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『本物の味の贅沢な味わい方』 | |||||
「こうち食品産業情報」No24['92.春号]掲載 [発行:高知県食品産業協議会] | |||||
つい先頃、高知からまたひとつ映画の灯が消えていきました。東映の二階は、カラオケ・ボックスになってしまう(その後、洋風居酒屋に替わり、この二階のみならず、東映の映画館自体が'04.8月末で閉館しました)のだそうです。映画そのものは、日本全体で公開される作品数が減っていっているわけではありません。それどころか以前には考えられなかったような国々のフィルムも上映されるようになっているのです。 メディアにおける取り上げ方にも、映画というものの芸術文化におけるステイタスが飛躍的に高められた跡が窺えます(今や「文化芸術振興基本法」に明記されるに至っております)。近代において文学の担ったものを現代において果たしているのが映画だと言えそうです。かつて文学は、それをものする人々が“文士風情”と蔑まれる形でしか世の中に認められていなかったのに、今や作家ないしは文学者と言えば、社会的にも立派に通用する職業となっています。今、映画は文学者のみならず、社会学者や心理学者からも熱い関心を持って見つめられる表現メディアになっています。 また、履歴書等に記される一般的な趣味としても、音楽鑑賞・スポーツと並んで、映画鑑賞はベストスリー入りを果たし、読書を抜き去ったようです。供給されるビデオソフトの過剰さ(この頃はまだDVDがありませんでした)や衛星放送の盛況ぶりを見ても、映画自体は、むしろ今が盛りだと言ってもおかしくない状況だと思われます。 ところが、映画館は、一つまたひとつと閉館していっているのです。例えば、何でもないようなカレーライスやヤキソバがキャンプ場で食べると、やたら美味しいことは皆が知っているし、高級料理は、それに相応しい器と雰囲気を提供されることによって一段と旨味を増すものです。それこそが贅沢というものであり、アウト・ドア・ブームもグルメ・ブームも、その贅沢さが支持されているはずです。 映画にも同じことが言えるわけで、映画が本来持っている夢ないしは非日常の世界を、日常性そのものである空間に溶け込んでいるTV受像機で観るのは、作品を味気なくし、旨味を損ねることになります。カレーライスのような娯楽作品であれ、高級料理のような芸術作品であれ、実に勿体ない食べ方だと思われてなりません。食事は生存に直結しているので、場合によっては腹の足しになりさえすれば、と言うのも分からなくはないのですが、今ほど贅沢が許され、もてはやされる時代に、趣味や楽しみの領域でありながら、これほど贅沢さが遠ざけられているものは外に見当たらないくらいです。とても不思議な気がします。 映画をスクリーンで観ることの贅沢さが贅沢としてあまり認知されていないのかもしれませんね。暗闇を突き抜けた光の粒子が白いスクリーンから跳ね返ってくるときの煌めきに酔ったことのある人が、そんなに少ないとは思えないのですが…。 一日の疲れの溜まった深夜に、ビデオでぽつねんと独り観るのではなく、気の置けない友とゆったりとした時間のなかで光の魔術を共に感じ、ホールを出た後、一杯のコーヒーを味わいながら語り合う楽しさは、身近でありながら、本当の意味での心の贅沢さを感じさせてくれるのです。そして、観れば観るほどに、その贅沢さは奥行きを増していきます。そういう楽しみを味わわせてくれるはずの“お店”が一つまたひとつと姿を消していくのは、寂しい限りです。 自主上映活動にしても、一頃ビデオの普及で一時的な落ち込みを見せたものの、それが新たなる出会いを招いて映画愛好者をも生み出し、動員が増えました。映画との出会いさえあれば、スクリーンの魅力というものは理解されるのだなと思われたのですが、今また、衛星放送の普及によるのか、冷え込みが始まっています。あれは幻想だったのでしょうか。 衛星放送は、観る側の自主性・主体性を奪うという点で、ビデオより遥かに始末の悪い、贅沢さのひとかけらもない悲しいメディアです。「本物の味が分かる人は、いなくなってしまった。」と嘆く料理人は、本当に時代遅れの人たちなのでしょうか。 | |||||
by ヤマ '92.Spring 季刊誌「こうち食品産業情報」No24 | |||||
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