城和泉守と小柏氏 |
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小柏氏正系図の城和泉守永盛 1 甲陽軍鑑・甲斐国志に見る上野国武将 4 古文書の城和泉守昌茂 7 参謀本部編 日本戰史と高田氏 8 小柏氏系図と高山氏・小幡氏 11 小柏氏の伝説 14 主な参考文献 15 |
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小柏氏正系図の城和泉守永盛 城和泉守昌茂は、小柏氏系図には「城和泉守永盛」の名前で登場する。約800年に亘る小柏氏系図の中盤辺りにその記載がある。以下の如くである。 小柏重氏、法名淨安 七十九歳而卒 母 ――――― 妻者城和泉守永盛女慶長十九甲寅年冬摂州大坂陣之節重氏生年二十二歳而随仕永盛[関東方之御使番役]働干大坂表有数多之武功馬是永盛之従臣熊井戸久兵衛永正其身老体殊此時嬰病痾且有女夭男旁軍役依難勤重氏幸以為永盛之婿永正為陣代重氏勤焉委曲有別録焉 ここに記されている熊井戸氏は小幡氏の家老を務めた家柄である。江戸時代になり、織田信長の次男・信雄が小幡藩の藩主となった時には、熊井戸氏の館跡は小幡藩邸として利用された。 「甲陽軍鑑大成」には以下の記事がある。 一、
小幡上総守 手勢 五百騎。 是ハ、侍千キ持之故、二替リに手勢計、組なしにて、 御先ヲいたす。此内ニ而おぼへの衆、 一、友松将監 一、かみ権之助 一、安井 一、熊井戸 一、森平□□ 上記の系図は、母の名前を書く予定だった部分は空白のままで次の行に移行している。おそらく母の名前を書こうとしたが、古系図(或いは古記録)の名前を記した部分が虫食いや汚損で正確に読み取れず空白のままにしたものと推考する。 古い系図の場合、その多くが妻の名前は記さず母の名前を記している。出生の系統が重要視されていた事が窺われる。 さて系図には小柏重氏の妻は城和泉守永盛の娘と記されている。城和泉守は大坂冬の陣で御使番役とある事から、城和泉守永盛は城昌茂であることは間違いない。しかしこの系図では昌茂ではなく「永盛」と記録されている。「永盛」とはいったい誰なのか?全くの誤りなのか、それとも筆写の際の読み違いだったのだろうか。 色々調べても「城和泉守永盛」の名前は見つからず、事績や記録も出てこなかった為、この疑念は長い間消えなかった。 ライフワークの古代史・神話の研究が一応の決着をみたので、今回この謎について再度調べてみた。手始めに「戦国人名辞典」に目を通すと、城昌茂は天文20年(1551年)の生まれとある。景茂の息子であり武田氏に属していたが、後に徳川氏の家臣になった。 他の名前は織部佑、和泉守であり、駿河沼津在番時における軍功を賞されて信濃河北にて百貫文を宛行われた。武田氏滅亡後は父と共に徳川家康に従属し、「壬午起請文」を同心四十九名が提出している。 北条氏の甲斐侵攻に際して妻子が捕虜となるが、和睦により返還された。天正11年上杉氏との関係悪化を受けて、越後国古志郡一円の宛行を約束される。翌年の長久手合戦に参陣し、九月には豊臣方の諸将を味方に付けるよう指示を受けている。この時は和泉守。同17年には臨済寺で武田信玄の17回忌仏事を催した。慶長11年2月には大慈悲院(静岡市)の庇護を井出正次に求めた。同16年の真田昌幸の死去に際しては、悔やみの書状を出している。 大坂の陣では使番を務めた。寛永3年信濃において死去、76歳。連歌会に参加するなど文人としての側面も有した。 「戦国人名辞典」には以上の如く記されている。城昌茂と真田昌幸は、よほど親しかったとみえ、子息信幸宛に出したお悔やみの書状はおよそ次のようなものであった。 「真田安房守昌幸殿が逝去されたとの事、こちらにも聞こえてきました。致し方ない次第とはいえ残念です。もう一度会って話しあおうぞ、と約束したままで、果たせない日々を過ごしてきました。今はただ涙がこぼれ落ちるばかりです。 聞くところによると長く病に苦しまれたとか、一層不憫に思われます。私の心中は文章ではとても言い尽くせません。謹んでお悔やみ申し上げます。追伸、あなたは体調に充分注意して例え障害者になられたとしても、真田家が続くよう長生きしてください」 慈愛に満ちた父親のような文章である。昌茂の優しい性格がひしひしと伝わってくる。戦国武将たるものは、古代神話の神々のように荒魂と和魂とを併せ持っていたようだ。 城和泉守昌茂には妻子があった事は分かったが、「永盛」という名前を名乗った事があったのかどうかについては記されていない。 次なる史料「新訂寛政重修諸家譜」を紐解く。 同書には城和泉守昌茂の系譜も載せられている。その系譜を見ると、城氏は平氏、繁盛流であり、平維茂(鎮守府将軍)を祖としている。この三代目の貞成の時から城氏を名乗り、その庶流は全て本国の越後国古志郡の地名により玉虫を家号としたという。 嫡流すでに亡びて、城昌茂の父・景茂(9代目〜12代目?断絶有)の時に城氏に戻したという。だが支族は玉虫氏を名乗り続けた。6代目の助永は越後守と称していた。助永の弟・長茂のときに平家は没落し、同族たる長茂は囚人となり梶原景時に預けられた。 助永の妹・坂額御前は射撃の達人で、佐々木盛綱が押し寄せてきた時には数多の兵を射殺した。 城昌茂の祖父・貞茂は長尾為景及び景虎(上杉謙信)に仕え、後に越後を去り武田信玄に仕えた。昌茂の父・景茂は貞茂と共に謙信に仕えていたが貞茂と行動を共にし信玄に仕えた。 景茂は別名を次郎左衛門、和泉守と称し、剃髪してからは意庵と称した。元亀3年に信玄は、城氏の嫡流が途絶えた事に鑑みて景茂に城氏を名乗らせた。景茂は時々の合戦において戦功をあげた。 後に武田家が没落した時は、甲斐国にいたが家康に招聘されて従属した。この翌年には越後国古志郡の本領を宛行なわるべきの旨、父子連名のご朱印を賜る。その翌年には長久手の役に供奉し、天正15年駿府にて死去した。景茂の弟は松枝城攻めに参加し後に箕輪城攻めに出陣し討死した。 城昌茂はその別名を織部、織部佑、和泉守、半俗庵と称したが母の名は不詳、妻は長尾是言義景の娘。信玄及び勝頼に仕えて度々戦功をあげた。信濃国河北のうちにおいて、百貫文の地を領した。父と共に家康に属し長久手の役にも供奉した。 後に武蔵国忍熊谷において、采地七千石を賜る。関ヶ原の陣では昌茂父子は西尾豊後守光教、水野六左衛門勝成、同宗十郎忠胤、等と共に、勝山の陣営と大垣城の間に陣してこれを守る。9月13日父子連名の御書を賜り、後緋威の鎧、房宗作六十二間妙見星の兜及び御具足下の御服を賜る。 のち奏者番を務める。大坂両度の役には仰せによって、松平武蔵守利隆の手の軍監を務めた。元和元年凱旋の後、昌茂は軍令を犯したと咎められ、改易されて近江国石山寺に屏居する。寛永3年に赦免となり、江戸に赴く途中7月2日に信濃国において死去した。この時76歳、法名宗仲。武蔵国熊谷東漸寺に葬られた。 昌茂の子・信茂は別名を甚太郎、織部佑という。御書院番を務め、大阪両度の陣の時は秀忠に供奉した。のち御使番となり二千石を知行するに至った。信茂の子孫は代々徳川家に仕え、御書院番や御普請奉行、御小姓組として務めた。 以上「新訂寛政重修諸家譜」を見てきたが、この系図は「尊卑文脈」とは少し異なっているようだ。昌茂が葬られた東漸寺は、新編武蔵風土記稿や同寺の伝えるところでは、地頭であった城昌茂の開基という。昌茂の系譜はより明瞭に判明したものの、依然として「永盛」の名前は見えていない。更に次の資料を追及していこう。 太田亮氏の力作「姓氏家系大辞典」を見る。大部で構成されている同辞典第二巻には長文で城氏の経歴が記されている、次にその大要を記す。 中古の城氏は多く秋田城介より来る。筑前、筑後にこの地名ありてこの地の城氏も勢力がある。桓武平氏維茂流にて北国の大族。 越後国頸城郡高城(鳥坂村)は城氏代々の居城なりという。南魚沼郡樺潟城も城氏の居城にて昔は鞠子城と言った。また木越城(木越村)は城氏累世居住す。沼垂郡赤谷城は城四郎永茂が築きし故城である。幕臣城氏の家紋は菱或いは花菱。景茂、昌茂の紋は輪違。他に尾張城氏、周防城氏、因幡城氏、肥後城氏、筑後城氏、豊前城氏などがある、 以上の記事の他に、平家物語、源平盛衰記、東鑑に載る長文を引用・紹介している。 ここにも城永盛の名前は記されていない。果たして城昌茂と城永盛とは同一人物なのであろうか。「武家家伝」を見ると、信玄が甲斐国の寺院調査をするにあたり、歌会を催した時に景茂は六十人衆の一人として寺中奉行を務めたとしている。 そして越後城氏は源平争乱期には平家方に属して戦い、一時源氏に降ったものの、頼朝没後には再び源氏打倒を図って挙兵したものの戦死した。この時に一族の殆どが滅亡した。その後、古志郡で城氏を名乗った玉虫氏があるが、越後城氏の勢力は長茂・資盛で終わった。と述べており越後城氏と玉虫氏を別系統で考えている節を窺わせる。 |
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甲陽軍鑑・甲斐国志に見る上野国武将 城景茂の名は甲陽軍鑑の中にも数ヶ所に見えている。「甲陽軍鑑大成本文編」には、甲州武田法性院信玄御代惣人数事として、配下の各武将名を列挙している。その中の御旗本足軽大将衆の項の四番目に「城伊庵、騎馬拾キ足軽三十人」と記している。 また同書では信玄が松枝城(松井田城)と箕輪城を攻めた時の記事を次のように記している。 「同二月廿六日ニ、松枝城へ、飯富兵部少・あざり・小宮山丹後守三頭ニ、御旗本足軽大将、 城野伊庵弟忠兵衛・原与左衛門・市川ばいゐん、都合六頭を以、おしよする」 「足軽大将、城の伊庵と鑓をあわせ、此伊庵ハ越後らう人なり、信玄公御使を二度、奥会津までつかわされ其後むかいをこし被成、よびとりたまふ、大かうの武士なり。四年さきかのゑ申に、其歳三十九歳にて、武田のお家へ参る。此歳四十二歳、越後におゐても、武辺度々の覚あり。謙信の気にちがい、信玄公の衆になる」 「城の伊庵、みのわの城大手ニおゐて、日の内に両度の鑓をあわせ、二度の鑓に一入つよきというは、鑓のゑのたわみたるを、我がひざにておしなをし、出る敵をまちて鑓をあわする。是を信玄公御覧ぜられ候。伊庵手をおい候。弟忠兵衛うちじにする」 この後には「上野小幡尾張を上総守に被成候」の記事があるが、これより前に記載した「小幡尾張守様子ありて、上総守に被成、小幡上総守と名乗事」の記事と重複しており、しかも内容が異なっている。 以上の記事から、信玄が城景茂(昌茂の父)を三顧の礼をもって召し抱えた事が分る。別項には「城伊庵に廾人被仰付」との記載も見える。 「東照宮御實紀」は一般に「徳川實紀」と呼ばれている。「附録巻十四」には大阪の役の記事が収録されている。以下に城昌茂の記事を抜き出してみよう。 城兵天満口を自焼せし時。其口の大将松平武蔵守利隆はじめ進み入むとせしに。城和泉昌茂堅く制してゆるさざれば。諸軍もやむ事を得ず思ひとどまりぬ。後にこの事聞かせられ。諸将は何とて攻入べき所に軍進まざりしと宣へば。城和泉守があながちに制し止めしゆへなりと申す。よて和泉をめし。汝を天満の軍監に遣はせしは。若者どもの軍令に違ひ抜懸せんを制せしめんが為なり。 さるを一ぺんにこころえて軍機を失ひ。天満を乗とらざりし事。さりとは其任にかなはずとて。俄かに林道春信勝をめし出て。七書のうち大将軍中に在ては。君命も受ざるところありといふ文段を講ぜしめて。聞かしめたまひ。汝は是を知らぬかといたくいましめられ。御凱旋の後改易せらしとぞ。 ここでは城昌茂は凱旋の後に改易されたと伝えているが、1年足らずのうちに勃発した大坂夏の陣にも出陣しまた軍監を務めている。 将軍家は四月廿一日伏見に着せられ。―中略―将軍家城和泉守昌茂を御使として。北国奥羽の勢の上るを待せられ。五七日過て御出陣あらせられんかと聞え上給ふ。 (「附録巻十五」) 「日本戰史」も、吉田貞重松平忠昌及監使豊島主膳城昌茂等ト茶磨山ニ向ヒ奮闘シ右先頭本多成重等ハ毛利隊ト戦フ、と述べている。この後の記事に、城昌茂は藤田重信と須賀勝政と共に領邑俸禄を没収、と記されている。 松平定能が編纂した「甲斐国志」は、百数十巻に亘る大部の歴史書である。甲斐・武田氏の武将についても詳細に記録してある。その中の城昌茂の記事は長文なので、大略を以下に記す。 昌茂の父景茂は越後の玉虫氏で謙信に仕えていたが、奥会津で浪人となった。信玄は伊勢の御師を遣わして招き、騎馬十、足軽三十人を預けた。別名は意庵、伊庵、意安で長篠合戦の際には深沢の番手を務めていたが後に病にて死去した。 謙信に仕えていた際には、城織部として?々武功をあげた、軍配団扇を任され、一隊の長を務めていた。甲府に来て和泉守となり永禄の後に入道した。 古戦録や北越太平記等には、資家、資永、資充とも書かれ、北越軍談には織部佑資家や織部佑資充の名で登場する。 昌茂は甲府に来た時は十歳で織部介といい、勝頼の時代に若手で名のある隊長となった。後に幕府に奉仕し、壬午起請文に織部正昌茂と記せり、大坂冬の陣では軍監七人の一人に選ばれ、聊か罪があって改易されたが、家督は息子の織部介重持(信茂)が継ぐことを許された。所記の内に「永盛」に作るものあり、未だ徴するところを知らず。城氏の宅迹は栗原筋神内川村にあり。 以上が「大日本地誌大系甲斐国志第四巻」の項目の要約だが、ここにきて漸く、漸く「永盛」の名前を発見したのである。 詳しい事は不明ながら、城昌茂の名前を城永盛と記している文献があったとの事である。 「甲斐国志」には多くの上野国武将の名前が記されている。その中の熊井戸氏の記事は小幡信竜斎の項中に次のように記されている。 小幡の親類中同弾正左衛門尉信高・同左馬助高政・同能登守行実・自徳斎道佐・熊井戸対馬守重満・友松将監行実・小幡三河守信尚等アリ―中略―熊井戸対馬守ハ熊井土対馬守ニ訂スベシ。 以上の文中の左馬助高政は小柏左馬助高政であり、自徳斎道佐は白倉氏であろう、友松氏もまた小柏氏系図に登場している。小柏重氏の次弟・貞實が西上野福島の友松家の養子となり、友松伝左衛門を名乗って同家を継いでおり、友松将監行実の関係者と推測される。 この他で甲斐国志に載る西上野の主な武将は、高山氏、(藤岡)神保氏、(長根衆)和田氏、(和田城)倉ヶ野氏、(倉賀野城)安中氏、那波氏、(那波郡)高田氏、(妙義町)津金衆(妙義町下高田、富岡?) 甲斐国志の記事に、神保氏は越中から出ており、坂東八平氏の流れという、神保小次郎昌光は上州長根衆にて甲州に属す、下ノ郷の起請文に名前が見える、と記されている。長根とは吉井町長根であろう。 この他、上野国の名族に上州八家の一つといわれ、関東管領上杉氏の四宿老を務めた白倉氏がある。「甲陽軍鑑現代語訳」には、上杉景虎(謙信)が鶴岡八幡宮に参拝した時に、大石、小幡、長尾、白倉、の四人の侍大将を側近として引きつれた、と記されている。 尚、「甲陽軍鑑大成本文編」には西上野衆として以下の記載がある。 小幡上総守 赤備 千騎 御供ハ 五百騎 わだの城主 和田兵衛尉 かみの城城主 同左衛門尉 下の城の主 同兵部丞 三拾騎 たいら(多比良) 四拾騎 たか山(高山)五拾騎 白倉 五拾騎 あまを(甘尾?) 五十騎 きべ(木部) 五十騎 くらがの(倉賀野) 五十騎 依田六郎 八拾騎 ごかん(後閑)ながね(長根)合 六拾騎 おふど(大戸) 拾キ 安中 百五拾騎 松本兵部 二拾五騎 (カッコ内は筆者が記入。) 「甲陽軍監現代語訳」に、勝頼が沼田、前橋を攻めた時の記事がある。 「この時は西上野勢の小幡上総守が先鋒となり、五甘衆と長根衆が広木城を攻め始めた。その際、小幡左衛門に続いて熊井戸という上総守の配下の剛強な武士も一騎進み行く。 初鹿野伝右衛門は敵を討ち、小幡右衛門は手柄を立てる活躍を示し、寄り添っていた熊井戸も手柄をたてた」 後半の文章中では「右衛門」と書いているが、「左衛門」の間違いであろう。天正年間に新井治部少輔に対する、所領宛行いの奏者番を務めた熊井戸甚内は重満の子息という。甘楽町 小幡には、今も熊井戸氏の子孫が数軒ありその由緒来歴を伝えている。 ただ城昌茂に、小柏重氏に嫁ぐような娘が居たのかどうかは、いまだに判明していないが、念の為に、ここからは城昌茂の事績を裏付ける史料に当ってゆこう。 「静岡県史資料編8」には、武田信玄の仏事を行った時の以下の古文書が記載されている。 三月十二日 駿河国臨済寺鉄山宗鈍 武田晴信(信玄)の十七年忌仏事を執り行う。 仏眼禅師語録 臨済寺所蔵 (静岡市大岩) 恵林寺殿(晴信)十七回忌之塔婆 施主城ノ織部 憶君治国愛蒼生、今日春荒赤甲城、屋後青山不壊仏、任他風雨打花声 本年屠維赤奮若暮春十有二日、廼膚前甲州太守恵林寺殿機山玄□大居士十七回忌之辰、 奥幕下功臣昌茂(今福)、就本寺営弁伊蒲薦潤筆、以報君臣之恩、嗚呼、忠尽孝尽者乎、 豈屑晋秦戦場結草哉、仍製野偈為蕨随涙碑云、 詳細な意味は不明ながら、城昌茂が塔婆を造り供養した様子が窺われる。時の臨済寺の住職が鉄山宗鈍であったと思われる。思えばお館様は、人民を愛し国を治められた、今日は春にして赤い甲や城は荒れているけれど、館の後ろの青き山や寺はそのままで、風が吹くままに任せ、雨は草花や読経の声の上に降りそそいでいる。 ここに塔婆を奉納し、十七回忌の法事を行って君(臣)の恩に報いたい。忠を尽くし考を尽くす者はやがて戦場の草露となり、草原に偈を建てる事になり、縁者はその碑の前で涙する事になる。といった大意だろうか。 「神奈川県史資料編3」には、井伊直政の覚書(メモであろうか。)木俣文書が載せられている。これは箇条書きの数条の文書で一行ごとに内容は全く違う。城昌茂と共に信玄の配下にあった井伊直政が人質の解放交渉に当ったのだろうか。 御馬入候て、御としあるへき之事、 一、
しょのおりへ(城昌茂)さいし御渡可給候事、 「戦国人名辞典」に記載がある、「北条氏の甲斐侵攻に際して昌茂の妻子が捕虜となるが、和睦により返還された」この際の覚書であろう。 城昌茂が家康に属す際に、旧武田家臣団は殆どの者が起請文を提出した。この「天正壬午起請文」と呼ばれる文書が「山梨県史資料編」に載せられている。違背した時は親子兄弟共に成敗されても恨みませんと誓っている。 現在でいうところの誓約書の厳しいヤツであろう。典厩衆、山県衆、駒井右京進同心衆の次に、城織部(昌茂)同心衆の49人の名前が載っている。その次には井伊直政の同心衆が列記されている。 この昌茂以下の49人は、勝頼の討死の直後に家康に従属したわけではなかった。信長が甲府へ進出して来て勝頼の家老衆や主だった侍大将を殺害した。しかし上野国の小幡信貞、和田、内藤、信濃の真田、芦田は許された。(甲陽軍鑑現代語訳) ついで「記録御用所本古文書」には、城昌茂が家康から貰った文書が載せられている。 城意庵景茂・同織部佑昌茂拝領、同織部碩茂書上、東照宮御判物、 徳川家康所領宛行状 越後国古志郡事、右一円所宛行、永不可有相違間、此旨、弥可被抽忠信者也、仍如件、 天正十一年 七月九日 御判 意庵(城景茂) 城織部佑(城昌茂)殿 城和泉守昌茂・同織部丞連名ニ而被下候、東照宮御書、城織部碩茂書上 徳川家康書状 急度申越候、仍、此表之儀、度々如申、今以同意候、然者、畿内・江勢・尾濃之人数、 悉至当表、近日出勢候、弥以敵無之様、根切勿論候、将又、其元方々調略ニ而属此方 一味様才覚之由、本望候、弥、計策肝要候、委細、尚、大久保新十郎可申候、恐々謹言 九月十三日 御判 城和泉守(昌茂)殿 同織部丞(信茂)殿 蜷川家文書之四(大日本古文書)には、連歌会の時の記録であろうか。歌集が載っている。 その中に城昌茂の歌が五首載せられている。この五首はかな書きなので辞書と首っ引きにならなければ意を解せない如くである。しかしながら城昌茂が詩人でもあった様子がよく浮かび上がってくる。 |
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参謀本部編 日本戰史と高田氏 明治中期に陸軍参謀本部により「日本戰史」が編纂された。長篠合戦や小田原城籠城戦は少ない分量で簡略に書かれているが、家康による大坂の役は詳細に綴られている。ここに冬の役の東軍行軍表が載せられていて、城和泉守昌茂の名前も見る事が出来る。 将軍行軍叙列と題された枠には、先鋒、第一番、第二番、第三番、第四番、第五番、本軍、征夷大将軍徳川秀忠、後拒、と記され、それぞれの後に氏名が列挙されている。 次いで前将軍の欄に移り、老中、大番頭、出頭衆、奏者番の順に書かれている。奏者番の筆頭には城和泉守昌茂の名があり、次に榊原伊豆守がある。 ついで寄合組頭、旗奉行、槍奉行、先鉄砲頭、先弓組、小姓、給仕番と続きそれぞれの名前が記されている。 次に使番の項になり、小栗、奥山、横田、城和泉守昌茂と書かれ、16人の名前が書かれている。 次に目付、持弓頭、持筒頭とまだまだ多くの項目が続いていく。城昌茂は陣中目付兼務と記され、陣中目付の欄にも横田甚右衛門の次にまた名前が出ている。 つまり城昌茂は奏者番、使番、陣中目付の三役を与えられていた。この行軍表には初鹿野傳右衛門昌久や高田小次郎直政の名前も見付ける事が出来る。 初鹿野氏は古くから武田氏に仕え、その先祖は合戦の際は勇敢に戦い何人も討死している。 「甲斐国志」によれば、初鹿野源五郎は足軽大将を務め川中島で討死した、初鹿野伝右衛門は本領四百貫で信玄の旗本で三番と下らぬ若者であった、としている。 「甲陽軍鑑現代語訳」には、三州長篠合戦の際、勝頼が退却する時には僅かの供しか居なかったが、初鹿野伝右衛門は土屋惣蔵と二人だけで付き添っていた。初鹿野伝右衛門はこの時五六町働きまわったという。 高田小次郎信頼は「甲斐国志」には、源頼政の胤であり、高田太郎盛員は上州菅野庄を世々領した。 兵庫頭遠春は法名道三で寛政高田家譜には、小次郎憲頼の父兵庫助遠春は天文16年8月11日死すとあり、高白斎記同日の記に、11日己未、午刻志賀父子、高田父子討ち取られる、とあり一致する。 遠春とその長男小太郎某がこの時戦死し、二男小次郎が家を継ぎたるなるべし、その子小次郎憲頼は上杉憲政に仕え諱字を賜った。甲陽軍鑑や古戦録等には菅野大膳亮なりとされている。 永禄中に甲州に来て味方ヶ原の役で傷を受けて討死した。48歳で法名は正ァ、下ノ郷起請文に高田大和守信房とあり是か。 下ノ郷起請文の原本を検討すると、高田大和守繁頼自署し、花押と血判を添えてあるので、先の信房は誤りであろう。信頼はその息子なり小次郎又は兵庫介とも称した。 勝頼の時、度々武功があった、享年39歳、法名を正伝という、宮原興蔵寺に葬る。 勝頼の印書に、就干帰陣態ト音問祝着ニ候仍テ其ノ境無別条之由尤モ肝要ニ候有異ルコト者屡々注進尤ニ候云々十一月十六日高田小次郎殿とあり、その息子は小次郎直政という。母は小幡尾張守の娘という、後には幕府に仕えた。と記されている。 勝頼は、帰陣に際して書状を届けた事(見舞い)について、小次郎に感謝状(興蔵寺文書)を送っていた。 この「上州菅野庄」とは不祥ながら「姓氏家系大辞典」に上野国甘羅郡とある事から、妙義町の高田・菅原一帯であろうと思われる。 別項には「上野国甘楽郡菅野庄高田」とも見えている。この他、菅原神社の鰐口(後述)には上野州高田庄菅原郷と記載されている。 高田氏は古い古い氏族であり各地に高田氏があり、その地名もあるとして同書では7頁に亘って解説している。 また「下ノ郷の起請文」とは生島足島神社の事であろう、同神社の所在地は今も上田市下之郷という。 高田氏の本拠地は上野国高田村(今の富岡市)であろう。妙義町高田には高田城跡があり、妙義町菅原には 菅原城(山城)跡がある。同麓に位置する陽雲寺は高田氏の居館とも言われる。 陽雲寺の伝えるところでは、高田小次郎が同寺を開いたとしている。この小次郎が直政だとすると、同寺の歴史は400年にも及ぶ事になりやや違和感が生じる。 それはさておき、同寺には高田氏の紋章・16弁の菊が、二重に浮き彫りされた板木が3枚、今に残されている。約190年前の物で、大きさは直径67センチもあり旧本堂に飾られていた物という。 高田氏が妙義町高田を離れて久しい今、「高田」の地名と高田川の川名だけが同地に残り、豪族の痕跡・名残りは全く失われている。 両山城も、容易に足を踏み入れられるような所ではなく高田氏も忘れられた存在と化している。「武家家伝」によれば以下の通り。 高田氏は元美濃に居たという。妙義町高田に移住し高田川の南に高田城を築いた。「吾妻鏡」に頼朝が上洛した時の随兵の中に高田太郎が見える。この太郎は盛員であり関東御家人の一人であった。 「太平記」には高田又二郎の名があり、又二郎は新田義貞に属し後に管領上杉氏に属した。結城合戦では高田越前守が武功をあげた。高田伊豆守(遠春)父子は志賀城に籠り、武田軍と戦い討死した。 謙信の関東幕注文には箕輪衆高田小次郎の名がある。高田憲頼は信玄の西上野侵攻に抵抗したが、軍門に降り起請文を提出した。憲頼の子は信玄から一字をもらい信頼と名乗った。 三方ケ原の合戦にも出陣し活躍した。 後に北条氏に従い信頼の子は氏直の一字を貰って直政と名乗った。北条氏が滅亡すると直政は高田城を離れ 信濃塩田村に移住し、鎌倉以来の在地領主高田氏の歴史は幕を閉じた。その後、直政は家康に召し出され上田城攻めや大坂の役にも参陣し、旗本として近世を生きた。 大坂の役において城昌茂は、御使番 奏者番、軍監、時に監使と呼ばれた事が分る。「日本戰史」の十一月八日の項は以下の如くに記されている。 家康、利隆忠継ノ神崎川ヲ渉ルヲ聞キ思ヘラク中島ハ枢要ノ地ナリ二人神崎ノ堤ニ狃レ 軽易ニ水ヲ渡ラハ必ス多ク兵ヲ損セント乃チ城昌茂ヲ遣シ其軍ヲ監セシム。 ―中略―其兵ヲ川岸ニ備フ利隆之ヲ見テ進ミ撃ントス昌茂止メテ曰ク 彼衆ク我寡ク険易同シカラス主客勢異ナリ如カス兵ヲ按シテ彼ノ動静ヲ観ンニハト利隆必ス進マムトス昌茂大聲シテ曰ク 吾ハ大御所ノ命ヲ銜ンテ来ル我言ハ即チ大御所ノ言ナリ何ソ聴カサルヤト利隆己ムヲ得ス之ニ従フ ここまで読み進み次の頁をめくると、「第四十九城昌茂、利隆ノ進撃ヲ抑止ス」と小見出しがついている。 更に左の頁に目を向けた時、私は思わず目を見開く事になった。そこに書かれている城和泉守永盛(〇〇)の文字が私の目に飛び込んできたのだった。 以下の記事がそれである 利隆ハ見之勇ミ進ムト雖目附城和泉守永盛(昌茂)源君ノ命ナリト云テ強テ制之利隆憤リヲ抑テ兵ヲ収ンヤ否ヤト思惟スル處ニ阿部四郎五郎 ―中略― 武家ノ恥辱ナレバ只進ニ不如ト云フ一言ニ力ヲ得テ永盛制スレトモ不用利隆ノ将利隆始ヨリ貳アラス―中略― 源君決シテ如此ノ非理ノ命アルべカラスト云フ永盛歯ヲ斬リ小躍シテ汝等吾言ヲ軽蔑ス其罪重シ必言上ヲ遂テ一々腹切センズト大ニ怒ル―中略― 加藤式部何も被申候此口の横目城和泉守資茂(昌茂)なり和泉功者なる故此所存を承候に中々思ひも寄らす候と固く和泉申候―後略― 後半は何故か、カタカナから平仮名を使った文章となり、新しく城和泉守資茂の名前も現れている。だが、ここには「永盛」の名前が三ヶ所に現れている。漸く城和泉守昌茂が城和泉守永盛と名乗った証拠を見つけたのである。 この記述は「日本戰史大阪役」編の記事であるが、小見出しの項が終る最後尾に小字で「大坂御陣覚書」と記されている。 してみると同書からの引用であろう。他の項にも小字で「大坂陣聞書」などと見えるから、類似の各家所蔵の文献が幾つもあったと推考される。 城和泉守昌茂の別名が城和泉守永盛であった事は、殆ど世の中に知られていなかった。 この事は、とりもなおさず永盛と名乗ったのはごく短期間であった、ごく一部の人にしか知らせなかった、身内などのごく一部の人が永盛と呼んでいた、のいずれかであろう。 してみると、この短期間のうちに城昌茂と小柏氏は親交があったか、もしくは身内のようなごく近しい間柄であったと言う事が出来ようか。 小柏定重は長篠で討死したが、弟の定政及び父の高政と共に、信玄・勝頼に仕えていた。城昌茂も父の景茂と共に信玄・勝頼に仕えていた事から、当然ながら甲州近辺において接触があったとみられる。 小柏氏は侍大将小幡氏の親類衆として信玄に仕え、城昌茂は約21年間武田氏に仕え旗本足軽大将となった。 小柏定政の嫡男・重氏と義父の城昌茂との年齢差は41歳程あったものの、両人とも長生きであったので45年程は共に同時代を生きたのである。 ともあれ、ここにおいて私の初期の目的は果たされたようだ。小柏氏系図に記された城永盛の名前は誤伝でも誤写でもなかった事がここに証明されたのである。 時間をかけて数多くの文献を調査してきた甲斐があった。 「日本戰史」は明治16年頃に参謀本部によって編纂された大部の史書であり、いわば官公庁の出版物ともいえるものである。 国家の庇護のもとに編纂された同書は、文字通り数えきれない数百〜数千の文献を蒐集して記述されたもので、間違いがあるとも思えない。記事の一部重複や事件が前後しているような気もするが、もしかしたら膨大な参考文献を忠実に引用し述作したのかもしれない。 |
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小柏氏系図と高山氏・小幡氏 「上野国小幡氏の研究ノート」では、現存の小柏氏系図は明治中期に古系譜を筆写したため成立年代は不詳としているが、「藤岡市史」では、江戸時代中期に古記録を基に筆写したものと述べている。 この両書が調査した小柏氏系図は、高山吉重氏所蔵の系図である。同氏所蔵の系図は昭和10年に高山長五郎氏が小柏氏系図を筆写したものである。 小柏宗家に聞いた話では、親戚の三波川の飯塚氏に小柏氏系図を貸した事があると言っていた。飯塚氏と縁戚(高山氏と小柏氏もまた縁戚ではある)の高山長五郎氏が、この時に筆写されたと想定される。 そして小柏氏館跡の板碑に長五郎氏が、この系図を基に長文になる小柏氏の系譜・事績などを書いてくれたものに相違ない。 高山吉重氏所蔵の小柏氏系図は、その後の高山氏と小柏氏が縁戚となった系譜等が書き加えられていて貴重な史料には違いない。 今に残されている小柏氏系図は「平姓上野国小柏氏正系図」と題された物であり、群馬県立文書館に保管されている。この現存する小柏氏正系図を子細に見ていくと、筆跡などから江戸時代中期に書かれた物と想定される。 その頃から筆跡が変わる事からそう判断できる。それ以前からあった更に古い系図が、虫食いなどにより汚損したので新たに筆写し再作成したと推測する。江戸中期の時点で、古い系図が存在していたと推測するのは次の理由による。 別牘(後述)だけ作って、系図を作らないのは片手落ちになる。どの年代のエピソードだったのかも分からない。最初の別牘に書かれた女子のプロフィール・嫁ぎ先の氏族名や住所地も不明という事になる。 再作成者は小柏重簡と思われる。(拙著「小柏氏800年の軌跡」では、重簡の弟・重方と想定した。) 系図の冒頭から続いてきた筆跡が、重簡以降から変わるのが主な理由である。 寛政12年に上日野村の禅宗門改帳が作られたが、小柏六郎右衛門重簡はこの時48歳で名主を務めていた。(重簡引退後は弟の重方が名主を務めた。) この頃は全ての者が旦那寺を持つように規制されていて、切支丹の詮索が山里にも押し寄せて来ていた事が窺える。 こうした状況もあり、由緒ある家柄を証明する為か、格式と伝統を示す必要があったのか、その頃所蔵していた古い系図が経時変化で傷み、読めない部分も出てきていたので、古記録を調べ直し新たな系図を作成したと思われる。 ![]() < 平姓 上野国 小柏氏正系図 > だが更に熟考を重ねてみると、系図を作成した者が父の代までを書いて、そこで一旦終了として自分の名前を書かないのは妙だ。系図作成時点で子供が大きくなっていれば、自分の次に子供の名前まで書き込みそうなものである。 この考察が間違いないとすれば、現存する系図の作成者は重簡の祖父の記重か父の祝重という事になる。尚も子細に系図を調べると、記重の名前の左横に記載された死亡年次は、左右の文字よりもかなり墨が薄くなっており、後から付加された文字列とみられる。 ここから得られる結論は、「系図を再作成したのは記重であり自分の子の祝重までの系譜が記された物であった。後年この系図に重簡以降の系譜を書き加えた時に、記重の死亡年次を追記した」というものになる。 更に系図をチェックすると祝重の左横に記載された死亡年次も、後から付記された物で記重の死亡年次の文字と同じ筆跡である。そしてこの筆跡は重簡以降の筆跡と同じである。 尚も系図を仔細に見ていくと、祝重の弟の惣次郎までが記載され、江戸中期に再作成された系図はここで終わっている。惣次郎の名前の左横には、後年に死亡年次や法名を記す為とみられる余白が設けられている。 続柄を繋ぐ罫線の表示方法を見ても、明らかにここで系図は一旦終了しているようだ。 記重が系図を再作成した時期は壮年の頃と想定されるので、およそ1734年頃になろうか。 正に江戸時代267年の真ん中の年代となる。この考証は期せずして、「藤岡市史」が述べている見解(後述)と合致する事になる。 いま現存するこの系図は明治15年頃(秩父事件の前々年)に、重簡以降の系譜を書き継いだと思われる。「上野国小幡氏の研究ノート」はこの部分の事を指しているのだろう。 系図中には「上野国甘楽郡日野庄小柏村」と記載がある。明治以降の日野村は、確か多胡郡に編入されたと記憶している。 この明治期に系図を書き継ぎ、補完したのは小柏重明と推測される。 重明八郎治は戸長の職にあり、自身の屋敷地内に小柏分校を誘致し学務委員も務めていた。また自邸内の御鉾神社を祭祀し、熱心に御嶽教の普及に力を注いでいた。神社の集会の際には小柏村の殆ど全戸が参加していた。 重明は福沢諭吉に傾倒していたが、後に生糸での横浜進出に失敗し凋落の因を作った。 小柏氏系図については、職名が違う、年次に疑義がある等の指摘があった。「上野国小幡氏の研究ノート」では、小幡氏が小田原に入城したのは2月頃であり、小柏氏系図にある“7月籠城“には疑問を呈する、と述べている。 このくだりは、「十八庚寅年七月與小幡信貞[旗頭]共定政籠城干小田原茲北條家為太閤秀吉没落故定政浪々―」と書かれている。 確かに七月に入城したとも取れるが、後の「茲(ここ)に秀吉の為に北條家は没落した」にかかり、それは籠城していた七月の出来事であった、と解釈する事も可能である。(小田原城は7月5日に開城している。) 系図であるから、定政が二月に籠城を始めて七月に落城した、と事細かに記さずに簡潔な文章にしたてたとみる。ここで重要な事柄は入城した月よりも落城した月である。 冒頭にニ月と記載したならば、中ほどに「七月」の文字を入れる必要が生じ、くどくなる印象を避けた可能性もある。系図は日記や史書ではないから最初からその目的も違う。 定政の項の末尾には「猶委曲記干別牘焉」と記されている。定政の詳しい事績は別牘に記してある、ここには主な事績・系譜を記す、という意味である。有名な合戦であったから、世の人々も良く承知の事だろうとの思惑も働いたのではないか。 |
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小柏氏の伝説 ところで「小柏氏系譜と戦国武将」述作中で、殆どの文献や古記録に出てこない小幡大膳亮が同時代の実在の人物だった事を明らかにした。小幡大膳亮は、長篠・設楽が原合戦の際に小柏定重と共に斥候に出ていた、と小柏氏系図に記載がある。 ちなみに、この定重は宝積寺の裏山の池で蛇攻めにあった「菊女」を助けたと記されている。現在のお菊様は大きく立派な観音様のお姿となり、小幡氏と宝積寺によって今も供養されている。 また、お菊様の苔むした墓碑は私の生家のすぐ近くに建っていて、瞑目して静かに時の流れを見つめながら佇んでいる。 小柏定重の父・高政は、小幡信貞(真)の姪を妻にしており信貞と共に信玄に仕えた。 かなりの豪傑だったらしく、「藤岡市史」には10人斬りの伝説が載せられている。この時、川は真っ赤な血の色となり二キロ下流の野々宮神社は、血の宮神社と呼ばれたという。「多野郡誌」には“千人斬り”の伝説が記されている。 「永禄年間に北条軍が押し寄せてきた時に、高政が敵千人を瀧に斬り落とした、その遺跡が千ヶ滝という。川が七日七夜にわたって血の川になった」と記している。 この他、「ふじおか ふるさとの伝説」には「名刀むかで丸」の話を始めとして、幾つもの小柏氏の伝説が紹介されている。 小柏高政は小幡信真と共に連名で、妙義神社と菅原神社に鰐口(神社の軒に吊される金鼓)を寄進したが、この事は「甲斐国志巻之九十八」や「幡氏旧領弁録」にも取り上げられている。 しかしこの鰐口の事は枝葉末節の事と判断したのか、小柏氏系図には記されていない。ただ高政の項の末尾に、「其外委曲有干別牘焉」と記されるだけである。別牘の牘(とく)とは第一義的に文字を記す木の札の事をいう。 もし事実とすれば、紙のようには破れない木札に記録したという事になるのだろうか。しかし「牘」には文書の意味もあり紙もそう高くなかったと思われるので、やはり細かいエピソードは別の文書に記録していたと解釈される。 系図は人物名の羅列であり個人の事績や物語を逐一は記せない。別牘が存在するとの記述は、小柏氏系図の中盤に6回見えている。 内訳は委曲別牘の表記が4回、委曲別記の表記が1回、委曲別録の表記が1回である。 最初に別牘ありと記された人物は、大力を持つという女子でありその他の5人は男子である。 戦国期の16世紀中頃から、江戸時代の17世紀末頃までの間の約140年間の5代の当主の事績が、別牘(別記)として系図と別に作成されていた事が分る。 残念ながらこの別牘は失われて今に伝わってはいない。だが本稿では小柏氏系図に書かれていた名前・城和泉守永盛が城和泉守昌茂と同一人物であった事を明らかにした。よって小柏氏系図は細かい部分で誤りもあるであろうが、大筋では正確であり真実を伝えていて、一定の史料価値が認められて然るべき物と考証される。 小柏氏系図では更に古い部分の記述に、小柏實親の母は小山田左衛門尉行範の娘とあるが、こちらの方の調査はまだ少ししか出来ていない。 小山田左衛門尉行範の実像はいまだ浮かんでは来ないものの、偽りを書く必要もない事からこの記述も真実のものではないだろうか。 少なくても古記録(別牘)か古伝承があったのは間違いないと推考される。 藤岡市史は小柏氏系図の原本ではなく、高山吉重氏所蔵の小柏氏系図を検討し中世史料編に掲載し、次のように論評している。 「本稿は藤岡市高山の高山吉重氏所蔵の『小柏氏系図』によって、その内容を検討した結果の記録である。―中略―小柏氏は別図のように、鮎川の源流に近い藤岡市上日野に六百年以上定住していた名族で、この系図は巻末にあるとおり、昭和10年、高山長五郎氏の書寫本であるが、おそらく江戸時代半ばに一応まとめられ、大正の頃、その後の事項を補ったものと考えられる。 しかし戦国期以前の記載内容も比較的正鴻である事から、早くから小柏家に伝えられた何らかの資料があり、それが基本になっているものであろう。 尚、天文―慶長の間の事項については、この系図に関連した別記があった事も内容に記されている。また、定重事項中の『菊女伝説』、定政事項の中の『宝積寺合戦』は、小幡伝来記にも載せられているものであるが、内容の基本事項に相違があり、小幡伝来記以後に作られたものではあるまいと思われる」 甘楽郡南牧村の黒瀧山に建つ不動寺は、百数十の末寺を持つ黄檗宗黒滝派の禅寺である。江戸初期に小柏重高は日野村に草庵を建てて、旧事本紀大成経を顕したとされる高僧潮音を、沼田から招き庇護した。後に重高が開基となり潮音を開山として不動寺を建立した。 隆盛時には説法会などに3,500人もが登山・参集したという。同寺で開講する潮音大学で、四百有余年の時を経て奇しくも小幡氏の宗家と小柏氏の宗家が邂逅した。今から数年前の思いがけない出来事であった。 一般に戦国時代と聞くと、それは“遠い昔の時代”と思いがちであろう。けれども、今に至るも其処此処に戦場跡や墓碑や伝承が残っている。 時間の観念も時代の変遷と共に変わってゆくが、戦国時代はそんなに遠い、遥か昔の時代ではなく、手を伸ばせば届くような所にある、とも言えようか。 |
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主な参考文献 大日本地誌大系甲斐国志四 日本戰史 藤岡市史通史編 藤岡地方の中世史料 小柏氏800年の軌跡 ふるさと人ものがたり藤岡 多野郡誌 甲陽軍鑑大成 ふじおか ふるさとの伝説 甲陽軍鑑現代語訳 戦国人名辞典 姓氏家系大辞典 新訂寛政重修諸家譜 武家家伝 新訂増補国史大系38 山梨県史 小柏氏と戦国武将 御荷鉾山のつむじ風 神サマ常次郎 |
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