『カウボーイ』(Cowboy)['58]
『ならず者』(The Outlaw)['43]
監督 デルマー・デイヴィス
監督 ハワード・ヒューズ

 先に観た『カウボーイ』は、既に年金生活の始まっている僕が生まれた年の西部劇だ。あの時分に目指された「男らしさ」に隔世の感を覚える。今の中年以下の者には、フランク・ハリス(ジャック・レモン)が追い付き、追い越そうとしたトム・リース(グレン・フォード)の魅力が皆目わからないのではなかろうか。還暦越えの西部劇好きの僕が観てさえ、ある程度の察しはつくものの些か幼稚に映って、フランクがホテル勤めを辞め、父親が売った農場の代金3,800ドルを投資してまでパートナーとして牧童仕事を共にしたくなるほどの男伊達には思えなかった。

 だが、本作は、グレン・フォードがデルマー・デイヴィス監督と組んだ去り行く男['55]、決断の3時10分['57]と並んで、三部作とされる作品らしい。悪くはないのだけれど、その二作と並ぶような作品とまでは思えなかった。

 ただ本作が唯一の西部劇出演らしいジャック・レモンは、その若々しさと若気の至りぶりがなかなか好くて、改めて僕は、喜劇の彼よりシリアス劇の彼のほうを好むらしいとの思いを新たにした。映画としてはお熱いのがお好き['59]なども悪くはないのだが、セイブ・ザ・タイガー['73]や、遺作となったモリー先生との火曜日['99]の味のあるシリアス演技のほうが好みだ。本作のジャック・レモンには既にそれが窺えるような気がした。彼の演じたフランク・ハリスが原作者名と同じだったから、おそらくは自伝的な物語なのだろう。もしそうなら、かなり風変わりな経歴のような気がする。

 また、誤って無実の若者を射殺してしまったことから職を辞した早撃ちの元保安官である初老の流れ者牧童を演じていたブライアン・ドンレヴィが好い味を出していて、なかなか印象深かった。


 カウボーイと並ぶ西部劇のもう一つの立役者である“アウトロー”をタイトルにした『ならず者』は、十九年前に観た『アビエイター』(監督 マーティン・スコセッシ)に描かれた夢追い人ハワード・ヒューズの監督作品で、彼の撮った映画は初めて観たが、思いのほか面白かった。ならず者上がりの保安官パット・ギャレット(トーマス・ミッチェル)の事務所のあるニューメキシコのリンカーン郡フォートサムナーから、チャイコフスキーの♪悲愴♪とともに始まった。

 パット、ドク・ホリデイ(ウォルター・ヒューストン)、ビリー・ザ・キッドことウィリアム・ボニー(ジャック・ビューテル)という西部劇のなかでも著名な人物三人が絡み合う物語だとは思いがけず、自分以外の誰も信用できないアウトローの世界での男の沽券と意地を軸にした、鎬を削る油断のならない交誼がなかなか味わい深かった。白眉は、やはりドクが最後に「ガキの取っ組み合い」に擬えて自分たちについて語っていた場面で、誰の言葉にも心動かさず、心を許さなかったビリーの琴線を震わせたのが印象深い。同じことがパットとの間では成立しなかったところが、やはりパットとドクとの仲と、その器量を認め合ったドクとビリーの仲の質の違いなのだ。

 人と人の付き合いの深さは、期間の長さで決まるものではない。それなりの腕はあるものの、握手をすると見せかけた不意打ちを得意とするパットと、不公平な勝負は沽券にかかわると思っているドクとビリーの違いは大きく、油断ならない間柄のなかで交わされる“信用”を描いてなかなかのものだったように思う。序盤でビリーが女は信用しないと言ったことにドクが若者の台詞じゃないと返したことに女ならたくさん知っている全員に裏切られたのかそうだと交わしていた遣り取りや、パットがビリーとドクを捕えながらインディアンの襲撃に備えて二人の求めに応じて銃を返す際にも“信用”という言葉が持ち出されていたことが思い起こされる。

 愛馬も愛人リオ(ジェーン・ラッセル)も取られながら、ドクがビリーのほうに信を置くのは、彼には打算や騙しがないからだ。若気の至りとも言うべき自身の腕前への自信と直情径行が、ドクには眩しかったに違いない。序盤でのパットと結託してビリーを騙し討ちにして捕えようとした際に咎められた指摘に痺れたドクが、ビリーに一目置くようになった場面が利いている。赤毛馬の件でもリオの件でも、なかなか頭の回転が速く弁も立つビリーだった。ドクがパットと袂を分かち、ビリーに与するようになったことへのパットの恨み言は殆ど痴話喧嘩に等しいものだったように思う。

 不思議なものだ、二人が三人になるとこれほど揉めるのかというのは、ビリーではなくドクを殺めた後にパットが洩らしていた言葉だが、確かに男同士の三角関係は、女性を巡るドクとビリーの三角関係よりも拗れたものになっていた気がする。そのあたりの機微には思いが及ばないリオは、ビリーについて彼は自分に惚れているのと言うほかない。ドクを演じたウォルター・ヒューストンがなかなか渋かった。

 パッケージにはヒロインのJ.ラッセルが官能的すぎるとして米映画協会がクレームをつけて裁判闘争と化した事でも知られる問題作と記されていたが、なるほどジェーンが唇を寄せてくるクローズアップショットや豊かな胸を揺らせての騎馬カットなど、なかなか煽情的で、かような作品が太平洋戦争のさなかに製作されていたハリウッドに改めて感心した。

 そして、ビリー・ザ・キッドの没年が1881年7月14日ではなくて、13日になっていることが目に留まった。確か彼の墓石はフォートサムナーに残っていたはずと確かめてみると、日付の部分が損傷していて判読できなかった。実はまだ生きていたということでの偽りの死亡日として敢えて13日にしたのか、或いは1943年当時は、死亡日自体が13日とされていたのか、どっちなのだろうと思ったりした。

 すると、ネットの映友が『ならず者』はハワード・ヒューズがジェーン・ラッセルの胸を半分露出させる特製ブラジャーを作らせたとか、あのヌーヴェルバーグの精神的指導者の批評家アンドレ・バザンが公開時、この作品が問題視されるとしたらエロティシズムによってではなく、女と馬は等価、むしろ優れた馬は1人の女性にも勝るといった作品から読み取れる思想によってであろうというユニークな批評を書いたりと話題は尽きない映画なのだと教えてくれた。さすれば、日本では学徒動員が始まり、翌年には竹槍訓練などの国民総武装が行われるようになる頃に、アメリカでは特製ブラジャーを作っていたわけで、加えて米映画協会がクレームをつけて裁判闘争になるなどという、余りの彼我の差に唖然とせざるを得ない。

 バザンが指摘したという「女と馬の等価」の件については、作中でもリオが大いにむくれていたが、ドクとビリーにおいては、実は互いにそうは思っていないからこそ持ち出したのに、お互い当てつけで馬を取る意地の張り合いを見せる形で、相手にリオを譲ろうとしていたように僕の目には映った。だからそのあたりの機微には思いが及ばないリオと上述しているのだが、自分より馬を取り合ったとリオが誤解している場面だと観ている僕からすれば、バザンが読み取ったというような思想が本作に宿っているとは思えない気がした。
by ヤマ

'24. 1.25. NHK BS録画
'24. 1.28. DVD観賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>