海と船の歴史1(1章-5章)


 
はじめに
この論文は野本 謙作教授の”海と船の歴史”の講議を引き継いだ中尾が学生の卒業
研究のテーマとしてリニューアルし、更に書き加えた著書である。        
                                   
1. 船はどのように使われてきたか    
ごく初期の船には大きく分けて次の三種類の構造様式がある。
1.丸木舟     (Logboat)                       
2.いかだ     (筏、Raft)                      
3.かわぶね   ( 革舟,Hide Boat )                   
 
(図1 原始の船)
船の基本機能:                  1. 水(河、湖、海)を渡り対岸ですることがある-耕作、狩猟、あるいは移住。 2. 水の上ですることがある - 魚をとって食料にする、水の上での勢力争い。  3. 重いものを水に浮かべて運ぶ。                      初期の船はほとんど、上記の1か2の目的であった。               文明が発達していくことで重量のあるものを運ぶ必要が生まれる ―町を造るための材 木や石、また食料、酒など。これが3の機能である。                船は他の運搬手段に比べて、小さい力で重いものを運ぶことができる。       5トンの荷物を積んだ船を船頭一人で漕(こ)ぐ事ができるが、荷車や馬の背中ではそう はいかない。帆を使うようになると、さらに船の運搬能力は増大した。       19世紀半ばの蒸気力、それに続くディーゼル機関の導入はこれを何桁倍にも大きくし た。現在他の輸送機関と船を比べてみると、1トンの燃料で1,000海里(1,852km) 運ぶことができる貨物の量には大差がある。                  (CARGO CARRYING EFFICIENCIES OF VARIOUS VEHICLES)
船の機能1と2もこの100年くらいの間に大きく変わった。             1は現在の言葉で言えば客船やフェリーに当たる。                20世紀の初めには自動車も飛行機も無く、無線通信や汽車もやっと実用にはいったと ころで旅行も郵便や新聞の輸送も長い距離では船に頼るしかなかった。       このように船の用途が非常に広かったことは幕末から明治初期の大事件により船が主 役をつとめていることからも想像できる。                    大陸間の客船は1970年代に消えた。 情報の伝達はもはや船の仕事ではなく、電気通 信と飛行機が取って代わった。 客船としては比較的近距離のフェリーと周遊客船 (クルーズシップ)だけになった。                        船の機能2にも大きな変化があった。 軍事面での船の役割の大きい部分は航空機 とミサイルに移った。もはや戦艦は無用の長物化し、航空母艦さえ以前のような重要 さは無い。 潜水艦(せんすいかん)は新しい主力艦になった感もあったが、それは核ミ サイルの運搬手段と、その防御策としてだったから最近の国際情勢の下ではその影は 薄れつつある。                                 船の機能2の大きい現代的意味は漁業と海洋資源開発であろう。 特に漁業は人類 の将来の食糧供給の上からきわめて大切である。                  機能2のもうひとつの新しい形態にプレジャーボートがある。1960年代に北米およ び西欧を中心に爆発的なプレジャーボートの普及が見られた。たとえば1960年統計で はアメリカで登録されているプレジャーボートの総数は1700万隻にのぼっている。  平均1トンとすると1700万トン、世界の客船、フェリーの合計トン数に近い。    日本のプレジャーボート総数は約40万隻(個人用遊漁船、いわゆる釣り舟を含む)、 人口あたりにするとまだアメリカの1/25くらいだが、それでも漁船総数よりは多く なった。 今後の船の用途、機能上で無視できない要素になるであろう      
                                   
2. LONG SHIP TO ROUND SHIP(長い船と丸い船) 
船の機能と船型の関係を考える上で基本的な二つの船型はLong Shipと Round Ship
である。この2船型は紀元前3000年ごろ、東地中海で活動したクレタ人たちによって
作られたものと言われている。しかしその後の船の発達を振り返ってみると、東地中
海と限らず地球上のさまざまな地域で、それぞれ独立に「長い船」と「丸い船」が作
られてきたことが分かる。                          
 
(図2 長い船と丸い船)
ごく初期の船は長いとか丸いとかの区別はあまりはっきりしない。おそらくは長い船 が多かったように見える。あきらかに丸い船が生まれるのは、船の機能の3、すなわ ち貨物を運んで商売をすることが始まってからである。              大砲が発達する前は、軍船は長い船、商船は丸い船という形が長年続いたが、16世紀 になって初めて西欧で「丸い船」の軍艦が生まれた。 大砲が十分強力になってくる と、速力や素早い動きよりも火力で敵を圧倒する「浮き砲台」のような軍艦が有利に なり、沢山の大砲や弾薬を積むために頑丈で積載能力が大きいRound Ship型の軍艦が 現れたわけである。しかしこのような重砲装の帆走軍艦は西欧以外ではあまり発達し なかった。 16-18世紀の日本の軍船も手漕ぎの主体の軽砲装の船に属する。   
  
3. 古代地中海の船   4000BC−500AD
 記憶に残っている最古の船はエジプト、ナイル川の船とされている。 彼らはナイ
ル川流域の農耕民族で非常に古い文明を持ち、たくさんの絵や装飾品や古文書を残し
たので、彼らの船のことはかなりよく分かっている。            
 
(図3 古代エジプトの舟の陶器模型)
                                    初めはナイル川の葦、水辺に生える中空の茎をもつ草の一種だが、それを束ねて筏を 作り、両端を尖らせて流麗な曲線の船型を作り出した             

(図4 葦束ねた古代エジプトの舟)
文明の発達と共にもっと大きい船が必要となり木造船となったが、その基本の形は受 け継がれた。 エジプトは大木が育たない国なので、小さな木片を上手に組み合わせ た船を造る技術が進んだ。 2500BC.に見られた「太陽の船」は現在する最古の実物 の船で、その良い典型でした。                         エジプト人は農耕を基本とする民族だが、東地中海の島々や海岸にはクレタ人フェニ キア人などの、古くから海上活動している人達がいた。 彼らも古い文明を持ってい たが、残念なことにエジプト人のように多彩な船の絵画などを残していないので、そ の船のことはまだよく分かっていない。B.Landstroem が想像をまじえて描いた例 を示す。

(図5 クレタ人の舟(約2000BC)の想像復元図)

(図6 フェニキアの貿易船)
3000BCころからエジプト人も、クレタやフェニキアから輸入をし、また両国の間に 何度かの海戦も起きている。                         

(図7 1400BC,エジプト第18王朝時代の外洋航行船)
こうして東地中海は地球上で最も早くから海上活動が盛んになった地域で、その主役 はフェニキア人だった。 彼等の船は一本のマストに張る大きい横帆が推進の主力 で、また多数のオールも併用したらしい。人類の歴史上、初の航海民と言われ、その 故郷のレバノン杉、ワインや土器や各地の産物、また青銅の材料として貴重だった錫 などを運んだ。                                その航海は地中海全域からアフリカ西岸、現在のイギリスに及んでいる。アフリカ一 週航海に成功したとの記録もあるくらいだが確証がない。            

(図8 ギリシャも商船は「丸い船」、軍船は「長い船」、500BCころ)
フェニキアに続いて東地中海で活躍したのはギリシャ、ローマの商戦隊で、ギリシャ 文化の経済的基盤は海上貿易だったし、フェニキア人の建設した強力な都市国家カル タゴとの数次にわたる死闘の末にローマが古代ヨーロッパの派遣を手にした背景にも 海上貿易があった。  ギリシャ、ローマの船になると、かなりいい資料が残っている。 商船は「丸い船」 で帆船、軍船はギャレーと呼ばれた「長い船」で、多数のオールが推進力だった。図8 は約500BCのギリシャの商船と軍船を描いた焼き物の杯。図9と図10はギレニア・ シップ(Kyrenia Ship)300−400BCの商船が、ギプロス島の北の海底で見つかり、 1970年発掘保存し当時の船の貴重な資料である。                

(図9 「キレニアの船」)

(図10「キレニアの船」 復元建造船の帆船)
                         外板をまず張って船の形にしてから肋骨を後から入れたこと、外板は平張り(carvel planking)、鉛板で船底をカバーなど。 ギリシャで復元建造されたものが奈良博覧 会に展示されたことがある。またこの復元船を使って帆船性能の実船テストも行われ 古代の船の航海能力の貴重な資料が得られた。
  4.ペルシャ、アラブ、インドの船と地中海への影響?BC-1000AD  インド洋西部からアラビア海、アフリカ東岸にわたる海域では、ギリシャ時代には もう活発な貿易活動があったことが知られている。この地方は地理的、経済的に東地 中海に近いので、そこの進歩した技術の影響もあったに違いないが、西暦紀元0年以降 すでに独自の、板を縫い合わせた船体に三角形に近い縦帆を張る船でのこの地域の貿 易活動は行われていたようである。そしてそれは時代とともに益々盛んになっていっ た。おそらく7世紀から14世紀にいたる数百年間、言い換えれば西欧の大航海時代に 先立つ数百年はこの海域から東南アジア、中国にかけての海上貿易が世界で最も進ん でいた可能性が高い。(文献11:家島彦一:海が創る文化、朝日新聞社)        ペルシャ、アラブ、インド半島北西岸地方の船が使っていた、この独特な帆はイン ド洋の季節風(図11)を利用するために工夫されたものと考えられるが、それは後に ヨーロッパではラテン帆と呼ばれ、西欧の帆装にも大きい影響を与えることになる。  この帆の特徴は横風を受けて走る時に発揮され、船型や舵が適当ならば、ある程度 風上へも帆走できる。 これを「開き走り」と言い、商船の経済効率の上で重要な性 能である。 追い風でしか帆走できない船は利用できる風向きが限られているので人 力推進に頼らざるを得ない。 開き走りができると利用できる風向きの範囲がずっと広 くなり、真正面の風のときだけ港で待機すればよい。季節と航路を選べば、その必要 は余り起こらないものだ。 そうなれば人力推進を止めてしまって帆だけで実用航海 ができるから、さきほどの問題はすべて解決する。 その上に、漕がないとなれば船を 大型化できるので経済効率はさらに向上する。  このアラブの帆も初めは真四角形な横帆から出発したものであろう。四角の横帆は 追手では良いけれども、横風になって帆面に斜めに風を受けると、帆の風上側の縁の 形が崩れ、揺れ動いて上手く風をはらまない。風を受ける角度が鋭くなるほどこの不 具合は大きい。それを避けるために帆の風上側の縁を思いっきり短くし、それに伴っ て上の帆桁を斜めに高く巻き上げるとアラブの帆になる(図12 13参照)。これでさきの 問題が解決し、鋭い角度で風を受けても帆の形が崩れず、うまく風を流して推進力を 得ることができる。                             


図12 初期の真四角の横帆つけた船

図13 三角帆に変わったなったアラブの船
 こうすると帆の風上側の縁は一方に決まってしまい、右からの風と、左からの風で は風を受ける面が裏表逆になる。従ってこの帆はもはや横帆ではなくて一種の縦帆で あり、当然横風やのぼり帆走に適する。地図から分かるようにインド洋の季節風航海 では横風帆走の機会が多いから、この帆装のメリットは大きかっただろう。(図11) この帆装は7世紀から8世紀にかけてアラブ人が地中海南岸に進出し、イベリア半島ま でを支配下に入れたところ地中海にもたらされたらしい。地中海は風の変化が多い内 海だから、開き走り向きのこの帆は歓迎されたであろう。 もっとも地中海におけるこの三角帆の期限に関し、それはイスラム世界とは独立に地 中海東部ですでに工夫されていたとの議論もヨーロッパ側では最近よく見受けられ、 その帰趨は注目に値する。この問題について西方の視点に偏することなく、中国、イ ンドを含む東方からの視点も忘れてはならないであろう。いずれにしても9世紀には地 中海でアラブの船だけでなく、キリスト教圏の船もおおかたこの三角帆を使うように なっていたのは確かである。(図14) 

図14 キリスト教圏での船
                       この時代にもたらされた、もうひとつの新技術は磁気コンパスである。これは中国人 の発明で12世紀には宋の商船が広く使っている。当然アラブ商人の手を経て地中海に この重宝な道具は導入されたはずである。 西欧側の記録では12世紀末から13世紀に 入るころ磁気コンパスが伝わったようである。南イタリアの都市国家アマルフィが最 初の地といわれているが確実ではない。
  5. 北ヨーロッパの船 ?BC. ― 1300AD.  西暦紀元0年ころには、既に述べたギリシャ、ローマの船や、インド、アラブの船の ほかにも、東南アジア沿岸、中国の大河や沿岸、そして北ヨーロッパの船などがそれ ぞれ独自の発達を遂げていた。 なかでも世界的な視野で船の発展を振り返るに当たっ て、北ヨーロッパの船は重要な位置を占めている。  その代表はスカンディナヴィア、現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデン地 方の船だが、この辺りには数え切れない多数の船の発掘があり、その分野の研究も非 常に進んでいる。この地域の舟の最初の痕跡は遠く氷河時代末期、9000BC.くらいま でさかのぼると言われている。 当時、ヨーロッパ北部、中部は氷河で覆われ、人々は主に狩猟で食料を得ていた。彼 らの舟は動物の革を縫い合わせた袋のようなものをトナカイの角や木の枝などの骨組 みで内側から補強した構造だったらしく、その断面と思われる出土品や、それらしい 舟の線刻画などが残っている。                         8000BC.以後氷河が融け始め、森林が発達して来ると、舟も革舟から丸木舟に移り、 さらにその舷側に板を継ぎ足す形で板張りの舟が生まれたと考えられている。以前に は太古の革舟の革を木の薄板で置き換えて北欧(ほくおう)の舟が生まれたとの考えもか なり一般的であり(例えばLandstroem)丸木舟起源説との論戦もあったが、現在の 専門家たちの間では丸木舟説が主流となっているようである。板張りの舟の最も古い 発掘は350BC.とされる Hjortspring(ヒョルトスプリング)Boatで、薄い木板を縫い 合わせて、後から木の骨組みで補強した「長い船」。 沢山の武器と一緒に出土した ことから軍船であろう。パドル(かい、櫂)で漕(こ)いでいた。コペンハーゲンの国立 博物館に保存されている。                          

図15 ヒョルトスプリングボート
                                    その次に300ADのNydam(ニーダム)Boatで、完全な鎧張(よろいば)りまたは重ね張り (clinker planking)の外板の木造船、やはり軍船らしい。パドルはオールとなり鉄釘 を一部使っている。                             

図16ニールダムシップ 300AD
                                 800AD.以後すなわちヴァイキング時代になると非常に多くの船の発掘例がある。有名 なのはオスロにあるGokstadt(ゴクスタッド)ShipとOsberg(オスベルグ)Shipで 保存状態が良くきれいに修復、展示されている。 しかしこの二隻はヴァイキングの 船の全貌を知るためには必ずしも良い例ではない。とくにオスベルグの方は水平の儀 式か、遊覧用の船らしく、大変美しいけれど特殊(とくしゅ)な例といわれている。  (図17, 18) 

図17発掘中のオスベルグシップ
 

図18オスベルグシップ史上でもっとも美しい船の1つ
                  1961年から発掘の始まったデンマークのRoskilde市(オスキレ)の5隻はこの点で資 料価値が高い。 大型および中型の軍船、大型外洋向きおよび中型沿岸用の荷物船、 もう一隻は小さな漁船が雑用船と、各種の船がそろって一箇所に沈めてあったのは幸 運だった(図19)。11世紀、ヴァイキングの最盛期の船の姿をよく伝えている。 特に 大小二隻の荷物船はオールの数は少なく、船型も「丸い船」でもっぱら帆走して貨物 を運んでいたもの。 ヴァイキングが略奪専門の野蛮人ではなく、結構活発な貿易活 動もしていた証拠とされる。 このころ彼らはスコットランド、アイルランド、さら にアイスランドからグリーンランドにも移住地を開拓しており、一部は北米大陸に達 していた可能性が大きい。これらの居住地との安定した往復に使われたと伝えられて いるKnarr(クナール)はこの大きいほうの荷線だろうと考えられている。(図20)

図19 デンマーク、オスキレ(Roskilde)北の湾内から発掘された5隻灰色は残存部分を示す

図20スェーデン、カルマル城跡出土のカルマル1号復元図

図21オスキレの沿岸荷船、復元装帆図
                               これらの発掘船はデンマーク国立博物館のOle Crumlin-Pedersenの優れた指導力の もとに修復展示され(Roskide市ヴァイキング船博物館)、また二隻の荷船は復元建 造されて詳細な帆走実験が行われた(図23,24,25)。その結果、ヴァイキングの帆走荷 船は追い風にも開き走りにも優れた帆走性能をもち、風上への帆走では実航路で60度 に近いのぼり角を示した。そして大きい方の荷船(クナール)の復元船は1987− 1988年、遂に世界一周航海に成功している(図22)。              

図22 グリーンランドの海を帆走するクナール(Wreek1)復元船
                       四角形の横帆で開き走りすると、風が鋭い角度で帆面に吹き込んで来る為、帆の風上 の縁が揺れ動いてうまく風をはらまない。 アラブ人たちがその対策として風上縁が 短く、上の帆桁を斜め上方に跳ね上げる独特の帆を作り出したことはすでに述べた。 ヴァイキングは同じ問題に別の解決を見出している。 それはBeitassと呼ばれた棒 とボーリンと言う策具だった。                        

図23 オスキレの沿岸荷船復元船の帆走

図24オスキレの荷船2隻復元船の帆走
   特にボーリン(Bowline)の方はその後長く西欧(せいおう)の帆船の標準装備となり、日 本にも朱印船時代に導入されて、江戸時代の弁才船では広く使われている(両方綱)。 Beitassは図26に示すような一本の棒で帆の風上縁を風上方向に突き出し、張りを与 えて帆面の形を整えた。ボーリンは風上縁を船首方向、下向きに強く引っ張ることで 同じ効果を与える。に示す復元船の一杯のぼり帆走のフラットな帆の形状がこの策具 の効果を物語っている。これなしには60度近い鋭いのぼりは実現できなかっただろう。 

図25オスキレの荷船2隻復元船の帆走大きいほうがWreeks1のクナール
                  この優れた帆装のほかにもヴァイキングの船は、その流麗な前後対称船型、横流れを 抑えるキール付近の船底形状、昔の船の中では抜群に軽量化に意を用いた強靭な船体 構造など、感心させられる要素が多い。北欧人達が今もこの船に強い愛着と誇りを 持っていることは理解できる。 北ヨーロッパの古い船のもうひとつのタイプは主としてゲルマン人の居住地域、現在 のドイツ、オランダ辺りの大きな河や浅い海向きの平底の船で、その起源はローマが この地域を支配していた時代にさかのぼると言われる。同じゲルマン系でもヴァイキ ングの船が両端の尖った、軽い構造なのに対してこちらはもっと頑丈な船だった。こ れがバルト海南岸でヴァイキング船と混血し、外海の航海もできる帆走商船に成長し て、有名なハンザ同盟のコグ(CogまたはKogge)が生まれたと考えられている。この混 血過程にスウェーデン、カルマル出土のKalmar Ship1,2や、最近デンマークで発見 されたGedesby(ゲスビイ)Shipなどがある。

図26デンマーク、ゲスビイ出土の船

図27コグとヴァイキング船の 共存を示す壁画
                           コグも重ね張り外板だがヴァイキングの船よりもずっと頑丈で重構造、乾舷が高く平 底で船型はより肥大している。一本マストに横帆一枚を装備し開き走りもできた。船 尾中央に固定する舵はヨーロッパではそれまで見られなかったもので、その起源は興 味がある。ハンザ同盟諸都市の興隆とともにコグは北ヨーロッパ一円の物流の主力と して活躍し、また十字軍の遠征に伴って地中海にも姿を現すようになり、その後西欧 の船の発展の中で重要な役割を演ずることになる。               

図28 ハンザ・コグ復元船の帆走

図29ブレーメン下流ヴェーゼル河底から発掘されたハンザ同盟のコグ

図30 中国(ex.北東)

図31ハンザ・コグの復元装帆図
        1962年にドイツのブレーメン付近の港湾工事中に発見されたコグは1380年建造と推 定され、それまで文書資料や図案化された絵くらいしか無かったハンザ同盟のコグの 全容が一挙に明らかになった。現在ブレマーハーフェン(ブレーメン市の外港)の海事博 物館で保存作業が進行中である。この船も現尺復元建造され帆走実験が続いている。

図32スェーデン、カルマル城跡出土の カルマル1号の復元図

図33デンマーク、ゲスビイ出土の船 1300-1400AD