解説 | 作家として非常に有名なので、「どんな人か?」という解説は必要ないと思いますが、実は鷗外は、日本で最初の北欧文学の紹介者の一人で、北欧演劇を多数翻訳しています。
森鷗外が北欧演劇を訳した背景には、1900年代に始まった「新劇運動」があります。「新劇運動」は、1880年代の「演劇改良運動」の後身なので、その二つの運動について、簡単にご説明したいと思います。江戸時代の演劇=歌舞伎は、民衆の間で人気はあったものの、知識層には、史実を無視した筋書きや、残酷さ・猥雑さで人目を引く「低俗」な娯楽とみなされており、歌舞伎役者の地位も低いものでした。明治に入ると、欧化主義の流れの中で、演劇の近代化は日本が文明国として西欧と並ぶための急務となります。この要請を受けて政府主導で始まった運動が、1880年代の「演劇改良運動」でした。この運動は、文化人からの支持が低く、後援であった第一次伊藤内閣の退陣(1888年)と共に幕を閉じますが、洋式劇場の普及や切符制度の導入など、演劇のハード面での近代化に一定の役割を果たしたとされています。こうした流れを受けて、明治末期の1900年代に、「新劇運動」が始まります。「新劇運動」は、歌舞伎(旧劇)や新派劇(自由民権運動の思想宣伝劇)に対し、西洋の演劇を模した新しい演劇の確立を目指したもので、日本オリジナルの「新劇」作成を最終目標に、まずは西洋の演劇の翻訳・上演を行いました。「新劇運動」の主体となった団体には、「文芸協会」(1906年設立:島村抱月と坪内逍遥が中心)、「自由劇場」(1909年設立:二代目市川左團次と小山内薫が中心)、「近代劇協会」(1912年)(上山草人が中心)などがあり、鷗外は、「自由劇場」の上演作品の翻訳や、「近代劇協会」の顧問を務めました。こうした中で盛んに翻訳・上演されたのが、当時のヨーロッパで最前線をなしていた北欧演劇、特に1906年の死去に伴う追悼文をもとに大流行したイプセンでした。
イプセン『牧師』(Brand, 1865; 邦訳1903年)は、鷗外が最初に訳した北欧演劇。部分訳で、当時、上演はされなかったはずです(多分)。フィヨルドに関するト書きがなくなっていたり、固有名が「牧師」とか「画工」とか「娘」になっていたりと、北欧色(ヨーロッパ色)が減っていることを、長島要一が指摘しています。ラストシーン(原作では話の途中)、「娘」が「画工」を捨てて「牧師」とともに出ていく場面の会話が好きなので、引用しておきます。
画工 (娘に)凪か暴風(あらし)か、夜(よ)か昼か、
去就のまどひは なきものを。
娘 (立ち上がり)夜にこそ就かめ。遙なる
朝日の光を たよりにて。
イプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(John Gabriel Borkman, 1896;邦訳1909)は、「自由劇場」の旗揚げ公演用に依頼された作品。鷗外の小説『青年』(1910)では、主人公がこの旗揚げ公演を見に行き、教授夫人と出会います。
イプセン『ノラ』(Et Dukkehjem, 1879;邦訳1913)は、『人形の家』のドイツ語からの訳。『人形の家』は、島村抱月が1911年に英語から訳したものを、「文芸協会」が上演して大ヒットしていました。この時、松井須磨子がノラを演じたのですが、本格的な劇で女性が舞台に立ったのは、これが初めてだと言われています。「自由劇場」が『人形の家』を上演するに当たり、鷗外がドイツ語から訳したのが『ノラ』でした。このタイトルは、ドイツ語のレクラム文庫版のタイトルNora oder ein Puppenheimに依拠しています。『人形の家』のヒットは、大正期の女性解放運動の起爆剤になるのですが、このことは「北欧文学の訳者10選・3 平塚らいてう」で、改めて書きたいと思います。
ストリンドベルイ『ペリカン』(Pelikanen, 1907;邦訳1920)は、森鷗外最後の翻訳。「新劇運動」も終結し、鷗外がほとんど翻訳をしなくなり、「史伝」を書いていた時期のものです。タイトルは、ペリカンがヒナに自分の血を与えて育てるという当時の言説に由来。
最後に、演劇以外での鷗外の北欧文学翻訳のもっとも大きな功績は、アンデルセン『即興詩人』(Improvisatoren, 1835;邦訳1902)です。作家の出世作となったイタリアを舞台にした恋愛小説。鷗外の擬古文訳はすばらしく、現在の岩波文庫では、鷗外訳が緑帯、大畑末吉のデンマーク語からの訳が赤帯となっているのが、粋な計らいです。
軍医として多忙な日々を送りながら、すごい数の業績だなー、というのが、鷗外のことを調べて最初の感想でした。「副業をしていると陰口をたたかれるけど、『人形の家』なんか、仕事が終わってから夜の2~3時間を使って、2週間で訳したのに」などという日記を読むと、鷗外のハイスペックさ具合がひしひしと伝わってきます。注目すべきは、作品の多くが、当時の「最先端のヨーロッパ文学」であったこと。北欧文学がそういう扱いを受けた歴史は、日本の翻訳史の中ではかなり短いのではないかと思います。
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