このどちらかが大膳亮ではないかとご指摘を頂いた。端的に言えばそうかもしれないが、信真・信秀兄弟は五百騎を指揮する侍大将の地位にあり、斥候に出される身分とは考えられない。

また大膳亮は「大膳」「亮」共に職名であり本名ではない、とも親切に言って頂いたが、武田信玄及び勝頼の職制の中に、その職名や痕跡は見出すことができない。武田晴信も(信玄)も一時期、「大膳太夫晴信」と名乗っていたがこれは朝廷の官位である。武田氏関連の文献(甲斐国志)によれば、甲州小幡氏も含まれると思われるが小幡姓の侍は以下のように沢山出ている。甲州小幡氏は勝間田氏の出身で、信玄の命令で「小幡姓」に改姓したものである。

小幡上総介

  左衛門太夫信実

  左馬助高政(小柏)

  信竜斎全賢

  惣七郎

  弾正左衛門尉信高

  藤五郎昌忠

  藤十郎昌重

  日意

  縫殿助

  能登守行実

  彦太郎具隆

  三河守信尚(下仁田鷹の巣城主)

  弥三右衛門

  弥左衛門

  勘兵衛景憲(甲州小幡氏)

  豊後守昌盛(景憲の父)

  又右兵衛(又兵衛?→景憲の父)

   勘兵衛尚縄(甲州?)

    弥次郎在直(甲州)

 小畑山城守虎盛(甲州)

 小畑山城守虎繋(甲州)

当時の武将は何度か名前を変えたものであるが、ここにも小幡大膳亮らしき名前は見当たらない。

考証の参考までに、当時存命していた主な小幡氏の名前・異名を表にしてみた。

小幡

別 名

備考

重定

尾張守 憲重 新龍斎 信龍斎 全賢

 

信真

信貞 信実 上総守 上総介 忠甫斎

(右)兵衛尉 右衛門尉

長篠で負傷

信重

弾正忠(高)弾正左衛門 信高

駿河で討死

昌高

民部助 民部少輔 信昌 播磨守

長篠で負傷 上杉家後最上家に属す

昌定

又八郎

三方が原で討死

信秀

左衛門尉

国峰城落城

信氏

弁丸 彦三郎 信貞 信定 平三 駿河守

上総介 右兵衛 右衛門尉 弾正忠(七郎兵衛)

加賀藩

前田家に属す

信久

(七郎衛)

加賀藩 前田家

囚獄

 

加賀藩 前田家

民部

 

 

直之

孫市 孫一郎

安中野殿 徳川家

上段の5人は共に重貞(憲重)の子で兄弟である。同様に前田家に属した3人も兄弟である。小幡氏の名前や経歴は、文献により幾つかの異説が唱えられている。

小幡氏次を信真の弟としている文献も幾つかある。後述する「設楽原戦史考」では、諸文献が氏秀と書くのは誤りで氏次を信真の弟として、天正17年上野国で戦死、法名宗三、としている。新城市図書館を通じて、設楽原歴史史料館・長篠史跡保存館館長にも尋ねて頂いたが、小幡大膳亮の名前が記載されている資料には心当たりがない、とお答えを頂いた。

 

  上野国小幡氏の研究 

上野国小幡氏の研究

 

小幡大膳亮のプロフィールを追跡する旅は、迷路のような深い森の中をさまよっているような状態のままであった。そこでつらつら考えてみたことは、小幡氏の研究者にお尋ねするというものだった。

大氏族ともいえる小幡氏は記録も少なく謎や異説が多い。この小幡氏の研究に先鞭をつけたのが、「群馬県古城塁址の研究」などの著書を持つ山崎一氏であろうか。

他に白石元昭氏の「関東武士上野国小幡氏の研究」があるが、今、小幡氏の歴史・系譜の研究をしている代表的なグループは、国峰小幡会である。同会は全国に足跡を残し、膨大な資料・文書の収集を行ってその成果を発表している。

最近では平成18年に、「上野国小幡氏研究ノートW」を発行した大変熱心な研究会である。

「上野国小幡氏の研究ノートU〜V」の続編となるもので、読者は最新の研究成果をここで知ることが出来る。後世に残る貴重な文献といえる。ただ残念なことは史料の提示が多く、一読しただけでは意味を取り難い嫌いがあり、いま少し解説を載せて頂けたら更に良かったと思うのは私一人だけであろうか。

ともあれ微かな手掛かりを求めて、国峰小幡会にお尋ねさせて頂いた。やはり餅は餅屋ということになろうか。

先の「研究ノート」に詳しい研究成果を発表された、斉藤氏にお尋ねしたところ同氏から連絡を受けた同会の今井氏から長文の手紙を頂くことが出来た。

お尋ねした主な内容は、信真或いは信秀が大膳亮と呼ばれたことがあったか、他に小幡氏に大膳亮なる人物がいたかということであった。これに対し今井氏は、小柏氏正系図にある小幡大膳亮は彦根藩史料の「侍中由緒帳」にある小幡大膳と思われる、と教えて下さった。

更に「井伊年譜」に出ている小幡善左衛門が、小幡大膳亮と同一人か或いは親子ではないか、と丁寧なご教唆を頂いた。井伊年譜には、井伊直政附属諸士上州衆小幡善右衛門(本名土肥)とある。

 

  彦根藩の小幡氏

彦根藩の小幡氏

 

早速、所蔵館を調べ資料を取り寄せて紐解いてみた。「侍中由緒帳」は彦根藩史料叢書の中に収載されており、小幡大膳亮に関する記事は由緒帳の第18号の先頭に記載されていた。

第18号には小幡氏を筆頭に、三百石の将士の名前が九人掲載されている。

侍中由緒帳の第18号の冒頭には、「三百石小幡二郎八」と記されている。

この人物が父祖の来歴を書いて、彦根藩に提出した書類といえようか。

 その記述から、二郎八は自家の事績を書く際に、父の与五兵衛が書き記しておいたものを資料としたようだ。

侍中由緒帳を基に小幡大膳家の来歴・事績の概要を以下に示していこう。

 

小幡大膳(初代)

同家の初代は二郎八の祖父の小幡大膳で別名を実吉といった。生国は相州土肥であり、そこに代々居住していた。

 

 〈土肥は今の神奈川県湯河原であるという。地図で確認すると今も確かに湯河原の駅前・南側に「土肥」の地名が見えている。〉

 大膳は武田信玄に仕えていた。後に勝頼に仕え、勝頼が死去の際に浪人となり箕輪(上野国)に居住した。その後、関ヶ原の合戦の前に彦根藩初代藩主の井伊直政に召出され、仕えることになった。

 関ヶ原の陣の後に、助勢した実績により百石と御蔵米五十俵を貰った。その後、井伊直継(兵部)の代になって地方の百五十石へと振替になった。(地方の領地を貰ったか)

この頃に名前を小幡大膳から善右衛門と変えた。大坂城攻めの際には留守居役を仰せつかった。城方は籠城し城攻めをすることになり、十月末に呼び出され俄かに大坂(阪)へ行った。

そこで城攻めの方法などを尋ねられ、思うところを残らず進言した。大坂冬の陣にはお供に加えられ、夏の陣にも参加して働いた。大坂から帰ってからは、門番頭を命じられたが、暫くして病を得て死去した。

小幡与五兵衛(二代目)

二郎八の実父・与五兵衛は別名を実利といった。大坂冬の陣の際には17歳であったが、無足(無給)でお供をした。大坂夏の陣を過ぎて切符(給金?)を貰い、城中の御番を務めることになった。

実父の善右衛門が死去する頃には、その跡目を貰うということはなく与五兵衛独自に新知行として百石を貰った。この年から郷中役を三年間務めた。寛永十一年の上洛の春から、破損奉行となり十三年間(?)務めた。

寛永十六年八月に江戸城本丸が焼失したことにより、二代藩主直孝に普請を命じられて江戸へ行き、材木奉行・普請方として働いた。この頃は千駄ヶ谷の屋敷に住み御成御殿の普請方を務めた。

寛永十七年には将軍家光が千駄ヶ谷の井伊直孝邸を訪れた。江戸詰めは約三年間に亘った。後に作事奉行を命じられ四年の間その職にあった。正保元年には普請奉行となり二百石の加増を得た。

三代藩主・直澄入部の九月には、母衣役とし陣場割役を命じられた。寛文二年には大地震があり、城内外の石垣が破損したため大変苦労して働いた。この為、褒美として加増五十石を貰うことになった。寛文十二年の冬には普請奉行の職を解かれ、足軽頭を命じられた。その後隠居を申し出て許された。

十七歳で召し出され、三十の年より七十五歳まで隙間もなくお役に付き働いた。頑健な為か病気にもならず一日も欠かさず奉公が出来た。

 

小幡二郎八(三代目)

二郎八(由緒書提出者)は父与五兵衛が書いて置いたものに、自家の来歴を書き加えて侍由緒帳を提出した。二郎八は別名を実和といって、寛文元年四月頃より子供並奉公として召し出された。

延宝六年に当代の直興の中小姓を命じられ、貞享二年に新知行を百五十石を貰うことになった。勤めにより江戸との間を往復すること五度に及んだ。元禄元年二月に、実父与五兵衛の跡目三百五十石の継承を許された。

三代目二郎八も与五兵衛を名乗っていたようだが、元禄十六年七月二十日に病死した。

 

〈実和は家族五人で彦根に居住していて、他に若党二人、草履取二人、中間四人、召使女六人が居たと言う。かなりの家格・格式を有していたようだ。

系譜の説明は延々と続くため、四代目よりは概要を示していこう。〉

 

四代目も与五兵衛を名乗り、別名を知虎という。父の知行のうち三百石を貰うことになった。宝暦十年に居宅から出火した。

(四代目からは当主が自分の系譜を書き継いでいる。)

五代目は与茂八で別名は実忠という。知虎の弟だったが養子になり、中小姓となった。知行は七十俵六人扶持。後に跡目相続した。

六代目は富八で別名は実梢である。安永四年に与五兵衛と名を改めた。安永五年に日光参拝の際には騎馬でお供に加わった。天明四年に弓足軽二十人を預けられた。

七代目は二郎八で別名は実昌というが養子であった。後に与五兵衛を名乗った。更に与茂八と名を変えた。

八代目は肇で別名が実豊で養子である。後に昇と名を改めた。

九代目は膳太で別名は実美である。後に名を二郎と改め更に与五兵衛と改めた。また肇と名を改めた。

十代目は二郎八で別名は実之といい養子である。明治元年十一月二十九日お役御免となる。同日に軍務局三等執事銃手組頭となる。

 

侍由緒帳は彦根藩の第五代目の藩主・井伊直興が1961年頃に編纂を始めたとされている。由緒帳には、小幡大膳は上野国箕輪(以前は長野業正の居城)で井伊直政に召出されたとある。

だが、直興は由緒帳の編纂を始める5年ほど前に、「貞享異譜」を編纂したといわれている。同書によると大膳は箕輪ではなく、高崎で召し出されたと記されているという。

この「貞享異譜」は現在のところ、所在不明となっていて閲覧することが出来ない。しかしながら、侍由緒帳は江戸時代を貫いて書き継がれており、それも武家の当主がそれぞれ書き継いでいることから、こちらの文書の方がより大きな文献資料を形作っている。

箕輪城がある箕輪には、武田の遺臣が戻って来ていたと考えられる上に、史料的にも信頼性が高い思われる由緒帳の方が正しい記録であろうと推量される。ともあれ侍由緒帳に、小幡大膳は武田信玄に仕え後に勝頼に仕えたと記録があることから、この人物が小柏氏系図にある小幡大膳亮と推考される。

定説では武田家滅亡後、属していた将士の悉くは徳川家に属したといわれる。井伊直政は関ヶ原合戦の前に家康によって、滝川一益が去った後の箕輪城十二万石の城主に任じられている。

後に箕輪城下の住民と共に高崎に移ったとされている。このことから高崎召し出し説も生まれたのであろう。当初「侍由緒帳」を見た時は、小幡大膳は相州土肥に代々居住とあり、上野国小幡氏との乖離があるように思われ違和感が否めなかった。

しかしその後調査を続け、武蔵国にも幾つかの小幡氏の足跡があることが分った。「新編武蔵国風土記」を見ると、八王子に小幡泰久、川崎小田に小幡源太郎、川崎蟹ヶ谷に小幡正俊の足跡が記されている。

上野国小幡氏の支族が相州にあっても、何の不思議もないということになろうか。   

 

  井伊年譜にみる小幡大膳

井伊年譜に見る小幡大膳  

 

井伊家は「桜田門外の変」で有名な、幕末の大老井伊直弼の家系であるが、その歴史を綴ったものに「井伊年譜」がある。

井伊年譜には冒頭に「幕臣 功力君章子含 編纂」とある。この編纂者の名前は「功力」とするものの他に幾つかの異説がある。一見奇妙な名前・表現に見えるのだが、侍らしい本名(別名)が別にあるようだ。

井伊年譜には「功力助七郎」の名前が何か所かに記されている。編纂者かまたはその近親者とみられる。他に功力の姓では、末尾の「右の他の将士」欄に「功力徳左衛門」の名前が記されている。

井伊年譜には序文や解題などが付されておらず、その編纂の意図や目的は伝わってこない。この井伊年譜の第二巻に小幡膳右衛門の名前が見られる。これを膳左衛門と読む人がいるが私には膳右衛門に見える。仮に膳左衛門であっても、しっかりした資料として侍由緒帳があるので、転写の際に書き間違えたものと推量される。

 

 

 

 

 

            井伊年譜第二巻

     

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

この後、上述の推量を立証するような文献に出会うことになった。中村達夫氏の著述になる「井伊軍志」がその文献である。同書は井伊家にまつわる資料や古文書などを、網羅して詳細な研究書となっており大変な労作であったことが窺える。

同書には小幡膳右衛門の名前が三か所に記載されている。次に示そう。

 

1)    379頁(彦根藩最古の分限帳)年譜よりその全部を紹介する。

380頁 百石 小幡善左衛門 (実吉)

2)    394頁 鈴木党 小幡善右衛門 

3)    404頁 慶長十二年末の年 御家中分限帳(年譜)より

4)    406頁 百石 小幡善右衛門実吉=鍛冶奉行

 

  これを見ると小幡善左衛門の表記が一か所、小幡善右衛門の表記が二か所となっている。1)の年譜の紹介記事は、井伊直政の嫡子直継が十三歳で家督を継いだのが慶長七年で、この年に最古の分限帳が現れた、貴重なその分限帳を紹介する、としている。

 従って慶長七年の彦根藩士の名簿である。2)の記事は、カリスマ的な主君・直政が逝去すると藩士は二つの派閥、反鈴木党と鈴木党に別れた。その各党の名簿の紹介である。3)の記事は、慶長十二年の分限帳(年譜)の紹介としている。

 つまり分限帳は慶長七年と同十二年の二回作成されたことが分る。小幡善右衛門の名前はその両方に載っており、同時代の人であったことがここに判明する。著者の中村氏は分限帳当時のことを、全てが大雑把な時代であり、記録なども鷹揚な物であったと述べている。

 この言葉は恐らくはそのようなものであったと、無理なく理解できる述懐となっている。大坂冬の陣は、慶長十九年、夏の陣は慶長二十年(1615年)に起こっている。

 侍由緒帳によれば、小幡善右衛門は大坂の陣から帰って後は、門番頭を務め、やがて死去したと記録されている。この記事から慶長七年と同十二年の分限帳に出ている小幡善右衛門は、実吉の名前も同じであり、由緒帳の小幡善右衛門と同一人物とみることが出来る。

 善右衛門の死亡時の年齢は不明だが、仮に1616年に63歳で死去したとすると、天正三年の長篠合戦時は22歳であったことになる。二代目の与五兵衛実利は、大坂冬の陣には17歳であったから、年齢的にも違和感は生じない。当時は17歳くらいから初陣を果たし戦列に加わっていた。

 天正十年の記事の所には、藩士の名前がグループごとに順に記載されている。ここには一條信隆衆、山縣昌景衆、土屋昌恒衆、原隼人衆、上州白井衆、小田原衆、等の順に記載がある。

 ついで上州衆となり、上州衆の次に二番目に小幡善右衛門の名前が記されている。右肩上には、「本名土肥」と添え書きが見えている。更に左下には、「与五兵衛先祖」と読める添え書きもある。

 やはりこの人物は、侍由緒帳に出ている小幡大善で後の善右衛門で間違いないと思われる。小田原衆の中には、小幡笹兵衛?なる人物がいるが、小田原に近い湯河原で生まれた筈の善右衛門は小田原衆ではなく、上州衆として記載されている。

 このことから小幡大膳(善右衛門)は、上州小幡氏に出自を持つ一族ではなかったかと推量される。この他、一般衆のなかには小幡又兵衛の名前が記載されているが、この人物は甲州小幡氏とみられる。

上州衆の一番目に記されている名前は岡本半介と読める。岡本半介は小幡大膳と同じく、箕輪において井伊直政に召出されている。他に箕輪において召出された将士には河西九左衛門、江坂又兵衛、五十嵐軍平、勝平次右衛門歳勝、久保田勘之丞などが居る。

 また安中で召し出されたのが中村三右衛門である。前島弥次右衛門は上州で召し出されたと記録されている。また渡辺式部家康に召し出され、後に井伊家に移されたとしている。

これ等の将士の多くは武田家の遺臣である。また井伊年譜の第三巻に藩士の名簿が収載されている。こちらは石高別に順に記載されており、百石の所に小幡善右衛門の名前が出ている。

これは侍由緒帳に記載されている、当初の俸禄百石と同じであることが確認できる。小幡家の来歴も明治二年までの記載があることから、侍由緒帳は明治二年までの記録を網羅していたもので、明治三年頃まで編纂が続けられていたことが窺がえる。

現在管見に入る井伊年譜は全て写本であって、活字になったものはないようだ。この為、全編くずし字で書かれておいる上に訂正や削除もあり、やや難解な文献である。全13巻あるようだが、国会図書館やその他の大学図書館も10巻までしか所蔵していない。

 

             

     

  

 

 

      

 

 

  井伊年譜

 

 

 

 

  井伊家の出世頭・岡本半介

井伊家の出世頭・岡本半介 

 

井伊家において大身の旗本となった岡本半介の本名は熊井戸半介である。半介の父は熊井戸業実で、別名は権介・美作守で引退してからは機庵・喜庵などと名乗った。子孫は明治の石上省己(だい13代)まで続いたことが判明している。箕輪に居て井伊直政に召出されたとあれば、小幡氏と関連の深い熊井戸氏と関連があるとすぐに推量できる。

居住していたのは箕輪ではなく、箕輪に居た直政に呼ばれたという可能性もあるが、この場合でも上野国内に住んでいたことであろう。岡本半介は若年の頃から、井伊直政の近習を務め百石を貰っていた。二年目には百石を加増され、更に三百石を加増されて五百石の高給取りとなった。

関ヶ原合戦の前には、重要な役どころ・母衣役についていた。同合戦中には兼光の名刀を授けられた。合戦後二度の加増を経て千五百石取りの大身となった。また用人(役)に命じられ加増があった後、俸給も三千石になり老中に任じられた。老衰により隠居した時には千石もの隠居料を貰っていた。

半介は筆が大変に達者で、今に至るも自身が発行した多くの文書が残されている。実子の宣興も老中に任じられた。当初の経歴は元禄四年に井伊家に提出され、侍由緒帳に記載され後に明治二年までの系譜が書かれた由緒帳が発見されている。

多野郡誌によれば、岡本半介は多胡郡岡本(今の藤岡市上日野岡本)に生まれ、幼名は正武で次に宣就と称し、また喜庵や無明道者と号したという。成人してからは、上泉伊勢守秀綱に師事して高弟となり、和歌の達者と言われた。北条家から招請があったが、母が引き伸ばして出仕せず後に武田家に仕え、また井伊直孝に仕えた。

武備を尊び贅沢をつつしみ、質素を旨として次第に登用され重臣となった。半介の事績は上毛風土記にも載せられているという。

以上の記事からは岡本半助家は、小幡衆の熊井戸氏とはやや縁が薄い系譜にあったように推測される。だが別のある日、手元にあった資料を読み返してみると、「北武蔵・西上州の秘史」に半介こそが熊井戸氏の祖であるかの如き記述が見つかった。

同書では岡本氏は通称「熊井戸氏」を用いる。「岡本(持村)氏は長野業正の娘婿で小幡信定(真)、図書の義兄にあたる」と述べている。また岡本氏は熊井戸館に居住していて、仙洞院の開基者であると想定し、小幡氏の家臣の立場をとった際には、「熊井土」姓を使用していると言う。

別項では、岡本氏は小幡氏の臣下に入った時点で、土地名の熊井土を名乗ることにしたと書いている。更には熊井土対馬守は信実(真)の親類筋に当り、現存する井戸は熊井戸と呼ばれていたとしている。

天正十八年の小田原の役から引き揚げて帰還した小幡軍団は、熊井土対馬守に率いられて井伊家(箕輪十二万石)に集団仕官した。この時に、岡本半介は熊井土姓から元の岡本姓に戻して仕官したという。彦根へ行ってからも半介は、下野国と往復の際に熊井戸館のあった上州福島に泊まったとも述べている。後に「井伊の赤備え」として、関ヶ原大坂冬・夏の陣に活躍した。

群馬県史には、箕輪十二万石の領主として入部した井伊直政は、徳川領国中最大の領地を支配する領主となり、それに見合う家臣団を確保するため広く募集して確保したとある。

甘楽郡小幡町には、今もなお熊井土氏の子孫が存在し活躍されている。「郷土氏姓録」によれば、小幡織田氏家臣団、熊井土対馬守正満を祖としている名門旧家であり、本家筋という。家紋は「丸なし井桁に蔦」を用いている。同町には別の熊井戸氏が存在し、家紋を異にしているが出自は同じとみられる。尚、井戸氏は武蔵七党の丹党であり、甲斐、丹波、石見などに地名・氏名があるという。

小井戸、大井戸、駒井戸、熊井戸などは井戸氏の支流であるとしている。

 

  小幡の四天王・熊井戸氏

小幡氏の四天王・熊井戸氏

 

 熊井戸氏は小幡氏の家老を務めていたといわれ、縁戚関係もあったようで小幡一族と呼ばれている。一方で小幡四天王と記載している自治体史もある。

 「武田三代軍記」にも熊井戸氏の名前が記されている。勝頼が上野国広木・大仏筋へ軍を進めた時の記事である。勝頼は沼田城を攻め落とし厩橋城に入った。この頃、上野国の殆どは勝頼の幕下に入った。

 北条の家臣、松田尾張守が雑兵千人を率いて巡検に来た時に、小幡豊後守が足軽三人を連れて広木の宿に攻め入った。これを危ぶんだ小幡左衛門、熊井戸甲斐介、初鹿野伝右衛門などが、敵中に馬を並べて攻め込み小幡上総守も陣を進めた。これら諸将は敵を斬り倒しそれぞれの従者に取らせた。

 江戸時代になって、織田信長の二男、北畠信雄は小幡藩(二万石)に封ぜられたが、小幡城は熊井戸対馬守正満の屋敷跡を改良したものである。「熊井戸」という姓は珍しいものであり、当然ながら半介の父、熊井戸業実は小幡氏の被官であった熊井戸の一族に連なる人物であろう。

小柏重氏の妻は城和泉守の娘であり、重氏は大坂冬の陣には関東型のお使い番を務めた和泉守と共に出陣している。この際、和泉守の家臣、熊井戸久兵衛永正は老体であった為、重氏が和泉守の婿として久兵衛の陣代を務めた。この熊井戸久兵衛も上野国熊井戸氏であるから、熊井戸(岡本)半介の一族に連なる人物ではあるまいかと類推される。

熊井戸氏についての資料は大変少なく、なかなか管見に入らないが生島足島神社には、西上野の地侍衆が熊井戸対馬守宛てに出した起請文が二通残されている。この対馬守については、正満としている文献の他に重満としているものがある。

対馬守を名乗った人物が二人いたのか、又は正満の別名であったのか。

この他に小幡信高が生島足島神社に奉納した起請文にも、熊井戸対馬守の名前が記載されている。小幡親類衆が信真に忠誠を誓い、武田信玄に服従することを誓った「敬白起請文」と題するものである。差出人は次の五人。

弾正左衛門尉信高(小幡)

左馬助高政 (小柏)

自徳斎道佐 (白倉)

能登守行實 (熊井戸?)

熊井戸対馬守重満

「左馬助高政」を小幡氏として理解し紹介している文献があるが、これは間違いなく小柏左馬助高政であり疑いを入れる余地はない。尚、この署名順は一見して、上からが高位の者と見て取れるがその逆とする説もあるようだ。しかし一番上は信真の弟の信高であるから、上から高位の者が順に記載したものと推考出来る。

 

高政の妻は小柏氏系図では小幡重定の姪であるが、鷲?山宝積寺史が引用するところの「国峰小幡氏に集う会」の作成系図によると顕高の娘となっている。顕高は重定の父であるからその娘は重定の妹か姉となり、高政と重定は義理の兄弟の関係となる。当時の状況的なものから種々鑑みると、こちらの系図の方が正しいように思える。

ちなみに「甘楽町史」では小柏氏紹介の所で、「小柏氏 小幡高政、妻は(小幡)信貞の姪、小幡定政(源助)」と紹介している。「妻は信貞の姪」というのは小柏氏系図からの引用かと思われる。だが高政の二男定政を小幡姓で尚且つ源助と表記したのは、その根拠も原典も不明である。

定政は当初、父と同じ左馬助を名乗っていた(後に源重郎と改名した)ことから、混同したとみられる。高政の長男定重(源六)を源助とする説もあることから、ここも混同して定政を源助としたものと考察される。

尚、吉井町史は他書と違って顕高と重定を同一人としている。

妙義町菅原の天神社(菅原神社)に小幡重定(信龍斎)が、嫡子の信真と共に寄進した鰐口(金鼓)の記載名は次の通りである。

 

小幡信龍斎全賢 信真 高政 信直并一類安全子孫繁昌―――後略                              

 

 この「信直」なる人物は小幡系図にも見られない謎の人物である。幕末の頃に綿密に先祖の系譜や事績の調査をして、「幡氏旧領弁録」を顕した小幡龍蟄も高政は小柏氏と気づいていたが、信直なる人物は不詳としていた。

しかし国峰小幡会の小幡氏によれば、この鰐口を寄進したのは、小幡信龍斎、信真、小柏高政、高田信頼であるとしている。してみると信直イコール信頼ということになる。

「武家家伝」等によれば、信頼は武田信玄の一字を貰ったとしている。高田信頼の名前は広く史書に見えている名前であるから、鰐口寄進から間もなく「信頼」と改名したのかもしれない。

 高田氏(「城和泉守昌茂と小柏氏」に詳述)の名前よりも小柏氏の名前が上位に来ていることから、一見すると当時の小柏氏は高田氏よりも権勢を誇っていたかのように見える。しかし、高田氏は、「吾妻鑑」「甲斐国志」「太平記」にも登場する名族でもあり、これは少し考え難い。すると、家系の中での目上の者から書いたとするのが次善の見方であろう。

小幡家の当主である信龍斎、嫡子の信真、当主の義理の兄弟高政、ついで信真の義理の兄弟であろう信直という順になろうか。高政の妻が重定の姪であったなら、この鰐口の名前の順番は信直が高政の上位に記された可能性もある。

甲斐国志によれば高田信頼は小幡尾張守(信龍斎)の娘を娶っていたと言う。先の小幡氏は高田氏は信州へ行き、後に九州へ行き(徳川家旗本の時代の後か)日本で最初の歯医者になったと話して下さった。

ちなみに上野国郡村史に載る鰐口の記事は、「前略右意趣者小幡信龍斎全賢信真高政信直一類安全後略」「源勝頼魂情追日倍増喜悦塁月出来後略」と書かれていたとしている。

双方の鰐口に記載の文言は殆ど同じである。この鰐口を寄進した頃は、小幡衆は武田勝頼に従っていたことが判明する。武田家中にあっては分かり易くするためか、小柏氏や高田氏も小幡姓を名乗っていたようだ。また高政の義弟になる白倉道左や、一部の熊井戸氏も同様であったと思われる。

ここで思い起こされるのは宝積寺の晋山式において、小柏家が小幡藩主の織田家よりも上位の席を占めたという故事である。

 

  平氏・城和泉守 

平氏・城和泉守

 

小柏重氏は大坂の役(冬・夏の陣)の際には、城和泉守に従って参陣した。「寛政重修諸家譜」にもその折の記事が見えている。城氏は各地に足跡を残しているが、その実態を知る資料は少ない。城氏の代表的な存在は越後城氏であろうか。「寛政重修諸家譜」には平氏・繁盛流と出ている。

本拠地は越後古志郡である。その地名から「玉虫」を家号としていたが、第九代目(別説あり)頃の景茂の時から「城」姓に戻したが、諸流は引き続き玉虫を称している。

先の諸家譜によれば、初代は出羽介で鎮守府将軍とされている。景茂は別名を次郎左衛門、和泉守といって、剃髪後は意庵と名乗った。上杉謙信に仕え、後に父と共に武田信玄に属した。城氏の嫡流が断絶し信玄が景茂に「城氏」を名乗らせた。天正十年武田家の没落により家康に召し出され、越後古志郡の本領を与えられた。

天正十二年に長久手の役に出陣し六十六歳で没した。「井伊軍志」には家康から井伊直政が一万の兵を預かっていたとある。その内訳の欄において、三河衆の中に「当其時御付け被成衆」の五番目に城伊庵(景茂)足軽三十人と出ている。

 景茂の子は昌茂であり、別名を織部佑、和泉守といった。隠居してからは、半俗庵と名乗っていた。

 武田信玄及び勝頼に仕えて度々の戦功を現した。信濃国河北の地に百貫文の領地を持っていた。天正十年に父と共に家康に仕えて長久手の戦に供奉した。後に武蔵国忍熊谷の七千石を貰った。慶長五年の関ヶ原の役では、昌茂は父と共に勝山の陣営と大垣城の中間に陣を張りそこを守った。

 九月十三日には家康から父子連名の書状を貰った。後に緋威の鎧、房宗作六十二間妙見星の兜と、具足下の服を貰い奏者番を務めた。大坂冬・夏の陣では松平武蔵守利隆の軍監に任じられた。元和元年に凱旋した後に、昌茂は軍令を犯し咎められ改易させられて、近江国石山寺に屏居した。寛永三年になって赦免され江戸に行く途中、信濃国にて死亡した。七十六歳であった。武蔵国東漸寺に葬られた。

 昌茂の子は信茂で別名を甚太郎、織部祐といった。関ヶ原の役では父と共に大垣城の抑えをして、後には御書院番を務めた。大坂冬・夏の陣では秀忠に供奉した。元和元年に凱旋の後、十二月二十七日に御勘気を賜ったが後に許されて御書院番に戻された。

 元和九年(将軍が)京都に上った時には、先行して同僚の駅舎を定めた。寛永五年には下総国香取郡に千石の領地を貰い、後にお使番に任じられた。寛永十年には命により、小出対馬守吉親に添えられて西街道の国々を巡視した。翌年には甲斐国八代郡に千石の領地を貰った。

 二千石の知行となり十六年に六十二歳で死去し、香取郡に葬られた。城氏からは分派として幾つかの玉虫氏が生まれている。

 小柏重氏が大坂冬の陣に供奉したのは、城和泉守であるが寛政重修諸家譜には城和泉守昌茂は奏者番を務めていたとある。大坂両度の役では軍艦を務めていたことも記されている。

「奏者番」とは、大名からの使者や贈り物をチェックして将軍に取り次ぐ役目で、大目付などと同様に重要な役職であった。この他に寺社奉行を兼ねたり、大名家の中にあって礼式の指南役でもあったという。

 小柏氏正系図には城和泉守は、お使い番を務めていたとある。このお使い番の役目とは、主に戦場にあって司令官の命令を前線の侍大将に届けることであった。騎馬で目立つように背中には、「五」の字を大きく書いた指物を付けていた。伝令役の他に、時に部隊の指揮を執ることもあり、また軍監(監視役)を務めることもあった。

 重要な役目であった為に、それなりの武将が任じられていたという。「お使い番」と「奏者番」はその語感から受けるニュアンスから似ている為、小柏氏系図では勘違いから両者を混同したのであろうか。それとも時代によって言葉や呼び方が微妙に変わっていったのだろうか。(「日本戰史」には昌茂は奏者番、使番、陣中目付の三役が与えられていたことが見えている。)

 ともあれ小柏氏系図にある「城和泉守永盛」は寛政重修諸家譜に見られる城和泉守昌茂と同一人物であると推考される。

 以下に共通点を挙げる。

 永盛と昌茂の違いはあるものの、「城和泉守」までの名前が同じである。

 昌茂は武田信玄と勝頼に従っていた。

 昌茂は大坂冬・夏の陣に参陣している。

昌茂が永盛と名乗っていた、或いは呼ばれていたことがあったのか、今は明らかになっていない。(本稿脱稿後、昌茂が永盛と名乗っていた事実を「日本戰史」の記事に発見し同一人と確認された)

 小柏重氏の父の定政は、兄・定重と父の高政と共に信玄に属していたが、兄が長篠で戦死したことにより家督を継いだ。定政は武田家の滅亡後は、厩橋(前橋)に赴任してきた滝川一益に従っていたと思われるが、一益は信長殺害後に逃げるようにして去って行ったので、他の上野諸士と同様に北条氏に従った。秀吉の小田原城攻めの際には、籠城していたが開城後は浪人の身となり上日野に住んだ。

 その後、定政の子の重氏がどのような経緯のもとに、城和泉守に従うことになったのかは詳細不明である。

 その間の委細は、「別録」に記してあると小柏氏系図は語っているものの、別録は既に失われている。経緯は伝わっていないものの、重氏の妻は城和泉守の娘であることから、この婚姻によって義父の城和泉守に与力・従属することになったのだろう。

 上杉氏から長尾(謙信)氏へ、また武田氏から北条氏へと従属先を変えた小柏氏、一見節操がないように見えるのだが、これが戦国の世で生き延びる唯一の道であった。上野国の武士団は全て同様の経過を辿っている。当時の地侍は特定の武将の家来ではなく、小さいながらも支配下の領地を持った独立の勢力を形成していたのである。

 この小領地を維持して家族を養い、子孫の繁栄を願っていくのは、時の最も有力な武将に与力・協力することが必須の条件になっていた。従う相手を間違えれば攻められ滅ぼされ、領地は没収され追放の憂き目にあう。特に上野国は断トツの武将が生まれなかった割には、地勢上戦略的な位置を占めていた為に、隣国からの侵略に晒され続けた。

 北条、上杉、武田の三傑がそれである。

 

 小幡大膳之亮の名前発見


 「侍中由緒帳」を入手した頃、時を同じくして漸く小幡大膳之亮の記事に巡り合うことが出来た。
 「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」がその文献である。
長篠合戦に出陣した小幡氏を甲陽軍鑑では、小幡信貞・信秀の兄弟としているが、「設楽原戦史考」では信真・信次としている。

 同書を読むと、勝頼の本陣を固める足軽大将の一人に、甲州小幡氏とみられる昌盛の名前があり、右翼隊の中に光盛の名前がある。
 そして左翼隊四陣を甘利信康、五陣を小幡信真、相備えを小幡信秀、六陣を武田信豊と記述している。
 牧野文斎は病院長であり、牧野図書館を運営していた他に歴史研究家でもあった。同氏は膨大な資料を収集し、長篠合戦について和紙二千五百枚もの大部の原稿を残していた。

 小幡大膳之亮の斥候の記事は、「設楽原戦史考」と名和氏の著述は僅かな違いを除いて、殆どが類似した記述になっている。二回目の偵察で敵の弾を二弾被弾して、従者に助けられて漸く明け方に帰陣したところもそっくりである。
 細かな違いを述べれば、「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」の次のような部分である。

  民家に放火したのは大膳之亮の従者である。
  大膳之亮は柵(馬防柵)に近づいた。
  二回目の斥候から帰った時の勝頼とのやり取り。
  「いずれも防備厳重にして攻むべからず」(大膳之亮)
  「敵を討つために進陣す。敵の防備の厳重なるが故に戦わざる  法あらんや」(勝頼)
  「然らず、進みて戦うも退いて守るも形成如何にあり、臣は戦いを お留め申すに非ず、敵より懸るを待ち戦ひ給へと諌め申すなり」  (大膳之亮)

 この大膳之亮と勝頼のやり取りがあった直後に、鳶ヶ巣山での戦闘が始まり必然的に設楽原決戦に突入していったという。
 設楽原戦史考では、武田軍は総数1万七千人中五千余人が戦死し、織田 ・徳川軍の死傷者は六千余人と算定している。
 同書では、小幡信真兄弟は主な生存者の中に加えられている。諸書に小幡左衛門佐信次(信秀と思われる)
は戦死とあるが、非認すべきと述べている。

 別説では信真戦死説もあり、その墓について書かれた文献もあると聞く。とどのつまり、「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」は名和氏が引用した原典であると言える。
 同書は昭和60年に、設楽原を守る会により整理され発行されている。名和氏が「長篠・設楽原合戦の真実」を出版したのは、平成10年であるから年次的にみても違和感はない。
 「設楽原戦史考・牧野文斎遺稿」は、国会図書館でも所蔵していない一地方の研究小誌である。

 同書の原資料にまでは辿りつけなかったが、いずれにしても、この原資料は関東人の目に留まるような物ではなかった。
 このことは、やはり小柏系図の製作者の目にも留まるような物ではなかった。同系図の製作者が、当時の史書や文献などを網羅・参照しても小幡大膳之亮の名前や斥候の状況を知ることは出来なかったのである。

 結局のところ、小柏氏系図の製作者が資料に用いたのは、天保以前にあった(小柏家に)と思われる旧系図や「別記」や伝承等であった。
 ここまで検証してきた結果から、考察の結論が行き着くところは、それ等資料の中に大膳之亮の名前と事績が記されていた、とほぼ断定出来るようである。
 特に、戦国期の系譜を捏造する必要を感じなかったのではあるまいか。


二つの小柏氏系図

二つの小柏氏系図

 

「上野国小幡氏研究ノートW」の中で、斉藤氏は小柏氏系図に降れて次のよううに述べておられる。「小柏氏系譜は中略明治中期に古系譜を筆写した為、成立年代は不詳であるが後略」

しかし、この表現は微妙な違和感を包含しているように感じられる。明治中期には文政以降の系譜が書き加えられたのであって、系図全体が筆写された訳ではない。今に残っている小柏氏系図は、その初版から何版めにあたるのかは知る由もないが、筆跡から見ると天保の頃に書かれている。

この天保の系図に文政以降、明治中期までの系譜が書き加えられた。それは明治15〜20年頃のことであろう。小柏氏系図は更に昭和45年頃にも書き加えがなされている。同系図は巻物で、当初の書き出しは次のようなもので始まり長大な文章になっている。

 小柏氏正系図

 平姓

家紋 揚羽蝶 或丸ノ内釘貫 丸ノ内三ツ柏葉

神武帝五十代

諱山部

桓武天皇

           以下略

 以上、書き連ねてきたことを整理してみると次のようになるだろう。

1.    小柏氏系図は現存の物よりも更に古い版の系図があった。

2.    文政〜天保年間に痛んだ古い版の系図が筆写され新しくなった。

3.    明治15年〜20年に文政以降の系譜が書き加えられた。

4.    昭和45年頃にさらに新しい系譜が書き加えられた。

 斉藤氏が資料として用いられた小柏氏系図は高山家で所蔵している物である。これは高山長五郎氏が、上日野小柏村の建立する板碑の為に小柏家から借りて筆写されたものであろう。いま上日野小柏の立っている板碑は二つあり、一つには小柏氏の事績が書かれていて、もう一つには小柏氏の系譜が書かれている。

 板碑の末尾には次のように記されている。

「維持昭和十乙亥年 高山長五郎重業書之」

これ等のことは同氏が筆写版でなく、小柏氏系図の原本を閲覧されれば明らかになるのではないかと思われる。私も高山家所蔵の小柏氏系図は写しを持っているが、小柏家が所有していた系図とは内容が少し異なっている。

高山家所蔵の系図は幕末から明治へかけての、小柏家当主の八郎次重明のところから以降がやや詳しく記述されている。

両家は明治期に縁戚関係になっていることから、それら関係者の記述が書き加えられ、八郎次の義弟の勤務先なども記されている。末尾には、上日野小柏の記念碑の署名と同じ長五郎氏の署名分が付されている。

ちなみに高山氏系図は巻物状で二巻があり、その内容はかなり異なっている。系図の書き出しは共に、高山氏系図 平姓 家紋、と始まって続けて桓武天皇からの系譜を記載している。

高山氏系図は小柏氏系図と形式・形態が非常に似ている。違うところは高山氏系図には、「家紋」の文字の後ろに家紋のイラストが描かれている点にある。この類似点の多い系図は、共に古い時代に成立した物ではなかろうか。少なくとも両系図の成立年代は、そう離れてはいないと推測される。

高山家、小柏家とも鎌倉時代、戦国時代と従属先を同じくし、主筋を変える時もほぼ同様の行動をとっている。また高山家には上杉氏の系図も保有されているが、上杉氏の系図の書式は先の両家の形式とは類似点が見いだされない。この高山家が筆写して保有している上杉氏の系図には、末尾に「高山氏 平益重書之」と平姓の署名が見られ、そのすぐ下には花押が押されている。

 

小柏氏系図をめぐる昭和の調査

小柏氏系図をめぐる昭和の調査

 

いま「小柏氏正系図」は前橋の群馬県立文書館にも写しが所蔵されている。小柏氏の宗家を継いだ吉明氏が寄贈したと思われる。同氏は先代の当主小柏八郎次重明が没した後、かなり経ってからと思われるが資産整理にあたっている。

文書館の系図には、私が閲覧した当時(2006年)に、「昭和5年小柏吉明文書、小柏吉明蔵」との添え書きが付されていた。その為、当初は同年に吉明氏が寄贈したものと思っていた。

しかし同系図には、昭和45年のことまでが記されていて、年次が合わないものとなる。この点について吉明氏のご子息に伺ったところ、当時のことが分る人がいないとのことであった。ただ昭和46年頃に、吉明氏の従弟の三波川の飯塚氏に貸し出したことはあると教えて頂いた。

ではこの飯塚氏が文書館に写しなどを寄贈したのであろうか。これも気になって文書館に問合せてみた。その結果、文書館から次のような回答を頂いた。

 昭和49年頃から、群馬県史の編纂が進められ県庁に県史編纂室が置かれた。

同年から県内外の旧家や寺社などを、調査員が訪ねて県史に関わる古文書・記録などの写真撮影をした。

この際に撮影したフィルムを紙に焼き付けたものを閲覧に供している。この公開に際しては、所蔵者の承諾が得られたものに限っている。撮影時の細かい経緯は不明だが、調査員が小柏吉明氏の自宅に行って撮影したと推測される。平成4年に県史編纂室が解散され、収集した史料は文書館に引き継がれた。

 

 調べて頂いた須藤氏からは、「昭和5年」のメモ書きは今は撤去されて不明だが、もしかしたら昭和5×年(50年)ではなかったかとご指摘を頂いた。確かに昭和50年であれば、辻褄が合う。

一方では昭和10年に、上日野小柏の屋敷跡に小柏氏の事績・系譜を記した板碑が建てられている。昭和5年〜10年の間に小柏氏系図を巡って、調査が行われた様相を呈しているようにも受け取れる。この後、昭和46年頃には吉明氏が従弟の飯塚氏に系図を貸し出している。49年頃から50年にかけては、県史編纂室の調査員が小柏家に系図の撮影に訪れている。

したがって昭和の年代での第2回目の小柏氏系図の調査の動きが現れたのが、昭和46年50年にかけてのことだったと言える。上日野小柏(村)の小柏屋敷跡には、幾つかの記念碑が建てられて、今は静かな佇まいを見せている。これ等の碑には、高山長五郎氏の筆になる小柏氏系図や事績が綴られている。高山長五郎氏は昭和10年頃に、小柏氏系図を筆写したと思われる。碑文はその系図により、文案が練られたものと推測される。

それらの記念碑の裏手には、小柏氏の歴代の墓や五輪塔などがある。木漏れ日が差し込む雑木林の中に、全てを超越して伝説と共に猛者たちが静かに眠っている。藤岡市から、延びている鮎川街道の上日野の分岐点にバス停「小柏」がある。

このバス停の分岐を右斜め方向に進んだ南傾斜の高台に、小高い裏山を背にして小柏屋敷跡が広がっている。

 

南傾斜の上段に位置を占める平坦部分に、畑や民家が散在して山間の静かな里の趣を呈している。村の佇まいには人の動く気配もなく、陽だまりの中に時計は止まったかの如くである。山奥でもなく郊外の山野のイメージであるが、時間の流れは都会とは全く違い、一陣の風が吹いてきて流れて行くまでは時の流れが感じられない。

眼下には鮎川のせせらぎや野々宮神社、鮎川街道が垣間見え川の向こう側には対面するように御荷鉾山のどっしりした威容が迫っている。夏は緑濃く日差しは強く、冬は木枯らしが吹き鮎川に氷が見られる。屋敷の跡地には石塔や赤い庵なども見られ、散策していると往時の栄華が偲ばれ一抹の寂寥感が湧いてくるのを禁じ得ない。

屋敷跡の背後の杉の木立ち、竹の鼻の楢林、そして時折吹いて来るさやかな風が、小柏家の魂を今も守り続けている。今は歴史の名と共に、その大地の中に深く静かに雌伏する時を過ごしているのだろうか。

 

天引小柏氏の歴史 

天引小柏氏の歴史

 

甘楽町天引の小柏氏は、上日野町の小柏氏の一族が移住して来たことにより始まったことには、間違いないと断言できよう。だが数多い小柏氏一族の誰が移住して来たのかははっきりしていない。天引小柏氏の集落は小字名「久保」と呼ばれている。いま久保には十数軒の家が建ち並んでいるが、その殆どが小柏姓の家である。違う姓の家も一族の娘の嫁ぎ先などである。

この小柏集落は天引川沿いにあり、「()殿(どの)橋」から下流の「大門橋」迄である。天引川も小さな流れであるが、久保の集落の上端に位置する所で「堂の入り川」が合流して来ている。その合流する所の堂の入り川に架けてあるのが、「久保橋」である。平殿橋はこの久保橋から天引川を30メートルほど上った所に位置している。

平殿橋から上流は小字名「平殿(へどの)」という集落を形成している。すなわち平殿は久保の西側・上流に隣接している小集落である。平殿はいかにも古そうで変わった地名・字名であるが、今もなお使われている。甘楽町役場に確認したところ、音は「ヒドノ」で字名の由来は分からないということだった。現地の人は「へどの」と呼び慣わしているのに、役場では何故、「ヒドノ」とするのか不明である。

平殿のすぐ近く北西方向に当る所に「平石」とい小地名がある。この平石の平は山や傾斜地に対して平らな所、山の中にも平場があるというニュアンスを持っているともいわれる。だが「平殿」は天引の一番はずれに位置しており、山裾の登山口ともいうべき場所で、平場が広がっているというイメージは湧いてこない。平殿から山に向かう一本道を辿って行くと、「堂の入」を経て旧白倉神社の近くを通り、亀穴峠に至る。

亀穴峠からは尾根筋を通り、小柏峠を経由して上日野小柏(村)に降りられるほか、鮎川沿いの矢掛に降りることも出来る。細いながらも、往時はさながら街道としての役割を担っていた。矢掛は小柏(村)の少し下流に位置しており、地元の人々は長大な迂回路となる金井・多比良回りのルートは取らず、頻繁に亀穴峠を通っていた。小柏(村)と平殿・久保とは亀穴峠を挟んで南と北の位置関係にある。こうしたことから、平場や姫街道に近い平殿や久保に小柏氏が移住したと考察される。

移住して来た平姓小柏氏が其処に住みついたことから、旧来の土地の人々が「平家殿」と呼び、「へいどの」となり、やがて「へどの(平殿)」になったと考えるのは飛躍しすぎであろうか。他に適当な「へどの」の語源が思いつけないこともあるが、変わった字を使っている合理的な理由も不明である。

この場所に領主が済んでいたとも聞かないので、「殿」が付いていることも不審である。

「殿」には平素とは少し違う、何か貴人の匂いが漂っているように感じられる。鎌倉幕府を憚って平家の「家」の字を抜いたものなのか。ちなみに吉井町の「多比良」は「たいら」と読み、文字の使い方には古さが感じられる。ここにも小柏姓の家が5件ほど存在している。多比良の近くには「向平」の地名もあり、この地の周辺には「平」の付く地名・字名が幾つも見て取れる。

高崎市の担当課によれば、多比良は傾斜地区が多く決して「たいら」とは言い難いが、限られた平地が「たいら」と呼ばれたようだ。この「多比良」の文字は鎌倉中期から使われていたとしている。

ともあれ多比良には戦国時代に「多比良氏」があり、比企郡の「多比良」とも関係を有していたと思われる。比企郡の「多比良」は多比良氏が名づけたとも言う。

小柏重高は江戸時代初期に、御荷鉾山や赤久縄山など広大な山々の権利を所有し、木材や入山権などの収益を一手に握っていた。また屋敷地内外に多くの「家抱(けほう)」を抱えて小柏館(城)に君臨していた。罪を犯した者に対しては、独自に裁いて処罰していたともいわれる。

天引小柏氏の伝承では、この地に移住したのは小柏氏の三兄弟の子孫とのことである。よって地元の人々から「平殿」と呼ばれたのであろうか。

平殿には今も小柏姓の家がある。ここに最初に移住したのは、もしかしたら小柏重高の弟の吉次(別名権右衛門・又兵衛・露休)であったのだろうか。だとしたらそれは1665年頃であったろうと推測される。

吉次は摂津尼崎藩の青山幸利に仕えており、1658年頃から1664年(?)

頃までは尼崎に住んでいたと推考する。平殿の小柏家は久保の集落のほぼ中央に位置する政美家の姻戚という。

天引の字名「久保」には小柏一族の家が11件ほど存在している。この中央付近に位置する家に鶴吉家がある。

   

               常吉家跡

同家は公民館の土地なども含み、ここから西側の堂の入り川までの広い土地を所有していた。この間には別姓の家もあるが、元をただせば鶴吉家からの分家である。

「郷土氏姓録」には次のように記されている。「家歴、当邑草創小柏一門の旧家で家紋は、<丸に三つ柏>を用いる。遠祖を辿り現存する位牌を精査するに享保八年八月三日歿(1723年)―頓證了覚大徳が判明、累代に亘り護持されている−後略」

 甘楽町天引に移住して来たと伝わる小柏氏の三兄弟(の子孫)。小柏氏の長い歴史の中でも直系の三兄弟は限られる。即ち重氏、貞景、貞實の三兄弟がそれであろう。この中の嫡男・重氏の子に徳氏がいる。徳氏の兄二人は順に宗家を継いでいる。長兄の重高は広大な山々の山元として、絶大な権力を誇っていて吉井藩も口出しできない程で、山行政は全て山元に任せていた。

一方で重高は仏教に深く帰依し、当時の高僧であった潮音を館林から招聘し南牧村の不動寺の開基となった。

重高夫妻と弟の吉重の木像は、今も同寺の開基堂に安置されている。

これまでの研究成果を結集して勘案すると、年代的にも近い徳氏が鶴吉家の創始者として想定される。(詳細は「小柏氏800年の軌跡」を参照)

小柏徳氏の推定出生年は16321640年ころと思われる。徳氏は沼田藩真田氏に出仕していたが、真田氏が沼田を退去する前に辞職して上日野小柏に帰っている。恐らく沼田に詰めていたのは、1657年〜1663年頃であったのではないだろうか。

徳氏のすぐ上の姉は沼田藩士の堀田九兵衛覚忠に嫁いでいた。徳氏はこの姉の縁から、真田伊賀守信利に仕えることになったと想定される。九兵衛は「沼田藩真田氏家臣総覧」には、上位から十二番目に名前があり家禄は三百三石と記されている。幹部の家臣として出仕していたようだ。

上州の南部に位置する藤岡市上日野から、姉が嫁いだ沼田市は北部にあたり、当時としては婚姻を結ぶにはやや遠方の感がある。徳氏の姉が何故遠方の真田氏に嫁ぐことになったのか仔細は不明である。

仔細を知る手掛かりになるのは、小幡氏の存在であろうか。先の「沼田藩真田氏家臣総覧」には、小幡郷助、小幡四郎兵衛、小幡彦三郎、と小幡姓三人の名前が載っている。

藤岡市上日野も甘楽町小幡も沼田市も上州内であるから、この三人の小幡氏は当然のように上州小幡氏の一族とみて差し支えないと思われる。してみると小幡氏と小柏氏の関係や過去の縁戚などが浮かび上がってくる。また真田氏と小幡氏の関係も、小田原城落城後に小幡信真が信州真田氏に身を寄せているように親しい間柄であった。

先の三人の小幡姓の中の誰かが、堀田氏と小柏氏の婚姻をとりもった可能性が仄かに見えて来るようだ。徳氏の姉は後に、理由は不明ながら九兵衛と離婚し藤岡在住の広瀬左源太季孝と再婚した。

 記録を留めておく意味で、ここに付録として小柏鶴吉家の歴史を綴っておきたい。以下は2011年現在で判明したもの、推定されたものである。

 

 江戸時代

1666年頃 小柏重高の弟で吉次の兄・徳氏(別名丑之助、傳右衛門)が

       天引に移住か?「徳」の字が共通、相伝

1723年 没 小太郎父  頓證了覚大徳 

1746年 没 傳六母  安窓貞心

1749年 没 前山學庭信士

1751年 没 青銭童子

1759年 没 不秀童子

1767年 没 智陽童子

1767年 没 傳六妻 梅黄雨林

1778年 没 太良兵衛の父 長山清閑信士

1780年 没 太良兵衛  理山玄性信士

1781年 没 八三良父 徳翁忍光

1791年 没 勘右衛門父 権大僧都月潤淨心信士 

1796年 没 善治朗母 定室了禅

1796年 没 勘右衛門祖母 丹丘妙仙

1804年 没 勇蔵養父 権大僧都喜山秀悦信士

1805年 没 勘右衛門母 月舩妙皎

1818年 没 勇蔵養母  清蓮知淨

1822年 没 定吉 收林常然

1830年 没 勘右衛門妻 寒相貞温

1831年 没 勘右衛門 実参徹温

1846年 没 寅吉妻 安室休穏

1846年  寅吉、曾木村の矢島むら(31歳)と再婚 

1850年 没 林次郎(寅吉倅)陛岳良忠

1857年 没 萬吉母 覚室明圓

1857年 小棚村横尾家の常吉(30歳)が寅吉の養子となる

1858年 常吉の長男、定吉が出生

1867年 常吉の二男、嘉市が出生

明治時代

1871年 常吉の三男、竹十が出生

1873年 常吉が国峰村の佐藤つね(27歳)と再婚

1874年 常吉の長男、定吉が祖父、寅吉の養子となる

      (常吉は養子だった為、養父の孫に家督返還?)

1874年 常吉の長女、いまが出生

1876年 定吉が曾木村の矢島八百蔵の長女、たけ(19歳)と結婚

1876年 寅吉 没 徳聲常圓 定吉が相続

1878年 常吉の二女、てうが出生

1879年 定吉の二女、りうが出生

1881年 常吉の三女、とらが出生

1884年 常吉の二男、嘉市が常吉を相続

1885年 竹十が北甘楽郡(内迫村?)の柳沢春吉から離縁、復籍

1885年 定吉の長男、定次が出生

1887年 嘉市が曾木村の北村たけ(20歳)と結婚、後天引村古館作太郎

      養女と結婚

1888年 定吉の二男、角三出生

1890年 定吉の三男、朝光出生

1891年 定吉養母、むら没 夏雲清涼

1892年 定吉の二男、角三没

1896年 常吉の長女、いまが白倉村小林藤十郎に嫁ぐ

1900年 定吉の長女、はるが曾木村の矢島仁三郎に嫁ぐ

1900年 常吉が役場に隠居届を提出して隣接地に分家する(戸籍分割)

      妻つね、三男竹十、二女てう、三女とら、竹十妻とり、を同伴し

      共に離籍、屋敷地及び多くの田畑を持って行く

       ここにおいて寅吉家は、定吉家と嘉市家と常吉家の三家に別れた。

1900年 常吉の長女いまが小林藤十郎と離婚復籍

1900年 常吉の長女いまが下日野村高田若吉に嫁ぐ

1900年 竹十が吉井町茂木りき(21歳)と結婚

1900年 竹十がりきと離婚

1901年 定吉の二女りう、が白倉村の浦辺正之助に嫁ぐ

1901年 常吉の妻つね、没

1903年 竹十が多胡村の仲沢とり(30歳)と結婚

1903年 常吉の長女いま、高田若吉と離婚

1904年 常吉の二女てう、が国峰村の山田多吉と結婚

1904年 常吉の長女いま、が吉井町本郷村吉井泰吉に嫁ぐ

1904年 竹十の長男熊十、出生

1905年 てう、が山田多吉と離婚

1905年 定吉の長男、定次が曾木村の矢島せき(21歳)と結婚

1905年 常吉 没 徳聲常圓 竹十が相続

1906年 常吉の三女とら、が定吉家に入(移)

1906年 定吉の長女英、が出生

1907年 君川村の津金鶴吉(26歳)が嘉市の養子となる

1907年 嘉市の養子鶴吉と、とら(26歳)が結婚

1907年 常吉の二女てう、が額部村岩染の高橋伊之吉に嫁ぐ

1908年 鶴吉の長女ふぢ、出生

1908年 定次の二女とく、出生

1909年 鶴吉の長男朝隆、が出生

1909年 りうが離婚定吉家に戻る

1911年 鶴吉の二男勝五郎、が出生

1911年 定吉 没 定次(26歳)が相続

 大正時代

1912年 定吉の三女きよ、が出生

1913年 定吉の二女りう、が曾木村の矢島仁三郎と結婚

1914年 鶴吉の三男浦吉、が出生

1915年 浦吉 没

1915年 鶴吉の二女まつ、が出生

1915年 まつ 没

1915年 定次の長男正次郎が出生

1916年 鶴吉の四男辰五郎が出生

1917年 鶴吉の三女みの、が出生

1917年 みの 没

1917年定吉の三男朝光が並榎町の岸ちよ(26歳)と結婚後に赤坂村に分家         

1918年 定次の二男賢三郎が出生

1918年 鶴吉の五男午太郎が出生

1919年 朝光の長男博が出生

1919年 正次郎 没

1923年 嘉市 没 鶴吉が相続

1924年 熊十が美九里村の柴田定尾(25歳)と結婚

1924年 熊十の長男喜代治が出生

1924年 喜代治 没

1925年 熊十の二男佐重が出生

1925年 鶴吉の妻とら 没

 昭和時代

1928年 熊十の長女くにが出生

1930年 熊十の三男重雄が出生

1931年 定次の長女英が小棚村の大柳蔵男に嫁ぐ

1933年 熊十の二女ふさが出生

1934年 朝隆が福島町君川の津金トメ(24歳)と結婚

1934年 鶴吉の長女ふぢが福島町君川の津金直に嫁ぐ

1935年 熊十の三女たまが出生

1935年 定次の二女とくが上日野村新井清吾に嫁ぐ

1935年 嘉市の妻たけ 没

1935年 竹十の妻とり 没

1935年 朝隆の長男辻吉が出生

1937年 定吉の妻たけ 没

1937年 定次の妻せき 没

1939年 熊十の四女なをが出生

1940年 勝五郎が新屋村天引の鈴木ジツ(27歳)と結婚

1941年 勝五郎の長女美千江が出生

1943年 勝五郎の長男和朝が出生

1945年 勝五郎の二女せつ子が出生

1945年 午太郎がニューブリテン島、ニューギニア島間にて戦死したと報告あるも、錯誤として翌年取り消され復籍

1945年 勝五郎が中国黒竜江省牡丹江にて戦死

1945年 竹十 没 熊十が相続

1945年 辰五郎が秋畑村中条久子と結婚し妙義町に分家

1947年 定次 没

1948年 鶴吉 没

1948年 賢三郎が樋口悦子と結婚し樋口姓となり1925番地に新戸籍作成

      (1956年の時点では小柏姓に戻っていた)

1950年 北甘楽郡が甘楽郡と改称された

1953年 熊十 没

1955年 午太郎 没

1955年 佐重が田村ヒコと結婚し田村姓を名乗る(後に復姓?)

                      以下略
   

             旧墓地

 

1955年当時には、常吉が分家した土地(定次家?)には母屋を始めとして四棟の建物があった。すなわち母屋が約85坪、2階建て25坪の建物が一棟、2階建て15坪の蔵一棟、14坪の建物一棟、6坪の便所などがそれである。いずれも賢三郎名義で登記されていた。

今は約300坪の敷地に屋敷の門と奥の方の蔵だけが残されている。この頃、新屋村が甘楽町と改称された。1958年には法務省令により戸籍が改正された。同じ頃、西側隣地にゴルフ場が出来て土地の一部を売却した。

 

居住番地の変遷

 

北甘楽郡天引村162番地(古番と呼ばれる)

   寅吉

 


   定吉 相続 寅吉の養子 実は寅吉の養子常吉の長男

         家族は養母むら 妹とら 妻たけ 長女はる

         二女りう 二男角三 三男朝光

         長男定次 同妻せき 同長女英 同二女とく

   定次 相続 定吉の長男

 

北甘楽郡天引村160番地(古番と呼ばれる)

   常吉 寅吉の養子

 

   嘉市 相続 常吉二男

        家族 父常吉 養母つね 弟竹十 妹いま 

        妹てう 妻たけ 養子鶴吉 同妻とら 同長女ふぢ

        同長男朝隆 同二男勝五郎 同三男浦吉 同二女まつ

        同四男辰五郎 同三女みの 同五男午太郎

 

北甘楽郡新屋村天引1930番地

            (約500坪1900年同地へ常吉が分家)

  常吉  寅吉の養子

      家族 妻つね 二女てう 三女とら 三男竹十 同妻リキ(離婚)

          同妻とり 同長男熊十

   竹十

 

   熊十 相続

 

 

甘楽郡新屋村天引1930−1

            (1909年に1930番から分筆)

 嘉市

 


 鶴吉 相続 嘉市の養子

       家族 養母たけ 妻とら 長女ふぢ 長男朝隆 同妻トメ 孫辻吉 孫美江子 二男勝五郎 同妻ジツ 孫美千江 孫和朝 孫せつ子 四男辰五郎 五男午太郎

 

   

 

        

甘楽郡新屋村天引1930−3

 竹十

 

 熊十 相続

    家族 妻定尾 長女くに 二男佐重

       三男重雄 二女ふさ 三女たま 四女なお

 佐重 同番地に新戸籍編成

 

 甘楽郡甘楽町天引1925番地(旧162番地?)

  定吉

 


  定次 相続 

       家族 母たけ 姉りう 妻せき 長女英 長男正次郎

          二女とく 三女きよ 二男賢三郎 弟朝光 

同妻ちよ 同長男博

  賢三郎

 

居住履歴

   162番地       160番地      1930番地

 

    寅吉                   

 

  常吉              常吉         常吉(分家)

      162.160両番地に戸籍有)

 

     定吉(長男)       嘉市(ニ男)     竹十(三男)

 


    定次            鶴吉         熊十

 

    賢三郎          朝隆         佐重

新番地1925       1930−1    1930−3

             (1930番地から分筆)       (1930番地から分筆)

天引小柏氏の系譜

 天引小柏氏の系譜

主系譜

         

73歳? 小太郎父 頓證了覚大徳 1723 1650生?

                                 

              77? 前山學庭 小太郎? 1749 1672?

             

     82?太良兵衛父 長山清閑  傳六? 1778 1696?

              

     64? 太良兵衛 理山玄性 1780 716?

                               

     45?  八三郎父 徳翁忍光 善治郎?1781 1736?

                           

63勇蔵養父 権大僧都喜山秀悦 1804 1741?

                          

                  勇蔵?(養子後離縁?)

                             

  36? 勘右衛門父 権大僧都月潤浄心(八三郎?)1791 1755?

                         

    56? 勘右衛門 実参徹温 1831 1775?

 

    77? 寅吉 徳聲常圓 1880 1803?

 

              24?林次郎 陛岳良忠 1850 1826?

 

    79 常吉(養子.隠居後分家)1905 1826 

          

    

53定吉 1911 59嘉市 1923 74竹十 1945

 


      定次 1947     鶴吉(養子)1948 熊十 1953

系譜2

73歳? 小太郎父 頓證了覚大徳 1723 1650?

                                  

   72?安窓貞心 1746 1674?    77? 前山學庭 小太郎?1749 1672

             

  82?太良兵衛父 長山清閑 1778   1696? 梅黄雨林 1767 1694?

         傳六?                    73?傳六妻

     50?貞倫智永 1781 1731?

       

 79?定室了禅 善治郎母1796 1717? 64?太良兵衛 理山玄性 1780 1716?

                               

    青銭童子1751  智陽童子(太良兵衛子)1767 

 

 65?丹丘妙仙 勘右衛門祖母      45? 八三郎父 徳翁忍光 1781 1736?

    1796 1731?                        善治郎?        

        不秀童子1759 慧淳童子1764

65?勇蔵養母 清蓮知浄  63?勇蔵養父 権大僧都喜山秀悦 1804 1741?

    1818 1753?                     

                   勇蔵?(養子後離縁?)

                            

 勘右衛門母 月舩妙皓   36? 勘右衛門父 権大僧都月潤浄心1791 1755?  

1805 1749?               (八三郎?)                    

           涼薫童子(善治郎孫)1781  

 61妻寅寒相貞温    56?勘右衛門実参徹温  定吉母覚室明圓

 1830 1769      1831 1775?   後添え?69?  1857  1788?

                    12?定吉 收林常然1822  1810?

77定吉養母むら   77?寅吉 徳聲常圓    41?寅吉妻 安室休穏

    (後添え?) 1891 1814     1880 1803?          1846 1805?                

                                     24?林次郎 陛岳良忠 1850 1826?

57つね(後添え)  79 常吉(養子.1905 1826  39ハツ

  1901 1844             隠居後分家                  1872  1833

       いま てう とら

 


53定吉 1911 1858   59嘉市 1923 1864  74竹十 1945 1871

  長男  寅吉の養子になる       二男相続         三男分家を相続

      

定次 1947            鶴吉(養子)1948     熊十 1953

 系譜3

 

              寅吉

    国峰村          

クマ  佐藤忠五郎         定吉(養子・常吉の子)

 


 つね(後添え)     常吉(養子・後分家)  ハツ

 

 


 いま てう とら    たけ  定吉 たけ  嘉市 とり   竹十

               祖父を相続   二男が相続    分家を相続

                    定次                       熊十

                 トラ  鶴吉(養子)

 ふじ嫁ぎ先 君川村津金直

 

ふじ 朝隆  トメ 勝五郎  ジツ 浦吉 まつ 辰五郎  久子 みの 午太郎

                                                   秋畑村

  辻吉  美江子  美千江 和朝 せつ子      勇 正弘 進

 

          小棚村         曾木村        曾木村

 まつ  横尾亀吉  せん  矢島八百蔵  しも  北村新吉

 

 常吉        たけ(定吉妻)     たけ(嘉市妻)

 

 

                    君川村          多胡村

      きむ  津金辻松    くに  仲沢源三郎

 

 


  デン  嘉平  鶴吉(弟)     とり

 

    トメ

 

系譜作成に当たっては、江戸時代は位牌・過去帳に依拠し、明治以降は主に戸籍謄本によった。系譜に記載の続柄は過去長記載のものである。参考資料としては、他に難解ながら墓碑が残されている。

この系譜は死亡時の年齢や続柄表記を基に、親子の年齢差を慎重に考察して組み合わせを作り上げた物であり、大過ない物と思うが正確な物とは断定できない一面を有している。また過去帳及び解析などは向陽寺の援助によるものだが、同寺も火災により古い物は残されていない。

また小柏氏が天引に移住した初期の頃には、寺の墓地に依らず自己の所有地に墓地を形成していた。これ等のことから、まだ掘り起こされていない先祖が埋もれたままになっているかもしれない。判明している先祖から更に一代か二代は時代を遡れる可能性も秘めている。