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『帝銀事件 死刑囚』['64] | |||||
監督・脚本 熊井啓 | |||||
先ごろNHKプラスで「未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件 第2部 ドキュメンタリー 74年目の“真相”」を観て「…それにしても、報道統制の怖さ危うさよ、と改めて思う。遠い日のことでは決してないことを痛感する昨今の日々のように感じる。当時においてもあからさまな統制と言うよりは、よりパワフルだったとしても、圧力だった気配が濃厚に漂っていた。根本的には、今と変わらないわけだ。」などと零したところでもあり、かねてより宿題映画としていた熊井啓の監督デビュー作を観た。敗戦からマッカーサー来日といった記録映像をプロローグとしてタイトルが映し出され、ドキュメンタリー映画的なナレーションとともに語られる、実録スタイルを採ったなかなかの力作だった。 事件にまつわる内容的には、NHKスペシャルで観たものとの近似性の高さに驚いた。六十年近く前の作品だ。青酸ニトリールがアセトン・シアノ・ヒドリンの名で現れ、陸軍登戸研究所が陸軍第九研究所の名で記されるが、使用された毒薬の遅効性に着目し、旧陸軍関係者を真犯人と目して、満州第七三一部隊の石井中将(作中では岩本)の元部下と見込んでいる点も同じだった。そのうえで、映画作品を観て目を惹いたのは、帝銀事件の現場支店が次長の住家と連なった木造家屋だったことと、昭和二十三年当時の新聞社(作中では昭和新報)の調査報道に賭ける意気込みと態勢の充実ぶりだった。 記者たちを主軸に描いているからそうなるのかもしれないが、使命感と自負において往時の人たちには、敗戦直後の“生き残り精神”とも言うべき強度が備わっていたことを描き出しつつ、“もはや戦後ではない”と経済白書に記された昭和三十一年を過ぎた昭和三十年代末に、その“生き残り精神”を偲んでいる感じが窺えたように思う。戦争で死んでいった人たちに顔向け出来ない生き方はしたくないというような昭和新報の記者たちの気概が丁寧に描かれていた。だからこそ、彼らの挫折と報道の自粛(≒萎縮≠統制)が分かれ道となって傾いて行った、世論の動向と判決の顛末というものが響いてくる形になっていた気がする。大野木デスク(鈴木瑞穂)による「あの時か…」との嘆息を思うと、GHQの引き上げている今に対する、当時の問い掛けがあるように感じた。 本作の主役とも言うべき武井記者(内藤武敏)と大野木デスクにおける、事件捜査とは立ち位置の異なる調査報道というものや、直接的には統制の形をとらない圧力によって“上司への報告”を経て「非常に責任のある仕事だから、いろいろ気にしだしたら何も書けなくなる」事情と有り体というものを描き出し、「(これでは)戦時中と変わらない」と記者の零していた部分が目を惹いた。 また、ガンジー暗殺の話題が小ネタに使われていたことで、昭和二十三年はそういう年だったのかと思い直すとともに、七三一部隊の佐伯元少佐(佐野浅夫)による「戦犯は敗戦国だけのものか」との叫びと、平沢(信欣三)の娘が「国籍は捨てました」と洩らした言葉が印象深く残った。その台詞に芯からの強い憤りと絶望を感じた。それゆえ、平沢の死後もなお、遺族からの再審請求が続いているのだろう。そして、平沢は犯人に似ていないと証言していた生き残り行員を演じていた山本陽子がえらく若くて、十代のように見えたことも目を惹いた。 ネットの映友によると「熊井監督はあの帝銀の建物を作った大工を見つけ出し、セットを原寸通りに作らせたそうです。もしかしたら映画を撮るのはこれが最初で最後になるかもしれないと覚悟し、徹底的に実証的に作ろうと心がけたと述懐してましたね。」とのことだ。往時の記者たちの、敗戦直後の“生き残り精神”にも相当するような強度が備わっていたわけだ。事件の現場になったところだから、徹底的にこだわったのだろう。恐れ入った。 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/3934404169992470/ | |||||
by ヤマ '22. 1.12. スカパー衛星劇場録画 | |||||
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