細木氏が残していってくれた言葉
県民文化ホール 催物ご案内('00.3月.)掲載
[発行:(財)高知県文化財団]

 年末の不慮の事故が原因で、大先輩の細木秀雄氏が84歳でご逝去された。いつか来ることではあったにしても、何とも残念なことである。それにしても、高知県芸術祭の共催行事である高知シネマフェスティバルの第10回記念として、乾常美氏や星加敏文氏とのステージ座談会を昨年のうちにおこなっておいて本当に良かった。私も実行委員の一人として参加している高知自主上映フェスティバル実行委員会で、いつかどこかでと話には出ながらも、なかなか実現の機会を果たせないでいたものだ。結果的に幻の企画とならずにすみ、貴重な話を聞かせていただくことができた。

 なかでも強い印象を残しているのが「辺境の地であるからこそ、質的に高い文化に憧れるのであって、そこには文化が育ちやすい。」という一見逆説的で大胆な表現により地元に住まう我々を勇気づけてくれた言葉と「映画と文学だけは、辺境の地にあってなお本物に触れられる数少ない芸術である。」という鋭いご指摘であった。

 なるほど映画は、上映さえされれば、地方巡業用の配役替えとか運べない舞台装置や衣装の簡略などといったことは起こらない。たまにコンサートなどで見受けられる地方巡業用のプログラム編成のような形での別編集フィルムが地方配給用に作られることもない。上映及び鑑賞設備の面での格差は残念ながらなくはないが、少なくともそれは製作配給側から差別してくるようなことではない。

 さまざまな芸術表現のなかでも、世界の一級品の本物と同時代に居ながらにして出会うことのできる画期的な表現(税関や映倫によるカットやぼかしが入る場合を唯一の例外として)なのだ。細木氏が並挙された文学と比較しても、文学ほどに翻訳に要する時間をかけないので、時期的ずれが少なく、輸入される作品数の割合でも文学よりは高いような気がする。そのうえ文学で翻訳と原文が併記される例はまず見受けられないが、吹き替え版を除き、映画では元の音声を消したりしない。

 しかもこれほど間口の広い芸術表現は他にない。足繁くかようほどではないにしても、映画を嫌いだと言う人にはお目に掛かったことがない。そういう観点からすれば、行政の文化振興において映画はもっと重視されてもいいのではないかと思う。確かにかつて黄金時代と呼ばれる時期があり、民間ベースで産業として充分やっていけた時代があったために見過ごされているのかもしれないが、今や映画館の数は無残なほど少なくなってしまった。聞くところによると、私の生まれた頃は高知県下で二百近い映画館があったそうだ。いくら世界の一級品の本物と出会えると言っても、先にも述べたように「上映さえされれば」という条件付きだ。

 幸い本県では、細木氏がライフワークのようにして関わってこられた公民館映画の流れを汲む市民映画会を筆頭にして、高知市では自主上映を含むオフシアターが活発に開催されており、公立ホールでの映画上映は高知市以外でも他県に比べると盛んなほうだ。けれども、宝塚市が公設で映画館を建設し民営で運営を始めたなどと聞くと、そこまでの動きは望めない現状だと思う。でも、いたずらにホールを建設しておいて稼働率の低さや自主事業展開の困難さを嘆く状況を省みれば、黒字経営は無理にしても映画館のほうが遥かに経費効率が良く、住民満足度も高いのではないか。県下の町村で、時折コンサートや芝居をやったり、講演会にも使ったりする公設映画館としてホール運営を考え、施設の通年活用を果たすところが出てこないものだろうか。自主上映活動の盛んな本県では、その企画運営に向けたアドバイザースタッフになれる人材はたくさんいるように思う。
by ヤマ

'00. 3月. 県民文化ホール 催物ご案内



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