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日本郵船 橿原丸
旧日本海軍航空母艦 隼鷹
(自作1/700・田宮1/700)

実船/実艦について

 1940年に開催される予定だった第12回オリンピック東京大会のためとして、日本郵船は世界4つの航路向けに計9隻の客船を計画しました。橿原丸は姉妹船の出雲丸と共に米国サンフランシスコ航路用に計画された船で、完成の暁には日本の客船としては当時最大の超豪華客船となる予定でした。
 ただし、これは当時の日本に限ったことではありませんが、これらの豪華客船の建造に当たっては有事の際に軍艦として使うことを前提に政府から多額の補助を受けていました。橿原丸は計画の段階から航空母艦への改造が考慮され、そして建造途中の1940年10月に航空母艦への改造が決定し海軍に買収され、1942年5月に空母隼鷹として完成しました。超豪華客船の計画はこうして幻に終わってしまいました。

 空母隼鷹は元の客船に戻す事が不可能と言われたほど徹底的に改造されたため、速力が遅いことと防御が弱かった事を除けば飛龍型の正規空母に匹敵する性能を持っていました。初陣は1942年6月のアリューシャン攻略作戦で、ミッドウェー海戦で4隻の主力空母を失ったあとは機動部隊の中心として活動し、10月の南太平洋海戦では空母ホーネットを撃沈する戦果を挙げました。1943年11月に潜水艦の雷撃を受けて損傷し、44年6月のマリアナ沖海戦では煙突への直撃弾と至近弾で航空機の離着艦ができなくなる損害を受けましたが、無事に帰投しました。その後比島沖海戦には参加せず南方との輸送任務に就いていましたが、12月に潜水艦の雷撃を受けて中破し、修理後は佐世保湾内に係留されたまま終戦を迎えました。しかしこの雷撃の修理は完全なものではなく片舷での航行しかできない状態だったため、引揚者の輸送任務には就かず1946年に解体され姿を消しました。

下:日本郵船 橿原丸 上:航空母艦 隼鷹

動機

  橿原丸はスクラッチビルド(全自作模型)の習作として、隼鷹はその比較参考として、いずれも学生時代に作ったものです。外観の捉え方も細部の詰め方も塗装も今の目で見ると不満たらたらですが、それでも足りない知恵を絞って作ったものには違いありません。これで船の模型に少し自信が出てきた記憶があります。

キットについて

 商船のスクラッチの考え方については「照国丸」の製作記でまとめて書いていますので、興味のある方はそちらを参照して下さい。

 橿原丸は隼鷹の船体から艦首と艦尾のみを切り出して使用し、中央部はプラ板の直線構造としています。製作した当時は船体全部を使う自信がなかったからで、船首のラインに相当な無理が出ましたが当時の腕ではこれが限界でした。 日本の客船は軍艦に比べればまだ資料が残っている方ですが、橿原丸の場合は、完成に至らなかった上に詳細図面が終戦後の混乱で空母のそれと共に廃棄されたらしく、概略の配置図と室内のインテリアデザイン程度しか資料が入手できませんでした。製作に当たっては一般配置図と日本郵船の黒川正典取締役が書かれた図面の概要説明をもとに、細部はほぼ同時期に建造された新田丸を参考にしてまとめたのですが、不明点も多くこの模型に関しては全く自信がありません。

 不明点の一つに「錨甲板の材質」があります。田宮の隼鷹のキットでは軍艦式の滑り止めがモールドされていて、実際そのように製作された作例を見た事もありますが、日本の戦前の客船でここが滑り止めになっている船はほとんどありません。資料収集の段階で隼鷹の錨甲板のモールドの根拠についていろいろ調べてみたのですが、明確なことはわからずじまいでした。製作に当たっては完成した客船からの改造ではなく建造途中に甲板が軍艦式に変更された可能性もあると判断して、当時の客船にならって木張りとしましたが、揚描装置のスタイルが当時の日本の商船で一般的に用いられていたものではなく軍艦式であるように一般配置図から読み取れることから、材質が違う可能性は否定できません。

 またプール付近の構造も疑問として残ったことの一つです。上に黒く塗られているのは1等ベランダの開口部(推定)、プール周辺の構造は今ひとつ図面から読み取ることができなかったので新田丸のそれにならってオープンとし、ジムとの隔壁にはそれらしい絵と時計を掛けています(側面図を見る限りではセミクローズな構造となっているものと考えられるのですが、側面の上側がガラス張りになっているとも思えませんし…)。

橿原丸後部プール周辺(空想)

 田宮の空母隼鷹はマリアナ沖海戦の損害修理の際に対空機銃やロケット砲を増設した1944年秋〜45年の状態を示しているようです。田宮の艦船設計陣が最も油の乗っていた70年代中頃の傑作中の傑作で、スタイルの捉え方に至っては実艦よりかっこいい(^_^;)と一部で言われたほど優れたキットです。このキットの印象があまりにも強すぎたために、20年後に発売された翔鶴型空母の内容に失望したのは私だけではなかったかもしれません。

 上記の通りキット自体には特に問題となる所はなく、工作は橿原丸との比較のため1942年の竣工時にしたつもりでしたが、大戦末期に実施された舷窓の閉鎖部(丸い凸モールド)を削って窓を開け直す事を忘れてしまいました。
 それ以外の主な改修点は以下の通りです。

  1. 錨甲板の増設機銃台のモールドの削除
  2. 飛行甲板前部両舷にある増設機銃台、及びロケット砲座の張り出しの削除
  3. 艦橋付近の増設機銃座の削除、及び関連するモールドの削除。また、艦橋上と艦橋後部にあるマストの作り直し。
  4. 飛行甲板後部左舷側のレーダーポストの凹モールドを埋める。
  5. 艦尾の増設機銃座は付けない。

 艦載機は1942年6月4日、アリューシャン攻略の第一次攻撃隊を想定しています。資料によれば隼鷹からは99式艦上爆撃機15機、零式艦上戦闘機13機が攻撃に参加したという事で、その通り並べています。塗装は明灰白色1色で、写真では判りませんが一応胴体に黄色線2本(四航戦二番艦所属機)を引いています。

客船のプロムナード・デッキが航空母艦の飛行甲板になったので、
その「高さ」を合わせる事が製作上のポイントとしたことの一つでした。

あとがき

  製作当時は参考とする手本もない、テクニックもわからない、そんな状況で熱病にうなされるが如き意気込みで作ったものですが、冷静になるにつれ資料的にも技術的にもこんな大きな客船をスクラッチの最初に作るのは無理があったことを痛感しました。できれば隼鷹と共にもう一度作り直してみたいものです。