海と船の歴史4(14章-17章)


 
14. 19-20 世紀における軍艦の発達 1800−1960
                             18世紀末から1800年代初の主力艦はすでに述べた<戦列艦>でVictoryはその代 表的なもの。80−130門の大砲を積み、3本マストの全装帆船で排水量は3000トンに もなる(図63)。                                次に重要なFrigate(フリゲート艦)は20−60門で砲装は控えめだが、軽快で航海能 力が高い補助艦、排水量は戦列艦の半分程度、帆装はほとんど同じ。フリゲートより 小さい補助艦は英海軍ではSloop(スループ艦)と呼ばれ、2本または3本マストの全装 帆船に準ずる横帆船。セーリングヨットのスループとはまったく別。このほか、 Corvette(コルヴェット)やCutter(カッター)などの小艦がある(図67)。       これらの帆走軍艦はすべて頑丈な木造で、商船では鉄や鋼がだんだんと普及してき ても影響を受けず、また客船を中心に汽船が普通になってからも18世紀以来の帆装を 固守している。理由としては、外輪に被弾すると動けなくなる、プロペラもあんなも ので動かすのでは当てにならない、ボイラーは爆発の危険がある、石炭やボイラーや 機関で貴重な艦内容積を取られてしまう、木造なら簡単に修理できるが鉄ではそうは 行かない、などと言われた。これらにはもっともな点もあるが、保守的な先入観にも とづくものも多い。そして蒸気機関があれば風に関係なく有利な位置から砲撃できる という大きな長所は頭の固い海軍提督たちには理解されなかった。この傾向は世界最 強の海軍力を誇るイギリスでもっとも著しかったと言われている。商船の世界では もっとも先進的だったイギリスなのだが。                    1853年のクリミア戦争はこれらの保守的な意見に大きいショックを与えた。この戦 争に参加した少数の機関付き帆走軍艦の活躍と、木造艦の火災に対する脆弱さが誰の 目にも明らかになった。またこの時期には商船の間でますます汽船の長所や鉄船の良 さが認められてきていたことも作用したにちがいない。1850年代になると汽帆併用の フリゲート艦が現れ、また既存のフリゲートや戦列艦を改造して補助推進機関を装備 することも盛んに行われた。                          日本に黒船ショックをもたらしたペリー提督の軍艦も実はこの生まれたてや、改装 の汽帆併用艦で、大西洋、インド洋を経て江戸湾への航海の大かたは帆走または汽帆 走によっている。泰平の眠りから覚めた日本人が導入した洋式軍艦もみな汽帆併用艦 だった。考えてみれば、日本の開国と工業化の出発は欧米の船が商船も軍艦も、極限 まで発達した帆船から新興の汽船に移り変わる過渡期に正確に一致していたことにな る。                                     18世紀から19世紀前半までは帆走軍艦の完成期で、この間さしたる変化は見られな かったが、19世紀後半に入ると軍艦の技術革新は史上空前の激動となる。産業革命の もたらした新しい技術、知識が帆から蒸気への転換とともに一挙に噴出した感があ る。                                     1859年には125ミリ厚さの鉄板で舷側を防御し、4200馬力で13ノットを出す60 門砲装のフリゲート、Gloireが進水した(図91)。このフランスの新式艦に対抗してイ ギリスは翌1860年、鉄船で14.5ノット、これも装甲をもつ32門砲装のフリゲート Warrierを建造した。                            

図91フランスの新式軍艦Glorie,19世紀 後半の軍艦の技術革新の火蓋を切った船

図92 英戦艦の例
                この強固な装甲を貫通するために大砲は大型化し、また今までの球形砲丸に代わっ て先端が尖り、火薬を詰めた砲弾(shell)が生まれた。大きな大砲を自由に動かすため に旋回式砲塔(gun−turret)が発明され、従来のように小さな大砲をたくさん舷側に並 べる配置はもはや過去のものとなった。1868年にはもう、舷側装甲210ミリ、砲塔装 甲160ミリ、4門の主砲口径260ミリのL'Ocean(ル・オーシャン)が現れた。このよ うな配置は重心の上昇を招き、転覆事故も起こった。一方では蒸気機関の信頼性が上 がり、長年続いた帆装を廃止して安定性の確保を図るようになる。         こうして1870−1880年ころのヨーロッパの軍艦は帆装の廃止と蒸気機関の採用、 急成長の大型砲と砲塔、分厚い装甲など余りに急激な変化のなせるわざであろう、史 上最も外観上のバランスを失した、格好の悪い船と言われている。しかし1900年には もう新しい技術は定着し、軍艦の姿も新しい調和を示す様になる。日露戦争期の日本 の軍檻はまだ大部分イギリス製だったが、すでに新時代の姿に落ち着いているのが分 かる。図93はこの時期の軍艦の好例。                    

図93 装甲巡洋艦グッド・ホープ
                                    軍艦の形式に大きな一時期を画したのは1906年建造の英(えい)戦艦(せんかん) Dreadnought(ドレッドノート)である。それまでの軍艦は砲装においてまだ帆装時代 の影響を残していて、大口径の主砲と中口径、小口径の砲をいくらか雑然と並べる嫌 いがあった。Dreadnoughtは十分な数の同一口径の主砲をどちらの側にも一斉に発射 できるように配置し、またそのころ発達してきた魚雷を主兵器とする水雷艇(後世の魚 雷艇とは別)の奇襲に備えて発射速度の速い、多数の小口径砲を舷側に置いた。2種類 のはっきり用途の異なる砲装に整理したわけで、この艦の設計思想の明晰さを物語っ ている(図94)。                               

図94 近代戦艦の先駆となった英戦艦ドレッドノート、1906
                         Dreadnoughtからあと主力艦としての戦艦(battle ship),巡洋戦艦(battle cruiser)は次々に大型化して大和、武蔵(日)、Prince of Wales(英)、North Carolina(米)、Bismark(独)などに至るが、これは量的拡大であったと言えるであろ う。そしてこれらの大艦巨砲がその本来の機能を発揮する艦隊決戦は日露の日本海海 戦(1905年)や英独のユトランド沖海戦(1916年)までであって、第二次大戦(1939− 1945年)では期待されたほどの活躍は見られなかった。大西洋ではドイツが大型艦を ほとんど単独で通商破壊の遊撃戦に使う特異な戦術に出たので英海軍も対抗して少数 の主力艦どうしの砲戦があった。しかしこれは本来の艦隊決戦ではない。さらに空母 と艦載航空機に力を入れていた日米両国の太平洋の海戦ではこれらの巨砲はもっと補 助的な役割に止まったようである。今にして思えばすでに大艦巨砲の時代は終わって いたのであろう。この点では日本海軍の航空重視戦略は世界にさきがけていたと言っ てよい。                                   19世紀までのフリゲートの機能を引き継いだ近代艦種は巡洋艦(cruiser)で排水量 3000−5000トン、15センチ主砲の軽巡と、10000トン程度、20センチ主砲の重巡 に整理されていった。第二次大戦では軽巡の方が意外に使いやすく、重巡は期待ほど でなかった感がある。戦後はこの種の水上艦の主力は昔のdestroyer(駆逐艦)クラスの 軽快高速の単能艦になっている。                        1920年代に飛行機が海上の軍事活動にも使えそうだと分かって来て航空母艦が生ま れた。その後の飛行機の発達はめざましく、1930年代後半には急降下爆撃と魚雷攻撃 で大型艦を沈める可能性が出てきた。軍縮条約の制限で主力艦の勢力に不満が強かっ た日本海軍は特に航空戦力に力を注ぎ、太平洋戦争の緒戦では驚異的な成功を収め た。アメリカ海軍も日本に次いで航空戦力を重視していたから、太平洋の海戦は大艦 巨砲の砲戦に代わって、空母を中心とする機動艦隊どうしが互いに艦載機を飛ばして 相手を攻撃する海空戦となった。1960年代には誘導ミサイルが発達し、艦載機の機能 の一部はこちらに移った感がある。しかし現在の国際情勢から考えて、かつての太平 洋海戦のような大規模の海空戦が起こる可能性は少ないであろう。         潜水艦は第一次大戦にドイツが通商破壊に使って大きな効果を上げた。二次大戦で もドイツのUボートは活躍したが、後半にはレーダーの発達と対潜戦術の進歩で苦戦を 強いられたようである。それに対して米国の潜水艦の太平洋における活動は恐るべき ものがあった。日本の潜水艦もいくつかの大型艦を沈めているが、米潜水艦の補給破 壊といたる所での待ち伏せ攻撃の成功は数えきれない。              戦後の冷戦時代には核ミサイル積載の原子力推進潜水艦が重要な戦略艦船となり、 これを攻撃するための同じく原子力推進のkiller-submarine(攻撃潜水艦)と共に新し い主力艦になったかと思われた時期があった。しかしその後の国際情勢の変化は核戦 争やその準備のためのぼう大な浪費を止める方向に動いており、これら原子力潜水艦 の影も薄れて来ているのではないだろうか。                 
15. 20世紀における客船の変遷   1900−現在
                             すでに汽船の項で述べたMauretania(英)、1906年進水は20世紀初頭の大西洋客船 の代表。以後、英、独、仏、少し遅れてイタリーなどのヨーロッパ諸国は競って豪華 高速の客船をヨーロッパ北米航路に就航させた。Bremen(1929,独)、Normandy (1932,仏),Queen mary(1934,英、図95)などが名高い。現在のエアラインの ファースト/ビジネスクラスに当たる上級船客や、3等船室で新天地を夢見る大勢の移 民を乗せて、これらのライナー客船は30ノットに近い高速で大西洋を往復した。蒸気 タービン、4軸プロペラが多い。燃料の石炭はまもなく重油に変わった。1912年4月 に起きたTitanicの沈没(氷山に衝突)は海上における人命の安全条約(SOLAS,Safety of Life at Sea)とそれにともなう各国の船舶安全法整備のきっかけとなった。この作 業は現在では国連専門機関のひとつ、International Maritime Organization,IMO に引き継がれ、わが国も財政面と人材の提供で大きな貢献をしている。      

図95 大西洋の女王クインメリー、1934
                                   大西洋航路ほどではないが太平洋にも日、英(カナダ)、米の大型客船が就航した。 Canadian Pacific社のEmpressクラス、President Line(米)のPresidentクラス、 日本郵船の浅間丸、秩父丸など。日本船はすでにディーゼルを使っていた。燃費はこ の方がずっと良い。                              大西洋、太平洋以外にも日本一ヨーロッパ、ヨーロッパ極東、中国、ヨーロッパ南 米、オーストラリア、ニュージーランド、上海一長崎と数えきれない定期貨客船航路 があった。現在の商業航空機の機能をこれらの貨客船が担っていたわけで、この状況 は大型ジェット旅客機を使う国際航空輸送が本格的になる1950年代の終わりまで続い た。この時期に敗戦国のドイツと日本はそれどころではないので圏外に退き、日本の 客船建造技術は大きく遅れを取ってしまった。                  第二次大戦中の航空機とその関連技術の進歩は目覚しいものがあり、それを応用し たジェット旅客機の出現は世界の旅客輸送を一変させた。この変化は非常に急だった ので、それまで大型客船を建造、運航していた各国では客船の将来予測に混乱があっ た。英米両国は戦時の大規模高速の兵員輸送をも意識して(もう既に時代遅れの発想 だったのだが)、United States(1952,米)、Queen Mary(1934)とQueen Elizabeth(1938,いずれも英、戦中の兵員輸送から復役)を投入して大西洋豪華客船 の最後を飾ることになる。フランスも負けじとFrance(1961)で後を追った。イタ リーがこのような情勢の中で一味違う路線を取って、次のクルーズ客船時代に先鞭を 付けたことは興味がある。Leonard da Vinci(1960),Michelangelo(1965)などは 需要の多い夏期は大西洋定期航路で稼ぎ、冬にはカリブ海を中心に周遊客船になって かなりの成功を収めた。                            1970年になるともう大勢は明らかであった。定期国際航路客船はその座をジェット 機に譲り、年間を通じて周遊客船になる。そして最初からその目的で建造されMono− Class(船客に等級がなく、船上生活も過去の豪華よりもカジュアルな雰囲気を狙う)の クルーズ客船も生まれた。Royal Viking Sky(1973ノルウェー)をはじめ、ますます 多くの船がこの新しい形式の旅客サービスに従事している。GT20000−40000ト ン、ディーゼル一軸で速力は20ノット台、エアコン、低振動低騒音、広汎な娯楽設備 などが特長となっている。 一方では自動車の普及に伴って、自動車と旅客を同時に 運ぶフェリー客船がヨーロッパと日本で大いに普及した。北欧周辺の船などはクルー ズ客船なみのサービス設備をもち、運賃よりもそちらで稼いでいるという(図96)。

図96 ストックホルムとヘルシンキを結ぶ現代のフェリー
                          日本のフェリーはまた違っていて、トラックやトレーラー形式のコンテナ類を大量に 積んで、その意味では一種のRo-Ro貨物船として運航している。多くの航路では年間 を通ずるとこちらの収入の方が多いと言われている(図97)。 日本や東南アジア、北 欧、地中海などでは近距離の高速旅客輸送も近年盛んになった新しい形式である。 hydrofoil boatやhovercraftもあるが、最近では双胴(catamaran)、条件によって は単胴船体の半滑走型が積載量と速力と燃費三者のバランス上最も有利に見える。 

図97 日本のフェリー客船はRo-Ro貨物船の機能も大きい
                         
16. 漁船小史   ?BC−2000AD
                                    人類が初めて水上に出る動機の最たるものは魚や海獣を捕って食料にすることだっ たであろう。その最初の漁法はヤスの類で突き刺すことだった。そのうちに釣り針が 発明されるが、網の使用はかなり遅れる。いずれにしても、使う舟は原始段階の小舟 で用は足りたから、海上貿易や軍船などの技術がかなり進んできた中世でも漁船はど ちらかと言えば昔ながらの小舟だったようである。日本でも16世紀末くらいまでは半 農半漁の小規模な漁業にとどまり、漁船も丸木舟ないしはその延長上にある小舟だっ たと見られる。捕った魚を保存する手段も、それを交換する市場もなかったから要は 自分たちの食料の足しにする魚介類を地先で採取するくらいのことだった。この点、 北欧では中世にはすでに干物や塩蔵のタラやニシンを大量にヨーロッパ大陸北部の地 域に移出するようになっていたが、しかしここでも漁業に従事する舟はやはり沿岸地 先用の小舟だったことに変わりはない。                     沿岸を離れて、ある程度の沖合いでの漁が始まるのは日本でもヨーロッパでもほぼ 17世紀のころだったようである。ヨーロッパでの沖合い漁業はまず北海で広く行なわ れるようになる。スコットランド、フランス、オランダ、デンマーク、ノルウェーな どが主で、特にスコットランド、のちにはイングランド、アイルランドの漁船の活躍 が名高い。2本マストの縦帆船が多いが、後世のスクーナーと違って前のマストが主な マストになるケッチ型がよく使われている(図98)。               

図98 18-19世紀に北海漁業に活躍したケッチ帆装の漁船
                          漁法としては流し網(ニシン、サバ、イワシ(図99))と底引き網(カレイ、ヒラメ、ウ ナギなど、図100)が盛んで、少し遅れてはえ縄(マグロ、カレイ、ヒラメ、ウナギ、サ バなど)も使われた。帆船底引き網は日本の打たせ網と異なり、長い棒(beam)で網の 口を広げ、横ないし少し前よりの風を受けて網を曳く。打たせは真風下へ船を横流し して網を曳くから、技術的には北海の方が進んでいる。             

図99スコットランド帆走流し網漁船

図100 ビーム・トロール帆走漁船
                                 日本では17世紀に日本海の「川崎衆」のような専業漁民が生まれ、全面板構造の船を 使って沖合い漁に挑んだようである。このほかにも北西九州や紀州の捕鯨、九州から 太平洋沿岸にかけてのイワシ、サバ、カツオなどの釣漁や流し網漁もこのころから盛 んになったらしい。この時期になると、江戸期経済、社会の進展に伴って漁獲物の市 場が形成され、また塩干物とか鰹節のような保存の技術が開発されたことも漁業の隆 盛にあずかって力があったであろう。そしてこのような本格的な漁業を可能にした技 術的基盤としてはすでに述べた全面板構造、一本舳の漁船がある。この新形式の船は おそらく軍船、とくに関船の影響を受けて生まれたものかと思われるが、櫓と帆を併 用して機動力に富み、従来の丸木舟型にくらべて格段の耐航性をもっていた。この形 式は約300年後、1920年代の動力の導入まで基本的には変わらなかったように見え る。カワサキ、サツマミヨシ、和泉打瀬など(図101〜104)。         

図101 庄内カワサキ

図102大阪湾の和泉打瀬

図103 右上、従来型打瀬左下、改良された愛知県型打瀬

図104 鹿児島県の在来型鰹釣漁船
                                 図105は19世紀前半に大活躍した米式捕鯨帆船で当時日本近海にも300隻近くが操業 しておりペリーの開国要請の大きな動機だったと言われる。米式捕鯨では舷側に足場 を組み、獲物の鯨を海に浮かせたまま解剖し、脂肪層だけを切り取って船上の釜で煮 て油を採った(図106)。赤身は大かた捨てられていたことになる。          再び目を大西洋に転ずると、19世紀には北米ニューファウンドランド沖の漁業も本 格的になり、有名なGloucester(グロスター)schoonerがタラ漁に活躍した。またこ のころ300トン程度の横帆船に数隻の捕鯨艇(whaler)を積む米式捕鯨が隆盛を極め、 19世紀初めにはアメリカ最大の産業になったとさえ言われている。日本近海の鯨を大 かた取りつくしたのはこの米式捕鯨船だった。                

図105 米式捕鯨帆船

図106 米式捕鯨
       産業革命と蒸気機関はまず北海漁業に大きい影響をもたらした。19世紀後半、蒸気機 関を装備したビームトロール船が成功し、まもなくビームの代わりにオッターボード で網を開く工夫が生まれて、動力トロール漁法が完成した。蒸気動力は流し網やはえ 縄漁船にも広がり、20世紀初頭には北海では帆走漁船は汽船に太刀打ちできなくなっ た(図107、108)。                              

図107 蒸気動力トロール漁船

図108 蒸気動力、鋼製のニシン流し網漁船
   日本でも明治末年(20世紀初め)、蒸気トロール船とノルウェー式捕鯨船(米式と違っ て汽船に捕鯨砲を積む)を導入、漁船の動力化が始まった。また同じころ、漁場の遠隔 化に伴い魚の鮮度を保って帰港するのに苦労するようになった静岡県の鰹釣漁船が石 油発動機を付けて大いに効果があった。その後、各地の鰹船の機帆船化が急速に進ん で行く(図109、110)。こうして大型化、動力化した鰹漁船は経営戦略として鰹の漁期 以外の「裏作」を必要とするようになり、その対象をマグロはえ縄に求めた。これが 1930年代の鰹鮪漁船である。GT.100−150トン、焼玉機関と簡単な帆装をもち、カ ツオ釣に使う独特なボウスプリットがスマートな船型だった。          

図109   初期の動力付鰹釣り漁船

図110 帰帆併用型の鰹釣り漁船
                                  このころには東シナ海の底引き網漁(当初東経130度以西に決められたので以西底引 きと呼ばれる。その後漁区は128度−128度30分付近に複雑な線引き)に2隻引きの 「手繰り網」が成功を収めた(図111)。また北海道周辺ではサケ、マスの沖取り、カニ 刺し網とその船上加工、スケトウダラ刺し網、サンマ棒受け網などが次々に工夫さ れ、それに伴って新しい形式の漁船が生まれて来る。              

図111 以西底引き網漁船
   第二次大戦(1940−1945)は日本の近海、遠洋漁船に壊滅的な打撃を与えたが、食 料確保のための復興も迅速だった。従来のカツオ/マグロ漁船はマグロ専用となり、 GT.350トン程度、鋼製ディーゼル船で世界の海で鰹やマグロを捕った(図112,113)。 南氷洋捕鯨も1965年ころまで盛んで鯨肉は戦後の窮乏した食生活に大きい貢献をし た。以西底引きも大活躍で、戦艦武蔵を建造した船台に底引漁船を横向きにびっしり 並べて建造した例もある。                          

図112 大型鰹釣漁船 鰹釣ロボット使用

図113遠洋鮪はえ縄漁船
                                    近年では底引き船はスターントロールの形式が増えてきている(図114)。新しく生まれ た漁船としては、数隻の専用船で構成する巻き網船団が大きい成長を見せている。ア ジ、サバ、イワシ、カツオなどの回遊魚の群れを魚探で探り当て、強力な灯火で集魚 しながら一網打尽に巻き取る(図115) 。このような生産性の高い漁法ほど、一方で は資源保全の配慮が必要である。                      

図114 大型南方トロール漁船

図115 現在の大型鮪巻網漁船
                                    昔からの沿岸小規模漁業の舟は隻数で言うと日本漁船の圧倒多数を占める。沿岸、 沖合い底引き、イカ釣、刺し網、イワシ、アジ、サバなどの小型巻き網から遊漁船ま がいの舟まで、実動隻数で20万を超える。これら沿岸小型漁船には1960年ころから 大きな変化が起こっている。FRP.化とディーゼルの普及である。FRP.はその性質上、 単一形状量産に適するので、それまで津々浦々の舟大工たちが作っていた多様な漁舟 は大資本の量産FRP.船に呑み込まれていった。今では全国の小型漁舟は二、三の大 メーカーの画一的な設計になってしまっている。20トンクラスの中型FRP.漁船に生き 残った中規模造船所が特長を見せている例があるが、木造船時代の百花繚乱には及ぶ べくもない。高度成長と引き換えにわれわれが失った美しいもののひとつに数えられ る。                                     将来の漁船のあり方を考えるとき、200カイリ専管水域の縄張りや、また一方では やや情緒的に過ぎる自然保護運動の影響があり、漁業の前途は多難である。しかし人 類の食料資源を考えると、圧倒的大量の蛋白資源は海中にある。陸上の動物蛋白の生 産可能性は魚類にくらべて問題にならないくらい低く、端的に言って漁業なしに人類 の生存は不可能である。今後、どのような漁業とそれに適した漁船を作ってゆくか、 それはわれわれの大きな課題である。                    
17. 20世紀後半の海上貨物輸送の変貌  1950AD−2009AD
                         20世紀後半の海上旅客輸送についてはすでに述べたが、同じ時期に貨物船の世界で も大きな変化が起こっている。それは専用船化、大型化、省力省人化にまとめられる であろう。それらはすべて、より合理化された方法で高い経済効率を追うものと言う ことができる。                                 20世紀前半までは荷物を追って港から港へと渡り歩く不定期貨物船(図116,118)が 一般貨物輸送の大きな部分を占めていた。主要航路ではすでに貨客船はもちろん、貨 物船の定期運航(ライナー)も盛んだったが、世界的にみればtramperの役割もまた大 きかった。しかし1970年に近づく頃には不定期船的運航は少なくなり、多かれ少なか れ定期運航のライナー(liner)が一般貨物輸送の大かたを占めるようになった。    貨物の定期輸送は70年代に始まるコンテナの導入でさらに進み、現在では一般貨物輸 送の主力はコンテナ船(図116-119)になっている。コンテナは20フィートまたは40 フィートの軽合金または鋼製の箱で陸上では車輪を付けてトレーラーの形で移動でき る。港の<コンテナヤード>に集められたコンテナはそのまま屋外に保管(野積み)され 倉庫はいらない。定期運航のコンテナ船が入港するとヤードの巨大なクレーンがコン テナを高能率で積み込んで行く。従来の、いろいろな荷姿の貨物を倉庫に保管してお き、船の荷役デリックで積み込むよりも格段に能率的である。荷揚げも同様。コンテ ナ船は運航形態上、大型化が可能で乗員一人当たりの輸送貨物量は大いに増大する。

図116 トランパーとコンテナ船

図117 70年から25年間における貨物船の運航経費内訳の変化

図118 1960年から40年間における船舶用燃料価格の変動

図119
                 あらゆる貨物船の中でも、いちばん巨大化が進んだのが原油タンカー(図126,127) である。現在、主流となっているのはVLCCと呼ばれるタイプだが、その主力は25万 重量トンクラスから30万重量トンクラスに代わりつつある。世界最大クラスとなると 50万重量トンを超えるものも出現した。こうしたタンカーの巨大化は、もちろん一挙 に進んだわけではない。                            戦後間もない時期のタンカーは1万6,000重量トンクラスが主力だった。1940年代後 半から大型化が始まり、そのころ登場したのが「スーパータンカー」と呼ばれた3万重 量トン以上のタンカー。それがやがて6万重量トンを超えるようになると、ニックネー ムは「マンモスタンカー」と呼ばれた。タンカーの大型化はその後も続き、1960年代 後半には、20万重量トンを超えるものも現れる。しかし「マンモス」をはるかに超え る超巨大船となるとニックネームの考案も難しい。そこで20万重量トンを超えるタン カー新しい呼び名として                           「VLCC (Very Large Crude Carrier)」(20万重量トン以上、30万重量トン未満) 「ULCC (Ultra Large Crude Carrier)」(30万重量トン以上)と名づけられた。 タンカーの巨大化の歩みは、ULCCの登場で終止符を打つ。造船技術的にはもっと大き いものが可能でも、採算や運航効率の面では不利となるためだ。          大型タンカーに次ぐ急成長を遂げたのは、ばら積み貨物船(bulk carrier,図 121,122)である。                               ばら積み貨物船は1852年に建造されて以来、経済的な理由により開発は促進され、規 模を拡大させ洗練させてきた。こんにちのばら積み貨物船は容量・安全性・効率性を 最大化しながらその任に耐えられるように特別に設計されている。         その他の注目すべき専用船としては、Ro-Ro liner,Ro−Ro/container liner,重 量貨物運搬船、木材運搬船、石油製品/化学製品タンカー(ケミカルタンカー)、LPG/ LNGタンカー、自動車運搬船(PCC)などがある。                   ところで現在の海運産業にとって最大の問題は人件費だといってよい。オイル ショック時の燃料費高騰もかなりのショックを与えたが(図120)、より長期的、構造的 な問題は結局人件費であることが明らかになって来ている(図117)。 人件費の有利な 開発途上国船員の雇用(混乗)や便宜置籍(flagging out,flag of convenience)は当 面効果をあげているが、最終的解決にはならないであろう。世界の海運産業への途上 国の参入も盛んであるが必ずしも成功しているとは言えず、今後先進海運国と新しく 参入する国の共存共栄が図られねばなるまい。それは言うべく易くして実行は簡単で はない。                                   結論:今われわれが直面しているジレンマは「海運なしに人類の経済、従って生存も ありえない。しかもその海運の採算は非常に悪い」と言うことである。これは農業と よく似ている。言うまでもなくどちらの産業も安楽死を許されない産業である。   どのような脱皮によって、この必要不可欠な産業の採算を取り戻すことができるか、 それはわれわれが何としても解決しなければならない課題である。それは単に技術的 側面にとどまらず、この産業の体質にまでさかのぼって考えるべき問題でもあろう。

図120 大量輸送船(原油タンカーとばら積み貨物船)の成長

図121 1965年から30年間における全世界の商船船種別統計

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