海と船の歴史2(6章-10章)


 
6. 中国、極東地域の船  ?BC−1400AD
中国は東地中海、中近東と並ぶ古い文明をもつ地域だが、もともと大河周辺の農耕民
族だから海上活動はあまり盛んではなかった。しかし大河や湖などの内陸水運は早く
に発達し、たとえば黄河と揚子江(長江)を結ぶ世界屈指の大運河の原型は早くも
500BC.には出来上がっていた。古い絵から想像される船は手こぎの内水用平底舟らし
い。(図34)                                 

図34サンパン(三板)――中国の舟の原型
                                 この点では朝鮮半島の新羅(Silla)や百済(Paekche)の人たちは300−500AD.には中 国の山東半島や日本への沿岸航海をしていたから、むしろ一歩先んじていたかも知れ ない。1984年に韓国南西部の瓦度島(Wando island)の海底から発掘された船(図35) は11世紀後半のものと推定され、丸木船を別にすれば東洋最古の発掘船である。この 船は中国とも日本とも別の、朝鮮半島独自の形式と見られ、当時既に数百年にわたっ て使われてきていたと言われている。                     

図35瓦宝島(Wando island)付近の海底で発見された船
縄文の丸木舟で始まり、弥生から古墳時代には丸木舟を前後につないで長さを増し、 舷側に板をつぎたして積載量と耐航性を改善した。その後の改良や拡大はあったもの の、ほとんど15世紀初までこの構造の基本は受け継がれ海外の影響を受けることは少 なかったように見える。                            極東(Far East,アジア大陸東縁の地域の総称。中国、東南アジア、朝鮮半島、日本列 島、沿海州)の船を語るにあたって今一つ取り上げるべき地域は現在のインドネシアを 中心とする東南アジアの島々である。この地域はその地勢からして古くから海上活動 があったに違いないが、その船については多くを知られていない。ただ、この地方の 伝統的な船は丸木舟から発達した、アウトリガーで横安定を保つ帆船だったらしく、 これは世界の大方の地域と際立った対照を示す。アウトリガーは舷側から2本の腕木 をつきだし、その先端に太い丸太などの浮力体を船体に平行に取りつけたもので、船 の横安定(復原性)に大きい効果がある。この形式の小舟は今もこの海域で広く見受けら れるが、昔は商業貿易に使えるようなもっと大型の船もあったようで、それは8〜9世 紀のものとみられる寺院の浮き彫り壁画に描かれている。しかし、その後まもなく出 来上がってくる「海のシルクロード」に参入した東南アジアの商業航海者達の船には その特徴であったアウトリガーは影を潜め、次に述べるところのペルシャ、アラブや 中国系の船になったように見える。                       ところで極東に始めて本格的な海上活動をもたらしたのは、すでに述べたペルシャ、 アラブ系の商業航海者たちだった。彼らは7世紀後半には東南アジアを回って南中国に 達し、8世紀に入るとその活動は本格的になった。紀元前にさかのぼるインド洋北西部 のペルシャ、アラブ系貿易船の航跡がついに極東まで達したのである。このころ、西 の世界ではローマ帝国の覇権は衰え、地中海はその分身の東ローマ帝国(ビザンツ)とム スリム海上勢力(ペルシャ、アラブ)の競合する時期になっており、また北欧ではヴァイ キングの先祖たちがようやく力をつけてきていた。                中国では唐の大帝国が成立した時期で、その特産品である絹織物(きぬおりもの)や陶磁 器を西の世界へ運ぶことは大きい利益を生み、またコショウなどの香料や南方の産物 を生活程度の高い文明国だった唐へ運ぶのもいい商売だった。           このころ中国へ来たアラブの船がどんな船だったか、まだよく分かっていない。しか しその大規模で安定した往来から考えて、ローマの商船やハンザ同盟のコグなどに劣 らない積載量や航海能力をもっていたはずである。アラブの三角帆、いわゆるラテン 帆が地中海へ入ったのがこの時期だったらしいことからすると、東洋へ来たアラブ商 船も同じ帆をもっていた可能性が高い。中国文献の調査が期待される。       唐帝国の側もこの貿易に積極的で、広州や泉州(どちらも南中国)にはアラブ商人の大き な居留地もあった。中国人も海上貿易の利を知り外海へ出て行ける大型船を作るよう になったらしい。その船はしかしアラブの船の真似ではなくて中国独自の木造船だっ た。昔からの内水用の船から外海用の中国型帆船への進化の過程はまだ謎に包まれて いる。                                    いずれにしても唐末期から宋時代にかけて出来上がった中国の航洋船は厚い外板とた くさんの横隔壁/肋板で船体を固めていたようである。1970年代に南中国の泉州 (Quanzhou)で発掘された船(図)、ほぼ同時期に韓国南西部の新安(Shinan)で発掘され た船はいずれも13世紀後半から14世紀前半、宋から元にかかる時代の中国船で、航洋 貿易帆船であろう。船底勾配の大きいV型断面で「開き走り」に適する船型である。 なお同じ中国でも揚子江より北では沿岸一帯が浅水なので平底の船型が普通であり、 開き走り向きではない(図37 38)。航洋船としては南中国系のV型が多かったが、平底 船型にリーボードを装備して開き走りに備えたものもあった。たとえば江戸時代に長 崎へ来た中国船の中にはこのタイプが相当数含まれている。           

図36広州出土の宋時代(960-1270)の船、残存した船底部を修復したもの

図37中国各地の船の船首、船尾の特徴

図38北方系の中国帆船

図39 宋(そう)時代(じだい)、船の中央断面図、大きい船底勾配のV型断面
                   帆は中国独特の縦帆で、竹を薄くそいだものを編んだ「網代(あじろ)帆」であった。こ の帆の他の世界の帆との根本的な違いは”固い帆”、いいかえれば”板のような帆” であることで、この考え方は後世、帆布を使うようになっても多数の竹製のフルバテ ンで帆を一枚の板にする形でそのまま受け継がれている。この中国式板帆は追手にも 開き走りにも形が崩れず、風上航にもなかなかよい性能を示す。          船尾中央に固定された舵も注目に価する。この形式の舵は中国では50AD.頃の模型が あり、一方100BC.頃の副葬品の船模型は中心線舵でなく、操舵櫂が付いているから、 おそらく西暦紀元前後に中国で中心線舵が発明されたのであろう。西欧に先立つこと 実に1000年以上となる。                            後世の、西欧の影響を受けたものも含めて中国帆船の数例を図38、40、41、42に 示す。そのうちの海南島の帆船(図37)はアラブ商船のあとを追ってインド洋に進出し た中国船の姿をかなりよく伝えていると言われている。なおこの船が開き帆走用のセ ンターボード(Drop Keel)を昔から持っていたとの説は注目に価する<文献4>。

図40 海南島の中国帆船20世紀初めすでにセンターボードを装備していた

図41 福建省の中国帆船、19-20世紀
 

図42 広東の中国帆船
  ところで唐末期の880AD.ころ、アラブ商人の中国貿易は大きい打撃を受けた。唐帝国 の衰えとともに内乱が起こり、南中国のアラブ人居留地が暴徒に襲われて多数の犠牲 者を出す事件があり、彼らはマレイ半島周辺に根拠地を後退させることになった。そ のあとを追うように、すでに生まれていた中国商船隊が海上貿易に乗り出して来た。 こうしてインド半島南端からマラッカ海峡あたりを境に、東は中国、西はアラブの区 分けで中継ぎ貿易のシステムができあがった。このころにはアラブの影響を十分に吸 収した東南アジアの商業航海者たちもこの貿易に加わってきて、当時の地球の上で最 も活発な海上貿易を行っていたのはこの航路だった。西欧(せいおう)の大航海時代に先 立つこと数百年、「海のシルクロード」と呼ばれている。 南中国の居留地こそ撤収したがアラブ商船の東アジアでの活躍は続き、11世紀初には 朝鮮に達し、また室町時代1408年に象や孔雀を積んで福井県小浜に来た「南蛮船」は アラブ船であろう。                              一方、海上貿易の利を知った中国人の活動は大いに進み、独自の帆船を駆って日本、 朝鮮、東南アジアからインド洋東部の海上貿易の主力となった。15世紀初め、 1405−1433年には明王朝の鄭和(ていわ)(チェンホァ)の大船隊が7次にわたってイン ド洋に進出し、アラブの中心諸都市から東アフリカにまで航跡を残している。この大 船隊の中国帆船の大きさについては諸説があるが、世界史上空前の大型船であった可 能性は高い。                                 こうして見ると12−14世紀には、西欧、アラブ・インド、中国の三つの文化圏の船は それぞれ独自の道を進みながらも、おおよそ同程度の発達段階にあったと言ってよい であろう。船の大きさや航海距離からすると西欧よりもアラブ、中国の方が一歩進ん でいたかも知れない。大きい相違は西方世界の船はその後著しい発展を遂げたが、他 の二つの文化圏ではそれほどの進歩がなかったことである。そして西方の船について は多くの研究があり、ずっと古くからの発展の跡をたどることができるが、他の二者 については[失われた鎖の輪]が余りに多い嘆きがある。             7. 北欧の船と地中海の船の技術交流と融合  ヨーロッパ世界の船の躍進の始まり 1300−1500  西方世界では14−15世紀にかけて船の歴史の大きな転換期を迎える。それまでほぼ 独自に発達してきた地中海の船と北欧の船の間に技術交流と混血が起こり、新しい型 の航洋帆船が生まれ、ヨーロッパ人が世界の海を制する基礎が出来てくる。  12−13世紀に北ヨーロッパから地中海に入ってきたヴァイキングや十字軍の船隊 は、地中海の船がまったく見慣れない三角帆を張って開き走りをしているのを見てこ れを「ラテン帆」(ラテン世界=地中海世界)と呼んだ。9世紀に始まり、以後数百年に わたって地中海北部から東方貿易を独占するにいたったイタリアの海洋都市国家群、 ヴェネチア、ジェノア、ナポリなどの船もみなラテン帆を使った。  船型は古代以来の「丸い船」の貿易帆船と多数のオールで漕ぐ「長い船」の軍船、 すなわちガレー船がはっきり見分けられた。これら地中海の船の外板は「平張り」− carvel planking-で北欧の「重ね張り」−clinker planking−と対照的だった。舵は 船尾両舷に流す形の操舵櫂で、北欧ではすでに一般化していた中心線舵ではない。こ れらの船はイタリア都市国家の勢力拡大とともに大型化し、設計、構造の技術も発達 した。火器の進歩に伴って本来は貿易用だった「丸い船」の積載量にものをいわせて 多数の銃や原始的な大砲まで積む、新しい型の軍船とか、また積載量は少し減らして も機動力に優れる、オールと帆を両用する「商業ガレー船」も生まれた。フランスの マルセイユ、スペインのバルセロナなども海上活動に参入し、地中海におけるヨー ロッパ人の勢力が復活した。これに関しては11−14世紀にわたる十字軍の遠征が大き い役割を果たしている。 今やハンザ・コグに代表される北方系の航洋商船(図43)と 地中海のラテン帆を張る沿岸帆船(図44)の間に技術交流が起こった。地中海の船は横 帆と船尾中心線に付く舵を北から取り入れた。もっとも横帆は古代地中海の帆でも あったのだが、安定した順風の続く外洋航海や荒天時の操帆における横帆の長所が再 認識されたのであろう。一方、北の船は操船性にすぐれるラテン帆と平張り外板を南 から学んだ。これだけ大型化した船にはもはや「重ね張り」は適さない。     

図43北ヨーロッパの船---コグのタイプ
 

図44ラテン帆の地中海沿岸帆船
                                    キャラック(Carrack)と呼ばれた船はこうして生まれた新形式船の典型であった。平 張り外板の丸い船体、船尾中心線に固定する舵、船の中央あたりの大きいマストに横 帆、船尾近くのもう一本のマストにラテン帆を張る。この組み合わせは横帆とラテン 帆の両方の長所をうまく生かすことができる。まもなく3本目のマストを船首よりに立 てて横帆を付け、さらに船首から斜め前方にボウスプリット(船首斜檣)をつきだしてそ の下にスプリット・セールと言う小さな横帆(船首を風下に回す操船に重宝)を張るのも 普通になった。                               

図45北と南の混血で生まれた新しい形式 ---初期のキャラック、1450AD頃
  

図46 3本マストのキャラック,1470AD
                                   こうして15世紀末には3本マストにボウスプリットをもつ帆船の基本が完成し、これ がその後ずっと西方世界の大型帆船の主流を占めることになる。この生まれたての "Three Master"が、その後わずか30年ほどの間に成し遂げた偉業はほとんど信じが たいくらいである。1492年のコロンブスの新大陸到着に続いて、1498年にはバス コ・ダ・ガマがアフリカ南端を回ってインドに達し、それに続くポルトガルの船隊が 1515年に東南アジアに着く。そして遂に1519−1522年、マゼランの船隊が地球を 西回りに一周してスペインへ帰ってきた。西欧初の航洋帆船とはいってもわずか 100−200トン、後世のクリッパーや現代の練習帆船とは比べものにならない原始的 な帆船で、よくこれだけのことが出来たと感嘆させられる。それだけに犠牲も大き く、たとえば5隻に280人が乗って出発したマゼランの船隊が、副将エルカノに率いら れて帰国した時には船はただ1隻、生き残った隊員はわずか18人になっていたと言 う。                                     8. 日本の船の歩み   3000BC ―1850  既に述べたように日本の船は丸木舟で始まった。縄文時代の丸木舟の出土例はすべ て杉の一本丸太をくりぬいて作った小型のもので、櫂(Paddle)で動かしていた。出土 地点からすると主に内水面で使ったようである。弥生時代に入るともっと大型の舟が 必要になり、また鉄器の使用で工作技術も進んだので、大木をくりぬいたものを前後 につぎ合わせて大型の丸木舟(複材丸木舟)を作るようになる。用材はもっぱら楠と見ら れているが、この構造は日本以外ではあまり例がない。楠は当時日本列島に豊富にあ り、また大木になるのは良いのだが、地面から10メートルも伸びると枝分かれしてし まうのでこのような構造が工夫されたのかも知れない。              弥生時代も終わりに近づくころには、この複材丸木舟の舷側に板をつぎたして更に 大型化を図った船らしく線刻画があり、これは古墳時代(300−500AD.)に属する西都 原の船型埴輪の船と同類であろう。

図47複材丸木舟とその接合部弥生〜〜平安時代
  

図48西都原(宮崎県)古墳の埴輪(はにわ)の船丸木舟の上に舷側板を継ぎ足している。
  このころには櫂(かい)に代わって、舷側に支点をもつオールが普及している。人力推進 の手段として一段階進んだ形式で、大型船に適する。簡単な横帆は使われた可能性が 高いが確証はない。いずれにしても推進の主力は人力である。L/Bは7以上と推定さ れ、Long Shipに属する。丸木舟を基本とするかぎり、それは必然的な結果である。 このタイプの船で瀬戸内海から西日本一円、朝鮮半島までの沿岸航海は普通に行なう ようになっていたと見られる。                         6世紀から9世紀半ばまで続いた中国への朝貢貿易では日本と大陸の間の海上交通が 少ない回数ではあるが確かに存在した。特に第7次遣唐使(702年)以後は九州から東シ ナ海を横断する航路を取るようになったので、従来の丸木舟プラス舷側板のLong Shipでは無理がある。当時の中国の造船技術は定かでないが、日本よりは進んだ構造 のRound Shipをすでに持っていた可能性は高く、それが導入されたかも知れない。た とえば留学僧圓仁の「入唐求法巡礼行記」には便乗した遣唐使船団(838年出帆)が櫓も 使うけれども主には帆に依存している様子がうかがわれる。これは丸木舟プラス舷側 板の船の航海法とは考えがたい。もっとも838年になれば中国人はアラブ商人の影響 ですでに航洋船を持っていたはずだが、700年ではどの程度だったであろうか。いず れにせよ、遣唐使船がどんな船だったか、それを確かめる資料はないに等しい。若干 の絵巻に見られる遣唐使船も、それが描かれた鎌倉時代に来航していた宋の商船をモ デルにしたと推定されるので、時代が大分ずれる。しかも宋代になると、唐代にアラ ブ商船に触発されて海上貿易に乗り出した中国商船の技術革新が安定期に入ってお り、言い換えれば唐から宋にかけて中国船の設計構造には大きい変化があった可能性 が高い。それを考えると絵巻の遣唐使船の信頼性はなおのこと揺らいでしまう。 ひとつ確かなことは、その後の日本の船に遣唐使船の影響は見出しがたく、それは従 来の複材丸木舟プラス舷側板の構造を改良、拡大する方向に発展して行ったことであ る。ただ、櫓の導入が遣唐使の時代に対応していることは注目される。この人力推進 具は中国人の優れた発明で、圓仁の「巡礼行記」に遣唐使船が使っている記録があ る。そして鎌倉時代以後の絵になると日本の船は大小を問わず櫓を使うようになって いる。                                    平安末期から鎌倉、室町と時代が進んでも日本の船の基本構造は変わらなかった が、図49に示すように舷側につぎたす棚板の数が増え、丸木舟の要素は船首尾と船底 部に残存するに過ぎないものも作られたようである。もっとも当時の図面があるわけ ではないから、数々の絵巻(えまき)、だと

図49 丸木舟プラス舷側板(棚板)の「準構造船」から全面板構造の和船へ
 

図50鎌倉期(1200AD)荷船石井謙治:図説和船史話より
 

図51遣明船復元図石井謙治:図説和船史話より
思えば「蒙古襲来絵詞」(1293年)や当時の文章の端々から推論するほかない。この分 野でも石井謙治氏の業績は光っている。同氏による鎌倉時代の荷船の復元図を図50に 示す。                                室町時代、15世紀に入るころには日本の経済構造が徐々に変化し、それまでの米作中 心、農業一本の体制の中に手工業や初歩的な商業が生まれて来る。それは国内物流を 促進し、もっと大きな荷船が必要になった。またすでに鎌倉時代に宋の商船隊によっ て先鞭を付けられていた日中貿易の利益は日本人にとっても魅力のあるものになって いた。一方、造船技術はようやく長年の丸木舟プラス棚板の形式を脱して、全面大板 構造の船を生み出す段階に達していた。丸木舟を卒業することは船幅の制約がなくな ることを意味し、日本で初めてのRound Shipに道を開いた。耐航性と積載能力にすぐ れるこの新形式の船が時代の要求に合致していたことは論をまたない。こうして生ま れたのが遣明船に代表されるような大板構造の「和船」、前期大和型船だった。   ほぼ垂直の船側外板(上棚)、船底勾配30度前後の船底外板(中棚)、そして水平の平板 竜骨と両舷合計5枚の大板を構造の基本とし、横方向の固めとしては数個の船梁があ る。近代木造船のような肋骨はない。船首尾とも一種の端板(Transom)でまとめら れ、船首は波切りを良くするように船尾よりも細身に作られていた。重要なことはL/ B:4程度になった点で明瞭にLong Shipからの脱却が見られる。順風以外では人力推 進に頼る習慣は残っていたが、船の大型化に伴って帆の重要性は増したはずである。 室町時代になって日本史上初めての商工業の萌芽とそれに伴う国内物流の需要が造船 技術にも大きなインパクトを与えたことはすでに述べた。この時代から、その直後の 安土桃山期にかけてはまた、日本人がこれまた史上初の大規模な海外雄飛を遂げるこ とになり、それは更なるインパクトを日本の造船、航海の技術にもたらすことにな る。                                      少しさかのぼって13世紀半ばから朝鮮半島南部はすでに日本人の海賊行為に悩まさ れていた。古代王制秩序の崩壊とそれに続く戦乱、下克上と称された当時の世相を考 えると驚くに当たらない。倭寇と呼ばれたこの行動は消長を繰り返しながら16世紀半 ばには揚子江河口から福建沿岸に至る中国大陸に猛威を振るうようになった。この時 期になると倭寇の主力はむしろ中国の乱民であって、日本の国内秩序をはみだした日 本人と結託し、その名を騙って密貿易や海賊行為を行なったのが実情のようである。 いずれにせよ、倭寇の活動が日本の造船、航海の技術に新しい血を注ぎ入れたことは 否定できない。たとえば鄭若曹著「籌海図編」(1562)には日本人が倭寇仲間の中国人 から仕入れた知識で日本の船の耐航性、帆走性能を改良していると述べている。当時 の中国は、史上まれに見る大船隊を数次にわたってインド洋に派遣した明王朝だか ら、その船の技術は世界のAクラスに伍していたにちがいない。           それに加えて、16世紀半ばを過ぎるとポルトガル、スペイン、オランダなどのガレ オン船が東南アジアに姿を現している。その新技術、特にトップセール、ボウスプ リットなどの帆装の工夫は中国、東南アジア、そしてこの海域に新たに参入して来た 日本人にも影響を及ぼしたようである。その象徴的な存在は「日本前朱印船」であろ う。朱印状は安土桃山から徳川初期の権力者が発行した貿易免許状で、密貿易や海賊 行為を防ぐためのものである。16世紀末から1636年の鎖国にいたる約40年間に合計 400隻近い船が朱印状を持って東南アジア地域に公認通商を行なった。当時この地域 には日本人の居留地が急速に発展していたことも知られている。          生まれたての大板構造の和船では東南アジアへの本格的な外洋航海は無理だったら しく、初めのうちは中国船やそれを改良した東南アジアの船などを買ったり、傭船し たりしたしたようである。しかし朱印船時代も終わりに近づく1630年ころには日本独 自の設計の、「日本前」と呼ばれる航洋帆船が運航されていた。寺院に寄進された朱 印船の船絵馬がその資料だが、幸いにしてそのうち二面は大そう写実的で、江戸時代 中期に描かれた「唐船図巻」(図54)と合わせて当時の朱印船の姿をかなり明らかにで きる(図52)。また、図53、55参照。

図52日本前朱印船「末次丸」1630AD.頃

図53 7世紀初期のオランダのガレオン船
それは推定GT.数百トン、中国型を基本とする船体のThree−master(三檣帆船)で、 前二本のマストには中国式の固い縦帆と、その上に西欧ガレオンのトップセール、三 本目のマストにはこれまたガレオンのラテンセール、そして船首から突き出すボウス プリットとその下に張るスプリットセールもガレオンからの直輸入と言うわけで、中 国帆船と西欧ガレオンの見事な混血児と言ったところ。この型の船をメソツイソ作り とも呼んだが、メソツイソはポルトガル語で混血児のことと言う。この船を同時代の 和船と比較すると、航洋船としての発展段階には大差がある。特に注目されるのはそ の帆装が追い風だけでなく、横風、さらには少しくらい前よりの横風でも走れるよう に工夫されていることである。たとえば図に示す朱印船の絵馬のトップセールには紛 うことなきボーリンが付いているが、これは日本の船の絵に初めて見られるボーリン である。この索具は当時のガレオンが常用したもので横風ないしは斜め前の風で帆走 するときに威力を発揮する。こうして追い風とかぎらず、広い範囲の風向きに合わせ て帆走できることの実用帆船としてのメリットはすでに4章、アラブの船の開き走りに 関連して述べたところである。このように日本前朱印船は日本の船の歴史に異彩を放 つ存在で、日本造船学会、関西造船協会ともにこの船を会章に取り入れているのは故 なしとしない。船の技術資料は数枚の絵馬に限られ、国内で建造されたか否か、それ さえ分かっていない。あるいは鎖国に伴って人為的に資料が残らなかったことがある かも知れない。幻の船である。大輪の花を咲かせた朱印船の時代は暗転して江戸200 年の鎖国が続く。日本の船は再び純粋培養の和船に戻り、江戸期経済の発展に応えて 独自の成長を遂げることになる。しかしその前に、朱印船とほぼ同時代に完成した日 本の軍船を概観しておくべきであろう。これらの軍船はその後の和船の設計、構造, 艤装に大きい影響を及ぼしているからである。

図54 「唐船図巻」にあるシャム船

図55 明国から琉球へ送った使節船
                                   日本の古代、中世史には数々の水上戦の記録があるが、それに使われた船は荷船ま たは漁舟の転用であって専用の軍船はまだなかった。そのことは当時の絵巻などから 知ることができる。大きい変化は室町末期、いわゆる戦国時代に起こる。一方では鉄 砲などの火器の導入があり、また造船技術の面では積載量の大きい全面板構造船がで きていた。こうして日本史上初めての専用の軍船が生まれた。最も大型の船は安宅船 と呼ばれ、大板構造のRound Shipの積載量を生かして数門の大砲と多数の鉄砲で武装 し、舷側は全周を厚板で囲って防御し、簡単な装甲を持つものもあった。一本マスト に横帆一枚を使い順風には帆走もしたが、戦闘中は人力推進に頼りで、百本を超える 多数の櫓を装備した。同時代の西欧の主力艦は三本マストの純帆船で人力推進はせ ず、砲装ははるかに強力だった。そのような重砲装の航洋軍艦は日本では遂に作られ なかったが、それは戦場が瀬戸内を主とする沿岸に限られていたからかも知れない。 いずれにしても同時代の西欧の標準からすると安宅船はさして強力な軍用船とは言い 難い。安宅に次ぐ軍船は関船で、軽快な動きを重視し「早船」ともいわれた。主兵器 は多数の鉄砲であった。一本マストに張る横帆は航海用で、推進の主力は50−100本 の櫓(ろ)である(図56)。                           

図56 関船
         造船技術史の観点から注目されるのは関船の船首形状である。斜め前方に鋭く傾斜 した船首材はそれまでの大板構造和船の船首端板(bow−transom)ときわだった対照 を示す。この船首形状は船首船底部に鋭い入射角を与えることになり、高速と波切り の良さを狙ったものであろう。この船首は中国、朝鮮の船にはあまり例がなく、その 背景は興味深い。とにかくこの船首は評判が良かったらしく、それ以後の後期大和型 船では大小を問わずこの形式が主流となる。                   軍艦建造が造船技術一般に先進的役割を果たす例は非常に多いが、日本の軍船にも それが見られる。この時代から江戸期にかけて、それまでは無名の工人たちの手仕事 だった造船の世界に次々と流派が生まれ、技術を伝承する木割書などの文書や建造用 の線図などが整備されてくる背景にはあきらかに軍船の影が認められる。      1636年の鎖国が日本人の海上活動に大きな変化をもたらしたことは確かである。し かし、これで日本人が海に出て行く気概を失い、時代遅れの木造船を細々と維持した にすぎない、と言う見方は正しくない。経済史から見れば江戸時代は、保守的な政治 体制に守られた200余年の間に総生産は徐々に増大し商品流通は高まり、近代的な貨 幣経済が確立されて行った時代と見ることができる。この過程には大規模の物流が必 要不可欠だが、それを担ったのが江戸期の沿岸海運だった。たとえば浦賀船番所の記 録によれば1747年一年間に江戸へ入港した遠国廻船(三河以西)は3948隻、貨物総量 約40万トンと推定される。その主力は大坂と江戸を結ぶ菱垣、樽の両廻船群である。 この他にも江戸中期以降の北海道開拓を支えた北前船(大坂、瀬戸内、日本海、北海道 の往復航路)、西日本一円や江戸周辺の小回り廻船群など、総計すると莫大な貨物の海 上輸送があったわけで、これは日本の歴史でかつてなかった大海運活動であった。 図57は青森県悦心院所蔵の船絵馬。船絵馬の量産地大阪以外の港湾都市でも船絵馬は 作られていた。しかし遺品がごく少数なのは、大阪物が廻船で全国的に運送されて売 られていたのと、地方の絵馬屋の作品が質的に劣っていたことによる。       本図は青森の下北半島に偏在する地方出来の佳品で天候悪化による夜間入港という特 異な図柄はこの明治13年(1880)作品とほぼ同時期の7点に共通する。船・人物・背 景・波の表現すべてがユニークで類例のない画風である             

図57夜間入港の弁才船
    これらの廻船は安土桃山期に形をなしてきた大板構造、大多数は関船型の一本船首材 の和船で、初期には相当数の漕ぎ手を乗せて順風以外では櫓を押す船も多かったよう である。回漕店の名がそれを物語っている。しかし江戸も中期に近づく頃にはこれら の廻船は人力推進を卒業して、全面的に帆に依存するようになる。これは商船として の経済効率から見て大きな変化だった。大勢の漕ぎ手と食糧、清水は積み荷を圧迫す るし、人件費も大きい負担になる。100%帆走となればこれらはすべて解決し、しか も船の大型化も可能になるから、さらに効率が向上する。実はローマ、ギリシャから ヴァイキングたち、またアラブや中国の商船も大方は帆走していたのである。ここに いたって日本の船もそこまで来たと言うことであろう。              帆走に全面的に依存することを可能にした技術基盤は、すでに朱印船のところで触れ た「開き走り」である。追い風だけでなくて、真横の風や少しばかり前よりの横風で も帆走できるとなれば、ずっと広い範囲の風向きで航海が可能になる。そしてこの着 想と技術は16−17世紀の海外雄飛の時代に日本人が中国や西欧の帆船から学んだもの ではないだろうか。すでに述べたボーリン(江戸期には両方綱と呼ばれた)導入の経緯が それを示しているように見える。こうして生まれた日本初の純帆走貨物船が、江戸期 のこれまた史上初の本格的な海運活動を支えたことになる。           

図58 弁才船構造図
     江戸期の帆走荷船の代表は言うまでも無く弁才型である。 瀬戸内海は日本の海運、造 船の分野で常に重要な役割を果たしてきた地域だが、弁才型も17世紀初めのころ瀬戸 内で形を成したもののようである。 古典的な大板構造の和船で、鋭く傾斜した長大な 船首材が大きな特徴である。 この船首はすでに述べたように関船で初めて現れるのだ が、関船もまた瀬戸内で生まれたことを考えると、これは偶然ではあるまい。 弁才型の平板竜骨(かわら)は和船の中では狭い方で、その両側面には根棚と称する垂直 に近い、幅の狭い外板が船の全長にわたって付いている(図59)          

図59 弁才船の中央横断面図 石井謙治:図説和船史話より
                          その上縁に本来の船底外板(中棚)が付くのだが、この狭いかわらと根棚はあたかも西欧 の帆船のbar-keelのように船底から突き出した部分を形成し、開き走りの際に横流れ を抑える効果がある。さきのボーリンの導入も絵画資料によると弁才型が先鞭をつけ ているようであり、これらを併せて考えると、弁才型は和戦の中でも特に「開き走 り」を意識した船であったかと思われる。                     江戸期の荷船が開き走りによって純帆走化と大型化、その結果として経済効率の向 上を得たわけで18世紀前半には弁才型が全国的に普及したのは自然の成り行きだった であろう。弁才型はこの他にも滑車の多様とか、キャプスタン(垂直軸ろくろ)の使用と か、海外技術の影響を思わせる要素が多い。こうして見ると、朱印船の栄光は一場の 夢と消えて江戸時代の船は純粋培養の和船であったと考えるのは当を得ていないかも 知れない。 朱印船時代に日本人が中国や西欧(せいおう)の帆船から学んだ新しい技術 や概念は人知れず消化吸収されて、江戸期沿岸帆船の発達に貢献していたのではない だろうか。                                 

空荷で木津川口を出帆する弁才船 金沢市 栗崎八幡神社所蔵
弁才船発達の頂点に達する直前の天保2年(1831)に奉納された3艘の北前船(弁才船)
を描いた大絵馬の一部。空荷の1400石積北前型弁才船が開き帆で大阪の木津川口を出てゆく場面
               

図60弁才船帆走性能の推定
  上図は現代の船型試験水槽や風洞での弁財船の模型を実験した結果から、当時の船の 帆走性能を推定したものである。ただしこの推定では波浪の影響が入っていないか ら、実際はこれよりも5度から15度くらい風下に落ちることが多いであろう。    これを見ると、目的地が風の吹いている方向の左右50°~60°以外なら相当な速力で 直航できるし、またジグザグを繰り返せばもっと風上の方向へもなんとか近づくこと ができることが分かる。これならば確かに帆だけで実用航海ができたであろう。
9. 西欧の船の量的拡大と改良 大航海時代1400−1650
                             西欧の船にとって、16、17世紀は15世紀の大転換期に続く量的拡大と改良の時代 となる。船型の大型化とともに帆の数が増え、人力で扱うことのできる一枚の帆の大 きさには限界がある、主帆の上に張る補助帆だったトップスルは大きくなって推進の 主投になった。                                今や海外に大きな市場と植民地を手に入れ、そこへの航路を開いたヨーロッパ諸国 は競って貿易の利をもとめ、縄張り争いも烈しかった。インド洋へ進出したポルトガ ル、続いてイギリス、オランダの武装商船は平和的な手段にとどまらず、その武力に ものを言わせて既存のアラブ、インドの東方貿易に食い込んでいった。当時のアラ ブ、インドの商船と西欧のそれとを比較するとき、西欧側が決定的に優れていたのは 彼らの武装だったことは歴史の公平な記録にとどめなければならないことである。  こうしてヨーロッパ諸国は積載量の大きい航洋商船と強力な軍艦を求め、その需要に 応じて西欧の船は発達を続けた。この時代の代表的帆船はガレオンと呼ばれ、キャ ラックの延長上にあるがより細長く、速力や操船性能にすぐれている(図53、61)  

図61 15世紀エリザベタン・ガレオン
                                   大砲が海戦の主力兵器になったので軍艦も積載量の大きい、「丸い船」の帆船が有 利になった。古来の軍船の速力や敏捷さよりも、いくらか鈍重でも良いから多くの大 砲や弾薬を積んだ浮砲台のような船が強い。地中海やバルト海では極限まで発達した 大型の手漕ぎ軍艦が大砲を積んで17世紀まで残ったが、大勢は<Long Ship>の時代 の終わりを示していた。積載量、したがって砲力が比べ物にならないから。     17世紀に入る頃にはヨーロッパ内の海運に使う沿岸帆船も航洋帆船の影響下に大きく 進歩し、中世のコグなどに比べて格段の性能をもつ三檣帆船になった。例:オランダ のfluyt(図62)                               

図62 17世紀のころヨーロッパ内航海運に活躍した、オランダのフライト(fluyt)
   
10. 西欧三檣帆船(Three-master)の完成期、全装帆船の誕生 17−18世紀
                    千石船がその日本的な姿を津々浦々に浮かべ、日本史上はじめての本格的な帆走商 船として江戸期経済の動脈となっていたころ、西方世界の船は質、量ともに驚くべき 発展を遂げていた。わずか300年ほどの間に西欧(せいおう)の船は決定的に世界をリー ドするに至り、同時に彼らが経済的、政治的に世界を制することになった。     15世紀に現れた3本マストの帆船--中央に大きい横帆、前のマストにやや小さい横 帆、船尾にラテン帆、そしてバウスプリットの下にスプリットセール--は16、17世紀 と順調に拡大と改良を続け、18世紀にほぼ完成の域に達する。船の大型化に伴って、 前2本のマストに張る帆の数が増え、すでに事実上主力の帆になっていたトップスルの 上にもう一段、トギャランスル(top−gallants'l,日本語ではゲルンセール)は普通に なった。船尾のラテン帆はガフセールに進化し、その上部にトップスル、さらにト ギャランスルも張るようになった。またスプリットセールに代わってずっと効率がよ く操作も容易なジブセールが発明された。マストの間に張るジブ類似の縦帆のステー スルも開き帆走に役立ち、また軽風時にトップスルを横に継ぎ足す形のスタッディン グセールも工夫された。こうして完成した18世紀の三本マスト帆船は全装帆船(full- rigged ship)と呼ばれ、大型航洋帆船の帆装の基本となった。帆装形式としてのシッ プはこれに基づいている。                         

図63 18世紀の代表的「戦列艦」ヴィクトリア(英国)
                             船の装飾、とくに軍艦のそれは史上もっとも華麗な時代で、みごとな船首像や船尾飾 りが妍を競った。主力艦は10kgくらいの砲丸を発射する大砲を70−100門そなえ、総 トン数1500−2000トン、艦隊を組んで行動するのが常だったので戦列艦(Ship of the Line of Battle)と呼ばれる。ネルソン提督はその典型で今もPortsmouth軍港に 保存されている。                              


図64 65  18世紀は軍艦の装飾がもっとも華麗になった時代
                                  18世紀の代表的な商船は東インド貿易船(East Indiaman)と西インド貿易船(West Indiaman)で、イギリス、オランダをはじめ西欧諸国はこれらの船で貿易の利を求 め、植民地を経営した。船型、帆装とも基本的には軍艦と同じ「丸い船」で、かなり の大砲も積んでいた。当時、戦列艦の半分程度の、しかし強力な補助艦フリゲート(図 67)が広く使われていたが、その砲装を減らし代わりに積み荷を多くすると、これらの 貿易船になると考えてよい。東インド方面には600−1000トン積み、西インドには 300−400トンクラスがよく使われた(図66、68)。              

図66 18世紀フリゲート型商船の船体線図、チャップマンの教科書より
                    江戸時代に長崎へ来たオランダの交易船はこのタイプの比較的小型のものが多かった ようである。1768年出版の造船設計の古典、Chapman著:Architectura Navalis Mercatoria(商船設計術)には当時の代表的商船の種類と主要寸法の表がある。 DW.1000トンクラスでL/B=3.9−4.0、500トンクラスでL/B=約3.7、典型的な 「丸い船」で、当時のフリゲート艦と基本的に同じ船型と帆装。この本には沿岸帆船 の表もあり、一般に小型船ほどL/Bが小さく、3.5〜3.0くらい。        

図67 フリゲート艦
   

図68 19世紀初期の英国東インド貿易船
                                   一方この時代になると、ヨーロッパの沿岸海運や漁業用の比較的小型の帆船も大いに 発達した。この目的には風上へもよく切りあがり、小回りのきく縦帆が好まれ、北米 生まれのスクーナーはその代表格。しかし横帆にも捨てがたい長所があるので両方を 組み合わせたブリガンティン、バーカンティン、トップスル・スクーナーなども工夫 された(図69)。                               

図69 19世紀の3種類の沿岸帆船
         明治初年に日本に導入された洋型帆船もこれら沿岸用の船でスクーナーが多く、当時 は「風帆船」と呼ばれている。弁才型などの日本土着の帆船と混血しながら昭和10年 代まで広く使われた(後述)。いわゆる機帆船はその子孫で今でも少数ながら見るこ とが出来る。