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Pamir
(エレール1/150、途中放棄)

1997/07/23 本文記述
2003/01/02 一部訂正補足

実船について

 20世紀に入り船舶機関の発達によって汽船の帆船に対する優位性が明白になるにつれ、商業目的の帆船は姿を消しつつありましたが、ドイツでは鋼鉄製の商業目的の大型帆船が第一次大戦の前まで建造されていました。パミール号はドイツでも特に帆船による輸送に力を入れていたフェルディナンド・ライツ社が1905年に建造した4本マストの貨物帆船で、主に南米チリ〜ヨーロッパ間で硝石の輸送に当たっていました。
 1920年代の終わり頃にパミール号は売却され、各国から放棄された帆船を安値で入手して運送に当てていたフィンランドの船長グスタフ・エリクソンが購入し、1930年代は主にオーストラリア〜ヨーロッパ間で小麦の運送に就きました。そして第二次大戦後に解体業者に売却され、1950年には廃船同然の状態でオランダベルギーの港に係留されていました。その後ドイツの船長が購入し補助機関と練習生用の船室を増設して整備され、1955年以降は船員養成の練習船兼貨物船としてハンブルグ〜南米間の航路に就きました。

 ところが1957年9月22日、南大西洋上で強烈なハリケーンの直撃を受けたパミール号は積荷の小麦が荷崩れを起こして遭難沈没し、練習生48名を含む80名の乗組員が帰らぬ人となりました。生存者は救命ボートに乗って救出された6名のみで、戦後の練習帆船の遭難としては最大の惨事となってしまいました。そしてこれは紀元前より3,000年以上続いてきた商業目的の帆船の歴史に完全に幕を引く劇的なできごとでした。現在の大型帆船はすべて船員や若者の育成を目的とする練習帆船や観光目的のクルーズ客船で、商業(貨物運搬)用として用いられている船は1隻もありません。(※注

動機

 かつて金沢市(石川県)の市内中心部、片町から犀川大橋を渡って広小路に向かう坂道の途中に「北陸模型」という店がありました。今は郊外に移転して店主の代も代わってしまいましたが、その当時は筋の通った昔気質の店主で、豊富な鉄道模型と共にショーケースにはレベルやエレールや今井科学の帆船模型の完成品が並んでいて、子供の頃はよくそれを見に出かけたものです。その中でも特に印象的だったのがこのエレールのパミール号の完成品で、工作そのものはそれほどでもなかった記憶がありますが、「こんな模型を作れたらいいなぁ」と子供心に思ったものです。やがてキットが小遣いで買える年になり勢い込んで買いに出かけたのですが、店主は見透かしたように「作れるかどうかはわからないよ」と言ったのを今でもはっきりと覚えています。事実、その言葉の通りになりましたが…。

キットについて

 キットは直輸入以外では1970年代半ば〜80年代前半頃までトミーから、また80年代半ばの極く一時期今井科学から国内発売されていました。トミー版は説明書の実船説明が詳細(沈没の経緯について詳しく書いた日本語の資料は他にほとんどない)ですが細部の塗装説明が非常にあいまい、また今井版は実船説明は噴飯ものですが細部の説明はほぼ正確なようです。
 キットは練習船兼貨物船として活動した1955年以降の状態を示しています。今井版の箱にはフェルディナンド・ライツ社の船を示す「Flying〜"P"Line」の文字がありますが、このキットをそのまま作って旗を掲げてもライツのパミールにはなりません。竣工時〜グスタフ・エリクソンの元で活動した頃の状態にするためには最低でも船尾の船室を半分以上削って後部上甲板を延長し、前部上甲板のデリック付きの船室を撤去して荷物のハッチを作り直し、船尾のスクリューのある部分を舵と共に修正する必要があります。
 最終時の場合は、このキットのオリジナルは本当にパミール号なのか?という事(重大な問題ですけど、明確に判断できる資料が手元にありません)に目をつぶれば、特に問題はないように見えます。細部の出来は非常に良く、丹念に手を入れれば良く仕上がる素質を持ったキットです。20世紀の帆走貨物船は木製を含めてもほとんどキットがなく、その意味でも貴重です。

放棄に至るまで

 この当時は1/150の帆船の作り方のノウハウが全くなく、実船に関する資料もほとんどない状態で、キットの説明書を参考に手探りで工作を始めました。キットには滑車が付いていましたがオーバースケールで、いろいろ考えた末に田宮模型から発売されている工作用の2mm経のプラ棒をスライスして作る事にし、またマストを支えるスタンディング・リギン(写真の黒いロープ)を甲板側に留めるリギンスクリューもプラの部品がぽきぽき折れ、中に真ちゅう線を仕込んで補強しました。また動索はあらかじめキットのピンレールに全て結んで帆の方向に張り回そうとしました(普通の工作手順とは逆)。
 こうして船体の工作とマストを立て、スタンディング・リギンを張った所で東京に住まいが変わり、間もなくトミー版の実船解説を手がけた井出隆弥氏や当時より模型雑誌にキット評を書かれていた衣島尚一氏にお会いする機会を得て、艦船模型の作り方や考え方、資料について多くの貴重なアドバイスを得ることができました。そして資料を集めて改めて検討したところ、マストの強度が足りないこと、リギングプランに検討の余地があること、甲板上の構造物の表現など問題点が出てきて、この状態で修正を加えるのも改めて一から組み直すのも同じだけ手間がかかるだろうという結論に達したため、写真の状態で工作放棄となりました。

 結局完成には至りませんでしたが、
  • 帆船も軍艦と同じように実物を知るための資料が可能な限り必要であること
  • 工作前の下準備、特にリギングプランの検討は完全に済ませておくこと
  • リギングについては帆船模型の基本的な手順をしっかり踏んで行うこと
  • プラの部品で強度の足りない部分には金属材料を積極的に使う必要があること
 …といった「手痛い」教訓も数多く得られた模型でした。これらの教訓は次に作る AMERIGO VESPUCCIで生きてくることになります。

あとがき

 エレールのパミール号のストックは今井版が1隻残っているので、いつか機会があったら(どういう形になるにせよ)リターン・マッチをやってみたいものです。
※注
 第二次大戦勃発当初フィンランドは中立の立場にありましたが、1941年3月に枢軸側に加わりました。当時パミール号はニュージーランドのウエリントン港に在泊中で、そこでニュージーランド政府に拿捕され、1943年から47年まで米国西海岸との間で練習船兼輸送船として活動しました。1947〜49年までニュージーランド〜ヨーロッパ間で不定期の貨物運送を行った後、ベルギーの解体業者に売却され、アントワープ港で廃船同然の状態になっていました。
 グスタフ・エリクソンは第二次大戦で所有した帆船の多くを失い、1947年8月に75歳でこの世を去りました。

 パミール号遭難の5年後、文藝春秋昭和37年7月特別号に掲載された「ルックネル艦長健在なり」という記事の中で、西ドイツの新聞を引用する形で第二次大戦中にパミール号と遭遇した日本の伊12号潜水艦が、美しさに沈めるには忍びずと立ち去ったというエピソードが紹介されています。この記事は大阪で帆船パレードが行われた1983年11月2日付の朝日新聞の投稿欄「声」にも引用され、あるいは御存知の方もあるかもしれません(今井版の組立説明書にも「戦争中に日本の潜水艦に助けられた」という一文があります)。

 しかし、現実には太平洋戦争中にパミール号と伊12号潜水艦が遭遇したという事実はなく、海外の文献に於いては1943年に南太平洋上で日本の潜水艦と遭遇したが交戦することなく逃げ延びたという記録が残っているだけで、それも味方の米国艦と誤認した可能性が強いようです。
2003/01/02 一部補足