表紙 このウェブページについて 連絡板 ブログ(別窓表示) 完成品 調理実演 キット雑感 リンク 自己紹介
田宮1/700新版 重巡洋艦最上/三隈について
2002年12月22日 本文記述

 最上型はワシントン軍縮条約の制限下で保有枠が満杯になった重巡を補う目的で、余っていた軽巡枠を用いて建造された巡洋艦でした。コンパクトな艦型に比して攻撃力・防御力が強かった点が最大の特徴で、条約開け後に主砲を換装し、先の大戦では重巡洋艦として活動しました。三隈は1942年6月のミッドウエー海戦で戦没し、この戦いで大破した最上は多数の水上機を搭載する航空巡洋艦に改造され、1944年10月の比島沖海戦で戦没しました。

 前作の最上型重巡は田宮模型が最初に送り出したWLキットで、メリハリの効いたクッキリしたモールドや細部の表現は特筆ものでした。ただ発売当時は最上型重巡に関する情報があまり公開されていなかったために、最上に関しては、形状が少し異なる鈴谷の船体を使って空想の飛行甲板を加えた内容に留まっていました。また三隈は第二次大戦に参加した日本の重巡洋艦の中で唯一キット化されていなかった艦で、WLの当初から発売が求められていたものの一つでした。長谷川の妙高型や青島の高雄型に比べて金型の痛みが少ないように見えた事と、後述する同型艦内での船体の違いの問題から、リメイクの可能性には少なからず疑問があったキットでしたが、2002年に発売が成った最上/三隈は共に良い内容に仕上がっていました。

 まずは例によって評価表から。
項 目 名 内      容
ジャンル 近代艦船・旧日本海軍重巡洋艦
名  称 最上(三隈)
メーカー 田宮
スケール 1/700
マーキング 主砲塔上の対空識別国旗(軍艦旗は紙製)
モールド ★★★★ 良好だが、最上のシェルター甲板の滑り止めは疑問
スタイル ★★★★ 良好。
難 易 度 ★★ 船底板の接着と整形には注意。他は◎
おすすめ度 ★★★★★ 価格以上の価値はあると思います。細部の手の入れ方はお好みで。
コメント 最上のシェルター甲板を除いては、大きく問題になる部分はありません。重ねて脱帽。

 部品割は以下の通り。
  • Aパーツ
    • 艦底板、前部最上甲板、魚雷発射管室
    • 後部最上甲板(三隈のみ)
  • Bパーツ
    • 船体(右舷、左舷)
  • Dパーツ
    • 前部マスト、高角砲台座、煙突、艦橋前部
    • 下部艦橋甲板、羅針艦橋、羅針艦橋整流板
    • 後部指揮所基部、4.5m測距儀、6m測距儀
    • 艦橋吸気口、煙突吸気口、缶室吸気口
  • Gパーツ×2枚
    • 魚雷発射管、3・4番主砲砲座、艦橋支柱、21号電探
    • 九四式方位盤、九一式高射装置、探照灯台+探照灯
    • 零式観測機一式、零式三座水偵一式、滑走車、台車
    • 13mm連装機銃、艦尾旗竿、6m通船
  • Hパーツ×2枚
    • 主砲一式
  • Wパーツ
    • (大型艦用ディテールアップパーツに同じ)
  • 軍艦旗(紙製)
  • ポリキャップ(最上4個、三隈10個)
  • デカール
  以上、最上/三隈共通
  • Eパーツ
    • シェルター甲板+後部航空機甲板、後部最上甲板
    • 上部艦橋甲板、信号所甲板、防空指揮所、艦橋機銃座
    • 九五式射撃指揮装置+台座、後部マスト、デリック
    • 中部機銃座、後部指揮所上部、前部マスト旗竿
  以上、最上のみ
  • Fパーツ
    • シェルター甲板、上部艦橋甲板、信号所甲板
    • 後部指揮所上部、後部マスト、デリック
    • 羅針艦橋天蓋、中部機銃座、前部マスト旗竿
  以上、三隈のみ

  キットはA+Bパーツ、G+Hパーツ、 D+Eパーツ(最上)/
  D+Fパーツ(三隈)が、それぞれつながって成形されています。



外箱の仕様


最上に関しては、旧版よりやや幅広の箱で、
プリンツオイゲンと同じサイズになっています。
また箱絵の構図も全く違うので、
見分けるのは比較的容易だろうと思います。


 キットは最上が1943年4月の航空巡洋艦改装直後の状態、三隈は1939年の主砲換装工事後〜最終時を設定しているようです。最上型重巡は同型艦4隻とされていますが、後期竣工の鈴谷・熊野は厳密には「改最上型」と分類されるべき艦で、船体の形状も少し異なります。キットの船体は左右分割式で、最上・三隈の特徴を良く押さえているようです。ただ、舷外電路はモールドされてないので伸ばしランナー等で作る必要がある事と、航空巡洋艦の最上は舷窓が大幅に閉鎖されていたので、キットの下段全部と上段の一部のモールドはパテ等で埋める必要があります。また、船体と艦底板は水線部分の微妙なナックルラインを表現しているため、その接着と整形には特に注意が必要です。

 船体以外の上部構造物の形状と配置にも大きな問題はないようです。強いて言えば共通部品の前部マストの兵員待機所は三隈のもので、最上の場合はこれを削って一段下に電探室を設ける必要があることと、三隈の8m通船が省略されているので他から調達する必要があることぐらいです(1/700では9mカッターを使ってもそれほど大きな違いはないと思いますが)。
 艦橋は少ない部品ながら最上/三隈の相違点を良く表現していますし、後部指揮所(=後部艦橋)回りも吸気口も含めて特徴を捉えています。羅針艦橋(D15)は内部までモールドされており、これは最近流行のエッチングによる窓の素通しの表現に対応したものだろうと思いますが、個人的には「やりすぎ」のような気がします。

 最上の艦載機はWパーツと合わせて7機セットされています。これは航空巡洋艦に改装後の写真が元になっていると思われ、11機が定数ですが、実際はその数を満たした事は無かったと言われています。もっとも、模型上は航空機甲板に満載の方がより見栄えがしますから、厳密に史実にこだわらないのであれば残り4機を他から調達して載せても面白いと思います。

 以上、キットに関してはあまり書くことがありません。

 最上の唯一かつ最大の問題点として、これはキットを手にした方はどなたも首をひねられたのではないかと思いますが、シェルター甲板がリノリウムではなく鉄甲板の滑り止めモールドになっている事が挙げられます。実は一般には広く知られていない公式図の中に、甲板の一部を滑り止めに描かれているものが存在するそうで(学研の最上型重巡掲載のものとは別の図面)、田宮は恐らくこれを考証の根拠にしたのではないかと考えます。

 私自身はこの公式図を見た事が無いので何とも言えないのですが、航空巡洋艦に改装された後の最上の甲板敷物配置図は現存しないらしく、またこの部分が明瞭に判る写真も現時点では公開されていません。つまり、公式図を裏付ける資料は存在しないのが現状です。

 個人的な考え方を述べれば、重巡最上は少なくともミッドウエー海戦で大破するまでシェルター甲板がリノリウムであった事は間違いなく、その後の改装でそれを剥がす必然性があったかどうかは疑問に思っています。しかし、キットの鉄甲板モールドの解釈に根拠があることは上で述べました。ですから、これらの状況から作る側が判断して作ってゆけば良いのではないかと考えます。少なくとも航空機甲板が鉄甲板であった事は写真から明白ですし、現時点では鉄甲板を否定する資料も存在しないのですから(もっとも、シェルター甲板をリノリウムと考えた場合、航空機甲板の鉄甲板との「区切り」をどうするかという厄介な問題が出てきますが)。

 ただ、説明書に書かれている通りメーカー側も鉄甲板という確証が持てないのであれば、上述の区切りの問題があっても、シェルター甲板と航空機甲板は無理に一体化させないで、三隈のシェルター甲板の部品と交換できるような「配慮」があっても良かったのではないかと思います。

 三隈の方は開戦半年後のミッドウエー海戦で戦没したために、外観は開戦時からほとんど変化が無かったと言われていますが、終戦まで生き残った生存者が少なく最後の戦闘状況すら明確でないため、細かい点では不明な部分もあります。
 キットはミッドウエー海戦の設定では羅針艦橋(部品D15)の正面に整流板(D20)を付ける ように指示されています。これは米軍が撮影した大破漂流中の有名な写真から明確ですが、その装備時期ははっきり判りません。またこの写真からは羅針艦橋の天蓋にブルワークがあるようにも見えますが、その詳細もはっきり判りません。

 それと、最上/三隈共に製作する上で注意して欲しい点として「9mカッターの数と位置」があります。最上に関しては公式図では艦橋脇に3隻、後部指揮所の両脇の内火艇の外側にそれぞれ1隻ずつの合計5隻描かれており、これを以て5隻載せている作例もあります。しかし、後部指揮所付近のカッターに関しては「戦時又航海中格納位置」と注釈があり、艦橋の右舷側に付く2隻分を航海や戦闘の際にここへ移していたと考えられます。また、三隈に関しては同書掲載の公式図から、艦橋両脇の艦首側の2隻を後部指揮所の両端に移していたようです。

 これは最上型に限った事ではありませんが、旧日本海軍の重巡のカッターの装備位置は停泊中、航海中、戦時格納位置で相違がある場合が少なくありません。ただし、実艦の写真を検討する限り必ずしも公式図の通りに運用されていたとは断言できませんし、普通に作る分には別に意識しなくても良いと思いますが、ディオラマを作られる方には良く留意して欲しい事柄の一つです。

航空巡洋艦最上
(1943年4月改装後)
9mカッター(茶色)と
6m通船(草色)の
装備位置

(1)停泊(碇泊)中
(2)航海中
(3)戦時格納位置

学研「最上型重巡」掲載の公式図に依る。

ただし、6m通船の航海中及び戦時格納位置の文字は図面に明記がありません。これは鈴谷の公式図から推測しています。

また、この公式図には艦橋の右舷側の脇にもカッターが描かれていますが((1)図の点線部)、これには「手入位置」と注釈があり、整備の際にのみここに置かれていたようです。


 あと、鈴谷・熊野のリメイクの可能性について。
 後期竣工艦の鈴谷・熊野は「改最上型」と分類されるべき艦、と書きましたが、分類上は同じ最上型ですし、リメイクで同一形式で半分しかキット化されないのでは意味がありませんから、いずれ鈴谷・熊野も出てくると思います(個人的推測)。部品割を見てゆくと「Cパーツ」がないのが興味深い所で、ひょっとしたらここに熊野/鈴谷用の船体が割り当てられるのかもしれません。また下部艦橋や煙突、高角砲の台座など鈴谷・熊野との大きな相違点となる部品がいずれもDパーツに集中している点から見ても、それを前提にした設計になっているのだろうと考えます。


 田宮が昨年公表した企画のうち、今年はプリンツオイゲンと最上(三隈)が発売され、アイオワ級戦艦は持ち越しになりました。キットはいずれも申し分のない内容でしたし、来年はアイオワ級に加えて鈴谷・熊野が出てくる事になるだろうと思いますが、以前から書いているように田宮自身がWLをどの方向に持ってゆきたいのかよくわからない点がずっと気になっています。WLの行方に関してはもう少し様子を見てまた思う事を書くことにしますが、来年は開発するアイテムにせよ、WLの販促にせよ、もう少し「方向性」を定めて欲しいと願います。




最上型重巡は4隻とも戦没しましたが、
いずれも最期は凄惨な戦闘を強いられました。
特に重巡三隈は全乗員の8割近くが戦死し、
終戦まで生き残った方はさらに少なく、
ミッドウエー海戦の戦闘状況には
不明な点が少なくありません。

現在は絶版になっていますが、
澤地久枝著「滄海よ眠れ−ミッドウエー海戦の生と死−」(三)
(文春文庫さ−7−11)
この第十四章で、
1942年6月7日に重巡三隈の艦上で何が起きたのか、
その「手がかり」が記されています。

読んだからといって、模型が良くなる訳でも
考証が深まる訳でもありませんが、
「あなたが作ろうとするモノは何なのか?」という事は
考証や技法とは別の次元で、常に留め置いて欲しいと願います。

2002年12月22日 記