高天原の侵略        神々の降臨

         今昔余話

 里の風

吉野ヶ里遺跡と徐福伝説

 あぜ道

町の歳時記

 丸木橋

アクセスカウンター
   日本人はどこから来てどこへ行ったのか?原住民族のアイヌは沖縄と北海道に分かれたという。
   アマテラスは本当に皇室の祖先であったのか?古代氏族の多くは、朝鮮半島からの渡来の痕跡を残している。
   中国からの渡来氏族は南方系が多かったのか?
   高天原とは、古に実在した何処かの地名であったのか
 

 神々の誕生・創世神話

 

 古代の人々にとって神様は身近な存在であり、毎日の生活の中に神様が介在し共に暮らしていたといえる。古代に科学はなく分らない事は神様の行為として、困った事も神様に聞いていた。

 地には地神水には水神、山には山神、海には海神、風には風の神様火にも火神鏡には神様が宿りありとあらゆる物に神様の概念が籠められていた。

 現代では一笑に付される怪異現象もそのまま信じられ受け入れられていた。近くでは辺何時代の京都でさえ、人々は霊魂と一緒に暮らしていた。鬼が住み、菅原道真の怨霊が祟りをなしていた。

 

 このため時の為政者は怨霊から護るため、寝ずの警護番士を立て一晩中かがり火を燃やして警戒していた。森羅万象には節理があり全ての物質には創造主がいると考えられていた。
宇宙の元となるその根源の神は即ち「天之御中主神」に寄託されている。

 

   目次

 

 日本人のルーツ          3

言語と習俗から辿る日本人の故郷  6

 

 第一章

 

 神世七代 神皇正統記       9

聖婚説話            19

 イザナギとイザナミの本貫地   21

海神・アマテラスの誕生     25

住吉大社神代記         28

最古の英雄スサノオ       29

天の石屋戸隠れ説話       33

ヤマタノオロチ伝説       37

スサノオの神裔         39

アマテラスとスサノオの人物像  41

大国主神の死生譚        44

大国主神の妻と神裔       47

饒速日尊の大和降臨       51

葦原中国の侵略         58

武神・建御雷神         63

大国主神の敗北と講和      65

天皇家の始祖・穂邇邇芸尊    68

三種の神器と神剣の行方     72

草薙剣 歴代の所有者      76

海幸彦・山幸彦日向神話     80

日向王朝と西都原古墳      85

 

第二章

 

遥かなる邪馬台国        88

箸墓は卑弥呼の墓か       90

徐福渡来伝説          93

神将 神武天皇         95

八咫烏と高倉下        102

戦時の歌謡・久米歌      103

伊須気余理比売の結婚     104

銅鐸は祭祀に使う楽器だった? 105

綏靖天皇           108

大帝・崇神天皇        111

伊勢神宮の創始        112

豪族・伊勢津(都)彦      113

大毘古と奥州安東氏      116

垂仁天皇           118

精力絶倫・景行天皇      122

倭建の東国遠征        124

神功皇后の密通        128

香坂王と忍熊王の聖戦     131

侵入者・応神天皇       135

天之日矛の正体        141

ワカタキル大王・雄略天皇   147

継体天皇は新王朝か      147

唐書・新唐書・三国史記   149

参考文献           151

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本人のルーツ

 

 日本の歴史はいつから始まったのかアマテラス大神が生まれたときか?ニニギノミコトが降臨して来たときなのか、それとも地球がまだ混沌としていたときに生まれたアメノミナカヌシノミコトが現れたときなのか、はたまた神武天皇が東征に成功したときなのか

 いまこの問いに答えられる人は居ないのではないか。宮内庁の陵墓要覧には、ニニギノミコトの墓は鹿児島にありと記されている。ではニニギノミコトの祖母であるアマテラスの墓は何所にあるか?

 陵墓要覧には記載されていない。同様にアマテラスの子のアメノオシホミミノミコトの墓の記載もない。地上界に降臨したとされるニニギノミコトの墓が、一番最初に記されていて次に后・子の墓と、ニニギノミコトから歴代の天皇陵が連綿と記載されている。ニニギノミコト以前の祖先は、天上界に居る事になっているから記載できないのだろう。

 「古事記」に天上界の唯一の地名として現れる「高天原」も、その説明は一切なされていない。おそらく天上界にある概念の世界なのだろう。或いは朝鮮などの海外にあるため、記載を憚ったのだろうか。

 

 日本の最古の歴史書は「古事記」と「日本書紀」の二つしかない。古事記は上程された後、焚書扱いされていたのか、史上から姿を消していた。再び姿を現したのは200年ほども経ってからだ。

 このため後世の作であるとか偽書扱いもされ、その序文は後から付加されたものであるとか、いや序文だけは信憑性があるとかの議論も闘わされた。しかし近世この偽書説はすっかり影を潜めている。

 古事記の編纂に関わり、その序文を上梓した太安万侶の墓とおぼしき遺跡が見つかり、安麻呂の名前入りの墓誌が発掘された事も影響を与えたのだろう。

 

 古事記・書紀に書かれている神話・出来事は、現代世界ではあり得ない出来事も多く記されている。これらの伝承・説話は一体何を物語っているのか。只の伝説なのか荒唐無稽の話を参考までに紹介したのだろうか。

 それとも何らかの真実があり、それを元にして編集・脚色したものなのか。そうであれば数ある説話の中から僅かの真実・史実を知りたい欲求に駆られる。

 日本各地の古い神社には多くの古文書が伝わっている。これ等は多いに参考になるものだが、その縁起書などの多くは古事記或いは日本書紀の記述を踏襲したり抜粋したりして作成されているようだ。

 即ち記・紀以前の記録はないかの如くだ。

 

 アマテラスは実在したのか。別の名前はあったのか。男だったのか女だったのか。タカミムスビノミコトとの関係は。高天原は何所か。出雲の国譲りはあったのか。ヤマタノオロチとは何なのか。大国主命はスサノオノミコトの子供だったのか。神武東征はあったのか。邪馬台国は何所か。

 

 これ等の答えを探し続けて、今は二十有余年の歳月が流れ去った。様々な書籍を読み漁り、学者の論文、関係資料を渉猟した。一冊の本を読むとその関連資料のタイトルが載っている、または巻末に参考文献が載っている。これ等を目に付く限り収集して読み尽くした、否これ等の文献・資料には文字通り際限がない。事ここに至っては一区切りつける時が来たと思える。そして集大成として、この思いを著すべくペンを執る日がやって来たようだ。

 

 

 日本の起源と記・紀

 

 古事記・日本書紀に語られる日本の起源を示す説話の多くは不可思議な内容に満ちている。一体日本の古からの歴史が、ありもしないようなおとぎ話のような形で語られたままで良いのだろうか。

 日本の歴史はどこから、そしていつ始まったのか。日本の民俗、統率者は誰であったのか、そしてどこからやってきたのか。いまだに百家争鳴で、だれがどんな説を唱えても、それはそれでありうるかもしれないこととして通ってしまう。即ち、その新説を完全には否定できないからである。

 否定する材料が限りなく少ないのである。アマテラスなる女神が本当に天皇家の祖先であるのか。神武天皇は実在の人物であるか。邪馬台国はどこにあったのか。大国主の説話はどこまで信じられるのか。

 世界一ともいわれる仁徳天皇陵(大山古墳)の、巨大な古墳に祀られているのはいったい誰なのか。二十一世紀になっても分からないことだらけである。

 今日では日本書紀は藤原不比等が中心になって編纂されたという説が有力なものになっている。

 

 日本の歴史書は「日本書紀」とされているが、実は古の公文書には「日本書紀」という書名は現われていない。他の国史史料や「続日本紀」にも「日本紀」と記されている。この「日本紀」なる書は今に伝わっていない。現在「日本書紀」と「日本紀」は同じものとされているが、この見解は完全に定着したものではなく異論や所説が提起されている。

 初めて「日本書紀」の名前が現われるのは、738年成立の公式令集解の古記である。「日本書紀」は720年の完成とされているが、その後のかなり後世の記事も幾つか掲載されている。

 歴代天皇のを選定したとされる淡海御船は、721年生まれであり紀が成立した翌年の生まれである事も大きな謎になっている。

 天武天皇が681年に国史撰修の詔勅を出し、これにより川島皇子や中臣の連大島、平群臣子首などによって「帝紀」「上古諸事」が成立した。日本書紀の原資料となったのは他に、各氏族の墓記、寺院の縁起、芸文類聚、百済記、百済新撰、百済本記などである。

 日本書紀には系図一巻が付属していたが、いつの間にかその貴重な史料は失われてしまった。薗田香融は日本書紀には系譜の説明が全くない人物が、4人いるがそれは添付の系図を見れば明らかなので本文上では説明しなかったとみている。またその4人・葛城高額姫などの人物は古事記に系譜が記されており、分からなかったのではなく説明する必要がなかったと受け取れるとしている。

 平安時代に「新撰姓氏録」が成立したことにより、一巻の系図が自氏にとって不都合なものとなった、藤原氏によって焚書が行われたと想定できると示唆している。

 

日本書紀は漢文体で書かれている為に、どこに返り点をつけるかで意味が違ってくる上に、当て字が多く別の意味に捉えられている部分があるかもしれない。これに対して古事記は、一音一文字で書かれていてカナや読み方の記載があり、当時の言葉の発音がはっきり分かる利便性がある。

日本書紀は古事記にしか見られない歌謡を、引用しているところから古事記をも参考にしたとみられる。梅原猛は古事記・日本書紀とも宗教書であり、思想書であるとする。古事記も不比等が中心となって作られたと推定している。

日本書紀の資料になった古書の一つに「日本世紀」がある。同書の著者は高句麗の僧・道顕であり、日本の対外関係の記事を収録していたとみられるが、完本は残されていない。同書の成立は七世紀後半と見られる。

 

古事記について三谷栄一は持統から元明へ、女帝から女帝へと受け継がれたものといっている。古事記は712年の成立であるが、原本は伝わっておらず最も古い写本は14世紀の後半とされている。

古事記は天皇家に伝わる物語を、記録しておく私的な物語集であった、と言うのは武光誠である。

その為、なるべく多くの神々の話を取り上げている。日本書紀は天皇家中心の朝廷の、公式の歴史として作られたとも述べている。

また古事記は百済系の新撰姓氏録に対して、多人長が反発して812年頃に書いたとする説もある。(近江雅和)紀・記を編纂するにあたっての、原資料となった「帝紀」や「旧辞」「墓記」などの元資料が紀・紀の完成とともに姿を消していることも不審な事である。

 

 そもそも紀が日本の紀年を120年繰り上げたり、脚色をしたり、事実とは違う記事を載せていることが疑念を挟む元になったのではないか。後年の史家や研究者には分からないだろうと思ってしたことなのか。

 だとしたら、それはあまりにも浅はかでお粗末としか言いようがない。「神」と書いてあるところは「人」に置き換えて読めば済む。記の語る天皇の長大な年齢は、1年を春と秋で区切り、2年と数える二倍年齢とみればこれも収まる。

 記の歴代天皇の崩年干支表を見ると全てが月の前半になっている。後半に亡くなった天皇はいないのである。このことは、一か月は15日で形成されていたことを窺わせる。

 古田武彦はパラオやインドネシアには、1年を2年として生活する習俗があるという。会計年度の上期、下期や、盆と正月の長期休暇、夏冬に出す葉書は二倍年暦の痕跡で、明確な証拠は6月と12月に行われる大祓の祝詞に現れていると述べている。

 

 伊藤真二の「天皇崩年干支の謎」は、「周易」や「陰陽五行」「九星原理」などを詳細に論述している恐ろしく難解な論文である。記の序文には周易でしか使わない言葉がある他、易経や陰陽五行の字句が色濃く反映されている。

伊藤はこの論文で記の天皇の崩年干支は、陰陽によって割り出された数字であるとしている。ちなみに伊藤は記と紀の死亡年月日が違っている事から、両書はそれぞれ別の原資料によって編纂されたと言っている。(東アジアの古代文化)

 

 出てくるたびに名前の変わり、表記文字までもが変わる神々。そして何世代も超えて再び現れる神は、どう解釈したらよいのか。

 歴代の天皇は持統天皇と明治天皇のほかには伊勢神宮に参拝していない。(神皇正統記では聖武天皇が伊勢に行幸している。)持統の場合は前代の天智が伊勢の斎王を決めたり、国史の編纂を指示したことによるものであろう。

 明治天皇は時の政府方針で天皇は現人神で絶対犯すべからず神聖なものとして思想教育されたことで参拝の必要に迫られたのであろう。してみると125人もの歴代の天皇は伊勢神宮に参拝していない。

 この事実は必然的にアマテラスを祖先として仰いでいないということになる。大嘗祭の主神は高御産巣日神である。

 

 国宝の「海部氏系図」を擁し有名になった、籠神社の先代宮司が著した「神台並上代系譜略図記」には、「アマテラス大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とある。アマテラスは人格神ではなく、アラハバキ神であると断定している。(記紀解体)あるいはそうかもしれないが、だとしたらロマンのないことこの上もない。アマテラスは夫もなく神秘的な影が漂っている。処女で懐胎したイエスの母マリアのイメージも付きまとう。

 シャーマンであったが、侵略の指示を出したりもする。そして天下りの頃を境に方針を出すのは、パートナーと見られる高木の神に変わってくる。こうした論理が一貫していないところが、また神話たる所以でもありこれがために却って真実味を持たせる効果を生んでいる。

 アマテラスを祀る神社が少ないことも、また大きな謎を秘めている。全国著名神社151社中、アマテラスを祭神とするのは8社だけで伊邪那岐の9社よりも少ない。ちなみに大巳貴・大国主を祀る神社は17社に上る。

 

 古事記偽書説では記に出てくる国名が後世の造作とされていたが、藤原宮跡より多数の木簡が発見され、これにより対比するとそのほとんどが大宝前後の古い表記であることが証明された。

 紀のそれよりも一段階古い形を存していることが明らかになり偽書説の成立し難い一論拠となる。記と紀の関係をみるに神功皇后の段などを対比すると、両書は親子関係ではなく、兄弟或いは従兄弟の関係のように、並列の関係で結ばれている。

九州地方の古風土記には表記などから甲類、乙類とその他の第三類があるとされている。

この三文献はそれぞれ成立時期が少しずれている。古い乙類風土記は紀の編纂の際に参照されたとする説がある。

しかし乙類は甲類より古い物の紀以前の成立の証拠はなく、いずれが何れに拠ったという性質のものではない。国家的見地と地方所伝の立場から編纂目的と態度を異にしており、両者に直接の交渉はない。(田中卓・古典籍と史料)

また古田武彦は古事記の内容は原初的、本来的真実性を持つことが数々の面から裏書きされているという。更に国語学上の甲類乙類の表音表記が、七・八世紀以前の特徴を十二分に備えていると述べている。

記・紀編纂の主な原資料となったのは「帝紀」と「旧事」である。帝紀には歴代天皇の名前、皇居、妃、子供の名前とその御代の重大事件が記されていたとされる。旧事には、神話や天皇の言動に関わる物語が記されていたとみられる。

 

 

言語と習俗から辿る日本人の故郷

 

 言語学者の大野晋は日本人の祖先はインド南部のドラヴィダ語族タミル人が、南シナ海から対馬海流に乗り、北九州と南朝鮮にやってきたと推測している。

ドラヴィダ語の文法は日本語と同じ構造で、日本語とそっくりの単語がいっぱいある。米に関してだけでも糠、粥、餅などの対応語があり、長歌や短歌の形式もある。115日には赤い米を炊いてそのお粥を食べる風習は日本と同じで、小正月の行事や冠婚葬祭なども日本とそっくりという。

 日本語は母音終わりでハワイ語やポリネシア語と同じ、縄文期にまずこの言葉が入って来て、後にタミル語が到来しヤマト言葉が生まれたとしている。このタミル人は稲作と鉄・機織りを持ってきた。

 ユダヤの失われた十支族が中央アジア・ビルマなどを経て、日本にやってきたと説く論者もいる。ユダヤの菊の紋章は皇室と同じという。更に、日本にはヘブライ語を語源とする言葉が千二百語以上あるとも言う。中には日本語の発音そのままの地名や人名もあるとしている。(天皇家とユダヤ人)

 宇野正美は騎馬民族の「スキタイ」が古代ユダヤ人を連れて来たと言っている。王朝の始祖ダビデの孫の時にイスラエルは分裂し、十部族の北朝・イスラエルと二部族の南朝・ユダの二国になった。後にイスラエルはスキタイに滅ぼされ、十部族は日本の東北地方に導かれた。東北には今もスキタイの遺跡・環状列石が多く残っていると論じている。

 

 従来日本語はアルタイ語系とされてきたが、文法構造が似ているだけで対応語がないが、タミル語はこの条件を満たした、とも言っている。長田夏樹は日朝両語は同系列であり、共にアルタイ語に属していると説く。主語と述語、修飾語と被修飾語の語順が一致している他、「てにをは」から派生した名詞・動詞が類似している。日朝両語には母音調和が見られ、基礎語彙に同源語が多いと述べている。更に詳しい日朝語の対応表なども示しているが、門外漢から見ると同じ発音のものはないように思われる。

 日本語について、幾つもの著書を持っている金田一春彦は上代には八つの母音があった。日本語アルタイ語同源説は、母音調和が見出されないのが弱点とされていると述べている。そして日本語は琉球語を除いて、他に全然類似の言語を持たない孤立した言語であるという。日本語と同じ語順を持つのは朝鮮語、満州語、現代蒙古語、アイヌ語であり、アルタイ諸語は連体詞の使い方が違うと言っている。

 

森博達は漢音と呉音では呉音の方が日本語によく溶け込んでいるという。

 古事記や万葉集は呉音系で日本書紀だけは漢音である。また呉音より古い古韓音も残っていて、埼玉稲荷山の鉄剣銘の仮名がそれであると論じている。このほか森は文武・元明朝での国史撰述の担当者を挙げるなら、山田史御方が随一の候補であるという。日本書紀の巻十四からの述作は続守言が担当し、巻二十四からは薩弘恪が担当し、巻三十の撰述は紀清人が担当したとしている。

 森は三宅臣藤麻呂が全巻にわたって、漢籍による潤色を加え若干の記事を加筆したと述べている。

 

 三品彰英は神話は直線的に歴史を語るものではないと言い、日本列島の原住民は南方系の民俗が主体であったと想定している。松本清張もこれに賛同し、この民族を制圧して占拠したのが朝鮮系移住民である。

次にこの朝鮮系移住民を居住地帯・土地勢力を分断して大和を占領したのが、後来の北方系朝鮮氏族(夫余族)であると述べている。

 前二世紀頃に満洲の中央付近にあった「夫余国」の習俗は、人が死ぬと連日宴会を催したり、兄が死ぬと弟が兄嫁と結婚するなど日本と非常によく似ている。この夫余から一派が高句麗へ入り、始祖王の朱蒙となった。

 朱蒙が夫余を去る時に母は五穀の種を与えたが、朱蒙が麦の種を忘れたために母は鳩となって届けたという。これは母のアマテラスが押穂耳に、斎庭の穂を与えた話と同じである。

 高句麗の王氏高麗の八関祭は十月に盛大に行われる、収穫祭であり王が封冊を受けた時に大祭を行う王の即位と結びついた際儀である。このような日本の大嘗祭と同じく、収穫祭が王の即位式でもあるというのは日本と高句麗だけである。また八関祭は死者の霊祭りでもあり、朱蒙は穀物起源神話を持っている。(日本人とは何か)

 ここまで似ていると「夫余国」や高句麗が、日本の神話・伝承や文化に影響をもたらしている事は否定できない。

 魏志によると「夫余国」と倭人の習俗は似ているが、高句麗と倭人はあまり似ていないという。だがその王権文化は多くの共通点を持っている。「夫余国」を母国とする人たちが日本へも来ていたのだろう。

 「魏書」に「百済国はその先、夫余より出ず。」とあり、百済王は夫余国の王子とされている。夫余の東明王の神話は、百済の神話とその内容において殆ど同じものである。高句麗の朱蒙の神話は詳しく物語風になっているが、大筋では夫余と百済のものと同じである。

 中国の雲南州の人々の顔立ちは、日本人とそっくりと言われその風俗もまた似ているという。村の入り口には木造りの門を建てる。アカ族は門に注連縄をはり、拉祜族は道の両側に立つ木に鬼の目を付けた注連縄をかけ渡す。

 この鬼の目を付けた注連縄を張る習慣は奈良・滋賀・三重に多く見られる。また韓国でも陰暦正月には、村の入り口に注連縄が張り渡される。この注連縄の習俗は北緯三十八度線の北側には見られない。(古代朝鮮と倭族)

 考古学の成果からは、中国の東北部に現れた支石墓が南下して朝鮮に伝わり、対馬に伝わり北九州にも弥生期に伝わったとされる。

 

 

神々の誕生・創世神話

 

 古代の人々にとって神様は身近な存在であり、毎日の生活の中に神様が介在し共に暮らしていたといえる。古代に科学はなく分らない事は神様の行為として、困った事も神様に聞いていた。

 地には地神、水には水神、山には山神、海には海神、風には風の神様、火にも火神、鏡にも神様が宿り、ありとあらゆる物に神様の概念が籠められていた。

 現代では一笑に付される怪異現象もそのまま信じられ受け入れられていた。近くでは平安時代の京都でさえ、人々は霊魂と一緒に暮らしていた。鬼が住み、菅原道真の怨霊が祟りをなしていた。

 

 このため時の為政者は怨霊から護るため、寝ずの警護番士を立てて一晩中かがり火を燃やして警戒していた。森羅万象には節理があり全ての物質には創造主がいると考えられていた。宇宙の元となるその根源の神は即ち「天之御中主神」に寄託されている。

 神道教理にあっては天之御中主神と国常立神、御食津神(ウカノミタマ)は、いずれも豊受大神の別名・同神とされている。

更に天之御中主神と国常立神は大元尊神と同一であるという。大元尊神とはアラハバキ神を指しているらしい。「高天原」という言葉は記・紀編纂者が勝手に作ったのではない。

天日明系、富氏系、宇佐氏系とそれぞれに出所を異にする伝承が、一様に高天原を伝えているのはその言葉が初めからあったからである。高天原とはアラビア語でタカマアハラアで、聖地の上空にある神の家という意味である。(記紀解体)

高天原を大和の葛城山、金剛山の一帯という人もいる。これらの山を高天山と呼び、山麓には葛城族が住んでいた。奈良市には今も高天町の地名がある。

 宇佐家の伝承では、高御産巣日神系が原日本民族の北方系で、神産巣日神系が南方系であるとしている。

 天之御中主神を祀っている神社がない事から、武光誠は内陸アジア系の人々が日本に移住した比較的新しい時期に、天之御中主神の観念が持ち込まれたと考えられると述べている。

 

 

  新編古事記

 

 天と地が分れ生成された時、天上界・高天原に初めて神が生まれた。世界の根源を創造した概念の神様でその名を天之御中主神と呼ばれた。

 次に姿を現したのは生産の神様、高御産巣日神と神産巣日神である。この二神は天神系出雲系とも言われる。

 この三神は独り神で何時の間にか姿を消し、その系譜は伝わっていない。

 国土は固まらず、さながら油が浮いてクラゲが漂っている如き時代に、葦の芽が出るように誕生したのは、カビの化身・宇摩志阿斯可備比古遅神である。(初めての生物誕生を思わせる。)

 次に永遠の拠り所を包含した天之常立神が現れ、いつしか姿を消し足跡は残していない。

 

 

 神世七代 神皇正統記

 

 多くの神様はペアで語られている。中国のあらゆる世界の二物は陰と陽から成り立っているという思想・中国の陰陽道の影響を垣間見ることが出来る。天之御中主神は世界の中心であるとされ、高御産巣日神と神産巣日神はさながら山と海の生産を象徴としているのか。

宇摩志阿斯可備比古遅神と豊雲野神は地と空の神。天之常立神と国之常立神が天上地上の神、宇比地邇神と須比智邇神は土と石を表しているか。角杙神と活杙神は稲作に必要となる水路を作る様々な杭のようでもある。

意富斗能地神と大斗乃弁神は大地の男女神。於母陀流神と阿夜可志古泥神は湿地帯が生産に適した耕作地へと変化していく状況を表しているようだ。伊邪那岐神は伊邪那美神はアダムとイヴ、人類の始祖そして自然の創造主として語られている。これらの思想の下敷きには陰陽五行説が垣間見えている。

 

 井上光貞は古事記と日本書紀は皇室の系図「帝紀」と昔物語「旧辞」とを典拠として作られたとする。津田左右吉は帝紀と旧辞は、六世紀半ばの継体天皇の頃に作られたとする。帝紀と旧辞は残念ながら原本はおろか写本も今に伝わっていない。両書が現在に伝わっていたなら、現在様々に論じられている神話・歴史ストーリーがかなり変っていたと思われる。

神皇正統記は後醍醐天皇に仕え、大納言をも務めた公卿の北畠親房の著述である。神代からの歴史を解きあかし後村上天皇までを記述している。従って14世紀中頃の成立となろうか。著者は折に触れて中国の歴史を織りまぜて、豊富なボキャブラリーで文章を構成している。時には神道や仏教を取り上げると共に、人の道の在るべき姿をも説いている。

一見すると名文を弄しているように見受けるが、その状況説明においてナレーションのような口ぶりからは、平家物語を彷彿とさせるものがある。その立場からか北朝の天皇は歴代天皇の中に入れていない。一番多くのページを割いているのは後醍醐天皇である。記・紀や旧事本記、古語拾遺の記事にも少し触れているが、多くは独自の資料によっているとみられる。

神皇正統記は国之常立神の次に現れた五神は木・火・土・金・水の五行の徳を表したものであるから、全て国之常立神の事であるという。国之常立神のまたの名は天の御中主で、その子が高皇産霊、神皇産霊、津速産霊であるとしている

 

 

  新編古事記 

 

 次に国を作る国之常立神、空を形成する豊雲野神が誕生した。この二神は独り神で足跡は不明のままやがて消えていった。

(独り神はここまでで次からはペアの神の誕生が続く。)

次に地上を形成する土の神、宇比地邇神とその妹須比智邇神が誕生した。

 更に水路を形づくる角杙神、その妹活杙神が生まれた。次に住居の守り神、意富斗能地神その妹大斗乃弁神が生まれた。

 次に於母陀流神その妹阿夜可志古泥神が生まれ、次に国産みの神が誕生する。すなわち伊邪那岐神その妹伊邪那美神が生まれた。

以上の神を神世七代という

 

   国之常立神、

   豊雲野神

宇比地邇神  須比智邇神 

   角杙神    活杙神  

   意富斗能地神 大斗乃弁神 

   於母陀流神  阿夜可志古泥神

   伊邪那岐神  伊邪那美神 

 

 (以上の神を神世七代といい、これ等十二神で神の世界を構成する。その前の創世神話に登場する五神は神の世界から外れている。従って自然現象を写した自然神であったのだろう。)

 

 

  国生み神話

 

 伊邪那岐は鉾を持っていた。この事から伊邪那岐が比較的新しい神様だったと理解できる。この矛は恐らく銅矛を想定していると思われるが、鉄の矛であればさらに時代はくだって弥生後期くらいを推定する事が可能になってくる。

田中卓はこの国生み神話を、禊祓いの行われる難波の八十嶋祭と関係づけて考えている。仁徳天皇が磐之姫が亡くなった時に難波の津で禊祓いした形跡があり、淀川の河口には八十嶋と呼ばれる大小の島々がある。

更に仁徳天皇の歌に於能碁呂島の名がみえることから推敲している。古は海水が凝り固まって塩ができ、島もそのようにして出来たと想像していたのだろうか。少なくとも関連付けを意図しているように受取れる。

 常識的に考えると一番最初に覇権を確立した島、或いは支配者の出身地を最初に生んだとするのが順当であるがここではそうはなっていない。宮を建てて住んだとあれば尚更である。

しかし一番最初に出来たとされる於能碁呂島は重要な島である。何故最初に出来たのが於能碁呂島なのか場所は何所なのか。その所在地は今瀬戸内海説と北九州説がある。瀬戸内海説には淡路島の東南の友ヶ島とする説があり、この場合重要な島になってくるのが淡路島である。

ここの神話は淡路島に伝わっていた神話・伝承から採用したとみられるが、祭祀跡や遺跡などの裏付けが必要になってくるであろう。伊邪那岐の墓(祀られている所)は紀では淡路島とあり、記では「淡海」()とあるがこれも淡路島であろう。淡路島には近世創建のおのごろ島神社があり、そこには天の浮橋と伝えられる黒い岩がある。

 

於能碁呂島の表記を「自凝島」ととるか「御能碁呂島」と解釈するかによっても、その比定の位置が変わってくるようだ。「自凝島」とすると意味が通り過ぎて後世の付会のように見えてくる。

地名は固有名詞であり、意味のわからない、当て字のようなものが多いことから「御能碁呂島」の方が古い伝承を伝えているようだ。

古田武彦は於能碁呂島を博多湾内の能古島に比定している。伊邪那岐が途中経過を言わずに天下っていることから、天国(実は海人国)の領域外でしかも近接している場所であることは明らかである。於能碁呂島の於「お」は接頭語で呂は地名接尾語であるから、固有の地名は「のこのしま」であると説明している。

 

また淡島は淡路島ではなく、瀬戸内海の小島であるとするのが一般的な解釈である。その理由は四国を産む前に産んだという、淡路之穂之狭別島を現在の淡路島と考えるからである。もしその通りとするならばこの段の神話は瀬戸内海・淡路島の神話を挿入したといえるかもしれない。

淡路島には伊佐奈岐神社があり、今も阿万(アマ)という地名がある。日本神話にはすべからく天の浮橋、天の沼矛、天の御柱、天神など天の○○という言葉が往々にして出てくる。「天の」は地名や部族名を表しているようだ。

「天の安河」「天の浮橋」という言葉をみると明らかに「あま」という地名のことをさしている。「高天原」という地名は「天の台地(原)」に、尊称としての「高」を冠したのであろう。

ちなみに古田武彦は、高天原を対馬海流圏の島々と見なして「天国」として中心地を対馬に比定し、同島をアマテ伊邪那岐ラスの誕生地としている。

 

「天の沼矛」は「天(あま)」に住む大氏族が、使っている特殊の矛・沼矛という意味にとれる。天の宇受売命や天の手力男命の「あま」は地名と同化しているものであろう。

西方から中央に進出してきた「海人族」の「あま」が源になっていると推考される。高天原はどこかに実在した地名・土地を指しているのではなく、イメージを具現化したものと思われる。田中卓は天孫降臨と、天の岩戸隠れの神話には丹波が深く関係していると論じている。

 丹波には比冶の真名井や藤神社があり、その地の御食津神、等由気太神が外宮に祀られた。峰山町の足占山の山頂の池が麻奈井と思われ、そこからは天の橋立てや久美浜までが一望できる。

 天の石戸別神を祀る大社の櫛石窓神社も、丹波国多紀郡にあり大宮売神(古語拾遺)を祀る大社の大宮売神社も丹波国丹波郡にある。仮に高天原が丹波ならば、天の香具山から殖土を取ってくることもさほど難しくはなかった筈である。比冶の真名井からは、天の真名井を連想させられるが天の真名井は北九州にもある。

 

 

 

 新編古事記

 

 高天原を支配していた神々(権力者)たちは、伊邪那岐神・伊邪那美神両神に、小勢力の混在で不安定な近隣国を配下に治めよと指示をくだした。

 これにより両神は天の浮橋の近くに陣取り、鉾の威力に物を言わせて諸勢力を配下に組み入れた。

 これを於能碁呂島と名づけ、そこに太い柱を使い広い住いを建て拠点とした。

 

 

 

 

 聖婚説話

 

 イザナギとイザナミの結婚は、古くは兄弟婚や肉親間での婚姻もあったので、さして奇異なことではない。このアダムとイヴ系の神話は日本のみならず、インドネシアやインド、東南アジアなどによく似た神話が伝わっている。

茂在寅男は古代ポリネシア語に、「イサナギ」「イサナミ」という言葉があるとしている。

 古代人の主流をなす種族は、縄文時代に江南や東南アジア等からの南方から、稲作技術を持って日本に渡ってきたと考えるのが自然の成り行きというものであろうか。

水蛭子は不具者説のほかに、日女(ひるめ)に対する日子(ひるこ)であるとする論者がいる。

 

 大倭氏の伝承を物語る大倭神社註進状には、椎根津彦が難波で釣りをしていると磐樟舟が流れてきたので、これを迎え蛭子のご神体として奉祭したとある。即ち広田西宮良殿がそれである。

 難波の海は淡路島の付近と考えられ、古事記の所説と大倭氏の家伝は一致する。椎根津彦は畿内に原住するオオナムチ系の氏族で、西宮付近を中心に大阪湾から明石海峡に勢力を張っていた海部の首長であったと考える。

後代のニギハヤヒノミコトが天下ったのは河内とされている事も考えると、ニギハヤヒノミコトのことをここで蛭子と言っているのだろう。蛭子が流されたのはニニギノミコトの、天孫降臨の前であると記・紀ともに記しているところである。ニギとハヤは美称で「ヒ」(ヒル)が名前であろう。

蛭子を「御子」の数に入れなかったのは、数に入れると天孫系の主流が物部氏に移ってしまうからではなかったか。(田中卓・神話と史実)

 似たような話が「名八幡宇佐神宮託宣集」に載っている。次に要点を紹介する。

 

    大隅宮縁起中に云う、陳大王の娘大比留女七歳にして懐妊、九か月を経て子を産む、天子・王臣が怪しみ問い正すと交接はなく夢を見ただけという、生まれた子が二歳の時に誰かと問うと、我が名は八幡と答えたという。

     三四年後に親子ともに空舟に乗せて流した。この舟は大隅の磯岸に着いた。そこを八幡崎という。

 

    武光誠は「日本神話と神々の謎」の中で沖縄の「オトジチョ」という悪神を流す話を紹介している。日神の子にやくざ者がいて、田畑を荒らすので根の国に送ったという。

 蛭子は全く抹殺された訳ではなく、今も徳島県の蛭子神社や福岡県の麻氏良布神社に祭られている。また蛭子すなわちスサノオであるとする説は、泉谷康夫などに見られる。

 

 

 新編古事記

 

 伊邪那岐神は妹の伊邪那美神に聞く。あなたの体はどうなっている。伊邪那美は答えて体は成長してきたが一箇所なりあわない所がある。

 伊邪那岐は自分の体は成長を遂げ、なりあまる所が一箇所ある、そのあまりたる所をそなたのなりあわぬ所に塞いで国を生みたいと思うと言った。

 伊邪那美も承知し、天の御柱を回り、出会った所で交接する事を約束した。伊邪那岐は右から回り伊邪那美は左から回り始めた。出合ったところで伊邪那美は「まあ何と素敵な人」と言った

 伊邪那岐は「やあ素敵な人」と言った。次に伊邪那岐は女人から先に物言うのは良くないと言った。そして交わい、生まれた子、水蛭子は葦船に入れて流して捨てた。次に淡島を生んだがこれも子の数には入れなかった。

 

 (流産したものか或いは奇形児だったのだろうか、どちらにしてもありがちなことではある。水蛭子()と淡島の攻略には失敗した事を物語っているのだろうか。)

 

 

 大八島生成

 

 出雲風土記では、八束水臣津野命が国引きによって出雲の国を整えたとある。この国つくりをした重要な人物八束水臣津野命は古事記には登場しない。代わりに於美豆奴神の記載があるが同一人物であろう。

 於美豆奴神はスサノオの四世の孫であり、大国主の祖父に当る人物である。耳で聞いた音は漢字に置き換えるときに、人によって選択する文字が微妙に変わる故である。 

 井上光貞はこの国産み神話を、政治的な国土とそれを支配する大和朝廷の祖神を生む物語であり、政治的な意味を持つものとしている。

 更に西部の本の古代文化が北方よりも、太平洋諸島や東南アジアの文化に多くの共通点を持っている他、習俗や考古学上の事実からも同じことがいえると論じている。

 森浩一は二神が生み出したこれら島々は全て海上交通の要衛であるという。

 これらの島々は日本地図からみた場合、小さな島が含まれているなど、実態に即していない多少いびつなものであるが、海部族のルート確保と考えると合点がいく。

国生み神話の原点は天之沼矛にあり、その国々の分布は筑紫を中心とする細形銅矛・細形銅戈・細形銅剣の分布と大筋において一致している。(古代史を疑う)

 

 

 新編古事記

 

淡島の攻略に失敗したイザナギとイザナミは、大本営である高天原に報告し指示を仰いだ。

 高天原の天神は太占で占って指示を出した。姦計を仕掛けるべく先に女人を出したのが良くなかった、勇猛な男子の武将に先乗りさせるべし。

 

 そして今度はイザナギが自から指揮して攻略を開始した。その結果、攻略した所は

淡路之穂之狭別島、次に伊予の二名島、この島には四国あり。

 それぞれ頭領あり。伊予の国の頭領を愛比売といい、讃岐国の頭領を飯依比古という。粟国の頭領を大気都比売、土佐国の頭領を建依別といった。

 

 次に隠岐の三つ子の島、頭領の名をアメノオシコロワケという。次に筑紫島にも進出した。この島にも四国あり。国ごとに頭領あり。

 筑紫国の頭領を白日別、豊国の頭領を豊日別、肥野国の頭領を建日向日豊久土比泥別、熊襲の国の頭領を建日別という。

 次に壱岐の島の頭領のアメヒトツハシラ、次に対馬の頭領のアメノサデトリヒメにも影響力を及ぼした。

 次に佐渡島を知り、次に大倭豊秋津島の頭領のアマツミソラトヨアキツネワケを知った。ここにおいて八島の地理を理解し大八島国と呼んだ。大国だけに権威のある名前を冠した。

 

 最後に吉備の小島、又の名を建日方別と小豆島の頭領オオノデ姫にも影響力を及ぼした。

 次に大嶋又の名をオオタマルワケ、次に姫島又の名をアメヒトツネ、次に知珂の島又の名をアメノオシオ、次に両児島又の名をアメフタヤを支配下に収めた。

 

 

 イザナギとイザナミの本貫地

 

 島の次に神々を生むくだりが展開されるが、勿論その通りの順番ではなく、島々を攻略(或いは地理を知る)しながら子孫を増やしていった状況の描写が投影されているのだろう。古事記を素直に読めば於能碁呂島は瀬戸内海に比定できる。

 イザナギとイザナミは多くの神々を誕生させる。その舞台は主に出雲である。イザナミを葬った比婆山は出雲と伯耆の国境であり「黄泉の国」は出雲とみられている。「黄泉の平坂」も一般に出雲とされている。

 「佐田大社之記」をみると、「イザナギは淡海国日少宮に隠れ、イザナミは比国に崩御し垂日山に葬る」「比婆山は蓋しここなるか」と記載している。

 

記には「伊邪那伎大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、今の多賀大社にはイザナギが祀られている。

淡路島の伊佐奈岐大社は朝廷から一品という神格を与えられている。イザナギ、イザナミの伝説は淡路島を中心に分布している。

この事からこの両神は元は淡路島の航海民が祀った神で後に記紀に採り入れられたのであろう。(日本神話と神々の謎)寶歴14(ママ)の「熊野村神社萬指出帳」には次の記事が載せられている。

「熊野大社は天神イザナミ尊の神廟なり、山陵を比婆山と号す、或一名天宮山ともいう、或いはアマテラス大神始めて青垣の宮を造りし故、元宮山とも青垣山ともいう」

(神道大系)

 またイザナミの神陵は出雲に7か所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ1か所ある。(謎の出雲帝国)

 イザナギはカグツチを十握の剣で斬っている。この剣は十握であるから十握りの長さの剣であったと思われ、剣を持っていたことから弥生時代の伝承を彷彿とさせるものがある。

 古伝「上記(うえつふみ)」にはイザナギとイザナミの前に沫凪と沫波の名前が記されて、イザナギとイザナミは威清凪・威清波と表記されている。この字を充ててみると両神は海洋神であった事が窺われる。水に深い関わりがあり、航海の際に信奉された神であったのだろうか。

 

 

 

 

 新編古事記

 

イザナギとイザナミは次の自然神を創造した。

オオコトオシオの神、イワツチビコの神、イワスヒメの神、オオトヒワケの神、アメノフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、海の神・オオワタツミの神、水戸神・ハヤアキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの神。

 

 アキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの二神は、アワナギの神、アワナミの神、ツラナギの神、ツラナミの神、アメノミクマリの神、クニノミクマリの神、アメノクヒギモチの神、クニノクヒギモチの神を生む。

 

 イザナミは次に風の神・シナツヒコの神、木の神・ククノチの神、山の神・大山ツミの神、野の神・カヤノヒメの神又の名をノズチの神を生む。

 大山ツミの神、ノズチの神は、アメノサズチの神、クニノサズチの神、アメノサギリの神、クニノサギリの神、アメノクラトの神、クニノクラトの神、オオトマトヒコの神、オオトマト姫の神を生む。

 

 イザナミは次に鳥のイワクス舟の神・天の鳥船、オオゲツメの神、ヒノヤギハヤオの神・ヒノカガビコの神・ヒノカグツチの神を生む。

 ヒノカグツチの神を産んだことにより、イザナミはホトを焼かれ病んで臥せた。嘔吐物から金山彦の神、金山姫の神が生まれ、糞からはハニヤスビコの神、ハニヤスヒメの神が生まれた。

 尿からはミツハノメの神、ワクムスビの神・トヨウケビメの神が生まれた。イザナミは火之神を産んだ事で死亡した。

 以上の十四島、三十五神を創造した。能碁呂島とヒルコと淡島は数のうちに入れない。

 

 

 火之迦具土神(カグツチ)

 

 田中卓は神代史の主要な説話は、後世の著名重大な史実を原核として成立したものであり、史実が反映されているらしいとしている。(神話と史実)豊受大神は保食神、大気都姫、豊受賀能売命と同神と言われている。

 記の次のくだりでは生まれた神(人)の名前からその由来を関連付けて説明している。神々の系譜の説明をここで一挙に展開している。

 

 

 新編古事記

 

 イザナギはイザナミの枕辺で泣いた。その涙からナキサワメの神が生まれ、今は香具山の麓の丘の上に居る。

 イザナミは出雲と伯伎国の境の比婆の山に葬られた。イザナミは十握剣を抜いてカグツチを斬った。

 剣先に付いた血からイワサクの神、次にネサクの神、イワツツノオの神が生まれた。剣の根元の血からはミカハヤヒの神、ヒハヤヒの神、タケミカズチノオの神・タケフツの神・トヨフツの神が生まれた。

 

 柄に溜まった血からは、クラオカミの神、クラミツハヤの神が生まれた。

カグツチの頭からは、マサカヤマツミの神、胸からはオドヤマツミの神、ホトからはクラヤマツミの神が生まれた。

 左手からは、シギヤマツミの神、右の手からは、ハヤマツミの神、左足からはハラヤマツミの神、右足からは、トヤマツミの神が生まれた。その剣の名は天のオハバリ又の名をイツノオハバリという。

 

 

 黄泉の国は魔界

 

 「黄泉の国」は出雲をイメージして説話の文章構成が組まれたようだ。だがこの黄泉の国の一節は、日本書紀本文には記載されていない。このことはどう考えたらよいのだろうか。黄泉の国の物語は元々出雲の伝承であったものを、中央で天皇家の神話として取り入れたのだろうか。

または、日本書紀の一書のうちの幾つかには記載のあることから、古事記以前の書「旧事」に記されていたということもできる。イザナミの墓の描写からは、古墳と石室の印象が彷彿として伝わってくる。

今、島根の東出雲町に揖夜神社がある。根の国は島根の「根」であろうと思われる。田中卓は黄泉の国訪問説話は六・七世紀の成立としても、所伝の基本的な内容は更に遡る時代に求めることも可能であろうとしている。

 そして神話と神代史の関係に対応するもの、なんらかの史実の反映と考える田中卓は仁徳天皇と磐之媛との関係を想定する。磐之媛は嫉妬に駆られ天皇の意に背いて、山城国に行ってしまい天皇が迎えに行ったが磐之媛は逢わなかった。暫くして磐之媛は亡くなり山城国に葬られた。

 確かによく似たストーリーになっている。

 

 桃が魔物や邪気を払う話は「山海経」や「淮南子」にあり、古代の中国では桃は清浄な果物と考えられていた。妻から逃げる話は「五代史」に記事があり、黄泉の国の神話は南太平洋の神話に非常によく似ている。(井上光貞・日本の歴史)

 岡政雄は、北方神話のタカミムスビとイザナギ・イザナミの南方神話、そして古来からの太陽信仰のアマテラスが混在して構成しているという。(紀記解体)

 島根県の八束郡鹿島町にある佐太神社は、上古には出雲四大神とされていた。祭神は佐太大神であるが、「佐陀社内證記」によると、佐陀大明神とはイザナギ、イザナミの尊なりとある。

 熊野三山の古伝にはイザナギとイザナミの記事が多く出ていて、この地域と両神の縁が深かった事が窺える。「御鎮座祭文」には、崇神65年にイザナミが有馬村より熊野邑高倉下に移り、高倉下の子孫及び国造八門の神主に命じて祀らしたとある。イザナミの御神体は白銅鏡であると記されている。

 

 

 新編古事記

 

 イザナギは妻のイザナミに会いたくなり黄泉の国へと訪ねて行く。墓の前でイザナギは語りかける。愛しい妻よ、汝と作りつつある国はまだ完成していない、帰ってきて手伝ってくれないか。

 イザナミは地下から答える。あなたが早く来てくれなかった事が口惜しい、私は既に黄泉の国の洗礼を受けて帰れない体になってしまった、見ないで欲しい。

 諦めきれないイザナギは髪に差していた櫛に火をともして墓の中をのぞいた。

 

 イザナミの体は腐って蛆がたかっていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、ホトには析雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷あわせて八種の雷神がたかっていた。

 

 醜いところを見られたイザナミは恥をかかせたなといい、ヨモツシコメにイザナギを追わせた。イザナギは黒の髪飾りを取って投げた。

 髪飾りは山葡萄となり、ヨモツシコメがこれを食べている隙に逃げる。また右の髪に差していた櫛を投げるとそれは筍となった。ヨモツシコメが食べる間に更に逃げる。

 イザナミは八種の雷神に千五百の軍勢をつけて追わせる。

 イザナギは十握の剣を抜いて後ろ手に振りながら逃げた。黄泉比良坂の阪本に来た時、そこにあった桃の実を三つ投げた。

 軍勢はこれにより退散した。イザナギは桃に告げて、吾を助けた如く葦原中津国の人が苦しむ時には助けてあげよと言った。桃にオオカムズミニミコトと名前を与えた。

 

 ついにはイザナミが自ら追って来たので、イザナギは大きな岩で坂を塞いだ。ことどを渡して、イザナミはこの仕打ちに対して汝の国の人を一日に千人殺してやろうと言った。

 イザナギはそれなら一日に千五百人の人を生もうと答えた。そしてイザナミを黄泉津大神と名づけた。または道敷大神という。大岩は道返大神と名付けた。又は、ヨミドニイマス大神という。この坂は今の出雲の伊賦夜坂だという。

 

 

 

海神・アマテラスの誕生

 

 神話の舞台は黄泉の国出雲から一転、九州へと移っていく。イザナギは筑紫の日向に行き禊祓いをする、この橘の小戸の所在には諸説はあるが素直に読めば宮崎県になる。田中卓は綿津見の神と筒男命出現の所伝は架空の場所ではなく、現実に存在するある地点を中心に伝えられていたらしいと述べている。

宮崎県には信憑性はともかく、神話をそのままになぞる伝説地が全て完備されている。今も「橘」や「小戸」「阿波岐原」の地名が存在している。

梅原猛は宮崎市の橘や小戸の名前は古い地名であり、小戸は薩摩にあったとみられる綿津見の神の国との貿易港であったとみている。小戸神社はイザナギ・イザナミを祀っている古い由緒のある神社である。江田町にはやはりイザナギ・イザナミを祀る江田神社がある。

阿波岐原のあおき遺跡は日向でも突出して古く、出土物から弥生前期中期の遺跡であるとされる。このような状況からも、イザナギが禊祓いをし、三貴神が生まれた橘の小門は日向の宮崎市になろう。(天皇家のふるさと日向を行く)

江田神社の北に位置するところに、塩路の地名があり塩土の神との関連を窺わせる。さらにその北には住吉神社が鎮座している。

 

田中卓は禊祓いで生まれた綿津見神が、祀られている志賀海神社が筑前にあり、しかも社家は綿津見の神の後裔の安住氏であること。

更に住吉神社やヤソマガツヒの神、カムナオビの神、オホナオビの神が祭られている警固神社の存在などから博多・那珂川付近に求めている。安曇氏の本貫は筑前粕谷郡安曇郷であり、応神天皇の頃に畿内に進出した。禊祓いで生まれた綿津見の神と筒男命は共に神功皇后の新羅征討に加わっている。

この新羅征討の際に神功皇后は、博多湾で髪を洗い禊をしているが、イザナギが禊祓いした橘の小戸も北九州に比定できる。

 皇后の新羅征討に参加した綿津見の神と筒男命の史実が、イザナギの禊祓いと両親の誕生に投影されている。(神話と史実))

 田中卓はこの他にも幾重にも傍証を取り上げて、思わず納得してしまう見事な論理を展開している。

 

神皇正統記ではイザナギが禊をしたのは、日向の小戸の()檍が原としている。福岡市の姪の浜に小戸神社がある、古田武彦はこの地をイザナギが禊をした地でありアマテラス誕生の地と論証している。

記・紀の記述からイザナギが禊祓いをして、三貴神が生まれた場所を探して特定する考証は楽しくもあるが、「筑紫日向」の日向は一定の場所ではなく、九州や日向などのどこかという意味に解する向きもある。

つまり日向の神話であるから名辞的な表現で「日向」とした、或いは日に向かう良い場所などの意で用いた表現とみる説である。同説に立てば現実の場所を探し求めることは無駄な事となる。

しかし様々な角度からその場所について考証を重ねることは、日向神話の根本を考えることであり、神話や古文献の理解を深めることにも繋がり意義のあることと思われる。

 

 天照大神はアマテラスオオミカミと読まれているが、果たしてそう読んで正解なのだろうか。「アマテル」と読めば天が照り輝くという意味になる。天が照るに大神を繋いでいる。

この場合個人としての神を特定する固有名詞がなくなり、神名の中身が薄くなり、一般的な広い意味の太陽神・日神の意味で用いられていることになる。

 現にアマテルと読む天照神社はいくつか現存している。弥生時代は文字通り太陽と共に生活していたのであろう。明るくなれば起きて活動を始めて、日が沈み暗くなれば家の中に入りやがて眠りについた。

 日照時間により作物の出来不出来も決まり、猛獣からも守ってくれる太陽は自然と信仰の対象となったのであろう。太陽を神格化し神の名前として、皇祖神と一体のものに仕立てたと考えられなくはないか。

 こうした太陽崇拝はインドネシアに広くみられるように、農耕民族により多く崇拝されていた。

 

また天照大神は「オオヒルメノムチ」とも呼ばれたと言われているが、オオは大きなという意味でムチは貴人という意味を持っている。そして残されたヒルメは「日の女」即ち巫女のことと解釈される。してみるとこの名前も「日を祀る偉大な巫女」という意味になり、個人名ではなくなってしまう。

オオヒルメノムチが一人しか居なかったという保証はなく、年月を隔ててオオヒルメノムチと呼ばれた人が他にも居た可能性が浮かび上がってくる。

播磨国風土記には、アマテラスが乗っている船に猪を献じる説話が乗っている。天神は天の磐船にのって天下って来たと古文献に散見され、このことは宇宙船でない限り海を渡って来た事を想定させるのである。

従って(あま)とは空のことではなく、海の事と考えるのは必然の帰結であろう。アマテラス」もまた空を照らすのではなく、暗い海を照らすという意味に受け取れる。沿岸航法でも日が暮れた海を航海するのには危険が伴う。

当然照明が必要であり、そんな暗闇を照らす灯台のような効果を生む方法があれば神の助けとも思えたであろう。

そこで「(あま)照らす大神」となったかもしれない。古代氏族の多くが海部(あま)族の出自であることも何らかの関連性を持っているのだろう。アマテラスには太陽神のイメージが定着していることから、「天照す」といえば空が照っているかの如くの現象として捉えがちであった。

 

しかしアマテラスとは「晴れてる」という意味ではない。明らかに「天」を照らすということであろう。よく考えると空を照らすことなど出来はしない。東京タワーのライトアップでも、空のほんの一部しか光が当たっていない。

広大な空を広い範囲で照らし出すことは無理な事である。天上界から下界を照らすという意味だとしたら、表現は「天ヶ下(を)照らす・大神」とならなければおかしいのである。

上の数行を書いた数日後に似たような論説を目にすることになった。「日本神話と神々の謎」の中の一項目がそれである。この本は買っておいた物で、まだ目を通していないままだった。

この本ではアマテラスは元は海神であったとしている。やはり天照すの意味は元々は天を照らすためのものではなく、海を照らすものであったと述べている。そしてアマテラスという言葉自体は太陽神をあらわすものではないと言っている。

イザナギとイザナミは重要な神であるが、宮廷祭祀の中には現れず天皇家は両神を祀った形跡がない。朝廷は四、五世紀には三輪山の大物主を祀り、六世紀以降にはアマテラスを重んじていた。(武光誠)

 言語学の立場から神名を考証している川崎真治は、対馬の「阿麻氐留神社」の名前を「アマテ」と助詞の「ル」であるとして、「ル」は「ノ」と同じと解釈できるという。この場合の「テ」は方角のテではなく、「先手」の手で広義には部族を指すと捉えている。

 「アマ」は海人族となるとしている。この考証方式をアマテラスに当て嵌めることができるだろうか。やや強引に当て嵌めてみると「海人族のテラス」ということになろうか。テラスという名前は奇異にみえるが、それをさておくとアマテラスは海人族の支配者層であったことが想像できるのである。(あま)を照らすように航路が読める、航路を知っている海人の代表、それがアマテラスだった。これは案外、当たらずとも遠からずの説となり得る。

 

 三貴子の中の月読命は三神の中では一番影が薄い。月読命のエピソードは取ってつけたかのように一回しか語られていない。早くに亡くなってしまいこれといった事績がなかった為なのか。

それとも太陽と月として陰・陽を顕す必要から設定されたものなのか。ツクヨミとは月齢を読んだり、暦を数える事と言われている。山城国葛野郡の月読命は壱岐から勧請された神である。

 この辺一帯は帰化人、秦氏の根拠地である。松前健は月読命は渡来人がもたらした亀卜の神だったようで、大陸的色彩が強い神であると論じている。

月読神社は壱岐や山城や伊勢などに存在している。松本清張はこのアマテラスと月読命の誕生話は、中国の「五運歴年記」の盤古の説話からとられたことは明らかであるという。

そこには「左眼は日となり、右眼は月となる」と記されている。月読命は月を読む神ではなく月そのものであるとしている。しかし同時に生まれたアマテラスは巫女をモデルにしているという。太陽()であるならば天地開闢の項に生まれていた筈であるとする。

 

 ではなぜ、月である月読命は天地開闢の項で生まれていないのであろうか。松本はこの矛盾については何も語っていない。スサノオと月読命は同神であったとする説もある。紀の異伝には海原を治めるのは、スサノオとする伝と月読命とする伝の二つがある。

 また記ではスサノオが大気都比売を殺しているが、紀では月読命が大気都比売と同神とみられる保食神を殺している。以上の二項目と先に述べた月読命の事績が殆どないことを考え合わせると、スサノオと月読命は同一人物であった可能性が高まってくる。

 更に近江雅和はスサノオと月読命の、モデルであったらしい二神の話が「契丹古伝」の中に出ている事を紹介している。(逆説としての記・紀神話)

 出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」によると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 

 新編古事記

 

 イザナギは吾は汚い国に行ってしまったので、禊をすると言い筑紫の日向の橘の小門に阿波岐原に至り禊をした。杖を投げるとツキタツフナトの神になり、帯を投げるとミチノナガチワの神となり、袋を投げるとトキハカシの神が生まれた。

 

 衣を投げるとワズライノウシの神となり、褌を投げると道俣神となり、冠を投げるとアキグイノウシの神となり、左の腕飾りを投げるとオキザカルの神、オキツナギサビコの神、オキツカイベラの神がうまれた。

 

 右の腕飾りを投げるとヘザカルの神、ヘツナギサビコの神、ヘツカイベラの神が生まれ、ここに十二神の誕生となった。

 体を洗うと穢れから、ヤソマガツヒの神、オオマガツヒの神が生まれ、次にカムナオビの神、オオナオビの神、イズノメの三神が生まれた。

 

 水底からはソコツワタツミの神、ソコツツノオの命、中ほどからナカツワタツミの神、ナカツツノオの命が生まれた。

 水の上からはウワツワタツミの神、ウワツツノオの命が生まれた。この三柱のワタツミの神は安曇の連の祖先である。

 

 三柱の男神は住吉神社の三座の大神である。次に左の目を洗った時に天照大神。次に右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時にタケハヤスサノオノミコトが生まれた。

 イザナギは天照大御神に汝は高天の原を統治せよといい、月読命に夜の食国を治めよ、スサノオに海原を治めよと指示した。

 

 

住吉大社神代記

 

 ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、気息帯長足姫の、四神を祭神とする住吉大社が伝える住吉大社神代記は記・紀とならび重要な資料である。ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、三柱の神名は海の深さを象徴するような奇妙な名前の不思議な神である。

 「ツツノオ」は津の男を言うとする説がある。三神が誕生したとき、それぞれの神とセット・ペアで生まれた綿津見三神は安曇氏の祖先とされ、住吉三神は住吉に祀られ子孫はいなかったことになっている。後に住吉三神は、神功皇后の新羅征討の際に託宣を下している。

 綿津見の神三神は武光誠によると、奴国の航海民が祀っていたという。この三神は志賀島の志賀海神社に祀られている。同時にペアで双子のように生まれた六神のうち、三神が住吉大社に祀られ、三神は志賀海神社に祀られた訳である。なぜ引き裂かれて西と東に分かれることになったのかは謎である。

 武光は綿津見三神と住吉三神は元々無関係であったが、安住氏が大阪湾の安曇に本拠地を移したことにより、兄弟とされるようになったとしている。住吉三神を祀る津守氏は長門から摂津に移り安曇氏の監督を受けた。

 

 大和朝廷は四世紀の初頭に九州を制圧した。志賀島を本拠地とする航海民は大和側に従って安曇氏と呼ばれるようになった。安曇は「あまつみ」が訛ったものである。綿津見三神は元は一柱であったが三柱に変えられた。(日本神話と神々の謎)

 

神代記はそれまでに、大社に伝わっていた二つの書物を一つにまとめたものであるという。神代記は神代の誕生から筆を起こし、大筋では紀と軌を一にしているが、祭神の神宮皇后の記事に多くを割いている。

編纂したのは大社宮司家の津守氏であり、天平三年731年)に奉られている。

 したがって成立年度は更に遡り、大宝二年に原撰、養老三年勘注したものとされる。だが田中卓はその末文などから、更に古い斉明五年・659年にはある程度の形(旧記)が出来ていて、天平3年に言上されたと推考している。

これならば記・紀よりも古く最古の歴史書になってしまう。神代記には紀を参照し引用したと見られる個所もあることから、原資料はともかく編纂が終了したのは紀・紀の成立後まもなくのことであろう。

神代記の内容について、田中卓は紀にはない記事や表記が見られることから、津守家の独自の古伝が多く取り入れられたとみている。そして紀の方が神代記の原資料を参照したのではないかという。

神代記と記との関係では、記の文章は取り入れ、または引用されていない、記と一致しない内容もあり、構文・用字の点からも、両書の間に直接の史料的親子関係は全くないと断じている。しかしながら、紀と説を異にし、もしくは欠けている内容に関して、記と説を同じくする事例が少なからず存する、と分析している。(住吉大社神代記の研究)

 

 

 最古の英雄スサノオ 

 

 「神皇紀」にはスサノオの元の名は「多加王」であったと記され、タカミムスビの曾孫となっているが父名の記載はない。豊阿始原を占領するべく、大陸から千三百人余を率いて高天原へ攻め込んだという。この時に大巳貴命は八千人の軍勢を編成してスサノオ軍を皆殺しにしたとしている。

 アマテラスは多加王を出雲に追放し、スサノオは出雲を平定した。スサノオは作らせた剣、鏡、置物を持って各地に巡行し、平定した後に剣をアマテラスに奉じた。アマテラスは多加王に「スサノオ」の名前を与えた。(古代文書の謎)

 

 三輪高宮家系譜によるとスサノオは、紀伊国牟婁郡熊野大神なりとして、またの名を八束水臣津野神としている。八束水臣津野神は記紀には表れないが、風土記において出雲の国引きをした神として有名である。

 記・紀では同神の功績などをスサノオに転化したものなのか。同系譜では更にスサノオの別名を、遊美豆奴神、熊野加夫呂神、熊野加夫呂神櫛御気野神、気都御子神と伝えている。「出雲国造神賀詞」では熊野大神(櫛御気野神)を「いざなきの日まな子」と呼んでおり、イザナギの子スサノオと同神と分かる。

 

 記ではスサノオノミコトは出雲勢力の代表・首長として描かれている。「須佐」の地名は今も島根県に存在する他、スサノオノミコトを祀る「須佐神社」は同地に数多くある。「須佐の男」にミコトをつけ名前としているのは、明らかに天孫族の対抗勢力と解るように設定したかのようでもある。

 スサノオが渡来神であったかどうかはともかくとして、出雲国風土記には同神の伝承が豊富に語られている他、記紀に現れない同神の子の名前が幾つも記されている。

 このことはスサノオが出雲の地方神、或いは出雲に先着した神であったことを窺わせる。

スサノオの影響力下にあったのは出雲を始めとして、大和や北九州に亘る広大なものであったとも考えられる。大和にも「出雲」の地名がある上、出雲神社が幾つもある。スサノオは息子と共に新羅に行き、暫くソシモリに居たとの伝承もあり、新羅や北九州に縁が深いことが窺われる。スサノオノミコトの娘である三女神も宗像大社に祀られている。

関係は不明だが、松江市の忌部神社の「忌部大宮濫觴記」には「韓山」の地名も見えている。紀の一書では、熊成の峯から根の国に渡ったと記載している。この熊成は朝鮮の地とみられ、任那の熊川もしくは百済の熊津は、いずれも古くは久麻那利と呼ばれていた。

松前健はスサノオと朝鮮との結びつきが深いことは認めるが、スサノオの前身が全くの渡来神とすることには疑問を持っているという。スサノオと韓土の結びつきは56世紀の頃、盛んに韓土と往来し交易や征討に従事した紀伊の海人の活動によるとしている。

 

また「宇佐宮劔玉集」には、豊葦原中国之宇佐嶋は云々、スサノオは天降りて筑紫宇佐州に居て、今の小椋山の頂に大神として祭られたとしている。このスサノオの治める芦原中津国に、アマテラスは天のオシホミミや天のホヒノカミ等の征討軍を次々に送り込んで来たようだ。

  スサノオは原出雲系の神ではなく、朝鮮半島から渡来した神であるとする説も多く唱えられている。一名を牛頭天皇といい、紀が朝鮮のソシモリに行ったと記す、その「ソ」とは古代朝鮮語で牛のことだという。

 ソシモリとは江原道・春川府牛頭州のことで、ここに牛頭山がる。京都八坂神社の社伝では、」斉明天皇二年に新羅の牛頭山からスサノオの神霊を迎えて祀ったとしている。石見で「韓」ないし「辛」の字がつく地名のところには、必ずと言ってよいほどスサノオ伝承がある。

とすると何故大国主と結びつけ、その祖先としたのか、考証を急がねばならぬ。出雲国風土記ではスサノオは侵略者とし登場している。

 スサノオは牛族でその神紋は十字紋であった。播磨国風土記に新良(しら)(くに)と名づくるは新羅の人来て、新良(しら)(くに)と名付けた。山の名前も同じ。とあり白国神社には牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。

大国主の末裔・富氏の伝承では、同氏の祖神はクナトの大神で何世かの後に大国主があり、また何世かの後に富のナガスネヒコや伊勢津日子に繋がっている。出雲の熊野神社にはクナトの神を祀っていたが、後に全国の熊野神社と共に祭神はスサノオに変えられてしまった。(記紀解体)

クナトの神との関係は不明であるが、「クナト」とは「()な」と「()」を合わせたもので、悪いものが入ってくることを防ぐ門の役目を持つ者を指すという。この点、道祖神信仰に繋がるものとみられる。衝立船戸神の船戸はクナトが訛ったものと言われている。

 スサノオはアマテラスの元では乱暴者の悪神であるが、出雲に行ってからは民衆のヒーローになっており、正と悪の二面性を持っている。出雲風土記では大衆の中に溶け込んだ平和の神として描かれている。

 この二重人格のような矛盾について、松前健は全く別な二つの神格が結びつけられた同一神と考える。スサノオは出雲や紀伊で祀られた地方神で本来は平和な神であったという。

彼が犯した悪行は後世の大祓に、列挙される罪の名と同じである事から、この悪い事をする例(者)としてスサノオが挙げられたとみているようだ。つまり悪のキャラクターとしての役割を担わせられている。

松前は出雲の東西各地にスサノオの崇拝や口碑があり、その崇拝は紀伊、備後、播磨、隠岐などの広い領域で行われていたとしている。紀伊国在田郡の名神大社「須佐神社」がスサノオの原郷ではないだろうかと言っている。

 

 スサノオは高天原から根の国へ行き支配者となった。その足跡は韓半島にも及び、韓の神とも出雲の神とも言われている。スサノオは須佐の男であり、この名前だけを取れば文字通り須佐(出雲)の男である。

 古事記の言うところの建速須佐之男命の建は勇猛な意味の籠められた敬称であり、速も同様の接頭語とみられる。

 書紀の第一の一書にはスサノオの子は清(すが)の湯山主三名狭漏彦八島野であり、この神の五世孫が大国主命であると記している。この伝承は須佐神社資料と一致している。

(すが)は須賀の宮・須我山()に通じ、ここにスサノオと出雲との関わりが色濃く反映されている。スサノオの足跡を線で綴ると韓半島からの航路となり、渡来人の足跡とも重なるようだ。

 

 

 新編古事記

 

 スサノオノミコトは指示された国の統治をせずに、その髭が長くなり胸元に垂れる頃になっても泣いていた。

 その泣く事により青山を枯らし川や海は干上がり、悪い神が台頭し蠅の大軍が現れ様々な災い事が起こった。

 イザナギが理由を問いただすと、スサノオは母の根の堅州国に行きたいのだと答えた。イザナギは怒って、ではこの国には住むなと言って追放した。

 

そのイザナギは死去して今、近江の多賀神社に祀られて居る。

 スサノオ軍が迫ってきた時、高天原の山川は揺り動き国土は振動した。アマテラスはスサノオが吾国土を奪う積りに違いないと言った。髪を解いて男髪のみずらに結い、左右のみずらとみかずらにも左右の手にも八尺の勾玉を多く巻き、背に大きな矢筒を負い脇にも矢筒をつけ、左の手に鞆をつけ武装した。

 弓をふりたてて庭の土を踏みしめ、淡雪を蹴散らし雄叫びを上げ、すっかり戦の準備を整えてスサノオを待ち構えた。

 

 

 天の安河の停戦交渉

 

 人類の祖先神イザナギはここに亡くなり、これ以上登場する事はなくなるがその御陵については詳しく触れられてはいない。記では淡海(近江)の多賀としているが、紀ではイザナギの御陵は淡路としており、淡路島の神話・海人族の伝承が浮かび上がって来る。

 松前健は近江の社は古い記録に見えず、延喜式では小社となっているとして、イザナギは5、6世紀頃は単なる島の神であり、皇室との関係はなかったであろうと言っている。

 イザナギの陵については宮内庁が作成した「陵墓要覧」にも記載がない。イザナギは神代の神様であったから当然の措置か。

 「陵墓要覧」の陵墓の記載・位置などは、降臨してきたニニギノミコトから始まっている。高天原は記・紀に記載記事の状況証拠から、必然的に北九州・博多湾付近に比定することができる。田中卓も高天原は筑後国山門郡の辺りにあったと論じている。

 それを原ヤマト国と呼び、その本拠地から移転したのが皇室の祖先であり、九州に留まったのが後の邪馬台国であると推考している。

 

 「(ほつ)()(つたえ)」では高天原を仙台地方にあったとしている。神代文字で書かれている同書を論じる学者は殆どと言ってよい程いない。また同書はアマテラスを男神として12人の妃があったと述べている。

 北九州の沖ノ島の近くの大島には宗像神社中津宮がある。ここには天の川と天の真名井があり、神官は天の真名井で禊をしている。天の川の両岸にはそれぞれ牽牛、織姫を祭る神社がある。

七夕祭りの時に男女の出会いの場所となる。これらの事柄はスサノオとアマテラスの誓約の場面に酷似している。(神々の流竄)アマテラスとスサノオは誓約して子を作ったとあり、両神は一時期夫婦の関係にあったと考えられる。

二ギハヤヒの項で後述する熊野連の和田家系図には、熊野加夫呂櫛御気野命とアマテラスの二人は姉弟であり、夫婦であり天忍穂耳命を産んだと記されている。神皇正統記によると、安河の誓約でスサノオは「まさやあれかちぬ」と言ったとしている。

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスの高天原に征西軍を率いて到着したスサノオは、高天原軍と対峙し優勢のうちに小競り合いを繰り返した。この戦いは長びき、高天原の田畑は荒れて農民は戦に駆り出され収穫も出来ない状態に陥った。

 アマテラスは降伏を申し出た。スサノオは高天原人心の掌握のためアマテラスを妃に迎えた。スサノオは十握剣をアマテラスに献上し、アマテラスは八尺の勾玉、みすまるの玉を差し出して交換とした。

二神は天の安河の近く、天の真名井に宮を建てて住まいとした。やがて生まれた神は多紀理姫命、またの名は奥津島姫命、次に市寸島姫命、またの名を狭依姫命、次に多岐都姫命が生まれた。

また次に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命が生まれた。

更に活津日子根命、熊野久須毘命の二神が生まれた。

 

 多紀理姫命は今宗像の沖津宮に祀られ、市寸島姫命は宗像の中津宮に祀られ、多岐都姫命は宗像の辺津宮に祀られている。

 三柱の神は宗像の君の祖先である。多岐都姫命の子の建比良鳥命は出雲国造、武蔵国造、上総国造、下総国造、対馬県直、遠江国造などの祖先である。天津日子根命は紀の国造、倭の田中直等の祖先である。

 

 スサノオノミコトの勝利

 

天の安河の誓約で、スサノオの物実であるとされた十握の剣とは精子を象徴しているように思われる。スサノオの種を貰って生んだのが三女神ということになる。その後生まれたのが五男神である。

この勝利により、三女神が祭られている宗像の辺津宮、沖ノ島と韓半島へ続く壱岐をスサノオが領有することになったのではないか。宗像氏はスサノオの後裔三輪氏と同族である。

 

スサノオは、出雲の支配地を侵食するアマテラス軍を放逐するべく、北九州に大軍を持って上陸した。戦いに勝利したスサノオは妻問いの慣例に従って、敗軍の旗印となっていたアマテラスを娶って妻とした。

 こうすることによって完全制圧するのではなく、吸収合併した形を取り一体となり領土を一緒に統治する姿勢を領民に見せることが必要だったのであろう。

 

 

 「新編古事記」

 侵略戦争に勝利したスサノオは慣例により、当地支配者層の娘アマテラスを妃にして、高天原の統治・経営に専念した。だが農民は静かな抵抗を続け統治はうまくいかなかった。

 スサノオは見せしめとして、抵抗した農民の田の畦を切り離し溝を埋めた。アマテラスは、神事だけを司る立場に追いやられ咎め立ては出来なかった。スサノオの悪行はやまず、アマテラスが機屋で機を織っているときに、屋根に穴を開け斑馬を投げ込んだ。

機を織っていた織女は驚いてにホトを付いて死んでしまった。やがて水面下で、勢力を立て直していた高天原の高木神の策略によって、出雲へと撤退せざるを得なくなった。スサノオは出雲を経由して、紀伊に入り山の権利を掌握し支配した。スサノオが親権をとった三女神は北九州に残り、後に宗像神社や沖ノ島に祀られた。

 

 

 天の石屋戸隠れ説話

 

 アマテラスが石屋戸に籠ってしまい、世の中は真っ暗になってしまった。研究者によるとこの頃に日食があったという。祭祀の途中に日食が始まった事があり、これが一部に伝承されていたのではなかったか。

 そして古事記編纂の際に、アマテラスと日食とを結び付けられるストーリーになった可能性が高い。この日食神話のモチーフは西はインド、東はカリフオルニアにまで及んでいるという。特に内容が似ているのは中国南部からインドアッサムにかけての地域の神話である

 この他、天の石屋戸神話を、鎮魂祭(みたましずめまつり)・冬至の祭りであったとみる説も古くから存在している。

田中卓は天の磐戸隠れはスサノオ等の、オオナムチ系氏族に対する大和朝廷側の敗北という史的事実が投影されている史的神話である。

 

 大巳貴命系氏族の元来の本拠地は畿内・大和を中心としていたらしい。このことは大物主を含む三輪山と畿内の信仰と伝承が、この氏族と密接に結びついている。神武天皇の東征により出雲へ敗退・転出したとみられると言っている。

 この説に従えば時代は遡るが、スサノオが出雲斐の川上に降臨したことと辻褄が合うことになる。

 アマテラスの別名は大日女命とされているが、この名前は当然のように今まで太陽・日神を祀る祭祀を司ることによると考えられていた。しかし中国の南朝の最後の大王陳の娘の名前が大比留女だという。

 このことからは何が考えられるのだろう。単なる偶然なのか。それとも日本語読みが全く同じ名前なので何らかの関連があるのだろうか。

 

鹿児島県隼人町の鹿児島神宮の縁起によると、大比留女は七歳で懐妊し生んだ男の子が二歳の時に自分は八幡だと名乗った。

 後に母子を船に乗せて流したところ、大隅の海岸に流れ着いたという。大比留女は日本に来ていたということになる。(海を渡った人びと)

渡来伝説といえば、徐福は秦の始皇帝の命によって前210年頃、三千人の男女を引き連れて渡来したという。五穀の種も持参して辿り着き王になったが帰国はしなかったとされる。

日本各地には徐福の墓や伝説が残っている。船が難破したとしても千五百人くらいは日本にたどり着いた可能性がある。

アマテラスは男神であったと唱えているのは、津田左右吉や折口信夫であるが、この説にもそれなりの理由が存在している。折口は「日女」は「日妻」であるとして、即ち太陽神の妻であるという。

アマテラス男神に仕える巫女がヒルメであり、代々の巫女のイメージが祭神の姿に重なり、いつしか巫女がアマテラスになったと考証している。仕える者が主の名前で呼ばれることはままある事である。ある神を奉じて戦う武将や氏族が、年月を経るとその代表としての神の名前で伝承されていくこともある。

神事などでの巫女の振る舞いは一種神秘的に見えるものであり、神意を告げる巫女そのものが次第に神へと昇格していった可能性は十分存在している。

 

敏達紀には宮廷内に日祀部を設置したと記載されている。これは神祗官以前の宮廷の祭官であり、太陽神の祭祀を司ると言われている。

敏達帝の宮があった大和の他田には、他田坐天照御魂神社があるがその祭神は天照御魂・火明命である。アマテラス男神説はこれらの内容とは混同していないであろうか。

松前健はこれらのことから、敏達帝当時の宮廷にアマテラス崇拝はなかったと言っている。また上田正昭は伊勢の渡会氏の奉じる日神の地に、皇祖神アマテラスを祀ったのは伊勢と宮廷の交渉の記事の多い雄略朝であろうという。

松前はこの説を肯定し、最初は守護神程度に祀った時期が長く続き、継体朝頃から中臣氏や忌部氏を送り込み皇祖神化していったとみている。(日本神話の謎)

 アマテラスが岩屋に隠れて、世の中が真っ暗になったとする現象をアマテラスの死、或いは一度死んで復活する儀式と捉える論者も少なくない。松前健はアマテラスの岩屋戸隠れは「死」を象徴するものであったらしいという。

 実際に紀の一書では、機屋の中でにホトを付いて死んだのはアマテラスであったとしている。

 

 鎌倉時代の「年中行事秘抄」の神楽歌を見ると、日神の死が歌われており、冬至には太陽が一旦死んで生まれ変わるというのは、世界的な信仰であるとしている。(日本神話の謎)

吉田大洋はアマテラスという神はいなかったと断じている。延喜神明式によると、宮中で祀っている神は、ムスビ系の八神でありアマテラスやスサノオはいない。伊勢神宮におけるもっとも重要な、新嘗祭の祭儀は豊受の神を祀る外宮優先である。アマテラスが伊勢の神となったのはかなり後世であり、神宮の形を整えた天武天皇の頃であるという。

松前健の主張でも、宮中のアマテラス祭祀は固有と思われるものは一つもなく、みな後世、ずっと後の平安時代になって神話の影響などにより成立したものである。としている。(謎の出雲帝国)

 

 アマテラスが、古くから宮廷内に祀られていたという証拠は何一つなく、アマテラスに天皇が礼拝するなどは平安時代中葉に始まった。タカミムスビは八神殿の主神として古くから宮廷に祀られていた。

 この八神はタカミムスビ、カミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ、ミケツカミ、オホミヤノメ、コトシロヌシで天皇の守り神であり、鎮魂祭や祈年祭、月次祭などにも祀られた。タカミムスビとは本来、田の傍らに立てた神木に降臨する田の神なのである。(日本神話の謎)

住吉大社では今も天の香山の埴土を取りに行く行為を続けている。もっとも、江戸時代以降は天の香山から畝傍山に変更されている。(住吉大社神代記の研究)

出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」よると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。

 その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 古田武彦は、高天原を紀の一書日本旧記にある「天国」として、その領域を北九州の北方、日本海中の対馬を含む島々であったとする。天石屋戸は「天国」の中心に位置していて、全島岩で覆われている沖の島と断じている。

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスはスサノオ軍と戦った際に、傷を負いその後遺症が元で死んでしまった。

天の石屋戸を開き一時その中に埋葬した。高天原の人心は暗く沈んでしまった。毎日民衆のさざめきは蠅の大群のようになり様々な犯罪が起こった。長老たちは天の安河に集まり、アマテラス復活の祭祀・儀式の段取りを相談した。

タカミムスビの子のオモイカネが指揮を執ることになった。鶏を集め鳴かして、天の安河の川上の天の堅石と天の金山の鉄を取って、鍛冶のアマツマラに鏡を作らせ、タマノオヤに八坂の勾玉の御すまるの玉を作らせた。

 アメノコヤネ・フトダマに天の香具山の、鹿の肩骨と波波迦木を採って占なわせた。

天の香具山の真賢木を根こそぎとって、上の枝に八坂の勾玉の御すまるの玉を架け、中枝に八尺の鏡を架け下枝に白丹寸手・青丹寸手を架けた。

 これ等をフトダマが持ち、アメノコヤネが祝詞を称えアメノタジカラオは石屋戸の脇に隠れ、アメノウズメが天の香具山の蔓を架けて、天の真折として、天の香具山の笹葉を結って石屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らした。

 

 神がかりして乳房をむき出して、衣を臍の下まではだけて踊り続けた。人々は笑い、二代目のアマテラスが石屋戸から覗いた時に、タジカラオが手を取り一気にアマテラスを引き出した。

 すかさずフトダマがその後方に縄を張り巡らした。人々の顔は明るくなった。長老はスサノオの髭と手足の爪を切り武器を取り上げて新羅へと追放した。スサノオは息子のイタケルとともにしばらく新羅のソシモリにいたが、なかなか勢力を伸ばせないので出雲へ帰った。

 イタケルは新羅から多くの樹種を持ち帰り、筑紫から大八島にまで播いてことごとく青山にしてしまった。楠や杉檜槇等の木がそれである。このことからイタケルはイサオシの神と及ばれ、紀の国、伊太曽神社に大神として祀られた。この後アマテラスは高木神と結婚し、二人で様々な命令を出し国土の発展と経営に努めた。やがてアマテラスは日神の祀りごとに専念するようになり、オオヒルメノムチと呼ばれ政治・行政面は高木神が務めるようになった。

 

 

 

五穀の起源

 

 追放されたスサノオがいきなり大気都姫に会うシーンから始まる。伊手至(古事記・角川)は後から挿入した説話かと言っている。

むろん古事記は一つの伝承・歴史だけではなく、各地に伝わる色々な伝承をモザイクのように織り込んでいる。当然天皇家に関係のない伝承をも、いかにも関係あるかのようにそれらしく記述して構成しているのである。

どの箇所が皇室・系譜に関係のない挿入なのか慎重に見極めなければならない。

 スサノオは書紀では海原ではなく根の国を治めよとなっている。スサノオはアマテラス以前に漢半島から来て出雲を支配していたと考えられる。越に出雲の神々が式内社として祭られており、出雲の支配地域ないしは影響力を及ぼしていたのは、越から北九州福岡の沿岸地域(大和を除き)までのエリアとみられる。

沿岸航法で小さな船でも往来できる日本海沿岸の地域である。

 

 後に進入してきたアマテラスは北九州で勢力を拡大し続けていた。新撰姓氏録には宗像氏は、「大国主の六世孫の吾多片隅命の後なり、大三輪朝臣と同祖」と記されている。

しからば、出雲系のスサノオの子である三女神を祀っていても違和感なくとらえられる。また宗像大菩薩縁起には出雲簸河上より筑紫宗像に移ると記されている。(神話と史実)

これに対しスサノオは出雲から進軍して反攻を試みて一時は勝利を収めた。アマテラスの直轄地まで支配する勢いだったが、施政・行政に失敗し民衆の反感には抗えずまた出雲へと撤退したのではなかったか。

 この時にスサノオは屈辱的な降伏の条件を呑み、携えていた草薙の剣をアマテラスと高木に簒奪された。スサノオと大気都姫の説話は、書紀では月読命と保食神との物語になっている。

 

 

 新編古事記

 

 撃退されたスサノオは、出雲へと帰還する途中で会った大気都比売神に食物を乞う。比売はスサノオの汚さを詰って食べ物を与えなかった。スサノオは怒って大気都比売を殺した。

 大気都比売を埋葬したその土地からは、小豆や大豆が取れるようになりカミムスビが種を保存・利用するようになった。また後には粟や麦や稲が生産されるようになった。

 

 

 ヤマタノオロチ伝説

 

 出雲系神話か。島根県大原郡大東町須賀にスサノオと稲田姫を祭る須賀神社がある。櫛名田比売と少し名前が違うが「櫛」は「奇し」で尊い・神秘的という意味の美称であろう。

 ヤマタノオロチ退治の説話は、勿論大蛇を退治した時の伝承ではない。出雲の斐伊川流域には古くから蛇神信仰があった。斐伊川の川の神は肥長比売であり、蛇の化身であったとする伝承もある。渓谷には蛇が多く棲息し山や田で作業している村人を害し恐れられていた。

 こうした危険な動物を恐れ敬い、祟りのないように守り神として祀ったのである。古事記では高志のヤマタノオロチとしているが、これは勿論「越」ではない。越との間には鳥取や福井もありいかにも遠すぎる。出雲市に古志町があり、ここなら斐伊川とはさほど遠くない距離となるが

 福井県三国町に河口を持つ九頭竜川の上流に日野川がある。日野川は鯖江市の西方に位置するが、ここに八岐大蛇伝説があるという。九頭竜川は文字通り九つの頭を持つ竜であるが、名前のようにたくさんの支流をもっている。ちなみにこの近くには越廼村(こしの)や国見岳の地名が残っている。

 

オロチの形は背に桧・杉が生え、体長は八谷・八峡に亘るとある事からやはり谷川のイメージを表現したものであろう。水田の生命線となる川が急流であり治水が難しかったと思われる。

 ヤマタノオロチの神話はギリシャの「ペルセウスーアンドロメダ神話」と言われる。大蛇と処女の人身御供の話であり、若者が大蛇を退治するというもので非常によく似たストーリーになっている。

 中国南部やインドネシアにもこれとよく見た神話が伝えられている。田中卓は八岐大蛇退治の神話を、出雲風土記に見える、大巳貴が越の八口一族(あるいは川の激流)を平定した話と捉えている。この卓越した推論には諸手を挙げて賛意を表したいと思う。

「豊受太神宮禰宜補任次第」には、越国の荒ぶる凶賊阿彦を平定するために(しるしの)(つるぎ)

を賜って出征したと伝えられている、大若子命の祖先が天牟羅雲命であるとされている。(伊勢神宮の創祀と発展)また出雲国風土記にある大国主が越の八口を討った話を、記の編纂者が八十神に変えたと言うのは武光誠である。

 梅原猛はオロチ伝説の土地は大和である。三輪山の神は蛇であり、大蛇はこの三輪山のシンボルとして書かれている。三輪山にはいまでも全山に酒が供えられている。そして大蛇は大巳貴のイメージであり、大蛇の死は大巳貴の死であるとする。

 草薙の剣は三輪山のふもとに居たナガスネヒコが持っていたものとしている。

 

 

 新編古事記

 

 一度は高天原に攻め込み、天の安河で勝利をものにしたものの、次第にスサノオ一族は高天原勢力に筑紫を追われて出雲へと撤退を余儀なくされた。

 

 出雲には越の八口一族が収穫物の簒奪を狙って季節ごとに襲撃して来ていた。スサノオ一族の大巳貴がこれを征伐するべく部下を引き連れて、出雲の肥上の河上の鳥髪の集落に来た。そこで泣いている老人夫婦と少女に会った。老父は土地の豪族オオヤマツミの子でアシナズチ、妻はテナズチ、娘は奇稲田姫と名乗った。

 

 老父は年毎に越の山賊八口が来て、今年も収穫の時期になり山賊が来る頃になったので困っているという。

 八口の目は酒に酔って血の如くで、腹は常に血にただれていると言う。大巳貴は助けてやるから、汝の娘をくれないかと持ちかけると老夫婦は承諾した。大巳貴は少女を櫛に変身させおのが鬟に差した。

大巳貴はアシナズチに強い酒を造らせて八口を宴会で歓待させた。八口は酒を飲み酔って寝てしまった。この時、大巳貴は十握剣を抜いて八口を斬った。

 

 八口の持ち物の中から、つむはの大刀が見つかった。後に言う草薙の大刀がこれである。大巳貴は「須賀」に到りその地に宮を建て、アシナズチに「稲田の宮主」「須賀之八耳」の名を与え仕えさせた。

 

 

 スサノオの神裔 

 

スサノオは土地の豪族の娘、櫛稲田姫と結婚した。この地に水田があったことを窺わせる名前である。稲田に櫛を冠しただけなので、個人を特定する固有名詞のようなものは見当たらない。

スサノオとは関係が深い熊野三山の「新宮神社考定」には、イザナギの日真名子、加夫呂伎熊野大神、御気命、出雲風土記に熊野加武呂之命とあるこれなり、と出ている。

そしてスサノオの別名は熊野坐神、家津御子大神、櫛御気野命とも称え奉られていたとしている。この伝承は三輪高宮家系譜を裏付けるものであり、相互に傍証を形成している。

出雲と紀伊の類似神社

   出雲国

    紀伊国

名神大社 熊野坐神社

 名神大社 熊野坐神社

名神大社 速玉神社

   大社 熊野速玉神社

      須佐神社

名神大社 須佐神社

      加多神社

加太神社

 神社坐韓国伊太氐神社

名神大社 伊達神社

 

 大国主は記の系譜上では、スサノオの六世の孫となっているが二人は何故か同世代として行動している。

紀によれば大国主はスサノオの子供である。(第二の一書では六世となっている)また出雲国須佐の国造家の末裔で須佐神社の宮司家・須佐家の系図では大国主はスサノオの孫になっている。(吉田大洋)

三輪高宮家系譜では、大国主はスサノオの子供となっている。そして他所には見えない大国主の別名を次のように記している。「八島士奴美神、三穂津彦神、玉垂彦神、今三輪大神是也」

この他、記では大国主の子となっている八重事代主は、高宮系譜では孫と記載されている。不思議な事に、記も同系譜も母は共に神屋楯比売命()としている。

よりしっくりはまるのは高宮系譜の方となる。もっとも同系譜では事代主が二代続いている。また大田々根子命は記では大物主の五世になっているが、同系譜では十二世(十世)になっている。

血統をより有益なものに糊塗することもなく、その間に六世代もの名前を入れていることが却って系譜の信憑性を高めているようである。

同系譜には建甕槌命の名が現われており、記に登場する建御雷と同名であるが世代的にはかなりのギャップがある。表記の用字は異なるものの「タケミカズチ」と六音までもが同じということは、どう見ても同一人と思えてくる。

大物主を祀る由緒作りに気を取られすぎて、別の名前を付けるのを疎かにしてしまったのだろうか。

いずれにしても高宮系譜は各当主の名前にも欠損がなく、別名や母親の名前も記されていて明治まで連綿と続いている。

何回も紙幅を加え書き継がれたと思われ、全く遺漏がない完璧な系図に仕立てられている。何はともあれ宇佐郡菱形山「比義」など、重要な名前が多く含まれており更なる研究と考証が必要であろう。

 

三輪高宮家系譜を整理して要点だけを次に掲げる。

 

  三輪高宮家系譜

 

    建速素盞烏命

 

    大国主      (和魂大物主神 荒魂大国魂神)

 

    味鉏高日子根命 

 

    都美波八重事代主 (猿田日彦神・大物主神)

 

    天事代主籤入彦命 (事代主 玉櫛彦命)

 

    奇日方天日方命

 

    飯肩巣見命

 

    建甕尻命     (建瓶尻命 建甕槌命)

 

    豊御気主命

 


    建飯賀田須命   (建甕槌命)

 

    大田々根子命   (大直禰古命) 

    

 

 記の系譜にあるスサノオから、大国主の間に挟まれた五人の神は記紀上では殆ど記事に現れていないことから、この五世代は後にはめ込まれたとする説がある。(日本国家の成立と諸氏族)合理的な論理で納得できる説である。

 しかし、ここに有力な反論がある。スサノオの系譜が記載されている、和銅元年(708年)の撰とされる「栗鹿大神元紀」によるものである。系図を文章で説明する書法には古くは二通りあったと田中卓はいう。

 この読み方によって一番最初の語句を主客とするか、途中で随時主格が変ってゆくかの違いである。つまり前者の方式で読めば大国主はスサノオの六世になるが、後者の読み方で読めば、大国主はスサノオの子供になるとしている。これが二つの説の生じた理由であるという。

 「栗鹿大神元紀」は用字法や形式に古形を残しており、なおかつ記・紀と類似の記事もあるが、記紀や旧事紀に伝えられていない神部氏の古伝をも伝えている。ちなみに同書に見える系譜文では、大国主はスサノオの六世である。この神部氏は祖を大国主として、大田田祢古命の後裔としている。

 また因幡の「伊福部氏」の系図では、大巳貴はスサノオの子供とされている。また 饒速日は大巳貴の八世として記載されている。

ただ同氏の系図は綺麗に整理されていて、各世代の名前に遺漏がなく完璧なものになっていることが少し気になる点である。古い系図では海部氏系図と双璧とされている、和気氏の系図では所々虫食い状態のように名前が欠損している。そのことが却って古さを伝えているように思える。

スサノオの子・五十猛を葬った場所が、鬼神神社になり後に伊賀多気神社に移転したというのは「風土記鈔」である。(神々の里)

 

 

 新編古事記

 

 スサノオと奇稲田姫は、ヤシマジヌミを産んだ。スサノオとオオヤマツミの娘カムオオイチヒメとの間には、大年神、ウカノミタマが産まれた。

 

 ヤシマジヌミはオオヤマツミの娘コノハナチルヤヒメをめとり、フワノモジクヌスヌを産んだ。

 フワノモジクヌスヌとオカミの娘ヒカワヒメは、フカフチノミズヤレハナを産んだ。

 

 フカフチノミズヤレハナはアメノツドヘチネを娶ってオミズヌを産んだ。オミズヌはフノズノの娘フテモミミを娶って、アメノフユキヌを産んだ。

 

 アメノフユキヌが、サシクニオオの娘サシクニワカヒメを娶って産んだのは大国主、又の名は大巳貴又の名は葦原色許男、又の名は八千鉾、又の名は宇都志国玉といい五つの名有。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アマテラスとスサノオの人物像  

 

 天皇家の祖先とされるアマテラスではあるが、注意して記を読んでみるとその記事は驚くほど少ない。

 

アマテラス

スサノオ

日向の橘で誕生

日向の橘で誕生

スサノオを待ち受ける

海原へ行かずに泣いていた

天の安河で誓約

天の安河で誓約

服織りして後に天の岩屋籠り

田を荒らす

オシホミミ・次にホヒを降す

大気都比売を殺す

ワカヒコ・鳴女を降す

大蛇を退治する

タケミカズチを降す

大国主を苛めて後に許す

ニニギを降し宇受売に問わしむ

 

(高倉下の夢に現れる)

 

      

 上記の表を見るとアマテラスの伝承は、ほんの僅かしかなかったことが窺われる。

 独自の説話は訪ねてきたスサノオを、警戒しながら待ち受ける姿と服屋で服織りをしていたこと、天の岩屋に籠った事だけである。その他の説話は全て高木神と共同で行ったものである。

困ったことがあると隠れてしまう女らしい気の弱さ・気難しい一面を持っている他に、一朝事ある時には武装して戦陣に立ち、指揮を執る勇ましい面とをあわせもっている。だが作戦会議では配下の武将の意見を採用して、自分の意思を示さない優柔不断の側面をも有している。

人類の始祖神イザナギの子であることを除けば、普通のおばさんのようにも見える。占いを行ったこと、託宣を行ったことなどの神事に携わったことは一片も語られていない。

その事績や功績については一切記されていないことから、古事記著述以前にアマテラスのキャラクターや、ストーリーが設定されていなかったことが分かる。紀においても月読命を怒り別居したこと、稲を初めて植えたという事が述べられているが基本的な違いは見出せないようだ。

 

記の方が紀よりも古く素朴な伝承を伝えている、ということは多くの先学が言っている事である。古田武彦も紀にあって記にない記事は、大いなる疑いを持って臨むべしというような主旨を述べている。

こうした考え方を持っている論客は少なくないようだ。日本にいた先住の農耕民族が信仰していたのがアマテラスであり、後に渡来してきたのが高御産巣日神一族であるとする説がある。またその逆を唱える識者もいるが前者の説をとると違和感を感じない。

 

農耕民は太陽を軸として、日々の暮らしを立てている。その太陽の神が「天が照らす神」であり、やがてアマテラスと同一視されていき、太陽神とそれを祀る巫女と共にアマテラスと呼ばれていった可能性を考えたい。

ある時期から「アマテラス」は固有名詞ではなく、普通名詞となっていたかもしれないのである。

このことは大気都比売を殺したり、大蛇を退治して土地の人を助けたりしたスサノオとは対照的である。良いにしろ悪いにしろ、スサノオは活き活きとした説話となっているが、アマテラスに至っては一向にその人物像が伝わってこない。

松本清張はスサノオは狂言回しとして、無性格に作られている。記・紀の作者がスサノオに与えた役割はただ一つ、大巳貴の舅になることだけであったという。このようにスサノオが、天孫族と出雲を結びつける役割りを担ったと見る論者は少なくない。

 

 アマテラス像は、はるか遠い過去の記憶の片隅、一握りの伝説を膨らませてようやっと、少しの物語を形作ったという印象が否めない。とても高貴な至高の極みにある天皇家の祖先とは到底眼に映じないのである。

 このことは何を意味しているのだろうか。どこかの一地方に辛うじて、伝えられていた伝承だったのか、その土地の地神だったのか。古田武彦の言うように対馬の神様であったのか。

更なる探求が必要であるが、残念ながら今は詳らかにできない。松本清張はアマテラスは太陽神として、元々性別のなかったものを記・紀が構成される間に物語の都合次第で、男になったり女になったりしたと思うと述べている。

「アマテラス」の名前には「アマ」がついているが、高天原関連の名前には全て「アマ」がついている。アマを取れば「照らす」となり、行為か事物の神格化になりそうである。だとすると太陽の光を照らす鏡の神名化と考えられる。と言っている。(古代史疑)

 武光誠は七世紀後半に天皇家はアマテラスを、国全体の守神として位置づけようとした。そのため「大宝律令」によって豪族たちが、アマテラスの祭祀に強制的に参加させられるようになったとしている。

 アマテラスが始めて伊勢に移り住んだところはただの祠にすぎなかった。井上宏生は、天武とその妃・持統の時代になって皇祖神に昇格したと述べている。

 

 由緒がいま一つはっきりしない「ホツマツタエ(秀真伝)」では、アマテラスは男神であり96カ月もイザナミの胎内にいたとしている。またスサノオは紀伊で生まれたと述べている。

 同書ではイザナギの亡骸は淡路の伊佐奈神社に葬られ、その魂の緒が近江の多賀神社に戻ったとしている。更にニニキネが茨城県に最初の都を作り、後に富士山麓に広大な土地を開墾したとある。その関東の国を「ホツマの国」としている。

 また宮下文書(徐福の項で後述する)にあっては、スサノオはタカミムスビの血統であり、大陸から眷族千三百人を引き連れてきて、瑞穂の国・高天原を占領しようとしたと述べている。

 この時にアマテラスは山奥の岩穴に籠り、スサノオは大巳貴命によって捕縛され忠誠を誓い、出雲(隣国の信濃という)へ追放された。後に各地を平定し三種の神器を作りアマテラスに奉った。ちなみに同書では高天原は富士山の北麓にあったとしている。

スサノオは戸隠山で死去して、鳥上山に葬られたという。鈴木貞一はスサノオの陵を長野市の伊豆毛神社と想定している。

 

 

 

 

 

 

 

 大国主神の死生譚

 

 須佐神社に伝わる「須佐社由緒記寫」には、大宮の南西の原田村に湯山主尊誕生の山があり、名を「おろし子山」または「誕生山」という。との記事がある。また「須佐大宮略記」には、「原田村に誕生山という山あり、ここで大巳貴命が誕生した。反部村湯村にて産湯を使った。」と出ている。

 この両書の記事からは、湯山主尊と大巳貴命は同神であるとも受け取れる。でなければ、おなじ山から湯山主尊と大巳貴命の二人の偉人が誕生したことになってしまう。

 この伝えは紀の第一の一書と同じであり、その信憑性が浮かび上がってくる。紀には大国主神の記事は殆どないが、一書にはスサノオの息子とされ政策的に画策した跡が感じられる。

「石に焼かれて死んだ時にキサガイヒメとウムギヒメとが、母の乳汁を塗ったところ立派な男子になり蘇生した。」このくだりは性交から誕生の手順を思わせる。ここで本当に死んで、すでに産まれていた子が後に親の名前で呼ばれたのではないのか。大国主神が多くの名前を持っている事がそれを窺わせる。

「大国主神」は同じ文節の中ですぐに「大穴牟遅神」の表現に変わっている。この事は、今は大国主神としてつとに知られている存在だが、前は大穴牟遅神と呼ばれていた事を自ずから物語っている。

 出雲国風土記によれば、支佐加地売(きさかじめ)()()()()()は、御祖神魂の命の子供になっている。

 大国主神を一目見たスサノオは、この男は葦原色許男命だと言って迫害した。これは大巳貴命が、侵攻の意図を持って根の国に来た事を推測させるものである。

 大国主神は他に幾つも名前を持っていた(呼ばれていた)

 

 大穴牟遅神   (大巳貴 大汝命)

葦原色許男神

八千矛神

宇都志国玉神

大物主       別人?

大国玉神

倭大国魂神    大巳貴の荒魂

幸術魂辞代主

八嶋男命

伊和大神

 

大倭神社注進状その他によれば、大国魂神は大巳貴命の荒魂であるという。また大物主は大巳貴命の和魂という。(日本文化史論考)

妻とした女性は次の六人。

 

 八上比売 木俣神 沼河比売 須世理毘売命

 多紀理毘売命 盾比売命 鳥取神

 

 松本清張は大国主の名前のうち四つまでもが、大和のものであることから出雲は大和にあったとしている。また武光誠は大国主の名前の多くは、各地の農民が祀った神の名前・土地の神の集合体であると述べている。

吉田大洋は、大国主は代名詞であり、数代にわたって何人もいたという。これが事実とすれば、スサノオが六世も後代の大国主と交流があったのも頷ける。記がスサノオの六世としたのが、六代目の大国主であり最後の大国主かもしれない。

宇佐神宮の宇佐家でも、七代に亘り同じ名前を名乗っている事もあり、特に違和感は感じられない。親から相続した後に、代々名乗る当主の名前が決まっていたのだろう。

異常なる長命とされている武内宿禰もまた、何代にも亘って同じ名を名乗ったのであろう。紀の一書では大巳貴と大物主は同一神とされているが、松前健は大物主は大和固有の国津神であり、元々は関係なかったといっている。

だが三輪の神や賀茂の神が大巳貴の族とされたのは、記紀にとどまらず出雲の賀詞でもそうなっていると論述している。たしかに幾ら精力絶倫の大巳貴でも、こう広範囲に浮名を流すことは難しいと思われる。

しかし三輪の司祭家の大神氏の先祖、太田田根子は出雲臣の同族の神門臣の娘ミケ姫を妻としている他、十世の孫のオオミケモチは出雲のクラヤマツミ姫を妻にしている。

 

松前はこのことを、かって出雲勢力が三輪の家系に入り込んで来た事の反映であると述べている。また三輪山の麓に出雲ノ庄という地名が古くからあることや、狭井神社が薬法の神とされ、少彦名との関係をしのばせる。アジスキタカヒコネなどは、葛城の神でありながら出雲にも神社があったり、出雲風土記にも説話が載っているとその関連性を述べている。

出雲神話は大和朝廷によって取捨選択され、拾い上げられたものが記紀に組み込まれ、捨てられたものが出雲国風土記に載せられたというのは門脇禎二である。このことは、記紀神話と出雲国風土記との間には、同じものがほとんどないことからも分かる。出雲の人々が崇めてきた神々も、出雲の主な氏族の祖先神も高天原の神々の後裔に変歪されてしまった。

出雲の神々は主に大巳貴と神産日とスサノオの、三系流に結び付けられ神産日とスサノオの神系は子神との婚姻によって大巳貴に結合されている。スサノオは須佐の地に生まれた神で、神産日は島根郡、出雲郡、神門郡の神で大巳貴は本来「意宇王」が祀っていた神であろう。大巳貴と子神の神話・伝承は、佐太大神の居る秋鹿郡を除くすべての郡に亘っているとしている。

 

武光誠は、出雲は荒神谷の斎場が作られた二世紀半ばに、統一され全盛期を迎えたと論じている。荒神谷遺跡から出土した銅剣の四列は、それぞれ意宇郡、島根郡、出雲郡、神門郡の神社の数にきっちり対応している。

出雲各地の豪族が銅剣を一本ずつ持ち寄って祀りを行っていた。出雲王国は四世紀半ばまで続いていたと述べている。

大国主神の神話は、朝廷が神代史に出雲神話を取り込んだとするのが大方の見方となっている。昔話や童話に見られるようなほんわかとした、さもありそうな庶民に近い話が展開されていて、他の神話の部分とは何か異質なものを感じさせる。稲羽の白兎の伝説を、メルヘンチックなものではなく、沖ノ島からの宗像氏の撤収であるとする説がある。

兎は宇佐岐であり、兎神は宇佐岐神である。紀の第三の一書に、日神の生れませる三女神は芦原中国の宇佐嶋に天下り、いま海北の道の中にいますとある。この宇佐島は沖ノ島であろう。沖ノ島には海水で禊をするという厳しい掟がある。禊をして海風に吹かれると大変に辛いという。

 

韓半島への中継基地で休みどころでもあり、祭祀の場所でもあった沖の島が白村江の敗北により、数百年の間持っていた半島の権益から完全撤退を余儀なくされたため、宗像一族は沖の島に留まっている理由がなくなった。

このため大挙して九州の拠点に引き揚げることになり、安曇氏に船団の提供を依頼したが、謝礼の支払いに際してトラブルが生じたと推測する。ワニは安住氏を表象しているという。(神々の流竄)

 宇佐家の伝承では、この時に古代氏族のワニ族から迫害され、苦しんでいたのは因幡国の兎狭族であったとしている。

 記には大国主がスサノオの六世とする系図、娘婿としている系図と異なる二種が記されている。古田武彦は後者の系図が正しいものとして、前者には四世代の神の名前がはめ込まれていると論じている。

 

 

 新編古事記

 

 大国主には八十人の兄弟がいたが、兄弟はその国を大国主に譲る事になった。稲羽の矢上姫に求婚する時には大国主を従者として連れて行った。

 途中で於岐ノ島から渡って来ていた白兎に出会った兄弟たちは、嘘を教え悪さをするが遅れてやって来た大国主は真実を教え苦しみから救ってやった。

 

 この兎は、あなたが矢上姫を得る事になるでしょうとい言いその通りになった。今にいう兎神である。

 矢上姫は兄弟たちの求婚を拒み、大国主を選んだ。兄弟神は怒り大国主を殺そうとした。

 伯岐国の手前まで来たとき、山の上から大石を転がして大国主に抱きとめさせて焼き殺してしまった。

 悲しんだ親が天に舞い上がりカミムスビノに誓願すると、キサガイヒメとウムギヒメを遣わして生き返らせた。

次に兄弟たちは大国主を木の割れ目に挟み圧死させた。この時も母神が駆けつけ蘇生させる事に成功した。

 そしてここにいては危険だからと紀の国のオオヤビコの所へ行かせた。八十神は追いかけて弓を構えて引き渡すよう迫った。

 オオヤビコは大国主を逃がして、スサノオの根の堅州国へ行くことをすすめた。

 

 

 根の国での試練

 

 因幡から紀の国を経て舞台は出雲へと移ってゆく。従来、大国主などの説話は出雲での出来事・伝承とされてきた。ところが梅原猛はそうではなく出雲は大和にあり、大和での出来事であったとする。

 出雲は遠国の流刑地であって、地神系の流懺の地として設定されていたとする。そして出雲の歴史は古くないとみており、出雲大社も大国主の説話ができた頃、つまり八世紀初頭頃に建設されたとしている。

 従来からの出雲の中心勢力は意宇郡にあり杵築郡にはなかったとする。この論は一般的に受け入れられているようだ。

 新編古事記

 

 大国主はスサノオの所に行き、まず娘のスセリ姫と会った。スサノオは蛇の部屋に大穴牟遅神を寝かせた。

 スセリ姫は夫となった大穴牟遅神に蛇のひれを授けたため、蛇の難を避けられた。次にスサノオは百足と蜂のいる部屋に大穴牟遅神を入れた。

 

 この時も百足と蜂のひれを授けられて難を逃れた。スサノオは更に大穴牟遅神を野の中に入れて周囲から焼き殺そうとした。この時は鼠に逃げる場所を教えられてことなきを得た。

 スサノオは次に頭の虱を取らせる。そこには百足が多数いたが妻の機転により難を逃れスサノオは寝てしまった。

 

大穴牟遅神はスサノオの髪を柱に結び付けて、出口に大石を置いてスセリ姫と逃げ出した。この時スサノオの太刀と弓矢、詔琴をもって逃げた。

 スサノオは黄泉の比良坂まで追ってきて、その太刀と弓矢をもって汝の異母兄弟を追い落とし、大国主神・宇都志国玉神となって宇迦の山に太い宮柱を建て宮殿を作れと言った。

 大穴牟遅神は八十神をその太刀にて切り伏せ追い払い国つくりを始めた。矢上姫はやって来たが、スセリ姫を恐れて産んだ子を木の又に挟んで帰ってしまった。よってその神を木の又神・又の名を御井神という。

 

 

大国主神の妻と神裔

 

 記は白兎の話とスサノオの虐待の話が終わると、大国主神はすぐに八千矛神と呼称が変わっていて、越の国へ妻を求めに行く話となっている。

 大国主神と八千矛神は別神との説もある。大国主神は八上比売に妻問いした時も須勢理毘売に妻問いした時も歌は読んでいないが、八千矛神は越の沼河比売を妻問いする時には長い歌を交換している。

 この歌自体が誰の作であったのか問題は残るが、性格の違いの描写からは別神であった可能性が浮かび上がってくる。互いに大領主を連想させる名前を持っているところは、良く似ている事から弟とか親族であったのだろうか。

 別神であったが分り易くするためによく知られている大国主と接合されたものか。

 この項になると大穴牟遅神が八千鉾神の表現に変わっている。八千鉾神は越の沼河姫の所に求婚に行く。

 戸を挟んで歌の交換をした後、次の夜に会った。また妻の須勢理毘売は大変嫉妬深かった。そのため出雲から大和に行くときも歌を交換して愛を確かめあった。

 

大国主を祀る杵築大社(出雲大社)が杵築へ移ったのは、716年の事でそれまでは熊野にありクナトの大神を祀っていた。(謎の出雲帝国)熊野大社は意宇川の上流に位置する八束郡八雲村に鎮座している。祭神は熊野大神櫛御気野命であるが、別命はスサノオとも言われている。

熊野大社は元は杵築大社よりも上位の大社とされていた。出雲国造家が意宇の地より杵築大社に移ったことにより衰微していったとみられる。スサノオの系譜に大国主の系譜を繫いだものか。古事記は八島士奴美神と八島牟遅神を同神としている。

 

出雲国風土記の楯縫郡の条に、高天原の宮殿とみられている「天の日栖宮」が出てくる。この宮をモデルとして大国主の宮を造れと神魂命が指示している。古田武彦は大国主が実在とすれば、「矛神」の名を持っていたことから弥生期の人物とする。

そしてこの宮を(同氏の言う)「天国」隠岐の島海士町に比定している。その背景には黒曜石の流通があると論述している。

 

 

 新編古事記

 

 八千鉾神は越の国の沼河姫は美人だと聞き、妻にしたいと思い出かけて行った。その家の前の立ち、姫に向かって恋心を歌にして唄っていたが夜が明けてしまった。

 沼河姫は戸の内側から歌を返して、夫は求めていますが今暫くは心の準備をさせてください、明日の夜お待ちしていますと唄った。

 

 大国主とタギリ姫とはアジスキタカヒコネ、イモタカヒメ・シタテルヒメを産んだ。アジスキタカヒコネノはいま賀茂の大御神という。

 カムヤタテヒメとの間にはコトシロヌシノが生まれた。ヤシマムジの娘の鳥取との間に鳥鳴海が産まれた。

 鳥鳴海がヒナテルヌカダビチオイコジを娶って産んだ子はクニオシトミ。

クニオシトミがアシナダカ又の名をヤガワエヒメを娶って産んだ子は、ハヤミカノタケサハヤジヌミ。

 

 ハヤミカノタケサハヤジヌミがアメノミカヌシの娘、先玉姫を娶って産んだ子はミカヌシヒコ。

ミカヌシヒコがオカミの娘ヒナラシヒメを娶って産みし子はタヒリキシマヌミ。

 

 タヒリキシマヌミがヒヒラギノソノハナマズミの娘イクタマサキタマヒメを娶って生みし子はミロナミ。

 ミロナミがシキヤマヌシの娘アオヌウマヌオシヒメを、娶って生みし子はヌノオシトミトリナルミ。

 

 ヌノオシトミトリナルミがワカツクシメを娶って生みし子は、アメノヒバラオオシナドミ。

アメノヒバラオオシナドミがアメノサギリの娘、トオツマチネを娶って生みし子はトオツヤマサキタラシ。

 

 以上のヤシマジヌミからトオツヤマサキタラシまでの神々を十七世の神という。

 

 

 少名毘古那神 八束水臣津野命

 

 大国主が出雲の東端、美保の岬に侵攻し従えた土地の豪族が、少名毘古神であり後には代官として大国主に協力して現地を統治したのではないか。少名毘古那神は粟と縁があり、穀物神であったとする説がある。

 八束水臣津野命は出雲風土記では主役とも言える位置にいる。国引きをして出雲を大きくしたことでつとに有名な神である。記に見える淤美豆奴神と同じとされる。八束水臣津野命の地名説話は意宇郡、嶋根郡、出雲郡にあり、大巳貴やその他の神よりも多い。

このことから八束水臣津野命はこれらの地方で勢力を張っていたのであろう。記では淤美豆奴神を、八束水臣津野命の祖父として位置付けているが風土記では明らかにしていない。

 八束水臣津野命の信仰はより古いものと考えられ、大巳貴の信仰は本来的な根深いものではなく、次第に力をつけ八束水臣津野命の信仰にとってかわったということが窺われる。(日本国家の成立と諸氏族)門脇禎二は八束水臣の国引き神話は意宇を中心にして、五世紀後半から六世紀初めにかけての国造りの足跡を、出雲の人々が語り継いだものではないだろうかと言っている。

 

 

 新編古事記

 

 大国主が出雲の美保の岬にいる時、天の羅摩の船に乗って来る神がいた。周囲の神も名を知らなかったので名前を聞いた。

 すると少名毘古那と名乗ったので、カミムスビの祖神に訪ねると彼は自分の子である、兄弟となって国つくりをせよと言った。

 

 国つくりが終わると少名毘古那は又去っていった。かれ「くえびこ」は今では山田のソホドという何でも知っている案山子になった。また大国主が困っていると海を照らしながらやって来る神があった。その神は私を祭れば国作りに協力すると言い大国主は大和の御諸山に祭った。

 

 

 大年神の神裔

 

 大年神の子には韓神と曾富理神、白日神、聖神がいる。加羅を意味する韓神、新羅の王都とみられる曾富理、百済人が祀った聖神。いずれもスサノオと朝鮮との繋がりをうかがわせる。

 白日(しらひ)も新羅が訛ったものと考えることもできる。大年神が父の故国の名前を子供たちに付けたのか。或いはこの韓の名前がつく子供たちが韓で生まれたのであったか。

ところがこの子神たちの解釈は、古田武彦によると少し違ったものになってくる。まず大国魂命は出雲、韓神は加羅、曾富理神は日向高千穂添山、白日神は筑紫の白木原、聖神は筑紫の井尻である。

 つまり「天国」周辺の古代政治地図であり、大八島国の伝承より古い性格を有しているという。

 

 

 新編古事記

 

 スサノオの息子・大年神はカミイクスビの娘・イノヒメとの間に大国御魂の神、韓神、曾富理神、白日神、聖神を産んだ。

 また佳代姫との間には大香具山戸臣の神、御年神が産まれた。アメチカルミズヒメとの間には、オキツヒコ、オキツヒメ、オオヘヒメが産まれた。

 

 次にオオヤマクヒ・ヤマスエノオホヌシ(近江の日枝山にいる)次にニハツヒ、アスハ、ハヒキ、カグヤマトミ、ハヤマト、庭高津日、大土・ツチノミオヤを産まれた。

 

 ハヤマトがオオゲツヒメを娶って生みし子はワカヤマクイ、若年、イモワカサナメ、ミズマキ、ナツタカヒ・ナツノメ、アキビメ、ククトシ、ククキワカムロツナネ。

 

 

 饒速日尊の大和降臨

 

 記では天降らせた最初の神は邇邇芸であるが、神皇正統記ではまず 饒速日を天降らせたが早くに死んだとしており、次に押穂耳を降そうとしたと述べている。アマテラスは出雲・大和への侵攻を指示した侵略者である。アマテラスが二度目に天下らせた、天若日子こそ即ち 饒速日尊であろう。

天若日子は天降る時にアマテラスから、天真鹿児弓と天羽羽矢を授けられている。

紀では饒速日尊に仕えている長髄彦が、天孫の印として神武に天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を見せたとあり、記では天津御璽を献じて仕えたとある。弓とユキと表現の違いはあるが同じものと考えて差し支えないであろう。古くは末弟が相続することが多く、それは記録にも表れている。

そうしたことからか、饒速日尊の弟とみられる邇邇芸の系統が、正統と見なされ三種の神器が成立した。しかし長男の饒速日尊が正統とされていたなら、二種の神器になっていたかもしれない。記では「饒速日尊」を「邇芸速日命」と表記していて、邇邇芸命との関連性を窺わせるものとなっている。

 

饒速日尊の別名天火明はアマテラスの孫であり、天若日子はスサノオの孫の下照姫と結婚している。ならば饒速日尊も天若日子も共に孫の世代の人となる。天若日子の父は誰の息子か語られていない。

つまり天若日子の父の天津国玉命は突然現れており、その系譜は記されておらず、誰の子か分からないのである。芦原中国平定の話がここまで進行・展開してきたところで突然現れる神である。

天の菩日神を天下らせる時には、父の名前を記載していないが、若日子のときだけ「天津国玉命の息子の天若日子を..」と、わざわざ父の名前を記載しているのがその証左と思える。天津国玉命の名はここにはじめて登場し知ることになるのだが、他には一切記載がない。本来ここには饒速日尊の名前を書けばこと足りたのではないか。 

記・紀の描く天若日子の葬儀の様子と、先代旧辞紀の饒速日尊の葬儀の様子はよく似ている。

天津国玉命の名は大巳貴の別名、宇都志国玉神の対局・ライバルとして登場させた様子がある。記・紀は両書ともに饒速日尊を登場・活躍させたくない意図が明らかに窺える。また饒速日尊につながる物部の系統に箔をつけたくなかったのかもしれない。

その為にここで急遽天の若日子を創造し嵌め込んだとみることができる。

アマテラスが芦原中国平定のために派遣した神は次のとおりである。

 

 天忍穂耳命  アマテラスの子

 天菩日神   アマテラスの子

 天若日子   天津国玉神の子

 建御雷之男神 アマテラスの兄 

天鳥船神   アマテラスの兄 イザナミの子

 邇邇芸命   アマテラスの孫

 

こうしてみると天若日子を除けば、すべての神がアマテラスの近親者である。系譜が分からず正体不明の神が天若日子となる。

若日子の名が饒速日尊の名前の代わりに、ここにはめ込まれたとすればアマテラスの孫・近親者となるから、一貫して近親者を降したことになり辻褄が合う。饒速日尊の別名は天火明という説はかなり有力なものであるが、栗田寛は饒速日と火明は別の神であったが一神として皇孫のように偽り作ったと言っている。

吉井巌はこの二神の混同は、物部氏と尾張氏の密接な交渉に基づく始祖伝承の合体とみている。また天火明は記が成立する直前に考え出された比較的新しい神であると論じているのは武光誠であるが、同氏はその根拠を示していない。逆に天火明の存在を隠蔽するために、饒速日などの複数の別名を付けて記・紀を作ったと論じるのは近江雅和である。

「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」の名は、分散された名前を一つに統合したもので、これらは全て天火明のことに他ならないとしている。天火明系は海人族であったことは、籠神社に浦島伝説があることによっても裏付けられる。同社の伝によると、神代に彦火火出見命が籠船で、竜宮に行かれたので篭宮というとある。そして彦火火出見命とは天火明の別名だという伝えがある。

末社に蛭子神社があり、彦火火出見命と事代主を祀っており、彦火火出見命は別命を浦嶋太郎という伝えがある。本社末社共に竜宮に行ったという伝えが一致しており、蛭子神社は「元伊勢根本宮」と言われている。

尚、極秘伝によれば、天火明は山城の別雷神と異名同神である。天火明は大和国と丹後・丹波地方に降臨しこれらの地方を開発され丹波国造の祖神であるという。(逆説としての記・紀神話)

ここでは、ありそうな話が次々に展開している。

 

「籠神社」という如何にも変わった名前の由来ついては確かに疑問が氷解した。天火明と彦火火出見が同一人とする説は、天火明と彦火火出見は「火」が共通しており記では叔父甥の関係である。

世代も近接している上に、国宝の系図二巻を所有する古神社の伝えであるので、あるいは事実はその伝えの通りであったのかもしれない。しかし次の二点の検証が済まないうちは賛意の表明は出来ないのである。

その一点は国宝に認定された系図二巻であるが、これはその内容が政府によって認証されたのではなく、作成年次が古いことによる国宝指定であったこと。従って古い貴重な史料であるだけでなく、その内容に踏み込んで検証が必要である。もう一点は天火明と彦火火出見が同一人物とすると、山幸彦の舞台が日向ではなく丹後になってしまうことである。

日向三代である彦火火出見の父のニニギ、子のウガヤフキアエズの両人が丹後に居た形跡はあるのか。この三代の事績や伝承が、丹後に残っているかどうかの検証も必要になろう。住吉三神を祀る津守氏も三神ではなく天火明のその系譜を繋いでいる。

神皇紀では天火明は彦火火出見の第二皇子で、尾張国造に任じられたと述べている。神皇紀の記述は記紀その他の文献とは大きく異なっているが、矛盾するところは殆どなくその論旨は筋が通っている。

 

また武光誠は尾張氏も饒速日を祖とする、物部氏の同族とされていたが、没落した物部氏との関わりを避けるために、天火明の子孫とする新しい系譜を作ったという。

 「先代旧事本紀」は他の古文献からの引用や、その逆の引用などからの成立は807年~859年、遅くても823年~906年とみられている。どちらにしても非常に古い文献であることは間違いない。

 「先代旧事本紀」には10巻本、30巻本、72巻本の三種類がある。異論もあるが10巻本は、聖徳太子が撰びはじめ蘇我馬子が完成させたと言われている。30巻本は白河の神祗の家に伝わっていたものであり、72巻本は旧事大成経ともいわれ、これは一般に偽書とされている。

 30巻と72巻は後代の成立といわれている。安本美典は縷々研究した結果として、先代旧事本紀の序文は後に付加されたものであるが、本文には偽書というものはなく一古史と言うべきと述べている。古事記、日本書紀、天書、古語拾遺から記事を採ったが、他に最古の原書があったとしている。

その先代旧事本紀には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の、またの名は天火明命またの名は膽杵磯丹杵穂命とあり、父は天押穂耳尊、母は幡千千姫とある。新撰姓氏録には見えないようだが、熊野連「和田家系図」はイザナギから始まっている大変珍しい系譜となっている。

 

      和田家系図

 

 

   イザナギ   イザナミ

 


      アマテラス   熊野加夫呂岐櫛御気野命

 

          天忍穂耳命

  

      天照国日子日明櫛玉饒速日命  邇邇芸命 

 


           高倉下    宇摩志麻遅命

  

           天村雲

              

 

先代旧事本紀に饒速日は河内の河上の哮峰に天下り、大和の鳥見の白庭山に移ったとある。住吉大社神代記には、膽駒神南備山の四至は東限、膽駒川、南限、賀志支利坂、西限、母木里公田、北限、饒速日山とある。田中卓はこの地を生駒山脈の北方、田原村の辺りとしている。(住吉大社神代記の研究)

旧事本紀にも種々の異本があるが、森浩一は平安時代初期には出来たとみられると言っている。

 古語拾遺に神鏡は姥命神によって二度鋳造され、一度目は少し不満足なもので紀伊の日前の神となり、二度目の鏡は秀麗で伊勢大神として祀られているとある。田中卓は饒速日が奉斎したのが日前の神のご神体の鏡で、邇邇芸命が奉斎したのが伊勢神宮のご神体であろうとしている。

饒速日は紀では天津神の御子櫛玉饒速日尊と記され、天の岩船に乗って神武以前に降臨したと語られている。

 アマテラスと高木神が邇邇芸尊に天下りを指示した時の言葉「この豊芦原水穂国は」汝知らさむ国なり。」は持統天皇とその孫の文武帝、あるいは元明天皇とその子孫の聖武天皇がモチーフになっているという学者もいる。

 当時の朝廷の状況から言ってもこの説に間違いはないだろう。それでなければ、壮年の父が居るのに産まれたばかりの赤子を派遣する筈はない。アマテラスのセリフ「汝知らさむ国なり。」には、お前が正統の後継者であり、私がそれを決めてやろう、という意味が込められている。

その他に皇位を淡々と狙っている者も多いが、ぜひとも我が血脈に継がせたいという切実な願いが込められている。この説が正しいとすると日本神話の根本部分・説話は持統天皇の時代、或いは持統帝の時代からそう遠くない時に新しく創作されたとみることができる。

 饒速日は大年神と同神とする説がある。倭大国魂は大物主であり、饒速日とされている。記には大国主が少名毘古を失って悲しんでいる時に、海から来たのが三輪山の神であり、その後に「故、其大年神」と書いているから饒速日と大年神とも同神ということになる。

また大物主という名前は、記・紀が創作したものであるから両書以外には出てこない。奈良県磯城郡の鏡作坐天照御魂神社は天照国照彦火明が祭神で、「大和志料」によると、天照御魂あるいは火明の別号があるとしている。

 大物主は火明でもあったことを裏付けている。崇神朝により、宮殿からアマテラスと一緒に外に出された倭大国魂は、一般に大巳貴とみられているが、近江雅和は倭大国魂は饒速日の事であると論述している。

また大神神社は本来、火明を祀る神社であったものを、記紀成立によって強制的に大物主としなければならなかった。 

 京都の上賀茂神社の社伝によると、下社の火電神社の火電神は火明であるとしている。火明は時にイカズチ、ワケイカズチともされていた。(「記紀解体」)

 ここで饒速日の別名を概観してみよう。

 

 天照国照天火明櫛玉饒速日尊

 大物主

 大年神

 天照国照

 櫛玉

 イカズチ

 別雷神

 

 これに大国主と同神となれば更に大国主が持っている数々の別称が加わることになる。火明は尾張氏、海部氏、渡会氏など古代氏族の祖神でもある。先代旧事本紀では饒速日は十種の神宝を授かって天降りしたとしている。

 次の十種である。

  

旧辞本紀

十種神宝秘伝記  

十種神宝秘伝記

沖津鏡

金 火気       

  外宮神体

辺津鏡

銀 水気

  古伝八咫鏡異名也

八握剣

金気

 (八都剣神台剣形添加)

生玉

赤 火玉   

  陽 精魂

死返玉

赤(生玉と同体)   

  陰 

足玉

青 木玉

  陽

道反玉

青(足玉と同体)

 陰

蛇比礼

鱗虫の災い痛み止め

  水字象

蜂比礼

甲虫の災い痛み止め

  火字象

品物比礼

鳥獣の災い痛み止め

 鳥金気雙有 伊勢宝殿奉

         

 「布留神宮記」には要約次の如く出ている。ちはやふる神代にスサノオ尊が、ヤマタノオロチを切りたまう十握剣、名を蛇の麤正という。スサノオ尊天上より帯びてくだり給う、石上布留の神体これなり。

大蛇の体内より出てきた草薙の剣、尾張国熱田の社の神体これなり。「十種神宝秘伝記」には沖津鏡・辺津鏡共に白銅円鏡と出ている。沖津鏡はある説では金鏡・日の形の火気の鏡である。

辺津鏡はある説では銀鏡・月の形の水気の鏡である。としている。(神道体系)同秘伝記の図によると八握剣は直刀ではなく、八角に分かれた円形の台に両刃らしい刃先を付けたものになっている。

従って刀を使う時には片手で握るようになっている。ここでの最大の謎は旧事本紀が、十種の中に八握剣として十握剣を記していない事である。また「布留神宮記」との異同が生じているのである。旧事本紀によると八握剣とは軽い罪を罰することを教えるものとされる。

 

     

 

     

 

石神神宮では上述の十種神宝とは別に、拝殿裏の地中から各種神宝・神剣が発掘されている。明治7年の「石上神発掘の件」報告書では要約次の如くである。

 

拝殿後の封土は正中線の一丈ほど後にあり、高さは二尺八寸余、中央に要の木の一株がある。

右平地より凡そ一尺余の地中に一面瓦で蓋をしてあり、尺或いは尺余の石を積み重ねて境界をなし、地面より三尺ばかり下に緑色の曲玉・管玉など甚だ多く土石に交じっていた。

正中より五尺ばかり西側に四つに折れた剣があり、又東側正中を距てること三尺ばかりの所から、剣一振り出現、此れは折れ損じ候所もこれなく。伝説の如くこの剣孁なること疑うべきにあらねば、神庫に鎮安仕置候。

 

  神剣が神殿や神庫ではなく、地中に秘蔵されていた理由について同社は応仁以来、人の横暴により神社・寺の破壊が数多くあり、同社も永禄11年には尾張の武士によって宝蔵所等が破壊された。

  その為、宝物や記録が散逸してしまった経験から神剣を埋蔵していたと説明している。この時に発見された神剣は長さ二尺八寸、幅一尺一部の長刀とみられ、先の十種神宝秘伝記の神剣、十握剣(短剣)とは明らかに違うものである。

菅谷文則は石上神宮の神宝の殆どは、前期古墳時代のものと言っているが、秘伝記の神剣や神宝の形状などは、何故か仏教殊に密教の仏具をイメージさせるものがあるように思われる。

 拝殿後の地中より出てきた神剣は、長さや形状が埼玉稲荷山古墳の鉄剣にやや近いようである。推測にすぎないが、十種の神宝は神剣よりも後に伝えられた物ではないだろうか。

記の記事にはスサノオの娘須勢理姫が大国主に蛇の比禮と蜂の比禮を渡したとある。また綿津見の神が山幸彦に塩光玉と潮干珠を授けている。

 

 これらの記事からは上代には危難にあった時に比禮を振ったり、珠をだして祈願する信仰があったことが窺える。この比禮も玉も饒速日は天神から授かっていた。この十種の神宝のうちの幾つかは今も実際に使われている。十一月に行われる石上神宮の鎮魂祭がそれである。

祭りの中盤、神主と禰宜が拝殿中央の御簾の中に入り、灯りは消され、ひーふーみーよーいーむーなーやーこーとーふるえゆらゆらと、と呪文を唱え鈴をチャリンと鳴らすという。正に死者蘇りの儀式であろう。 

石上神宮略記では、祭りの起源を神武天皇の即位元年十一月、宇摩志麻遅命が勅命により神剣・布都御魂を宮中に奉仕し、その父饒速日から伝わる神授の十種の神宝と、鎮魂神業とをもって天皇のために奉仕したことに始まると記している。(謎の出雲帝国)

天孫の邇邇芸命はこれに対し三種の宝しか授かっていない。これでは危難にあった時に対処できない。これを普通に解釈すれば饒速日が嫡流であり、邇邇芸命は傍流ということになろうか。紀の一書の六と八では邇邇芸命の兄が火明となっている事も傍証を固めることになろう。饒速日の降臨説話が邇邇芸の降臨譚に盗用され、とり込まれたことさえも考えられる。

石上神宮で今も唱えられている「十種の祓詞」には、 饒速日は河内の河上の哮峯に天下り、後に山辺郡布留の石上神宮に移ったとしている。鎮魂祭で唱える祝詞は先代旧事記とほぼ同じ内容である。

 どちらも数を数えた(唱えた)後にふるへ、ゆらゆらとふるへ、などの言葉が入っている。

神皇正統記では宇麻志間見の命が叔父の長髄日子を殺して、神武に従い饒速日の持ってきた十種の神宝を献上した。神武は甚だ褒めて天より持参した神剣を授けた、この剣を豊布都の神という。初めは石上にあり後に鹿島の神宮にある。神武は十種の神宝も後に宇麻志間見の命に預け石上に安置した。と述べている。

古代氏族、宇佐家の伝承では物部氏の原住地は筑後平野で高良神社がその氏神であり、神武東遷以前に饒速日は部族を率いて大和に移ったとしている。

  饒速日を祀る主な神社は次の通りである。

 

大和 鏡作坐天照御魂神社、他田坐天照御魂神社 

山城 木島坐天照御魂神社、水主坐天照御魂神社

摂津 新屋坐天照御魂神社

丹波 天照玉神社

播磨 揖保坐天照御魂神社

 

 天照御魂神はアマテラスとは別の日神であり、尾張氏が奉斎する神であり、饒速日を日神とみなす人たちの手で祀られている。(谷川健一)

生駒山の北にある饒速日山は別名を草香山という。饒速日山には太陽信仰があり、神体山として礼拝されていた。頂上には饒速日を祀る上ノ社があり、生駒郡富雄村にある長弓寺の登弥神社が下ノ社と呼ばれていたという。物部氏が滅ぶと山上の饒速日の神霊は下ノ社に移されたという。

長髄彦は伊勢国風土記逸文によると、「胆駒長髄」と記され、生駒大とは関係が深いことが分かる。谷川健一は饒速日の降臨は、銅鐸などを作る工人の東遷に符合しているとしている。

物部氏は倭国の大乱に見舞われた弥生中期後半頃に東遷したと論じている。更に谷川は筆を進めて、邪馬台国が東遷してきた時に、大和に居た先住者・政治主体は饒速日を中心とした物部氏であるとする。この邪馬台国と饒速日の戦いが神武東征説話の中核の物語る所である。

 そして饒速日は天の磐樟船に乗って河内湾の日下にやってきた。物部氏には「マラ」の付く人物が多く、銅や鉄の精錬に従事する集団であったことが分かると述べている。

物部氏の東遷の時期は二世紀の後半で、摂津、河内、和泉、大和へと入った。

邪馬台国の東遷よりも早くから大和に侵入した物部氏は筑紫平野の出身である。それは氏名から分かり、今に残っている信仰からもそれと分かるのである。

畿内に移住した物部氏は、大和に勢威を張っていた長髄彦と婚姻を結んだ。この物部氏の東遷は邪馬台国の東遷の先発隊に他ならない。

大和朝廷は服従した物部氏を厚遇し、それは内物部氏と呼ばれ屈服しなかった物部氏は蝦夷と行動を共にして東国へと去った。

 

異伝として、延岡市の五ヶ瀬川の二子山速日峯に天孫降臨の伝承がある。その近くの臼郡与狩の天神社には饒速日が祭神として祀られている。(白鳥伝説)

 物部氏は更に常陸国にも降臨説話を残しているのである。まるでこちらが天孫族の本家であったかのようにも思えてくる。

「常陸国風土記」には古老の話として、大昔に天降ってきた「普都の大神」が日本各地を巡行して荒ぶる神を平げた。この普都の大神は物部氏の神で石上神宮に祀られている。

 物部氏は常陸の地に信太群を領有しており、下総の香取社は物部氏が奉斎する神社である。長い史料と論証を重ねた末に民俗学の大家、谷川健一は次のように断定したのである。

 

 物部氏の東遷は倭国に大乱があった時で、河内の日下に根を下ろし「ヒノモト」と称し王国を築いた。邪馬台国の東遷は楽浪・帯方両群が消滅した時期に行われた。

倭国の中心であった邪馬台国は機内で物部を打倒し、「唐書」にいう「日本」を併合しその国号を簒奪した。

 記紀に征討の記事がない国は近江、美濃、飛騨、尾張、山城、河内である。安本美典はこれらの国々は既に、饒速日の治める領域に入っていて天皇家との連合政権が成立し、次第に天皇家が領有し物部系が現地の管掌権を持つようになったと推考している。尾張や美濃など大和朝廷による征討伝承のない国々を、宇摩志麻治が平定したという伝承があると論じている。

 先代旧事本紀には饒速日の天降りに随伴した豪族や船長、40人余の名前が詳しく記されている。その豪族の名前の多くは、北九州の地名と類似のものとして読みとることができる。

 これらの地名の中には大和と同じものも見受けられ、九州から大和へと地名が移って来たという事も考えられる。

 

  葦原中国の侵略

 

 葦原中国とは高天原以外の東日本を指しているように見受けられる。中心的な役割を演じているのは、北九州から出雲、畿内にかけてと紀州の地である。局所的な言い方をするときは、大和平野を想定していると推測される。

 平坦で芦が生い茂り、豊富な水・土壌があり水田耕作に適していると思われたのだろう。大和には巻向川、初瀬川、草川、五味原川などがありいかにも芦原の名がふさわしく思える。

 大和には今も芦原に似た茅原(●●)大墓古墳の名前が残っている他、桜井市に出雲の地名が残っている。古代の大和平野の纏向遺跡の辺りは出雲庄(初瀬町)であり、三輪山には国神系の大物主が祀られていたことから、この地域の支配勢力は出雲系だったと知れるのである。

 岸俊男によるとは文明年間の絵図に、初瀬川沿いの江包と大西の中間にオオナムチの小字名があるという。そのすぐ近くには素盞鳴神社がある他、大西にある杵島神社の末社には稲田姫が祀られているという。

 近年、大和は原出雲族の支配地だったとする識者が増えてきている。武光誠は三輪山の大神神社は、大和の大国主信仰の核となっていたという。高天原勢力は葦原中国に対し再三の侵攻を試みてついに国譲りを成功させたが、後に侵入した土地は大和であって出雲ではなかった。日向降臨譚を別にすれば、天孫は何故出雲に降臨しなかったのか、その謎も氷塊するようだ。

 弥生時代の山陰は、早い時期には北九州との密接な関連が見られるが、三世紀の頃には畿内勢力と結んでいたことが窺われる。出雲には特異な勢力が、存在していたとみられがちだが事実はそうなってはいない。出雲にある前期の古墳からは鏡が出土しているが、量は多くなく鏡式にも種々あるので、畿内勢力によって分与されたと考えられる。(新修島根県史)

 

 高天原勢にとって、当初から水の豊かな平野が広がる大和は垂涎の土地であったのだ。大和にその豊かな土地があることは、饒速日やその他の一族が既に何度も移住していたことで高天原にも伝わっていた。

 日向に天孫降臨して勢力を拡大した後に、大和へ侵攻を開始し国譲りを迫り、大和での支配権を徐々に確立したものと考えられる。すなわち国譲りと天孫降臨の順序が逆であったのではなかろうか。この場合、邇邇芸命の日向降臨が神武の大和侵入譚に反映しているとみられる。

 日向三代と言われる邇邇芸、穂穂手見、鵜葺屋葺不合は、何れも九州南部の豪族と婚姻を通じて深い関係を持っている。天皇家の原郷は九州南部にあったと考えても決して可笑しくはないと思われる。

 

 出雲は神話のほかには、政治的な事績を具体的に語られている部分は少ない。門脇禎二は遺跡などから、四世紀中頃の出雲は健部郷、塩路郷、杵築号、宇賀郷の四地域が連合体制を敷いていたとみている。日御碕は海上交通の重要港であり、連合体制の中心にはキツキ神があったという。

 出雲国造の神賀詞に三輪山や葛城山の神奈備に、神々を鎮座させたという件が出ているが、これは蘇我氏政権下に出雲西部に進出したことを考え合わせると自然に理解できる。出雲西部が大和政権の服属下に入ったのは、六世紀後半から七世紀初めの頃でこの時に出雲の祭祀権が献納された。(出雲の古代史)

 鹿児島県の肝属郡には唐仁古墳群と呼ばれる大古墳群がある。そこには前方後円墳六基、円墳百三十三基もあり、唐仁大塚古墳は全長137メートルもの大古墳である。その時期を五世紀前半と推定されているようだ。

 唐仁古墳群の北には全長135メートルの横瀬古墳がある。森浩一はこの古墳は「ヤマト・カワチ」的で大和か河内から古墳造営の技術者を派遣しないかぎり、築造できないという印象を持っているという。

 これらの大王墓ともいえる規模の大きさの古墳を築造できるほどの勢力はいったい何者であったのだろう。畿内地方へ東遷した高天原の残存勢力が更に発展を遂げたのではなかったのか。

 九州南部とみられる熊襲は、時代に応じて何度も反乱をおこしている勇敢で好戦的な勢力である。一派を畿内地方に送り出しても、地元を有利な扱いにしてくれないのなら、首をすげ替えてやるといった気概が窺われる。薩摩が中心となって成し遂げた明治維新が思い起こされるのである。

 

 記紀の編者は収集した全ての説話・伝承を網羅し記事に仕立てあげた為に生じた矛盾であった可能性が考えられる。記紀では一つの説話を別の時代の出来事として、二つの説話を作り二つの記事にしている所が幾つも見られる。

 この場合、登場人物の名前も変えられて説話の内容も少し変ったものになっているが、全体を貫くストーリー性・プロットはほぼ同じである。少し注意して読むと、良く似た話が前にも出てきたとすぐに察せられるのである。

 近江雅和は伊勢の伊雑宮は原出雲族の「イサワトミ」を祀る神社であったという。「イサワトミ」は神名帳考証などによると伊勢津彦の子供とされる。

「宗像三神奉齋神社調」によると宗像三女神または、そのうちのどれかの女神を祭る神社は京都府に146、全国で6,117もあるという。(古代史の窓)

大変な数である。これらの地域には、大巳貴系氏族の影響が及んでいたことが考えられる。

 大国主の末裔・富氏の伝承によれば、大和や紀伊は出雲の分国であるとしている。出雲王朝は北九州から新潟に至る地域を領有していたのである。(謎の出雲帝国)

 柳田康雄によれば、吉野ヶ里遺跡の近くで出土した銅矛の鋳型は、島根の志谷奥遺跡や荒神谷遺跡の一部の銅剣と共通の鋳型である可能性を指摘している。(海を渡った人びと)

 弥生中期から後期にかけてはその墓の数などから、近畿よりも北部九州の人口の方が圧倒的に多かったという。(諸王権の造形)

 アマテラスはよそ者だとする説、天皇家の祖先ではないとする説を唱える論者は多い。これに光明を当てると思えるのが、岡政雄の論証である。次にその要約を紹介しよう。

 

 「高御産巣日神系の北方民族が侵入して来て、アマテラスを信仰する先住の農耕民族を征服し王朝の基礎を築いた。後の天皇族であるが、民族の人数が少なかったことから、先住民族との混淆が急速に進んだ。

女子は多くは伴って来ていなかったから先住民族との通婚が行われ、その習俗の基に夫婦は別居し子女は母の家で育てられた。先住者の文化が必然的に多く取り入れられ、その奉斎するアマテラスを天皇家の祖先として仰ぐようになった。」

 

先住民族は南方系の文化を担う種族であり、その象徴的な名前が天忍穂耳である。

出雲に中東から移住民がやって来たという説もある。その端を発しているのが旧約聖書に云うエサウとヤコブの兄弟の物語である。弟のヤコブ(イスラエル)とその子孫に迫害され続けた、エサウの子孫はやがてエドムから追放された。このエサウ族が辿り着き住んだのが出雲だという。だが出雲の国もまた国譲りによって失うことになったとしている。(船と古代日本)

 

谷川健一は、邇邇芸命、穂穂手見命、鵜葺屋葺不合命の三代は全て南方系の海神族と結婚しているという。

この南方系種族は中国の揚子江沿岸から、海南島にかけて居住する海人族で大きな耳輪を下げていた。先の三代の子の殆どに「ミミ」の名前がついている事と関連している。倭人は呉の太白の後裔と称しているが、倭の原郷である南中国の痕跡は補陀落渡海にも見ることができる。

カムヤイミミを祖とする耳族の根拠地、肥後の伊倉や高瀬からも補陀落渡海が行われているのである。南方系の原始的な金属文化が稲作を伴って日本にもたらされ、各地に定着していった。その後に馬や古墳を伴う北方系の支配種族の文化が齎された。その時期は四世紀以降とみられる。(青銅の神の足跡)

 古語拾遺には高御産巣日の子の名前と部下の名前が次のように記されている。栲幡千々姫命、天忍日命、(大伴の祖先)天太玉命、(齊部氏の祖先)

 

 天太玉命の部下は阿波の忌部氏の祖先の天日鷲命、讃岐忌部氏の祖先の手置帆負命、紀伊忌部氏の祖先の彦狭知命、出雲忌部氏の祖先の櫛明玉命である。

 これにより高御産巣日の子孫は強大な勢力となったことが判明する。また同書によると高御産巣日は八十萬の神を、天の安河に招集していることから最高度の権力を掌握していたことも窺われる。

 谷川健一は高御産巣日と縁の深い神社に、山城の月黄泉神社があるほかに大和の高御魂神社にも祭神として祀られているという。高御魂神社には新羅からの使者が貢物をもたらした時には、そのあくる月に新羅の調を奉っている。

 こうした事実から高御産巣日は新羅と縁の深い、或いは新羅からの渡来神とする説があることを紹介している。

 この他、対馬には高御魂神社があり壱岐でも高御祖神社に高御産巣日を祀っている。このように高御産巣日は初めは対馬や壱岐に根拠を持っていて、大和・山城へ招請されて天孫降臨では主役を果たすことになった神である。これらの事から高御産巣日の出自が、朝鮮半島と関係あることは自ずから窺われる。(青銅の神の足跡)

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスは豊葦原の瑞穂の国・大和は、どうしても我子の忍穂耳に与えたい国であると言い、忍穂耳を攻略先遣隊として派遣した。

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、海人族が常に使っていた沿岸航法で侵攻して行ったが、攻勢に備えていた大和軍の待ち伏せに会い撤退を余儀なくされた。帰着した正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、敵は頑強な布陣をしていてとても破れそうもないと報告した。

この時にはアマテラスは既に死亡していたので、高御産巣日が天の安河に幹部を集めて協議した。「大和の豪族共はなかなか手ごわい、これを打ち破るには誰を派遣したらよいか。」参謀格の知恵者、思金ほか幹部は天菩卑が適任と判断した。

 

 天忍穂耳命に変わって大和に侵攻を開始した天菩卑は、当初は善戦したものの二~三ヶ月もすると食料や衣服の調達に支障をきたすようになった。困った天菩卑は大国主に停戦を申し入れ、食料などの提供を受けるに至った。

 時は流れ天菩卑は大国主から小領地を与えられ、いつしか土着の豪農へと変身していった。

 天菩卑からの報告がないまま三年ほど過ぎたため、高御産巣日は再び幹部を集め協議した。大和の国はどうしても支配したい豊かな国である。大和軍に勝てる者はいないかと。ここに思金は、天津国玉の子の天若日子ならやってくれるでしょうと答えた。そこで若日子に当時の最新の武器・天の真鹿弓と天の羽羽矢を授けて派遣した。

 

若日子が出雲の国に到着すると、待ち構えていた大国主は下照姫を差し出して同盟を持ちかけた。下照姫の美しさと、与えられた領地に満足した若日子はそこに住みついて8年程を過ごした。

 高御産巣日は雉鳴女を使者として遣わして、復命しない理由を問わしめた。天若日子は鳴女の叱責に怒り、天の波士弓・天の加久矢をもって鳴女を射殺した。

鳴女の従者はその矢を持って高天原に帰った。怒った高御産巣日は密かに刺客を送り若日子を殺した。

 

 

 阿遅志貴高日子根神の神度剣

 

 忍穂耳は遣わされてすぐに帰ってきた、次に遣わされたのは天菩卑能神である。紀では天穂日神と表記される。田中卓の研究によれば、国造(たか)(よし)が記した「天穂日命神社棟板」に「天穂日命大巳貴の命と君臣になる、また後兄弟になる。」と記されているという。

 「千家鎮守社旧記」には「天神の許しを受け、大巳貴の尊を祀り奉る、…中略…吾体は即ち是天穂日命なり…中略…元は能義郡能義宮に祀られていたが、後に此処に新しく建てた」とある。(新撰姓氏録の研究)

 上記二者ともに近世の資料ではあるが、天菩卑の子孫たる国造家の伝承を伝えている。

 天菩卑神は大巳貴家から嫁を娶り、土地を貰って大巳貴が祀る神を信奉することになったのだろう。新撰姓氏録は16年の歳月を費やして、815年に成立したといわれている。天菩卑は出雲大社の摂社に祀られている。この出雲には、天菩卑は高天原から釜に乗って天降ってきたという伝説がある。神魂神社には今もその釜が本殿の脇の建物内に置かれている。(古事記の暗号)

 天若日子が、神の放った返し矢にあたって死ぬくだりは「旧約聖書」の創世記にある話と同じである。中国或いは韓国から伝えられた古伝をここに挿入したものと思われる。

 天菩比神一族は出雲に移住して、大巳貴に協力して行政等の手助けをしていたののあろう。後の子孫は出雲国造になっている。

 谷川健一は 阿遅志貴高日子根神は元々大和葛城の高鴨神社に、祀られていた神で賀茂氏の神と見るのが常識となっていると述べている。

 

 

 

 

 

 新編古事記

 

 天若日子の遺族は喪屋を作り葬儀を営んだ。河雁を給仕として、鷺を片付け係とし、翡翠(かわせみ)を供え物の係とし、雀を米つき女、雉を泣き()として八日八夜葬送の宴をした。

このとき、阿遅志貴高日子根神が弔問に来たが、若日子の父や妻は若日子は死ななかった、蘇って帰ってきたと言った。

 若日子に似ていたことから間違われた高日子根神は怒り、友人だから来たのに汚き死人に間違えるなと言った。

 そして怒りにまかせて剣を抜き喪屋を切り伏せ壊してしまった。その伝承地は美濃の国・藍見河の川上の喪山である。その太刀を大量(おおはかり)又の名は神度(かむどの)(つるぎ)という。

 

 

武神・建御雷神 

 

 支配者が天から降臨する、天から高い峰に降りて来たという類の神話は、朝鮮から蒙古にかけての地域にも伝わっている。この点は北方的要素を持っているが、日の御子の降下・稲作(穂のににぎ)などの要素は南方的であり、南朝鮮の伝説と親近性を持っている。

 北方的なものと南方的なものとが南朝鮮で結びついて、日本に入ってきたのではないか。(井上光貞)天孫降臨と大嘗祭には密接な関係があるとする説があり、構造が似ていることや類似の言葉が出てくることが根拠となっているようだ。

 建御雷は不思議な人物である。記紀においては何らかの操作が加えられたと思われる。梅原猛は建御雷は津主と同神であるとする本居宣長の説に賛同している。

建御雷の別名は津であり、また別の名は豊布都である。

 建御雷が高倉下に与えた剣の名は布津の御霊であり、常陸国風土記に登場する「天下り来る神の名を布都大神」と同神とみる。

 後に建御雷は鹿島に、津主は香取神宮に祀られた。これに対し古語拾遺では津主は下総の香取神宮(中臣系)にいるとしている。

建御雷が記に登場するのはたった二回しかない。出雲国造神賀詞にも、天夷鳥に津主を添えて、天降し遣わしとあり、建御雷の名前がない。神道五部書では建御雷を「天津美香星」だと言っている。

 鹿島神宮の宝物・剣は津の御霊、石上神社の神剣は津の御霊である。松前健は津主は元々は中臣氏や出雲氏とは関係がなく、物部の霊剣布都の御霊の神格化なのであると言っている。

梅原猛は建御雷に活躍させるのは、両神を祖神として祀っている藤原氏の策略という。津主を表に出して活躍させると、それは物部氏の功績を際立たせことになるからという理由である。

 従って建御雷を創作しここに嵌め込んだという論理を展開する。津主も藤原氏の支配下にあり、記の作成が藤原氏の影響下にあったことを知られたくなかったとする。

 確かに建御雷の存在性はあやふやなもので、大きな功績を挙げた割には一回しか登場していない。

もう一回の登場は行動ではなくセリフだけで登場している。建御雷はイザナギの剣についた血から生まれた神であり、親もいなければ子孫もいないとされている不思議な存在である。

強いて言えばカグツチの血から成り出た神なので、カグツチの子になるのかもしれない。芦原中国を攻略した最大の功労者にしては、出自もはっきりせずその後の事績も語られていないという、不可思議なキャラクターである。

 

 記の国譲りでは主役を演じている建御雷神だが、松前健は本来の功績者は紀が主将としている津主であったことが、神賀詞に語られているとしている。すなわち建御雷神は中臣氏が自分の祖神である建御雷神を割り込ませたとみている。

 中臣氏は67世紀頃から中央に台頭著しかった氏族であり、後には重要な祭祀を殆ど一手に引き受けるようになった。

 ここに誰も論じていない不思議なことがある。建御雷の持っていた剣は天下りをして国譲りを迫った時には十握の剣と呼ばれていた。

しかしながら建御雷が、熊野にいる高倉下に与えた剣の名は「佐土布都神」と名前が変っている事である。この剣は建御雷が「吾は降らずとも専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし。」と言って、高倉下に与えた物なのでおなじ剣である。

 しかるに、記のこの項ではその剣は又の名を甕布都神、または布都御魂という、と説明している。

十握の剣が国譲りの功績で箔がついて、佐土布都神と名前が変わったのであろうか。布都(ふつ)は光ること・神の降臨することとされる。甕(みか)は御厳(みいか)の意接頭語である。(次田真幸)

 建御雷の父は伊都之尾羽張神(又の名は天の尾羽張神)であるが、伊都之尾羽張神はイザナギがカグツチを斬った剣の名である。すると更に不思議なことが出てくる。イザナギが持っていた剣が建御雷に伝わっている事である。

記では建御雷は伊都之尾羽張神の子としているが、その前段ではイザナギがカグツチを斬った時に、剣についた血から建御雷が生まれた、と語っている。ということは

建御雷の方が先に生まれた、あるいは建御雷と伊都之尾羽張神は兄弟であったとも考えられる。

いずれにしろ建御雷を生みだしたイザナギが父であるとみられる。すると、イザナギからその剣を受け継いだ正当な系譜・嫡流であったのだろうか。建御雷は中臣氏の氏神であるが、物部の神宝を授かっていた。このことは暗に中臣氏が物部の神宝を簒奪し、その権力を継承したことを物語っているのかもしれない。

 

 

 新編古事記

 

 高御産巣日は今度は誰を差し向けようかと言った。思金ほか幹部は天の安河の川上の天の岩屋に住む伊都之尾羽張は天の安河の水をせき止めている。彼が適任ではという。

 伊都之尾羽張は、それは我子の建雷を遣わすべしと言った。高御産巣日は建雷に天鳥船を添えて派遣した。

 二人は河内湾から上陸し、長刀・十握剣を旗印として木に掲げ進軍した。何回かの小競り合いに勝利した後に大国主に問いただした。

 汝の葦原中国は海人族の御子の治める国との仰せだが汝は如何に。大国主は吾は引退しているので答えられぬ、今は漁に行っている我子の八重事代主神と交渉せよ。と返事をした。

 建雷は天鳥船を遣わし、事代主を呼び戻し改めて問うと、この国は海人族の御子に奉らんと答えた。そして神籬を造りその中で自害して果てた。

 

 

 建御中方神 諏訪まで撤退

 

 建御中方は軍部を掌握している将軍のような、存在であったと見ることができる。あるいは戦士達に人気があり、影響力を持っていたと考えられる。海に程近い荒神谷遺跡から、整然と並べられ埋納された358本もの大量の銅剣が発掘されている。これらは弥生時代の製作になるものとされている。

 荒神谷遺跡を取り囲むように、建御中方を祀る神社が六社あるのも関連性を窺わせる。高天原勢力の軍事力に屈した建御中方が埋納したものではなかったか。武器を捨てること諏訪へ退くことを、降伏の条件とされた可能性もある。大巳貴は出雲に太い柱で高い宮を建てることを望んだ。

 諏訪神社にも御柱祭が今に続いている。太い木を伐り出し、運び立てる行事は大巳貴の故事にどこか似ている。

紀の一書には、大巳貴の神殿の建築の様子が詳しく書かれているが、従来それは誇張されたものと考えられていた。しかるに先頃の柱穴の発見で紀の記事の正しさが証明されたのである。

 諏訪神社は戦国期いらい武将の信仰を集め、全国に七百社ほども勧請されその末社が存在している。神名大鑑にある信濃の神社約百社のうち、三割強が建御中方を祀っている。建御中方の後裔諏訪神家は三十三氏があった。その後氏族はさらに増えて一族は百六十氏近くにもなった。

建御中方は信濃に第二出雲王朝を建てたのであった。(謎の出雲王朝)記の建御雷と建御中方の力比べの話は紀には出ていない、松前健はこの話は水の精霊お諏訪大神の格闘の話としている。建御中方は諏訪の祭神で出雲とは全く無縁の神であるという。

 中世にできた「諏訪大明神画詞」によると、先住の幾多の神を打ち負かし征服者として乗り込んできたとされている。

 

 

 新編古事記

 

建御雷、天鳥船神両人は事代主は承知したが他に意見を聞く人はあるかと大国主に尋ねた。

 大国主は我子建御名方がいる、そのほかにはいない。と答えた。其処に大石を下げもって建御中方が現れ、わが国に来て難題を突きつけているのは誰だと言い、建御雷軍に襲いかかった。

 

 一旦は退いた建御雷は夜陰にまぎれて焼き打ちをかけ、混乱の中に一気に攻め込んだ。御名方はこれを恐れて退却した。

 建御雷は信濃の諏訪まで追いかけて行った。建御名方は降参し諏訪からは出ないことを誓い、葦原中国は海人族に献上するから命は助けてくれと懇願した。

 

 

 大国主神の敗北と講和

 

 出雲神話は出雲の伝承・説話を、中央が刈り取り記紀に組み込んだといわれる。ところが、この出雲神話は本から中央で創造されたものであるとする説がある。大和朝廷が作り上げた説話であれば、出雲国風土記に見られない理由が納得できる。記・紀を読んだ後世の人々が、その説話に基づいて自分の国に地名説話などを創り上げていったとも考えられる。これらが今も伝えられている伝承になった可能性はある。

 

 田中卓は出雲の国譲りは、崇神天皇の時代の神宝検校の史実が反映しているという。

国の唯一無二の神宝を、手放さなければならない事態とは降伏を意味し、従属の証として差し出したものであると考えるのが普通であろう。

 出雲族の根拠地は大和であり、国譲りは大和において行われ、出雲族とその神は出雲へと放逐されたと論じるのは梅原猛である。出雲族の子孫は三輪氏、賀茂氏であり、賀茂氏の神は葛城の高鴨神社である。大巳貴の息子事代主の本拠も大和の高市郡雲梯神社である。(神々の流

これは大変魅力的な説であり、おそらく事実はその通りであったのだろう。事代主の説話は出雲風土記や延喜式には見えていない。事代主が海で船を傾けて隠れたという美保の崎もミホススミの鎮座地で事代主とは関係がないという。松前健は「コトシロ」は普通名詞で、託宣を行う依り代を指しているとしている。

事代主を祀る神社は、大和の葛上郡鴨都味波八重事代主命神社、高市郡の御県坐鴨事代主神社などである。

 出雲国造の神賀詞は記・紀の説話に近い内容を伝えている。概要を示せば次のとおりである。

  天孫降臨に先立って天菩比が国見をした後に、その子の夷鳥に布都主を副将として遣わし、大巳貴を鎮め国土を献上させた。大巳貴は隠退にあたって自分の和魂を鏡につけ、大物主という名で三輪山に鎮め、御子のアジスキ、事代主、カヤナルミ等の御魂を、それぞれ葛城、雲梯、飛鳥などの神奈備に鎮め、自らは杵築大社に静まった。

 

またこの由来によって玉・剣・鏡などの神宝の献上がなされたとしている。松前健はこの話は、国造が自家の世襲の時に用いていた呪術を、天皇家に対する服属・奉祝の儀礼に転化したものと考えている。

 物部氏が神宝を持って自家の鎮魂方式を宮廷に持ち込み、鎮魂祭での天皇の鎮魂の方式が始まったのと似ていると考証している。

古語拾遺には大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたという記事がある。おそらくこの事を指しているとみられるが、武光誠はこの矛を何故か広矛と断定している。

そして広矛は、弥生時代の末期にあたる三世紀末の矛を指しているという。広矛を献上する伝承は、弥生時代末に出雲氏が朝廷に対して行った事を示すことになる。この時に出雲氏は銅矛を用いる祭祀を捨てるとともに、古墳作りを始めて鉄剣を愛用するようになったと論じている。

 

少彦名が去って大巳貴が困っている時に、御諸山の神が現われて我を倭の青垣の東の山の上に祀れと言った。これは大和の三輪山の事である。さらに天香具山が大和にある事も一つの傍証になりうる。ちなみに出雲風土記にはこの国譲りの話は載っていない。

 

梅原猛は出雲大社が出来たのは比較的新しく記・紀が成立した頃であるという。(先述したように原出雲族の古伝承では、出雲大社が熊野から杵築へ移ったのは霊亀二年・716年としている。)  

 国譲りの際に水軍の将、事代主は、天孫族に恨みの言葉を残し海に飛び込んで自害した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。

また大国主は出雲大社の裏山の、鵜鷺峠の神がくれの岩屋に幽閉されて死んだと伝えている。出雲を占領した天菩比一族は、更に大和へ進攻してここの出雲族をも降した。(謎の出雲帝国)

 この国譲りの大事件を松前健は、出雲一族を物部氏がバックアップして大巳貴祭祀権を掌握させたことを神話的に物語った、と簡単に片づけてしまっている。その時期は物部氏が中央で勢力を張っていた56世紀の頃としている。

 その後は物部氏は没落し津御霊(布都御魂)の祭祀も中臣氏に奪われている。

 

出雲大社に祀られている大国主は西を向いている。これに対して参拝者は南から拝礼するので、大国主の横顔を拝んでいることになる。

 参拝者が来る南側を向いているのは、御客坐五神の天之常立神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、神産巣日結神、高御産巣日神、天之御中主神である。井沢元彦はこの現象を取り上げ、参拝者は客坐の五神に拝礼しているのと同じという。

人あるいは神に挨拶するのに、その人が横を向いているところへ頭を下げるのはおかしいからという。

更に出雲大社のこの構造は保安官事務所と同じであり、大国主は留置場にいるように見える。この五神は大和朝廷の神であり、閉じ込めた大国主の監視役である。出雲大社の注連縄は、一般の神社と左右を反対にして張ってある。出雲大社は祟りを恐れて大国主を祀っている死の宮殿であるとしている。

 また井沢は「出雲」は当て字であり、「イツ」は「厳」で「モ」は「モノ」(霊魂)とする千家尊統説に賛同している。

 神皇紀では、アマテラスが出雲に獄舎を設け「天獄」と名づけ、スサノオを監督官にしたとしている。

 

 武光誠は六世紀初めまでは大国主だけを、国造りの神として祀る信仰が全国に広がっていたという。王家の勢力が伸びる継体朝頃からアマテラスが、大国主よりも遥かに上位の神であると主張し始めた。六世紀の半ば頃に大国主の上に、アマテラスとスサノオを繋いだ神話が整えられたと推考している。

 

 新編古事記

 

 建御雷、天鳥船両人は諏訪から帰って大国主に対した。大国主はこの国は献じるが、我の住処を太い柱で天高く建てて吾は永遠に隠居する。我子孫は事代主が仕えていれば反乱しないでしょうと言った。

 出雲の多芸志の小浜に屋敷を立てて水戸の神の孫・櫛八玉神に神饌を供えさせた。

 

 天皇家の始祖・穂邇邇芸尊

 

 天皇家の祖先の発祥地は九州とされている。記・紀の説話からは高天原の所在地は九州と想定されていたようだ。或いは海外・天空ともとれる曖昧な存在として記述を進めている。

 国の観念や国境などがない古代にあって、九州は大陸や朝鮮半島との深い関係を持っていた。全国にある八幡社の総本社・宇佐神宮の近くには、加羅からの渡来人の集落・辛島郷がある。時代は下るが北部九州の霊山・英彦山の開創者は魏の善正と伝えられている。このほかに雷山は天竺の清賀、背振山は天竺の徳善大王の皇子、求菩提山は高麗の行善と伝えられている。(田村圓澄)大陸や朝鮮半島からの渡来者が頻繁にあったことを窺わせる。

 穂邇邇芸尊の名前は水田に稲穂がにぎにぎしく、豊かに実っている様を表す名前になっていると一般に解釈されている。神代の説話はここに終わり邇邇芸尊からは人代の物語が展開されていく。

 倭国大乱の時に邇邇芸は、大伴氏と久米部氏を伴い南九州に逃避したと論じているのは相見英咲である。紀における多くの随伴神は物部氏の伝承を採ったと推定する。

 また前之園亮一は邇邇芸の降臨地について、伊勢を本籍地とする猿田彦に道案内されて、伊勢へ天降った筈であると言っている。

 神皇紀では邇邇芸の時に西北の大陸から、異国の大軍が壱岐から筑紫を攻めて来たとしている。対馬から筑紫を攻められて、一時は四国まで敵軍が抑えたという。これに対し、武知男を総司令として、経津主、武甕槌、玉柱屋、建御名方を大将として一万八千人で迎え撃ったと述べている。

この時に多くの皇子(幹部)が戦死したという。また戦陣にあった木花咲夜姫がその妊娠を、邇邇芸に疑われ三人の子を室で産んだ後に、富士の火口に飛び込み自害したとしている。いま浅間神社では木花咲夜姫を祀っている。

 

ひるがえって田中卓は天孫降臨の伝承は不可解なことが多く、首尾一貫していない、だがそれは無理な習合造作せずを得なかったのであり、そのことは動かしがたい定着性があったとしている。

 つまりその個々の伝承をなかったものと出来るなら、もっと辻褄のあうストーリーを形作れたと言いたいのであろう。梅原猛は邇邇芸が降臨した場所を鹿児島の野間半島の笠沙と推考している。

同地は邇邇芸の一行の船が漂着した所と伝えられていて、近くの黒瀬海岸にはニニギの尊上陸地の碑が建っている。

 そこは邇邇芸が通ったとして、「神渡」とも呼ばれているという。邇邇芸の旅程を考察するに、韓国から笠沙に来て、稲作に適している高千穂に行ったとする。霧島は白州台地で農業は難しいのも考証の理由に挙げている。

 木花咲姫と出会った笠沙の御前は日向にもあったと推定している。これを裏付けるように、今宮崎市に木花台、木花駅、木花小・中学校の名前がある。

 

 日向風土記713年詔)に、邇邇芸は日向の二上峯に天降ってきたが天は真っ暗で、昼も夜もわからず困っていた。そこで土着の民、土蜘蛛の忠告通りに千穂の稲をモミとして投げたところ、天は晴れたとされている。

 ちなみにこの籾を撒くと霧が晴れた話は霧島山にも伝わっている。

宮崎県西臼杵郡の高千穂は「知鋪(ちほ)の里」と呼ばれている。高千穂は狭いので天孫族は西都市に移った。三代目のウガヤフキアエズは日南市で生まれ、四代目の磐余彦は霧島山麓の狭野で生まれた。

天孫族は南九州の一帯を支配下におさめた。高千穂には神武を案内した猿田彦を祀る荒立神社がある。同社には天の鈿女も一緒に祀っている。高千穂神社には神武の兄、御毛沼命を祀っている。

 

高千穂神社の伝承では御毛沼命は東征から、故郷へ帰って来た事になっている。

高千穂の二上山中の二上神社にはイザナギとイザナミが祀られている。荒立神社から串触峰の方に下がった所に二十体王宮社があり、邇邇芸の従者を祀った所といわれている。

串触峰の近くには四皇子峰があり、ここは神武の四兄弟五瀬、稲飯、御毛沼、磐余彦を祀ったところである。西都市には都萬神社があり、都万は妻であり、木花咲姫を祀っている。(天皇家のふるさと日向を行く)

 都万神社の西に御舟塚があり、ここは邇邇芸の船が着いた所で、この一帯が笠裟沙の御前といわれている。日向には前方後円墳が多く、夥しい出土品も優れていて近畿の出土品と類似している。

 「日本書紀注釈上」の「仮名日本紀」の一書によると、天の浮橋は日向の襲の高千穂の串日の二上の峯にあるとしている。

 朝鮮の「三国遺事」の檀君神話では、天帝がその子の桓雄に三符印という宝を持たせ、三人の風雨の神と三千の部下を供に、太白山の山頂の壇という木の傍らに降下させ、その子が朝鮮を開いたとしている。更に朝鮮では、祖神が山頂に降下する神話は他に幾つも伝えられており、日本神話と類似しているだけではなく、言語上の一致も見られるといわれている。

 

渡来人から伝えられたそうした伝承を、奈良時代の役人たちは日本神話に採り入れてしまったのであろうか。天孫降臨の説話は本来が、高御産日と邇邇芸の話であったが、そこによそ者のアマテラスと押穂耳が入ってきたというのは松前健である。紀の本文には高御産日が邇邇芸だけを天降らせたとある。

 松前健は、この素朴な伝承が宮廷公認の伝承であり、大嘗祭に結びついているという。そして天の岩屋戸の伝承と、伊勢神宮に結びつくアマテラスと押穂耳の話が政治的に結びつけられたという。

 このため話の筋が、ややおかしなものになってしまったとする。高御産日が天皇家の元々の祖神であったとすると、ではアマテラスはいつ何処からやってきた神なのであろうか。

この点が理解に苦しむところであるが、松前は天の岩屋戸神話を伊勢・志摩の海人らの伝えた東南アジア系の神話であろうとしている。朝鮮半島との交渉が盛んになって、大陸の日の御子の思想が朝廷内にも浸透してくると、大王家の祖神としてのもっとも適当な太陽神が探し求められた。

 天照神や天照御魂神がアマテラスの前身と思われ、これらの神はいずれもが海人に関係しているという。だとすると天火明がアマテラスのモデルであったことになってしまう。これは一種異様な不思議な話ではある。

 

 記では邇邇芸は三種の神器を授けられて天降ったことになっている。だが「古語拾遺」をみると、鏡と剣が天つ璽であり、矛と玉とは自ずから従うと記されている。このことから松前健は神器は元二種だったが後に玉が加わったとしている。

傍証として「神祗令」や「延喜式」に天皇即位のときに、忌部氏が神璽の剣鏡を奉じると出ており、「令の義解」や「令集解」では、これは鏡と剣の二種をさすと記されていることを挙げている。

ちなみに鏡は宇多天皇(887~897)の頃に宮中の温明殿に祀られ、特別の祭祀を受けるようになって即位の儀式には用いられなくなったようだ。また事実上、天徳(957)以来の度重なる火災による焼け損じで儀礼に用いるには耐えられる物ではなかった。(日本神話の謎)

 この話が事実とすれば、神宝の鏡の管理は少しお粗末なものだったというしかない。

伊勢神宮に厳重に保管されている鏡は、アマテラスの御魂代であるが、この鏡と同等の物として宮中に祀っていた訳で、その鏡が焼けてしまったとは情けない話ということになる。

 邇邇芸が天降った「高千穂」は松前健によると固有名詞ではないという。天孫降臨神話は元々稲の収穫祭・新嘗際の縁起譚であると断じている。日向風土記逸文を引き、邇邇芸の説話は大和宮廷の伝承ではなく日向の風土伝承で地名説話であったらしいとしている。

 松前は邇邇芸、彦穂穂手見、ウガヤフキアエズの三代は隼人の地に生まれ、隼人の母を持ち、その地に墓所をもった隼人族であり彼等の伝えた伝承であったと述べている。

 景行や仲哀の時代には隼人族を熊襲と呼んで盛んに征討したといわれている。

さらにこの隼人族の祖先伝承が、宮廷神話に取り入れられた時期は五世紀の初め頃と考えられるという。

邇邇芸の降臨した高千穂の峯とは、日向説と薩摩説に大別されるが古田武彦は筑紫の博多湾岸と糸島郡との間の高租山としている。理由としては近くに日向山と日向峠があり、このあたりが日向と呼ばれていたことや串触山があること、韓国に向かっていることなどを挙げている。(盗まれた神話)

 

 天孫降臨神話について我々はこれまで、大和朝廷に伝わった説話・伝承として捉えていたが、ここに古田は歴史の根幹をも揺るがしかねない問題を提起した。すなわち、この神話の本来の姿は九州王朝の姿に他ならないと論じたのである。九州王朝と大和朝廷とは共通の始祖神話を持っていた。

 つまり共通の始祖がいて後に二つに分かれた王朝である。天皇家は自ら九州日向から近畿へ来たとしている。行き着く結論として、天皇家は先在の九州王朝の分流であった。

 アマテラスは誓約(うけい)でスサノオが産んだ子押穂耳自分の物実から生まれたので自分の子であると主張して系譜をややこしいものにした。だが、押穂耳の子の天菩日の子のタケヒラトリが出雲国造の祖とされている事からみると、やはり出雲と関係の深いスサノオの子であろう。

 スサノオの直系は天火明であり、邇邇芸系の神武は傍流に属していることになるという意味のことを古田はいっている。尚、天火明の系統は記・紀では切り捨てられているとする。

 

 

 新編古事記

 

 高御産日は押穂耳尊に指示した。葦原中国は平定された汝行って統治せよ。押穂耳は答えた。天降る準備中に邇邇芸が生まれたので彼を遣わすのが良いでしょう。

 この御子は高御産日の娘・万幡豊秋津師姫との間の子で兄に天の火明尊がいる。

 これにより邇邇芸を常世の国葦原瑞穂の国へ行って治めよと派遣した。

 

 

 異形の神 猿田毘古神

 

 梅原猛は、アマテラスを祀る神社は三輪神社や賀茂神社、熊野神社、八幡神社よりも遥かに少ない。出土する様々な祭器は今の神道よりも別の宗教が古くからあったことを語っている。

 八百万の神々があり、様々な宗教が存在していた。それを律令政治に相応しい神の元に従属させる必要があった。そのためアマテラスの元に従来の神々は体系づけられたとする。

 古事記は宗教書、日本書紀は思想史として読むとき、以上のことが合致してくる。

記・紀は新しい日本の構築に必要な書物として作られたとみている。

 

 出雲風土記に佐太大神が生まれて間もない時に、川で金の弓矢を拾う説話が載っている。「上記」にも殆ど同じ内容の話が記載されているが、それは猿田彦の説話になっている。「上記(うえつふみ)」では猿田彦の父は、大年神の子のククキワカムロツナネで母は神産日の娘のキサガイヒメとなっている。猿田彦の「猿」は「さ」とも読めることから田中勝也は謎の神格だった猿田彦は佐太大神と同神であり、出雲の土着神であったとしている。田中はこうした伝承内容の符号を「上記」以外には見出せないという。

 更に出雲風土記と「上記」とだけに記される、ツルギヒコ、クニオシワケなどの神名がある他に、国引き伝説が共通していると述べている。

 

 猿田毘古神は後に道祖神と同一視され、賽の神としての信仰が広がった。猿田毘古神の超巨大な鼻や化け物のような姿が、悪神や災いの侵入を防いでくれると信じられたのか、その相貌と何かしらの関連がありそうだ。

 記は猿田毘古神は阿耶訶に居たとしている。その猿田毘古神はいま三重県松坂市にある()神社に祀られている。この猿田毘古神について次田真幸は、伊勢の海人系氏族の進行した神であるという。猿田毘古神は伊勢の土着の神と言われ、伊勢市の猨田彦神社は伊勢神宮の近くに鎮座している。

猨田彦神宇治土公氏の伝承が天孫降臨神話の中にとり込まれた。猿は元来太陽神とされたが太陽神は、稲田の神とも考えられて「猿田毘古」と呼ばれたのであろう。(日本神話と神々の謎)太陽が育てる「田」の神様が猿田毘古に仮託されたのだろう。

 

 

 新編古事記

 

 邇邇芸が天降ろうとしている時に、道の辻に高天原から葦原中国までを照らしている神がいた。

 高御産日は天の鈿女に指示して、あなたは毅然とした態度で交渉できるから行って誰なのか訪ねなさいと言った。

 その神は答えて国津神の猿田毘古なりと言い、天津神の御子が天下ると聞いて案内するべくここに来たと答えた。

 天孫の降臨 侵略開始

 

 出雲国風土記によると同国の祖神たちも天降って来たことになっている。このことは一部の支配者層が外来の人々であったのか。或いは大和朝廷の影響を受けるようになってから、支配者が天下って来た事を物語っているのか詳細は不明である。

 前者だとすると出雲の先住者や統治者は何処から来たのかまた誰であったのか。全く先住者が居なかったとは考えられない。

 後者であったとすれば、この神々は天孫降臨の際に供俸してきたのか、又は大和から派遣されたのか。どちらであったとしても記紀などに記録が見られない。

出雲風土記には次の三神が天降って来たと記されている。

  大国魂命 

天御鳥命 

宇夜辨命

 

 天岩門別の神や登由気の神などは丹波国に祀られていることから、丹波の勢力が天孫降臨に大いに活躍しているらしいことが分かる。登由気の神は後に伊勢外宮へと出世している。

以下は明らかに派遣・侵略軍の編成である。鏡・勾玉・鏡草薙の剣を授けて天下らせた。

 

 

新編古事記

 

 ここにアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ併せて五部族の族長を加えて派遣した。

 また八尺の勾玉、鏡、草薙の剣を持たせて、思金、タジカラオ、アメノイワドワケを添えて遣わした。

 いまこの思金の命は今は五十鈴野宮に祀っている。

次に登由気は今渡会にいる。天岩門別又の名は櫛磐窓・豊磐窓は御門の神となる。

次のタジカラオは佐那那県にいる。

中臣の祖はアメノコヤネ、忌部の祖はフトダマ、猿女の君の祖はアメノウズメ、鏡作りの祖はイシコリドメ、玉祖の祖は玉祖命である。

邇邇芸は天の浮橋から、筑紫の日向の高千穂の串触岳の麓に至った。

天忍日天津久米は天の矢筒を負い、頭椎の剣をつけて天の波士弓を持って天真鹿児矢を手に持って天孫の先にたって仕えた。

天忍日は大伴の祖天津久米は久米の祖である。邇邇芸は此処は韓国に向かい笠沙の岬にまき通って朝日が差し夕日が差しよい所だといって宮を建てて住んだ。

 

 

三種の神器と神剣の行方

 

 上古には三種の神器は天皇家だけが持っているものではなかった。土地の豪族が貴人を迎える時などには、礼を尽くして榊に三種の神器を吊るす習慣があったようだ。

 三種の神璽の観念は天智天皇の頃に、成立したものであると論じるのは西宮一民である。西宮は現在いわれているような鏡・剣・勾玉と、修飾限定されたのが天武朝の事と考えている。

 ところが説話の上では鏡と剣は宮中にはないので、天武天皇は忌部氏に践祚の折に新天皇に献ることを命じた。これが三種の神器の始まりである。記紀の述作者は、これを神代及び崇神朝のこととしてその起源を述べたとしている。妥当性のある論説であるが、ここでは説話の史実性は明らかになっておらず、鏡と剣は現実に(伊勢)神宮と熱田神宮とに長年にわたって祀られている。

三種の神器、なかでも神剣・草薙剣は、相当に複雑な経路を辿って伝世されている。

この神剣の行方を研究することは、歴史の細部を検証することであり重要な意味を持っている。

神剣天叢雲はスサノオが発見・入手してアマテラス側に渡り、アマテラスから邇邇芸に託され日向へ運ばれた。この後、神剣の行方は記録されていないが、神武の系統により大和にもたらされたと思われる。

紀によれば宮中に祀られていたアマテラスは、第10代崇神の時に豊鍬入姫に託して笠縫村に移された。第11代垂仁天皇のとき、アマテラスを豊鍬入姫から離して倭姫命に祀らせた。このアマテラスという表現は、三種の神器を意味しているのだろう。

 

倭姫は菟田に移り、後に近江に移り美濃を巡って伊勢に至り、アマテラスのお告げによって伊勢に宮を立てた。垂仁はこの翌年に物部に指示して、出雲の神宝を献上させている。第12代景行天皇の太子・倭健が伊勢の倭姫より神剣・天叢雲を託されていることから、倭姫により、アマテラスの三種の神器は伊勢に移されていた筈である。

ヤマトタケルが焼津にて草を薙ぎ払い、難を逃れることが出来たので、神剣をこの後、草薙剣と呼ぶようになった。倭健から一時期尾張の美夜須比売にわたり、その後に熱田神宮に祀られた。

 

 この時期あたりで代器(レプリカ)になったとする論者もいる。「古語拾遺」には崇神の時代に、神威を恐れて同じ宮中に居られると不安であるとして、斎部氏に鏡と剣を作らせ、これを護身御璽とされたとある。

 

  これは今日の践祚の日に神の御璽として使う鏡と剣である。本物の鏡と剣は笠縫村に、神籬(比茂呂儀)を立ててアマテラスと草薙の剣を移した。その日の夕方、人は皆集まり終夜宴を開き楽で歌った。

 

 ここで注意を払いたいのは、古語拾遺には剣を移した記事だけが書かれていて、紀に書かれている倭大国魂神(大物主神と同一視されている)をも、宮中から同時に出したことは書かれていないのである。

重要なことではなかったので省略したのか。あるいはその事実がなかったのか、その詳細は分からない。古語拾遺を読む限り、朝廷の官人はアマテラスと別居することが余程嬉しかったように見える。これは何を意味しているのだろうか。

ちなみに崇神記には、大物主と意富多多泥古の物語はあるものの、アマテラスを移したという記事はない。

アマテラス勢力を支配して、その支配を確立し継続していくために、アマテラスを祀っていたが祟られることが多かった。ゆえに複製品を作り笠縫村へと追放したと言っているのと同じである。

ここで菅原道真の故事が思い起こされる。紀では言葉を濁して、オブラートで包んだような表現をしているが、古語拾遺は斎部氏(忌部)の家伝なのではっきりと書いている。

また、ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣の話のほかに、見過ごすことの出来ない重要な記事を載せている。

豊芦原中国を建御雷と経津主が平定したときのことである。大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたというものである。

 

「私はこの矛で国を平定した、天孫がもしこの矛を用いて国を納めれば、必ず平安が来るであろうから私は退去する。」と言ってその後隠れられた。

ここに経津主と建御雷は、帰順しない悪しき神々を誅し復命した。

 

という記事である。

この大巳貴と事代主の矛の事は他の古文献には見えない。実際は大巳貴が退去する際の条件として、所有していた貴重な剣を献上したのではなかったか。そのことが、ヤマタノオロチの伝説に置き換えられたかもしれない。

高天原勢力の以前に、大国を長く支配していた王朝の神剣を得て、新興勢力の宝となり後に神剣とされるようになった可能性がある。

大蛇がいて、その体内から剣が得られたという説は、科学的にも常識的にも信じられない。「神話」といわれる所以である、と言ってしまえばそれまでの事であるが、できるだけ科学的に究明していきたいものである。

尾張国風土記逸文には、倭健が夜厠に立った時に桑の木に架けた剣が光り輝いていたので、この剣は神気があるから斎き奉って我形影とせよと言ったので熱田社を建てたとある。

 熱田神宮の祭神・日神の象徴として、草薙の剣が祭られていたと考証しているのは松前健である。この剣が大蛇からでた天の村雲剣とは、本来全く違った剣であることは明らかで、同一視されただけであろうという。

田中卓は伊勢国風土記を引いて、倭姫命が伊勢に巡行したときに随伴していた大若子命が、草薙剣を使用して安佐賀の豪族を平定したとしている。

 そしてこの草薙剣は神代の説話を除いて、出雲の振根の検校・伊勢の平定・越の勢力の討滅・東国蝦夷の征伐にも使われたとする。

崇神天皇から景行天皇の時代に使われたものであり、これらは皆同一のものであり、今に伝わる三種の神器の一つであると信じてよいと言っている。

 

この間、およそ50年程と考えられるが、果たして当時の技術で作られた鉄剣が錆びもせず、折れることもなかったのだろうか。生活用具や武器も、進化していくであろうに最強の武器足り得たのか疑問である。

しかしながら実際に使う武器ではなく、天皇から討伐の全権委任を受けた旗印・象徴としての役割を負っていたと考えれば頷けるものがある。

第38代天智天皇のときに大事件が起きた。紀によれば道行という僧が、熱田神宮から神剣を盗み出して新羅へ逃亡を企てたのである。道行は捕まったが、後に許されて法海寺の開寺に携わった模様。法海寺略由緒によると、道行は新羅国王の太子であり、国王の命を受けて神剣を盗み帰国する目的で渡来したとある。(日本神話の考古学)

盗まれた神剣は熱田神宮に返された。

その後、第40代天武天皇のときに天皇の病気が重くなり、占ったところ神剣の祟りとされ、すぐに熱田神宮に返したと紀に記されている。この一時期は宮廷に保管していたようだ。

この後、神剣についての記述は殆ど見られなくなる。神宝についての興味は失われたかのようにもみえる。記は第33代推古天皇の記事までで終わり、紀は第41代持天皇の記事までで巻を閉じる。この後の歴史書は「続日本紀」に移っていく。続日本紀の、第45代聖武天皇までの記事をチェックしたが、アマテラスや神剣についての記事は載っていなかった。

僅かに、元正天皇が鏡を見て心を痛めたという記事と、聖武天皇の時に出雲の国造が、熊野神社の神剣と鏡を献上した記事くらいである。その後の歴代天皇の事績にも目を通したが、目についたのは第100代後小松天皇が、吸収合併した南朝から三種の神器を受け取った記事くらいだ。

出雲国造はその代替わりごとに朝廷に出仕して、神賀詞を述べ貢献物を献上することになっていた。その品物の種類・数量も「臨時祭式」によって、剣・鏡・玉・馬などが細かく決められていた。天皇や朝廷の高官たちは、出雲の神宝・その中でも特に剣と鏡に強い執着を持っていたようだ。

 

出雲の国造の代替わりごとの神賀詞奏上は、戦国大名の起請文差し入れや、江戸時代の参勤交替や、独立した国が旧宗主国に挨拶に行くようなものだったと思われる。

出雲勢力は強大であったので、それだけに警戒され忠誠を求められたのか、或いは出雲側が、自らの正統性を認めてもらうためのデモンストレーションだったのか。大和側と出雲双方の思惑が入っているようだ。

 スサノオの剣は十握であるから、刃渡りおよそ60センチ程と思われる。しかるに草薙剣は、盗み見した神官の記録によると、約81~84センチ程である。十握の剣は名前のニュアンスからすると、今までになかった程に長い剣であったから、その長さにびっくりして十握の剣とよばれたように思える。

だが草薙剣はそれよりもまだ長い、十四握ともいえるほど長いもので、弥生時代の北部九州で出土した銅剣よりもかなり長い。

一体この違いはなんだろう。この辺に謎が含まれているように感じられる。産地の違いか技術の違いか、時代の違いか?また邪馬台国の会の活動報告によれば、刀剣研究家の川口渉氏が草薙の件について、熱田の尾張連家の言い伝えとして次のような内容を紹介している。

 長さは1尺8寸(54センチ)

 鎬はあって横手がない

 柄は竹の節のようで5つの節がある。

 区(まち:刃と柄の境部分)は深くくびれている。

 神体の入れ物は、樟の自然木を横に切り中をくりぬいてある。長さは4尺。

(1.2m)

 

 長さが54センチならば、スサノオの十握の剣(60センチ)の長さとあまり変わらないものとなる。こちらの伝聞の方がよりリアルなものとして迫ってくる。更に韓国慶尚南道良洞里出土の鉄剣の写真を見ると、尾張連の伝えと符合していてこの剣ではなかったかと思わせるほど酷似している。

 森浩一は十握の剣は鉄剣で(草薙剣は、やや銅製説が強い)草薙剣より強かった(勝った)のは十握剣と推測している。荒神谷遺跡で出土した358本の、銅剣の長さは約60センチで十握の剣とほぼ同じ長さである。

 この銅剣の製作年代は、弥生時代の中期末から後期にかけてとみられている。すなわち西暦、前100年~後100年及び200年にかけてということになろう。

 

 スサノオの剣の呼称  所在 吉備(岡山)の石上布都魂神社(祭神スサノオ)

 

日本書紀 (一書含む)

古事記

古語拾遺

先代旧事本紀

十握剣

十拳剣

 天の十握剣 

十握剣

蛇の麁正

斬蛇の剣

大蛇の羽羽 

蛇の荒正

蛇の韓鋤(からさひの剣)

生大刀

 天の羽羽斬剣

 

天の蠅斬剣

 

          

 

 

アマテラスの神剣の呼称  所在 熱田神宮

日本書紀 

古事記

古語拾遺  

先代旧事本紀

天の叢雲剣

都牟羽の大刀

天の叢雲

天の叢雲剣

草薙剣

都牟刈の大刀

草薙剣 

草薙剣

 

草薙剣

 

 

 

 都牟(つむ)は、おつむのつむ、頭を意味するという説がある。すると都牟刈の大刀の名前の意味は、頭を切る大刀ということにならないか。また、つむがりはアイヌ語であり、つむ=強い、ガリ=作る、立てる、の意味であるともいう。

スサノオの十握の剣は様々な名前で呼ばれていて、色々な伝承があったことを窺わせる。

 中でも「天の羽羽斬剣」の名は、重要な意味を示唆しているようにも受け取れる。「天の」が冠されると、どうしても天神系の氏族がイメージされる。

 天の羽羽とは、天の羽羽矢が連想されるのである。天神系氏族が用いる独特の武器・天の羽羽矢を切る剣、すなわち国神系のスサノオの戦いぶりを象徴しているようにも思える。

 「布留神宮記」には次のように記されている。「上古には蛇を羽々といえり、この剣蛇を切りし故に名づけたり、またの名を天蠅斬剣ともいえり、蠅その刀に飛べば自ずから斬られる故に名づける。」

 「蛇の韓鋤之剣」は、鋤という田器に似ていることから名づけられたと釈日本紀等に見える。旧事本紀には韴霊剣刀、布都主神魂刀、佐土布都、建布都、豊布都ともいえり。社家の伝説には八岐剣といえり。とある。

また「布留」とは「布」の転語ならん。「布留」とは「振」の字義なり。とも言っている。(神道体系)これにより初めて「布留」の由来が分かったように思う。

 

 

 草薙剣 歴代の所有者

 

 スサノオ

 アマテラス(天神)

 邇邇芸

 豊鋤入姫

 倭姫(伊勢神宮)

 倭健

 美夜須姫

 熱田神宮

天武天皇 

 熱田神宮

 

 布都御魂(剣) またの名を佐土布都神、または甕布都神

 

 所有者

 建御雷之男神

高倉下(天香語山命)

神武天皇

 

 所在 石上神宮(天理市)

 

 記をよく読むと神武は、邇邇芸の代からの草薙剣を授かっていないようだ。少なくとも託されたという記述はない。そして高倉下を通して建御雷の神剣を授かっている。草薙剣を託されているのなら、建御雷から布都御魂を貰う必要もなく、草薙剣を使えば敵を倒せたはずである。

 ここで不思議なことは、建御雷の持っていた剣は十掬剣(とつかのつるぎ)であり、国譲りの時に持参してその上に胡坐をかいている。古語拾遺によれば、大国主に攻め勝ったこの時に、大国主と事代主から矛を献上させている。

その後に芦原中国を平定した剣として、高倉下に授ける時には布都御魂という名称に変わっている。

 この間の事情をどう考えたら良いのだろう。十掬剣が芦原中国を平定したことにより昇格して「布都御魂」と呼ばれるようになったのか。また大国主から献上させた矛が、布都御魂となったとも考えられるのである。

建御雷は、芦原中国を平定した時の剣と言って高倉下に授けている。この言葉をそのまま読めば十掬剣になるが、大国主から献上させた矛のその後の行方は記されていない。

大国主から献上させた矛は、当然神宝として珍重された筈である。強大国に攻め勝ち、従属させた証としても大事に取り扱われたと思われるが、記・紀や諸文献にその後の記述はない。

大国主の矛が布都御魂にならなかったとすれば、神宝として天神系氏族に記録され、伝世されたと推測できるが、そうした様子は一切感じられない。これは大国主の矛が布都御魂に、変身したからその後の記述がないのであろう。

草薙剣はスサノオがアマテラスに献上したとあるが、詳しい経緯は記されていない。そこでその間の事情は推理・推測するしかあるまい。

スサノオは大蛇から得た剣をその婿である大国主に授けた、大国主はこの剣を国譲りの時に建御雷に授け、それがアマテラスに渡ったとすると比較的すんなりしたストーリーとなる。

一旦アマテラスに渡った剣は国譲りに成功した功績により、建御雷が管理していたと考えると、高倉下に授けることも可能になる訳である。

古語拾遺の記事にあるような事実は、なかったとすることもまた可能である。だが古語拾遺の記事を、歴史の中に組み込んだ方がより、しっくりとしたストーリーを形作ることになるのである。

熱田神宮の神官が、草薙の剣を盗み見た時の記録に「刃先は菖蒲の葉のようになり、中ほどはむくりと厚みがあり、全体が白い色をした剣であった。」とある。この記録を読む限り、銅矛が連想されるのは私一人ではあるまい。鉄剣は腐食して黒くなるが、白くはならない筈である。

 この推測が正しければ、古代天皇家の神剣は全て出雲、或いは芦原中国から出ている。長い歴史と文化をもった大国・芦原中国は北九州から畿内、紀州までを勢力範囲に収めていたと考えられる。

 

出雲の国神とみられるスサノオの足跡は、新羅から北九州そして紀州にまで及んでいる。出雲神社もまた然りである。高天原勢力の、最大のライバルであった芦原中国には神宝が蓄積されていたのだ。

言葉を換えて言えば神宝は、天神系が国神系の出雲勢力から簒奪したものであった。また神武に直接授けないのはどうしてだろう。神武は邇邇芸の曾孫である。思うに邇邇芸と神武は嫡流の系統・血筋ではなく、この間に火遠理命の系譜を挟んでしまったのではないか。

または神武は邇邇芸の傍系の血筋だったとも考えられる。もっと大胆に推理を進めれば、ここで支配者(氏族)が入れ替わったと主張することもできる。

「上記研究」では、アマテラスが神剣は元々自分のものであり、天の岩屋隠れの時に伊吹山に落としたものだと言ったとある。

 住吉大社神代記には社有の宝物の中に神剣草薙の剣があると記している。「神財流代長財」の項目に、神世草薙剣一柄、験あり、日月五星、左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武。と記されている。

 田中卓はこれを神剣を一時預かっていたこともあり得るが、おそらくは代器であろうと言っている。また禁秘抄に禁中の宝剣の一つには背に北斗、青竜、白虎の銘があり、百済から伝わったものかと記されている。

 これは恐らく後世に伝わったものであり草薙剣ではあるまい。草薙剣は古くから伝わった物なので、稲荷山鉄剣のような素朴なものと想像できる。

 さてここにもう一つ考証を加えるべき説と史料がある。それは「地名辞書」にある次の大和の記事である。

  「今、山辺村大字布留及びその山中の古名なるべし、石上神宮の石成神社参考すべし。備前国磐梨より蛇の麁正神を比に移したるに因り、其名出しならん。以之以波古言相同じ。」

 

 スサノオが大蛇を切った剣が蛇の麁正であるが、紀ではこの剣はいま石上にあると言っている。だが第三の一書には「今吉備の神部の許に在り」としている。このことは石上は大和の石上神宮ではなく、備前国赤坂郡にある延喜式内社石上布都之魂神社であるとする説がある。(青銅の神の足跡)

 神皇正統記にも三種の神器の記事は、村上天皇条、後朱雀天皇条、後鳥羽天皇条の三か所に記載されている。次に記事の概要を順に示しておこう。

 最初の記事は天徳年中に内裏が炎上して、神鏡は灰の中より発見されたとしている。「円規損ずることなくして分明あらわれ出給。見奉る人、驚嘆せずと云うことなし。」と御記にみえ侍る。と記しているが「御記」は不明。

 二番目の記事では長久の頃の火災で、神鏡も焼けたが猶霊光を放っていたので、その灰を集めて安置したとしている。

三番目の記事は平家滅亡の時の神器の状況である。平家滅びて内侍所、神璽は帰ってきたが、宝剣はついに海に沈んで見つからなかった。「昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しによりて、近比までの御まぼりなりき。」

 内侍所は神鏡で八咫の鏡でありその正体は皇大神宮にある。内裏にあるものは崇神の時代に再鋳造された鏡である。宝剣の正体は天の叢雲の剣で熱田神宮に安置されている。西海に沈んだのは崇神の御代に同じく作り替えた剣である。神璽は八坂曲玉であり、神代より今に変わらず代々の身を離れぬお守りだから、海中より浮かび上がってきたのも頷ける。と結んでいる。

 事実であるかもしれないが真に都合のよい、しかも合理的な説明となっている。最後に、「物知らぬ類は上古の神鏡は天徳・長久の火災にあい、草薙の宝剣は海に沈んだと伝えている」と述べている。

 一説には安徳より三代あとの順徳天皇の即位のときに、伊勢神宮の倉から一本の剣が選ばれて三種の神器の一つに加えられたともいう。

 

 

 天宇受売命 木花佐久夜毘売

 

 上代では男が名前を尋ねてそれに女が答えると結婚を承諾した事になった。この項では歴代の天皇の命が短くなったことが語られている。この事は古事記編纂の際に朝廷の圧力がなかった如くのようである。

 日本書紀とは明らかに意図したものが違っている。

 

 

 新編古事記

 

 邇邇芸は天宇受売に指示して、先導してくれた猿田彦は汝に心を開いた、故に汝が送って行き今後はその名を名乗って仕えよといった。

 これにより猿目の君たちの女は猿女君と呼ばれるようになった。猿田彦は阿坂村にいて漁をしている時にひらぶ貝に食われて溺れ沈んだ。

 その時の名はそこどく御魂といい、泡が立ったときの名はつぶたつ御魂、泡がはじけたときの名はあわさく御魂という。

 

 天宇受売が猿田彦を送って帰るとき、あらゆる魚を集めて天津神に従うかどうか訪ねた。皆は仕えるといったが、ナマコだけは返事をしなかった。天宇受売はこの口は答えぬ口といい小刀をもってその口を裂いた。

 これにより志摩から初物の魚類を献上する時は猿目にも下されるようになった。

 

 邇邇芸は笠沙の岬に至った時に、美人に会ったので名を尋ねると大山津見の娘で神阿多都比売またの名は木花咲耶姫と答えた。

 邇邇芸が大山津見結婚の承諾を求めると喜ばれた。そして大山津見は姉の磐長姫と貢物をそろえて奉った。

 

 邇邇芸は姉の磐長姫を醜いとして送り返して、木花咲耶姫と一夜契った。大山津見は娘二人を贈ったのは、磐長姫を仕えさせれば天津御子は長命になり、木花咲耶姫を召せば世が栄える事になるので献じたが、磐長姫を返したので御子の命は木の花のように短くなるだろうと言った。

 

 これにより歴代の天皇の命は短いものになった。木花咲耶姫は妊娠したことを告げに来たが邇邇芸は一夜の契りだけで妊娠した事を疑った。

 木花咲耶姫は尊の子ならば産むときに幸運を持っている、他の人の子ならば運を持っていないだろうと言った。

 

 お産のときに産屋を建てて火を掛けた。火の盛んな時に火照命が生まれ隼人阿多の君の祖となった。

 次に火須勢理命が生まれ、次に火遠理命又の名は天津日高日子穂穂手見命が生まれた。

 

 海幸彦・山幸彦日向神話

 

 この説話は皇統の起源を説明し支配の過程を語ることが、基調となっている日本神話の内容とは異質のものが感じられる。地方の庶民的な伝承・説話などがここにはめ込まれたようにも思える。海幸彦山幸彦の名前に、皇統譜の中の人物の名前があてがわれた可能性が強いと考えられる。

 この他、多くの研究者が海幸彦山幸彦の説話はインドネシアや、太平洋諸国に伝えられる神話と類似していると指摘している。井上光貞はこの説話は九州南部の隼人の伝説ではないかと言っている。この点は松前健の説と一致している。

日向神話の隼人の服属の説話は後次的なものであり、その舞台を日向に設定したのは神話の時代から服属していたことを示したかったからである。隼人が具体的な姿で現われてくるのは天武天皇の時代からである。(宮崎県史)

 

宮崎の青島にある青島神社には、日子穂穂手見、豊玉姫、塩土の神が祭られている。伝承ではここに日子穂穂手見が住む宮があったという。ところがある日、日子穂穂手見は突然いなくなってしまったが、後に急に帰ってきたので島の人々は服を着る暇もなく裸で出迎えた。

 神事では旧暦の十二月に、男だけが裸になって、海から帰ってくる神を迎える祭りを行っている。日子穂穂手見が三年もの間過ごした綿津見神の宮は、薩摩半島の開聞岳にある枚聞神社であると言われている。

 同町には玉ノ井という井戸があり、ここが日子穂穂手見と豊玉姫が出会った所とされている。(天皇家のふるさと日向を行く)

「日本書紀注釈上」所収の仮名日本紀の一書によると、塩土の老翁の別名は事勝国勝神であり、イザナギの子であるという。しかしこれでは世代が合わないことになる。

 

 若狭国遠敷郡の若狭比古神社には、日子穂穂手見、豊玉姫を祀ると伝え、三方郡の宇波西神社は鸕鶿草葺不合尊を祀ると称している。

 山幸彦の説話と似ている、水江浦嶋子の伝説地は紀に丹波国余社郡管川の人とある。

新撰姓氏録には安曇氏の祖神は綿津見豊玉彦とあり、安曇氏の本拠地は志賀島である。そこの志賀海神社には豊玉彦や綿津見の神を祀っている。

この分族の安曇氏は阿波の名方郡に綿津見豊玉比売神社を祀っている。塩満玉・塩干玉も安曇氏が伝承していたものである。

 神膳に奉仕する安曇氏の職掌由来譚が海幸彦・山幸彦の物語である。この安曇氏は古くは倭の水人とされ、潜水漁業に長じ、顔や体に入れ墨し龍蛇崇拝や海神信仰を持っていた。(日本神話の謎)

 

 

 新編古事記

 

 火照命は海幸彦と呼ばれ魚をとり、火遠理命は山幸彦と呼ばれ狩をして獣皮などを採っていた。

 ある日お互いの道具を取り替えて火遠理命は海の漁に出たが魚は釣れず針をなくしてしまった。

 火照命は針を返せと何度も催促したので、火遠理命は自分の十握剣で千の針を作って返したが、火照命は元の針を返せと言って受取らなかった。

 

 

 

 綿津見・海神の宮訪問

 

 山幸彦が歓待されてその快適さゆえか、三年もの間逗留した海神の宮とはいったい何処にあったのか。海神の宮の所在が分かれば、そこからさほど遠くない所に海幸彦と山幸彦の拠点が求められるだろう。

    田中卓はこの海幸彦山幸彦の神話を、神宮皇后の新羅征討の史実の反影とみている。海幸彦が隼人の祖であり、熊襲の祖先とも考えられることがその根拠の一つとなっている。新羅征討で援助した筒之男神は海幸を海神の宮に導いた塩土の翁とは同一神とする説もあり密接な関係にあるともいう。

 海神の宮は干満二珠のある(宗像大菩薩縁起)対馬の綿津見神社に比定している。豊玉姫のお産の話は、神功皇后のお産の話に類似性が見られることもある。皇后は紀に如意珠を得たとあり、宇佐八幡宮縁起にも竜宮城より干満両珠を得たとあることが山幸の乾満両珠と類似している。

 

 古田武彦は海幸彦・山幸彦の舞台を筑前(の日向)として、海神の宮の所在を「豊玉」のある対馬或いは大分県と論じている。

紀の第四の一書には海神の乗る鰐(さめ)が橘の小戸に居るとあり、その通りとするならばイザナギが禊祓いをした場所と同じ所になる可能性が高い。

 宮崎県北郷町の潮嶽神社は火照命・海幸彦を祀っている。山幸彦に負けた負け犬を祀っている神社は他にはないであろう。

 この地の伝承では海幸彦は石の船に乗って、ここに着いたという。山幸彦に追われ山間のこの地にやって来たのだろう。

 この地には奇妙な風習があり、それは婦女子は決して縫い針を人には貸さないというものである。これは海幸彦が釣り針を貸したことから不幸が始まった事を戒めているのである。

 また子供が生まれて初参りすると、額に必ず紅で犬という字を書くという。犬はこの地では隼人を意味する。隼人は天孫族と違って入れ墨をしていた。大久米命は伊須気余理比売に「などさける利目は?」と訝しく思われた。大久米命もまた隼人だったのである。

 

薩摩半島の南端の開聞岳には、綿津見の魚鱗の宮があったという伝承が存在する。開聞岳は航海の目印となり航海安全の神でもある。

 開門町には「塩屋」の地名があり、「塩釜どん」という自然石の神が祭られている。開聞の神をまつった神社が枚聞神社であり,かっては和多都美神社と呼ばれていた。また開門町には山幸彦が豊玉姫と出会った「玉の井」という井戸がある。

開門町の西北十キロメートルの知覧町には豊玉姫神社があり、祭神は豊玉姫である。

綿津見神は阿多隼人と考えられ、その根拠地は野間半島であり、そこは綿津見の神の本拠地と考えられる。(梅原猛)

このように海神の宮の所在の比定は対馬、鹿児島,と北と南とに分かれている。ここで参考になると思われる話が「上記研究」に載っている。「上記」には穂穂手見(山幸彦)が妃の豊玉姫と、壱岐対馬に行幸する模様が語られているという。

すると山幸彦の住まいは、壱岐対馬から船で行ける所でそう遠くはない所、ということになり筑前あたりが想定される。

だが、ややこしいことに「上記」では対馬の婚約の習俗を述べているが、「日本の民俗」によれば、その習俗は対馬にはなく鹿児島郡に見られるという。その習俗とは男は結婚したい女の家に自分の履物を投げ込み、女が承諾するときは自分の履物を家から外に投げるというものである。

 鹿児島では女があの人ならと思うようになると、女下駄と帯を男に贈り男がその女下駄を履いて歩くようになると、二人の仲は公認になるという。この二つの説話には類似点が見られる。

海幸彦と山幸彦の説話の舞台を、考える上で欠かせないのが橘の小戸の所在である。この三者の所在は相互に関連している。イザナギが黄泉の国から戻って、禊をしたのが橘の小戸である。さすれば宮崎ではいかにも遠すぎる。このように考証してみると、干満二珠と豊玉の地名がある対馬説も有力なものといえようか。

 

 

 新編古事記

 

 火遠理は海で泣いて途方にくれていると塩土神がやってきて理由を聞いた。塩土は汝のために働こうと言って目無し籠の舟を作って火遠理をのせた。

 

 暫く行くと海の道がある、その道に乗って行くと綿津見の宮がある、其の門に桂の木がある、その木の上に居れば海の神が計らってくれると教えた。

塩土が舟を押し流すと舟は海流の道に乗り、火遠理は綿津見の宮に着いた。

 

そして火遠理が木に登って待っていると綿津見の神の娘豊玉姫の侍女が水を汲みに来た。侍女からの知らせで豊玉姫が出てきた。

綿津見に会わせるとこの方は天津彦の御子空津彦なるぞと言った。すぐ中に招き入れてアシカの畳八枚を敷き、絹の畳八枚を重ね座らせて娘を献上した。火遠理は綿津見の宮で三年を過ごした。

 

火遠理は針の事を思い出し悩んでいると、綿津見の神が魚を集めて問いただし針を見つけてくれた。

綿津見は火遠理に、この針を返す時はこの針は憂鬱になる針、いらいらする針、貧しくなる針、愚かになる針と言って後ろ手に渡しなさいと教えた。

さらに兄が下に田を作れば上に田を作れ、そうすれば兄は三年は貧しいままになる。

恨んで攻めて来たら潮満玉を出して溺れさせ、謝れば潮干玉を出して助けてやりなさいと教えた。

綿津見は二つの玉を火遠理に贈り、鰐を呼んで送らせた。火遠理は持っていた子刀を鰐の首につけて帰らせた。

やがて火照はまずしくなり攻めてきたが、火遠理は潮満玉で溺らせ潮干玉で助けた。そこで火照は服従する事を誓った。

 

 

 鰐の皇子・鵜萱葺不合命

 

鵜萱葺不合の誕生譚そのものは、南方系の神話の影響が色濃く反映しているようにも見えるが、鵜萱葺不合命の名前は生まれたときのエピソードが元になっており、ある種の信憑性が感じられる。

日南市にある鵜戸神宮には巨大な洞窟があり、ここで豊玉姫が出産をしたといわれている。多くの海鳥も訪れ産屋の屋根を鵜の羽で葺いたというのも頷ける。同社の裏側には豊玉姫が綿津見の宮に帰る時に、残して行ったという乳房の形をした「お乳岩」がある。また洞窟の出口には亀石がある。姫が乗って来た亀だが姫は急に竜になって帰ったために取り残されたという。

邇邇芸が高千穂の宮から動かなかったという事は、葦原中津国を治めよとのアマテラスの命令でやって来たのだから、此処が葦原中津国であったという事になるが….

御陵の位置は詳細には伝わっていなかったのか、ぼかしてあるようだ。

宮内庁の「陵墓要覧」では川内市に比定されている。梅原猛によれば、神仏分離・廃仏毀釈の運動は薩摩から始まって日本の政策となった。この蛮行には幕末から明治にかけての国学者の説くところが大きく影響していた。日向三代の陵墓と伝承される場所は、宮崎・鹿児島に幾つもあったが明治7年に全ての陵墓は鹿児島県内に指定された。

邇邇芸の可愛山陵は川内市に、彦穂穂手見の高屋山陵は溝辺町に、鵜萱葺不合の吾平山上陵は吾平町に定められた。梅原は薩摩人の支配する明治政府は、どうしても鹿児島に持って行きたかったのであると述べている。

 

陵墓要覧の示す陵墓位置を明確に否定しているのは古田武彦である。紀の記事の筑紫の日向、日向の高屋、日向の吾平などは、その他の記載例などから全て筑紫・福岡であるという。その三代の陵墓は、三種の神器が出土している吉武高木遺跡を主として、三雲、須玖岡本、井原、平原の各遺跡を挙げている。

邇邇芸が降臨・渡来した地は北九州とするのが妥当と思われ、日向三代はその地を大きく出て行った記録はない事から、渡来した地でその生涯を送ったのかもしれない。だが、古田は「高屋」「吾平」が福岡の何処なのか、その地名の名残の有無には言及していない。

前之園亮一は「帝紀」「旧事」には、この日向三代の説話はなかったとして天岩屋戸から邇邇芸の降臨譚に直結していたと断定している。その理由は天岩屋戸説話と、邇邇芸の降臨譚双方に登場する神々は殆ど同じと論じている。

前之園は天岩屋戸話と邇邇芸の降臨譚の間に、日向三代の出雲神話が後に挿入されたという。

記には鵜萱葺不合の父・穂穂手見は高千穂の宮に580年間居たとあるが、鵜萱葺不合の年齢は記していない。しかるに「上記」では鵜萱葺不合朝は51代続いたとしている。また「竹内分書」と「九鬼文書」では73代となっているが。「旧事本紀」には鵜萱葺不合朝の記録はない。(後藤隆)

(近江雅和は、上記は72代、宮下文書・九鬼文書・竹内文書は51代とする。)

 

神皇紀(宮下文書)では鵜萱葺不合朝は51代続いたと述べている。鵜萱葺不合は、富士山麓の高天原から逆に筑紫へ遷都した事になっている。初発の二万八千の軍勢がやがて十万になり、東と南から攻めて九州を二年かけて制圧した。

切枝間山(阿蘇山)を神都として日向高千穂峰と名付けた。鵜萱葺不合朝最後の51代の時に真佐勝彦と長髄彦の中国で反乱を起こし大内乱となった。本州は殆どが賊国となり、皇軍は瀬戸内海と東海・相模から攻めた。この時に長髄彦を攻めた五瀬王は白肩津(枚方)で流れ矢を受けて戦死した。

 大久米命の軍は伊勢の度会に入り、伊瀬崎から伊賀を通り山城に進軍した。

佐野王命(神武)は熊野口から進軍したが苦戦し、兵が足りず四方に檄を飛ばし兵を集めた。やがて敵は敗退し比叡山に籠った。

大内乱勃発から17年が経過し、51代鵜萱葺不合は陣中で死んだ。三毛野入野命は水戦で苦戦し入水した。長髄彦は実は新羅人だったと言い、敵軍には新羅の兵や舟軍が大勢いた。比叡山が落ちると佐野王命は宇陀に向かった。追い詰められた長髄彦は国見山で自害し、大内乱は36年かかって終結した。

以上は神皇紀の要約にすぎないが、同書にはこの戦争の経過が細かく語られている。だがその記述には、やや後世的な表現が含まれているようにも思える。この内乱・戦争は記紀に言う神武の東征である。「上記」(大友文書)にも類似の記事があるがその名前など詳細は異なっている。

 

 

 日向王朝と西都原古墳

 

 時に日向王朝ともいわれるこの日向三代の説話と、広大な台地に広がる西都原古墳群との関わりはいまだ明らかになっていない。同古墳群には大小300基余りの古墳が存在していることから、この地方に強大な勢力が存在していただろう事が窺われる。

 記紀によれば、日向からは歴代の天皇に何人もの妃を出しており、天皇家との繋がりも深い地域である。

 同古墳群の主墳ともいうべき男狭穂塚・女狭穂塚古墳は、邇邇芸命と木花開耶姫の陵であると伝承されている。だが両古墳の築造年代は五世紀前半とみられており、想定される邇邇芸の年代からは四百年近くの隔たりがある。

 西都原古墳群の多くの前方後円墳は、畿内型古墳とも呼ばれ畿内の影響を強く受けている。何れも五世紀代とされ古いものでも四世紀代には遡らないといわれている。少なくとも三世紀の物は皆無であり、日向三代との関わりは無いに等しいと言わざるを得ない。

 また北部九州には巻向型前方後円墳が14基あるが、何れも巻向の古墳の半分以下の規模である。副葬品についてみると、畿内の古墳は剣・鏡・玉を埋納する北部九州の儀礼を継承している。

北部九州に分布し出土する庄内式土器は、畿内から搬入されたものと同地域で作られたものがあるが、いずれも畿内から移動した人の手によっている。(新邪馬台国論)

 これらの事から北部九州の勢力が畿内に入り、時を経てその一部が北部九州に戻ってきたと想定されるのである。またはその影響力が逆流してきた・派生してきたということになろう。

 考古学の成果は近年富に増大してきているが、その調査報告は位置関係や周囲の状況、古墳の形状や寸法、出土物の詳細な説明に終始している。当り前かもしれないが事実の列挙に留まっていて、出土物の製造時期には言及するが築造年代の推定までは踏み込んでいない。

 従って幾ら調査報告を読んでも、痒いところには手が届かず歴史を推理・想定することはできないのが現状である。やはり古文献の研究・解釈がより重要となる所以でもある。

 

 

新編古事記

 

妊娠した豊玉姫は、天津御子の子は海中にては生むべからずと言ってやってきた。海辺に鵜の羽を萱にして産室を作り火遠理に異郷の人は子を生む時は、元の姿に戻って産むもの、生むまでは見ないでくれと言った産室に入った。

 

火遠理は其の言葉を奇異に感じて産室を覗いてしまった。そこには鰐が這いずり回っていたので火遠理は逃げ出した。

それを知った豊玉は恥じて、海の道を通って通う積りだったがその道を塞いで帰ってしまった。

後に養育する目的で妹の玉依姫を派遣した。産室が出来上がらないうちに生まれた子は天津日高日子波限建鵜萱葺不合の命という。

火遠理命・日子穂穂手見命は高千穂の宮に、一説では五百八十年住んでいた。その墓は高千穂の山の西にある。

 

 

遥かなる邪馬台国

 

 古文献にあらわれる「倭」を、多くは日本或いは九州と捉えているが井上秀雄は、倭は朝鮮南部にあったとしている。この他前漢時代には内蒙古地方にも倭があったと見られるという。

後漢時代には先の二か所の他に南方の倭もあった。魏・晋時代でも南朝鮮の倭は、日本列島の倭人よりも中国人にとって確実な存在であった。一世紀中葉には南朝鮮の韓・倭が遼東郡に朝貢したという。

倭が日本列島のみを指すようになるのは五世紀以後のことで、「倭国」は北九州狗奴国を指していたようである。広開土王碑に見られる高句麗と戦った倭は、日本ではなく南朝鮮にあった倭である。広開土王の五万の軍と数度にわたって戦い、五世紀だけで17回も新羅と闘わなければならない理由はなく、海流の激しい朝鮮海峡を渡航させる方法もなかった。

歴代中国と国交を結んでいたのは、倭国即ち倭奴国で中国外交の拠点となっていた地域である(古代朝鮮)

 

中国の五漢時代の文献「論衡」の考証からは倭の位置は中国の東北部とされる。同じく「山海経」の記述からは、倭は後の楽浪郡の辺りと考えられている。また後漢書の「烏桓鮮卑列伝」からは二世紀後半には、倭人の一支族が中国の東北地方西南部に住んでいたことが窺われる。

これらの文献にあらわれる倭人は、明確に他の種族とは区別されており、「魏書」や「東夷伝」の記事に出てくる倭人の直接の祖先ないしは兄弟と見られる。(邪馬台国の言語)

邪馬台国の位置を比定する考察の際に使われるのは、「魏志倭人伝」であるが同書の記述の多くは実態に即していない。特にその旅程の記事については何通りにも読めて、その読み方のどれもが明確には否定できないありさまとなっている。従って旅程の記事からのアプローチは労多くして利あらずと思われる。

邪馬台国の比定考証に使われる参考文献の多くは中国の史書であり、その中の魏志倭人伝の読み方・解釈は人によって実にさまざまである。そこで中国人の学者が読めば、正確に読めてその実態が解明されるのではないかという期待があった。しかし同書を読んだ謝銘仁・張明澄は邪馬台国九州説をとり、張声振と汪向栄は畿内説をとっている。

 

やはり邪馬台国の考証にあたっては、考古学の成果を重要視する必要があろう。三世紀中頃の邪馬台国時代には広形銅矛、銅剣から鉄剣、鉄刀に移行していたと見るのが有力な説と見られる。

この鉄剣、鉄刀が出土するのは、博多湾岸から筑後平野にかけての地域である。また邪馬台国時代の遺物とされる小型仿製鏡は、主に甘木市や筑後平野から出土している。邪馬台国の時代に近い弥生時代(1800年前という)の、遺跡分布図を見ると宮崎県南部を除くと有明海沿岸部に多くの遺跡が集中している。

これは筑後平野から熊本にかけてのエリアとなり、鉄刀の出土地域とも重なり合っている。鉄剣は瀬戸内から近畿へと東漸し、次に鉄刀が漸し九州の鉄製文化と共に古墳時代以降の近畿の文化と繋がったといわれる。

これらの事から、安本美典は広形銅剣文化は鉄刀文化に滅ぼされ、邪馬台国は東遷したとみている。(季刊邪馬台国)

 

邪馬台国を大和とみる論者の多くは、弥生時代の大遺跡である巻向遺跡を邪馬台国に比定している。石野博信もそのうちの一人である。纏向地域には三世紀頃に作られた、大きさが80メートル前後の前方後円墳が四基ある。同地区のホケノ山古墳は三世紀後半の築造とされるが、箸墓古墳よりも古い古墳であることは多くの研究者に支持されており、実際の築造年代はさらに遡るとみられる。

巻向遺跡の範囲はおよそ縦横二キロメートルくらいであり、二世紀末頃に突然現れて、四世紀の中頃には突然消えて殆ど無人地帯になってしまっている。この纏向繁栄の時期は奇しくも邪馬台国の時代にあたっている。

同遺跡は大大和古墳群と共に消えて、その後は佐紀楯列古墳群の方に古墳が築かれていく。纏向遺跡が消えた後から三輪山の信仰は本格的に始まっている。

 

纏向遺跡では各地の土器が沢山出ている事も、石野が邪馬台国と関連づけて考える要素の一つと見られる。石野博信によると、鹿児島や福岡、島根、東は静岡や神奈川の土器までもが発掘されているという。

もっとも多いのが愛知県を中心とした地域の土器だとしている。この事からか石野博信は愛知を狗奴国と想定しているようだ。同氏が邪馬台国の中枢地と比定しているエリアは歩いて3~40分で端から端まで行けるほどの狭いエリアであり、すぐ北の天理市にかけての平野部分を含んでいないなど、イメージがしっくりこない。北に隣接している柳本古墳群は何国に属していたのか、そこに国境のようなものがあったとは考え難い。

 

 神武天皇を邪馬台国からの分派・分国で畿内に東征したとみる論者がいる。田中卓は高天原を筑前山門郡に比定し、これを原ヤマトと呼んでいる。森浩一は邪馬台国を北部九州にあったとみて、筑紫平野東部を一つの候補地としてあげている。狗奴国は熊襲とみて熊本県球磨郡と大隅半島にまたがる地域とみている。弥生時代の九州では北部と南部の考古学的状況が際立って異なるとも述べている。

 絹の断片が付着している銅鏡が幾つか出土しているが、弥生時代に養蚕や絹織物の技術を持っていたのは北部九州だけだった。倭人伝には倭人は糸を紡ぎ絹や綿を作っているとあり、弥生時代に絹が出土するのは福岡・佐賀・長崎の三県に集中するという。

 

必然的に邪馬台国はこの三国のいずれかとなるのだろう。絹の東方への広がりは、絹織物の技術を持った集団の移動が考えられるとして、布目順郎は邪馬台国東遷説を支持している。(布目順郎、絹の東伝)

 これに対して森浩一は銅鏡愛好の風習の東伝があったとする。弥生時代中期~後期の三雲・井原・平原遺跡では、数十枚の銅鏡を埋納しているが同時期の奈良県の遺跡には銅鏡副葬の形跡は皆無である。

 ところが前方後円墳の築造が始まり、絹が使われだすと殆どの古墳に銅鏡が副葬され始めた。このことは北部九州の文化が伝わったのは事実であり、集団の移動があったと想定される。

 すなわち邪馬台国の東遷を考えると説明がつくとしている。また弥生時代中期から後期(前100~後300年)にかけての、高地性集落遺跡も九州から東へ移り、近畿地方に至っている。この逃げ城を作らざるを得なかった状況は、長い争乱が九州から東へと移った形跡を示している。

 また巻向地区が突如として、三倍の規模になったことを指摘してこの時期に、卑弥呼の宗女台代が巻向に東遷したとする説も唱えられている。

 

 二世紀末に九州甘木市にいた物部氏と尾張氏は、協力して畿内に入り物部氏は河内に尾張氏は葛城に入ったと唱えるのは相見英咲である。指令を出したのは、出雲系邪馬台国王家の卑弥呼であったと示唆している。

倭国騒乱時に南九州に逃れていた天皇氏は、神武(ホホデミ)の時に大和へ東遷し卑弥呼に仕え頭角を現した。相見は物部氏の血を引く崇神が邪馬台国を滅ぼしたとしている。

 今尾文昭は素環頭鉄刀について発表している。弥生時代の墓から出土した鉄刀の長さは殆どが20~30センチであり、古墳時代に入る頃になると長くなってゆき、80センチ前後のものになると述べている。

素環頭鉄刀が登場するのは弥生中期の後半で、その出土の分布では弥生墓からの出土は福岡と佐賀に集中している。弥生の終りから古墳の始まりの頃の出土分布では、(東日本を除く富山、愛知辺りまで)各地に広がっている。この弥生墓からの出土した素環頭鉄刀は殆どの人が舶載品とみている。と報告している。

 

安本美典は倭人伝にいう矛について以下のように述べている。

銅矛の出土例は九州で373例みられ、近畿では10例である。鉄矛は九州で9例または15例あるが、近畿や関東では発見例がない。

この事から矛の使用については銅矛、鉄矛に関わらず九州説に有利である。杉原壮介によると西暦200年代は広型銅矛が使われていた。

更に倭人伝がいう倭王に貰った刀についても同様の事を述べている。

鉄刀は九州から10例、または28例、近畿では5例である。銅剣は九州で110例あるが近畿では19例である。鉄剣は九州で87例または51例、近畿で9例または1例である。弥生時代の鉄製武器は北部九州を中心に普及がみられ、弥生時代の近畿においてはほとんど普及がみられない。

弥生時代の銅鏡は九州138面、または325面または200面、近畿は6面または8面または13面である。(吉野ヶ里遺跡と邪馬台国)

 

卑弥呼が魏に遣わした難升米を、地名を含んだ難の升米とする説があり、森浩一は難は奴国、都市牛利を伊都国の王族ではないかとしている。つまり派遣したのは共に北九州の王族であると推測している。

中国の江南には山頂部に築かれた山城、固陵城があり、高地性集落の原型も江南から伝わった可能性が強い。中国で初期の稲作を行っていた江南と九州および日本海沿岸・越の交流は古くからあったと想定される。

紀では神功皇后と卑弥呼を同時代人として捉えているが、これは大いに疑問である。

伊予に勢力を持っていた越智氏はもと越氏だったと思われ、竜蛇との関係や入れ墨の風習もあったと推定され倭人伝との係わりが注目される。

江南の紹興は銅鏡の生産地であり、日本で出土する三角縁神獣鏡の故郷であろう。

江南地方は日本に磁器を輸出するだけではなく、工人集団をも送り出し、あるいは移住して日本の生産技術に大いに貢献した。

 

吉野ヶ里遺跡の南東からは大量の越磁が出土している。有明海沿岸と江南(呉)の間での活発な通商関係があった。呉に派遣された身狭村主青は呉の孫権の男(息子)・高の後なりとされている。

 三世紀の魏略にある倭人の伝説で、倭人は呉の太白の子孫となっている。太白の子孫なら入れ墨をしていてもおかしくはない。(古代史の窓)また顔に入れ墨をした埴輪が何体か出土している。

顔に線を幾筋も引いた線刻の文様が多い。奈良県田辺町堀切の7号墳から出土した戦士の埴輪には顔に引かれた線状の文様がくっきりと残っている。粘土がひび割れたような、木の葉の葉脈のような文様であり、何かの形を表現したものではなさそうだ。

田辺町の北部は中世に隼人荘と呼ばれていたこともあり、この戦士は隼人と関係があるのかもしれない。

 

森浩一は考古学の資料では、弥生人の男子は顔に刺青をしていた。これは古墳時代にもかなり見られるが、古墳時代になると立派な武人は殆ど入れ墨をしていないという。中国の曹氏の二百年頃の墓から倭人が発見された。これに関連し中国の学者は大量の倭人が会稽あたりに移住したとする。その時期は高地性集落遺跡が現れる、倭国大乱の時期にあてている。

森浩一はこの説を肯定できるものとしている。神武は東征したがこれは逆に西方への大量移住であり、一説には数百人から数千人としている。二世紀にこうした出来事があったならば、神武の東征もあながち伝説と断定はできないこととなる。

 近江雅和は卑弥呼を海部氏系図と尾張氏系図に出ている日女命として、その墓は丹後に求めるべきだろうと言っている。この日女命を卑弥呼と唱えるのは近江一人にとどまらない。

 「契丹古伝」は卑弥呼の祖先が朝鮮から日本に渡ったとしている。倭人伝にいう国中が乱れた時代に、卑弥呼は畿内に逃れて邪馬台国連合を建てた。後に大和の崇神に追われて丹後に退き死んだと推理している。(記紀解体)

 宇佐家の伝承では、邪馬台国は安芸国府中村の多家神社を中心とする地域にあったとしている。宇佐氏は月神(うさぎ)即ち月読命を天の神・氏神とする海部族である。

 

 田中卓は投馬国を五島列島・知訶島に否定している。一見遠回りの航路のように見えるが、ここから対馬海流に乗り対馬へ渡る航路があったという。邪馬台国は筑後の山門郡に比定し、新航路として大村湾から諫早の船越を船を担いで横断し有明海に入ったとしている。(邪馬台国と稲荷山刀銘)

 このコースを取ることにより、水行10日の旅程に合致するとしている。山門郡には鏡が出土した車塚古墳や瀬高町に墳墓集団があるほか、女山からは銅鐸が二本出土しているなど、考古学的見地からも補強を加えている。

 同氏は卑弥呼の円墳については直径三十数メートルの墓と推考している。車塚古墳との関連性も含め、三十数メートルのものであれば今後見つかる可能性を秘めている。

 

 

 箸墓は卑弥呼の墓か

 

箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼の墓とする識者も多く、河上邦彦もそんな一人である。河上は魏志倭人伝に径(円墳)百余歩とあることから、魏の歩は五尺(一尺24センチ)であるから144メートル、余歩を6メートルとして計算すると150メートルの円墳になるとした。だが同時期で該当する円墳はなく、箸中山古墳を円墳として後方部は後に作られたものと考えると、後円部の直径は160メートルであるから卑弥呼の墓に合致するという。

 しかし、これだけの論証では素直に頷けるというところまではいかないのが実情である。箸中山古墳の直径を160メートルとしているが、これは基底部・地盤面のことであろう。

 千葉の国立歴史民族博物館にある箸墓の模型と説明文には、後円部は四段に築成され、その上に径42メートルの高さ5メートルの円丘を載せる、と記されている。

 第一、平面図から読み取ったであろう160メートルの基底部は歩けないではないか。

基底部から後円部の頂上までが垂直の壁で立ち上がっているわけではない。径42メートルの後円部を歩くと、百余歩ではなく35歩になってしまう。河上が言及する、後方部は後から付け足したとする説であるが、確かに纏向古墳群には円墳が多いが箸中山古墳よりも古いと見なされているホケノ山古墳は前方後円墳である。

また前方部には段築が56段あると思われ、高さも16メートルに及び、長さは120メートルほどになる。

これだけの精緻な設計をして、かつ膨大な土の量を調達し、後円部の各段丘に等高して接続するのはかなり難しいと推測される。後円部を痛めてしまうことも考えられる。更に箸中山古墳には周濠があったことが確認されている。近年ではそれも二重に巡らされていたとする調査結果も発表されている。橋本輝彦も近年の調査報告で、箸墓古墳は最初から前方後円墳として築造され完成をみたものとして、前方部が後に付加されたことを否定している。

このようなことから箸墓古墳は元円墳であり、前方部を後から付け加えたとする説は支持し難いものとなる。

 

「はしはか」に「箸」の字を当てると文字通り箸のイメージが強くなる。ここから後世に、箸でホトを衝いて死んだヤマトトモモソヒメの説話が生まれたと見る向きもある。「箸」は、元は土木工事や土器つくりの集団を意味する「土師」であったが、いつしか「箸」になったとする説もある。

また「はし」は橋をも意味するものとされる。後円部は神世界であり、こちら側は人間界であり、その中間が前方部・はしであるという。神世界と人間界を行き来する巫女はその中間の人であり、即ち「間人(はしひと)」と呼ばれるという。「箸墓」の「はし」は橋であり、間(はし)である所以とされる。

卑弥呼の墓は円墳の可能性が強いが、倭人伝にはその高さが記載されていないことから、森浩一は周溝墓の類で古墳ではなかったとみている。高さが記されている光武帝陵のように、中国では平面規模よりも高さが身分制を表すものとして尊重された形跡があると述べている。

「墳」と「冢」の区別は、はっきりしないが墓の高さを意識して書くときは、「墳」の字を使うようだ。薄葬が徹底していた魏の時代には、原則的に墳丘はないという。

卑弥呼の墓の大きさについては、直径144メートル前後になるとする岩田重雄の説を紹介している。熊本県の城南町には、大型の円形・方形の周溝墓が群在している他、九州には女性の支配者が多いと論じている。

 

 また福岡県では奈良・大阪の土器が多く、他にも各地の土器が出てくるが逆に福岡の物は他の地方には行っていないと同氏は言っている。

 前期古墳は全国にあるが、ほとんどの地域では1~2基だけである。ところが大和では約60基もある上に規模は他に比較して大きく、二百メートル以上の物が四基あり、その勢力の大きさがわかる。(三輪山の考古学)

 何冊もの神話・古代史の本を書いている古田武彦は、邪馬台国九州説に立ちその宮殿跡(神殿)を福岡の吉武高木遺跡であると断定している。更に冒険を犯すように同遺跡の木簡墓は、ニニギの陵墓である可能性が極めて高いといっている。

 遠い遠い、はるか霧の彼方の伝説の人物ニニギは果たして実在の人物であったのだろうか。

 彼が実在していたとしたら、当然その父のオシホミミ、彼の子のホホデミも実在していたことになる。ホホデミとその子のウガヤフキアエズは、芦原中国の攻略に何の貢献もしていないばかりか、政治の事績としても特筆するほどのものを残していない。だがこのことゆえに却ってその真実味を放ってくるともいえる。

 卑弥呼は魏から銅鏡百枚を貰っているが、古田はこれを博多湾を中心として分布している前漢式・後漢式銅鏡と考えているようだ。三種の神器を持つ弥生王墓の分布状況と一致している。

 

 三角縁神獣鏡はこの博多湾近隣の太陽信仰の勢力の一派が、東方の近畿地方へと勢力を拡大していった事実を証言するものだという。確かに三角縁神獣鏡は近畿を中心として分布している。

 また古田は「呼」には「こ」と「か」の音があるとして、卑弥呼をヒミカと読んでいる。これは「日」と「甕」で神聖なる甕を意味すると言っている。この論説は福岡に多い甕棺墓には直結するが、卑弥呼のイメージには結びつかないように思える。だが古田はこの考証を発展させて、筑後国風土記に出ている筑紫の君の祖・甕依姫を卑弥呼と想定したのである。

 「依姫」は称号であるから卑弥呼とは「みか」の名前が一致する、共に巫女でしかも同時代の人である事をその理由に挙げている。

 多くの著書を世に送り出している古田武彦の論証するところは、歴史学・考古学の世界からは無視或いは沈黙をもって迎えられているようだ。

 

 松本清張は長広舌の末に邪馬台国を、筑後山門郡に比定する説に賛成している。邪馬台国の東遷について最も早く言及したのは和辻哲郎であり、また考古学者の立場から北九州の青銅器文化は突然消滅したが、その担い手が大和に移り古墳文化を発達させた。

 甕棺墓に埋葬された鏡、玉、剣は古墳に埋葬されるようになり、三種の神器にまで発展していったと言っている。この邪馬台国の東遷を倭国の大乱の時期と考える論者には、橋本増吉、植村清二、坂本太郎などがいる。

 谷川健一も邪馬台国の東遷の事実の反映を、神武東征説話に求める説に賛成している。谷川は大胆に論を進めて東遷時の邪馬台国の首長は崇神であって、紀では神武と記されている。

 呉の滅亡を機に邪馬台国と狗奴国は和解し、後に狗奴国と婚姻しその力を借りて東遷した。三韓から安全な距離をとれる畿内へ侵入したのは、313年前後と推定している。尚、谷川は邪馬台国を筑紫平野に比定している。

 ミマキイリヒコの名の由来は、筑紫の水沼からやって来て大和の三輪地方に住みつた男としている。

 纏向や大阪で破砕された銅鐸が発掘されている。物部氏に属する工人たちが急いで銅鐸を破砕しなければならなかった理由は、邪馬台国が東遷してきて、銅鐸文化を破壊し始めたからである。

 物部氏と蝦夷の連合政権は生駒山の東側にあったが三輪山の付近に移らざるを得なくなった。(白鳥伝説)井沢元彦は宇佐神宮に祀られている比売大神を卑弥呼と断定している。宇佐神宮に並ぶ三殿の中央には比売大神が祀られ、向かって右側には神功皇后、向かって左側には応神天皇が祀られている。

 必然的に中央の祭神が主神である。比売大神は従来言われている三女神ではないと論じている。

 言語学者の立場から論証を試みる長田夏樹は、邪馬台国時代の北部九州のts方言と大和のs方言は明らかに異なる。音韻学的にTs音がs音に変化することがあっても、s音がts音になることはきわめて少ない。

 北部九州は確実に邪馬台言語圏に所属していた。この事から邪馬台国が畿内にあった確率は非常に低く、言語の音韻的断絶は畿内説に致命的であろうと述べている。

 邪馬台国が畿内にあったのならば、何らかの伝承が今に伝わっていそうなものである。大和には神代にも及ぶような説話・伝承が残っていてそれらは記・紀に記載されている。

 だが記・紀には邪馬台国の名前はおろか、卑弥呼や男弟の名前、台代の名前の片鱗も見えていない。また卑弥呼の墓に比定できるような適当な墳墓も見つかっていない。

更に、邪馬台国の東に一海を渡るとまた国があり皆倭種である、との倭人伝の記事に当たる国はどこにも見当たらない。これらのことが邪馬台国畿内説に頷けない主因となって立ち塞がっている。

 

 

 徐福渡来伝説

 

 中国では秦の始皇帝に遣わせられた徐福の伝説を、史実として捉え日本で神武天皇と言われている人は徐福の事であるといわれている。呉書には、会稽の人が風に流されてある島に着くと、そこには徐福の子孫と称する人たちがいて、会稽にも時々交易にやって来ると書かれている。

 彭双松の研究による徐福の航路をみると、佐賀に上陸した後に九州を一周し瀬戸内海から熊野を経て富士山に行っている。このコースは九州の前半を除けば、神武東征のコースにそのまま重なるようである。

徐福の伝承地や墓は日本の各地にあるが、特に佐賀市や熊野にはその伝承が今も多く残っている。この他では津軽、八丈島、青ヶ島、富士山、串木野市、八女市、延岡市、名古屋市などに徐福の伝説が残されている。

 

 偽書とされている古代文書に「神皇紀」(宮下文書)がある。神皇紀は神代文字で書かれていた実録を、徐福が漢字に当て嵌めて録取したものが基本原本になっているという。

 これらの文書を発見し整理・再編したのは三輪義凞である。神皇紀では記紀の神話の記述と違って、年次や名前など微細に亘って筋の通った記述を行っている。同文書では徐福伝をその祖先の事から始めて次のように語っている。

 「徐福は儒学を修め、インドに行き仏学を7年に亘って学んだ。後に始皇帝に仕えすこぶる寵用された。

 徐福は上申して、東海にある大元祖国の三神山に不老不死の良薬がある、これを求めに行きたい。ついては金、衣服、食糧、船85艘、男女五百人が必要であると皇帝に許可を求めこれをゆるされた。

 西暦前244年6月20日に出帆した。10月25日に紀伊に到着した。駿河を経て5日に富士山の西麓・高天原に到着した。徐福は機を織らせた。武内宿禰が来てその門下に入り、一子の矢代宿禰をも入門させた。矢代は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。

徐福は西暦前208年に逝去した。徐福が伴って来日したのは男271人、女287人計558人である。その子は福岡、福島、福山、福田の姓に改めた。福島に改姓した二男の福万は熊野に移住した。」(日本古代文書の謎)

 種々の文献に徐福は男女三千人を伴って来たとあるが、徐福渡来説を始めて記した「義楚六」は次のように記している。

「秦の時、徐福五百の童男、五百の童女を率いて、此の国に止まれり、今人物一にして長安の如し」(徐福伝説考)

 また同書では日本僧の弘順大師から聞いた話として、徐福の子孫は皆秦氏を名乗っているとしている。この義楚六帖の成立は、960年頃とされている。

徐福が伴って来た人数は文献により異同があるが、神皇紀が一番少ない人数となっていて実数に近いと思われる。

 神皇紀は精密に記述されており、その論旨には矛盾が少なく且つストーリーは真に巧妙に編まれている。その内容からこれが真実の歴史書と思いたい、真剣に研究してみたいと思わせるものを持っている。

だが徐福の名前を出していること、そして同じ名前の王が51代続いたウガヤ朝があったとしている事、後半部分に後世的な表現を見せている事から先の気持ちは萎えてしまう。

 

 

  神将 神武天皇

 

百済の「三国史記」には拂流と温祚の兄弟による百済建国伝説がある。その兄は失敗して死亡し、弟が成功して王朝の始祖になる説話である。そのストーリーは、神武と五瀬の話と同じといってよいほどに似ている。

 原ヤマト国の畿内への数次の東征の著名な史実を核として、反影・成立したのが神代史である、よって史的神話と名付けたと田中卓は説く。しからば神代史の部分の古い伝承は何もなかったのだろうかこの点疑問である。

 神武の諡号「カムヤマトイワレヒコ」は、大和の磐余(桜井市)の事とされているがこれを地名ではないとする説も提唱されている。イワレヒコは「岩()れ彦」で英雄を意味する。三国史記にも石の中から王子が生まれた話がある。

神聖なものを意味する「カム」は後に付されたもので、「ヤマト」は岩()れ彦の元義の記憶が薄れた頃にイワレは磐余の事とする誤解が生じ架上された。この和風諡号が作られたのは継体が磐余の玉穂宮に都して、イワレヒコのイワレが大和の地名磐余と同一視されるようになった頃であろう。(古代王朝交代説批判)

 纏向遺跡は大きな遺跡であるが、三世紀頃に突然のように現れたとされている。この纏向遺跡を作ったのは考古学的成果からみて、吉備の勢力に間違いないというのは武光誠である。

総社市を中心に分布する特殊器台と特殊壺が、纏向遺跡から出土している他に、赤色の顔料が共通している事をその論拠に挙げている。武光はさらに論を進めて、この吉備勢力の首長が大和に移動して朝廷を開き、神武東征伝説が作られる元となったとしている。

黒岩重吾は三世紀末に加羅諸国の勢力が渡ってきて、北九州勢力と協力して日向王朝なる物を樹立してこれが後に難波へ移って来たと言っている。奈良県の弥生時代中期の遺跡は47ヵ所見つかっており、前期に比して2.5倍増になっている。また後期の遺跡は72ヵ所で見つかっており、中期の1.5倍となっている。(奈良県史)

大和の一口がどんどん増えていった事が窺える。日本には大陸からの渡来が縄文期、弥生期を通じて絶えずあったと思われる。

これらの人々は、より生活しやすい土地を求めて東へ東へと移っていった。時に先住民との混血を繰り返し、やがて日本人の原型が形作られていった。いわば海外からの渡来と東方移住は日本の歴史と文化であったのだ。

 

 神武天皇については架空説、実在説、年代が違う、東征ではなく東遷だったなど諸説が頻々と出されている。三世紀末から畿内に起こった古墳文化は、北九州の青銅器文化と密接な関係があるとする学者もいる。

高地性集落の消滅の後、畿内に前方後円墳が現れていることも多いに示唆に富んでいる。畿内の銅鐸文化が突然消滅し、多くの銅鐸は地下に埋納されたことも関係ないこととは思えない。

 その理由の一つとして甕棺墓には封土があるが、これは古墳の盛り土の原型と考えられるという。また甕棺墓には畿内の古墳と違って鏡・剣・玉の三種がセットになって埋葬されているものが多く、皇室の三種の神器とされるものに一致することもあろう。

 三雲遺跡や玖遺跡の集落が突然消滅したかの様になっている様も、北九州文化が機内に移ったと考えると辻褄が合うことになる。しかし突然のように銅鐸が消えたのは古墳文化が広がって社会状況が変わり、祭祀に使われていた銅鐸は必要がなくなったと説く研究者もいる。

森浩一はヤマトの古墳文化は突然出現したとする。ヤマト地域で弥生時代前期から連綿と変遷を重ねてきたものではない。政治的あるいは宗教的な激変があったことが、十分考えられると述べている。(記・紀の考古学)

 神武が実在していたと考える人の中には、その年代を西暦100年ころ或いはさらに数十年遡ると唱えるものがある。一見妥当性があるようにも思えるが、石母田正は神武東征の頃に歌われた「久米歌」を四世紀のものと言っているが如何なものか。

 

青銅器文化の原料は、朝鮮から入手して弥生中期に北九州において発達したものであったが、畿内・山陰に広がった銅鐸文化は弥生後期である。

この時代差を機内勢力が伸長して、青銅器の鉾や剣を鋳造しなおして銅鐸にしたとみるのか、あるいは機内が日本海などを経由して独自に輸入したとみるかによって全く違ったものとなる。

 井上光貞は畿内にある甕棺墓は幼児を葬ったものが多いが、九州では甕棺・支石墓・箱式石棺などに成人を葬っている。成人のために墳墓・古墳・を作る畿内の風習の起源は北九州に求めるべきであろうと言っている。

 箱式石棺や遺骸と一緒に丹朱を使うことや、貝製腕輪を作ることもやがて前期古墳に受け継がれたとする。

 更に考古学上の事実から見て、弥生後期に北九州の政治勢力が東に移動して機内に勢力を構えた可能性は、極めて濃厚であると言いきっている。

 

森浩一は「弥生時代の大和には墓の中に鏡を入れた例は一つもない。

まして鏡・武器・玉・武器などを一緒に墓に入れるなどという風習はないとして、以下の鏡出土のデータを示している。

 

 弥生時代の九州     

平原古墳    39面

三雲古墓    35面

須玖岡本    32面

南小路古墓   22面

井原古墓    21面

弥生時代の奈良  0面

古墳時代の奈良

椿大塚山古墳  36面

佐味田古墳   36面

新山古墳    34面

丸山古墳    31面

 

古墳時代に入り、突然鏡や勾玉や鉄製の武器などが入ってくる。これに対して九州、特に福岡・佐賀では弥生時代の中頃から、墓に鏡と玉と銅や鉄の武器を入れる風習があった。これは近畿より三百年も早い。

 したがって弥生時代の九州にいた支配者層が、東に移って来てヤマトの支配者になり、前方後円墳を作る流行が始まったという仮説が成り立つといっている。

(日本神話の考古学)

 宇佐神宮託宣集によると大神氏が大神宮、宇佐氏が少神宮に任じられたとある。大神比義は数々の奇跡を起こし、その年は五百歳とも八百歳とも言われていたとある。

宇佐氏の伝承・記録によると、比義に神宮の実権を簒奪されたかの如くに論述している。長大な年齢伝承は上代の頃の事であるので、常識に掛からないのは仕方ない事なのであろうか。人間離れした比義の霊力・神通力が次第に神格化されていった結果なのだろうか。

 宇佐氏の口伝によると、神武の舟軍は豊後水道から佐伯湾に入り番匠川に駐留しようとしたが、海部郡のタジヒナオミを首長とする兎狭族の激しい抵抗にあって上陸できなかったという。

 そこへ漁師のウズヒコという者が、兎狭族の宗主宇佐津日子に帰順を説得し、神武軍の折衝の結果、兎狭族の本拠に神武を迎え、軍兵は宇佐川の畔に駐留することになったとしている。そして天皇と侍臣には住居と食事を提供し、軍兵は宇佐平野を開拓して屯田制とすることにした。

 

 宇佐津日子は妻の宇佐津姫を神武の寝所に侍らせ、帰順の意を表した。これは当時の風習として、友好を保つ最高の歓待であった。宇佐津姫は神武の子を宿して、宇佐津臣の尊を産んだ。

 紀が編纂された八世紀に、宇佐家はこのことを憚り宇佐津姫は勅命によって、侍臣の天の種子の尊に嫁がせたと捏造して公表した。その為に紀ではその通りに記述したのである。天の種子は文字通り、天孫の種を表したものである。宇佐家系図にもその通りに記載してある。

 宇佐津臣の尊は臣の姓を授かって臣籍に降下し、稚屋と呼ばれ宇佐津日子の尊の孫として系図に記載された。神武は宇佐に四年のあいだ、留まりさらに東征するときに宇佐津姫を随伴した。

 筑紫の岡田宮に一年、安芸の多祁理宮に六年留まって巫女として奉仕し、この地で神武の子三諸別命を生んでいる。まもなく宇佐津姫は病気になって亡くなり、神武もまた一年後に病気により死亡した。

 遺体は宇佐津姫を葬ったと同じ伊都岐島の山上の岩屋に葬ったという。いまの広島県の厳島(宮島)である。宇佐国造家の伝承の山上の岩屋とは、この地の弥山頂上に幾重にも重なっている大岩石の下ではないかと考えられる。厳島神社の祭神は宗像と同じ三女神である。

 先の椎根津彦の件は、早吸の門を豊予海峡に比定したことを前提にした解釈である

が、早吸の門を明石海峡とみる説も少なくない。田中卓はこれを明石海峡として、椎根津彦は大阪湾を支配する、海部の首長であったとしている。

 畿内には 饒速日または 饒速日と大巳貴の連合政権があり、長髄彦が陸軍の将軍であり、椎根津彦は海軍の将軍であったとみている。椎根津彦はいち早く神武に帰順し、海路の案内をした功績により後に大和国造に任じられたという。このことは大倭氏の古伝であった。

また籠神社に伝わる国宝の系図に現れる「倭宿祢」は椎根津彦のことであろうと推測している。なお「大倭神社注進状裏書」には「椎根津彦が難波の海で釣りをしていると、磐樟船が流れて来て光り輝いていた。

その宮代を武庫浜に建てて磐樟船を蛭子の神体として奉斎した、これが廣田西宮三良殿である。」との記事がある。田中はこの蛭子は「蛭」ではなく、日女(ひるめ)に対する日子(ひるこ)であり、すなわち饒速日のこととしている。饒速日の「饒」と「早」は美称であろうという。蛭子を御子の数に入れると、天孫系の主流が物部氏に移ってしまうことを、嫌ったために作為したことであると論じている。

紀に「名草戸畔を誅す」と、出ている名草戸畔は名草姫の事といわれている。名草姫は和歌山市の中言神社に祀られている。海南市には神武と名草姫との戦いの伝承が残っている。名草姫は神武軍に殺され、頭、銅、足が切り離されたので、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社にそれぞれ葬ったという。

また熊野市二木島も、暴風にあった神武が楯が崎に上陸した、里人は難破した神武たちを必死で助けたという伝承を伝えている。室古神社と阿古師神社には、そのことを伝える競槽の神事が今も残っている。(日本建国史)

 

 神武は二世紀の中頃の人物であった。神武が亡くなった後は兄の景行天皇(原文のまま)が継承して九州を親征したとの説もある。(古伝が語る古代史)

 出雲の富家の伝承では神武は七世がいて、最低でも防府、河内、熊野の三か所で死んでいるとしている。防府で死んだという話は、宇佐家の伝承の安芸とさほど離れていないことから何らかの関連性を窺わせる。神武は恐らく安芸で死亡したのだろう。

 記の説話では神武は熊野で大きな熊に出会って失神したとしている。これに対して富氏の伝承は単に病気で死亡したとしている。

 

これに傍証となる話やエピソードを付加しておらず、この素朴な伝承が却って信憑性を伝えてくる。また伊都岐島の山上の岩屋に葬ったという説話にも、何らの作為が加えられていないことからも口伝の確かさが窺われるようである。

 石上神宮の鎮魂祭では、神職が神武は熊野で亡くなり、このタマフリの神業で蘇ったという。このことは神武は死んだが、後継者が即座にその名前を世襲したということではなかったか。

 宮崎県高原町の霧島六社権現の一つ狭野神社は、日向三代の夫婦神と神武を祀っている。佐野神社の近くに皇子原神社という小さな祠があり、ここで神武は生まれたという。狭野には神武が生まれた場所を示すという「産場石」があるほか、胎盤を捨てた血捨之木という字名がある。

 東征の時に渡った「佐野渡」馬を献上した「馬登」や見送りをした「鳥居原」の他に皇居があったという「宮之宇都」の字名もある。さらに高原町には皇子原や皇子滝などの地名もある。(天皇家のふるさと日向を行く)

 神武が熊野で死亡したとする説は、上記のように幾つかあるが前之園亮一の次の論証も、関連性を持つものとして考証の列に加えてみたい。

 

記によると日向から熊野までは「磐余彦」と呼ばれ、熊野から大和までは「天つ神の御子」と呼ばれ、即位後の皇后選定の物語では「天皇」と呼ばれている。このことは元々無関係の三つの物語を繋ぎ合せて、神武の一連の物語が作られたことを示している。本来的な伝承は「天つ神の御子」と呼ばれる神武の熊野踏破と大和平定の物語であろうという。

 三つの物語に分解することは鋭い指摘のように見える。記の記述では神武が熊野村に着いた時に、大きな熊が現われて神武と兵士たちは皆気を失ったとある。神武の軍勢は深い森林の中で、敵の奇襲攻撃を受けて壊滅的な打撃を被ったのであろう。記はこの段で「磐余彦は忽ちにして気を失った。」と書き、すぐ次の文章からは「天つ神の御子が伏したまえる地にいたりて献りし」とその呼称を変えている。

ここから後は「磐余彦」とは記さずに「天つ神の御子」と呼んでいるのである。すなわち神武は、ここで死亡したとする伝承があったことを示しているのであろう。

 

高天原とよく似た地名の高原(たかはる)(九州)は、どうしても気になる存在ではある。実際に同町の岩瀬川の近くには、高天ヶ原神社不動院が鎮座している他、小岩屋の地名が残っている。

 隣接する小林市には岩戸神社や大王の地名がある。また岩瀬川を北に渡ると野尻町になり、高都万神社、高妻神社、三ケ野山などの神話に関するかと思われる名前がある。岩瀬川を下ると大淀川になり橘の小戸に出られる。

 高千穂町には天の岩戸神社、天の岩屋、高天原(遥拝所)岩戸川、雲海橋、天の香山、真名井の滝、天の安河原があり、注文が揃いすぎている嫌いがある。後世に付会された匂いのする高千穂よりも、高原町の方に素朴な魅力を感じてしまう所以である。

 鹿児島県国分市に宮浦神社があり、ここは神武が東征前に宮としていた所とされている。

またこの地は神武四兄弟が東征に出発したところという伝承がある。ここから出発し、日向の美々津の立磐神社に寄ったのではないか。(天皇家のふるさと日向を行く)

 後に梅原猛は「出雲神話を問い直す2」で次のように述べている。「神々の流懺」を書いた時には出雲神話は、それにふさわしい遺跡がないことで虚構であるとの視点に立っていた。

だがその後、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡が発見され、後者では三十九本の銅鐸が発見された。この事実は先の視点の再検討を迫るものであった。そして「天皇家のふるさと日向を行く」を書き、日向神話は歴史的事実と考えざるを得ない幾多の証拠を見つけた。

それらの日向の遺跡などは、間接的に神話を裏付けるものであり、日向神話が書かれた後に作られたものとは到底思えない。

 日向神話が歴史的事実を反映しているとすれば、当然出雲神話もまた歴史的事実を反映しているのではないかと思わざるを得ない。私が多くの古代史学者と共に信じていた出雲神話を、虚構とする前提そのものが誤っていたのである。誤りはできるだけ早く改めなければなるまい。

 として潔く自分の誤りを認めたのである。誤りかどうかは兎も角、中々自分の誤りを認める学者がない中で、この態度は誠に立派なことと思う。

 富氏の伝承によると「神武は九州から攻めて来て和解すると見せかけては出雲人を次々と殺していった。まことに陰険であり残忍であった、王の富の長髄日子は傷つき、大和を神武に譲って出雲へ退き出雲で亡くなった。出雲人は大和、出雲、北陸、関東、東北などに分散させられた。神武から数代の王は反乱を防ぐために、出雲の王家の娘を妻に迎えた。」としている。

 

 高天原を、後に邪馬台国となった筑後の山門郡に比定する説もある。その地は筑後川の下流域であって皇室の祖先はそこから進発して、日向西臼杵郡の高千穂に降臨した。山門に残った勢力が後に邪馬台国を建国した。邇邇芸の降臨は神武の東征の史実の神話化に他ならない。

 高千穂は東征の経路にあたり、そこには熊襲の豪族が住んでいたが神武に帰服したとみる。そのころ畿内は第一次東征軍の饒速日と大巳貴族の連合政権によって支配されていた。

 その勢力は南は紀伊、北は丹波にまで及んでいた。出雲族(天の穂日の後裔)の本拠地は三輪山を中心とした畿内にあったが、神武の侵入の頃に出雲へ移住しそこに勢力を張った。出雲にはオミツヌの神の勢力があったが、出雲族はこれを駆逐し、あるいは習合し勢力を拡大した。(日本国家の成立と諸氏族)

 昭和初期に文部省は記紀や延喜式に基づいて、神武の聖跡を調査しその伝説地に顕彰碑を建設した。

だが高千穂の宮や足一騰宮は、調査の結果證十分でない為、遺憾ながら聖跡の箇所を決定し難いとして、顕彰碑を建てることを見送った。顕彰碑を建てた所が、19か所、決定を見送った聖跡は12か所である。(文部省神武天皇聖跡調査概要)

神武東征譚は史実ではなく、何人かの伝説的人物の説話を接合して、一人物の事績としたとするのは松前健である。

神武の名前も三人の人物の名前を重ね合わせている。イワレは磐余の首長を指し、狭野命、若御毛沼命、豊御毛沼命は熊野と結びつく名であり、彦穂穂手見は山幸彦の名前である。松前は本来のイワレビコに他の二人を結びつけたのだろうと言っている。神武の熊野山中での失神の話は、熊野の神の死と復活の霊験説話であるとも論述している。

 神武伝承は朝廷が日向神話を採用した後に、隼人の墳墓やゆかりの地を朝廷に結びつける必要によって生み出された物語である。

 松前はイワレビコヤや饒速日の伝承の成立は、六世紀中葉の継体朝頃であろうとする門脇禎二の説を肯定しているようだ。

 

 イザナギの矛によって生まれた大八島国であるが、九州が銅矛圏であるのに対し、大和は銅鐸圏であるが銅鐸の説話が一片もないのを不審とするのは、古田武彦である。

 古田は淡路島が国生み神話の故郷であるとする説にも異論を唱える。

淡路島は銅鐸と銅矛の混合だから銅鐸を主とした説話になって然るべきと考える。紀には別の伝承・一書が58個も出ているが、神武以降はぴたりとなくなる、(一に云うという形式のものは現われる)このことは紀の成立以前に、11個くらいの神話を記録した古典が成立していたことを物語っているという。

 結論として天皇家の主導する勢力が、全く祭祀の異なる銅鐸勢力を一掃・根絶せしめたとしている。(盗まれた神話)

 さらに古田は畳みかけるように、神武と兄のイツセが協議した宮殿を筑前としてこの二人は統治していたとは記されていないから、辺境の豪族の一人として筑前にいたという。

これは受け入れられる鋭い考証といえる。その地で二人は自分たちの思うような統治・政治ができず行き詰まりを感じていたのかもしれない。主流派ではなく少数派であった可能性もある。

 三世紀は邪馬台国の時代であるが、古田武彦は三世紀から四世紀への倭国の連続性・同一性は疑えないとしている。倭国の中心が筑紫から大和へ移転などがあった場合、積年のライバルである高句麗がこれを知らない筈はないという。知っていれば好太王碑の文面に表れている筈だと述べている。更に倭国の宗主国にあたる南朝、その東晋朝の史書にもそのような記事がないことを挙げている。

 

 森浩一は神武陵と銅鏡について次のように述べている。

 「7世紀には磐余彦の陵があったのは事実とみられる。好太王の碑から実在性は別として、五世紀には始祖王として想念されていた。王の実在性が想念されるにつれて陵が移築か新造された。

 いわゆる神武陵は高句麗の始祖王の影響を受けて新造されたと考える。銅鏡副葬や大量生産技術や超大型銅鏡への固執なども、北部九州西地域とヤマトとは直線的に結ばれている。」(記紀の考古学)

 神武が攻略した大和の磐余(石村)の旧名は、「片居」或いは「片立」と呼ばれていた。神武が攻略後はその土地の名を磐余に変更した。川崎真治はヤマトやイワレという言葉は弥生時代からあったもので、紀にある記事は真の過去を伝えていると受け取って良いという。

 さらに川崎は言語学を駆使して、神武は犬をトーテムとするアーリア系狗加であり、馬をトーテムとするアルタイ系馬加の現天皇家とは血がつながらないと論じている。(混血の神々)

 

 

 新編古事記

 

 伊波礼毘古(神武)は兄の五瀬と高千穂の宮で協議した。いずれの地に行けば繁栄出来ようかと相談の結果、東の豊かな国を目指すことになった。

 まず日向を発って筑紫に向かって行った。豊国の宇佐に着いて、その地の豪族との戦いに勝利した後、和解し宇沙比古、宇沙都比売の二人が足一つ上がりの家を作って提供した。

 そこから移り筑紫の岡田宮に1年程居た。又そこから安芸国に行ったが、土地の勢力に阻まれて進めず多祁理に7年留まった。

 長兄の五瀬は安芸において病気になり死亡した。次に吉備に進んで高島に8年の間留まった。

吉備を発って速吸門まで来た時、船に乗って漁をしている者に出会った。このあたりの航路に詳しいという海人族である。

名前は棹根津彦といい、伊波礼毘古の軍備を見て叶わないと思い、従うこととして先導役を担った。棹根津彦は後に倭国造の祖となった。

伊波礼毘古は浪速の渡りを経て河内湾の白肩津に泊まった。この時、登美の那賀須泥毘古が軍勢を揃えて待ち構えていて戦いとなった。伊波礼毘古勢は船の中から盾を取り出して闘ったのでそこを盾津という。いまは日下の蓼津という。

 

 この戦で次兄の稲氷は手に登美毘古の矢を受けて負傷した。稲氷は私は日の神の息子なのに日に向かって闘ったのが良くなかった。

 これからは日を背にして闘うと言って、一旦退却して南へ迂回した。その時手の血を洗った所を名づけて血沼海という。さらに紀の国の男之門に至った時、雄叫びを上げながら死んだ。墓は紀国の竈山にある。

 

 

 

 

八咫烏と高倉下

 

 八咫烏は鳥ではなく神、すなわち人間である。他の文献にはあまり記されていないことだが、古語拾遺によれば八咫烏は賀茂の県主の遠祖であり、神武の籠を導いたことになっている。富氏の伝承では八咫烏は朝鮮からの渡来人で「カラの子」と呼んでいたという。

「神皇正統記」では神魂の命の孫、武津之身命が大烏となって軍の先に立った。

神武はほめて八咫烏の名前を与えたと記述している。

古田武彦によると「山海経」や「史記五帝紀」などに、「湯谷」の記事があるという。そこには「日は初め東方の湯谷に出ず」とあり、そこには太陽の中に三本足の烏がいるとされている。千葉、埼玉、東京の「の谷」領域の神社では、三本足の烏がシンボルとされ祭儀の中心となっているところが今でも少なくない。と湯谷と東京の関連性を窺わせる見解を述べている。(失われた日本)

 

 先代旧事本紀では高倉下の別名が、天香語山命でホアカリ 饒速日)の子としており、手栗彦命は天香語山が天降った後の名であるとしている。また天香語山は饒速日に従って、天降り紀伊の熊野村にいたと記している。「熊野山草創由来雑集抄」も香語山命は高倉下の別号と記している。

 「熊野伝記」をみると、熊野記に云うとして 饒速日の子が高倉下であるとしているほか、手栗彦命の元の名は天香語山であると語っている。

 記・紀成立以前の古神社で判明しているものは、千六百余社でその半数は分社か勧請によるものである。それを除くと四百余社が残るが、中央の圧力により強制的に記紀神話の祭神に変えさせられた神社が多い。(記紀解体)

 

 

 新編古事記

 

 伊波礼毘古軍は次兄の稲氷が戦死したことにより、御毛沼が伊波礼毘古と共に指揮を執る事になった。

熊野の高倉下との和合が成立し、高倉下が太刀を持って部下とともに加勢したので劣勢は一気に挽回出来た。

 高倉下は熊野山中の道に詳しい八咫烏を味方に引き入れ山道の先導役をさせた。

八咫烏の後について行くと吉野の川尻に到った。

 そこで竹網で魚を取っている人に出会った。土地の者で名を問うと贄持之子と名乗った。

また暫く行くと光る井戸の中から尾の生えた人が出てきた、国津神の井氷鹿といい吉野の首の祖である。

 山に入って行くと、岩を押し分けて尾のような毛皮を身に付けている人が出てきた。これは土地の豪族で岩押分之子といい、移動に協力することに合意した。吉野の国栖の祖である。そこから宇陀に至った。

 

 

 兄宇迦斯兄弟と伊勢津彦

 

 天神地祇あるいは天津神・国津神と呼ばれる区分は、九州の一定地方(高天原)を根拠とする氏族が天神系で、それ以外の地方に番居する氏族が地祇であろう。(田中卓) 

伊勢国風土記によれば、伊勢の地神であった伊勢津日子は原出雲系であった。神武が熊野に侵攻したときに従っていて、後に出雲族とされる天神系の天日別は、標の剣を賜り命令を受けて伊勢津日子を攻めた。

 日別が国を譲るかと問うと、伊勢津日子は既に長く住んでいるといい拒否した。

日別けが伊勢津日子を殺そうとすると、伊勢津日子は国を献上し自分は立ち去ると言った。伊勢津日子は信濃に住まわせたという。

 風土記はもちろん朝廷の命令により、」編纂されたものである。だが膝下で編纂された記・紀と違って事前に検閲される可能性は低いので、より忠実な伝承を取り入れてあると考えられる。

 このくだりは大国主の国譲りとそっくりであり、何らかの関連性がありそうだ。この説話はどちらが先に成立していたのであろうか。また先代旧事本紀では伊勢津日子は後の武蔵の国造になったとしている。

 別に、原出雲族は安房や武蔵にも進出し栄えていたとする説もある。

 

 

 新編古事記

 

 宇陀には兄宇迦斯・弟宇迦斯という豪族がいた。御毛沼は八咫烏を遣わして神の御子に仕えるかと問わしめた。兄宇迦斯は八咫烏に向けて矢を放ち、その鳴り鏑の矢が落ちた所を鏑前という。

 兄宇迦斯は軍勢を集めて戦おうとしたが思うように集まらなかった。このため御毛沼に仕えますと嘘を言い、罠のある御殿を作って迎え入れようとした。

 その時、弟宇迦斯が来て御毛沼に罠があると内通・忠告した。

 大伴の連の祖の道臣命と久米直等の祖大久米命の二人が、兄宇迦斯にまず自分で入って忠誠を示せといった。

 鉾をしごき、弓を引き絞って兄宇迦斯を中に入れた。兄宇迦斯は自分で作った罠につぶされて死に、道臣命と大久米命とはその体を斬り散らした。

 其処を名づけて宇陀の血原という。

 

 

 戦時の歌謡・久米歌

 

 戦の度に久米部がつくった久米歌を歌って戦意の高揚に勤めたようだが、これ等の歌は当時歌われたものかどうか認定しがたい物もあり、またその意味の取り方も様々に解釈されている。

 田中勝也は久米氏を、南九州の肥人を民族の源としていると考えられ、隼人と並んで南九州に早くから定住した民族であるといっている。

 

 忍坂(桜井市)の大室に至った時に、尾の生えた土蜘蛛が大勢待ち構えていた。

 ここで、 饒速日が登場し帰順するのは記も紀も同様である。「物部社縁起」では、登美毘古ではなく、紀と同じ長髄彦を登場させその間の状況を詳しく物語っている。

 また「物部社境内一之瓶社縁起」には、「物部大明神宇摩志麻治命は 饒速日の御子にして、長髄彦との戦の時に大功があったので、石見国を賜った」としている。

 隼人と同系と言われる久米一族は、顔に刺青をしていたであろう、鯨面分身である。まなじりを青くしていたと思われる。

 阿多は鹿児島県の西南部一帯の古称で阿多隼人の根拠地という。いま日南市にも「吾田東」「吾田西」がある。

 

 

 新編古事記

 

御毛沼は八十膳夫を設け土蜘蛛に御馳走を与えた。給仕には、密かにそれぞれ刀を持たせておいて、歌を合図に斬りかからせた。やがて久米歌が聞こえ、一斉に土蜘蛛を斬り殺した。

 その後に登美毘古を撃つ時にも久米歌を歌った。また兄師木・弟師木を撃つ時にも久米歌を歌った。

 その後に適わぬとみた饒速日は、和解を申し出て天津御璽を献上した。

 饒速日が登美毘古の妹を娶り産んだ子は宇麻志麻遅命・物部の祖である。

御毛沼は日向に帰り、伊波礼毘古は荒ぶる土地の豪族を討伐し畝傍の橿原の宮で近隣の国を支配した。

 

 

 伊須気余理比売の結婚

 

「三輪の大物主の神が、三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売を見初めて、比売が糞をひる時に丹塗矢になって便所の下の溝へと流れて行き姫のホトをついた。比売はその矢を床の辺に置いておいたところ、たちまち青年になったので性交した。生れた子は富登多々良伊須須岐比売命又の名は比売多々良伊須気余理比売という。」

これは記が大神神社のエピソードとしているが、この話と同様の逸話は山城国風土記(逸文)にもあり、そこでは上賀茂神社の神の事として語られている。

この丹塗矢伝説を証明するような木製の遺物が、1980年に福岡市で発掘されている。

この板は幅5センチ、厚さ約1.5センチで、丸みを帯びた先端はスキー板のように少し反り返っている。この板の先端部には線刻で女性器が描かれ、隣接して矢が描かれている。

その矢の先端は女性器に接していて、突き刺す寸前となっている。この板絵を菅谷文則は古墳時代のものと推測している。

 

 

 新編古事記

 

 伊波礼毘古命が日向にいた時に阿多の小椅君の妹阿比良比売を娶って産んだ子は多芸志美美命、次に岐須美美命である。

 さらに皇后を探していると大久米命が、神の子と云う美人がいる。三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売を、三輪の大物主の神が見初めて比売が糞をひる時に矢になって便所の下の溝から流れて行き姫のホトをついた。

 比売はその矢を床の辺に置いておいたところ、たちまち青年になったので性交した。生れた子は富登多々良伊須須岐比売命、又の名を比売多々良伊須気余理比売という。

 

 ある時、倭の高佐士野を7人の乙女が歩いていた。そのなかに伊須気余理比売がいた。伊波礼毘古は先頭にいる伊須気余理比売を選び大久米命に指示した。

 大久米は比売に会ったが、その裂けている目を怪しんだ。伊須気余理比売の家は狭井河の河上にあった。

 伊波礼毘古は家を訪ねて一晩泊まった。結婚し生まれた子は日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命である。

 

 

 多芸志美美命の反逆

 

 森浩一は、古墳前期の実態は大和が強力な軍事力を背景として、日本の各地を服属させたのではなく、各地域はそれぞれの政治性と生産性を保持しながら、一つの信仰で結ばれたと述べている。

 更に大和を頂点とした政治・信仰網を作り出し、それによっていらざる騒乱を避けることができたのであろうとしている。

 

 

 新編古事記

 

 神武天皇が死んだ後、その子で異母兄の多芸志美美は伊須気余理比売を娶り、三人の弟を殺そうとした。

 これを憂えた母の伊須気余理比売は歌を贈って子達に教えた。神沼河耳命は兄の神八井耳命に武器を持って行き、多芸志美美を殺せと指示した。

 

 神八井耳命は多芸志美美命を討つ時に手が震えて討てなかった。神沼河耳命は兄の武器を受け取り、討ち入って多芸志美美命を殺した。

 これを見て兄は、今後は弟の神八井耳命に仕えると約束した。神八井耳命の子孫は多の臣大分君、阿蘇君、筑紫・伊予国造・信濃国造、陸奥、常陸、伊勢などである。

 

 神倭伊波礼毘古命(神武)は一説には、百三十七歳と伝えられている。その墓は畝傍山の東北かしの尾の辺りにある。

 

 

 銅鐸は祭祀に使う楽器だった?

 

 銅鐸について注目すべき見解を述べたのは森浩一である。魏志倭人伝に、銅鐸が全く出てこない理由について考察し次のように述べている。著者の陳寿は東アジアの祭りには強い関心を持っていたので、銅鐸を知っていれば書き落とすとは考え難い。

銅鐸の分布は主に中国・四国よりも東であったので、倭人伝に出ている倭人社会の範囲とは異なるとも考えられる。だが北九州でも小銅鐸や鋳型などが出土しているので、卑弥呼の頃にはもう銅鐸は使われていなかったと思われる。

銅鐸の消滅については、鉄器文化の急速な浸透により銅鐸文化・共同体が破壊されたとする説や、埋納は廃棄とする説、地中保管とする説が出ている。この銅鐸の一斉消滅の理由として、鏡にとって替られたとする説が提起されている。

 

銅鐸は主として畿内に分布していたとみられているが、小銅鐸の起源は朝鮮半島に見出すことができる。平壌市や大邱市で小銅鐸が発見されている。銅鐸は北九州から出雲・畿内に波及し次第に大型化していったとみられる。

 神武天皇或いは九州勢力の東征は長年に亘ったが、結果的に成功した理由には武器・装備の優位性があった事は容易に想像できる。銅鐸を祭祀に用いていた内側は銅剣・銅矛を使用し、九州側は殺傷力の高い鉄剣を使いこなしていたのだろう。

 銅鐸の本来の使用目的は未だにはっきりとは分っていない。一般に祭器視されているが、それもどのように使われたのか具体的な事は解明されていない。考古学会は確たる裏づけのない断定・推定を極端に嫌っているようだ。

 

 当時畿内では神意を占い窺う時に、琴の替わりに銅鐸を用いたのではなかったか。豊作を祈る時や収穫際の時にも使われたのであろう。また葬儀の時にも祝詞を挙げながら、現在の木魚のように使われた可能性もある。親族の泣き役の変わりに用いられたかもしれない。

 一昔前の物干し竿のような物にぶら下げて、木琴を叩くステック状の棒で叩いたのだろう。頭頂部に開けてある大きめの穴は、何かに吊り下げる用途とみて差し支えないだろう。大小の銅鐸を順に並べて独りの奏者が叩いたとも考えられる。叩く場所を上下に移動させる事によって音階を作り出していたのだろう。

銅鐸の発見が個体ではなく、ある程度のまとまった数が同じ場所から発見されているのもこの事を裏付けている。ステックは木であったために、腐って後世には残されなかった筈である。

 

 続日本紀元明天皇の714年条に、大倭国宇陀郡で銅鐸が発見された記録が残されている。それによると高さ三尺、口径一尺で、作りは異様だが音色は律呂に適っている。その為か雅楽寮に収蔵させたとしている。

律令時代にはまだ銅鐸の使い方が知られていたようだ。支配権を握った九州勢力によって、祭祀・葬儀の方法を強制的に変えさせられ、用を成さなくなった銅鐸は、いつか復活する日を夢見て祭祀場の近くに埋納されたのだろう。宗教自体が新しいものにとって代わったといえる。

合理的な解釈と言えるのではないだろうか。また銅鐸はいつも出雲系の氏族がいた土地から出土するので、三輪山信仰に関りがあるとする論者もいる。梅原猛は鏡祭祀が、銅鐸祭祀を征服したと推考している。しかし記紀には、稲作の祭りや神託を乞う際に銅鐸を使ったとの記事はない。

鏡はアマテラスを岩屋から出す時や、貴人を迎える時に榊の枝に勾玉などと一緒に吊るされている。また豪族が死ぬとその墓に惜しげもなく、数枚から数十枚と副葬されている。したがって鏡は魔から死者の世界を守る、邪を払う祭器と考えられていたことは確かである。

 

寺澤薫は銅鐸の起源を中国として、陰陽思想が込められた稲作のマツリ道具で、近畿を中心として北九州から中部地方にまで分布していたとしている。銅鐸の絵にサギがいる絵、いない絵、角のある鹿の絵、角のない鹿の絵などが、一年を二分する農業歴に関係し、また邪と呪縛の機能を表している。年に二度の農耕のマツリに際し、荘厳の音と光を発する祭器にとどまらないと論じている。

何本もの銅鐸をぶら下げれば、風に揺れたり、叩くたびに揺れて銅の持つ鈍い光が、太陽光を反射してキラキラ光ったことだろう。

 谷川健一はこれまで銅鐸は稲作の豊穣祈願の祭祀に用いると思われていたが、それなら銅鐸を地中に埋めておくことはあるまいと次のように論述している。「揃って地中に埋納されているのには意味がある筈である。

 銅鐸は地霊を鎮めるために、山や海と村との境に置かれたのかもわからない。伯耆国の東伯郡や因幡国の鳥取市などから銅鐸が出土している。ここでは計ったように25キロメートルほどの等間隔で並んでいる。

 これは弥生時代の村落の境を示しているのではなかろうか。」

 つまり谷川の考察では村に外来の災いが入ってこないように、賽の神(道祖神)の役割を担っていたのであろうとしている。

 谷川は銅鐸の出土地は由緒ある古社と関連があり、製作者は伊福部氏と関連しているとみている。神社の境内には古墳が多くみられることから、古墳の主を祀る所から神社は出発しているとみる。

 この事実がある以上、神社の起源は弥生中期まで遡ることになる。土地の霊を祭る祭祀から、祖霊を祭る祭祀に移行していったが、その間の信仰には断絶はなかったという。

 

 

 綏靖天皇

 

 神武天皇の後の八帝すなわち綏靖・安寧・徳・孝昭・考安・孝霊・孝元・開化天皇は、実在しないと架空説を唱える研究者は多い。記紀にはこの八帝の事績が殆ど記されていないことも根拠の一つとなっている。

 前之園亮一は主として和風諡号の研究から、神武から開化までの九代は実在ではなく神代の神であり、次の崇神・垂仁は中ツ代の半神半人であると述べている。開化までと次の崇神の時代では、諡号も皇居や陵の位置も大いに異なっている。九代は神々であるから、葛城王朝から崇神王朝への交代は当然なかったと論じている。

 

 これに対して津田左右吉は八帝の名は帝紀にだけ記載があり、旧辞には載っていなかった、記紀は帝紀と旧辞を繋ぎ合せて論述されているから、このような結果になったとしている。

 井上光貞は八帝の名前はヤマトネコなどの部分が後世的であり、八世紀の天皇の名前と著しく似ていると言っている。更にこの八代の天皇の系譜はきれいに父子となっているが、後世の皇位継承をみると極めて複雑なものとなっていて、父から子へという単純なものではなかったと論じている。

 兄弟が次々と皇位を継ぎ、次の世代には嫡長子たる長兄が優先するという二つの原則があったという。

また系譜をみれば末弟が皇位を継いでいるケースも多い。田中卓は九代架空説の諸氏の論法を悉く論破して実在説を証明している。記紀編纂者は九代を二十代にも三十代にもすることができたはずである。

それをしなかったことにより、各天皇の年齢を過大なものにする不合理さえも冒しているが、この歴代数に動かし難い理由があったに違いないとしている。

姻戚関係をみると神武、綏靖、安寧の三天皇は事代主の系統の娘を妃にしている。また次の徳、孝昭、孝安、孝霊天皇は磯城県主や十市県主などと婚姻を結んでいる。これらの氏族はいずれも畿内の既存勢力であろう。

このように初期の妃は、殆ど土地の豪族・臣下の子女から出ているが後には天孫系統・皇別から多く出ている。

古族の物部氏や他の緒家も祖先の系譜を伝えており、この間の代数は記・紀と大同小異であり、記・紀の系譜の代数を古くより承認していたとみている。他の豪族と違って皇室には氏がないことも、断絶がなかった証拠である。首長のことは、ただ大王と言えばそれで通じていた筈であり、大神といえば三輪の神を指していたのと同様であると述べている。

 

 

 新編古事記

 

 神沼河耳命は葛城の高岡宮に住んで天下を治めた。磯城の県主の祖、河俣毘売を娶って産んだ子は師木津日子玉手見命一柱のみ。

 天皇の年は四十五歳。墓は衝田岡にある。

 

 

 安寧天皇

 

師木津日子玉手見命は片塩の浮穴宮に住み天下を治めた。河俣毘売の兄、県主波延の娘、亜久斗比売を娶って産んだ子は常根津日子伊呂泥命、次に大倭日子鋤友命、次に師木津日子命三柱なり。

 

 師木津日子命の子は二柱あり。その和知都美命の子は淡路の御井宮に住んだ。娘の名は蝿伊呂泥またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売妹の名前は蝿伊呂杼

 

 ともに孝霊天皇の后になった。

安寧天皇の年は四十九歳で墓は畝傍山の美富登にある。(書紀は御陰・ミホト)

 

 

 徳天皇   

 

 大倭日子鋤友命は軽の境岡宮(橿原市大軽町)に住んで天下を治めた。師木の県主の祖賦登麻和訶比売の命またの名は飯日比売命を娶って、産んだ子は御真津日子恵志泥命、次に多芸志比古命なり、但馬の竹分、葦井の稲置の祖である。徳天皇の年は四十五歳で墓は畝傍山の真名子谷の上にある。

 

 

 孝昭天皇

 

御真津日子恵志泥命は葛城の脇上之宮に住んで天下を治めた。

妻は尾張の連の祖奥津余曾の妹余曾田本毘売命で産んだ子は天押帯日子命、次に大倭帯日子国押(忍)人命の二柱である。

 天押帯日子命の子孫は、春日臣,小野臣、柿本臣、伊勢 近江、その他である。

天皇の年は九十三歳で墓は脇上(御所市)の博多山の麓にある。

            

 

 考安天皇

 

 大倭帯日子国押(忍)人命は葛城の室の秋津島宮に住んで天下を治めた。

 妻は姪の忍鹿比売命で産んだ子は、諸大吉備進命、次に大倭根子日子賦斗邇命である。天皇の年は百二十三歳で墓は玉手岡にある。

 

 

 孝霊天皇

 

 大倭根子日子賦斗邇命は黒田の宮に住み天下を治めた。妻は十市県主の祖、大目の娘細比売命で産んだ子は大倭根子日子国玖琉命一柱である。

 また春日の千々速真若比売を娶って産んだ子は千々速比売命。

また意富夜麻登玖邇阿礼比売命を娶って産んだ子は夜麻登登母々曽毘売命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘売古命又の名は大吉備津日子命、次に大和飛羽矢若屋比売である。

 

 また意富夜麻登玖邇阿礼比売命の妹、蝿伊呂杼を娶って産んだ子は日子寝間命、次に若日子建吉備津日子命である。

 大吉備津日子命と若建吉備津日子命は播磨の氷河の埼に斎部を据えて神を祀り、播磨を入口として吉備を平定した。

 大吉備津日子命は吉備の上道の臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道の臣などの祖である。

日子寝間命は播磨の牛鹿臣の祖であり、日子刺肩別命は越の利波の臣、豊国の国前臣などの祖である。天皇の年は百六歳で墓は片岡の馬坂の上にある。

 

 

 孝元天皇

 

 大倭根子日子国玖琉命は軽の堺原宮に住んで天下を治めた。妻は穂積の臣の祖内色許男尊の妹内色許売命で産んだ子は、大毘古命、次に少彦名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々命である。

 また色許男命の娘伊迦賀色売命を娶って産んだ子は、比古布都押之信命。

 また河内の青玉の娘波邇夜須毘売を娶って産んだ子は建波邇夜須毘古売命である。

 

 比古布都押之信命が尾張の連の祖意富那毘の妹、葛城の高千那毘売を娶って産んだ子は味師内宿禰。又紀国造の祖宇豆比古の妹山下影比売を娶って、産んだ子は建内宿禰である。

 建内宿禰の子は次の9人である。

 

 波多八代宿禰   波多臣 近江臣などの祖

 許勢小柄宿禰   許勢の臣 軽部の臣などの祖

 蘇賀石河宿禰   蘇我臣 などの祖

平群都久宿禰   平群臣 などの祖

木角宿禰     紀臣などの祖

久米能摩伊刀比売      

怒能伊呂比売

葛城長江曾都毘古 玉手臣などの祖

若子宿禰     江間臣などの祖。

 

天皇の年は五十七歳で墓は剣池の中の岡の上にある。

 

 開化天皇

 

 若倭根子日子大毘々命は春日の伊邪河の宮に住んで天下を納めた。妻は丹波の大県主由碁理の娘竹野比売で、産んだ子は比古由牟須美命だけ。また継母の伊迦賀色許売命を娶って産んだ子は、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命である。

 

 また和珥の臣の祖比古国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶って産んだ子は日子坐王。

 また葛城の垂水の宿禰の娘わし比売を娶って産んだ子は、建豊波豆羅和気である。

比古由牟須美王の子は大筒木垂根王、次に讃岐垂根王。この二人には5人の娘がある。また日子坐王が山城の荏名津比売又の名葉苅幡戸部を娶って、産んだ子は大俣王、次に小俣の王、次に志夫美宿禰王なり。

 

 また春日の建国勝戸売の娘沙本の大闇見戸売を娶って産んだ子は、沙本毘古王、次に袁耶本王、次に沙本毘売命、又の名は佐波遅比売(垂仁天皇の后)次に室毘古王である。

 

また近江の御上の祝が祀っている天御影神の娘息長水依比売を娶って産んだ子は丹波比古多々須美知能斯王、次に水穂之真若王、次に神大根王、又の名は八瓜入日子王、次に水穂之五百依比売、次に御井津比売。

 

 また、その母の妹袁祁都比売命を娶って産んだ子は山城の大筒木真若王、次に比古意須王、次に伊理泥根王である。

 大俣の王には二王子あり伊勢の品遅部君などの祖なり。丹波比古多々須美知能斯王は丹波の河上の麻須郎女を娶り四人の子が生まれた。緋婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命、朝廷別命である。

 

 山城の大筒木真若王が同母弟の伊理泥根王の娘丹波の阿治佐波毘売を娶って産んだ子は迦邇米雷王、この王丹波の遠津臣の娘高材姫を娶って産んだ子は息長宿禰王。

 

 この王が葛城の高額比売を娶って産んだ子は、息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王なり。

 

 天皇の年は六十三歳で墓は伊邪河の坂の上にある。

 

 

 大帝・崇神天皇

 

 崇神のハツクニシラスメラミコトの名前から肉付けをして、崇神天皇からが実在の天皇だったとする説も色々な人が唱えている。

 井上光貞は崇神王朝は、日本最初の王朝と呼ぶにふさわしい存在であるという。崇神の和風諡号は前の欠史八代と異なり、後世的な匂いがしないとして実在の可能性を認めている。

しかし井上は崇神天皇以降が全て実在したということではなく、成務・仲哀・神宮皇后の三人も実在性は薄いと述べている。崇神天皇は三世紀後半から四世紀初頭の人物と考えられるという。

 「ミマキイリヒコ」の名前から、大和(朝廷)へ他所から入ってきた別王朝説も根強い。騎馬民族征服王朝説を唱えて話題を呼んだ江上波夫は、ミマキイリヒコの「ミマ」を任那と見たが、前之園亮一はこの「ミマ」は「天孫」「皇孫」のミマで、貴種の子孫を意味する語彙であるという。

 孝昭天皇も「ミマツヒコ」と称している。「ミマキ」の「キ」も宮城の意味ではなく、人名の「キ」は墓を表していると述べている。

 

 崇神の時代は、まだ在地の倭大国魂神(大巳貴の荒魂という)の残存勢力が、侮れないほど強く残っていたようだ。紀によれば、病は多く百姓は流離し反乱もありとしている。崇神は耐えきれなくなって、倭大国魂神とアマテラスを宮中から出して別々に祀っている。

このことは征服者側が、被征服者の神を併せて祀っていたことにより、内乱状態に陥ったと見ることができる。信仰形態が違う事から強い反発を招いたものと思われる。

 一般にアマテラスの巡行は武力征討であったとされている。この時に崇神は大和周辺一帯を制圧したのだろう。それ以外の事績の一部は神武の事績として綴られた可能性が高い。

 

 出雲等の日本海地方は墳丘造営の盛んな地であった。箸墓古墳の築造に際し、この出雲の優れた造墓技術が関与していたことは事実かもしれない。また箸墓は土師墓ではないかとの説もある。

 土師氏の出自もまた出雲である。(諸王権の造形)やはりヤマトの支配勢力は出雲系であり、外部から侵入した天神系に吸収合併された可能性が強い。

 鳥越憲三郎は崇神は新しく大和朝廷を立てたとして、それ以前は葛城王朝があったとしている。崇神の出身地は纏向穴師村で兵主神社が崇神の守護神としている。また籠神社の海部氏の伝承では、崇神を入婿としている。このほかに崇神は任那から来たと論じる識者もいる。

 箸墓(箸中山古墳)倭迹迹日百襲姫は、記には一切出てこない。森浩一は箸墓こそが、大和にとっての実際上の始祖王の古墳と推定している。この際、ミマキイリヒコの墓とする説が浮かび上がってくるとも述べている。

 

 

 新編古事記

 

 御真木入日子印恵命は磯城の水垣宮に住んで天下を治めた。妻は紀の国造・荒河刀弁棟娘の遠津年魚目々微比売で産んだ子は豊木入日子命、次に豊入比売の命である。

 

 また尾張の連の祖意富阿麻比売を娶って産んだ子は大入杵命、次に八坂入日子命、次に沼名木入日売命、次に十市之入日売命なり。

 また大毘古命の娘御真津比売命を娶って産んだ子は、伊玖米入入日子伊佐沙知命、次に伊邪能真若命、次に国片比売命、次に千々都久和比売命次、に伊賀比売命、次に倭日子命なり。

 豊木入日子命は上毛野・下毛野君の祖なり。妹の豊鉏入比売命は伊勢の大神を祭る。

 倭日子命の時から初めて稜の周りに人垣を立てる。

 

 

 伊勢神宮の創始

 

 直木孝次郎は神宮の初めの祭神をアマテラスとするのには疑いがあるという。伊勢神宮は元々皇室の氏の神の社ではなく、伊勢地方に神威を有する地方神であったと論じている。

 瀧川政次郎は次のように推考している。神宮の別宮に当たる滝原宮は今も神域広大にして、原始林の面影を残し、久しく大神宮であったらしい。この宮における信仰の形式は、宇治山田のそれよりもはるかに古く、鎌倉時代の中頃までは滝原宮が元大神宮であるという伝えがあった。

 紀に斎宮栲幡皇女が五十鈴の河上で神鏡を埋めて、縊死される所伝があるが、滝原宮の地にその伝説地がある。神宮の式年遷宮が天武朝に定められたということは、この時に今の地に神宮の移転が行われたものらしい。

 現在の内宮及び外宮の宮域に、それぞれ輿玉社と土宮があり、何れも地主の神である。内宮・外宮の宮地が垂仁天皇以来の宮地であれば、そこに地主の神が祀られるはずがない。従って、神宮は元来滝原の地に鎮座せられていたのであり、それが壬申の乱以後、天武天皇の神助に対する報恩と太神宮強化政策によって、現在の場所に移されたのだろうという。

 以上の論証には思わず頷いてしまう説得力があるが、田中卓は壬申の乱当時には神宮が滝原にあり、天武天皇の御代に今の宇治山田の地に移されたというのは首肯し難いとする。

 滝原宮までは内宮前から車で1時間40分を要した、そこは山間の僻遠別天地であり、宇治山田の地よりおよそ15里も隔たっている。しかも滝原宮が今の神宮の信仰の形式よりも古いという事実は認められない。

 更に鎌倉時代の伝えも倭姫世紀の伝えであるとして明確に否定した。そして滝原の地は、笠縫村以下の地と同じく大神の御遷幸地の一つと考えられ、その意味では古いとしている。

 

 栲幡皇女の伝説地の件も、大神宮参詣記に「その地一の鳥居の西河の御殿もなくして…」とある鳥居を滝原宮の鳥居と勘違いしているという。参詣記の内容は皇大神宮儀式帳と一致している。従って皇女の伝説地を滝原宮に求められる、ということは信用し難いと論じている。

 式年遷宮の事もそれが移転の時期ということにはならないとしている。こうして記紀や、儀式帳にある神宮創始の古伝についての各異説をことごとく論破している。内宮と外宮は垂仁・雄略の時代に伊勢に鎮座したという伝承に、少しも疑を挟む必要もなければその余地もない、と断じている。(伊勢神宮の創祀と発展)

 紀によると崇神の時代にアマテラスの神体・八咫の鏡を、宮殿から出して各地を巡幸した後に伊勢神宮に祀ったとしている。

 松前健はこの話は後世の斎王一行の旅程と一致してあり、その斎王制度の由来話であろうとしている。或いはそうかもしれないが夢のない味気ないものになってしまう感がある。しかし松前によると伊勢神宮にある鏡は内宮・外宮それぞれにあるという。

神宮に神宝の鏡が二枚あるとは初耳である。この鏡は正殿内の御船代、およびその中の御樋代という箱に納められ衣類や衾、枕、櫛笥、履など女ものの装束一揃いがこの中に納められている。

 また神宮には心の御柱があり、内宮と外宮の正殿の床下に三尺ほど埋められ、地上には二尺ほど出ている。直径四寸、高さは五尺ほどの檜であり周りには数百枚の平たい皿を積み重ねている。

 三節祭(年に三回の重要な祭)の際には童女の巫女が供饌を行っていたが、この饌を行う大物忌はその土地の豪族で内・外宮それぞれの禰宜をしていた荒木田と渡会の二氏から出た娘であった。

朝廷から派遣されていた斎王などは参加できなかった。この三節祭や神嘗祭は真夜中に行われる秘儀である。そして松前が述べる重要な一言は「伊勢神宮の祭りと大嘗祭などの天皇の親祭による祭りとは、共通の点は何もない。」という事である。

この理由によって天皇は伊勢神宮に参拝しないのであろうか。

 またこの祭祀の状況から浮き上がって見えてくることは、元々伊勢の土地には地神がいて、独自の祭祀が行われていたが、その土地に大和朝廷が八咫の鏡を祀ってしまったのだろうという事である。

新嘗祭は日本だけの祭祀形態ではないというのは久米邦武である。「古代史疑・古代史探求」が引いているところを次に要約する。

 

 「新嘗祭は東洋の古俗にて、韓土も皆然り、後漢書に高句麗は10月に国中が天を祀る、濊も10月に天を祀り飲酒歌舞す、馬韓では夏冬に大祭があり、夫余は天を祀り連日飲酒歌舞す。」

 「三器をもって神座を飾るは天の安河に始まるたるにあらず、遥かの以前より祭天の古俗たるべし、韓土にも似たる風俗あり、鬼神を信じ天神を祭るに大木を立て鈴と鼓をかけ。」

 

 

 豪族・伊勢津(都)

 

伊勢津彦はアマテラスが伊勢に来る前に、同地に勢力を持っていたとみられる重要な人物である。信濃に行って住んだとの伝承もあり、出雲族系と思われる。栗田寛は伊勢津彦は大巳貴の子であるは明らかに知られていると言っている。

「伊勢神宮の創祀と発展」から、伊勢津彦の事跡を組み立ててみると次のようになる。伊勢国風土記逸文や古伝によると神武の時に、天日別が伊勢津彦を平定したとしている。日本書紀私見聞ではその昔、伊勢津彦は石の城をつくってそこに住んでいたとある。

 伊勢風土記では伊勢津彦は神武の時代の人として語られている。出雲神は大巳貴命と言われている。国造本紀では成務天皇の御代に、伊勢津彦の四世の弟武彦を武蔵国造にしたとしている。このことから単純に二代遡ると、伊勢津彦は垂仁の時代の人となる。

 倭姫世紀では、アマテラス巡行の時に伊勢津彦が、五十鈴河で迎えたとあり、これも垂仁朝の御代となる。住吉神代記では、太田田は神功皇后の三韓征伐に従ったとあるので、その系譜にある伊瀬川比古は単純計算で履忠天皇の時代の人になる。

倭姫世紀によると太田田と同一人物と思われる、太田命は伊勢津彦が倭姫を迎えた所に来合わせたという。系譜も他の文献と一致していないことから、別人の可能性もある。

 だが伊瀬川比古は滝原宮近くの船木に居住していたとあることに注意を払いたい。

 千家系図の天穂日命は、アマテラスの子の天菩卑命と同じとみられることから、その二世代後は事代主、建御名方の子供の時代となろうか。

また天夷鳥は天菩卑命の子で記に見える建比良鳥命のことであろう。

 武蔵国造系図をみると、天夷鳥の前に一代付け加えると、左の出雲国造家・千家系図と同じになることが分かる。

 


伊勢風土記  播磨風土記  倭姫世紀  国造本紀 千家系図  武蔵国造系図 住吉神代記


 出雲神   伊和大神   出雲神              天穂日    天夷鳥    大田田

      (三輪大神)

      (大巳貴)             

 


 伊勢津彦  伊勢津比古  伊勢津彦   伊勢津彦 天夷鳥     伊勢津彦

(出雲建子)  伊勢津姫  (出雲建子)     (出雲伊波比神)(出雲建子)   神田田

(天櫛玉)         (神櫛玉)      (出雲神)  (櫛玉)

                                       二世                神背都比古

                         櫛瓊           

                    弟武彦  (くしたま)        伊瀬川比古

                  (武蔵国造)

 神武時代  神武時代  垂仁時代 垂仁時代  国忍富時代 国忍富時代  仲哀時代   

 

神名帳考証

富氏系譜

天穂日

 

天夷鳥

 

伊勢津彦(ツガリ)

 

イサワトミ

富の長髄日子 富屋姫 伊勢津彦 伊勢津姫

 


          

 イサワトミ

 

 神名帳考証によると、イサワトミで、その子が大歳であるとしている。ツガリの別名は、伊勢津彦とも櫛玉神とも出雲速子とも言うとしている。(謎の出雲帝国)この伝えは千家系図とほぼ同じになる。

 

 神宮儀式帳によると、倭姫がアマテラスを奉戴して佐古久志呂宇治家田田上宮に居た時に、宇治土公等の遠祖、太田命が現われて五十鈴の川上に案内したとある。

 ここに現れる太田命は、そう同じ名前があるとも思えないので、神代記にある太田田と同一人と思われる。

 すると神代記の伊瀬川比古の世代は、仲哀天皇の世代となる。ところで伊勢津彦の名前を考えるに、これは伊勢の有力者・首長という意味合いととれる。田中卓も伊勢の勇者という類の普通名詞であろうと言っている。

 伊勢の有力者・豪傑・英雄となれば、一人ではなかったかもしれない。例えば親子二代続けて卓越した能力者が輩出されれば、それは共に伊勢津彦と呼ばれたかもしれないのである。

 或いは祖父と孫がそう呼ばれた可能性もあり、また僅かではあるが世襲的な名前だったと考えることもできる。いずれにしても伊勢津彦は謎の人物ではある。神代記に現れる伊瀬川比古が垂仁記の神話・説話に反映されたのであろうか。

神武の時代に敵対したのが伊勢津彦であり、垂仁期に敵対したのは在地勢力の渡会氏や磯部氏ではなかったか。

 下伊勢の梛神社は古くは伊勢神明と呼ばれ、「神考」は伊勢彦と火明命を同一神とみなしている。「神祗志料」もこの伊勢神明天照国照火明命を祀るとしている。(青銅の神の足跡)

また風土記では伊勢津彦を大巳貴系としているが、国造本気や千家、武蔵国造系図では天穂日系としている。

 大巳貴系は国津神であり、天穂日系は天神族であり基本的に系統が違う。天穂日系は後に出雲を治めるようになり国造家へと移行していく。時代は違うが、ともに出雲に覇を唱えた勢力である。

 

これは伝承に混同が見られるとして良いのであろうか。倭姫世紀(度会氏・鎌倉時代)は神道五部書であり、国造本気は先代旧事本紀(物部氏)にあり、各々編纂した氏族により性格を異にする。信を置きたいのはやはり風土記になるだろうか。風土記の編纂は朝廷から指示されたものであるが、地方のことゆえさほど圧力は強くなかったとみえケールは大きくないが活き活きとした説話が多い。

 風土記の云う出雲神は大巳貴とみられる、すると同神の系譜は伊勢津彦の父となる。風土記では伊勢津彦の時代を神武の時としているから、ちなみに神武から六世代遡ってみると、イザナギの世代になる。

 大巳貴の六世代先祖のスサノオとは、一世代のずれがあるが神話時代のこととてさほどの狂いは感じられない。

 富氏の伝承によると伊勢津彦は長髄彦の弟であり、妹が伊勢津姫となっている。ここでも天日別が伊勢津彦に国譲りを迫ったような伝えになっている。伊勢津彦は抵抗する構えを見せたが、万やむなしと見たのか大風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って東方に去ったという。

 少し抽象的で齟齬が出ないような話になっているところが気にはなる古伝である。

 

 

三輪山の大物主神

 

 紀では崇神の時に宮中に祀っていたアマテラスと、大和大国魂神の両神をそれぞれ外に出して祀ったとある。

天神系の神と国神とを一緒に宮中に祀っていたことから、崇神朝は天神系と国神系の合体あるいは吸収合併の政体であったことが分かる。

 梅原猛は崇神は日本の宗教を確立し、国家の基礎を確立したという。日本国家の宗教を被征服者側の出雲族の宗教を採用し、出雲族の反抗を抑えたとする。

 

 

 新編古事記

 

 崇神の御代に疫病が多く流行り死亡者が出て人が居ない程になった。天皇は心配していたが夢に大物主神が現れて、これは吾の意なり意富多々泥古を以って吾を祀れば国は平穏になると言った。

 天皇は四方に人をやり意富多々泥古を探し、河内の美努村で見つけた。意富多々泥古は、大物主大神が陶津耳命の娘・活玉依毘売を娶って産んだ子の櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子であると言った。

 天皇は意富多々泥古を神主として御諸山に意富美和大神を祀らせた。また伊迦賀色許男命に命じて土器を作って天津神・国津神の社を定めて祀った。また宇多の墨坂の神に赤の盾鉾を祭り、大阪神に黒色の盾鉾を祭った。また坂の上の神や川の神など、ことごとくの神を祀ったので疫病は病んだ。

 これより先、活玉依毘売は美人であったので、毎夜通ってくる青年が居てやがて妊娠した。父母は怪しんで赤土を床の前に蒔いて、男の衣の裾に糸を通した針を刺しておけと指示した。翌朝見ると糸は戸の鍵穴を通って外に出ていた。その糸をたどって行くと三輪山に到り神の社に続いていた。

 麻糸は三輪残ったので其処を名づけて三輪とした。

 

 

大毘古と奥州安東氏

 

この辺りが記のクライマックス、楽曲でいえば「サビ」に当たる章となろうか。記にあっては崇神は大毘古を越に、その子の建沼河別を東の十二国に征討に向かわせただけであるが、紀においてはここで四道将軍を登場させ説話の形を整え、崇神の事績を拡大或いは誇張している。

 さてこの当代の英雄である大毘古だが、安東氏とともに奥州阿部氏の血脈につながる秋田氏の系図には大毘古と長髄彦が記載されている。秋田氏は奥羽の豪族であり、明治には華族に列せられている名門である。

 安東氏・秋田氏は長髄彦が神武に敗れた後に、津軽に退きその地を支配したという。

 

  安東・秋田氏系図

 

     孝元天皇

 


     開化天皇   大毘古

 

            建沼河別

 

           安日王

 

           長髄彦

 

            安国

 

            安東

 

 この系図では建沼河別と安国及び安東を結んではいないが、この3人は明らかに兄弟であるとみられる。安易に三兄弟を線で結んでいないことが、逆に誠実に伝承を受け継いでいることの証左のように見える。

 この系図は明治政府の宮内省にも提出され暗黙の認証も受けているという。(白鳥伝説)

 秋田氏は天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と秋田家だけであると矜持を持って述べている。しかしながらこの言葉には少なからず疑問符がつく。

 この系図がなぜ邇邇芸命以前につながるのか、なぜ出雲国造家が天孫降臨以前なのかの説明がない。

 また安日は長髄彦の姓であるともいう。この姓を分けて長髄彦の兄を創出したという説もある。だが「安日・あび」は「阿部」に訛っていった可能性が考えられる。

 阿部氏の出自について、谷川健一は物部氏と関係が深く、蝦夷と物部氏の混血氏族であると推定している。物部氏の分布するところに重なり合うようにして阿部氏の勢力が見られるとしている。

 その故に奥羽・津軽で受け入れられ、覇を唱えることができたのか、論理は通っているかのようにみえる。紀には崇神が、「武夷鳥が天より持ち来たり神宝を、出雲の大神の宮に収むという、これを見たし。」と詔して献上させたとある。富氏の伝承では、この神宝は杵築大社ではなく、熊野大社に安置していたクナトの大神の神宝・勾玉であり、天孫続が奪ったと伝えている。(謎の出雲帝国)

 

 

 新編古事記

 

 大毘古命を越の道に派遣し、その子建沼河別命を東方の十二カ国に派遣して平定に当らせた。

 日子座王を丹波に派遣し、玖賀耳之御笠を殺させた。大毘古命が越に行く時、山城の幣羅坂で出会った少女が、御真木入日子は自分の命を狙っている者が居るのに知らないでいる、と歌を歌い消えて行った。

 大毘古命は取って返し天皇に報告した。天皇は山城の汝の異母兄建波邇安王が反乱する徴だろう、叔父上は軍勢を整えて攻めてくれといった。

 

 そして和邇の臣の祖日子国夫玖命を添えて派遣した。日子国夫玖命は和邇坂に神酒を供え、神を祀って戦勝祈願してから出かけた。

 山城の和羅河に至ると、そこに建波邇安王が軍勢を整えて待ち構えていた。その場所を伊杼美、今は伊豆美と言う。

 日子国夫玖命は建波邇安王にまず先に矢を射ろと言った。建波邇安王は矢を射たが当らずに、日子国夫玖命が放った矢は建波邇安王を射殺した。

 建波邇安王軍は逃げて久須婆の渡しに来た時、建波邇安王軍は苦痛のあまり糞をもらし褌を汚した。そこの場所を糞褌(今は久須婆)という。

 その河を名づけて鵜河とし、その辺りを波布理曾能と言うようになった。

 

 

 大毘古命の大遠征 

 

 箸墓は紀に箸陵と出ていることや築造年代などから、森浩一は箸墓古墳を始祖王・崇神天皇の墓であると仮説を立てている。この説はロマンに溢れ、魅力的な仮説である。また年代的には倭人伝の卑弥呼の子、台与の年代に当たるとしている。記には箸墓の名前や伝説は登場していない。

更に倭迹迹日百襲姫は予知能力者であり、建波邇安との戦が終わったところで死んでいる。そして大きな墓に葬られた。この二点が倭人伝の卑弥呼と共通点になると言っている。確かに倭迹迹日百襲姫と卑弥呼の年代は近接していると思われる。

後述するように雄略天皇のときを絶対年代に据えて、そこから遡ってくると倭迹迹日百襲姫の生没は、おおよそ215年~262年と類推できる。

しかしこれだけの類似点ではいかにも弱すぎるのは言うまでもない。ここでは一つのヒントとして挙げておくにすぎない。古代には巻向の辺りは出雲庄であり、大物主は大巳貴のことであるという。

 これが事実ならば大巳貴の妻はスサノオの子、或いは孫の須世理姫ではないのか。

 

 

 新編古事記

 

 大毘古命は越に行き、東より進んで来た建沼河別命と会津で巡りあったので、其処を相津と言うようになった。

 各国が平定され平和になり民衆は豊かになった。そこで天皇は初めて弓で取った獲物や織物などを税金としてとった。

 その御代を称えて初国知らしし御真木天皇という。この時代には灌漑用に依網池と軽の酒折池を作った。

 天皇の年は一説に百六十八歳といい、墓は山之辺の道の勾の岡の上にある。

 

 

 垂仁天皇

 

 垂仁の皇子からは「ワケ」が付いた名前が多くなっている。この「ワケ」については様々な説が提起されている。佐伯有清は「ワケ」は4・5世紀の大和にあって、天皇や首長の称号であったが後にカバネとなり、6世紀後半になると氏の名とするものも出てきたと論じている。

 昨今でも好まれ多用される名前は年次によって変遷が著しい。倭比売命はアマテラスを、笠縫村から各地に巡行させ伊勢に祀ったというが、記にはその間の詳しい記事はない。この姫の名前は大和の姫というだけで個人名としての固有名詞が見当たらないために架空の人物とする説もある。

 確かに倭迹迹日百襲姫、千千衝倭姫命(紀)などの名前はいかにも人名らしいが、倭日子命などもあるのでこれだけでは判断しがたい。

 

 三種の神器の一つ八咫の鏡は三枚あった。伊斯許理度売命が最初に鋳た鏡は少し不満足で和歌山市の日前神社に祭られ、二回目に居た鏡が伝誓し伊勢神宮に祀られた。崇神天皇の時に新しく鏡を復元したものが鋳られ宮中に祀られた。

 これは内行花紋鏡であると考えられ、大きさは約60センチ、重さは約8キロ位とされ、載鏡ではなく国産である。(日本神話の考古学)

 

 

 新編古事記

 

 伊久米伊理毘古伊佐知命は磯城の玉垣宮に住み天下を治めた。妻は紗本毘古命の妹佐波遅比売命で子は品牟都和気命なり。

 また他の妻は丹波の比古多々須美知宇斯王の娘氷羽州比売命で、子は印色入日子命、次に大帯日子淤斯呂和気命、大中津日子命、倭比売命、若木入日子命である。

 

 他の妻は氷羽州比売命の妹沼羽田之入毘売命、沼羽田之入毘売命の妹の阿耶美能伊理毘売命、大筒木垂根王の娘迦具夜比売命、山城の大国之渕の娘苅羽田刀弁、大国之渕の娘弟苅羽田刀弁である。

 天皇の子は16人であり多くの豪族の祖となった。印色入日子命は血沼池・狭山池を作り、また日下の高津池を作った。

 また鳥取の河上宮で太刀千振りを作り石上神宮に納めた。倭比売命は伊勢の大神を祭った。

 

 垂仁天皇が佐波遅比売命(沙本毘売)を后とした時に、その恋人の沙本毘古命は佐波遅比売に夫と私のどちらが愛しいかと聞いた。佐波遅比売がそれはあなただと答えると、それなら私と二人で天下を治めよう天皇を殺せと指示した。

 佐波遅比売は渡された小刀を手に天皇の首を刺そうとしたが出来なかった。この時、天皇は頬に落ちてきた佐波遅比売の涙により事の重大さに気がついた。

 佐波遅比売はついに天皇に企みを打ち明けた。天皇は早速軍勢を出して沙本毘古命を攻めた。沙本毘古命は稲垣を作り待ち受けた。

 佐波遅比売は懐妊していたが、恋人の元へ駆けつけ稲垣の内に籠った。やがて生まれた子を佐波遅比売は稲垣の外に出して、この子を自分の子と思うなら育てて下さいと言った。

 天皇は部下に子を受け取る時に佐波遅比売も引き出してくるように指示した。佐波遅比売はそれを読んで細工をしていたので、手をとっても髪を取っても衣を取ってもすっぽ抜けて引き出す事は出来なかった。

 天皇は佐波遅比売に子の名前をどうするかと問い、佐波遅比売は火の中に生まれたので本牟智和気御子と名づけた。佐波遅比売と沙本毘古命は此処で共に死んだ。

 

 垂仁天皇は尾張の相津にある二俣杉で二俣小舟を作り、倭の市師池・軽池に浮かべ本牟智和気と遊んだ。本牟智和気は髭が胸前に垂れる頃になっても口を利かなかった。

ある時、白鳥を見て片言を発したため、天皇は山辺之大鷹を派遣し白鳥を追わせた。

 

 白鳥は紀の国から播磨を経て因幡に行き、更に丹波から但馬に行き近江に行き、美濃に行き尾張から信濃に行き、やっと越で追いついた。和那美の水門に網を張って捕まえて帰ったが、本牟智和気はやはりものを言わなかった。

ある時天皇は夢を見て神の教えを聞いた。私の神殿を立派に作れば御子はものを言うようになるという。太占で占うとこの祟りの元は出雲の大神であると分った。曙立王と菟上王の二人を本牟智和気に添えて出雲へ遣わした。到着した土地ごとに品遅部・御名代を定めた。

 

 大神を拝み帰る時に出雲国造の祖岐比佐都美は、肥川の中に仮御殿を作って御子を迎えた。また祖岐比佐都美は川下に山のような飾り物を作って饗応した。

 御子はあれは山ではない、出雲の石くまの曽宮に居る葦原色許男大神を祀っている斎場ではないかと言った。

 供は喜び長穂宮に移り御子は一夜、肥長比売とまぐわった。後に御子がその美人の様子を窺うと大蛇であった。

 驚いて逃げる御子を尻目に、恥じた肥長比売は海に出て去って行った。天皇は本牟智和気が口を利けるようになったので菟上王を出雲に派遣し神殿を造らせた。

御子にちなんで鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯座・若湯部を定めた。

 

また佐波遅比売が言った通りに宇斯王の美知能娘比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命の姉妹を娶った。ただ歌凝比売命と円野比売命は醜かったため里に帰した。恥じた円野比売命は山城国に到った時、木の枝で首を吊ろうとした。弟国に着いた時に遂に渕に飛び込んで死んだ。そこを堕国今は弟国という。

 

 垂仁天皇は三宅連の祖・多遅摩毛理を常世の国に遣わして、時じくの香の木の実

を得ようとした。多遅摩毛理は遂にその国に辿り着いて、その木の実を取って持ち帰ると既に天皇は死亡していた。

 多遅摩毛理は天皇の墓の入口に蔓橘四本、矛橘四本を備えて木の実を捧げ泣き叫びながら死んでしまった。天皇の年は一説に百五十三歳という。墓は菅原の御立野の中にある。后比婆須比売は狭木の寺間稜に葬った。

 

 

 

 精力絶倫・景行天皇

 

景行天皇の熊襲討伐の説話には多くの地名が出てくる。古田武彦はこの説話は近畿天皇家のものではなく、九州王朝の説話であったものをあとから嵌め込んだという。

その証拠は紀にはあるが、記には一切語られていないことであるとする。この説話が真に天皇家内の伝承として7,8世紀まで伝わっていたなら、記が削除するはずがないと論じている。

 九州王朝の史書は雄略紀に記されている「日本旧記」であると断じている。この日本旧記は六世紀中葉に成立したと論じる。

 更に古田は紀にだけあって、天皇家内伝承の書たる古事記にない説話には、重大な疑いの目を向けなければならないとする。百済記などの百済系三資料がいう「倭国」「日本」とは九州王朝のことであり、近畿天皇家のことではないとしている。しかして「日本旧記」の日本も当然九州王朝の事を指すという。

 近畿天皇家が「日本」という名称を使い始めたのは7世紀の半ば、もしくは8世紀の初めからである。百済本記は、531年に敗死した磐井のことを日本の天皇と書いている。(盗まれた神話)

 「日本旧記」は六世紀に成立したということが事実であれば、これこそが日本最古の史書ということになる。

 

 

 新編古事記

 

 景行天皇 

大帯日子淤斯呂和気天皇は巻向の日代宮に住んだ。妻は吉備臣の祖の若建吉備津日子の娘播之伊那毘能大郎女で、子供は櫛角別王次に大碓命、次に小碓命又の名は倭男具那命、次に倭根子命次に神櫛王。

 また八尺之入日子命の娘八尺之入比売命を、娶って産んだ子は若帯日子命、次に五百木之入日子命、次に押別命、次に五百木之入比売命である。

 また妾の子に豊戸別王、次に沼代郎女が生まれた。また妾の子に沼名木郎女、次に香余理比売命、次に若木之入日子王、次に吉備之兄日子王、次に高木比売命、次に弟比売命がある。

また日向の美波迦斯毘売を娶って産んだ子は、豊国別王。また伊那毘能大郎女の妹伊那毘能若郎女を娶って産んだ子は、真若王、次に日子人之大兄王。

 

また倭建命の曾孫須売伊呂大中日子王の娘、迦具漏比売を娶って産んだ子は大枝王である。併せて80人の子がいたが、太子の称号を持つのは若帯日子命と倭建命と、五百木之入日子命との三人。

その他の子は国造や和気、稲置、県主に任命した。神櫛王は紀の国の酒部阿比古、宇陀の酒部の祖、豊国別王は日向国造の祖である。

 

大碓命

天皇は美濃の国造の祖大根の王の娘兄比売・弟比売が美人と聞き、御子の大碓命を遣わして召還した。大碓命は天皇に渡さず自分で二人の娘を抱いてしまった。変わりに別の娘を偽って連れ帰った。天皇は別の娘であることを知って抱かなかった。大碓命が兄比売を娶って産んだ子は押黒之兄日子王、また弟比売を娶って産んだ子は押黒之弟日子王である。

この時代に田部を定め、東の安房の水門を定め、膳の大伴部を定め倭の屯倉を設置し坂手池を作って堤に竹を植えた。

 

 

倭建命の熊曾征伐

 

ヤマトタケルノミコトの実在性は多くの人に疑われている。その活躍が西へ東へと超人的な活躍をする英雄譚として形作られていることもある。その名前の由来にも多少の問題があると考えられている。

小碓命と幼名はあるが、大和の猛る男、勇気のある男、英雄というほどの名前で人物を特定する固有名詞などの中身がないといえる。埼玉古墳群・稲荷山の鉄剣銘にある名前は短いが、その当時のリアルな呼び名で会った事を彷彿とさせる。

後世に贈られた美称であり本名は小碓命であったのか。これも大碓命の対を構成している。

年代を考える上からは、倭建命が東国に遠征した時には駿河に国造がいたとあり、国造が設置された時代の直後の時代ということになろう。

井上光貞は倭建命と神宮皇后の二つの物語は伝説的・おとぎ話的なものであり、何らかの史的な背景があったことは認めるが、皇室の系譜上の特定の人物と考えることには賛成しないとしている。

そしてこの二人は皇室の系譜に嵌め込まれたもので、倭建命は実在人物ではないと断定している。

森浩一は倭健を全くの架空の人物としては捉えていない。実在に近い人物がいて次第に理想化されたが、記紀の編纂される頃には実在とみられていた。或いは何人かの実在の人物像を総合して作り出された人物である。と考えている。

続日本紀には702年に倭健の墓が、振動したので祀りをしたとの記事がある。恐らく地震があり被害があったのだろうが、この時点で倭健の墓がありそれを政府が管理していたことが分かる。

ここでいう倭健の墓とは健が死んだ土地であり、延喜式にいう伊勢の能褒野墓であろうと述べている。

倭健の生涯は西欧の英雄叙事詩に出てくる英雄像の、範型にぴったり当てはまるというのは松前健である。同氏はヤマト健の英雄譚は、六世紀の頃の大和朝廷の地方征討の記憶と伝承を、一人の皇族将軍に結びつけた説話で七世紀の成立であろうという。

倭建の曾孫迦具漏比売を、タケルの父である景行天皇が娶って大江の御子を産んだという。この年代間が著しくずれているのはどう考えればよいか。祖先の名前を付けたのであろうか。

仲哀の事績を倭健に仮託したとする説もある。(古代史ロマン)仲哀は景行の子であるが、その間に倭健の説話を創り挿入したという。景行と仲哀は北九州の勢力であり畿内へと移住したとしている。

抵抗感もなく、受け入れやすい説ではある。

 

 

新編古事記

 

景行天皇は小碓命に汝の兄は朝食に顔を出さぬ、諭しなさいと言った。そして五日がたったが兄は朝食に顔を見せなかった。小碓に聞くと兄が朝厠に入った時に捕まえて、手足をもいで薦に包んで投げ捨てたと答えた。

後に天皇は小碓命に、従わない西の熊曾建二人を討ち取れと命じた。小碓命は叔母の倭姫の衣と裳を借りて剣を懐にして出かけていった。

熊曾は家の周りを軍勢で三重に囲って警戒していた。屋敷の完成祝いの宴に紛れて忍び込んだ小碓命は、叔母の衣を身につけ女装して熊曾に近づいた。そして熊曾の襟を取り、剣を出して胸を刺し貫いた。このとき弟建は驚いて逃げ出て行ったが、追いついた小碓命は剣を尻から刺し貫いた。

吾は巻向の日代宮に居て大八島国を治める、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子・倭男具那王と名乗った。

熊曾建は吾より強い人はいないと思っていたが、あなたに我名を献上するこの後は倭建御子と名乗ったらよいと言った。帰る時は山の神、川の神、穴戸の神を服従させながら都へ帰った。

 

 

大和朝廷の出雲建征伐

 

崇神紀60年の条には「武日照命の天より将来せし神宝を、出雲大神の宮に蔵むという是見んと欲す。」として、出雲振根の弟飯入根に献上させた。後に出雲振根が飯入根を誅殺したことにより、天皇は吉備津と彦武淳河別を派遣して振根を討伐した。

この説話は記には記されていない。

古田武彦はこの出雲征伐譚の本来の主役は吉備津彦であったと想定している。吉備には造山古墳などの極めて巨大な古墳が存在し、同時代の天皇陵古墳より大きかった。

この巨大な勢力は吉備一国だけでなく他にも周辺の国々を支配下に置いていたと考えられ、当然出雲もその領国であったであろうという。古田は吉備の伝承を、紀に取り込んだのではなかったかとの疑問を投げかけている。

 

 

新編古事記

 

倭建は出雲に入り、出雲建を殺そうとした。偽りの友情を結び、木で偽の太刀を作り共に河に水浴びに行った。

河から上ると太刀を取り替えようといって、先に出雲健の太刀を身につけた。倭建は、さあ勝負しようと言って、木の太刀をとった出雲建を切り殺した。

 

 

倭建の東国遠征・新編古事記

 

景行天皇は次に倭建に東国十二国の平定を命じて、柊の長い鉾を授け吉備臣の祖の御鋤友耳建日子を添えて派遣した。

倭建は途中、伊勢に行き倭姫に会い愚痴をこぼした。倭姫は草那芸剣と袋を授けた。

尾張に至り国造の祖御夜受比売の家に泊まったが、まぐわいは後日のことにした。相模国に至った時にその国造は倭建を野原に連れて行き火責めにした。倭建は叔母に貰った袋を解き、火打石を取り出し向かい火を放って難を逃れた。そして国造を焼き殺したので其処を焼津という。

走水から千葉に渡ろうとしたときは波が高くて渡れなかった。このため后の弟橘比売命が、波を鎮めようと畳を敷いて入水したので浪は収まった。

七日後に后の櫛が流れて来たので墓を作ってそれを治めた。蝦夷などを平定して帰るとき足柄の阪本に至った。

飯を食べていると足柄峠の神が白い鹿になって現れた。食べ残しの蒜(ひる)

を投げつけると目に当って鹿は死んだ。

倭建はその坂に立ち、「あずまはや」と言った。これによりその国を東という。更に甲斐に至り、酒折宮に居るとき歌を交換した火の番の老人を東国造に取り立てた。

倭建は更に信濃に行き、品濃の坂の豪族を平定し尾張まで戻った。御夜受比売の元に帰ってまぐわいせんとする時に、姫の衣の裾に血が付いていた。

 

倭建はあなたは月経になってしまったかと歌を歌い、姫は年がたって月日も過ぎたので月が出てしまったと歌で帰した。

ここに結婚して姫の元に草薙の剣を置いて伊吹山の賊の平定に向かった。ここの賊は素手で討ち取ってやると、山に入って行くと白い巨大な猪が現れた。この神の使いの猪は帰るときに殺してやると言って先に進んだ。その時大量の雹が降って来て倭建を多いに苦しめた。

先の猪は神自身であった。敗退した倭建は玉倉部の清水で休み、正気を取り戻しそこを居寝の清泉と名づけた。

多芸野に至った時、足が進まなくなり其処を「たぎ」と名づけた。やがて杖を突かなければ歩けなくなり、そこを杖衝坂と名づけた。

尾津前の一つ松の所に至ると、先に食事した時に置き忘れた太刀がまだ其処に置いてあった。そこから三重村に至った時、我足は三重に曲がってしまったと謳ったのでそこを三重という。

 

さらに能煩野に至り、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣山こもれる 倭しうるはし」と歌った。歌い終わると力尽きて息を引き取った。そこで早馬の急使が朝廷へと発った。

急を聞いて倭建の后たち息子たちは、能煩野に来て墓を作り這いずり回って泣いた。倭建は大きな白鳥になって空に舞い上がり浜に向かって飛んだ。

遺族たちはその白鳥を追って竹藪に入り海に入った。白鳥は更に河内の志幾に留まった。遺族はその地に墓を作り倭建を祀り其処を白鳥御陵と名づけた。白鳥はまた空を飛びあがり去って行った

倭建が伊玖米天皇(垂仁)の娘布多遅能伊理毘売命を娶って、産んだ子は帯中津日子命(仲哀)である。弟橘姫との間には若建王がいる。近江の安国造の祖意富多牟和気の娘、布多遅比売を娶って産んだ子は稲依別王。

また吉備臣建日子の妹大吉備建比売を娶って産んだ子は、建貝児王。また山城の玖麻毛理比売を娶って産んだ子は足鏡別王。

また妾の子に息長田別王がいる。

 

息長田別王の子は、杭俣長日子王、その子は飯野真黒比売命で次は息長真若中比売、次に弟姫。若建王が飯野真黒比売命を娶って産んだ子は須売伊呂大中日子王である。

須売伊呂大中日子王が近江の柴野入杵の娘、柴野比売を娶って産んだ子が迦具漏比売命である

大帯日子(景行)天皇が迦具漏比売命を娶って産んだ子は大江の王。景行天皇の年は一説に百三十七歳で墓は山辺の道のほとりにある。

 

成務天皇

 

井上光貞は成務・仲哀天皇は殆ど実在の可能性がない、その理由の一つはタラシヒコ・タラシナカツヒコの後世的な名前にあるという。称号的部分をとると、中身には実名らしきものはなく、これといった事績もないとしている。

成務天皇陵は平安時代に盗掘されたという。事件に関与したとされるのは驚く事に興福寺の僧であり、しかも16人もの僧が流刑の憂き目にあっている。

紀では成務の皇子について記していない事から、成務には子供がいなかったと見られている。

しかし記によると成務には和訶奴気王という皇子が一人いたと記されている。だがこの皇子について、その後の消息は何も語られていない。早世したのか結婚したのかどうかなど一切不明のままである。

和訶奴気王が健在であったなら次の皇位についていただろうとも思われる。ところが紀を見ると成務の家族については、その母を除いて一切語られていない。当然娶った妃とその子供たちについて、その名前を記すべきところであるがそれがなされていないのは異例である。紀にはその陵墓の記事もない。

紀には成務は107歳で死去したとあり、その12年前に皇太子を決めたと記しているところから、成務は独身を貫いたと考えるほかはない。そこで記の記述は倭建の伝承が紛れ込んだと言う人もいる。紀に記載のある倭建と弟橘姫の子の稚武彦王が政務の子として誤認されたという。

 

 

 新編古事記

 

若帯日子天皇は近江の志賀の高穴穂宮に住んで天下を治めた。穂積臣の祖建忍山垂根の娘弟財郎女を娶って産んだ子は和訶奴気王である。

武内宿禰を大臣として大小の国造を定めた。国々の境界と大小の県主を定めた。

天皇の年は一説に九十五歳で乙卯の年三月十五日に死んだ。墓は沙紀の盾列にある。

 

 

仲哀天皇

 

 先の成務の行動について記紀は共に何も記してはいない。この事から成務と仲哀は同一人物であったが、二人の天皇として分割されたと考えることもできる。

応神と皇統との血脈・系譜を繋ぐために、仲哀と神功が作られて成務の次に嵌め込まれたと考えると、成務の事績が演説の他には何も語られていない理由が納得できるのである。

仲哀が架空の人物であったと仮定すると、後に述べる神功の不倫・密通の行動により、ないがしろにされている様子もおぼろげに理解できる。

 成務の後は当然その皇子である和訶奴気王が皇位につくべきであるが、記では何の説明もなくして仲哀は穴門で天下を治めたと記述を始めている。神皇正統記でも、成務48年に仲哀を皇太子に立てたとしている。

成務の都は近江であった。仲哀は何故近江と遠く離れた長門に都を持って行ったのか、何も語られていないので謎のままである

 成務と神功皇后が筑紫に行き、長年に亘って近江や大和を留守にしていた。その間誰が畿内の政治を取っていたのだろう。毎年のように起こる旱魃や疫病、小国同士の争い各国造の賞罰など責任と手腕が要求されるが、その辺の記録やエピソードは一切表れない。

平時であっても親子・兄弟の数が多く、常に権力争いに天皇明け暮れている朝廷が主が不在でも滞りなく機能していたとも思えない。してみると仲哀と神功皇后は中央を追われて、体勢を立て直すべく一時避難的に長門や筑紫に行ったのではなかったか。似たような例は都落ちした平家が幼帝を擁して九州に避難した事跡に見る事が出来る。

成務は敵対勢力に敗北し角鹿に行き行宮(仮の宮)を設置した、後に紀伊に行き穴門に行き筑紫へと入ったと見ることができる。味方してくれる勢力の結集を図っていたのだろう。

景行、成務、仲哀の三天皇はタラシヒコという尊称がついているが、この尊称は後の七世紀前半に用いられた物とされている。これらの事から井上光貞は成務、仲哀の二天皇は作られてここに嵌め込まれたものとしている。

 この他に事績が景行と同じであるとも述べている。

 

 

 新編古事記

 

 帯中日子(仲哀)天皇は穴門の豊浦宮、また筑紫の香志比宮に住んで天下を治めた。大江王の娘大中津比売命を娶って産んだ子は、香坂王、忍熊王である。

また息長帯比売命を娶って産んだ子は、大鞆和気命又の名は品陀和気命であり、胎内にいるときから征韓に携わっていたといえる。

 この時代に淡路の屯倉を定めた。

 

 

 

 神功皇后の密通 

 

 神功皇后を架空の人物とすれば、69年もの長きに亘って摂政の地位にありながら皇位につかなかった理由がすっきりする。しかしこの一事だけを持って神功を架空と決め付けるわけにもいかない。その間の治世を実際は誰が行っていたのか、綿密な考証が求められる。

 神功皇后は豊前国風土記の逸文に現れている。田河郡の鏡山に神功皇后が、鏡を埋めて祈ったところから「鏡山」の山名になったと述べている。その埋めた鏡は石になったという。また同逸文には田河郡に鹿春(原)の郷があり、昔新羅の国の神が来てこの河原に住んだことから鹿春の神というようになったとしている。

この「鹿春の神」を延喜式神名帳では、式内社・辛国息長大姫大目命としている。この名前は神功皇后の息長帯足比売命と著しく似ている。仮に両者が同一人物とすれば、神功皇后が新羅から渡来したことを明確に語っているようにも受け取れる。また宇佐郡には名神大社の大帯姫廟神社がある。

 

井上光貞は神功皇后の物語は伝説であり、史実ではないといい、津田左右吉もまた伝承から出たものではなく、後世に作られた物語としている。直木孝次郎もまた神功皇后の実在を否定し、推古帝以下の女帝をモデルとして構想された人物であると論じている。

 外征においても豪族が指揮をとっており、七世紀初頭までは皇族や皇后が随伴して指揮を採ったことはないという。直木はその系譜においても、異世代結婚が三回見られるといい、神功皇后説話が成立したのは七世紀以降になるとしている。また神功皇后の諡号は実在の個人名ではなく追号であるとして、これも七世紀の女帝史が反映していると述べている。

だが宇佐家の古伝承によると、神巧皇后は実在の人物であるという。神功皇后の説話は多くは息長氏の伝承によったと思われる。神功皇后が創作上の人物であったのなら、何故こんな手の込んだ物語を作らねばならなかったのかという疑問が残る。その系譜を組み上げるだけでも大変労力を費やした筈だ。神功皇后の物語を創り上げるよりは、卑弥呼の説話を創り記・紀に記載して邪馬台国から大和王朝へと結びつける説話が作られて然るべきである。

 

 そのようなストーリーにすれば、神功皇后の条に魏志倭人伝の記事を脚注として入れる必要もなかった筈である。だが現実には記・紀には邪馬台国やその周辺にあったという国々の名前、登場人物の名前などは一切記載されていない。

 神功皇后を創造し日本の歴史に組み込むような暴挙を、当時の有力豪族たちは黙って容認したのだろうか。

そんなことが許されるのなら、それぞれ自分たちの祖先をも皇統のどこかに組み込むように申し入れを行い、混乱が生じたのではあるまいか。神功皇后を実在とする研究者には田中卓、肥後和男、岡本賢次などがいる。

記・紀との前後関係を別にして、神功皇后の伝承を伝えている風土記には、常陸、播磨、肥前、摂津、伊予、土佐、筑紫、筑前、豊前などがある。

 

 神皇正統記では仲哀が死んだ時のことを次のように記載している。「仲哀神のおしえによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどおりまして、七日あて別殿を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれまし<けり。」

 この次に仲哀の死亡記事を載せており、仲哀死亡後に皇后が妊娠したことを窺わせる。

「住吉大社神代記」に於いても、皇后に神がかりした神が仲哀に「唯今皇后が初めて胎みませり」と告げている。更に、ある記に曰くとして近臣に神がかりした筒男三神が、仲哀に唯今皇后胎せる子と言っている。その夜に「仲哀は忽ち病んで死んだ。ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)」

 と記している。

紀では住吉三神とセットで生まれた表津少童命、中津少童命、底津少童命を祀ったのは安曇氏であると述べているが、住吉三神を奉じているのは津守氏である。同時に生まれた六神の系統が何故ここで安曇氏と津守氏とに分かれるのであろうか。

上代には氏族名を呼ぶ際にその奉じる神名で呼ぶことがあった。野球の球団を呼ぶ際に、監督の名前で呼ぶようなものであったろう。してみると神功皇后と割りない仲となった住吉大神は、当時の津守氏の頭領であり、皇后の船を先導した田裳見宿禰の可能性が強い。

武内宿禰があまりにも、長命であった嫌いがある事から類推されるのである。或いは武内宿禰の名前も何代にも亘って世襲されていたものであったか。津守氏は尾張氏と同族でその系譜は火明命に繋がっている。住吉神代記の一説では田裳見宿禰が、石をとって神功皇后の御裳をたもみ、御裳の腰に差し挟んでうけいして、「(はら)みませる吾に広国美しき国を賜はれ。」と言ったので応神が生まれた。そこで名前を「たもみ」と改めたとしている。

この行為からは、田裳見宿禰が常に神功皇后のそば近くにいて、身の回りの種々の世話をしていたことが窺われる。女性の衣装・着付けに男が手をつけるという所作は、何やら秘め事があったようにも思われる。ここには武内宿禰は現れていない。紀では応神が生まれた日を、仲哀が崩御した日から十月十日後の日としている。明らかに応神は仲哀の子ではないといえる。

 

神代の神が蘇って皇后と密通する筈はないから、この神と記された男は田裳見宿禰となることは必然の帰結である。皇后は田裳見宿禰と図って仲哀を殺したのだろう、優柔不断の仲哀を亡き者にして皇位の簒奪を図ったとの推測が成り立つ。この後、皇后と武内宿禰は仲哀の死を秘している事もそれを裏付けている。おそらく武内宿禰も加担していたのであろう。

 神功皇后は、筑紫に発つ前に角鹿から仲哀の居た穴門に来ている、この時に仲哀は豊浦に宮を立てている。皇后は仲哀の死後に穴門に移り豊浦宮で殯をしている。筑紫からの帰途には、田裳見宿禰に住吉大神を穴門の山田村に祀らせている。翌年、神功皇后は穴門の豊浦宮に移り住んでいるなど、穴門との縁が尋常でなく深いことに注意を払っておきたい。

 

 

 新編古事記

 

 仲哀天皇は熊曾を討たんと筑紫の香椎宮で、琴を弾いて武内宿禰が審神者となって神の言葉を聞いていた。その時后の息長帯日売命は神がかりして神の言葉を伝えた。西の国に金銀が大量にある、その国を服属させてあげようと言った。

 

 天皇は高い所に登って西の方を見たが、海しか見えず国はないと言って琴を引くのを止めてしまい、酒を飲んで寝てしまった。その夜武内宿禰は皇后と図って天皇を暗殺した。

 翌朝天皇の遺体を宮に移し、世の中の罪を集めて大祓えを行なった。皇后はこの後は胎中の子が国を治めるであろう、暫くは天皇が死んだことは伏せておくようにと言った。

 

 武内宿禰はこの事は天照大神の意思であり、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神の意志でもあると言った。そして天神、地神、山神、河と海の神に供え物をつけ、我御魂を舟に載せて海を渡れと指示を出した。

 

 

 神功皇后の新羅遠征

 

神功皇后の新羅遠征は住吉大神の霊験譚を、もとにつくられたとするのは山尾幸久である。梅原猛は神功皇后の朝鮮進出をほぼ事実であったろうという。沖ノ島の遺跡や九州から瀬戸内海沿岸にかけて、伝説は非常に多くみられることなどを理由に挙げている。

また水野祐は神功皇后の伝説と三韓征討は架空として捉えている。(古代史の迷路を歩く)皇后は新羅遠征を前にして妊娠し、帰国してから出産をしている。このことは応神が新羅からの、渡来人であることを示唆しているかの様にも見える。記紀からは神功皇后と住吉大神とは、切っても切れない深い絆で結ばれている様子がひしひしと伝わってくる。

記では墨江大神(住吉大神)が先導して、海を渡り新羅へ行ったかの如くの語りとなっているが、実は津守氏が先導して新羅から筑紫に渡来してきたのではなかったか。

前原市には白木神社が四社現存するが、これは新羅神社に異ならない。

神功皇后は筑紫で妊娠したことになっているが、新羅遠征中に胎内で育って筑紫に帰ったときに生まれたという。

 このことはもしや神功皇后は、新羅で妊娠したのではなかったかという疑いを抱かせる。戸籍上の父ともいえる仲哀が死んでから、或いは死ぬと同時に妊娠したと語られており、その相手は住吉大神の名を仮託されている。本当の父の名前を記録することがなんらかの理由で憚られたものであろう。この応神の真の父親は新羅人であった可能性を排除できない事となる。

 

 北九州においては大陸の文化が入り、早くから小国が成立し諸豪族が生まれていた。その中の有力な豪族の名前が、仲哀と神功皇后の名前に仮託されたとみると合理的な解釈が成り立つ。

 すなわち九州において、支配権を拡大していた豪族が畿内へ触手を伸ばし、移住していった事を示唆しているようだ。仲哀と神功皇后は九州へ行ったのではなく、九州から来たのである。

 大和朝廷の皇統系譜を繋ぐために、北九州の豪族名の代わりに仲哀と神功皇后の名前を使ったとみることができる。神功皇后の出自は天日矛にも繋がるなど、息長氏は韓半島とも縁が深い事も注意を引く。弥生時代の北九州には女性が支配する小国が珍しくなかった。卑弥呼や田油津姫などがそれであり、田油津姫の墳墓は今に残っている。

 この北九州の女王の名前に、神功皇后の名前を上塗りしたものだったのではないか。息長氏の素生・系譜は古代史の謎とも言われている。この謎の系譜に神功皇后を嵌め込み息長足姫という名をつけたと考えられる。

 ここまでの考証から行き着く先は、卑弥呼イコール神功皇后となろう。卑弥呼を息長氏の系譜の中に紛れ込ませたのだろう。卑弥呼は神功皇后に仮託され、そのモデルになったのだ。

卑弥呼のプロフィールは神功皇后の中にとり込まれたのである。多くの研究者が対外記事などから神功皇后の年代は、四世紀中葉か四世紀末(森浩一)から五世紀初めとしている。

紀では年代は卑弥呼の時代に合わせたが、その複雑な系譜とストーリーを創造したが為に世代までは合致させられなかったという訳である。紀には神功皇后の摂政期間は、201年から269年まで69年に渡ったと記されている。

この期間の69年が実際にはなかったとすると、それは卑弥呼の時代にかなり近づくのである。当時の人の寿命を超える程、長年に亘って天皇が不在だったとするのは異常な事態といえる。朝廷周辺の諸豪族が近親の天皇を排出する動きが全くなかったのだろうか。

 

本来は世界に冠たる「魏」に」認証されていた邪馬台国を、大和朝廷の前身として位置付けたかったと思われる。

だがそこまで露骨には結び付けられなかったので、脚注に倭人伝の話を織り込み卑弥呼は神功皇后であると、示唆するに留めたと推測できる。

 森浩一は神功皇后に神がかりして託宣したときに、仲哀が言った次の言葉に注目している。「先祖の天皇たちは全ての神を祀ってきた、それよりほかに神などいるものか。」このことは託宣した住吉大神は難波にとっては新来の神であろう。と述べている。

 

 

 新編古事記

 

 皇后は神の教えの通りに軍勢を集めて新羅遠征を実行した。海を渡る際には追い風も吹いて、士気も高かったので緒戦には勝利を収めた。新羅の地方豪族は降伏して、今後は天皇に年毎に貢物を絶やさぬと約束した。

皇后はその豪族に馬を買って貢げと言った。また然るべき場所を定めて住吉三神の荒御魂を守護神として鎮め祀って帰った。

皇后の腹の子は生まれそうになったが、腹に石を巻いて出産を遅らせ筑紫へ帰った。

その子が生まれた所を宇美という。その時の石は筑紫の伊斗村にある。筑紫の末羅の玉島里に至り、衣の糸を抜き飯粒で鮎を釣った。以来女の人が糸で鮎を釣る事が今になっても行なわれている。

 

 

 香坂王と忍熊王の聖戦

 

 記では忍熊王の反逆としているが、事実は逆ではなかったかと思える節がある。記によると、仲哀は穴門の豊浦宮または訶志日宮(福岡)に居て政治を行ったとある。これは古田武彦のいう筑紫王朝であった可能性を、窺わせるのに十分な情報となる。

仲哀は北九州の一地方の実力者であり、南方の熊襲と日常的な抗争を繰り返していたと考えられる。

 九州の勢力は過去に何度も畿内へ移住或いは侵入を繰り返している。仲哀もまた熊襲に圧迫され、畿内の豊かな土地を狙っていたのだろう。その仲哀の夢は後に末子の応神が果たすことになる。穴門までは支配下に収めることに成功したが、そこから先へは中々進出できないでいた。

ここで更に大胆な仮説を提示しよう。仲哀は熊襲の出身であり、その一分派・一氏族であったのではないか。仲哀は実在の不確実な倭健の子である。従って仲哀も実在の天皇ではないとする論者も少なくはない。仲哀が架空の存在であったとしたら、応神が熊襲の出身であり九州からの最後の渡来勢力となるのである。ここで大和朝廷と南九州を結んでおかないと、大和と日向地方の密接な関わりの説明がつかないのである。大和朝廷はニニギいらい南九州から多くの皇妃を迎えている。応神もまた日向の髪長姫を娶っている。

他に西都原古墳の問題がある。森浩一によると日向と大阪の、中期の前方後円墳の形には類似する場合があるという。特に西都原の女狭穂塚古墳は畿内の履忠天皇稜を正確に二分の一にして作られているという研究を紹介している。堺市の百舌鳥古墳群の巨大前方後円墳の、履忠陵を前方部、後円部ともその形を正確に二分の一にしたものが女狭穂塚古墳であるという。

また男狭穂塚古墳は河内の誉田山古墳(応神陵)の二分の一とされる。これは幾通りもの設計図があったと見られるとしている。西都原古墳群は畿内の古墳技術者の、支援がなければ造営が難しかったと言われている。この他南九州の鉄製武器と、河内・和泉・近江等からの出土の武器は類似しているという。

 

皇后と武内宿禰の名前に仮託された、北九州勢力の東征の情報がなんらかの形で畿内に伝わった。当時畿内を支配していた香坂王と忍熊王が皇統の危機と立ち上がった。

 神功皇后は69年程も政治を行っていたとあり、この間応神は皇位につけなかった理由は九州からの侵入勢力であったからと推測される。

 紀では神功皇后の摂政3年に3歳の応神を皇太子にたてたと記す。神功皇后は摂政69年に丁度百歳で死亡したという。

応神は翌年69歳で即位した。なぜ69歳になるまで応神は即位出来なかったのか、皇后が年を取っているにも関わらず、摂政を続けなければならなかったのか。考えられることは応神は凡庸で人格に欠点があった、または精神に障害があったなどであるが、紀にはそのような記事はない。とすると決定的な事が他にあったと見るのが自然の成り行きというものである。

 紀は年齢について二倍年歴を用いていると見られることから、天皇の年齢は二分の一とすればほぼ妥当な寿命となる。では皇后の摂政期間・年次は二倍になっているのだろうか。この問いでどちらかに軍配を上げるとすれば、しかと確かめたわけではないが否ということになろう。それは春3月とか秋9月、冬11月とかの表記から窺われる他、各天皇の在世期間を二分の一にしてしまうと日本の歴史が浅いものになってしまうからである。

 応神が正統な皇位継承者の資格を持っていたなら、皇后が老体に鞭打って69年もの間、それも死ぬまで摂政を続ける必要はなかった筈であり、この期間は全く不自然極まりない。

 やはり神功皇后の69年間はここに嵌め込まれたものと見る他はない。皇后の名前は息長足比売命であり、記紀共に最初から最後まで「息長足比売命」或いは皇后の名前で記事を綴っている。だが紀では最後に息長足比売命の名前は、死後に追号として贈られた名前であると記している。

 つまり息長足比売命の本名は一度も記されておらず、分からずじまいなのである。これはいかにも不思議なことだ。幾つかの風土記や古文献では神功皇后を天皇と記している。そんな偉大な人物、一時代を築いたという権力者の名前が記されていないのである。

 そして古代には何人もの女帝が誕生しているが、紀は神功皇后はあくまで摂政であったとして、その即位を認めていないのである。この追号を贈る時に皇后を息長氏の系譜に嵌め込んだと見ることができる。息長は近江の地名であり、息長氏は同地の豪族であったと見られるが、皇后と穴門の縁こそは語られるが、近江の事は一切記事になっていない。

 「息長足比売命」の名前は、息長氏の姫であることが分かるほかには、個人を特定する固有名詞がないように見える。「足」は仲哀の足仲彦の「足」と並べた尊称であろう。或いは息長足比売命が本名で「神功皇后」が追号であったのか。

 記によると神功皇后には長男・品夜和気命がいて、応神は次男である。だが紀では譽屋別皇子は仲哀と弟姫との子となっている。

 品夜和気命と譽屋別皇子の、二人の出生後の消息は記紀共に記していない。記における品夜和気命と品陀和気命(応神)は、一文字だけを変えているが同一人物の可能性が高いと考えられる。

仲哀が死亡するとほぼ同時に皇后は妊娠しているのであり、その死亡した仲哀の子が二人いるわけはない。このことからも品夜和気命と品陀和気命が、同一人物であることは明らかである。

仮に同一人として、その正体を紀にある譽屋別皇子だったとしてみる。すると、応神は仲哀と弟姫との子となり、香坂王と忍熊王は文字通り異母兄となる。ここでは神功皇后の存在はまったく不要のものとなってくる。

やはり香坂王と忍熊王と皇位を争って戦ったのは末弟の譽屋別皇子だったということになる。この仮説の上に立てば、譽屋別皇子のその後の消息を伝えていない理由がはっきりと分かるのである。

 

譽屋別皇子はその後、応神の名前で語ることになったのだ。譽屋別皇子が香坂王と忍熊王に加勢していない事がその傍証となる。古代の皇位継承は末弟が継いでいる事が多い。その故に末弟の譽屋別皇子が権利を主張して立ち上がったのだろう。紀の編纂者は新羅を征服した偉大な日本の記録として、裏付けのない唯の伝説を史実のように取り込んでしまったのである。

その上に無理に年記を当てはめた故に、辻褄が合わないものになってしまったといえる。神功皇后と忍熊王の戦いは明石に始まり、摂津から紀伊と場所を変えている。この合戦譚は神武の東征譚とよく似ている。

おそらくは神功皇后の事績として語られている種々の説話は、皇后の前後に在位していた天皇の事績や豪族の説話・伝承などであろう。

記紀に云う所では仲哀と応神で、この二人の事績を皇后のエピソードとして構成したのではなかったか。紀の編纂者たちは魏志倭人伝を読み、重みを持たせるためか神功皇后の条に脚注として入れている。

この脚注には慎重を期して卑弥呼や邪馬台国の名前は入れず、意図を持って削除しているように見受けられるのである。

このことは邪馬台国の場所が分からなかったのか、分かってはいたが記事に出来なかったかのどちらかということになる。邪馬台国が畿内にあったとしたら、紀の中で大和朝廷に結びつけたのは間違いないだろう。だが紀の編纂者たちの認識では、邪馬台国の場所は明らかに遠隔地であり、その他の人名や国名なども合理的な説明が出来なかったと推測できる。色々な作為を持って著した紀であっても、大和に結びつけることは不可能だったのだ。

 

 

 新編古事記

 

 宇佐で生まれた応神は八幡に進出しその地の鉄の生産を支配した。後に畿内方面への進入を開始した。

 建振熊命は倭に攻め込む時、都の情勢を怪しんで、生まれた御子はすでに死んだと舟に棺を載せていった。香坂王、忍熊王は斗賀野に出て待ち構えて、戦を占う狩をした。

 その時猪が出て香坂王を食い殺してしまった。弟の忍熊王は軍勢を揃えて応神の舟を攻めた。空船と見えた船からは兵士が一斉に降りてきた。

 応神と建振熊命の軍は優勢になり山城まで忍熊王を追って行った。

建振熊命は応神は戦死したと偽りを言って降伏した。

 敵が弓の弦を外した時、建振熊命は隠していた弦を取り出して攻めると敵は逢坂まで敗退した。観念した忍熊王は湖に舟を出して入水して死んだ。

 

 

 応神の庇護者・気比大神

 

紀によると気比は天日矛が渡来した所になっている。従って気比大神は天日矛であるとする説がある。神功皇后の母、高額姫は天日矛の六世の孫である。紀の応神の条には応神が皇太子の時に気比大神へお参りし、気比大神と名前を取り替えたとしている。

 それで気比大神はイザサワケとなり、太子をホムタワケと名付けたという。しかし記録は残っていないので、詳らかには分からないと無責任に結んでいる。

 日本に帰化した人が日本人らしい名前にすることはよくあった。応神もまた渡来人であった為に、ここで日本人らしい名前に変えたのであろうか。この件はアマテラスとスサノオの天の安河での誓約とそっくりである。

 皇統の血脈に何らかの混乱が生じた事を連想させる説話である。何だかわからないエピソードを作り上げてぼかしてしまい、事実を陰に押しやってしまう意図も感じられる。

 

 

 新編古事紀

 

 武内宿禰は皇太子を連れて、近江・若狭を攻めた後に越前の敦賀に仮宮を作った。従属することを承諾したその地の伊奢沙和気大神が私の名を御子に上げようと言った。

更に和議の条件となった食料は、翌日の漁でとれた魚を献上すると言った。

 皇太子が浜に出てみると鼻を傷つけたイルカが浜いっぱいに並べられていた。

そこで御子は神に食料をくれたお礼を言い、その神を御食津大神と名づけた。

その浜は血浦と名づけたが今は角賀という。

皇太子が都に帰ると息長帯日売命は酒を作って歓待し歌を贈った。

この酒は少名御神が祝福してくれた物ですという。

 仲哀天皇の年は五十二歳で墓は河内の恵賀の長江にある。

 

 

 

 

 

 侵入者・応神天皇

 

 何人かの著名な学者によって応神天皇は、従来とは別の新しい系統の王朝の創始者であるとされている。侵入者あるいは侵略者であり、大和に入りその支配者の一族を娶って王朝を形成したという考え方である。

 応神を始祖として成立したのが、河内王朝であると唱えるのは直木孝次郎などである。直木は八十嶋祭と共に新王朝が始まることと、淡路島で発生した国生み神話が難波に伝えられ、淡路島を望む海辺で発達したことなどをその論拠に挙げている。

他に天皇家を支えた大伴氏や物部氏が摂津や河内にあり、周辺に勢力を張っていたことなどを傍証としている。

更に応神朝から、我国における王朝が始まったとも述べている。上田正昭は河内の勢力が台頭して、崇神王朝は滅び王権は応神王朝に受け継がれたとしている。

 崇神王朝は三輪山麓一帯の、狭い地域しか支配していなかったとするのは井上光貞である。応神王朝が東北地方の北部を除いて、全日本の統一を成し遂げた最初の王朝であると言っている。その成立の時期は四世紀末としている。

 紀は応神条に入ると新羅や百済の記事が一気に多くなる。応神3年に百済に派兵した、高句麗、百済、任那、新羅の人が来日した、百済王が工女を貢いできた、襲津彦を加羅へ派遣した、百済王が馬を献じてきた、学者の派遣を依頼し王仁が来たなどの

記事がある。

 他に人質として日本に来ていた百済王子を帰国させた、加羅から新羅へと派兵した、高句麗が朝貢して来た、呉へ使いを出した、百済王が妹を派遣してきた等の多くの記事を載せている。

 これ等全部が事実ではないとしても、応神と朝鮮半島の関係が浅くなかったことが分かる。応神はまた日向とも深い繋がりを持っていたらしい。紀の一書には日向の諸懸君牛が朝廷に仕えていたとあり、老齢になって娘の髪長姫を貢上って日向に帰った。

 本文にも応神は使いを出して髪長姫を呼び寄せたとある。

 同じく九州とは縁の深かった景行の子であった可能性が、垣間見えるようにも思えてくる。

 

中国南朝の史書「宋書」に朝貢してきた倭の五王の記事があり、五王のうちの一人「武」は雄略天皇とされている。武は478年と479年に朝している。この説には異論が見られないことからここに絶対年代を求められる。

ちなみに古田武彦は倭の五王は大和朝廷ではなく、筑紫の王者(九州王朝)であると想定している。

 第15代の応神天皇は四世紀後半頃の人である。この頃に乗馬の風習が伝わったとみられる。(井上光貞)当時の平均年齢から1代約20年の在位とすると、記紀に記載の歴代の天皇の在世年代は下記の表のようになる。

 ここに宇佐氏の系図を加えて比較してみよう。宇佐氏はタカミムスビの人格神を高魂尊と呼び祖神としている。現在の当主宇佐公康がその125代目という。宇佐津日子からは72代目にあたる。

 

 

 

 

 西暦

             天皇        宇佐氏 

   0年

   

  80年       ①神武天皇      宇佐津日子

 100年       ②綏靖天皇      常津彦耳

 120年       ③安寧天皇        

 140年       ④懿徳天皇     

 160年       ⑤孝昭天皇      稚屋

 180年       ⑥考安天皇     

 200年       ⑦孝霊天皇     

 220年       ⑧孝元天皇       押人 

 240年       ⑨開化天皇     

 260年       ⑩崇神天皇     

 280年       ⑪垂仁天皇       珠敷

 300年       ⑫景行天皇     

320年         ⑬成務天皇     

 340年           ⑭仲哀天皇      布敷

 360年           ⑮応神天皇

380年           ⑯仁徳天皇       豊玉

400年           ⑰履忠天皇       小船

420年           ⑱反証天皇       安山

440年              ⑲弁恭天皇       宣坂

460年        ⑳安康天皇      長野

480年  絶対年代 21雄略天皇       古邊

  中略

667頃       38代 天智天皇 ⇒ 絶対年代2 武雄 

 中略

昭和天皇

今上天皇                  125代           公康 72

 

天皇家は125代、宇佐家は72代となるが、出雲国造の子孫・出雲大社宮司家の当代は天菩日から83代目という。天菩日は神武より5世代先になるから、この表に対比するときは、78代目と数えられる。

第14代の仲哀天皇から第21代の雄略天皇までは、応神天皇の世代を除いて天皇家と宇佐家は世代の交代が同じように推移し良く対応している。(神功皇后の摂政期間は除いてある。)それ以前の宇佐家は、天皇家が三世代に亘っているところを、一世代で過ごしている。

つまり天皇家は三世代で60年であるが、宇佐家は世代交代がなく、一世代で60年を過ごしている。60年に亘って当主の座に居た人が4人居るのである。この両家の系譜を対比すると、20年に一度世代交代のある天皇家の系譜の方が自然なものと見ることができる。

 

記には応神の時代に百済の照古王が馬を献じたと出ている。照古王の年代は346~375年であるが、上記表の応神天皇360~380年とは15年に亘って世代が重なっている。紀によると、応神3年に百済の辰斯王が立ったとしており、三国史記では同王の即位を385年としている。上表を5年はみ出ることになるが年代はほぼ一致している。記の伝える応神崩御の年、甲午は394年とみられるから、ここでは14年ほどの誤差が生じている。

田中卓は古事記・住吉大社神代記の崩年干支により、崇神の没年を258年、垂仁の没年を311年としている。崇神の没年は上表では260年であるから、2年の差があるものの、ほぼぴったりと一致する。

 ただ同氏は継体から桓武天皇、継体から孝謙天皇の間を計算して、一世代を三十年としている。(邪馬台国と稲荷山刀銘)

上表のように神武天皇の即位を西暦80年とするか、或いは20年繰り上げると60年となり、神武天皇の実在年代が他説にしっくり嵌ってくるのは偶然だろうか。新羅は56世で992年とされている。一世あたりの平均治世は18年となる。

 

安本美典が計算した日本、中国、西洋の、王の平均在位年数を、ごく大雑把に見ると一世あたり16年になる。天皇一代当たりの在位を16年で計算すると、神武天皇の時代は84年ほど新しい時代となる。安本はこの統計から在位年数も違和感なく、繋がりもスムーズであるとして古代天皇架空説を批判している。

井上光貞は応神天皇以降は帝紀・旧辞とも史実に基づいた伝承と見ることができる。

応神天皇は確実にその実在を確かめられる天皇であると論じている。宇佐家の伝承では応神は宇佐氏の長であり、邪馬台国文化と共に中央に移ったという。天皇家と宇佐家の比較では天皇家が125代になるのに対して、宇佐家は72代となり格段に長生きとなる。

神武と宇佐津日子は同世代の人である。天皇家程は権力争いがなく長命の家系であったのか、その世代の差は53代と数えられる。単純な比較ではあるが、宇佐氏の伝承も確かなものが多いだけに、そこに横たわる大きな差異からは何を読み取れば良いのだろう。

 

 53代は一世を10年とすれば530年、20年とすれば1,060年にもなる。現当主までの一代を20年とすれば、72代×20=1,440年になる。現代から逆算すると神武の時代は569年頃になる。

一代25年にすれば、神武の時代は209年頃になる。この計算であれば、誤差の範囲に入るかもしれない。現在までの天皇家は、一代の在位平均が16年となっている。その差は一代あたり9年となる。

宇佐家の伝承では、宇佐神宮が元も発展したのは平安末期の宇佐五代の頃であるとしている。この宇佐五代は系図でも確認されていて150年間になり、1代当り30年となる。

 

  72代のうち1代は兄弟が入っているので、71代に30年を掛けると2130年となる。この数字をもとに単純計算をすると、神武の時代は紀元前2世紀の頃になる。雄略の時代を絶対年代として、一世代20年で遡行して計算すると21代は420年になる。雄略の480年から420年を引き、神武の時代は計算上では西暦60~50年頃となる。

   667年頃の38代天智天皇から、一世代16年で計算すると神武の時代は西暦59年頃となる。古代の一世代は16年~20年の間に収まるようである。

ちなみに宇佐家の伝承で、歴代の天皇の即位順を記すと次のようになる。宇佐公康は歴代の天皇を実在で一系の皇統が続いたと考えているようだ。

 

 

 1.神武        死亡地 安芸

 2.景行 (神武の兄)  死亡地 阿蘇

 3.成務天皇      死亡地 長門

 4.仲哀天皇      死亡地 筑紫

 5.応神天皇       ?

 

 尚、神武以来の八天皇は実在とするが、その即位順をどのように考えるかは示されていない。応神は神武が足一柱騰宮に滞在していた時に、宇佐津姫に産ませた宇佐都臣(稚屋)が越智宿禰の女、常世織姫命を娶って生まれた子が宇佐押人であり即ち応神である。

 押人は宇佐津臣の実弟三茂呂別と協力して、神功皇后と猛内宿禰を打ち破って中央に進出し、応神として軽島明宮で即位した。(古伝が語る古代史)

宇佐八幡宮は全国の八幡神社の総廟であり、中央との関係を深め高い宗教的・政治的権威を誇った。大隅国を除き九州全域に荘園を獲得し、九州最大の宗教領主に成長した。(宮崎県史)

 

ここで神武帝から推古帝まで、記紀に記載の年齢や在位年数を見てみよう。歴代天皇の在位年数の総計は1211年となる。更に天皇の空位期間の9年を加えると1220年となる。これを二倍年歴とみて半分にすると610年となる。推古帝が第33代であるから610年を33で割ると18年となる。ここまでの天皇の平均在位期間は18年とみて差し支えない。

推古帝が没したのは628年とされるから、610年を差し引くと18年となる。この計算でいくと神武が即位したのは西暦18年となり、先の表とは62年の誤差しかないことになる。いずれにしても神武の年代は、西暦一世紀の頃であったという結論が導かれる。

 

 考古学的成果からは、三輪山の祭祀は四世紀半ば頃にまで遡れるといわれている。

 三輪神社は大和に留まらず、上野国山田郡美和神や下野国那須郡三和神の他にも越後、甲斐、駿河、伯耆国などにもみられ、その信仰が広がっていたことが分かる。

 豊後国風土記には、応神天皇の誉田別の名前は気比の大神の名前で、応神天皇の元の名前は「去来紗別」だったと出ている。

 これはおそらく事実だったのだろう。紀は「胎内天皇」の説話を作り上げる必要から気比大神の名前を使ったと考えられる。気比大神の名前は「伊奢沙和気大神」であり、一説に天日矛であるとされている。次田真幸によると、この「伊奢沙」は天日矛が献じた「胆狭浅の大刀」の「イササ」に由来するらしいという。先述したように神功皇后の母、高額姫は天日矛の六世の孫であり、応神と天日矛とも縁浅からぬ繋がりがあるようだ。

次田はこの名替えの儀式は、祖神から名前を与えられたということであるとして、三品彰英のいう成人式の儀礼説を紹介している。更に古代の敦賀は朝鮮との交通の基点であるとともに、この地方は海人部の本拠の地であったと述べている。想像するにこの時点で応神は、権力の掌握に成功し祝福を挙げたのではないか。この時点において既に神功皇后なる人物は居なかったとみられる。

 

福岡市には筒男三神を祀る住吉神社がある他、倭名抄を見ると海部郷がある。記紀が云うところの神功皇后軍の将軍、丸邇(わに)臣の祖難波根子建振熊命は籠神社の海部氏系図に見える難波根子建振熊であろう。森浩一によると、丸邇氏は奈良県北部、滋賀賢南部、山城各地に居住した豪族だという。

建振熊を畿内の丸邇氏とすると、筑紫方に加担し畿内に進入して行く軍勢としては不似合いなものになる。新撰姓氏録の丸邇氏の系図には大矢田宿禰の名があり、海部氏系図にも大矢田彦の名前があり両者は著しく似ている。また「丸邇」は「鰐」に繋がり海部族を彷彿とさせる。

応神軍は瀬戸内海を畿内へ向けて、進軍しており水軍を主力としていたであろう。応神は畿内への浸透に成功し、気比大神に報告するとともに即位の儀式ともいえる成人の儀式を執り行った。

そして型どおり被征服者側の、景行の曾孫に当たる中比売を娶って正規の皇統譜を繋ぐ形を取って体裁を整えたと推測できる。

 

 新編古事記

 

 品陀和気命(応神)は軽島の明宮で天下を治めた。品陀真若王の三人の娘を娶った。

 名は高木之入日売命、中日売命、弟日売命。

 高木之入日売命の子は額田大中日子命、大山守命、伊耶之真若命、妹大原郎女、高目郎女。

 中日売命の子は木之荒田郎女、大雀命、根鳥命である。

弟日売命の子は阿部郎女、阿貝知能三腹郎女、木之菟野郎女、三野郎女なり。

 

 また和邇の比布礼能意富美の娘宮主矢河枝比売を娶って産んだ子は、宇治能和紀伊郎子、妹八田若郎女、女鳥の王。

 矢河枝比売の妹袁部郎女を娶って産んだ子は宇治能若郎女。

 俣長日子王の娘息長真若中比売を娶って産んだ子は若沼毛二王。

桜井の田部連の祖島垂根の娘糸井比売との間の子は、早総別命。

日向の泉長比売との間の子は大羽江王、小羽江王、幡日之若郎女。

 

 迦具漏比売との間の子は川原田郎女、玉郎女、忍坂大中比売、登富志郎女、迦多遅王、葛城の野伊呂売との子は伊奢能麻和迦王で、天皇の子は二十六人。

 

 

 

大山守命と大雀命

 

 応神天皇は大山守命と大雀命に質問した。汝等は上の子供と下の子供とどちらが可愛いか。大山守命は上の子供と答え大雀命は天皇の心を知っていて、上の子供は大人になっているが下の子供はまだ成長していないので可愛いと答えた。

 

 天皇は大山守命に山と海の民を管理せよ、大雀命はこの国の政治をとりなさい、宇遅能和気郎子は皇位を継承せよと言った。

 

 

 矢河枝姫

 応神天皇はある時、近江に行き宇治野に立ち葛野を眺めて、千葉の葛野は良い村里だと歌った。

 木幡村に至り美しい乙女に出会ったので名を尋ねると、和邇の比布礼能意富美の娘、矢河枝比売と名乗った。

 翌日天皇は比布礼能意富美の家に行き、宴会でもてなされた。天皇はここで伊知遅島や美島の歌を歌った。

 矢河枝比売を娶って産んだ子は宇治能和紀郎子である。

 

 髪長比売

 応神天皇は日向の諸県君の娘が美しいと聞き、使いを出し召し上げたが大雀命は難波津に着いた髪長比売を見て一目ぼれした。

 そして武内宿禰に娶りたいから天皇の許可を貰ってくれと指示した。

 

天皇は新嘗祭の席で、髪長比売に酒受けの柏を持たせて歌を添えて皇太子に賜った。

天皇と太子は互いに歌を交換し、吉野の国主(国栖)たちも歌を献上した。

 

 

 百済の朝貢

 応神は海部、山部、山守部、伊勢部を定め剣池を作った。新羅の人が渡来し、武内宿禰が率いて渡りの堤池として百済池を作った。

 また百済の国主の照古王は阿知吉師に託して牡馬・雌馬各一頭を献上した。他に太刀と鏡も献上した。

 

 また賢い人がいたら送れとの要請に、和邇吉師に論語十巻、千字文一巻を付けて献上した。また鍛冶の卓素と誤国系の機織女・西素の二人を送ってきた。秦造の祖漢直の祖酒造の出来る仁番(にほ)またの名は須々許理が渡来した。

 

 

 大山守命の反逆

 応神天皇は亡くなり大雀命は命に従って天下を宇治能和紀郎子に譲ったが、大山守命は皇位に付こうとして弟の宇治能和紀郎子を殺そうとしていた。

 密かに兵を集めて攻めようとしていると、大雀命がそれを聞いて宇治能和紀郎子に知らせた。

 宇治能和紀郎子は川の脇に兵を伏せて待ち構え、自分は船頭に変装して兄がそれを知らずして、船に乗ると川の中ほどで舟を傾けて兄を川に落とした。

 大山守命の遺体が流れ着いた所を名づけて河原の前という。亡骸は奈良山に葬った。大雀命と宇治能和紀郎子が皇位を譲り合っている時に、海人が鮮魚を献上したが兄は弟にと言い、弟は兄へ献上せよと言った。

 これが二度三度に及ぶうちに宇治能和紀郎子は死亡し、大雀命が天下を治めた。

 

 

 天之日矛の正体

 

 田中卓によると天神系は九州の一定地方(高天原)を根拠とする氏族であり、国神系はそれ以外の地方(特に畿内)に番居する氏族と解せられるという。大いに頷ける論説である。

そこで気になるのが本章で登場する天之日矛である。時代は相当降っているようであるが、天之日矛のなまえは天神系とそっくりではないか。国神系で「天の○○」という名は極端に少ない上に、天之日矛は新羅からの渡来人である。

 してみると、天神系の「天の」が冠せられている氏族も渡来系の匂いが漂ってくる。天神系と天之日矛が、同族だった可能性をも考えることが頭の片隅をよぎってくる

 

 記では応神天皇の段(仁徳天皇条)に記事があり、四世紀の中頃に建国された新羅国王の皇子とされている。日矛の八世の孫が神功皇后と記している。

紀には天之日矛は、やはり新羅国王の皇子としてあるがその渡来は垂仁天皇の3年春弥生とある。

先の応神天皇の項で述べたように、垂仁はおよそ280年に即位したと思われることから、その3年は283年頃と推測される。

すると導かれる問いは新羅の建国の前ではないかというものになる。紀では日矛の渡来した年代を、細かく春弥生とまで断じている。

 これは明らかに矛盾があるので、新羅の皇子ということ、或いは渡来年代かどちらかが間違っていることになる。紀の編纂者たちは、何故こんな初歩的なミスを犯したのだろうか。

 記の説を採れば、仁徳期のおよそ380~400年の間の渡来となり、齟齬は来さないことになる。記の伝承と紀の伝承のどちらが正しいのであろうか。ヒントをその系譜に求めてみよう。

記・紀ともに日矛の五世が但馬守だという。但馬守は垂仁天皇の御代に勅命を受けて、時じくの香の木の実を採りに常世の国に行っている。このエピソードは記・紀共に垂仁期としている。

記では子孫である筈の但馬守の記録が、時代を遡った垂仁記に出ているのは本末転倒というべきか。日矛よりもその子孫の方の時代が古くなっているのである。

確かに記では「また昔、新羅の国王の子ありき名は天之日矛」という書き出しになっていて、渡来した年次を特定しているわけではない。

 ここで紀の記事を更に注意深く読んでみると、垂仁88年に詔して日矛のもたらした神宝を、日矛の曾孫の清彦に奉らしたとある。続けて但馬守に命じて常世の国に行かせたとある。

 複雑なので系図にしてみよう。

  

   古事記                  日本書紀 一書

 

  天之日矛                  天之日矛

 


  タジマモロスク               タジマモロスク

 


  タジマヒネ                 タジマヒナラキ

 

  タジマヒナラキ               キヨヒコ

 


  タジマモリ タジマヒダカ キヨヒコ     タジマモリ

 


        タカヌカヒメ スガノモロヲ

 

 紀の記事の要点を示すと次のようになる。

1.      垂仁3年に日矛が来た。

2.      垂仁が清彦に神宝を献上させた。

3.      垂仁が但馬守を常世の国に行かせた。

 

 すると垂仁と日矛は同世代の人であるが、垂仁存命中に日矛は亡くなり、更にその子と孫もなくなり、四世代目の清彦に面談し五世代目の但馬守にも命令を下している訳である。垂仁は日矛家が五世代に亘る間、存命していたことになる。これはいかんともし難い矛盾である。収集した伝承を全て注ぎ込もうとしたことにより、一部に矛盾が生じたものとみられる。

系図をみると記の系図の方が詳しいこともあり、記の説話の方がより信憑性をもっていることになろうか。

 とりあえず真実が分かるまでは、記に出ている但馬守のエピソードは、後世のものだったと理解しておくしか仕方あるまい。或いは系譜の伝えに混乱があったのか。紀では三宅連の始祖が但馬守であると言っている。

 三宅連の名前は新撰姓氏録にも、新羅国王子天之日矛命之後也と掲載されている。

 筑前国風土記によれば「高麗国の意呂山に天降り来し天之日矛の苗裔五十跡手なり」との件がある。

 ここでは日矛は高麗の人になっていて、「いとで」は伊都国を想起させる。つまるところ日矛は韓半島の出身であったことから、後に新羅とされたり、高麗と想定されたものとみえる。

 田中卓は日矛の出発点を、倭人伝に見えて密接な関係のあった伊都国と推考している。伊都国が狗奴国のために滅亡させられ畿内に亡命したとする。したがってその年代は260270年頃としている。(日本国家の成立と諸氏族)

 紀の日矛の記事の前段には一書に曰くとして、崇神時代にツヌガアラシトが渡来してきた話を載せている。牛に荷物を背負わせて田舎に行く話や、乙女が東に行き大和に入り、難波の比売碁曾神社に祭られた話は、記に出ている日矛の記事とそっくりである。

 紀ではこのエピソードを、ツヌガアラシトの渡来コースの説明に接合して語っているが、元々は記と同じ伝承・原資料から出ているものと思われる。紀ではツヌガアラシトを加羅国・任那国としているが、或いは日矛の伝承を二つに分けたとも考えられる。

 そうするとツヌガアラシトは日矛であったともいえる。谷川健一は日矛とツヌガアラシトは同一人物であり、さらに日矛の妻もまた同じ人物とみるのが自然であると論じている。

以上色々と考証を重ねてきたが、一番合理的な解釈を求めるとすれば次のようなものになるだろう。但馬守の世代は垂仁朝の時代であった、このことは記・紀ともに認めている。また但馬守は日矛の五世である。

この事もまた記紀ともに共通して認めている。すると導かれる答は但馬守の五世代前に日矛が渡来したという結論に達する。そのことは日矛が招来した神宝が古い時代の物であったことを証明している。

渡来の年代を推定すれば、垂仁朝より四世代分の80年~120年遡った年代となろう。

 

天之日矛は但馬・淡路をめぐって国神系氏族と闘っているのであり、このことは神武の東征と非常によく似ている。

 記によれば、日矛の持ってきた宝は玉つ宝といい珠の緒二連、浪を起こす領巾、浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、風を鎮める領巾、沖つ鏡、辺つ鏡の八種である。

 饒速日の持ってきた神宝とよく似ている。次に両者の神宝を対比してみよう。

 

天之日矛

 饒速日

古事記

日本書紀

先代旧事本紀

  沖津鏡

日鏡

沖津鏡 

 辺津鏡

 

辺津鏡

  珠の緒二連

出石の小刀

八握剣

 

鵜鹿鹿の赤石

生玉

  

羽太の玉

死返玉

  

足高の玉

足玉

  浪を起こす領巾

 

  道反玉

  浪を鎮める領巾

出石の桙

蛇比礼

  風を起こす領巾

熊の火茂呂儀

  蜂比礼

  風を鎮める領巾

 

品物比礼

    八種

七種

十種

 

 松前健は記のいう宝は呪術的・神話的であるが、紀の記すところは祭祀儀礼的・現実的であると論じている。このことは記の伝承の方が、より素朴で本来の説話であったといえるかもしれない。

表の両者を対比してみると、天之日矛には剣がないが、他の品物は用途や種類がよく似ている。沖を航行する鏡、沿岸航行する鏡、玉の緒と玉、領巾(ヒレ)と比礼。

天之日矛の方では珠の緒の用途が不明だが、いずれ呪術などに用いるものだろう。その点では饒速日の玉とも通じるものがある。

 

領布も含めて天之日矛の神宝は全て航行用のものと思って差し支えないようである。してみると天之日矛一族は海の民であり、海部族のようなものであったと推測できる。饒速日の神宝は用途がより多岐に亘っているが、玉はやはり航行の安全を祈るものであったのだろう。

或いは山幸彦の伝承に見るように、潮の干満を祈るものだったのかもしれないが、いずれにしても海に関係している。比礼だけが地上の安全に関係した神宝となっている。

以上の比較から天之日矛と饒速日は同族またはそれに近い近隣の国の種族だった可能性が浮かび上がってくる。

出雲古族の富氏の伝承では天之日矛の神宝は勾玉となっている。吉田大洋は天之日矛族が渡来したのは、紀元前後の弥生中期であったとしている。神武王朝末期には吉備王も成立していたが、吉備氏は天之日矛族である。天皇家の慣習・祭祀に朝鮮色が濃いのは、天之日矛族の影響によるところが多いという。

 

天之日矛は播磨を大国主から奪った。播磨の国像の本拠地はシラク二村のある飾磨郡で、射楯兵主神社の祭神・天之日矛を氏神としていた。記の孝霊天皇の条には大吉備津日子と若建吉備日子が播磨を拠点として吉備国を制圧したとある。

吉備には造山古墳があるが、同古墳は日本でも四番目の大きさを誇っている。勢力の大きさが分かろうというものである。

富氏の伝承では次のようになっている。

 

天之日矛族は朝鮮から渡来し出雲へ入ろうとしたが撃退した。彼等は但馬に逃げ天之日矛は豪族の娘と結婚した。やがて彼等は若狭、近江を経て大和へ行き朝鮮から来た倭漢と結んで安定した。

後に鉄を狙って吉備を目指した。出雲軍は播磨の八千軍に防衛線を敷いたが、伊予や淡路の百済人が天之日矛に加勢したために突破された。彼等は吉備王国を築き久米川から鉄をとり陶器を焼いた。

後に天孫続と結び物部と共に出雲へ攻めて来て、クナトの大神の神宝を奪った。クナトの大神は幸いの神、塞の神、道祖神、道陸神とも呼ばれ、熊野大社、出雲井神社、道祖神神社、幸神社などに祀られている。天之日矛族から天孫族の妃が出て、“天”の称号を貰った。数百年が過ぎて朝鮮から渡来した人々は、我々の首長・継体に天皇となるよう懇願した。

 

吉田大洋は天皇が都した付近の住民は多くが渡来人なのである。坂上田村麻呂の上表文を見ると、大和国高市郡の八割ちかくが朝鮮からの渡来人であるという。

田中卓は天之日矛族と戦った神としての大巳貴は、史実としては三輪君大友主・倭直長尾市に他ならないと言っている。

天之日矛はツヌガアラシトであるとする説もある。その人が冠っていた王冠の形が角が生えているように見えたのであろう。

紀には「天之香具山の金を取りて日矛を作らしむ」という記事があることから、日矛は日前神社の鏡と同じ銅製のものであったとみているのは谷川健一である。

大和の兵主神社には日矛または鈴をつけた矛が神体として祀られている。谷川は天日矛は青銅製の祭器を、人格化したものに過ぎないと思われると言っている。韓国南部の鉄の生産に関わっていた技術者の一団、それを象徴した言葉・名前であったとみている事が窺われる。

 

 

 新編古事記

 

 新羅の王子・天之日矛が渡来した。新羅の亜倶沼の辺で昼寝していた娘の陰部を日が刺し赤い玉を産んだ。

 その玉を貰った男が腰に付けて、食料を負わせた牛を引いている時に日矛に出会った。

 天之日矛は汝は牛を殺して喰う気だなと言い、捕らえようとすると男は腰の赤い玉を差し出して許しを請うた。

 日矛はその玉を枕辺に置いていたところ、玉は美しい乙女に変身したので、まぐわって妻とした。

 日矛は慢心して妻を罵るようになったので、妻は祖国に帰ると言い出した。そして小舟に乗り難波に着いた。

 これは、いま難波の比売碁曽の社にいる阿迦流比売という神である。

 

 日矛は妻を追って来たが渡りの神がさえぎって入れなかった。日矛は引き帰し、但馬に留まって、そこの俣尾の娘・前津見を娶って但馬母呂須玖を産んだ。

 但馬母呂須玖の子は但馬斐泥でその子は但馬比那良岐。

 

 比那良岐の子は但馬毛理次に但馬比多可、次に清日子である。清日子が当摩之メ斐を娶って産んだ子は酢鹿之諸男、次に妹菅竈由良度美。但馬比多可が姪の由良度美を娶って産んだ子が、葛城の高額比売命・息長帯比売命の母なり、

 

 日矛の持ってきた宝は玉つ宝といい珠の緒二連、浪を起こす領巾、浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、風を鎮める領巾、沖つ鏡、辺つ鏡の八種である。

 いま出石神社に祀ってある八座の大神なり。

 

 

 秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫

 

 伊豆志の神の娘に出石袁登売の神があり、多くの神が妻に望んでいたが果たせなかった。ここに秋山之下氷壮夫が弟の春山之霞壮夫に、吾は今だ承諾を得られぬ汝は口説けるかと言った。弟は容易いと答えたので、お前が成功したら私は大量の酒と山川の産物をお祝にあげると言った。

 

 弟が母に話すと母は衣服や弓矢を作り乙女の所へ行かせた。すると衣服や弓は藤の花に変わり弟は弓矢を厠に置いた。

 出石袁登売はその花になった弓矢を手に取ると、春山は付いて行き部屋に戻りまぐわいし、袁登売は子を産んだ。

 秋山之下氷壮夫は賭けの品物を渡さなかった。母は怒って一節竹で篭を作り川の石を塩に混ぜて竹の葉に包んで、竹の葉のように茂ったりしなびたりせよと弟に呪詛させた。

 このため兄は八年の間病み衰えた。兄が許しを請い、母が呪いの品を取り除くと体は元の如くになった。

 

 

 応神天皇の子孫

 品陀(応神)天皇の子の若野毛二俣王がその母の妹の百師木伊呂弁又の名は弟日売真若比売命を娶って産んだ子は大郎子、又の名は意富々ド王、次に忍坂之大中津比売命、次に田井之中比売、次に田宮之中比売、次に藤原之琴節郎女、次に取売王、次に沙禰王。

 

 根鳥王が異母妹の三原郎女を娶って産んだ子は、中日子王、次に伊和島王なり。

 また堅石王の子は久奴王なり。

品陀天皇の年は六十五歳、墓は河内の恵賀の裳伏岡にある。

 

 

大山守命と大雀命

 

 応神天皇は大山守命と大雀命に質問した。汝等は上の子供と下の子供とどちらが可愛いか。大山守命は上の子供と答え大雀命は天皇の心を知っていて、上の子供は大人になっているが下の子供はまだ成長していないので可愛いと答えた。

 

 天皇は大山守命に山と海の民を管理せよ、大雀命はこの国の政治をとりなさい、宇遅能和気郎子は皇位を継承せよと言った。

 

 

 矢河枝姫

 応神天皇はある時、近江に行き宇治野に立ち葛野を眺めて、千葉の葛野は良い村里だと歌った。

 木幡村に至り美しい乙女に出会ったので名を尋ねると、和邇の比布礼能意富美の娘、矢河枝比売と名乗った。

 翌日天皇は比布礼能意富美の家に行き、宴会でもてなされた。天皇はここで伊知遅島や美島の歌を歌った。

 矢河枝比売を娶って産んだ子は宇治能和紀郎子である。

 

 髪長比売

 応神天皇は日向の諸県君の娘が美しいと聞き、使いを出し召し上げたが大雀命は難波津に着いた髪長比売を見て一目ぼれした。

 そして武内宿禰に娶りたいから天皇の許可を貰ってくれと指示した。

 

天皇は新嘗祭の席で、髪長比売に酒受けの柏を持たせて歌を添えて皇太子に賜った。

天皇と太子は互いに歌を交換し、吉野の国主(国栖)たちも歌を献上した。

 

 

 百済の朝貢

 応神は海部、山部、山守部、伊勢部を定め剣池を作った。新羅の人が渡来し、武内宿禰が率いて渡りの堤池として百済池を作った。

 また百済の国主の照古王は阿知吉師に託して牡馬・雌馬各一頭を献上した。他に太刀と鏡も献上した。

 

 また賢い人がいたら送れとの要請に、和邇吉師に論語十巻、千字文一巻を付けて献上した。また鍛冶の卓素と誤国系の機織女・西素の二人を送ってきた。秦造の祖漢直の祖酒造の出来る仁番(にほ)またの名は須々許理が渡来した。

 

 

 大山守命の反逆

 応神天皇は亡くなり大雀命は命に従って天下を宇治能和紀郎子に譲ったが、大山守命は皇位に付こうとして弟の宇治能和紀郎子を殺そうとしていた。

 密かに兵を集めて攻めようとしていると、大雀命がそれを聞いて宇治能和紀郎子に知らせた。

 宇治能和紀郎子は川の脇に兵を伏せて待ち構え、自分は船頭に変装して兄がそれを知らずして、船に乗ると川の中ほどで舟を傾けて兄を川に落とした。

 大山守命の遺体が流れ着いた所を名づけて河原の前という。亡骸は奈良山に葬った。大雀命と宇治能和紀郎子が皇位を譲り合っている時に、海人が鮮魚を献上したが兄は弟にと言い、弟は兄へ献上せよと言った。

 これが二度三度に及ぶうちに宇治能和紀郎子は死亡し、大雀命が天下を治めた。

 

 

 天之日矛の正体

 

 田中卓によると天神系は九州の一定地方(高天原)を根拠とする氏族であり、国神系はそれ以外の地方(特に畿内)に番居する氏族と解せられるという。大いに頷ける論説である。

そこで気になるのが本章で登場する天之日矛である。時代は相当降っているようであるが、天之日矛のなまえは天神系とそっくりではないか。国神系で「天の○○」という名は極端に少ない上に、天之日矛は新羅からの渡来人である。

 してみると、天神系の「天の」が冠せられている氏族も渡来系の匂いが漂ってくる。天神系と天之日矛が、同族だった可能性をも考えることが頭の片隅をよぎってくる

 

 記では応神天皇の段(仁徳天皇条)に記事があり、四世紀の中頃に建国された新羅国王の皇子とされている。日矛の八世の孫が神功皇后と記している。

紀には天之日矛は、やはり新羅国王の皇子としてあるがその渡来は垂仁天皇の3年春弥生とある。

先の応神天皇の項で述べたように、垂仁はおよそ280年に即位したと思われることから、その3年は283年頃と推測される。

すると導かれる問いは新羅の建国の前ではないかというものになる。紀では日矛の渡来した年代を、細かく春弥生とまで断じている。

 これは明らかに矛盾があるので、新羅の皇子ということ、或いは渡来年代かどちらかが間違っていることになる。紀の編纂者たちは、何故こんな初歩的なミスを犯したのだろうか。

 記の説を採れば、仁徳期のおよそ380~400年の間の渡来となり、齟齬は来さないことになる。記の伝承と紀の伝承のどちらが正しいのであろうか。ヒントをその系譜に求めてみよう。

記・紀ともに日矛の五世が但馬守だという。但馬守は垂仁天皇の御代に勅命を受けて、時じくの香の木の実を採りに常世の国に行っている。このエピソードは記・紀共に垂仁期としている。

記では子孫である筈の但馬守の記録が、時代を遡った垂仁記に出ているのは本末転倒というべきか。日矛よりもその子孫の方の時代が古くなっているのである。

確かに記では「また昔、新羅の国王の子ありき名は天之日矛」という書き出しになっていて、渡来した年次を特定しているわけではない。

 ここで紀の記事を更に注意深く読んでみると、垂仁88年に詔して日矛のもたらした神宝を、日矛の曾孫の清彦に奉らしたとある。続けて但馬守に命じて常世の国に行かせたとある。

 複雑なので系図にしてみよう。

  

   古事記                  日本書紀 一書

 

  天之日矛                  天之日矛

 


  タジマモロスク               タジマモロスク

 


  タジマヒネ                 タジマヒナラキ

 

  タジマヒナラキ               キヨヒコ

 


  タジマモリ タジマヒダカ キヨヒコ     タジマモリ

 


        タカヌカヒメ スガノモロヲ

 

 紀の記事の要点を示すと次のようになる。

1.      垂仁3年に日矛が来た。

2.      垂仁が清彦に神宝を献上させた。

3.      垂仁が但馬守を常世の国に行かせた。

 

 すると垂仁と日矛は同世代の人であるが、垂仁存命中に日矛は亡くなり、更にその子と孫もなくなり、四世代目の清彦に面談し五世代目の但馬守にも命令を下している訳である。垂仁は日矛家が五世代に亘る間、存命していたことになる。これはいかんともし難い矛盾である。収集した伝承を全て注ぎ込もうとしたことにより、一部に矛盾が生じたものとみられる。

系図をみると記の系図の方が詳しいこともあり、記の説話の方がより信憑性をもっていることになろうか。

 とりあえず真実が分かるまでは、記に出ている但馬守のエピソードは、後世のものだったと理解しておくしか仕方あるまい。或いは系譜の伝えに混乱があったのか。紀では三宅連の始祖が但馬守であると言っている。

 三宅連の名前は新撰姓氏録にも、新羅国王子天之日矛命之後也と掲載されている。

 筑前国風土記によれば「高麗国の意呂山に天降り来し天之日矛の苗裔五十跡手なり」との件がある。

 ここでは日矛は高麗の人になっていて、「いとで」は伊都国を想起させる。つまるところ日矛は韓半島の出身であったことから、後に新羅とされたり、高麗と想定されたものとみえる。

 田中卓は日矛の出発点を、倭人伝に見えて密接な関係のあった伊都国と推考している。伊都国が狗奴国のために滅亡させられ畿内に亡命したとする。したがってその年代は260270年頃としている。(日本国家の成立と諸氏族)

 紀の日矛の記事の前段には一書に曰くとして、崇神時代にツヌガアラシトが渡来してきた話を載せている。牛に荷物を背負わせて田舎に行く話や、乙女が東に行き大和に入り、難波の比売碁曾神社に祭られた話は、記に出ている日矛の記事とそっくりである。

 紀ではこのエピソードを、ツヌガアラシトの渡来コースの説明に接合して語っているが、元々は記と同じ伝承・原資料から出ているものと思われる。紀ではツヌガアラシトを加羅国・任那国としているが、或いは日矛の伝承を二つに分けたとも考えられる。

 そうするとツヌガアラシトは日矛であったともいえる。谷川健一は日矛とツヌガアラシトは同一人物であり、さらに日矛の妻もまた同じ人物とみるのが自然であると論じている。

以上色々と考証を重ねてきたが、一番合理的な解釈を求めるとすれば次のようなものになるだろう。但馬守の世代は垂仁朝の時代であった、このことは記・紀ともに認めている。また但馬守は日矛の五世である。

この事もまた記紀ともに共通して認めている。すると導かれる答は但馬守の五世代前に日矛が渡来したという結論に達する。そのことは日矛が招来した神宝が古い時代の物であったことを証明している。

渡来の年代を推定すれば、垂仁朝より四世代分の80年~120年遡った年代となろう。

 

天之日矛は但馬・淡路をめぐって国神系氏族と闘っているのであり、このことは神武の東征と非常によく似ている。

 記によれば、日矛の持ってきた宝は玉つ宝といい珠の緒二連、浪を起こす領巾、浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、風を鎮める領巾、沖つ鏡、辺つ鏡の八種である。

 饒速日の持ってきた神宝とよく似ている。次に両者の神宝を対比してみよう。

 

天之日矛

 饒速日

古事記

日本書紀

先代旧事本紀

  沖津鏡

日鏡

沖津鏡 

 辺津鏡

 

辺津鏡

  珠の緒二連

出石の小刀

八握剣

 

鵜鹿鹿の赤石

生玉

  

羽太の玉

死返玉

  

足高の玉

足玉

  浪を起こす領巾

 

  道反玉

  浪を鎮める領巾

出石の桙

蛇比礼

  風を起こす領巾

熊の火茂呂儀

  蜂比礼

  風を鎮める領巾

 

品物比礼

    八種

七種

十種

 

 松前健は記のいう宝は呪術的・神話的であるが、紀の記すところは祭祀儀礼的・現実的であると論じている。このことは記の伝承の方が、より素朴で本来の説話であったといえるかもしれない。

表の両者を対比してみると、天之日矛には剣がないが、他の品物は用途や種類がよく似ている。沖を航行する鏡、沿岸航行する鏡、玉の緒と玉、領巾(ヒレ)と比礼。

天之日矛の方では珠の緒の用途が不明だが、いずれ呪術などに用いるものだろう。その点では饒速日の玉とも通じるものがある。

 

領布も含めて天之日矛の神宝は全て航行用のものと思って差し支えないようである。してみると天之日矛一族は海の民であり、海部族のようなものであったと推測できる。饒速日の神宝は用途がより多岐に亘っているが、玉はやはり航行の安全を祈るものであったのだろう。

或いは山幸彦の伝承に見るように、潮の干満を祈るものだったのかもしれないが、いずれにしても海に関係している。比礼だけが地上の安全に関係した神宝となっている。

以上の比較から天之日矛と饒速日は同族またはそれに近い近隣の国の種族だった可能性が浮かび上がってくる。

出雲古族の富氏の伝承では天之日矛の神宝は勾玉となっている。吉田大洋は天之日矛族が渡来したのは、紀元前後の弥生中期であったとしている。神武王朝末期には吉備王も成立していたが、吉備氏は天之日矛族である。天皇家の慣習・祭祀に朝鮮色が濃いのは、天之日矛族の影響によるところが多いという。

 

天之日矛は播磨を大国主から奪った。播磨の国像の本拠地はシラク二村のある飾磨郡で、射楯兵主神社の祭神・天之日矛を氏神としていた。記の孝霊天皇の条には大吉備津日子と若建吉備日子が播磨を拠点として吉備国を制圧したとある。

吉備には造山古墳があるが、同古墳は日本でも四番目の大きさを誇っている。勢力の大きさが分かろうというものである。

富氏の伝承では次のようになっている。

 

天之日矛族は朝鮮から渡来し出雲へ入ろうとしたが撃退した。彼等は但馬に逃げ天之日矛は豪族の娘と結婚した。やがて彼等は若狭、近江を経て大和へ行き朝鮮から来た倭漢と結んで安定した。

後に鉄を狙って吉備を目指した。出雲軍は播磨の八千軍に防衛線を敷いたが、伊予や淡路の百済人が天之日矛に加勢したために突破された。彼等は吉備王国を築き久米川から鉄をとり陶器を焼いた。

後に天孫続と結び物部と共に出雲へ攻めて来て、クナトの大神の神宝を奪った。クナトの大神は幸いの神、塞の神、道祖神、道陸神とも呼ばれ、熊野大社、出雲井神社、道祖神神社、幸神社などに祀られている。天之日矛族から天孫族の妃が出て、“天”の称号を貰った。数百年が過ぎて朝鮮から渡来した人々は、我々の首長・継体に天皇となるよう懇願した。

 

吉田大洋は天皇が都した付近の住民は多くが渡来人なのである。坂上田村麻呂の上表文を見ると、大和国高市郡の八割ちかくが朝鮮からの渡来人であるという。

田中卓は天之日矛族と戦った神としての大巳貴は、史実としては三輪君大友主・倭直長尾市に他ならないと言っている。

天之日矛はツヌガアラシトであるとする説もある。その人が冠っていた王冠の形が角が生えているように見えたのであろう。

紀には「天之香具山の金を取りて日矛を作らしむ」という記事があることから、日矛は日前神社の鏡と同じ銅製のものであったとみているのは谷川健一である。

大和の兵主神社には日矛または鈴をつけた矛が神体として祀られている。谷川は天日矛は青銅製の祭器を、人格化したものに過ぎないと思われると言っている。韓国南部の鉄の生産に関わっていた技術者の一団、それを象徴した言葉・名前であったとみている事が窺われる。

 

 

 新編古事記

 

 新羅の王子・天之日矛が渡来した。新羅の亜倶沼の辺で昼寝していた娘の陰部を日が刺し赤い玉を産んだ。

 その玉を貰った男が腰に付けて、食料を負わせた牛を引いている時に日矛に出会った。

 天之日矛は汝は牛を殺して喰う気だなと言い、捕らえようとすると男は腰の赤い玉を差し出して許しを請うた。

 日矛はその玉を枕辺に置いていたところ、玉は美しい乙女に変身したので、まぐわって妻とした。

 日矛は慢心して妻を罵るようになったので、妻は祖国に帰ると言い出した。そして小舟に乗り難波に着いた。

 これは、いま難波の比売碁曽の社にいる阿迦流比売という神である。

 

 日矛は妻を追って来たが渡りの神がさえぎって入れなかった。日矛は引き帰し、但馬に留まって、そこの俣尾の娘・前津見を娶って但馬母呂須玖を産んだ。

 但馬母呂須玖の子は但馬斐泥でその子は但馬比那良岐。

 

 比那良岐の子は但馬毛理次に但馬比多可、次に清日子である。清日子が当摩之メ斐を娶って産んだ子は酢鹿之諸男、次に妹菅竈由良度美。但馬比多可が姪の由良度美を娶って産んだ子が、葛城の高額比売命・息長帯比売命の母なり、

 

 日矛の持ってきた宝は玉つ宝といい珠の緒二連、浪を起こす領巾、浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、風を鎮める領巾、沖つ鏡、辺つ鏡の八種である。

 いま出石神社に祀ってある八座の大神なり。

 

 

 秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫

 

 伊豆志の神の娘に出石袁登売の神があり、多くの神が妻に望んでいたが果たせなかった。ここに秋山之下氷壮夫が弟の春山之霞壮夫に、吾は今だ承諾を得られぬ汝は口説けるかと言った。弟は容易いと答えたので、お前が成功したら私は大量の酒と山川の産物をお祝にあげると言った。

 

 弟が母に話すと母は衣服や弓矢を作り乙女の所へ行かせた。すると衣服や弓は藤の花に変わり弟は弓矢を厠に置いた。

 出石袁登売はその花になった弓矢を手に取ると、春山は付いて行き部屋に戻りまぐわいし、袁登売は子を産んだ。

 秋山之下氷壮夫は賭けの品物を渡さなかった。母は怒って一節竹で篭を作り川の石を塩に混ぜて竹の葉に包んで、竹の葉のように茂ったりしなびたりせよと弟に呪詛させた。

 このため兄は八年の間病み衰えた。兄が許しを請い、母が呪いの品を取り除くと体は元の如くになった。

 

 

 応神天皇の子孫

 品陀(応神)天皇の子の若野毛二俣王がその母の妹の百師木伊呂弁又の名は弟日売真若比売命を娶って産んだ子は大郎子、又の名は意富々ド王、次に忍坂之大中津比売命、次に田井之中比売、次に田宮之中比売、次に藤原之琴節郎女、次に取売王、次に沙禰王。

 

 根鳥王が異母妹の三原郎女を娶って産んだ子は、中日子王、次に伊和島王なり。

 また堅石王の子は久奴王なり。

品陀天皇の年は六十五歳、墓は河内の恵賀の裳伏岡にある。

 

 

 ワカタキル大王・雄略天皇

 

 稲荷山古墳から出土した鉄剣について、田中卓は鉄剣にある銘文の年代は471年としている。古形の系図であり「ワケ」等の表記、使用年代も裏付けられる。意冨比は孝元天皇の皇子の大彦命で、おわけの臣は阿部臣の祖先であり、雄略期に関東へ派遣されたとみている。同氏はおわけの臣を阿部氏とした主な理由として、「本朝皇胤紹運録」なる書物を引いて、建沼河別命の子は豊韓別命と記されており、意冨比垝の孫の「てよかりわけ」と著しく似ているとしている。

 「てよかりわけ」の漢字表気に豊韓別をあてたと考えるという。しかしながら以下の理由により、意冨比垝の子孫は膳臣であったのではなかろうか。

1.    膳臣は後に高橋朝臣と改められるが、意冨比垝の系図の四世にタカハシワケの名前がある。

2.    後世の膳臣に膳臣ハテヒ(●●●)なる人物がいた。このハテヒは意冨比垝六世と同じ名前である。

3.    大彦の孫の名前が磐鹿六雁命があり、意冨比垝の三世の名前テヨカリワケとカリが共通している。雁という名前はそうそうないものであろう。共に大彦の三世である。

 だがオワケの臣はなぜその始祖を大彦の父である孝元天皇に結びつけなかったのかという疑問は残る。大彦までの系譜を知っていたのなら、当然その偉大なる大王・天皇のことも古伝承があったと思われる。

 豪族が自家の系図を作る時には、大かたが始祖を天皇に結び付けている。意冨比垝は何故そうしなかったのか。僅か一代の名前を書き足すだけでよかったのにそうはしなかった。この疑問が残るのは田中卓説をとってもまた同じ事である。

 

田中は鉄剣の銘文は三世紀から五世紀にわたる天皇の実在を裏付け、かつ、この間の皇統譜(王朝)が変っていないことを証明したと言っている。

 名前に人物を特定する固有名詞がないことで架空とする論者もいるが、「ワカタケル」の名前によってその論は成り立たないとしている。

田中はここで、井上光貞の天皇名と諡名による考証で、皇統譜に信頼性の置けない(後世の造作)という説に詳細に検討を加え論破している。(邪馬台国と稲荷山刀銘)

 

 

 継体天皇は新王朝か

  

継体を新王朝とみる傾向は強い。記によれば継体は応神天皇の5世の孫であるという。この時代に5世代も血統を正しく辿れるのか甚だ疑問とせねばならない。記が仁賢と武烈の事績を記していない事も不審とされる。

この武烈の事績がなんら述べられていないことに関して、古田武彦は継体がその記録を抹殺し、分からなくしてしまったとしている。そして語部までも処分に付して後世に残らないようにしたという。

歴代天皇の中には、何人もの架空天皇がはめ込まれていると説く識者も少なくない。すると継体の前には何故、架空天皇を嵌め込まなかったのであろうか。何人もの天皇を創作することができた編者ならば、ここに然るべき天皇を三人ほど嵌め込めばその系譜もすっきりと整えることができたのではないか。そうすれば継体の時に王朝の断絶があったなどとは言われなかったかもしれない。

これに対し岡田精司は顕宗、仁賢は架空だが武烈は実在としている。

森浩一は当時の大王は複数の妃がいて、子供の数は15人くらいいいたとすると、その子たちも同じくらいの子供をもうけたと仮定すると四代目には千人を超す。まして五代目には、鼠算的な数字になって候補はいくらでもいた筈である。したがって大和や河内には大王の候補者はいくらでもいたが、候補を出せない状況になっていた。

継体は新王朝の始祖であると述べている。

先代旧辞本紀(10巻本)には、物部麁鹿大連が「子孫を調べてみると、賢者は男大迹王だけである」と云ったと出ている。

このことは裏を返せば、該当する有資格者は他にも居たという事である。これより先に、仲哀の五世の孫・倭彦王を丹波に迎えに行った記事がある。

倭彦王は迎えに来た兵を見て逃げてしまったとしているが、真実は攻め滅ぼしてしまったのではなかったのか。

武烈の先代・仁賢には武烈のほかに、男子1人女子5人の子供がいた。武烈死亡時にこの6人、或いはその子供たちも死に絶えていて、後継者がいなかったとは考え難いのである。

奈良時代に贈られた、体制を継いだ意味にとれる継体(●●)の名前にもその状況はよく表れている。もっとも紀には「継体之君」という言葉が使われているが、森浩一はその詔が実際に継体二十四年に出されたかどうかは分からないと述べている。

継体の名は「男大迹(おほど)」であるが、応神の孫であり継体の曽祖父にあたる人物の名前に、ほぼ同じ音の「意富々杼(おほほど)」がいる。この二人の名前にはなにがしかの関連があるように思われる。

雄略の代に吉備氏や伊勢の朝日郎子の反乱がおこり、雄略没後には星川皇子の反乱、磐井の反乱がおこり、更に継体も挙兵したと説くのは岡田精司である。旧王朝の武烈を支持した平群氏と、継体を支持した大伴氏、息長氏、尾張氏との戦いで継体が勝利したとしている。継体が樟葉で即位したのが事実であれば、二十年余の両朝並立時代があったことになる。

 畿内の天皇を取り巻く諸豪族の系譜に移動が見られず、革命や王朝交代があったことを窺わせる何物もないとして王朝交代論を否定する説もある。この当時すでに大和王朝に動かし難い伝統的性格が出来上がっていて、どうしても皇胤を皇位につけなければ国政がおさまらない状態にあった。

王朝交代があれば記紀では隠しても、物部氏などが伝える系譜で追随する必要はない筈である。(日本国家の成立と諸氏族)

 

 継体新王朝説に立つ水野祐は、前の王朝との血縁は認められない、薄弱な王朝は大伴金村が権勢を掌握し、他氏族を抑圧していたので基盤が徐々に固まっていったとしている。継体が数十年もの間内に入れなかったこともまた新王朝説を後押ししている。

継体が河内に入り即位した樟葉は、近隣の牧の地域を抑えるために、且つ水上交通の要となる極めて重要な位置を占めていたとみられる。後に光仁天皇や桓武天皇も樟葉近隣において祀を行っている。

直木孝次郎は、継体は越前・近江の豪族で武烈没後の混乱に乗じて河内・山城に進出したその地の豪族や大伴氏と結んだ。継体の大和入りが遅れたのはその即位を認めない勢力があったからと論じている。

 井上光貞は、六世以下は皇籍から除くとする律令の規定をもとにして、継体の系譜が作られた疑いがある。継体が皇胤であるというのは怪しいと述べている。だが継体は新王朝ではなく、前王朝の系譜に繋がる人物であったとする研究者には、黛弘道、本位田菊士、上田正昭などがいる。

 

前之園亮一は三度の遷都の記事は事実を伝えたものではなく、継体にゆかりの深い土地であったとしている。

 時代は下るが「釈日本紀」に「上宮記」の逸文が引用されている。この逸文によると用字は違うが継体は応神の五世となっている。

「上宮記」の系譜の用字法は天寿国繍帳の、それと一致する事から推古朝の頃に書かれたものを史料としているとされている。「上宮記」が伝える継体の所伝は記・紀と殆ど同じである。継体の後を継いで即位した安閑と宣化は継体の前妻の子である。

継体には手白髪皇后との間に男子があったが、波乱もなく安閑が即位出来たということには何か示唆が含まれているようにも思える。

継体没後2年の空白期間があったと見る向きもあるが、大きな混乱はなかったようである。これは、紀の年次の記載を詳細に追っていくと2年の空白期間があり、欽明朝との並立があったとみるものである。確かに継体の前妻の子である安閑と宣化は前皇統の血脈を繋いでいないという事もできる。

 

紀は継体の条に入ると朝鮮や任那の記事が頻繁に出てくるようになる。欽明紀には「任那日本府」の言葉が使われているが、現在の論説では任那日本府なるものはなかったという論調が大勢となっているようである。日本人の居住区や集落はあったが政庁のようなものは置かれていなかったのであろう。

井上秀雄は任那日本府の名称は(597年に)、百済が大和朝廷に国交の再開を求めるために、大和朝廷に迎合する歴史書・百済本紀を記述する際作った語句であるとしている。そして任那日本府とは倭人の政治集団を指している。

魏志韓伝に出ている「倭」は新羅や百済では、加羅諸国の別名としていた。ここでは新羅や百済に国を奪われた加羅諸国を倭と呼び、その政治勢力を結集していた政治機関があったと述べている。

また井上はいわゆる大伴金村の任那四県の割譲は、百済からの国境画定の審判の依頼に応え実施したものとしている。大和朝廷はこの時に加羅諸国よりも百済に有利な裁定を下した。

 

 

 旧唐書・新唐書・三国史記  

 

 古田武彦は近畿天皇家の淵源は古くはなく、701年以降であるという。それまでは九州王朝の一分派、いわば一の家来筋であったとしている。その論証の一つとして唐書・新唐書の記事を取り上げている。その論旨要約は次のとおりである。

 

 945年成立の唐書には「倭国」と「日本」が別国として記載されている。この両国には時間差があり、倭国は金印を下賜された倭奴国の後継王朝で、日本国は702年唐王朝によって公認された国である。

 また両国には地理的な違いが認められ、倭国は大島を中心に群小島に取り巻かれていて、701年まで続いていたとされている。しかるに日本国は西と南は大海に至り、東と北は大山を限りとす、とあり西日本の姿を示している。すなわち倭国の本拠地九州を併呑し、他方では中部地方までしか勢力の及んでいない状況が示されている。また倭国を母国、日本国を分流としている。

 唐の記録官は記述にあたって、当時要職にあった阿部仲麻呂にも確認を求めた上で唐書が成立した筈である

 新唐書の記事には「日本伝」一つしかない。唐の後半期には既に倭国は滅びていたから当然のことである。「日本古の倭奴なり」と言っているのがその表現である。

 この直前の記事に「高麗・倭と連和す」とあることが、倭から日本へと変わったとの歴史認識を示している。

 新唐書は唐書の及ばなかった、王家の内実にまで立ち入って記述している。倭国は「阿毎」を姓として筑紫城を本拠としている。天の御中主尊を筆頭として、32代に至って分流が生じ東の大和州に移った。600年に初めて国交を求めてきた。とありこれ以前の交流がなかったことが分かる。(これ以前の交流は九州の倭国とのものだった)

 三世紀の卑弥呼も、五世紀の倭の五王も筑紫の君主であり、大和の分流の豪族ではなかったのである。このように新唐書の内容は、唐書を肯定・補強するものである。これ以上確実な国交記録があり得ようか。日本書紀はこれらの事実を隠匿したのである。(失われた日本)

 

 古田は以上の論述にあたり、史料批判をしなかったように見受けられる。石原道博は、新唐書は唐書の数十年後にできたものとして、記事が整っているが日本の僧「奝然」がもたらした「王年代紀」を利用したらしいとして、資料としては唐書の方を評価している口ぶりである。

 また格別の新味はないとして、例をあげて多くの誤があることを示している。

「宋史」には日本の天皇家の歴代の系譜が、神代から64代の円融天皇に至るまで詳しく紹介されている。これらは奝然がもたらした「王年代紀」がなければ知らざるところであり、記事も書けなかったであろう。

 この系譜の記事には誤字が多く出てくるものであるが、内容的には唐書を網羅しているものではなかったかと思える。

 唐書には「倭国は東西5月の行程、南北は3月の行程である」としているのが、気になるところである。これが古田の言うように九州の事であるなら行程の長さが逆になって然るべきと思われる。

 また「四面に小島、五十余国がありみなこれに付属する」とも言っている。何か九州のイメージにそぐわないではないか。

 また次の記事も古田の主張するところとは、違和感を生じている。

 「日本国は倭国の別種である。」「或いはいう、倭国が自らその名の雅でないのを憎み、改めて日本としたのである」「或いはいう、日本は元小国だったが、倭国の地を併せたのだ」

 天皇家の歴代の系譜と事績及び地理については、詳細に語られており日本側からの資料提供なくしては叶わないこと一目瞭然である。

 古田はその別著「よみがえる卑弥呼」において、三国史記の新羅本紀を取り上げて次のように言っている。

 

  新羅側が「倭国の廃止、日本国の創建」の通知を日本側から得てこれを記録した。これが文武王十年の「倭国更号、日本」記事である。

  この記事の発信地は日本であり、天智天皇10年に外国の使臣を集めて「倭国の終桔、日本国・開始を宣言した。

 

 そこで三国史記を見ると「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出る所に近し。以に名と為すと。」とある。

この文面は1060年成立の唐書とほぼ同一である。三国史記は1145年の成立であるから、85年前の新唐書を引用した可能性が高いのではないか。

 

 

 

 参考文献