『波紋』
監督 荻上直子

 圧巻の応援歌で、実に御見事だと恐れ入った。十一年前の須藤修(光石研)の失踪原因が、妻の依子(筒井真理子)の言っていた放射能に脅えてなのか、息子の拓哉(磯村勇斗)が言っていた妻からの逃避なのか、はたまた他の理由か、いずれであったにしても、要介護の父親を押し付けての失踪などという、いかにも理不尽な形で家庭を壊された依子が、またしてもいかにも理不尽な形で舞い戻った夫が覚悟の死を以て去って行ったことによって、魂の再生を得ていた物語だったように思う。人生の根っこを失うことのダメージの大きさと、にもかかわらず訪れ得る再生を、力強く謳い上げていることに感銘を受けた。

 拓哉によれば、十一年前の失踪時には父親が丹精を込めていたガーデニングの花々を笑いながら片っ端から抜いていって鬼気迫るものがあったという依子は、おそらく東日本大震災の年以降、泣くことなど一切なくなっていたのだろう。職場の同僚の清掃員(木野花)のゴミ屋敷と化した居室において、彼女が十一年前に喪くしたものの大きさとダメージの程を目の当たりにして、大泣きして感情を開放できたことが魂の再生を招く端緒になり得たような気がする。十一年前の笑いながらの狂乱とは画然と異なる乱舞を夫の死去によって始めた力強いラストシーンが素晴らしかった。神経質なまでに大事にしていて、猫が入って来ただけでも苦情を言挙げていた依子が、庭の枯山水の砂を蹴散らしながら踊り、表の道にまで繰り出していくのだが、それを決して気が触れたようには見えない踊りによって「生きる力」として表現していた筒井真理子に痺れた。

 十一年には及ばずとも、大震災以来、長らく泣くことも出来なくなっていた人というのは少なからずいただろうし、今尚いるのかもしれない。拓哉の言っていたフラメンコを老清掃員女性とも一緒に始めるのではないかと思った。あのゴミ屋敷と化した部屋の子供の遺影は、彼女の歳からしても孫なのだろう。部屋には「岩手」の文字が大きく印刷された段ボール箱があったから、震災で子供家族をごっそり喪くしたような気がする。自分と同じく彼女が人生の根っこを失っていたことに依子は揺さぶられ、臭気がきつくて顔をしかめて入って行った部屋の惨状が何ゆえか響いてきたときに、ここはもう一つの自分の部屋であるかのように感じ、二匹の亀が、まさに老清掃員女性と自分であるように思えたのではなかろうか。頑張れおばちゃん、頑張れ自分という吹っ切れがあの号泣だったような気がする。

 それは、ただの水を怪しげな聖水として頒布する新興宗教団体然とした緑命会の支部リーダー(キムラ緑子)が説く「赦しによる受容」でも、サウナで老清掃員女性がけしかけていた「恨みによる腹いせ」でも、決して果たせぬもので、人に生きる力を与えるものは、他の顔の見える特定人物の力に自分がなって活力を与えることなのだと改めて思った。新興宗教で信心を重ねても開放されなかった悲しみの鬱積を老清掃員女性のゴミ屋敷で解き放ち、綺麗にゴミを片付けて、よし!と心機一転できたことで依子が得たものは、信心などでは得られなかった実感を伴ったものだったのだろう。人が救いを得る過程というのは、まさしくこのようなものなのだろうという気がした。

 要は、実感を得られているか否かが肝心であって、信仰でそれの得られる人もいれば、信仰では得られない人もいるということなのだろう。更年期障害にも苦しめられるようになっていた依子の場合、もはや緑命会に依ることでは実感が得られなくなっていたに違いない。カウンセリングなどでも似たようなことが言えるような気がする。それはあくまで、心の開放が何によって果たせるかの違いであって、最近になって観直したばかりのエマニエル夫人の場合だと、性的冒険だったという類のもののように僕は思っている。

 依子にしても解放される実感を抱いた時期もあったからこそ、緑命会に嵌り深入りしたのだろうが、その姿にはラストのフラメンコのような「自身の生きる力の発露」を感じさせるところがなくて、緑命会での踊りのような「特殊な符牒の教化」を感じさせる方向に作用していたことが、拓哉の苦悩の末の九州への逃避になったのだろうという気がした。その点では、個人生活や社会生活の破綻にさえ繋がらなければ、心の解放を得るものが、自身の生きる力の発露によろうが、特殊な符牒の教化によろうが、性的冒険によろうが、どれでもいいのではないかとも思うけれども、少なくとも依子の場合は、息子との関係も上手く再生できる形になったと思しき前者のほうが好もしいのは、間違いない気がする。

 本作に何ゆえ、フラメンコが現われ、あの手拍子かと思ったときに想起せずにいられなかったのが木下惠介の永遠の人で、図らずも映友女性が映画日記主婦は良妻賢母であるべきと、呪縛されていた世代です。世間から、夫から舅姑から、更には自分の親まで。こうあるべきだと呪いの言葉をかけられて、自分で自分を縛っている。…これは世間体を気にしてでは、ないんです。時代の洗脳だと記してあった。本作に描かれた十一年どころではない、長年にわたる愛憎と因習の物語として圧巻の名作で、十年前に初めて観たときのメモに罪と罰と赦しについての神話的象徴性と劇性とを湛えた、夫婦親子の因業めいた葛藤の物語と残している映画だ。

 それにしても、緑命会のリーダーが効くかどうかの保証はないけれど、と言いながら依子に勧めていた、教祖の念が込められたという特別な聖水と、医者が保険適用外で1回150万円の3回でワンクールですが、と問うていた癌治療薬との並置がなかなか痛烈だった。修が高額治療を止める決意をしたのも、そのことへの気づきが働いたからのような気がしてならなかった。

 拓哉は、三十二歳と言っていた聾唖女性(津田絵理奈)の六歳下だとのことだったから、修が須藤家を立ち去ったのは、息子が中学三年生の時分だということになる。確かにあなたの犯した罪は、なかったことにはならない気がする。だが、壊してしまった家族の再生に寄与して死んでいくことができたのだから、以て瞑すべしとしたものだろう。息子に掛けたつらかったろうの言葉には、それだけの値打ちがあったように思う。緑命会を奉る巨大な水晶玉や蝋燭が片付けられてスッキリした祭壇が残っていた。老清掃員女性の部屋もスッキリ片付いたし、もう彼女も「恨みによる腹いせ」をけしかけることはなくなるのだろう。いい映画だった。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20230602
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5738771129555756/
by ヤマ

'23. 6. 8. TOHOシネマズ6



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