安中市のおもしろ歴史 赤穂義士と性神信仰 |
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秋間の赤穂義士と性神信仰 上州の安中藩は、日本で最初に(安政二年)マラソンを実施した、として時として話題に登る。藩主の板倉勝明は武芸を奨励し、高島秋帆を招請したほか藩士に鍛錬としてマラソンをさせた。このマラソンは「遠足」と呼ばれ安中から碓氷峠までを往復するものだった。 この遠足は同時に走るのは少人数で、数日間に亘って実施された。前を走っていた上役が疲れてへばっていると、追いついても追い越さずに上役が走り出すのを待つという気使いもあったと報告されている。 この安中市では秋間梅林が有名な観光スポットとなっている。秋間梅林の東北方面には安中榛名駅があり、さらにその北方には赤穂義士の石像・47体がある。20年もの歳月を費やして、これらの石像を建立したのは下秋間の元助である。 元助は下秋間村の百姓の長男であったが、伊勢参りに出かけ路銀を使い果たして、難渋しているところを片岡源五右衛門に助けられた。源五右衛門は浅野内匠頭の家臣であり、代参として伊勢に来たところであった。 源五右衛門は吉良家に討ち入りした後に切腹して果てた。悲嘆にくれた元助は僧体となり方々で寄進を集め、ついに浅野内匠頭夫妻と四十七士の石像を完成させた。この後、元助は諸国を巡歴し房州の長香寺に落ち着き村民を助けていた。 やがて自らの寿命を悟った元助は岩窟を掘り、その中に入って自ら石蓋を閉じた。村人を火難から救い・家内安全を願って念仏を唱えながら入定したのである。この入定の状況は妙義町大牛に伝わる「六部さん」と酷似している。 ところで秋間周辺には鎌倉時代からの古い士族・飽間氏が勃興していた。新田義貞が鎌倉を攻めた際、これに従った飽間盛貞は分倍河原で討死に、飽間家行と飽間定長は相模国村岡で討死にしている。今に残る版碑によれば飽間氏は「飽間斉藤」なる呼称(姓)も使っていたようだ。 さてこの飽間氏に関わりがあるとみられるのが、飽馬神社である。 同社の由緒は古く、上野国神名帳には碓氷郡十五社の中に、従三位飽間大明神として挙げられている。おそらく同じ神社であろう。 も掲げられている。「飽馬」の語源は古く、日本武尊に由来しているという。 東国征伐を命じられ遠征してきた日本武尊が、房州を経て上州を碓氷峠に向かう道すがら馬に乗っていることに飽きて、馬を停めて暫く休んだ所と言われている。従ってこの場所で、馬に飽きたことから飽馬(村)の地名になった。 遥かな昔にあって馬で移動していたのか疑問が残るところではあるが。愚問を発すれば、日本武尊が火攻めにあった際も、走水から東京湾を渡った時にも馬についての記述は見られない。いわゆる後世に付会された地名説話というものらしくはある。 また一説では、日本武尊が伊勢神宮を祭祀したのが飽馬神社だという。同社では今も春秋の例大祭が催されている。 ともあれ、「飽馬」が年月を経て段々と語慮の良い「秋間」に変っていったと考えられている。「飽馬」の発音は「悪魔」を連想させる。これも一因になったかもしれない。 上州には道祖神が多いが、中でも双体道祖神や性神が多いようで飽馬神社では簡便な僧体をした双体道祖神が見られる。
この道祖神はその形態から一般に「餅つき道祖神」と呼ばれている。この餅つき道祖神は、一時は別の場所に置かれていたがまた帰って来たという。造立年代は背面の刻印から文政8年(1825年)と想定されている。餅つき道祖神が注目されるのは、何と言ってもその奇体な像形によっている。 餅つき道祖神の大きさは、高さが約55センチで幅が50センチほどのもので、やや小ぶりのものである。ここから核心部分に入ってゆく。 餅つき道祖神の神体の浮き彫りには、緻密なものは感じられないものの、その構図は異様というか一風変わっている。一見したところは仲の良い若夫婦のようでもある。女神の方は長い髪を束ねて背中に垂らして、中腰で手を臼の中に入れて餅を返している。 男神の方は杵を振り上げて、今にも振り下ろして餅をつく格好である。だがよく見と男神の又には男根が丸見えである。丸見えというより、わざと大きな男根をむき出しにしているのである。 してみると、この像形は性行為の擬態であることが分る。杵は男性器を表し臼は女正器を表している。子宝に恵まれるよう祈念して建立されたものであろう。 赤子の死亡率が高かった時代では、生まれた赤子が丈夫に育つようにと、家族の誰もが願ったことだろう。 自分の繁栄に繋がる子孫の誕生と健康は、願い事の最たるものであったと思われる。 こうした子孫繁栄を願う石像には、何故か弥生時代の面影が残っているようにも感じられる。 上日野町の石像神 これとは別に性器をかたどった石像神は、私の知る限りでも藤岡市上日野町・鬼石町から下仁田町、妙義町、安中市まで広いエリアに跨っている。何故かこれ等の町村は期せずして、御荷鉾山、妙義山、榛名山の秀峰に囲まれた地域となっている。 性神信仰の観点から、モロに性器だけを石像に刻む形式と、餅つき道祖神や足を絡ませた双体道祖神などは、何らかの関連性を持っているように思われる。性器だけを石像に刻んだ物は、やや露骨な印象を拭えない。 飽間神社の、餅つき道祖神の像形彫刻には精巧さが見られないことから、若い女性にも抵抗感が少ないように、露骨さを抑えて抽象化した構図としたのではなかったか。 |
今昔余話 里の風 小柏氏の800年 小柏氏系譜と 戦国武将 御荷鉾山のつむじ風 神サマ常次郎
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