実船について
龍田丸は姉妹船の浅間丸・秩父丸(後の鎌倉丸)と共に、日本郵船が北米サンフランシスコ航路向けに1930年に建造した、建造当時日本最大級の客船でした。船内装飾は英国風でまとめられ、調度品にも一流メーカーの製品を多用し、戦前の日本を代表する豪華客船でした。そして竣工後は上海〜横浜〜サンフランシスコ間を結ぶ航路に就いていました。主要要目は以下の通り。
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総トン数 |
16,955屯 |
船体の長さ(垂線間長) |
170.69m |
船体の幅 |
21.95m |
主機 |
ディーゼル4基,16,000馬力、4軸 |
速力 |
20.93ノット |
乗客定員 |
839名
(一等239,二等96,三等504)
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建造所 |
三菱長崎造船所 |
竣工 |
1930年 |
姉妹船 |
2隻(浅間丸、秩父丸<鎌倉丸>) |
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竣工後11年間、海外に旅立つ各界の名士や著名人、留学生などを運んだ太平洋にもやがて戦雲が漂い始めます。龍田丸は1941年12月2日、米国に向か
い横浜を出航しました。既に対米開戦は決定していたのですが、それを悟られないための偽装航海でした。海軍は出航日を遅らせた上に開戦には米国からなるべく遠い海域に居るよう、速力と1日の航海限界地点を乗員には理由を知らせずに指示していました。そして開戦の無電をキャッチしたあと引き返し、12月14日無事に横浜港に帰港しました。
その後龍田丸は海軍に徴用され、1942年夏には日本英国双方の自国民を送還する日英交換船として東アフリカのロレンソマルケスに赴き、在英邦人を収容して帰還しました。そして再び海軍に徴用されて輸送船として活動しましたが、1943年2月8日、トラック島に向けて横須賀を出航した龍田丸は御蔵島東方の海上で潜水艦の雷撃を受け轟沈して果てました。爆発音を聞いた護衛の駆逐艦が反転した時には既に海上に姿はなく、月の無い夜間に加え大シケという最悪の気象のため、乗員軍人軍属計1,283名中、救助された者は一人もありませんでした。
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製作状況
龍田丸も好きな船の一つですが、キットはどこからも出ていません。これもスクラッチビルド(全自作模型)になります。客船のスクラッチの考え方に関しては照国丸の製作記でまとめて書いていますので、興味のある方は参照して下さい。
照国丸で1/700の客船のスクラッチの手順みたいなものが大分見えてきたので、再び戦前の最大級の客船を作ってみようと選んだのがこの船でした。(製作当時は他にも理由がありましたが)。同型船の浅間丸の一般配置図から図面を起こし、船体はプラ板の積層と中央部はブロックとし、甲板と船室はプラ板から作っています。細部の表現は他のスクラッチ同様氷川丸に合わせることとし、氷川丸から使用可能なモールドや部品は全て流用しています。
戦前の日本を代表する豪華客船という事で資料的には全く困らなかったのですが、細部はもう少し手を入れても良かったかもしれません。船尾側の3隻×両舷=計6隻分のボートダビッドはホームページに載せるに当たってピットロードの日本海軍艦艇装備セットVのものと取り替えたのですが、実際は少し形が違いますし、ボートももう少しきちんと作りたかった所です。工作的にはハウス正面と側面の角窓、プロムナードデッキの開口部をデザインナイフで切り抜いた以外はそれほど難しい所はなかったと記憶しています。シルエットもそれなりにつかめたと思うのですが、煙突だけはちょっと違う感じになった感があります。
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あとがき
龍田丸のあともいろいろ作ろうと客船や商船の資料を集めた時期がありましたが、1/700で客船を作る人はまったく見掛けませんし、私自身その後は趣味の方向が変わってしまったこともあって、これ以降手のかかるスクラッチからは遠のいています。現在は1/350での艦船の工作が中心になっている事もあり、当分の間はスクラッチを作る時間はありませんが、いつか余裕ができたら青島の新田丸級客船の徹底工作(やるとしたら船体から上は全部プラ板だな
^_^;)とか、図面を引き資料収集も済んだ状態で止まっている報国丸級の客船も本腰据えて作ってみたいものです。 |
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