海と船の歴史5(18章)


 
18. ヨット小史   1650 - 2000
                             "ヨット"がオランダ語の"jacht"に由来することはよく知られている。なかでも後世 のヨットの原型となったのは一本マストに縦帆をもつjachtで、内水面や沿岸で小規模 の貨物や旅客の輸送、漁業、そして富裕な人達の娯楽などに使われた。このタイプの 頂点をなすstatenjachtは公用船で、華麗な装飾と小口径の砲装を有し、VIPの送迎 や哨戒(しょうかい)、連絡などの任務に就いた。

図130 17世紀オランダのStatenjacht

図131 スクーナー"アメリカ"1851年
 1660年、アムステルダム市がイギリス国王チャールス二世に贈ったヨットはこの型 のもので、これが英国のヨットの始まりとされている。チャールス二世はこのヨット が大いに気に入り、これに倣って新しいヨットを作らせた。貴族たちにも愛好者が増 え、ヨットレースも行われるようになった。                   この"遊びの船"としてのヨットの使い方は既に17世紀アムステルダム地方の大商人 たちが先鞭をつけていたわけだが、18・19世紀になると国力の進展に伴いイギリスが このスポーツの中心となった。yachtingと言う英語が定着したのもこの時代と言われ ている。この頃のヨットは一般に大型で総トン数100トンを超えるものも多く、また 操船の実務は雇い入れた職業船員に頼っていた。英語のyachtには、われわれが馴染ん でいる"スポーツ用帆走艇"と言う意味の他に、王室や富豪の所有する豪華な自家用快遊 船の意味があるが、これはこの時代の名残である。ちなみに現代ではこの意味のヨッ トには帆は全く無いのが普通で、瀟洒(しょうしゃ)な造りの小型客船の様なものであ る。この例から判るようにyachtやyachtingは帆走と直接対応しているわけではな い。オランダ、次いでイギリスでヨットスポーツが生まれた頃、確かにそれは皆帆船 だったが、その頃はヨットと限らず商船も軍艦も皆帆船だった。19世紀半ばになって 蒸気機関が帆に代わる推進方法として脚光を浴びて来ると、この新技術はヨットにも 導入されてsteam yachtが生まれる。わが国でも、もと昭(しょう)憲(けん)皇太后(こ うたいごう)のヨットだったと聞いたが、白塗の美しいクリッパー船首の船が石炭の煙 を吐いて瀬戸内を航行しているのを見たことがある。また、海外旅行でコペンハーゲ ンの港を訪れた方は同港海軍泊地と市街の間にデンマーク女王のディーゼル・ヨット が碇泊しているのに気付かれたかも知れない。                  大英帝国を中心とする初期のヨット隆盛期の一頁に有名なアメリカ号の英国遠征が ある。総トン数170トンのこのスクーナーは船型も帆装も当時のイギリス流のヨット とは全く違っていたが、1851年大西洋を渡ってイギリス最高の格式を誇るワイト島一 周のレースに挑み、みごと優勝杯をさらってアメリカヘ持って帰ってしまった。以後 この優勝杯はAmerica's Cup(アメリカ号の優勝杯だからAmerica'sであって American Cupとは言わない。)と呼ばれ、英米両国のヨットマンの間で熾烈な争奪戦 が続くことになる。現在ではこのレースは十指に余る国々が参加する世界的レースと なっており、1992年以来わが国も挑戦を続けている。何しろ1851年と言えば浦賀へ 黒船が来て大騒ぎになる2年前である。その頃からヨットレースをしている相手と手合 わせするのは、われわれにとって生易しい挑戦ではない。             19世紀後半はヨーロッパと北アメリカを中心に商工業が急速に発展し、これらの諸 国民の生活に余裕が出来て来る時代である。ヨット愛好者の層は厚くなりヨットの数 も急に増えて来る。上流社会の大型ヨットも依然として盛だったが、経済的余裕のあ る市民たちもこのスポーツに参加するようになった。彼らの船は上流社会のヨットほ ど大きくはなかったが、ひとつの変化はヨットの所有者が自分で操船する要素が強く なったことであろう。それまでの大型ヨットは事実上、雇われた職業船乗りが動かし ていたから、これは注目すべき変化だった。                   この時代のもうひとつの重要な変化はcruising(帆走巡航)の誕生だろう。上流社会 のyachtingは一、二日の水上の行楽か、比較的短距離のレースに限られていたが、新 しく参加して来た市民の中には、もっと長い距離を自分で航海して未知の島々を訪ね たり、その土地の人々と交歓したりすることに楽しさと生き甲斐を見いだす人たちが いた。おそらく彼らは上流社会の人たちよりも立場が自由で、冒険的心情をもってい たのであろう。イギリスで初めてクルージング専門のヨットクラブが出来たのが1880 年、アメリカのSlocum船長が漁船改造のヨットSprey号で史上(しじょう)初(はつ)の 単独世界周航をしたのが1895〜98年である。                  このような航海に使うヨットは帆走漁船か水先案内船(pilot cutter)の中古が多 く、新造する時もこれらの経験豊かな実用小型帆船の設計・構造に倣うのが常であっ た。当時の水先案内は四季を問わず沖合で入港船を待ち受け、船が来ると早いもの勝 ちで水先案内を買って出て移乗するというものだったから、耐航性とすぐれた帆走性 能が必要だった。                               日本のヨットの歴史もこの時期に横浜・神戸両市在住の欧米人によって開かれた。 明治20年代には横浜だけで10隻余のヨットが巡航やレースを行なっていた記録があ る。全長12メートル程度のクルーザーと7〜8メートルのバラストキール付レーサーが 主力だった。明治15年から25年間、現在の東大船舶海洋工学科の教授だったG.D.ウェ ストは自分で設計し日本の造船所で建造した「浪人」、次いで「大名」で孤高のク ルージングを愉しんでいた。「ヨットは造船屋の詩である」の名言を遣している。  こうして一昔前の王侯貴族のヨットに比べると大きさも設計・構造も種々さまざま なヨットが増えて来た。 それらを集めて公平で面白いレースをするには何かハン ディキャップが必要になった。 大型で洗練されたヨットに適当なハンディキャップ を付ければ漁船改造のヨットにも勝利のチャンスがある。19世紀末から20世紀初頭に かけて英米はじめ各国で、この考え方にもとづくレーティング規則(rating)が生まれ た。ヨットの長さ、幅、帆面積などの数字を一定の公式に入れて計算するとratingの 値が得られる。この値が大きい程、期待される速力が大きいように公式を工夫してあ るので、ratingの大きい船ほど、大きいハンディを付けることになる。あるいは ratingが6.00とか12.00になるように設計したヨットだけを集めてレースをすればハ ンディは要らない。6メーター級とか12メーター級とか言うのはこれで、ヨットの長 さを言っているのではない。Ratingを一定に抑えても実際の速力にはある程度の差が あるから、こうなると一定のRatingでなるべく速く走れるようにと設計の競争も始 まった。                                   第一次大戦が終って平和が訪れると、欧米を中心にヨットはさらに普及した。戦争 の重圧から解放された人々のエネルギーが個人生活の充実にも振り向けられたのは自 然のなり行きであろう。当然の傾向として船は一般市民が買うことができるよう小型 になった。19世紀の上流社会のヨットは優に総トン数100トンを超えたが、この時期 になると巡航ヨットでも10〜20トンが普通で、レーサーとなるとずっと小型のものが 増えて来た。水線長5メートル前後,排水量1〜2トンのスター級やドラゴン級などは 従来の感覚からすればミニ版だが、時の流れに乗って大いに普及した(図132,133)。

図132 ドラゴン級

図133 Colin Archer設計のpilot cutter;1905年
                                  もうひとつ、この時期の大きな傾向としてセーリング・ディンギー(sailing dinghy)の躍進がある。それまでも大型ヨット付属の足舟(tender又はdinghy)に小さ な帆とセンターボードを付けて帆走することはあつたが、今やそれが独立した小型 ヨットとして急速に拡がった。これまた第一次大戦後のヨット大衆化の波のひとつで あろう。次々にレーシング・ディンキーの新しい規格が作られオリンピック種目にも 採用された。さき程の前史時代は別にして日本のヨットはこの時代に国際A級12尺 ディンギーを中心に本格的な一歩を踏み出したと言ってよいだろう。日ならずして国 内5メートル級の花は咲いたが、これとてもセンターボードのデイ・セーラー/レー サーの域を出ていない。この時期、世界では既にヨットの分化発展は新しい段階に入 り、競争用と航海用のヨットは明瞭に分化を始めていた(図134)。前者はアメリカ杯 レース用のJクラスをトップに、12メーター、6メーターなどの国際メーター級、さら にドラゴン、スターに至る小型キールボートまで、相対的に重いバラスト、大きい帆 面積、益々磨きのかかって来る船型によって性能の向上は著しいものがあった。これ に加えて次々に生れる高性能のディンギー群が妍を競った。          

図134 1980のクルージングヨット
                                   一方航海用ヨットの方はまだ帆走漁船やパイロット・カッターの影響が強く残って はいたが、二つの大戦に挟まれたこの20年間に、これらの航海ヨットは次々に世界規 模の航海を行ない、ヨットの航海をスポーツとして確立して行った。ただ一人故国ノ ルウェーを後に、ヨット史上(しじょう)始(はじ)めて東から西へ南米南端ホーン岬を回 航したあと、南チリの沿岸で消息を絶ったアル・ハンセン、アルゼンチンから"ほえる 40度"沿いに単独世界周航を遂げたヴィト・デュマ、香港で建造したタイ・モ・シャン 号で横浜、アリューシャン列島、カナダ、パナマ運河を経て帰国したイギリス東洋艦 隊の士官たちなどが挙げられる。                        第二次大戦後の復興期に至って欧米のヨットは最終的な膨張を遂げた。大まかに 言って現在地球の上には約2.500万隻のヨットや自家用モーターボートが浮かんでい る。1.500万が北米、600万がECプラス北欧圏(ほくおうけん)、50万がオーストラリ ア、ニュージーランド、あとソ連と一部の東欧圏がかなりの数をもち、また中南米に も無視できない数がある。日本は遊漁船を含んで約40万隻と言われている。人口あた りの隻数の差は唖然とするものがある。この数字から判ることは、今や地球の上に浮 かぶあらゆる船の中で圧倒的多数を占めるものは漁船でも商船でも軍艦でもなく、 ヨット、すなわち自家用舟艇だと言う事実である。それは人類が海を利用する行為の 中に新しいひとつの要素が現れて来たことを意味する。海上質易や漁業や海洋資源開 発や制海権の場としての海に並んで、スポーツ、遊びの場としての海が、それも海水 浴場のような限られた部分ではなく、少なくとも沿岸20里くらいのすべての海面に わたって重要な存在になって来たわけである。それは船舶技術、海運、漁業、海事行 政、およそ海と船に関係する人類のすべての営みの上に計り知れない影響を与えるに ちがいない。                                  このように巨大な存在となったヨットスポーツはその内容もなお、さらに著しい分 化、発展を遂げている。技術的にその頂点をなすものは、アメリカ杯レースや、 ウィットブレッド世界一周レースなどに出場する大型艇群で全長20メートルをはるか に超え、建造費も億の単位となる。最新の素材、技術を使い、乗手も少なくとも幹部 クラスは事実上プロフェッショナルとなりつつある。批判もあるけれども、これら トップの艇群がヨットの設計建造そして帆走の技術的進歩に果たす役割は大きい。  一方さきに述べたような莫大な数のヨットの圧倒多数はまた別の世界にある。それ は家族ぐるみの海上の行楽、それが巡航にせよ、ヨットクラブの行なう草レース的な 競走にせよ、それが主な機能である。それだからこれだけの大膨張が経験されたとも 言えるだろう。当然、必ずしも帆走と限らず動力推進のプレジャーボートも多数含ま れている。特にわが国では遊びの自家用船40万隻のなかで帆をもつ狭義のヨットは5 万(*)隻程度で、国際的に見ると著しく機主帆従に偏している。最近わが国ではマリン スポーツ振興の掛け声が高いが、これが一時の花火に終らず、実質的で健康なヨッ ティングの普及となることを切望する。そのためには、当り前の話だが、一人でも多 くの人が自分でヨットやモーターボートに乗ることだと思う。ヨット、特に帆走巡航 の魅力に取りつかれた人はまず一生それから離れないものである。