海と船の歴史3(11章-13章)


 
11.産業革命と商業帆船の活躍、汽船への転換  1750−1900
                         18世紀後半にイギリスで起こった産業革命は19世紀にはフランス、オランダ、ドイ ツなど西ヨーロッパ諸国を巻き込みながら進行した。これらの国ではすでに農業中心 の封建社会は変貌し、手工業的製造業や商業も盛んになっていたが、ここにいたって 蒸気動力などを使う大規模の工場生産が始まり、経済や社会の構造が急速かつ根本的 に変わっていった。各地に商工業の中心となる都市が生まれ、農村から都市への人口 移動と集中があった。賃金労働でこの新しい産業社会をささえる労働者の大群が社会 の新しい構成要素として形成されてくる。日本でいえば明治後半の状況がほぼこれに 当たる。この大変革の要因として、西欧諸国が海外にもっていた植民地の役割は大き い。植民地は原料の供給と、一方では製品の販売市場として二重の意味で産業革命の 経済的基盤であった。海外に最大の植民地を持つイギリスでまず産業革命が起こった のは偶然ではない。                               こうしてみると、産業革命の成立には世界規模の大量の物資の流通が必要だったこ とがわかる。産業社会の発展に伴ってますます大量の物流の需要が生まれたことはも ちろんである。それを担うものは船しかなかった。そして当初、汽船はまだ実験段階 でそれが表舞台へ出てくるにはまだ何十年かの年月が必要だった。こうして人間の歴 史上かつてなかった多数の、そして高性能の商業帆船が七つの海を走って、西欧およ び北米の産業社会の需要に応えることになった。                (注)現在の工業先進国のなかで航洋商業帆船の経験をもたない国は日本だけ。このため われわれの通念として、産業革命に始まる近代商工業の発展を支えた船が汽船ではな くて帆船だったことは意外の感がある。しかし1886年、明治19年でも世界の航洋商 船の半分以上は帆船だった。ロイド統計資料1886年:全世界のGT.100トン以上の帆 船1200万トン、汽船1000万トン。                       産業革命の足音がようやく高くなってくる18世紀末、航洋商船の主力は依然として東 インド貿易船(DW.800−1200トン)と西インド貿易船(DW.400−500トン)だった。 しかし19世紀前半、1830年ころには徐々に定着してくる新しい経済構造、社会の構 成、そしてまた蒸気動力を中心とする技術革新が海運の世界を揺さぶるようになる。 200年にわたってイギリスをはじめ西欧(せいおう)諸国(しょこく)の東方貿易を独占し てきた各国の東インド会社はその特権を失い新興の民間資本が参入してきた。保守的 な環境は変わり、より効率的な船をもとめて帆船の大型化と高速化が始まる。    すでに大西洋の旅客運送には1500馬力、9ノット、排水量3600トンのGreat Britainが1843年に汽船の優位を確立していた(図71)。それでも当時の蒸気機関の効 率はあまり高くなかったから、長い航海では時々寄港して石炭を補給しなければなら ず、またボイラーや機関や石炭庫は積載能力を減らすので世界規模の貨物輸送にはま だ帆船にも勝ち目があった。そのためには帆船の方も高速化で対抗する必要があっ た。高速化にはL/Bの増大と、そして船そのものの大型化が効果的である。大型化は 建造費、人件費の割に多くの貨物を積めるから経済的にも有利になる。新興(しんこ う)の民間資本は積極的にこれらの技術革新を実行した。たとえば英国東インド会社の 貿易船のあとを継いだ<Blackwall Frigate>(図70)と呼ばれる貨客両用の商業帆船 のL/Bは1844年には4.3、1850年には4.7、1860年になると5.8から6.0と明らかに L/Bの増加が認められる。サイズも1850年の平均900トンから1860年には1200ト ンに達している。こうして大型、高性能の帆船が続々と建造され、19世紀は帆船の最 後を飾る栄光の時代となった。                        

図70 ブラックウォール・フリゲート型商業帆船
                               このころアメリカではGT.750トンくらいの新しい高速商業帆船が生まれていた。 1847年、カリフォルニアの金鉱脈発見がゴールドラッシュをひきおこし、南米南端 ホーン岬を回ってなるべく早く西海岸へと大勢の人たちが急いだことがその原動力 だった。この船はL/B:5.5から6.0、イギリスのBlackwall Frigate型よりもずっと 細身の船型だった。帆装の基本は従来の3本マストの全装帆船だが、高いマストに多数 の軽風用の帆を追加している。この新しい形式の高速帆船 はクリッパーと呼ばれた。

図71 1843年進水のGreat Britain
                                  1851年、今度はオーストラリアで金鉱が見つかり、人々はまたもや我先にとそこへ 急いだ。アメリカ生まれのクリッパーの駿足(しゅんそく)はきわだっており、イギリス の船主たちにもアメリカの造船所へ発注するものがあった。イギリスの造船所も負け てはおらず、いち早く新興国アメリカの設計を取り入れたから、日ならずしてクリッ パー建造の中心はイギリスに移ってしまった。そしてイギリスのクリッパーはTea Clipper(図73)に代表される極東航路や、オーストラリアの羊毛その他の農産物を英 本国へ運ぶ雄大な世界一周航路に活躍を続けることになる。           

図72 アメリカ生まれのクリッパー
図73 中国の新茶をロンドンに運ぶチャイナ・クリッパー
                              鉄(現在の構造用軟鋼ではなく、純鉄に近い)を肋骨や外板に使うことは蒸気船ではす でに1829年に試みられ、木造にくらべて船殻重量が35%も軽くできると言われて、 だんだん普及していた。帆船では少しおくれて1851年に初めて使われ、その後も肋骨 は鉄、外板や竜骨、船首尾材は木造という木鉄交造が長く使われた。最盛期のクリッ パーはこの構造が多い。有名なカティーサークもこの構造である。         1869年のスエズ運河開通は極東航路の商業帆船に致命的な打撃を加えた。大型航洋 帆船は風の一定しない地中海や紅海には向かないが、汽船にとってはこんな有り難い 近道はない。こうして中国、東南アジア、インド、日本への航路は汽船の舞台となっ た。1868年に新政府を発足させて近代化、工業化に取り組んだ日本が海外貿易に関す る限り、汽船一辺倒で進んだのはこのためであろう。 大西洋航路もこのころには、 旅客、郵便、高価な貨物など大方は汽船で運ぶようになってきた。現在の航空機の役 割によく似ている。しかしその他の大洋航路ではまだしばらく帆船の活躍が続く。 オーストラリアの羊毛や小麦、南米の小麦や肥料原料、鉱産物などの輸送では20世紀 になってからも相当数の帆船が就航していた。これら最後の商業帆船の平均航海速力 はほぼ6ノット、1時間最高では20ノットの記録もあるが、無風もあわせて平均すれば この程度だった。1890年ころには軟鋼が鉄に代わって船殻重量はさらに軽くなり、大 型帆船では木造の半分近くになる例も珍しくなかった。軟鋼の使用で帆船の大型化は 進み、GT.3000トンを越える船も多い。たとえば1902建造のThomas Lawson,5218GT. 1902のPreussen,5600GT.などがある。          この時代にはマストも下の方の太い部分は鋼製、また揚錨機(ウインドラス)、操帆 ウインチなどに蒸気機関を使い、索具もワイヤーロープを採用するなど、さまざまの 工夫を凝らして経済性の向上を図り汽船の追い上げに対抗した。船の歴史のなかで最 も経済効率の高い帆船だった。(図74)                     

図74最後の大型商業帆船、1900-1905
                                   しかし、次節で述べるように19世紀末から20世紀初めにかけて蒸気機関の効率の向上 はめざましく、さらに1914年のパナマ運河開通はスエズに続く大きな打撃を航洋帆船 に加えることになった。一方、沿岸海運の小型貨物船では蒸気機関は大きすぎるの で、20世紀もある程度進んで内燃機関が普及するまで広く帆船が使われている。事 実、ヨーロッパでも日本でも1930年代まで沿岸海運の主力はむしろ帆船だった。変わ りやすい沿岸の風に適合するために、すでに述べたようなスクーナー、トップスル・ スクーナー、ブリガンティンなどがよく使われた。(図69)           
12. 汽船の誕生とその発達  1800−1950
                                蒸気動力で船を走らせることはずっと以前から多くの発明家の夢だったが、それは 19世紀になって実現した。Charlotte Dundas(1802),Clermont(1807)などが知ら れている。初めは内水の渡し舟や引き船で、推進器は外輪(paddle wheel)が多い。次 に大いに普及したのは帆船の出入港を助ける港の曳船で、イギリスでは1820年代から 広く使われている。Screw propeller(螺旋(らせん)プロペラ)の利点が明らかになっ て、19世紀半ばには外輪船はほとんど作られなくなった。            

図75初めて”汽主帆従”で大西洋を渡ったシリウス
                             最初に大西洋を主に動力で渡ったのは1838年のSirius(図75)で、平水速力は9ノッ トだが大西洋横断では平均6.7ノットだった。 天才技術者の名の高いI.K.Brunel(ブ ルネル)が設計し1843年に建造されたGreat Britainは汽船の歴史に一時期を画し た。船体は100%鉄製(まだ鋼ではない)、98.2mx15.4mx9.9m、排水量3618トン、 1500馬力一軸で9ノットを出した。この船はプロペラで大西洋を渡った第一号でもあ る(図71)。                                  当時のアメリカは躍進を続ける新興国で、ヨーロッパ各国から多数の移民が新天地 を求めて移住していた。移民やその里帰り、本国からの訪問者に加えて、大西洋の両 側で急速に発展する商工業は商用旅行者の大群をもたらした。こうして大西洋航路は 世界でもっとも繁栄する航路であり、ここでまず旅客や郵便物、少量の高価な貨物の 定期輸送の手段として汽船はその地位を確立した。しかし重量の張る一般貨物運送の 主力はここでもまだ帆船であった。この形の汽船と帆船の分業は順次その他の航路、 極東やインド、オーストラリア、太平洋航路などにも広がって行った。さらに1869年 のスエズ開通で極東、インド航路では貨物輸送にも汽船が有利になり、この航路の高 性能の商業帆船群はその他の航路へ転換して行ったことはすでに述べた。      スエズ開通に続いて、1870年代には蒸気機関の効率を高める新技術が進んだ。ボイ ラーが鉄から鋼に変わったので蒸気圧が上がり、高圧、中圧、低圧と3本のシリンダー で次々に蒸気を膨張させる三段膨張機関が開発されて効率向上に役立った。燃料消費 が大幅に減ったので、今までのようにその都度石炭補給をせずに航海できるように なった。こうなると今や汽船の優位は世界の主要航路で明らかになり、1900年に近づ くと大型商業帆船の新造は激減し、代わって汽船の建造が史上(しじょう)空前(くうぜ ん)の盛況(せいきょう)となる(図76)。旅客と限らず、貨物も汽船で運んで十分採算が 取れるようになったのである。                         19世紀の終わりころまでは汽船も何かの時のためにと簡単な帆装を付けていたが20世 紀に入るともう帆装をもつ汽船はほとんど見られず、完全に汽船の時代になってい る。石炭焚き丸型ボイラーと3段膨張機関が標準装備だった。           

図76 1815−1905年の期間に英国で建造、登録された新造船の汽船と帆船別統計
               20世紀初頭、蒸気タービンが発明された。往復動蒸気機関(reciprocating steam-engine)よりもはるかに大馬力のものが作れるし、また高温、高圧蒸気を使う ことに適しているので熱効率も高い。この性質を生かしてタービンは大馬力の必要な 大型客船や軍艦にまず使われた。1906年建造のモレタニアは241mx26m、 GT37938トンの巨体を合計70000馬力のタービンで駆動する4枚のプロペラを使い 27ノットで走らせることができた。タービン船のボイラーには高温高圧の蒸気を作る に適した水管ボイラーが採用され、燃料も石炭から重油に変わって、ボイラー室は近 代的になった。しかし一般貨物船ではあとしばらく石炭だき丸型ボイラーと3段膨張機 関の時代が続いた。ディーゼル機関はタービンと同じころ発明されたが、タービンよ りも最初の出足は遅かった。タービンは蒸気往復動機関では出せない高出力が可能だ が、ディーゼルは同程度であること、またディーゼルは精密工作が必要で簡単には作 れないことなどが普及を遅らせたのかも知れない。しかし1920年代には、比較的高級 な貨物船、貨客船を中心に着実に増えてきている。ディーゼルの大きい利点はボイ ラーが要らないから機関全体の重量、容積が小さいことと馬力当たりの燃料消費が ずっと少ないこと。特に低燃費は決定的な長所で、1940年代も終わる頃には蒸気機関 は珍しいくらいになり、さらにオイルショック以降1970年代には、それまでタービン の独壇場だった大型客船やスーパータンカーなどの大出力も出せるようにディーゼル の開発が進んだので現在では舶用主機のほとんどがディーゼルになっている。   

図77 汽帆船のワイアット・アープ、帆装は非常用
                              沿岸航路の小型貨物船では重くてかさばる石炭だき蒸気機関はまず使えないので、 最後まで帆に依存した船だった(図77)。内燃機関の発明は小型船にも動力化の可能性 を与えたが、ディーゼルは初めのうちは高価過ぎた。そこでもっと手軽で値段も安い 電気着火機関や焼玉機関が1920−1940年ころにまず普及した。たとえば日本では焼 玉機関付き沿岸貨物船(いわゆる機帆船)と帆だけに頼る船が同数になったのは1941 (昭和16)年となっている。現在では小型ディーゼルが安く手に入るので小型船ももっ ぱらディーゼルを使い、焼玉は過去のものとなった。電気着火エンジンも船外機など 特殊(とくしゅ)な用途に限られている。                   
13. 幕末、明治大正、昭和初期の日本沿岸帆船 1850−1950
                          鎖国の直前、朱印船時代には西欧(せいおう)の帆船はすでに大航海時代を経て長足の 進歩を遂げつつあったが、一方この時代までは世界の他の文化圏、中国やアラブ、イ ンドの船もそんなに見劣りしない水準にあったと言ってよい。日本人も「日本前」の 朱印船でようやくこの水準に手が届いたところだった。しかしそれに続く鎖国200年 の間の西欧(せいおう)の船の発達は驚くべきものがあり、幕末の日本人が再び海外の技 術に直面したとき、彼我の差は決定的に広がってしまっていたのである。      開国と共に西欧(せいおう)の技術、知識は船の世界にも洪水のように流れ込んでき た。飛行機も自動車も電気通信もない当時、船の果たす役割は今日とは比べものにな らない。ペリーの黒船に象徴されるように、幕末の大きな事件にはいつも船が関係し ている。この時期、世界の商船隊の大半はまだ帆船だったが汽船の優位はすでに明ら かであり、特にイギリスは世界にさきがけて汽船に力を入れていた。軍艦も1853− 56年のクリミア戦争の経験から大勢は決していた。ちょうどこの時期に戦列に加わっ た明治の日本は近代的な海軍と貿易商船隊の創設に関するかぎり、わき目も振らず汽 船に力をそそぎ、その成果は迅速であった。しかしこれらの鋼製汽船は軍用、商用を 問わず、大筋において世界共通の近代船舶であって、他の章に述べるところである。 幕末過渡期の洋式船導入に関するけなげなまでの試行(しこう)錯誤(さくご)について は、石井謙治:和船 法政大学出版局                      <12>、安達裕之:異様の船、平凡社などに優れた記述がある。          ところで明治になっても国内物流の主力は、新しい汽船よりも在来型の沿岸帆船で あった。江戸時代以来の弁才船の大群がこれに当たったわけで、躍進(やくしん)する日 本経済はさらに大きい物流を必要としていた。                  蒸気機関はその重量と容積から考えて100トンや200トンの沿岸貨物船には使えな い。これは欧米でも同じで、航洋商船や軍艦が急速に汽船になっていった後でも圧倒 多数の沿岸船は帆船だった。そこで明治新政府の方針は、弁才船中心の沿岸帆船を西 洋式の沿岸帆船で置き換えて近代化に資そうとしたわけである。           航洋商船や軍艦の近代化は何も無いところへ新しい技術を移入するのだから、それ なりの努力は要るにしても、とにかく一本道である。沿岸帆船の方はすでにあれだけ の実績と実物がある所へ持ち込むのだから一筋縄では行かなかった。こうして明治か ら大正、昭和初期にいたる沿岸帆船の変遷は日本の船の文化史のなかでも抜きんでて 変化の多い、ダイナミックな様相を呈したのである。               西洋型沿岸帆船の長所は                              1)逆風の帆走性能が良く、風待ちが少ないので平均航海速力が大きい。      2)全通する水密甲板が荒天時の安全に役立つ。                 3)舵の取り付けがしっかりしていて、荒天にも安全。             弁才船の長所は                                  1)建造費が格段に安い(当初1/2−1/3と言われている)             2)運航に慣れた乗員が豊富で、従って人件費が安い。            

図.78 明治初期に導入された洋式帆船のスクーナー

図79 明治24年(1981)の純弁才船型沿岸帆船
                     弁才船の経済上の有利さは決定的で、政府の洋船奨励策は成功せず、明治30年代初で も洋型船の合計総トン数は弁才船の10−15%に止まっている。一方、洋型船の長所を 取り入れて和船を改良する試みはすでに明治10年代に現れ、20、30年代にいたって 西日本を中心に広く普及した。                         いわゆるあいの子船である。第一世代のあいの子船(明治10−30)は弁才型の船体、一 本マストの大帆はそのままで、船首のジブと船尾のスパンカー(ガフセール)を加える。 あとの二つは縦帆で逆風帆走や出入港などの操船に便利(図80,81)。        

図80 明治30年(1897)の第1世代あいの子船

図79 明治24年(1981)の純弁才船型沿岸帆船
                          第二世代のあいの子船(明治25一昭和20)は初めのうちは弁才型船体に二本マストと ボウスプリット(bowsprit,船首斜檣、「やりだし」とも言う)を付け、スクーナーの 帆装。時代が進むとスクーナー帆装の基本は変わらないが、水密甲板が付き、肋骨が 入って横強度を増し、舵取り付け構造が洋式化する。弁才型の船尾は低くなって船首 と同じ高さとなるが、船体は全体として和船構造。この段階になると70総トンまでが 多い。(図82,83,84)                              第三世代のあいの子船(明治末一大正初)は多数の肋骨を持ち、外観も一見洋型と見ま がうものも多い。しかし重要な相違は船体構造の基本が和船式であることで、まず幅 の広い外板を曲げ付けて船型の構成をし、それに沿わせて後から肋骨を入れている。 比較的大型で150総トン前後が多いようである。帆装はもちろん洋式でスクーナーが 圧倒的に多い(図85)。                            

図82第2世代あいの子船

図83 「長浜どぶね」、愛媛県長浜独特のあいの子船

図84 尾張だんべえ型あいの子船
                            明治末から大正期にかけて沿岸帆船に新しい形式の帆が見られるようになる。「伸 子帆」、時に訛って「すいしぼ」と呼ばれたが、5本から10本くらいの丸竹のフルバ テンを入れた縦帆で、中国の帆に近い(図42)。この帆は「朝鮮帆」とも呼ばれたこと があり、また朝鮮ではこの帆はすでに数百年にわたって使われていたことを考える と、起源はおそらくその辺りではないだろうか。この帆をスクーナーのガフセール(伸 子帆に対してふらし帆と呼んだ)の代わりに使うことはその後急速に広まり、あいの子 船や沿岸漁舟はもとより、西洋型構造のスクーナーにまで併用されるようになる。最 大の利点は、帆が風にあおられて暴れることが少ないので縮帆そのほかの操帆が容易 で、省力、省人に役立った。のぼり角度も少し良かったと言われる。       

図85 典型的第三世代あいの子船
                                    ところで大正から昭和初期に入っても「あいの子船」、特に第二世代に分類される 形式は小型船を中心に依然として大きい勢力を持っていた。しかし一方では明治末か ら大正期にかけて西洋型船の構造法がようやく全国的に浸透してきた跡を見ることが できる。現図作業によって多数の肋骨の型取りを行い、一本ずつ個別に肋骨を削り出 し、それを定位置に立て並べた後に外板を張って行く「スバント作り」の技法がもは や大阪など一部先進地域の名高い棟梁の秘法ではなくなった。この技術拡散について は、各地の進取的な若い大工たちの先進地域での修行のほかに、受講生3000人を越え たと言われる橋本徳寿氏の全国講習行や、木江造船徒弟学校(現広島県立木江工業高 校)、大湊造船徒弟学校(現三重県立伊勢工業高校)などの教育が大きな貢献をしたこと が認められる(図86)。大正8年、広島県木之江、森造船所建造          

図86「宝来丸」総トン175トン
                                    これだけ洋式構造の技術が普及してくると、和船との建造価格差は以前ほどでなく なり、また積トン150トンを超える木造船ではスバント作りの強固な構造が有利であ る。第三世代の「あいの子船」のように多数の肋骨を入れるのならば、和船式建造の 長所は少ないとも言えるであろう。こうして大正中期のころには積みトン100トン未 満の船は第二世代の「あいの子船」、100トン以上は洋型スバント作りの帆船と言う 状況が一般的になったものと見られる。このことはなお定量的な統計分析が必要だ が、船名録、造船所や船主の建造記録、多くの写真資料などからまず間違いないであ ろう。なお昭和10年あたりを境に急速に増えてきた機帆船の圧倒多数がスバント作り だったが、これは焼玉機関の振動に耐えるためにこの構造が優れていたことと共に、 すでにこの構造の帆船が十分に普及していたことを示している。このあたりは従来の 説と微妙に食い違う点があり、今までは「和船-あいの子船-機帆船」が大筋と見られ ていたかと思うが、実は「和船-あいの子船-洋式帆船-機帆船」がむしろ大筋ではない だろうか。                                 (*洋式船はまず幾何学的作図によって多数の肋骨の形状を求め、肋骨を個別に製作 して定位置に立て並べ固定する。その外側に幅の狭い外板を次々に張り付けて船体が 完成する。和船は幅の広い外板をまず曲げ付けて船体を形作り、その内側に合わせて 骨を入れる。皮を先に作るか、骨が先か、まったく逆である。)          明治30年代(1900年ころ)に石油発動機と焼玉機関が小型船の推進機関として輸入さ れた。これらのエンジンは内燃機関だから蒸気機関よりも重量、容積が格段に小さく て小型船向きである。初めのうちは主として鰹漁船が使っていたが、大正に入ると焼 玉が沿岸帆船の補助機関に使われ始めた。積みトン数の15%くらいの馬力数でも平水 3ノット程度の速力を出すことができ、無風時や出入港にかってない利便を与えた。  焼玉機関は北欧(ほくおう)生まれの2ストローク.エンジンで、ピストンの下行に伴 うクランクケース内の昇圧で掃気する。シリンダーヘッドにいちじくの実の形をした 予燃焼室(焼玉、glow−bulb)が付いていて、始動に先立ち外からバーナーで加熱す る。この内面に向けて燃料を噴射するので比較的低い圧縮比でも重油などの低質油に 着火できる。始動すれば焼玉は自動的に高温に保たれる。このような原理、構造なの で焼玉機関はディーゼルのような精巧な装置ではなく、地方の鉄工所でもメンテナン スが出来たし、器用な職人はほとんど手作りで製造することさえ出来た。電気着火で ないから海の環境でも信頼性があり、安い低質油が使えることも大きなメリットだっ た。これらの点は焼玉機関の普及に大いに役立ち、昭和10年代には本家の北欧(ほくお う)をしのいで我が国は世界で最も発達した焼玉機関を多数生産するに至った。  初期の焼玉機関付き帆船は依然として本格的な帆装をもち、運航の主体は帆走だっ た(図88)。しかし、動力推進の便利さは期待を上回るものがあり、帆主機従から機主 帆従に移るには何年もかからなかった。こうして運航中は常時機関を運転し、風の条 件の良い時だけ帆を併用して燃料を節約する習慣が定着した。帆装は簡略になり、機 関馬力は総トン数にほぼ等しい数字にまで増加し、ここに我が国独特の「機(き)帆船 (はんせん)」が誕生した(図87,88)。昭和一桁の中頃のことであった。全国統計による と、機帆船と帆船が同数になったのは昭和11年(1936)のことであった。       第2次大戦は機帆船にとっても苛酷な時代であった。損耗は烈しく、一方では海務院 型戦時標準船75,150,250トン型の大量建造も行われた。            戦後の復興期は機帆船の最後の花ざかりであった。西日本を中心に港々には積みト ン100−200トンクラスの機帆船が溢れ、国内物流に大きな役割を果たしていた。も う帆をもつ船は珍しく、一本マストは荷役用デリック.ポストと化していたが、船型 や甲板艤装、船首船尾の装飾の端々に往時の沿岸帆船の優美な面影が残っていた。  これら日本の木造船文化の最後を飾った機帆船も昭和30年代の内航二法を契機に、よ り経済効率の高い内航鋼船に道を譲り、消えていった。思えばそれは縄文の丸木舟に はじまり、5000年の歴史を歩んできた日本土着の船の最後の姿であった。     

図87明治、大正期のスクーナーの子孫である機帆船
                            

図88 洋型沿岸帆船から機帆船へ1870−1940