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北欧文学の訳者10選・6
訳者
イシガ・オサム(1910~1994)
一言でいうと
北欧文学翻訳に功績のあった無教会派クリスチャンでエスペランティスト。第二次世界大戦中、兵役を拒否して拘留される。
解説
 日本において、北欧は「中立国」や「平和主義国家」といったイメージが一定程度、流布しています。実際の北欧が「平和主義国家」であるかどうかは別として、そうしたイメージが定着した背景には、「平和主義作家」としての北欧作家の受容が大きいと思います。その例の一つが、イシガ・オサムによるラーゲルレーヴ翻訳です。今では『ニルスのふしぎな旅』以外ほとんど知られていないラーゲルレーヴですが、イシガは、大人向けの作品、とくに、他の訳者がほとんど訳してないラーゲルレーヴ作品を多く訳していることが特徴です。
 イシガは、1910年福岡に生まれ、1932年、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。母親はキリスト教徒で、自身も幼いころから信仰を持ち、矢内原忠雄の聖書研究会や、賀川豊彦の友和会にも参加していました。大学卒業後、10年を結核療養に費やすのですが、その間に、内村鑑三、武者小路実篤、ガンジー、トルストイ、ロマン・ロランを通じて、反戦平和主義に傾倒します。ラーゲルレーヴのことは、エスペラント仲間を通じて知ったようで(※)、1938年、ラーゲルレーヴの「八十歳の誕生日を祝して、女史の作品『ベツレヘムの幼児』をエスペラント訳からローマ字ニホン語に訳して献呈し、ひきつづき女史の『エルサレム』を訳出する許可を得たので、一九三九年からスエーデン語の独習を始め、一九四〇年八月から四一年末までには第一部を訳了、四二年一月から第二部の訳出にかかる 」。第二部訳了後の1943年7月、イシガは、War Resisters International(イシガの訳は「戦争抗止者インターナショナル」、現在の定訳は「戦争抵抗者インターナショナル」)のメンバー として兵役拒否を表明し、憲兵隊に出頭して拘留されますが、同年一二月に翻意し 、釈放されます。出所後は、築陽女子商業学校で一年間教壇に立ち、一九四五年六月からは鹿児島県のハンセン病施設星塚敬愛園に勤務し、同地で終戦を迎えます。戦後、一九五六年に敬愛園を退職し、故郷の福岡でハンセン病、キリスト教、平和運動、そしてラーゲルレーヴ翻訳の活動を続けました。
 イシガの特徴は、ラーゲルレーヴ作品のうち、児童文学系でない=他の人が訳していない作品を多く訳したことです。『エルサレム』は、ラーゲルレーヴのノーベル文学賞受賞作。自由教会運動という宗教運動の過程で、スウェーデン・ダーラナ地方の一教区の住民約40名が「神の声」を聞いてエルサレムに集団移住した、という実際に起こった出来事を題材としています。岩波文庫で、1冊500ページ弱・全2巻という大河小説です。わたしはこの作品を博論で扱ったので、イシガ訳と原文を詳細に読み比べる機会が多かったのですが、非常に正確な訳で、独学でここまでと舌を巻きました。
 『キリスト伝説集』は、ラーゲルレーヴが『エルサレム』取材のために中東に行ったもう一つの成果。聖書外伝系のお話を集めたものです。『ポルトガリヤの皇帝さん』は、発狂した小作農と娼婦になった娘の話。会話がすべて話し言葉で書かれているので、訳すのは骨が折れたと思います。

(※)イシガとエスペラントの関係については、東北大学の後藤斉教授より様々な資料と情報ををご提供いただきました。また、フィンランドの作家トペリウスの訳などで有名なエスペランティスト万沢まき(1910~2009)の情報もいただいています。どうもありがとうございました。
主な著書・訳書
・『神の平和――兵役拒否をこえて』、新教出版社、1971
・ラーゲルレーヴ『エルサレム 第一部』石賀修訳、岩波文庫、1942
・ラーゲルレーヴ『エルサレム 第二部』イシガ・オサム訳、岩波文庫、1952
イシガの名前表記は、エスペラント思想を背景に、途中で漢字からカタカナへと変更されます。『エルサレム』は、一つの長編の前後編ですが、戦前に出版された第一部と戦後に出版された第二部で、訳者の名前表記が異なります。
・ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』、岩波文庫、1955
・ラーゲルレーヴ『ポルトガリヤの皇帝さん』、岩波文庫、1981
リンク
・東北大学の後藤斉教授のサイト「エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―」内5.兵役拒否をこえて ―イシガ・オサム―
イシガとエスペラントの関係についてご教示くださった後藤教授が、エスペラントとハンセン病の関係研究の一例として、イシガを詳しく取り上げておられます。
星塚敬愛園ホームページ
兵役拒否撤回後のイシガが10年間勤めたハンセン病施設。現在は国立療養所。