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田宮1/700 独重巡洋艦プリンツ・オイゲンについて
2002/04/28 本文記述
2002/05/12 一部補足
2002/05/30 一部訂正+補足
2006/12/24 補足追加

 プリンツ・オイゲンはアドミラル・ヒッパー型の3番艦としてドイツ海軍が建造した重巡洋艦でした。軍縮条約の制約が無かったために他国の重巡に比べて艦型が大きく、攻撃力と防御力のバランスが取れていた点が最大の特徴でした。プリンツ・オイゲンはライン演習作戦や英仏海峡突破作戦(チャンネル・ダッシュ)を初め、大戦末期の東部戦線からの撤退支援にも最前線に立って活動し、稼働可能な状態で終戦を迎えました。

 ライン演習(ビスマルク追撃戦)に参加した事から世界的にも有名な軍艦の一つで、WL外国艦が始まった頃から「田宮のプリンツ・オイゲン」は噂に上がっては消えていた記憶があります。待ちくたびれて首が伸びきってしまいましたが、キットの内容は四半世紀待った甲斐があった、素晴らしいものに仕上がっていました。
 まずは評価表から。
項 目 名 内      容
ジャンル 近代艦船・ドイツ海軍重巡洋艦
名  称 プリンツ・オイゲン
メーカー 田宮
スケール 1/700
マーキング 艦載機の国籍マーク、艦首紋章(旗は紙製)
モールド ★★★★★ 37mm連装機銃がやや大きめ。他は◎。
スタイル ★★★★ 細かい考証に疑問はありますが、特徴は出ています。
難 易 度 ★★ 組立に当たっては繊細なモールドを潰さないように。
おすすめ度 ★★★★★ 興味のある方はぜひ。定価以上の価値はあります。
コメント 相変わらず田宮は何がしたいのか良く判らないのですが、
キットは考証以外にあまり問題になる部分はありません。脱帽。

 キットは1941年5月のライン演習作戦と1942年2月のチャンネル・ダッシュの二つの状態を選択することができます。部品割は以下の通りですが、プリンツ・オイゲンは厳密に言えば「改ヒッパー型」に分類すべき艦で、姉妹艦のヒッパー・ブリュッヒャーとは船体形状から上部構造に至るまで少しずつ形状が異なっています。エレール1/400のヒッパーとオイゲンを比べた事がある方なら判ると思いますが、姉妹艦で共通できるのは装備品のC部品のみで、もし出すとすれば他の部品は船体も含めて全て新規に金型を起こす必要があります。そのため、このキットをベースにした姉妹艦の発売の可能性はまずないと思います(同様に、このキットから姉妹艦への改造はほとんど不可能です。厳密を期するならC部品以外の大半はスクラッチになります)。
A部品 上甲板、船体(右舷・左舷)、艦底板
B部品 艦橋一式、煙突、後部艦橋、中央構造物甲板、後部マスト、ほか
C部品 主砲、各種高角砲、各種機銃、艦載艇、艦載機、射撃指揮装置、
探照灯、ほか
その他 ポリキャップ、軍艦旗シート、デカール、バラスト

 キットの船体は最近の主流になりつつある左右分割方式で、舷側の複雑なバルジのラインも良く再現しています。また、艦橋周辺の複雑なブルワークも一体で見事に抜けています。装備品は艦橋下の37mm連装機銃(C32)がやや大きめでそのままでは旋回できそうもない事と、煙突両脇のデリックブームが少しあっさり気味な事を除けば文句の付けようがない素晴らしいモールドで、細部の表現のバランスが気になる方はエッチングパーツ等で置き換えてゆけば、より良い内容に仕上がると思います。それと、デカールの中にある艦首紋章とは艦名の由来を示し、戦前のドイツ艦の艦首両舷に付けられていたものです。しかしプリンツ・オイゲンに関しては、進水時は付いていましたが、竣工時には既に消されていました。よっていずれの状態を設定しても貼る必要はありません。他に書く事は何もありません。


 以上、キットの内容には致命的な問題はないと思うのですが、ライン演習とチャンネルダッシュの時代設定には、共に少し疑問があります。まずライン演習に関しては、1941年6月1日にブレスト港に帰港した際の有名な写真(デルタ出版刊ドイツ海軍水上艦艇[1] p64,65上段に掲載)を見る限り、艦橋両側面の高角砲射撃指揮塔(C29+C5)にはキットのような半球状のシールドは無く、測距儀がむき出しになっているように見えます。この艦橋側面の部分はPODZUN社のMarine-Arsenal Baud19 Schwerer Kreuzer PRINZ EUGEN のp9、10下、13右下にも時期不明ながら鮮明な写真が掲載されており、それらを見る限り射撃指揮装置そのものが異なっていた訳ではなく、本来付くべき球状のシールドのみが付いていなかったのではないかと考えています(同様の事例はビスマルクの後部指揮所の前後にあった高角砲射撃指揮所でも見ることができます)。それで、この時期を設定する場合は、測距儀塔C29の上に一回り小さい円形のブルワークを立てて底面を埋め、その上に伸ばしランナーで測距儀のパーツを自作して付けるだけで良いと思います。なお、チャンネルダッシュの時はシールドが付けられていたので、キットの指示通りC29+C5の組み合わせで大丈夫です。
 それと、艦橋両脇の測距儀塔の前にある3m測距儀のシールド(C19)も、竣工〜ライン演習までの写真を見る限り、シールドそのものが付いていないように見えます。完全な確証はありませんが、ライン演習の設定であればC19は付けずに円形のブルワークを付けてその中に伸ばしランナーで測距儀のパーツを自作して付ける方が良いかもしれません。

 搭載レーダーのうち、後部マストに付くFuMo25型アンテナ(B5)は、チャンネルダッシュの後に装備されたもので、これはどの設定でも付けなくて良いようです。それに伴い、後部マストのレーダーアンテナの台座(B3)は先端から 2.5mmを切り落とし、残った部分をキットの指示する位置に付ければ良いと思います。付ける必要はありません。また、魚雷発射管の形状は上記の写真から、少なくともライン演習時はキットのままで良いと思いますが、チャンネルダッシュの時の形状は手持ちの資料でははっきり判りません。1943年頃の写真では操作部は完全にシールドされているようですが。※注2
 それと、主砲の防水カバーは装備されていなかった時期もありますが、少なくともライン演習とチャンネルダッシュの両作戦に於いては付けられていた事が写真から判ります。そのため、パテ等で再現する必要があります。

 塗装説明に関して、ライン演習/チャンネルダッシュ共に艦首・艦尾甲板にスワスチカ(赤地に白丸と鍵十字のマーク)が描かれていたはずですが、説明書には何の記述もありません。恐らく海外輸出の配慮で意図的に描かなかったと思うのですが、国内出荷分だけでも別紙で訂正を入れるか何か配慮が欲しかった所です。それと、ライン演習時で主砲塔上部の対空識別塗装のカーマインは砲塔の上部の傾斜部にのみ塗装するよう指示されていますが、これはそのように見える写真が存在する(デルタ出版刊ドイツ海軍水上艦艇[2] p136上段)ため、間違いはないようです。※注
 ちなみに、ライン演習時の迷彩は作戦開始直前の1941年5月21日に甲板のスワスチカ共々塗り潰したという証言(「巨大戦艦ビスマルク」早川書房刊p109)があり、英艦隊と交戦した時はダークシーグレイ一色だったと考えます。これは上記のプレスト帰港時の写真から舷側には迷彩が無いことが判ります。ただしこの塗装は完全なものではなかったようで、迷彩の濃い部分が一部塗装の下から透けているように写真からは見えます。
 また、チャンネルダッシュ時の迷彩に関しては、手持ちの資料ではいずれも右舷側の塗装図しかありませんが、作戦直後の1942年2月23日に艦尾に雷撃を受けた後に撮影された写真(上記Marine-Arsenal p37最上段)を見る限りでは左舷側の船体の迷彩パターンは右舷側とは異なるようです。ただし、右舷側に関しては全景を写した鮮明な写真が手元になく、塗装図の真偽には確証がありません。上部構造の斑点迷彩に関しては作戦中の艦上写真から明確なパターンは無かったようで、説明書に厳密にはこだわらなくても良いと思います。

 考証面では長々と書きましたが、いずれも容易に修正が可能なレベルで、誰にでも実艦の姿が容易に再現できると思います。逆に他の外国艦と比べた場合に落差が目立ち過ぎる−特に青島のビスマルクをこれと並べて遜色ないレベルに仕上げるのは並大抵の根性ではゆかないため、そういった面から外国艦見直しの圧力が強まる機会になればと思います。
 ただ評価表にも書いた通り、田宮から最近発売されたキットの水準はどれも非常に高いのですが、開発方針にあまりにも一貫性が無く、ウォーターラインをどの方向に持ってゆきたいのかという「戦略」も感じられない−対象とするファン層やいわゆる新規出戻り組をどう導いてゆけばいいのかという姿勢が、少なくとも青島よりも見えていない事がずっと気になっています。これが田宮1社のシリーズであればともかく、WLは一応3社共同の企画ですから、開発する艦の国籍や時代をくるくる替える事は長い目で見た場合にあまりプラスにはならないのではないかと、そう思います。

2002年4月28日 記

ps.
 モデルアート2002年5月号の御師匠様(衣島尚一氏)の記事に関して、少し気になったのですが、チャンネルダッシュの右舷側迷彩パターンがキットのそれと全く異なっています。キットのパターンはBermard & Graefe Verlag刊「Die Schweren Kreuzsr der Admiral Hipper-Klasse」と「Von Original zum Modell」 に掲載された迷彩図が基になっているようで、手持ちの資料では上記の通り確証たる写真はありません。ただ、上に示した左舷側のパターンから推測する限りでは、モデルアートの迷彩図よりもキットの方が近いように思います(御師匠様の推定の根拠が判らないので100%の確証はありませんが)。
 それと、図では煙突側面の探照灯台に4連装機銃が装備された状態として描かれていますが、私はキットが正しいと考えます。探照灯を撤去して機銃を装備した明確な時期は判りませんが、大戦末期や戦後の写真を見る限りでは、機銃の増設に伴って開閉可能だった半球状のカバー(部品C4)は撤去されたように見えます。それで、上記Marine-Arsenal p37の写真では、やや不鮮明ながら探照灯カバーが閉じているように見えるため、チャンネル・ダッシュ当時はまだ煙突両脇の探照灯は残っていたのではないかと考えます。 また、図には艦尾の4連装機銃がありませんが、これは作戦当時の記録写真から装備されていた事は間違いないはずです。


※注
 「プリンツ・オイゲンの甲板上のスワスチカの位置を示して欲しい」という要望がありましたので、補足します。

 プリンツ・オイゲンの甲板上のスワスチカは、1941年5月のライン演習(迷彩塗装時)と1942年2月のチャンネルダッシュでは位置が異なっているように考えます。まずライン演習時の状態ですが、艦首に関しては出撃直後の写真(デルタ出版刊ドイツ海軍水上艦艇[2] p136上段)より、艦首のポラードから錨鎖の引き込み口までの幅で赤帯が引かれ、その中にスワスチカが描かれているように見えます。艦尾は同じく作戦中の写真(同ドイツ海軍水上艦艇[1] p14上段)より、3つある天窓の端から副錨の錨鎖の先端付近までの幅で赤帯が引かれ、その中にスワスチカが描かれているように見えます。
 チャンネルダッシュは、これは恐らく4連装機銃を一時的に増設した関係だと思うのですが、艦首は帯そのものを前方に移動させ、艦尾もキャプスタン(部品C10)からその前方のハッチまでの位置に移動したのではないかと考えています。これはチャンネルダッシュ成功後に艦尾に雷撃を受け、1942年5月に応急的に仮舵を付けてキール軍港に移動する際に撮影された写真(艦首は上記Marine-Arsenal p14中段右側、艦尾は同ドイツ海軍[1] p60上段にそれぞれ掲載)を根拠としています。ちなみにMarine-Arsenalの写真では、描かれたスワスチカの直後に消された跡がうっすらと残っているのが判ります。

 なお、先に書いた時には見落としていましたが、実艦では艦首の中心線上にボラードが1つありましたが、キットでは表現されていません。これも気になる方は伸ばしランナー等で追加すると良いと思います。



(図は共に推定)
2002年5月12日 補足追加

※注2
 上の感想で見落としていたことですが、後部マストのスタイルは時期によって一部異なっていたようです。竣工直後やチャンネル・ダッシュの際はキットの状態で良いと思いますが、1941年6月1日にライン演習から帰港した写真を見る限りでは、後部マストは前部マストよりも低く、箱絵に示されているように上下のトップ(部品B33とB42)の間隔がほとんどありません。
 そして、Bermard & Graefe Verlag刊「Die Schweren Kreuzsr der Admiral Hipper-Klasse」のp176左下に、1941年5月18日にプリンツ・オイゲンの後甲板でリュッチュエンス司令官が乗員を閲兵する写真が掲載されていますが、この写真でも後部マストのトップの間隔は開いていません。マストに伸縮の機能があった可能性もありますが、以上の理由から、ライン演習の設定ではキットの部品B26の上から12mmを切り落とし、その上にB33とB27を接着する必要があるようです(これに伴い、評価表の「スタイル」の項目は星一つ減としています)※注3 なお、最初に述べた「後部マストのレーダーの台座(B3)」はトップの間隔の違いに気が付かないまま書いたもので、これは全く付ける必要がありません。

 また、モデルグラフィックス誌2002年7月号の記事で述べられている「後部マストの丸いアンテナ」は、正確には○に十字の形状で、下側のトップ(B42)の艦尾側背面に付けられていました。何の用途か判りませんが、これはライン演習やチャンネル・ダッシュ後の写真でも確認する事ができます(Marine-Arsenalのp14右上に、この部分が明確に判る写真が掲載されています)。
 あと、プリンツ・オイゲンの軍艦旗は艦尾の旗竿や後部マスト上ではなく、後部射撃指揮所(B19)上の空中線支柱に掲揚されていたようです。

2002年5月30日 一部訂正+補足

※注3
 その後の調べで、キール運河を通過する際に橋と接触するのを避けるために、ドイツ海軍の大型艦艇のマストには伸縮する機能が付いていたそうです。注2で述べた2枚の写真はいずれも停泊時、または帰港時のものですから、ライン演習の戦闘状態ではキットのように上げていた可能性はあります(今の所、その戦闘中でマストの状態が判る写真は無いようです)。

 ただ、Schiffer Publishing社のTHE GERMAN NAVY AT WAR 1935-1945 Vol.1 THE BATTLESHIPS (独PODZUN社の英訳)という写真集のp157右上に、洋上でマストを下げた状態で後部砲塔から砲撃中のプリンツオイゲンの艦上写真があります。チャンネルダッシュの一連の写真として掲載されているものですが、煙突にバルティック・スキームの一部が映っていることから、ライン演習以前の写真であると思われます。

 この写真1枚で断言するには根拠が弱いのですが、ライン演習の前後以外に後部マストを下げた写真がほとんど見当たらない点を考えると、この時期だけはマストを一貫して下げていた可能性は否定できないと私は考えています。
2006年12月24日 補足追加