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1340年結城親朝(ゆうきちかとも)が小峰ヶ岡に城を構えたのが始まりです。江戸時代に入ると、丹羽長重(にわながしげ)が、奥州の守りとして、幕命により、大改修しました。その後、老中松平定信の居城となりました。幕末には藩主の居ない天領となり、奥州列藩同盟軍と官軍の100日にわたる白河口の戦いで焼失しました。
三層やぐらと前御門は史実に基づき、忠実に再現したものです。木村拓哉の「武士の一分」のロケ地となりました。
【ブログ記事】
白河小峰城
白河小峰城A
白河小峰城B
おとめ桜
お城の周り
南湖公園
松平定信物語 |
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大田原資清(すけきよ)の長男高増(たかます)が大関家を継ぎ、天正4年(1576)、北条氏の侵攻に備えるために、余瀬の白旗城から、より強固な黒羽城を築き、移った。以後、明治維新までの300年間黒羽藩の居城となりました。大関藩は18,000石の大名家です。 |
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芦野の御殿山に13代資興(すけおき)が天文年間(1532から1555)に築きました。資興は幼い頃より、大田道灌に軍法を学んでおり、この城も大田道灌の設計によるものと言われています。わずか3,016石で戦国時代から明治維新まで続いたのは、ご立派!!
江戸時代は交代寄合旗本として、大名と同じく、参勤交代を行った。
詳しくは、那須町史資料集第二集「芦野家家中分限帳」をご覧ください。 |
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伊王野氏の始まりは、那須の与一宗隆の弟頼資の次男資長で、現在の伊王野小学校に平城を建て、居城としました。13代資清の時、背後の山に城を移し、防備を固めました。以来、23代資房まで続きましたが、寛永10年、資房死亡、跡継ぎ無く、寛永19年、お家断絶。
詳しくは、那須町史資料集第一号「継志集」をご覧ください。 |
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天文14年(1545)、大田原資清(すけきよ)が築城し、以来幕末まで、大田原氏の居城となる。
坂下門外では、会津軍との戦闘があり、戦況不利な状況でしたが、二の丸の火薬庫が爆発して、双方引き分けの形となる。
今では、桜の名所です。 |
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結城朝光が源頼朝の奥州征伐の功で、白川の庄を与えられました。孫の祐広が城を建て、白川結城を名乗りました。祐広の子宗広は北畠氏と協力して、南朝後醍醐天皇側に付きました。宗広の子親朝は小峰城を建て、小峰氏を名乗るようになりました。やがて小峰は北朝足利寄りになり、白川結城は小峰に攻められ会津に逃げました。そして白川城は廃城となりました。
小峰氏も秀吉の小田原攻めに参陣しなかったので、改易となり、滅びました。
本丸跡に建っている「後村上天皇聖跡之碑」は後醍醐天皇の皇子で1328年の生まれですが、1333年(5歳?)の時、北畠氏に奉じられ、北朝方の東国武士の征伐の為、奥州へ来たのです。 |
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