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『スクリーンの裾をめくってみれば』を読んで | |||||
木全公彦 著 <作品社> | |||||
少し前に買っておきながら積読だったものを泊出張の機会に読んだところ、本当に知らないことばかりで、'59年生まれとの著者と一歳しか違わない'58年生まれの僕は、ついぞスクリーンの裾をめくったりしていなかったと思いあたり、滅法面白く読んだ。 なかでも、あとがきで「かつて映画館が悪所と呼ばれた時代」(P260)と記している悪所呼ばわりに覚えはあるものの、それが何ゆえか解せない気がしてならなかった僕にとっては、第二章「ピンク映画と実演」は、成程そうだったのかと膝を打つ得心の章だった。「現在ではもう忘れられ、ビデオやDVDでは再現不可能になってしまった成人映画(主にピンク映画)上映館ならではの出し物、即ち実演と呼ばれるライブ」(P59)を著者と違って僕は観たことがない。そう言えば、谷ナオミ劇団や東てる美劇団の名は、遠い記憶にあることが本章を読んで蘇ってきたが、専ら実演劇団として活動していたのであって、映画上映とのセットだとは思っていなかった。「東京では少なくも一九七三年頃には実演はあまり見られなくなったというのが通説である。だが、地方のピンク映画専門館やストリップ小屋へのドサ回りという形で実演は続けられ、逆に一九七三年頃を境に七〇年代後半までむしろ地方ならではのイベントとなる」(P74)とのことだから、一九七六年に大学進学で上京した僕は最終期を擦れ違ったことになる。 だが、「ストリップは未成年のときから見ていたくせに、日劇MHのヌードは上品すぎるとバカにして、全然見ていなかったのが今さらながら悔やまれる」(P97)と第三章「日劇ミュージックホールと映画人」に記しているトップレス・レヴューは、僕が大学に進学した年に東京出張してきた叔父に連れられて、一度だけ観たことがある。先に連れて行ってもらった焼き肉店で少々ビールを飲みすぎ、半醒半睡であったことも手伝って、レビュータイトルさえ記憶にないのが残念だが、確か「兄貴はこんなとこには連れて来ないだろうから」と言っていたことは覚えている。 他の第一章「黒澤明のエロ映画?」以下、第四章「野上正義の遺言」、第五章「三國連太郎『台風』顚末記」、第六章「テレビ・ディレクターが撮ったピンク映画」、第七章「長谷川和彦の幻のデビュー作」にしても、よく知っているなぁ、調べたなぁと感心することばかりで、第五章で「志村妙子の芸名改め太地喜和子という女優を語るときのエピソードとして必ず引き合いに出されるので、改めて書くまでもないだろう」(P163)として触れられている三國の不倫以外は、全てが知らなかったことばかりだった。 加えて、著者自ら「学術書のような文章は自分にはふさわしくないと思っている」(P260)と綴っている文章は実に読みやすく興味を惹いてくれる愉しいものでありながら、対象に向かうスタンスがまさしく学究的であることに大いに感心した。「疑問があれば、カネはなくともとりあえず見る/調べる/取材するというのが基本だろう。文献での調査だけでは机上の空論になってしまう」(P101)と記しているだけのことはある。しかも、そうは書きながらも、ありがちな聞き書きに頼るのではなく、むしろ一次資料たる文献として当時の雑誌広告や記事、公演パンフレット、台本などに丹念にあたり、図版収録してあるところに驚いた。学究的であると感じたゆえんだ。 そして、第二章のなかの小見出し「ピンク映画の実演事始め」に「…通史を読むと、ほとんどの書籍や年表では、実演は一九六八年頃から始まり、一九六九年には本格化したとされている」(P68)ことに対して、何故そうなっているのかを考察したうえで、「少なくともそれらに先立つ一九六五年十月、…劇団「赤と黒」【図4】を旗揚げ」(P70)という事例を挙げ、「演劇評論家の神山彰の指摘は示唆に富んでいて興味深い」(P72)と紹介している部分が目を惹いた。 そのうえで、第五章「三國連太郎『台風』顚末記」で「ちなみに…太地は後年になって自分の男性遍歴をあっけらかんと実名を挙げて話しているが、実名を出された芸能人の中で、それを認めたばかりか太地と対談までして当時を回想したのは三國連太郎ただひとりであった」(P188~P189)と書き添える、およそ学術的ではなく響いてくるものが随所にあるのが魅力的な著作だった。 | |||||
by ヤマ '21. 3.16. 作品社単行本 | |||||
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