「我は海の子」の作詞者

     平成16年8月  吉田 藤人    (高等商船学校五期生会誌 投稿文)                             

 いかに時代は変わるとも、船人の愛唱する檣灯歌の中に欠かすことのできない歌は「我は海の子」であろう。 日本をアジアの東、太平洋の西に浮かぶ一隻の船と見立てるならば、この歌こそわれらが国民の舟歌として、第二の国歌として永遠に残すべき歌であろう。 多少難解な語彙がまじっているが、これとてちょっとした解説を加えれば、7歳の子供にも理解される歌詞であろう。
                                      星野 哲郎  「日本の海の歌」より

 この名歌は小学生時代、国語と唱歌と両方に採りあげられていたと記憶しており、私の場合国語の時間に
詩の暗記を課せられた思い出があり、若しかすると高等商船学校を受験した原因はこの歌が深層心理に
在ったからではないかとさえ思えてくるのです。

 今年の海洋会誌5月号<鹿児島支部だより>に「我は海の子」歌唱コンクールに参加し特別賞を受賞した
との記事が載りましたが、文中に作詞家”宮原晃一郎”との記述があり「えっ!」と思わず声を出すほど驚き
ました。というのは私の知る限り全て従来の資料は作詞作曲者不詳となっていたからです。私は新たな
歴史的発見がなされたに違いないとの好奇心を抑えきれず、見ず識らずの投稿者である今村洋一氏
(神船大E21)に手紙で問い合わせをしてみたのです。早速ご丁寧な回答をいただきましたが、更にその
内容を確認するために、図書館通いやお墓参りなどを続けてきました。まえおきが永くなりましたが、
以下にその結果をまとめてみました。       
                        

               
          宮原晃一郎                     宮原家 墓地                 墓地にある歌碑                                          

  明治41年、文部省が新体詩懸賞募集を行い、小樽新聞の記者宮原晃一郎(26歳本名は智久)の作詞
「海の子」が佳作当選し(12月1日)賞金15円也が支給されました。翌年著作権の譲渡について文部省から
來状(1月26日)がありこれに同意したようです。やがてこの詩は国定教科書「小学6年国語」に採用され、
更に作曲されて小学唱歌にも登場しましたが、何れも「我は海の子」と改題されていました。
この文部省からの来状2通は、本人死去後もご遺族が大切に保管しておられ、これが動かぬ証拠となって、
最近新聞やTVなどマスコミがとりあげました。それまでは各種の推定から灘中学(現灘高校)の校長だった

真田範衛氏もしくは鎌倉の作者芳賀矢一氏が作者ではないかとされていたそうです。

     我は海の子       作詞 宮原 晃一郎

 1、我は海の子 白浪の  さわぐいそべの 松原に 
   煙たなびく とまやこそ  わがなつかしき 住家なれ  

 2、生まれてしおに、浴して  浪を子守の 歌と聞き  
   千里寄せくる 海の気を  吸いて童と なりにけり

 3、高くはなつく いその香に  不断の花の かおりあり 
   なぎさの松に 吹く風を  いみじき楽と われは聞く

 4、丈余のろかい 操りて  行手さだめぬ 浪まくら  
   百尋 千尋 海の底  遊びなれたる 庭広し 

 5、幾年ここに きたえたる  鉄より堅き かいなあり  
   吹く潮風に 黒みたる  はだは赤銅さながらに

 6、浪にただよう 氷山も  来たらば来たれ 恐れんや  
   海まき上ぐる たつまきも  起こらば起これ 驚かじ

 7、いで大船を 乗り出して  われは拾わん 海の富 
   いで軍艦に 乗り組みて  われは護らん 海の国 


 当時の著作権は現在ほど整理されておらず、本人も毀誉褒貶にこだわっていなかったのでしょうが、たとえ
法律的に権利が無かろうと、金銭的問題など抜きにして、どのような人物がこの素晴らしい詩を創ったのか、
私は大変興味を覚え、その人となりを調べてみました。
なんと 意外にも、その人物像が<日本児童文学大系>に年譜を含め詳細に掲載されているのです。


 宮原は明治15年、鹿児島市加治屋町で県庁の役人である智貞の長男として生まれました。母親は鹿児島
女子師範卒の才媛で美人だったといいます。彼女は家付きの一人娘で父親の智貞は婿養子であったそうです。
加治屋町といえば明治維新の西郷や大久保を輩出した旧薩摩藩下級武士の町として有名です。

 その後父の任地である北海道の札幌に移り、高等小学校に入学、成績優秀で1年早い飛び級で卒業しています。
しかし体が弱く、しかも耳を患い片耳が遠かったので、その後は正規の学校には行けず、14歳で鉄道運輸事務
などを行いながら通信教育を受けており、このとき早くも文学に興味を持ったようです。20歳でキリスト教の洗礼を
受け、牧師から英語を教わり、その関係でキリスト教系の新聞社に就職し、後日の外国文学に興味をもつ起爆剤と
なりました。

  20歳のときに父親が死去し一家の経済的責任を負う破目となり、弟は米国航路の船員になっています。23歳の
ときに小樽新聞社の記者となり、目一杯給料を母に渡していたそうですが、この当時から文学の勉強にうちこんで
おり、記者の身分を幸いに、現在の北海道大学図書館にせっせと通い、教授たちにも教えを乞うており、
その中には後に有名な作家となった有島武郎がおり、特に親しくしていたそうです。


 この時代26歳のときに、前述の新体詩募集に応募し「海の子」を作詞して佳作当選となりました。
 文学の研究はこの時期、外国文学へのめりこんでいゆき原書を独学で読破、これらの蔵書は死後、北海道大学
図書館に寄贈され、宮原晃一郎文庫(715冊)として、特に北欧文学を中心に、日本の貴重な資料となっている
そうです。                                                          
 


         <馬込文士村> 大正末期から昭和前期にかけて著名な文士が相寄り
                                 数多く居住していた。現在JR大森駅近くの天祖神社石垣に彼等の
                                  レリーフが掲示されている。残念ながら宮原晃一郎はこの中に無い。

                                   馬込文士村ホームペ-ジ

34歳の大正5年に上京、ロシア語を生かして貿易会社に勤めながらも、文学の道をつき進み、遂には文士村として
有名な大森馬込に住みつき、これを契機に交友の幅が大きく広がり、特に尾崎士郎・宇野千代などとは終生の
親友となり、文学活動を始めました。その創作の分野は幅広く、特に童話誌「赤い鳥」の掲載は主宰者の次に多く
54篇に及んでおり、前述の如く児童文学を語るには日本では無視できない作家に登りつめ、平明で流麗な文章
には定評があったようです。

 昭和2年、北海道出身で16歳年下のキクと結婚、昭和8年には長女典子が誕生、その後義弟の子供を引き取り
3人の子供を育てたといいます。この間本人は健康に恵まれず度々転地療養をしていたようです。昭和20年6月、
米軍の空襲激化により、北海道に向け疎開の途次、青森県通過中の列車内で動脈硬化により、日本の敗戦を
知らずに63歳で急逝しました。未亡人は戦後東京府中の多摩霊園に墓地を設け遺骨を埋葬しています。
(北東地:18区1種21側54番)

  未亡人は昭和52年78歳で死去されましたが、その3年前夫の作詞をこの世に訴えるためか「我は海の子」の
小さな歌碑を墓地に
建てておられます。冒頭に記した私のお墓参りとはこのような経緯なのです。草をむしりお線香をあげ隠された
作詞家のご冥福を祈った次第です。なおご長女の典子さんも平成12年に死去されています。

 最近テレビコマーシャルで焼酎の薩摩白波が「我は海の子」を流していますが、詩にある白浪をかけた
だけではなく、地元鹿児島生まれの作詞者を讃えるため、この名歌を敢えて採用したものではないかと
思われます。 又平成12年の「海の日」7月20日には、鹿児島市の海を望む<祗園の州公園>に立派な歌碑が
除幕されました。   http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/wareumi/wareumi.html
 
        
 
         祗園の州公園 全景                      公園 歌碑
 
 さらに最近発行の関係図書には殆ど作詞<宮原晃一郎>と明記されており、未亡人の思いが実り始め、
社会的に認知されつつあるようで、私は何かほっとしております。
 残念なことに、この詩想にピタリと当てはまるメロディーを創った作曲者が未だに不詳で、その端緒さえ掴めて
いないようです。
                                                                     以上


引用文献・資料
  日本児童文学大系   No.11 ほるぷ出版社
  唱歌のふるさと/うみ   Music Gallery  鮎川哲也
  日本の海の歌   日本海事広報協会 星野哲郎 監修
  南日本新聞    ホームページ